文化内容
絵画(作成)
             美男子(!?)な僕と不細工(!?)な絵描き

 子供というものは、それも年齢の低い子供であればあるほど、概して楽観的
なものだ。自分の可能性は無限と信じ、野球選手だろうが宇宙飛行士だろうが
一度決めたらなれるものと信じて疑わない。
 子供は楽観的な生物で、さらに言えば自分に絶対的な自信をもっているもの
だ。特に幼児は初めて行うことに対して、大人がもつような不安など微塵も見
せず、自分は絶対にできるという確固たる自信があるものだ。僕もそうだった。
 話は小学校1年生の図工の時間にさかのぼる。
 どういう訳かきちんと幼稚園を2年間も通ったにも関わらず、それまで写生
らしき写生を僕はしたことがなかったのである。よって小学校に入って初めて
馬鹿でかい画板と画用紙を持たされ、飼育小屋の前に並ばされたのである。
写生課題は「ニワトリをかく」という物だった。
 はじめるまでは意気軒高、「僕は天才的な絵の才能がある」等と妄信して、
対象である鶏を見た瞬間、「これをそのまま描けばいいんだろ? 楽勝楽勝」
とタカをくくりまくっていた。
 ところが、、、結果はお解りの通り僕は自分の描いた絵を見てビックリした。
人間はどんなに創造力を駆使して架空の動物を作ろうとしても、実在の動物か
らは逃れられないというけれども、確かにあの絵は如何なる動物とも似ていな
かった。いや、そもそもあれはまだしも抽象画に近かったと思う。
 根拠のない確信だったにも関わらず、僕は激しく落ち込み、以後図工の時間
になっても絵筆を投げる生活が続いた。そのせいだろうが、多分に生来の不器
用な手先のせいもくわわり、周りが年と比例して画力をあげるのに対し、僕は
十年一日のごとくピカソかダリの出来損ないといった状態。
 それまでは絵が下手なことに泰然としていたが、小学校5年のころに事件が
起こって、それは最大の恥辱と変わった。
 と、いうのも小学校5年の1学期終了間際にあった保護者参観の目玉として、
似顔絵を描くという課題があった。それも自画像ではなく「男女一組になって
お互いの顔を描きましょう」という担任得意の発案。
 散々美術(当時は図工だが)をサボった報いか、僕の相棒は日頃からお世話
になった女の子、しかもそれが職業画家の娘ときてはいうこともない。彼女は
僕の顔の特徴をすべて描き出し、御丁寧にも美化までしてくれた。同級生ども
はこの絵のトリックにも気が付かず「ヤマダは織田裕二に似ていたんだなあ」
と馬鹿言い出す始末。
 それに対して僕の描いた絵はまさに幼稚園の園児そのまま、いつもの図工の
授業にそうしたように滅茶苦茶の抽象画モドキを書いて「僕の絵は死後に理解
されるだろう」とうそぶいてごまかせばよかったものの、下手に相手を考えて
本気でうまくかこうと力んだためにでますます空回り。
 結局おそろしく顔の崩れた現実とは似ても似つかぬ「顔面崩壊したブス」が
出来た。
 これだけでも相当恥ずかしいのにこの絵を廊下掲示板に張り出すんだわ。僕
の名前のところには美男子、彼女の名前のところにはヘチャ。まったく廊下の
前を通るたびに申し訳なさと恥ずかしさで死にたくなってきたね。
 結局僕はその後もなんのかんのと小中と美術をやり過ごし、絵をろくに描か
ずにやりすごしてきた。恐らくもう2度と絵は描かないであろう僕にはしかし、
たった1枚だけ自信のある絵がある。
 高校文芸部時代の文芸雑誌「ARCADIA」136号表紙。
 今でも部室のロッカーの片隅に、埃をかぶっているだろう。

付記・この文を書いた後、何をとち狂ったか「ペイント」とかいうウインドウズに
    ついてくるソフトを駆使してワケのわからん絵を描いた。云うまでもなく
   「街」の各所に見られるあれである。
   あれをみれば大体の酷さは解っていただけると思う

書道(作成)
                     これが手本だ「昇竜烈破」

 書道の授業というのは今思い返しても本当に訳が分からない。
 僕はそもそも芸術や体育などという画一的に判断するのに無理があるものや
先天的要素に負うところが大きい科目の点数化には反対なのだが、それを差し
引いてもあの書道の授業は何だったのかという気がする。
 うーん、基本的には誰でも受かるペン字検定の4級を強制的に受けさせられ
て合格してるけど、あれだって漢字検定みたいな知識問題で稼いだからなあ。
もっとも落ちた人もいるからあまり偉そうなことは言えないが。
 まあ芸術の時間は書道に限らずほぼ息抜きの時間みたいなもので、その授業
自体は決してつまらないものではなかったけどね。うーん、しかし書道の時間
で何かを覚えたとはいいづらい。
 僕の中学は当時は(現在は知らない)日本でも二番目に書道の盛んな学校で
顧問からクラスメートの書道部員まで早々たるキャリアの集まりだった。そん
な中での書道の授業だから僕らに出来ることは悪ふざけくらいのもの、元々が
だらしない僕らのことだから後始末をろくにしなかった報いがきてて筆なんか
固まって使い物にならないし、机は体面4人がけで任意の席だったから仲いい
奴で集まってワイワイいいながら、同じ字を何度も半紙に書くのみだった。
 もっとも特別書道に関心のない生徒にとってはその思い出が重要なのかもし
れないが。先生も「しょーがねーなー」って感じで苦笑していた。その道の第
一人者でありながら小沢一郎のような顔の人であった。
 そんな中、一際印象に残るエピソードがある。
 中三の三学期はじめに出た課題は「かきぞめ」だった。文字は任意。
 僕と破天荒な友人Kはそのころ一緒によくはしゃいでいた。勿論、ここでも
お題を巡って額をよせあい、結局二人の共通意見で「昇竜烈破」と大書するこ
とに決めた。まあ格闘ゲームの必殺技である。そして書き上げた後、なんと彼
は「みんな、これが見本だぜぇ」とおどけつつ、傍らにあった温風ヒーターの 
吸気口に僕の作品だけをぺたっと張り付けたのである。
 それを見た先生は「あれは馬鹿の見本だ」とのたまわれ、後に僕に最低点を
おつけになられた。

書道(鑑賞)
                                        酒による

 僕の高校は書道の腕ではまあ天下に名を聞こえた学校だった。
 そんな学校だから書道の先生もなんだかもの凄いその道の権威たる大先生で
あった(外面からではとてもそうは見えなかったが)。
 さて僕は高校時代、朝は始業の一時間前に登校して隣のクラスの連中とトラ
ンプを切ることを日課にしていた。それこそ飽きもせず、毎日大富豪をやって
いた。
 さてそんなある日、教室に見慣れないカレンダーが貼ってあった。書道部の
部員が貼ったのだろう。上半分が書道の作品である他は普通のカレンダーだ。
いかめしい感じのや中国語らしいもの、念仏のように書き連ねてある物もあれ
ば一体何をかいてあるのかすら解らない物もある。
 まあ、共通しているのは「読めない」ということだ。
 絵画もある程度のレベルに達すると抽象画という、素人にはわけわからん絵
を理解し描けるのだが、これは書道も同じらしい。
 パラパラとカレンダーをめくる、と我が高校の先生の雅号が出てきた。
 字を見る、これには絶句した。
 巻物のようなプロお馴染みの半紙に馬鹿でっかく一文字「し」と書かれていた。
いや厳密に云えばぶっとく「し」の形の字が一文字だけ書かれていた。
 なんとも形容しがたい面妖な作品だ。
 しかもタイトルがふるっている。
「酒による」
 どうすりゃこれがそういうタイトルになるのかはわからない。ひょっとしたら
「先生がこんな字を書いたのは「酒による」ためか」とも思ったが、そんな馬鹿な
ものを栄えあるカレンダーになどするわけがない。
 まったく訳がわからない。

音楽(鑑賞・クラシック)
                       ミス・フルートの舞台裏

 
学生にとってクラシックの演奏ほど一般の生徒の眠気を誘う音楽はあるまい。
また好きでもない人にとっては学生時代を過ぎればクラシックコンサートなんて
ものはまあまず聞かないだろう。僕もこの部類だ。
 そもそも高校生なんて意味もなく遅くまで起きているのをステータスにしている
ような生き物である。ゲリラのごとくスキあらば寝むらんとしている集団に対し、
スローリーな曲をかけようものなら「寝てください」と言わんばかりのものである。
高校の芸術鑑賞会には数百万以上のギャラが投資されているにも関わらず、
これほどまでやる気のない行事はまあないだろう。
 僕の知る限り中高6年間でみんなが起きていたクラシック演奏はただの一度、
陽気なイタリア人がやたらとがなるギターショーぐらいだ。このイタリア人、最後に
花束を渡しにきた生徒代表の女子にいきなりキスを全校生徒の前で敢行して、
みなの度肝を抜いた。
 いくらクラシックの最中に眠るからといっても僕の出た学校は近年では珍しい
ことに、恐ろしく真面目な学校なので眠り方も礼儀(?)正しくあくまでも静かに
眠っているわけで余程のことがなければ照明の関係で壇上の人は気が付かな
いはずなのだ。
 気が付かないはずなのだ、が、一回だけ演奏者がキレたことがあった。
 これは機材補助をしていた演劇部の先輩から聞いたのだが、芸術鑑賞会
史上最もつまらないとされているスウェーデン人女性演奏者による「フルート
独奏」のときだった。
 これは僕もつまらなく思っていたし、異例ずくめの出来事だったので覚えて
いた。
 ちなみにその芸術鑑賞会、前回にやったのがクラシックもどきの「琴と尺八
のアンサンブル」という鬼のように退屈な代物だったということもあり、前の
下馬評からしてひどいものだった。
 そして結果も裏切らず、ミス・フルートがたった一人でやってきて(なんか
世界的な人らしいが、鑑賞会のパンフには必ずそう書かれるものである)、 
挨拶も自己紹介も前触れもなくぴーひゃら吹いて、突然終わっては袖に消える
という繰り返し、曲名も解説も一切無し。
 オーケストラのようなパワーも重低音もないし、音が甲高くて眠れもしない。
ひどい時間だった。規定時間が過ぎて、例によって突然曲がやんで演奏者が 
いつもの通りにひっこんで、ひっこんだはいいけど戻って来ない。
 普通は教師によるお義理のアンコールや生徒代表のお礼、花束贈呈がある
筈なのだがそれもなく、教師のアナウンスが「これで終了します」と。
 これには驚いた。
 そのとき舞台袖にいた先輩の話によると最後の曲を吹き終えると彼女は近く
に置いてあった機材やなにかを片っ端から蹴飛ばし「ファック」「ジャップ」と罵り
まくり、接待役の教師が薄ら笑いを浮かべて「ベリーナイス、サンキュー」と怪し
げな発音で褒めるという異様な自体になったという。
 そのせいかどうかは知らないが翌年から僕が卒業するまで、芸術鑑賞会には
クラシックコンサートは一切行われなかった。

音楽(鑑賞・ジャズ)
                           退廃から教養へ

 学校のスクールコンサートで「北村英治オールスター」(だったっけ?)がやって
くると聞いたとき、僕は「へえ、ジャズねえ」と思った。
 今でこそ教養の一種としてありがたがられているジャズだが、ジャズ発祥の
時から「退廃の音楽」とか「不良の聞く物」とか散々悪徳視されていたのだ。
勿論ジャズメンなんてのはろくでなしのいかがわしい職種であり、ジャズ喫茶
などは立ち入っただけで停学でも食うようなところだったのである。
 ところが、それが学校に呼ばれるほど体制的になったとはねえ。
 僕の高校はとかく厳しい学校で(別にこの厳しさは嫌いではなかったが)、
ギター部の勧誘文句が「今年からフォークギターが解禁になりました」という
くらいだった。そういう訳で、まさかジャズを公費で呼ぶとはおもわなんだ。
 そもそも先進的な音楽は当時の有識層から「わるいもの」として指弾されな
がら、大衆の支持を経て祭り上げられ古典化し、体制になる物である。古くは
ベートーベンから現代のジャズ、ロック、いずれもそうだった。ロックが既に
清潔なイメージになってしまった今、悪いところを引き受けているのはラップ
である。ラップもそのうち「いいもの」にカテゴライズされるだろう。
 ともあれ、この学校が呼んだジャズバンドは文句なしによかった。僕はそれ
以前にジャズを聞いたことがロクになかったので詳しいことは云えないが、
まったく 退屈しなかった。聞いたことある曲、ない曲。激しい曲、スローな曲。
初めてとは思えないほど楽しめた。血管が傍聴し、血が逆流し、全身が鳥肌
だつような音楽の洪水。僕は完全に打ちのめされた。
 概ね僕の友人達も同感で、実にすばらしい行事だったと口々に云い、学校の
乙な人選を支持した。

 さて、ここから先は余談である。
 卒業した後、僕はある友人からそのクラスの男子が大学で有名なジャズメン
として君臨しているということを知った。彼とは若干つきあいがあり僕の原稿
などを喜んで読んでくれたのだが、当時からそんな腕前があるとは気がつかな
かった。
 その後、彼と偶然で会う機会があった。
 18だというのに彼はタバコを吸っていた。別に僕はタバコくらいでは中学生が
吸おうと何にも思わないし、いわんや大学生のジャズメンである。こんなものは
常識である。清潔なミュージシャンなど虫酸が走る。
 だが、彼は一本のタバコをいつまでも口からはがさず、フィルターが燃えて煙
の色が変わるまで吸っていた。
 彼の家は相当富裕にも関わらずここまでバカをやれるとは案外大物になるか
も知れないな、と思った。
音楽(演奏・マーチ)
                                   鼓笛隊の屈辱

 マーチの演奏と云ったって僕にブラスバンドの造詣があるわけでは無論ない。
音符の読めない音楽部員なんているわけないでしょ?これから話すのは小学
校の鼓笛隊の話である。
 学校の近くに住んでる方なら或いはお解りでしょうけど、9月にはいると、急に
学校から訳の分からない合奏が聞こえてくる。運動会のメインイベントである
マーチングバンド演奏の練習である。曲目はアレンジされた校歌や聖者の行進
のようなスタンダードナンバー、或いはその時々の流行歌が選ばれる。
 僕は実は結構この軍隊式の「鼓笛隊」或いは「応援団」に憧れていた。
 応援団は場所が不適当なので除外するが、この鼓笛隊は小学校1年の時から
憧れて指揮者にはなれずともその幹部然として前方に控え、特別な制服(米米
クラブの衣装のような物と思えばよろしい)を着ている彼らに尊敬の念を込めて
みたものだ。
 小学校6年生。
 僕の学校は生徒数が少なかったのでそれまで6年生は全員、それまでの十把
一絡げのリコーダー隊ではなく、悪くてもピアニカ隊、よければ大太鼓や鉄琴、
アコーディオンなどの隊に入れることになっていた。
 事実小学校5年生の時まではそうだった。
 しかるに悲しいかな、7月の音楽の時間、僕は志願した部隊は尽く落とされた。
そうして敢えなく6年生43人のうち唯一のリコーダー隊になってしまったのだ。
6年生1人ということで隊長格(縦隊を組むリコーダー隊の先頭で1人
吹くのがいるのだ)に指名されればまだ良い。しかし慣例により、それは年下
がやることになったのだ。
 練習中ではクラスの面々が華美なコスチュームに着替えてやっているのに、
僕だけ年下の中に混じっている。
 これを不憫に感じたか、もう一人級友がリコーダー隊に落ちてきた。
 彼は大太鼓という花形にいたのだが、後輩に音楽クラブで大太鼓専門の奴が
いてそいつがうまいので交代させられたのだ。丸刈りで武道をこよなく愛する彼
は大太鼓向けの体格であったが、繊細さは微塵もなかった。
 僕たち二人は後輩の隊長格の指示も聞かず(後輩も強くはでれない)、好き
放題にサボっては先生から怒られていた。
 そんな具合に隊列の転換(散開する歩き方など)や配置すら知らないままの
僕らは最後尾につけられ、「演奏しなくてもいいから、前の子の後について歩い
てろ」という厳命を受けた。
 当日僕ら二人はやけくそになって、ひたすらリコーダーで「チャルメラ」のテーマ
を吹き続けていた。

音楽(演奏・ピアノ)
                             彼女の物語

 これは僕の近所に住む女の子の物語である。
 彼女は一つ下で小学校一年生の頃、ピアノを買って習い始めた。そのピアノ
塾は個人のピアノ教師がやっているものだったが、積極的にリサイタルをやった
り選手権に塾生を送り込んだりと大変熱心な塾だった。
 決して彼女の家は金持ちではなかった。しかし、教育熱心な家であり彼女の
家からは毎日、ピアノの音が何時間も響いていた。時には母親の怒鳴り声が
響いたり、彼女の鳴き声が聞こえることもしばしばだった。
 それでも練習の成果は着実に出てきており、彼女は小学校二年以降予選
大会では毎年入選(予選通過)し、審査員からは特別の言葉を貰うようにまで
なった。
僕も彼女に頼まれて近所の大きなホールで行われる発表会に出向いたが、
確かにいつも彼女の名は呼ばれ続けていた。
 彼女の部屋に行くといつもその時の盾やトロフィーが飾られており、地元の
情報誌に名前が載ったこともある。一度など東京本選に招かれて大勢の派手
に着飾った少女の中で、一人地味なワンピースを着て華麗に弾き続けたことも
あった。
 小学校では彼女に太刀打ちできるもおのもなく、小学校四年の頃から合唱団
のピアノ演奏を務めた。市内の小学校で四年生がピアノを弾いたのは母校ただ
一校であった。
 そんな彼女が突然ピアノをやめたのは小学校五年のことだった。
ある日、一際大きい言い争いが聞こえてきて、翌日その話を聞いた。
 いつもヒステリックな彼女の母親が「ピアノではいい大人にはなれません。これ
からは勉強の時代です」と無理矢理ピアノ教室をやめさせ、私立中学校に入れ
るべく進学塾に通わせる、というのだ。ピアノは売り払うはずだったのだ
が、それは家族の反対にあって取り消されたらしい。
 彼女は泣きながらその一部始終を語り、最後に「ピアノはもう辞めるわ」と
云った。彼女が全く母親に逆らえないでいることは既によく知っていた。
 その後、彼女は母親の云うとおり勉学に励み、県内で三位に呉する私立中学
校に入った。しかしその後致命的に母親と対立し、今はなんてことない短大に
通っている。
 彼女の母親は決定的なところで決断を誤ったのだ。
 今でも時々、彼女の部屋からピアノの音が聞こえてくる。
 その音色は悲しくなるくらい下手くそだった。

映画
                                      僕の映画史

 初めて映画を見たのは、まだ幼稚園に上がる前の夏だった。
 父親は会社、母親も隣の大きな街への用事で家を留守にせねばならず、そう
いうときに僕を預ける隣人も運悪く一家揃って旅行に出ていた。幸いにも母の
用事とやらが数時間ですむ物だったため、僕はよそ行き(田舎町に住んでいた
ので、その大きな街に行くときはきれいな服を着せられていた)を着せられて、
大きな街の映画館に連れていって貰ったのだ。
 母は「これから楽しい物語が始まるからじっとしていてね」と売店で買ったと
おぼしき「シガレットココア」(紙タバコのような包装の白い砂糖菓子で、どこが
ココア味なのかさっぱり解らない)を一箱くれた。
 演目は東映か何かのアニメ三本立てで「キャプテン翼」があったのは覚えて
いるが、あとは「アンパンマン」だったか「ドラエモン」だか覚えていない。
 映画が終わってロビーに出ると、母が迎えに来てくれた。
 映画の筋なんてさっぱり忘れてしまったが、とても楽しかったことだけはやけに
印象に残っている。
 その後、小学校にあがり映画とは全く縁のない生活に入った。僕の住む街に
映画館がなく、最寄りの映画館に往復するだけで月の小遣いが飛ぶのだ。中学
校に入ってからは何度か友人に誘われて話題作を見に行った。
 ところがその後、僕は愕然たる事実に気がついた。
 クラスの級友と僕の映画の趣味が根本から合わないのだ。
 僕はタランティーノ系の暗黒系アクションが好きなのだが、そういう刺激の強い
ものは天上人の彼らの気にはあわないらしく、僕の苦手なハリウッド製を競って
みていた。
 散々話にならず、僕は映画は一人で見に行くことに決めた。
 しかし、またここで神経質な僕の気に障る現象があった。
 ポケベルの発信音、長じては携帯の着信音及び喋り小rである。最近は喋る
奴も減ってきたが、当時はひどかった。今ではその代わりメールを打つ馬鹿の
「緑の小窓」がちらちら見えるので気になって集中できない。
 よって、僕は今やもっぱらビデオ派である。
 最近はミニシアター系も沢山ビデオになっているし、なによりB級の名作を探す
という信念上、どうしようもないジャンク映画を見させられることも多々あり、そう
いうときに失望しないですむ。
 みなさん、映画はやっぱビデオですよ。
 だいたい入館料が高すぎると、思わない?

将棋
               盤上の指揮官より現実の兵卒!?

 昔から直情径行の気がある。
 そのせいか戦略的とか論理的とかそういう言葉に甚だしく弱い。
 ケンカにしてもそれは現れていて、仲間を沢山連れて威圧するかハッタリを
かまして戦わずして勝つか彼我の体格差を無視して殴りかかるかのいずれかで
ちっとも頭を使ってない。元々僕のIQ140は記憶力に使われており、思考には
消費されていないのだ。
 つまり将棋などという著しく戦略系要素の強いものは苦手だということだ。
こういう人間だから大佐などと号していても、実戦指揮官としては恐ろしく弱い
ものがあると思う。
 まあただ戦史をみると、ひたすら突撃指令で屍の山を築いて戦は勝ち、軍神
になった将もいることだし、一概にも言えないだろう。
 ともあれわが家に将棋盤が来たのは小学校三年のクリスマスの日。近所のガ
キの間で妙に流行し、それで買った。尤も当時の対戦はお互い駒の移動方法も
知らない素人同士、お互いただただ突撃を敢行するのみで勝敗は全く時の運、
しかもチェスと違って捕虜を戦場に再投入できるからいつまでたっても終わら
ない。
 そんな有様で負けそうになってくると疲労と悔しさでエキサイトし、最後は盤面
はたいて殴り合う。いつもそうなっていた。
 盤上ではなく、実際の喧嘩の厭戦感が子供たちの間に広がった頃、将棋盤は
押入に封印され、次に日の目を見るのは中学校二年のときである。
 この頃、友人が将棋同好会を旗揚げするとやらで当時無所属新人(?)の僕
にも声がかかったからだ。さしたる動機もなく義理で参加したのがその始まりで、
まあちょこちょこ同輩と対戦していたのだが、これがみなさん強すぎる。
 後に聞くと、必ずしも強くはなくふらっと遊びに来た他の友人達に片っ端から
負けるほどの実力だったらしいが、僕はその彼らに一人も勝てない始末。
 なんと歩一つとれずに負けるということもした。
 今回は盤を蹴飛ばして殴り合うわけにもいかず、この同好会が途中で自然に
消滅したこともあり、僕の将棋人生はここで終わった。
 ところで将棋を対局だけなら何度もこなした筈なのだが、未だに解らないの
は「銀将」の使い方である。まさか一度も使わなかったということはないはず
だが、まったく思い出せない。日常生活には支障ないものの、今更調べる気に
もならず、内心忸怩たるものがある。

陶芸
                                 時価五千円のツボ

 陶芸の経験は一度だけ修学旅行の時だ。
 と、いっても半強制の学校の押しつけではない。奇特にも自由時間に班で 
志願してやったのである。自由行動日には一人五千円を支給されるのだが、二
時間の講習会に六千円も費やすあたり、やはり奇特である。
 さて陶芸というのは勝手にロマンかつエロティックな世界を想像していたり
するのだが、実際やってみるととんでもない世界だった。
 申し込んだのは京都ではかなり名の知られた大手の陶芸工房だった。ところ
が大手というのはえてして集金能力に長けていたりするもので、粘土を渡され、
簡単に組み方を教えて貰ったらもうそれ以上何もしてくれない。勝手に自分の
仕事をするのみである。
 その組み方というのも蛇のように粘土をのばして丸く設置し、それを何重にも
組み上げると云うことだから泣けてくる。こんなのいやいや小学校の時にやった
図工と変わらないではないか、京都まで来てこんなことをやらされるとは、半分
泣けてきた。
 しかもやるのはそこまでで、それ以降は向こうで勝手にやってくれるそうだ。
住所を書いた紙と金を払って、僕らは意気消沈して工房を出た。
 二時間で六千円、いい商売をしている。
 旅行から戻って二週間ほどしたとき、小包が届いた。厳重に包装された包み
を苦労して開けると、中から底の抜け、粉々になった五千円のツボが出てきた。
五千円、五千円かあ。僕は思った。五千円も払ってこんな使いモノにならない
ガラクタを買ったというわけか。
 おかしくなってきた、寂しく笑って物置にほうりこんだ。
 修学旅行の話題はそれ以後も頻繁に現れたが、あの陶芸工房の思い出は
二度と語られることはなかった。



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