YMDTスポーツセンター


競技名
野球
                      野球嫌いの憂鬱と復活

 保守的な街に育ったので、外見的には野球少年だった。
 外見的にはというのは「どんなスポーツが好き?」と聞かれれば「野球」と
答え、「好きなチームは?」には「巨人」と答え、やりもしないのにバット・グローブ
・ボールを常備し、主要選手の所属チームを言えたことくらいである。
 実際は野球には関心なかったし機材は伯父から貰ったモノなのだが、「巨人
ファン」というのは100%真意性がないわけでもない。
 僕がファンだった時期は殆ど藤田監督の時代だったが、読売新聞を朝読む時、
初めにスポーツ欄を見て、藤田監督が笑ってるイラストがあれば喜び、泣いて
いるイラストの時は憤慨したモノだ。ファミコンでもとりあえず巨人を選択していた
から選手の名前は殆ど言えた(当時はまだ一字変名の時代だった)。
 ただまあ父親につきあってナイターを見た記憶もないし、登下校時にはデザ
インがいいという理由でライオンズの帽子をかぶっていたくらいだからファンと
云ってもタカがしれているだろう。
 ところが保守的な街である周囲には真性の野球少年が沢山いたのだ。
 彼らは真剣に勝負の行方を論じるは勿論、リトルリーグなどというものにも
積極的に加入しており、クラスの半分以上というとてつもない組織率であった。
僕の悪友の如きは地元チームではなく他チームにスカウトされて越境していた。
彼は黄色人というより黒人に近いおそろしく体力のある小学生だった。
 幸い野球とかソフトボールという種目は体育にはなかったのでよかったが、
もしあれば危機的な状態だろう。なんせ僕は級友たちが口にする技術論に
ついては何も解らなかったからだ。例を挙げればどう打てばどう飛ぶかなんて
解らなかった。投手で云えばカーブの投げ方も知らなかったし、最低のルール
は知っていたが振り逃げや犠牲フライの要件やボークの条件と結果も解らない。
 そういう状態だったので僕は野球ができないことをコンプレックスに思い、
恐ろしくてバッティングセンターにも行けなかった。保守的な街の固定観念で
野球のできない者は人非人のような風潮があったのだ。
 そのコンプレックスは高校1年生の4月に氷解した。
 第一回「文芸部対放送部、世紀の野球決戦」で文芸部2番セカンドとして参
戦したのだ。結果は2打数2安打という自分でも驚くものだったが、僕の心を
落ち着かせたのは「なんでもできる」と豪語し、新入部員の僕らを脅した某先
輩である。彼は4番を自ら任じた割に三振を繰り返している。なんか変だと思っ
て彼の手つきを見て爆笑した。
 彼は右打ちなのに左手を上にしてバットをもっていたのだ。これでは打てる
はずもない。これを見て僕はバットの持ち方も知らないくせに4番を打ちたがる
彼の感性に大いに呆れ、今までの彼のハッタリを悟り、何年分ものコンプレックス
を晴らした。
 今では母校の高校野球以外関心ありません。

サッカー
                              苦い思い出

 何を隠そう僕はサッカー部の副部長をやったことがある、小学校のことだが。
 それだって体力的技術的に選ばれたのではなく、先輩に気に入られていたと
いう「政治的」な理由による。
 僕は取りあえず小学校の時は副部長だったのだが、中学校ではまったく縁を
切ってしまった。「部員が怖そう」という理由でサッカー部はハナっから考慮外
だった。云っておくが、別に僕の中学は不良中学校ではない。真面目すぎて近隣
諸校からのカツアゲの標的たる学校だったのである。その中学にしてこの体たらく
である。(念のために補足するが、決してサッカー部の彼らは怖い人間だったわけ
ではない。運動部系は大体怖く見える物だ)
 しかしサッカー部員というのは、何故あんなにラテン顔をしているのだろう。
意識してみるせいか、小中高と卒業アルバムを繰ってみると中に何人かは彫り
の深い、色黒のラテン顔がいるものだ。文化系クラブにはまずいない顔立ちで
ある。彼らこそ「サッカー=モテる」の公式を導くパイオニアで、まあモテる。
 ファンも文芸部のそれとは異なり心身ともに健康的であることが常である。
うらやましい。またサッカー界の知識も非常にかっこいい。Jの話も結構だが、
セリエやその他海外リーグ、W杯の話をする彼らはかっこいいものだ。
 サッカーフリークは他のスポーツより熱狂的だが、それは僕の嫌いな低得点
性と、大いに関係あるだろう。取りあえず野球やバスケの決勝点を打ったこと
はあったが、サッカーのそれに比べれば比ではない。

 あの、小学生の頃の日。
 左コーナーキックで浮かんだボールを頭でねじ込んだあの瞬間。
 あの時、確かにエクスタシーを感じていた。何をしていいか解らないほどの
興奮。アドレナリンが満ちていくのがはっきりと解った。体が熱く、どうして
いいか解らなかった。とにかく気持ちよかった。
 こんな経験を繰り返していれば、サッカーに熱くなる彼らの気持ちも分かる。

 高校の頃、クラス対抗のスポーツ大会で僕はサッカー補欠要員に送られ、 
ブーブー文句云ってたことがあった。するとあるサッカーフリークから散々 
怒られてしまった。その時はなにをスポーツにいきりたってんのか、と思った
が、後に彼がW杯を身にフランスに行ったことを知り、己の不明を恥じた。

バスケットボール
                      痴の必勝法教えます

 バスケットボール、、、か。
 正直高校を出てから運動らしき運動をしていない身にはつらい言葉だ。進学
高校の進学クラス、その割には三流大学しか入っていない身ではなおさら語る
言葉もない。
 だが、同じ境遇にある悩める諸君子にアドバイスをすることは出来る。
 進学高校の進学クラスにいてクラスにはバスケ部員は一人もいない。しかも
運痴だというキミ、キミにこそ僕はこの言葉を手向ける。
 自慢じゃないが、27人のクラス男子のうち、得点ランキングを数えたら、
確実にベスト10には入るだろう。シュートの本数なら五位にまで入ることが
出来る。シュートの技術は酷いものだが下手な鉄砲何とやらである。まあ一つ
頭脳戦の恐ろしさを思い知らせてやろう。
 方法としてはこうだ。試合開始からセンターライン付近をずっとうろうろ 
しているのだ。そして自分のゴール付近で攻防戦が始まったら、絶対に加勢に
行こうと思わずに(運痴があの接戦にボールを奪取できるわけはない)じっと
戦線を見つめるのである。
 そしてゴールが入ってしまえばそれで終わりだが(次の機会を待て)、味方
がシュートミスを拾おうものなら好機、全速力で敵ゴール直前まで走る。当方
の位置を感知した味方がノーマークの敵ゴール前に着弾するようにボールを
投げてくれる。あとはアメフトよろしく駆けたままそれを拾って、叩き込めば
いい。蜘蛛の子を散らすような追撃も無意味である。
 これがすべてだ。
 決してやってはいけないのはずっとゴール前にいること。すぐにマークが 
つく。センターライン付近をやる気なさげにプラプラ歩いていればいい。ただ
この方法は先生のウケは悪く、得点の割には成績がつかない。
 運悪くマークがついたら、彼が忘れるまで、何回か混戦に混じってもいい。
 ここでこの最大の疑問なのだが、何故アタマの優秀なクラスで有効でバスケ
部がいるとダメなのか。答えは優等生は何故かスポーツになると熱くなってし
まって試合を巨視的に見ないから、何故かみんなボールに殺到する。マークし
てもすぐ職場放棄してボールを取りに行ってしまう。それに対し本職はいつも
全体を見てるからすぐマークの指示を出すし、やりにくいことおびただしい。
 まあ僕のクラスはバレーは学年最強だったが、バスケは最弱でいつも30点
以上差を付けられていた。(嗚呼、女子に「惜しかったね」と皮肉とも慰めと
も言える言葉をかけられたときの悔しさよ) そのクラスでのハッタリに似た
技術だが。
 云っておくが、我がクラスは相当優秀である。東大こそいないもののそれに
準ずる有名大学にバカバカ行っているところである。にも関わらず誰も姑息な
手口に気がつかなかったのは迂闊である。
 ちなみに僕は点を入れると一回手を叩き、右手の中指と薬指と親指を曲げて
奇声を発するのが常だった。こういう行為は著しく人格を落とすのでやらない方
がいい。

バレーボール
                     懐かしのバレー・ストーリー

 このHPがまだ暫定公開期間中の話。当時はなんと家ではネットが出来ず、
友人の家でアップしていた。当然、大々的に公開するわけにもいかず、あくま
で試用品としてごく少数の知人のHPに公告を打った。
 まあちっとも更新しなかった(できなかった)ので1日5人ペースのわずか
な歩みだったが、その中でも割と好評を博せたのはよかった。
 ありがたいことにいくつかの具体的な感想も頂戴し、殊に高校時代の委員長
氏からは「バレーボールがないぞ」との丁重なアドバイスをいただいた。
 まったく迂闊なことに僕はすっかりバレーボールのことを忘れていた。別に
嫌な思い出があるわけでも故意に書かなかったわけでもない。ただただ純然と
忘れていたのである。
 これは怪しからんことだ。
 この項では散々、僕のクラスのことを「進学校の進学クラスなので、運動は
平均より出来なかった」と書いた(僕自身はその中でも更に出来なかったが)。
お叱りが飛んできそうだが、これは概ね事実である。
 ただ、ここからが重要だが、このバレーボールだけは例外だった。
 もし我らのクラスが国家ならば、バレーボールは文句なくその国技足りうる
地位を得たであろう。と、いうのもどうしたわけかこのクラスは中学以来バレ
ーに磨きをかけている猛者たちが多く。その腕は文句なく学年一だった。
 スポーツに要求される体力や筋力はスポーツ組に遥かに劣っていたはずだが
バレーボールという技術性の高いスポーツにおいては経験と技術、そして知力
が勝利するのだ。
 これはなかなか見ていて小気味のいいものがあった。
 僕の学校ではスポーツ大会というのが年に一度クラス対抗で挙行されていた。
種目はバレー・バスケ・サッカーである。我らが進学クラスはバレー以外の 
運動部員が他クラスと比べると殆ど皆無であり、運動能力も劣っていた。その
為、模擬試験の順位と対称的な構図になることは自明だった。
 ここで我がクラスの首脳は一計を案じ、とにかく運動の出来る奴(=バレー
部員)を総動員でバレーにたきつけここで勝つ。サッカーは中学経験者、及び
体育の出来る奴を回して勝てはせずとも運が良ければ同点に持ち込む。そして
ダメな奴らは残念だが他クラスが力を入れるバスケに回して玉砕させる。
 一勝一敗一分け作戦というW杯の日本のような戦術だ。
 僕は2年間バスケをやり、最後の一年にサッカーに昇格した(補欠だが)。
 ともあれ僕らバスケ部隊は並みいるドリームチームと対戦し、果敢なる戦闘
の末20−0くらいで負け、早々にバレー見物に行くのが常だった。
 そこでは常に(比較的)背も体格も悪いクラスの5人が、相手の巨漢どもを
右往左往させ、容赦なくアタックを叩き込み、煽るようにボールを落とし、小
気味よいかけ声の元、連戦連勝無敗王国を誇っていた。
 嗚呼、この誇らしさ。
 オリンピックやW杯になるとにわかにナショナリズムが満ちる。普段は学校
の悪口を言っても高校野球では校歌を叫ぶようなものだ。この時は僕らも先程
の悔しさも手伝って、全身全霊で応援した。
 少年漫画でもそうだが、体格に劣る者が巨漢を打ちのめしていくのは気分の
いいものだ。僕らは十分に溜飲を下げ、惜しみない声援と拍手を送った。

 これが僕のクラスのバレー・ストーリーだ。

テニス
                          運動と衆道の境目

 
テニス! それは高貴な者のみに許されるスポーツ。
 テニス! それは優雅でさわやかな動作を求められるスポーツ。
 例え、激しく動き、強烈な技の応酬を伴ったとしても、汝ら美しくなければならぬ。
華麗な技と筋肉美を存分に発揮せねばならぬ。その汗は甘露の如く、その姿は
戦いの女神アテネのように!
 強く、激しく、美しく!
 スポーツの中の猛き勇者、深窓の貴族。
 ふたつの顔をもつ究極のスポーツ    テニス!

 ああ、そんなスポーツを貧乏で運痴でダッサダサの連中がしたらどうなるか?
それは高校時代の体育、僕の最初で最後のテニス体験が証明してくれる。
 高3、夏。受験勉強が本格化し、目つきを見れば学年の解る季節。
 内申書は高3の1学期まで有効のため影響必至の推薦狙いは勿論、関係ない
筈の一般受験も妙に殺気立ってくる。体育も例外ではなくいつもはテレテレ恥を
かかない程度にしか力を入れない連中も殺気だって力を入れ始める。
 テニス、まさしくそんな季節のスポーツ。
 人気のある担当の体育教師はこの受験の季節に華を添えるべく「2人1組で
トーナメント対戦、勝ち数が多いほど点を与える」という声明を出した。
 2時限の基礎練習の後、試合。
 信じられないほど暑い日だった。30度は軽く超え、時間は5時間目、14
時を回る最悪の時間だ。
 チーム分けは任意だった。僕の仲間はどいつもこいつも僕と同レベルで運動
はからっきしな奴ばっかりだった。こうなったら次善の策だというわけで一番
喧嘩の強いと目されてる(本当はどうだかしらんがね)メンバーと手を組んだ。
奴とは小5以来のつきあいでお互いグループ内の変人の双璧といわれるコンビ
だった。
 そしてチーム登録、対戦発表。
 嗚呼、幸運なことに初戦は同じグループの鼻くそだった。勿論僕らは目くそ
である。線をたどると勝っても2戦目はクラス唯一のテニス経験者とぶつかる
ため玉砕必至だったが、初戦は勝てる見込みがあった。
 試合が始まる。面白いことにお互いサービスが入らない。その代わり入って
しまえば相手は打ち返せない。典型的なビギナー戦でむなしさは募る。ただ、
たまに強烈な物を打ち返して点が入り、それを決勝打にセットを貰うと云うこ
とがあった。
 コツをつかんだのか、後半はお互いが比較的打ち合い、試合はトントンに 
なっていった。そして最後の回、奇しくも5セット目、同点、最後の一発。僕
のサーブだった。
 全員汗にまみれ、息を切らして真っ赤な顔で睨んでいた。相棒はシクったら
殺すと云った顔でこっちを見ている。
 打つ、相手に入った。すかさず相手が打つ。相棒のフォロー、「打ち返すな」
と祈ったが敵も必死で打ち返す、僕の方へ!
 いや、打ったね。見事にボールは教科書通りの相手の死角へ!
 勝った! 訳も分からず僕と相棒は駆け寄って抱き合っていた。汗くさく頭
は、朦朧としていたが、勝者の特権アドレナリンのお陰で気にもならなかった。
この時、正直相棒と抱き合いながら快感を感じていた。
 これはスポーツによるもの、と信じたいが、それを見ていた相手方が「ホモ
雑誌の表紙を飾れるぜ」といったのは事実である。

卓球
                                 桂馬の高飛び・・・

 運動が得意じゃないせいか、得点の奪い合いは好きではない。具体的には、
野球よりキャッチボールの方が好きだ。サッカーより「ワンノー」(ボールを
使った蹴鞠みたいなモノ)の方が好きだ。バトミントンでもスマッシュをはた
くより、仲間と何度続くかを数えていた方が好きだ。
 当然卓球も然りである。
 ある程度の経験者が対峙すれば日が暮れても終わらないようなやりとりも、
運動下手がやるとラリーが続いていること自体がエキサイティングな出来事な
のである。
 だからやるなら社員旅行的温泉卓球的なノリが好きだ。ここで素人相手に 
スマッシュを決めるような鬼畜は女にはモテるのかもしれないが、俺に云わせ
れば翌日からいじめの対象である。
 しかし高校3年の頃、とってもそんなことを云ってられない状態が発生した。
 卓球はテニスの弟分みたいな存在である。そのせいか否かテニスの時の同様
2人1組でペアを組み、トーナメント戦で勝ち抜けば勝ち抜くほど体育の得点
が上がるというシステムを体育教師は採用した。
 受験前の一時、僕は例によって腕っ節が自慢の友人とタッグを組んだ。それ
はいいのだが、一つ盲点があった。テニスは両方とも素人だったのだが、彼は
卓球は若干の経験があり、しかも体育の点数が前回よりマジに欲しがっていた
のだ。
金持ちの相棒は早速体育館の備品ラケットではなく、柔毛に覆われた高級品の
ラケットを買ってきた。漫画みたいな話である。
 そしてその日以後、クラスの風潮も手伝ってか、受験前だというのに昼休み
は毎回卓球の修行、放課後も彼が空いているときは何度か市立の卓球場へと
通う羽目になった。
 クラスにそんなうまい奴はいないのだが、もう彼は目が据わっちゃっており、
スポ根ドラマ流にスマッシュの打ち方や防戦方法を仕込んでくれた。なんせ 
ちょっとでもこっちがへまをやると思いっきり打ち返してくるから始末が悪い。
よくまあ殴り合いにならなかったもんだと我ながら感心する。
 結果は、やっぱり1組勝ち抜いて、運動の出来るチームに負けた。彼は散々
僕のせいにしたが、僕に云わせれば彼のスマッシュミスが多かったような気が
する。
 やっぱり僕は楽しんでラリーを続ける方が好きだ。

剣道
                                          父さんと僕と

 どうした訳か剣道教室に通っていたことがあった。
 小学校二年の時からちょうど二年間、道場に通っていたのだ。小学生が対象
の剣道教室で、やることは初めの一年間は剣道着を着て構えだけ、それ以降は
防具をつけてひっぱたきあいをしていた。
 初めの一年、僕はちびっ子剣士として嬉々として休日を捧げていた。正座や
黙祷や礼の作法も気に入っていたし、毎週洗った剣道着の着心地も好きだった。
打ち合いこそなかったが竹刀を持って素振りをするのも心に染みた。でもなん
といっても一番楽しかったのは、変な話だが迎えに来てくれる父親と一緒に 
帰ることだった。
 父は練習の終わる時間になるといつも近くのベンチで煙草を吸っており、
帰りは「母さんに内緒だぞ」とジュースやアイスを買ってくれていた。寡黙な
父とゆっくり口をきく唯一の時間だった。
 二年目からは事態が変わってきた。それまでとは一転、剣道の時間が苦痛に
なってきたのだ。まず、トイレが近いのにトイレに行かせてもらえない。顔が
かゆくなってもかけない。なにより人にアタマをはたかれることが耐えられな
かった。そんな心の乱れが出るのか一年目の作法編ではよく褒められていたの
に、二年目は毎日叱られたものだ。
 嫌になるのにさほど時間がかからなかった。
 だめ押しをしたのはこの剣道教室では生徒同士の試合をやるのは年末に一回
だけだった。まあ発表会のようなものだ。そこでは腕に覚えのある父兄が初め
に模範としてやりあうのが恒例だった。
 僕の父も何故かそこに参加していた。
 発表会では先生には負けたものの他の大人二人を切り捨て、僕を驚喜させた。
「あれは僕の父さんだぜ」と仲間に自慢するときのあの誇り!
 ところが僕が戦う番、なんと僕は小学校二年生のチビに負け、同年代の女子
にも負けた。一人あたり三回当たるのだが、僕だけ「危ないから」という理由
でそこで止められた。
 帰り道、父と一緒に歩いた。僕は泣いていた。あまりの恥ずかしさと屈辱感
に昔の武士だったら腹を切っていただろう。昔の武士ではない僕は 「剣道を
やめるよ」といった。はじめ、父にこっぴどくおこられるかと思ったが、父は
ただ短く相づちを打っただけだった。
 後に父から有段者であったことを聞いた。そして元々僕を剣士にしようとか
そういう気持ちは更々なかったとも。なら何故剣道などを僕にやらせたのか、
その質問には答えなかった。
 寡黙な父とはいつも同じ家にいたにも関わらず、あまり話をした覚えがない。
思春期に入ってからはさらにその数は減った。
 それでも、あの日の鮮やかに敵を討った仕草や帰り道、妙に哀しそうな顔を
していたことは決して忘れることはないだろう。そして彼は、僕に剣道をやら
せた理由、そして辞めたときの気持ちを決して誰にも話さず、墓場まで持って
いくのだろう。

相撲
               ミッション1,まずはマワシを干せ!

 自慢じゃないが、僕は土俵入りができる。
 僕だけではない、僕の高校にいた男子生徒は殆ど全員できる筈である。よし
んば出来なかったとしてもそれは忘れてしまっただけである。なんといっても
高校3年生の時に体育の授業で全員やらされるからだ。
 我が母校は基本的にはマトモな高校だと思うのだが、時々狂気のような行動
をとることがある。これがまさしくそれだ。
 母校の体育教師にはドンというか重鎮というか別格上位の長老教師がいた。
彼の祖父が横綱であるというそれだけの理由で今も哀れな高三生は貴重な時間
は受験勉強にではなく生涯やらないであろう四股踏みに費やしているのである。
 その重鎮の先生は我らが高校3年生の直前にお亡くなりになられたが、残さ
れた教師は先生の遺命を守り、僕らの代にも相撲教育を続けなされた。
 この相撲、というのは生徒にとっては当然ながら嫌悪丸だしの意識で迎えら
れた。当然のことながら下半身は裸にはならないという前提があっても、だ。
何が悲しくていい青年があんな時代錯誤な格好をして押し合いをせねばならん
のか、僕は不条理に思った。
 さて、その記念すべき相撲第一回、担当の教師は云った。
「さあ、マワシを干しにいこう!」
 みんな嫌々倉庫に行ったと思ってはいけない、我先にと走って倉庫に飛び込
んだのだ。マワシは100個近くあり、新しいものはいいのだがなんせ名門校
のため古いものはいつからあるのかも解らない。青カビは生え、全体的に灰色
にくすみ黄色い染みなども付いている。かつては全裸の上に着用という狂気の
沙汰を採っていたという曰く付きの品だ。一刻も早くきれいなマワシをゲット
せねばならない。みんな目が血走っている。
 なんとかマワシをとると体育館前の通路に一斉にマワシをぶちまける。一反
木綿のようにマワシはのび、風で飛ばないように二人一組で足を延ばし、2つ
のマワシに腰掛けた。校舎からは丸見えのロケーションだった。
 よく晴れた、いい気候の日だった。
 みんな勉強してるのに、僕らはこうしてマワシの上に寝そべって、空を見て
いる。なんとはなしに僕は悲しくなっていた。
 ふと気がつくと校舎の、ある窓から女生徒が軽く手を振っているのが見えた。
誰に振っているのかは知らないが、ジャージを着ている連中に校舎を仰いでい
る者はいなかった。僕はやけくそな気分になり、大きく名も知らぬ彼女に腕を
振ってやった。

 
太極拳
                     太極拳是門外不出的拳法

 密かに僕は太極拳の経験がある。それも優秀である。
 何の根拠があると訊かれれば、大学の科目であると答える。なんと太極拳を
履修して「優」の認定を受けたのである。
 そもそも教職課程を履修し、教員免許を得るためにはどんな科目であろうと
も体育を取らねばならないのだ。そういう訳で仕方なく体育を取ることにした
のである。
 僕の大学は中堅の大学で、総合大学と銘打ってはいるが一般の認知は専ら 
各種体育大会の実績やOB選手の活躍に限られている。さらに遊び人には比較
的環境のいいと云われる所なので、学生どもは右見ても左見てもチーマー崩れ
かガタイのいい運動選手ばかり。両者共通するのは勉強嫌い、というわけで 
体育の科目に殺到するのである。
 かくしてマトモにテニスやらサッカーをとっても単位が取れるとは思わず、
敢えて志願したのが太極拳である。
 志願者も定員を超えず、たった5人の個人授業的な講義であった。ちなみに
その5人のうち2人は学部でも札付きのパープーだったのである。それと知ら
ずに「キミ、なんで太極拳を選んだん?」と訊いたら、真顔で「姉を倒すため」
と答えられ、冷や汗をかいた。
 まあ、当然といえば当然だが、別に殴り合いなどは一切なかった。簡化太極
拳という北京大学の開発した実戦の太極拳の型のうちから体操のような動きを
集めて作った、体操とダンスのアイノコのような動作である。
 1日3−5個の動作を覚え、合計24の動作をマスターするのである。
 本当は呼吸法などもあるのだが、大学の短い時間では動作だけで精一杯。
それでも少人数制の故か、全部完璧に動作をこなすことが出来た。
 中国などでは早朝に公園で人民たちが健康増進に励んでいるそうだ。確かに
割と移動するので一般住宅では無理。ただ道路や公園でも一人でやっていると、
あの独特の円弧運動から精神に問題のある者と見なされ通報される恐れが十分
ある。
 だから僕の中では殺人拳も内包する太極拳という「拳法」を門外不出の秘伝
と称してせっかく覚えた動作も実践せずに終わっている。

徒競走
マラソン
                    裏切り者はいつかは裏切る

 例えば中間や期末試験当日の朝に「勉強やってなーい」とかほざく奴を信用
してはいけないように、マラソンの授業の時に「俺、遅いから一緒に走ろうぜ」
などという奴はすべて信用してはならない。
 どういうわけか、短距離ではクラスでも有数の早さだったのに、長距離では
クラスでも最も遅かった。サボっているわけではない。本当に走れないのだ。
いつもは僕より遥かに運痴で、内心小馬鹿にしていた連中に追い抜いかれるの
は屈辱だったし、周回差を付けていくときに気を利かせたつもりか「ガンバレ」
とか云うのを聞くと追いかけて絞め殺したい衝動に駆られる。勿論バテている
ので追いかけられもしないが。
 スポーツテストの長距離走が何メートルかは忘れたが、クラスの早いのが5
分で平均が6分の長距離走で8分を記録したことがある。体育の授業では女子
にも抜かされたことがある(偶然同コースを走っていたのだ)。
 こんな情けない僕であるが、過日の栄光という奴はあって、小学校の頃は 
確かに早かったのだ。頭の悪い小学校だから当然体は鍛えている。その学校の
マラソン大会で150余名の中で1年の時は16位、2年で6位、3年で15
位になったのだ。今でも探せば10位入賞の賞状が出てくるはずだ。
 こんなに遅くなったのは小5の時だろうか? 何故かマラソンの最中に我慢
というものがまったく出来なくなったのだ。頭は先に進もうとするのだけれど
も、体が全く云うことを聞かない。ちょうど転校したので過日の栄光を知る者
がないことを幸いに僕は短距離専門のレッテルを己に貼り、一切の長距離関係
を拒絶するようにした。
 一番最初に話した裏切り云々に戻るが、高校のクラスで殆どパーフェクトに
運動の出来ない奴がいた。比較的運動の出来ないクラスのさらに出来ない集団
のもっとも出来ない彼。サディスティックな体育教師はよく彼を練習台にして
笑いを買っていたものだ。
 その彼が、これまたマラソンでは「自分の下を見つけた!」とばかりに昔日
の恨みをカマしに来るのだ。
 「一緒に走ろう」とかなんとか約束をする。そうしてはじめの一週くらいは
一緒なのだが、あとは無惨にも置いていく。どんなに先に行っても彼はビリ2
なのだが、彼の文句がふるっている。

       「山田と一緒に走っていると遅くて逆に疲れるんだよね」

 殊長距離走で馬鹿にされ慣れている僕は多少老獪になっており、ここで襲撃
はせず、後日他の種目に変わったときに努めて彼のミスを笑うようにした。
 すると彼はとんでもない復讐に出た。
 一流大学に入って散々こっちを馬鹿にしだしたのである。高校の時は何かと
便宜を図った俺に「五流大学の馬鹿野郎」呼ばわりだからね。君子でもない 
くせに豹変するもんである。
 まったく裏切り者はいつか裏切る。芽のうちに手を切るべきだよな。

リレー
                               戦士に休息は・・・ない

 どういう訳か運動は出来ないくせに短距離走だけは早かった。
 50メートル走なら高校3年間で7秒代になったことはないはずだ。最高で
6秒7だったような気がする。まあ遅くはないでしょう? クラスでも結構、
早いほうだと云われていた。何度も云うが進学クラスの中では、であり学校的
には遅い方だったが。
 そういう人間が体育祭になると苦労する。リレー要員としてよく駆り出され
ていた。忘れもしない高校2年生の時の体育祭、僕は4つの短距離走やリレー
に引っぱり出された。1日殆ど駆け足ずくめである。
 まずしょっぱなからクラス対抗リレーがあった。これはあまりのクレイジー
さに翌年から廃止されたのだが、リレーのくせに10人以上が一斉に走るのだ。
相棒探しが実に大変だった。続いて学年種目が、なんでこんなものをという位
の横暴な科目でクラスから50メートル/100/200/400/1600メートル
走の担当を選び、走らせるという無茶苦茶な種目だった。そして次は色別リレ
ーの予選、続いて部名を挙げるクラブ対抗リレーがある。
 この他に2つほど、全員参加の科目もいくつかあり、この時ほどきつい体育
祭はなかった。僕は昼食を食べる気が起きず、逆にトイレで吐いてしまった 
くらいだ。高校で吐いたのはこの時だけである。
 ともあれ最終種目の色別リレーの時は「殺すなら殺して下さい」という感じ
だった。そんな体調で県内屈指の陸上部の主力選手と張り合わせようとするか
ら嫌になる。しかもそういう時に限ってこの種目で勝敗が決まるような状態で、
前の選手がデッドヒートを繰り広げながらやってきたりする。
 無様に抜かれようものなら、クラスからは白眼視で済むだろうが、同じ白組
の他クラスからは半殺しの目に遭うだろう。いや、イノシシにおっかけられた
気分だ。バトンはエンジン点火の鍵みたいなもんで、前に来ているのは右足か
左足かも解らない状態。
 幸い僕の後ろにピッタリくっついたのは陸上ではなく野球部(この部も強い
んだ)だったが、丸刈りの巨漢がすぐ後ろで「うううううううう」とか「おお
おおおおおお」とか吠えているのが聞こえる。不気味この上ない。
 多分、あの瞬間が人生最速だと思うんだけど、とにかく僕は本気で走った。
 「逃げる文芸部員」とその様子を見ていた後輩は後にそう語っていたが僕の
目は血走り、とにかく必死で「逃げて」いた。昔、エヴァンゲリオンオタクの後輩
が「逃げちゃダメだ」とかなんとか憑かれたように叫んでいたが、逃げるのも
満更悪くない。
 火事場の馬鹿力と云うが、それを発揮したのだろう。
 次の走者にバトンを譲る直前、僕は確かに一人、抜いた。

走り幅跳び
                          MAKE ME MIRACLE

 ありそうもないことが起きるというのは素敵なものだ。
 例えば短距離走が人より少しだけ早いだけの人が、体育で学年一の成績を 
取ってしまう。そんなことが偶然にも僕の身にふりかかってきた。
 なんか自慢めく記述が多いので補足するが、僕は原則運痴である。サッカー
のリフティングは五回もできない。バスケのフリースローは5回に1回はいれ
ばいい方。バレーのサーブに至っては入ったことがない。なわとびは後ろあや
が出来ないし、ハンドボール投げは10メートル飛んだことがない(ただこれ
は全く不思議なことである。直後の球ひろいの番になると20メートル先から
投げ返すから)。
 さて、走り幅跳びである。
 カール・ルイスが走り幅跳びでもメダルを乱獲しているように、短距離走者
は往々にして走り幅跳びの選手でもある。
 高校一年生の時に走り幅跳びの授業があった。
 先生ははじめる前に「いいか、スコアの高い順に学年の全教室にランキング
を貼り出すからな」と云った。それに対し、我がクラスの雰囲気は冷めていた。
全国大会に出るような陸上部や競合で知られる諸運動部員を擁する他クラスが
かっさらっていくのに決まっているのだ。
 士気は低調だったが、それでも計測ははじまった。
 僕の記録は5メートル10センチ。小学校の時は3メートルに行くか行かな
いかだったので「たいしたもんだ」としか思わなかった。計測の体育委員が
「ヤマダ、一番だぜ」と表を見ながら云ったときはまったく意外だった。
 ところがさらに意外なことに翌日、先生の約束通り表が貼られ、そこに僕の
名前が1位として出ていたのだ。まさに驚天動地、僕は見た瞬間「はア!?」
と間抜けな声を挙げた。
 計測当日、幅跳びをしたのは我がクラスとA組だけだった。だから2クラス
の結果しか出ていなかったが、紛れもなく暫定一位として学年中に公表された
のだ。これは非常に参った。部活の同期からも冷やかされたし、クラスの仲間
からも好意的にひっぱたかれた。
 まあ当然のことながらその後、他のクラスが幅跳びを経験するごとにランク
は下がり、最後には15位まで落ちた。
 それでも僕は相当嬉しかったのだろう。文芸部機関誌の「新入部員紹介」の
欄に「幅跳び5M10C、学年15位」と堂々と明記されている。

踏み台昇降
                    偶然にも僕は超人になった

 踏み台昇降と聞いてピンと来る人は、学生かまだ学生の頃を覚えている人だ。
 解らない人に説明すると、「踏み台昇降」というのは1年に1度、小中高を
問わずに行われる「スポーツテスト」なるものに必ず含まれる種目で、心肺の
回復力を測定するのが目的である。
 測定方法はというと1段分の段差を用意し、右足なら右足から段を上り次に
右足から段を降りる。これを一定のリズムで数分続ける。もちろん目的はバテ
させることである。バテさせておいて昇降運動終了後、すぐに脈をはかる。
そしてそのまま安静にさせて1分後、またはかる。また1分後。計3回測らせ
てその合計値や差違やともかくよくわからない方程式を作って結果を出すので
ある。
 懸垂や幅跳びならその場で結果が分かるし、それがいいのか悪いのか解るが、
この種目だけはさっぱり解らない。小学校の頃は脈は先生が測り、記入され、
しかるべき結果が出されていた。ところが中学校1年生の時、困ったことに脈
は自分で測ることになった。
 それまで、自分の脈なんて測ったこともないし、測りたくもない。
 ただでさえ過密スケジュールでの体力測定に体が参っていて、その上踏み台
の乗降でバテているのに脈どころではない。第一どこにあるかも解らない。
「計測せよ」との声は聞こえるが、解らないので仕方がない。
 適当な数字をでっち上げて書いた。
 その後、結果が返ってきてビックリした。なんと踏み台昇降の結果が「同年
偏差値80」となっているのだ。
 これだけならこのズルを胸に秘すだけでかすかな罪悪感だけですむが、なん
と学年のベスト3を廊下に掲示しだしたのだ。当然超人ヤマダの名は学年1位
として2位3位を突き放して君臨している。二人は運動部の猛者である。
 確かに僕はズルをしたが、数字をあげてやろうなどと云う気はなく(第一、計測
の原理を知らないのだ!)適当にすませればいいやくらいの気持ちだったので
ある。
 その後、この件に関しては誰からも何も云われなかったが、廊下を歩く度に
掲示を破りたい衝動に駆られた。
 翌年だけ脈の測定は二人一組に変わった。

スキー
                      スピードフォビアの告白

 スキーは好きーではない。
 …のっけから寒い話題をかましたが、場所が場所だけに許して(懲りてない)
 気を取り直して書くと、スキーは2回したことがある。
 中2のスキー教室という半強制行事と大学1年末に仲間と行ったスキー旅行
である。
 僕は別にスキーは嫌いでもないが好きでもない、ただ寒いところが苦手なの
でよほどの誘いでもない限り大枚はたいてまで行かないだろう。その意味では
将来行くことがあるかどうか。
 現在の腕前はボーゲンなら普通の斜面ならまず転ばずに降りられる程度だ。
2回しか体験がない人間がこのレベルというのはどういうものなのか分からな
いけど、僕にとってはこれは血のにじむような努力の果てに手に入れた栄冠で
ある。
 話は中2のスキー教室にさかのぼるが、殆ど慰安旅行の色彩が強いとはいえ、
教室と銘打つからには技能教室の体裁は整えられていた。同じレベルの生徒を
10人くらい集めて班をつくり、そこに委託したインストラクターをつけるの
である。当然僕は初心者クラスに配属された。
 僕の学校は僕にとっては分不相応にも金持ちの子弟の集まる学校だったが、
初心者はまあ結構いた。
 しかしここで僕は大劣等生になったのである。運動神経は決して極端に悪い
ほうではなかったが、しかし劣等生だった。従来、僕はスピードが嫌いで自転
車なども不必要にブレーキをかける傾向がある。故に人よりはるかに遅い。
 まあ要はスピードに臆病なだけの話ではあるが。
 スキー教室では当然ながら問題児だった。スケジュールに支障が出る程転ぶ、
リフトの柱にぶつかる、崖から落ちる、遭難する、リフトから落ちる、リフトを止め
る、止まらなくなって教官をマジキレさせる等等等。まったく生きてるのが不思議
なくらいだが、それでも一応は最終日にようやくボーゲンだけなら人並みに滑れる
ようになった。
 そういう訳で苦闘の歴史をもつ僕は2度目の大学旅行の時には初心者の友人
を尻目に滑れたんだけど、あのスノーボーダーの量には吃驚したね。中学のと
きは数少なかったのに、今や逆にスキー族が数えるほどだからね。座り込むボ
ーダーが危なくて安全運転を心掛けたが、何度ボーダーに激突したか。
 とりあえず今でもスピード恐怖症は健在です。

スケート
                                     スポ根一日体験

 寒いところは好きではないのでウインタースポーツなどはやる気も起きない。
ただ例外は「友人に誘われたとき」だ。こういうライフスタイルをしていると
容赦なく「暇人」のレッテルを押されるのであるが、基本的に誘いがあった時
は私事は排除して応じるようにしている。これは忙しいことが偉いことという
規範意識に対するアンチテーゼだが、まあこれはどうでもいい。
 ともあれスケートは誘われたので腹をくくってやることにした。場所は友人
宅付近のデパート屋上である。レーンは人工施設なので諸経費が馬鹿のように
かかった。まあ、スキーよりは遥かに廉価だが。
 六人くらいで行ったのだが、驚いたのはスケート未経験者が僕ともう一人 
しかいなかったことだ。なまじオボッチャマ高校などに入ってしまったため、
変に上層教育を受けたお子さまばかりが御学友だったのだ。
 ともあれ妙な靴を四苦八苦の末に履いた。靴の歯がこんなに薄い物とは思わ
なかった。もしうっかりころんでこんな物で踏まれたらスキー板で踏まれる比
じゃないぞと思った。小指を詰めて生きられるほど当方タフじゃない。友人に
手を取られてバージン山田は初めて氷を踏む。と、次の瞬間すっこける。
 サーッとマイブーツを履いたおっさんが軽快に滑っていく。
 書き忘れたが高校の入試日に行ったので、時は平日、空いていた。
 友人達がグルグル回っている間、僕ともう一人はリハビリ患者の如くバーを
片手におずおず歩いて(滑って?)いた。時折コツを教えてくれるが頭のいい
連中はえてして教育下手である。僕はあまりの情けなさに一輪車をマスター 
しようとご近所の壁につかまりながらおずおず進んでいたことを思い出す。
 何度も手を離して進み、何度も転び、起きあがってまたバーをつかんだ。 
段々手を離して進める距離が増えてきた。一輪車は目標の町内一周に三ヶ月も
かかったが、スケートはなんとか二時間の練習でで内を一周することが出来た。
「才能あるじゃん?」
 仲間は口々にいった。僕は頭をかいて「まだまださ」といったが、内心では
かなりの達成感に満足していた。その後食べたラーメンのおいしかったこと!
 家に帰ってアキレス腱のところを見てみたら靴擦れのせいか血が流れていた。
血を流すほどの練習なんて記憶にある限り初めてだった。スポ根なんて馬鹿に
していたが結構そのときの汗は心地いいものがあった。
 寒かったけど、熱かった思い出。
 今でもコツは忘れていない。

水泳
                                   I HATE ”ROAD”

 日本のスポーツに関する考え方は嫌いだ。
 いわゆる精神主義という奴だ。ま、文化系の生き物ならみんな嫌いじゃない。
端的に言えば高野連の思想、高校球児の丸坊主や不祥事の連帯責任だ。
他にも練習偏重や過度の理想主義なんかがそれに当たる。
 殺し合いが洗練されて剣道という格式高い、「武士道」という精神性が加味
されたストイックな「思想」に変化したように、こういうスポーツに思想行動をつけ
くわえる考え方、非常に抵抗がある。
 今回はその話をしよう。
 幼稚園から小学校の最初の一年間、水泳教室に通っていた。
 幼い頃に水泳をやらせれば丈夫になると云う嘘っぱちを親が信じたせいだ。
実際は病弱な身には負荷になるばかりでよく車の中で熱を出したモノだった。
まったくロクな思い出がない。
 全部で8級の等級があり、練習は週に2回。最終週が試験の日でこれに合格
すれば次の級に進めるという話。
 8級はビート板、7級は背泳ぎ、6級はクロールだった。
 それ以後は知らない。辞めたからだ。
 さてその顛末なのだが、他人の3倍という期間を経て(才能の問題もあるが
風邪ひいてよく休んだのも事実である)やっと6級まで来た。ここまで1年である。
そしてさらにクロールだけで1年間。幼稚園の頃からいるにも関わらず小学校から
始めたクラスの仲間にも追い抜かれる始末。
 クロールのドツボにハマって1年、昔なじみのK(なんとこいつは入って半年で
6級に来ていた)と同じ級になりよく遊んでいた。
 そしてその月の試験、全員がクロールを終えてプールサイドに集まった。 合否
と先生の講評があるのだ。半年くらい前から初めに呼ばれるのは最古参であった
僕だ。
 「山田君」先生が云う「キミも随分長く頑張った、もう殆ど完璧だ」。別に嬉しく
なかった。やっと、という感じだった。ところが先生の言はこれで終わらなかった。
 「しかし」僕は顔をあげた「キミはどうもお喋りが多いようだ。もう1ヶ月、ここで
おとなしくプールのマナーを学ぶように」
 完全に僕はキレた(当時はそんな言葉はないが)。ここで立ち上がると先生
をクソミソに罵って、母親の待つ保護者待合場まで走って逃げた。僕は技術を
学びに来たのであって精神修行をしに来たのではないのだ。逃げる僕のあとを
Kが追った。
 僕は当然即刻退会した。後に知ったが、その試験で合格していたKも一緒に
辞めてしまった。何でそんなことをしたのか、小学校も卒業間際に聞いたこと
がある。「なんでだろうね」とKも不思議がっていた。
 精神主義なんてのはアメとムチの方便に過ぎない。こういうのは体育教師や
教習所の教官に顕著に見られるが、そう言う精神主義を強調する輩は決まって
無知蒙昧、無教養の大馬鹿野郎と相場が決まっている。
 とにかく水泳ならぬ「水泳道」、僕は嫌いだ。

騎馬戦
                               戦争の快楽

 体育祭で一番好きなのは騎馬戦だ。
 我が校の騎馬戦は帽子を取るなんて生やさしいモノではなく、上半身は裸で
騎手を引きずりおろすという本格的なもの。あらゆるものに臆病になって手を
つないだまま徒競走をやらせるような馬鹿な風潮が美談とかたられる中、この
プリミティブな競技は非常に楽しみで、事実楽しかった。
 まあ危険な競技には違いがないので、「戦場」には先生方が審判員と称して
たくさん点在していたし、事前に体育委員に配布されていたクラス掲示用の 
小冊子には禁じ手が事細かに列挙されていた。
 この禁じ手というのが偏執的なまでに微細にまで入り及んでおり殴る蹴るは
勿論、首締めやひっかきなどは序の口、噛みつきや目潰しなどちょっと普通は
やらないことが書かれていた。まあ、後者はやらないが、それ以外は実戦では
やっていたように思う。
 僕は比較的騎馬の役が多かったように思う。ローレル指数は理想数をはじい
ていたのだが、これは現代では肥満と見なされるのだ。嘆かわしいことである。
 ともあれ騎馬戦ではやはり圧倒的に反則技が入り乱れていた。さすがに後輩
が先輩を直接殴るなんてことはなかったが、同年代ではなまじ知った顔のため、
騎手は何でもあり、騎馬は支える騎手もほっておいてとにかく罵声をきわめて
蹴りあっていた。とても進学校の「貴公子を育成する」高校とは思えない有様
だった。
 当然、エキサイトして落馬の後に殴り合いということもあった。先生が飛ん
で止めた。
 しかし相手を潰したときの快感、生還したときの快感はやはりすごいものが
ある。戦争に勝利したとき、それは最高潮に達する。ランナーズハイとはこう
いうものかと思わせる陶酔感がある。騎馬戦でこれだから実際の合戦ではいか
ばかりの快楽が得られただろうか。



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