10/19 「ふりだしに戻る」執筆(以降、後日執筆)
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サキ傑作選/サキ/大津栄一郎:訳/ハルキ文庫 |
一生涯のうちに、何冊の書籍を読めるものでしょうか? ひとつの目安は10000冊といいますが、なかなか大変な数字です。
ここは一つ、鷹揚に考えてみましょう。学術文芸書の他、漫画や雑誌も書籍に含めます。そして3分の1以上目を通せば、「読んだ」とみなします。さあ、これでだいぶ数が増えてきましたね。
私の場合、3000冊は確実に読んでいます。やはり漫画と漫画雑誌は、人様のものを借りたり、書店で立読みしたりでずいぶんな数になります。それから大学でレポートを書くために斜め読みした本が余裕で3桁に迫りますし、塾講師時代にバックナンバーを10年分以上読み漁ったたくさんの教育雑誌が、数を稼いでいます。
漫画、雑誌、3分の1ルール、この3点セットを念頭において、ぜひみなさんも自分の読書量を計算してみてください。
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さて、3000冊は確実に読んでいる私ですが、実際のところ5000冊は読んでいると思います。そういえばあれも読んだ、これも読んだはずだよ、思いつくままに紙に書き留めたものを全部足していくと、どうも曖昧とはいえ2000冊くらいになるのです。
が、この計算にはひとつ大きな落とし穴がありました。
小学校を卒業するまでに読んだ大量の児童書の冊数が、あまりにも大雑把なのです。
近所にあった私立の小学校に通っていた私は、放課後になると毎日暇でした。仲のよい友人は遠方からの電車通学だったのです。
私の数ある伝説のひとつに、大人が食い入るように見つめている文字に自ら興味を持ち、母親に「これ何? 教えて」と頼んだというものがあります。そんな根っからの文字好きの私のこと。家で過ごす時間の少なからずを読書に捧げたのは、自然の成り行きでした。
中学年の頃の読書日記(国語の課題)を見ますと、散々記録をサボったと母親が証言しているノートにもかかわらず、1日1冊を上回るペースだということがわかります。サボって日付がとびとびなのですが、記録してある日はほとんど、一日で何冊か読んでいるのです。
そこで、概算になりますが、当時の年間読書量を600冊と見積もりました。しかしこれは、かなり怪しい数字です。本当は年間400冊未満かもしれないのです。つまり、毎日記録するのはサボったけれども、読んだ本を記録するのはサボっていない(まとめて書きした)のかもしれないからです。
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しかし調査を進めるうちに、さらに衝撃的な数字が母の口から出てきました。「5000? ……たぶん、それは少なすぎると思うよ。本当は8000冊くらい読んでいるんじゃないかな?」
先ほどの600という数字を、とりあえず信じるとしましょう。それでさえも5000冊(最大まで見積もって6000冊)にしかなりません。中学・高校と、漫画や雑誌を含めてさえ年間200冊未満しか読まずに過ごしたのが、ボディーブローのように効いているのです。
8000という数字の根拠は、私の幼児期にありました。
私が大量の本を読むことができたのは、近所に巨大な市立図書館があったためです。市民サービスの一環として運営され、やわらかい本を中心に、数十万冊の書籍を無料・無制限で貸し出してくれるのです。年間の書籍購入予算が2000万円といいますから、いやはやまったく恐れ入ります。(もちろん本館・分館を合わせて数十人に上る職員さんに支払われるお給金の総額は、その比ではありません)
かつてその図書館から本を借りてくるのに、両親はダンボール箱を使用していました。私が、それだけたくさんの本を読んだ、ということです。とくに大変だったのが、幼稚園生時代だったといいます。
幼児向け絵本は、大きな字で頁数少なめ。紙質ばかりバカによく、立派な厚い表紙つきの大型本で、非常にかさばります。
私の持つ記録は、「1日30冊」だったといいます。その日、私の座っていた座布団の隣りには、本の小山が築かれました。もちろん、今、同じことをするのは簡単です。半日かければ1日60冊だって不可能ではありません。ただ、やらないだけで。しかし、当時の私がそれをやってのけたというのです。もちろん、ただの親バカかもしれません。何かを勘違いしている可能性はあります。
そして、8000冊という数字が出てくるのです。
眉唾ものです。しかし、そういった証言もあるということです。
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私の読書体験のほとんどは、要するに児童・幼児向け書籍です。中学生以降、じつにじつに読書量は低下し、高校卒業まではふつうのいわゆる「本」は年に60冊も読んでいないのではないでしょうか。
それ故に私は、村上春樹といった「中高生に人気」の(しかし主に大人を読者に持つ)作家などをろく読んでいないのです。大学生になってから慌てて追走してみましたが、例えば村上春樹は、いまだに数冊しか読んでいません。
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私が「いつまでも児童書ばかりじゃかっこ悪いかも」と思うようになったのは、中学1年の夏でした。学校近辺の図書館分館で児童書を読んでいると、小学校の恩師に出会ったのです。「何読んでるの?」そう優しく訊ねられて、ふと、気恥ずかしくなったのでした。今にして思えば、まったく見当違いの恥ずかしさなのですが、当時はともかく「児童」書というのが恥ずかしく思えたのでした。もう自分は「児童」ではなく、「生徒」だというのに、と。
しかし、児童書の「短さ」に慣れた私は、大人向けの本の「長さ」に散々苦しめられました。読んでも読んでも読み終わらないのです。そして一見薄く見える本でも、文字が小さく詰まっているので、そして紙が薄いので、文字も頁数も多くて嫌になってくるのです。
そんな私を導いてくれたのが短編小説でした。作家の誰よりもお世話になったのは星新一です。もともと小学校の国語の教科書で読んで、好きになったのでした。彼の作品は非常に読みやすくて、それでも大人向けの文庫本になっていて、非常にありがたい存在でした。
ああ、こんな作品も大人向けなのか。私がどれほど安心したかわかりません。
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時流を舞い戻って、現在の視点から小学生時代の読書を振り返りますと、じつは案外知らないうちに、大人向けの短編小説をたくさん読んでいたことがわかります。大学生になって筒井康隆を読み耽ったとき、「知っているお話」のあまりに多いことに驚いたものでした。
そして最近の驚きといえば「サキ傑作選」に尽きます。サキの作品集は新潮社版「サキ短編集」が広く流布していますが、本書ははるかにこなれた現代風の新訳です。これからサキを読もうとされる方には、絶対お奨めしたい一冊といえます。
このサキ傑作選、私は以前より読みたいと思ってきたのですが、その存在を知ったのが遅かったためか、既に書店には見当たりませんでした。半年探しても見つからないので、ついに大学生協へ注文するに到りました。(こういう手段はつまらないですね)
やっと届いたサキ傑作選、なんと3分の2は「知っているお話」でした。私は確かに他にもサキの短編集を持っておりますから、ある程度は予想していたのですが、しかし……。
私がその作品(「開けたままの窓」「お話の名人」「盲点」「夕闇」)を初めて読んだのは、小学生時代でした。通信教育の付録読み物でした。他の多くのことを忘れてしまったというのに、その物語はずっと記憶に残っていました。一体誰の作品だったのだろうかと、私は長く疑問に思ってきたのでした。
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ふりだしに戻る/ジャック・フィニイ/福島正実:訳/角川文庫 |
電車に乗ると本を読むのが速くなる私、3年半の時を経て、ついに疑問を解決しました。わかってしまえばなんてことはないのですが、ようするに読み飛ばしていたのです。
「次はー、チバー、チバー、総武線各駅停車は1番線……」といった車内放送を聞くと、ひたひたと迫る目的地を意識するのでしょうか、無意識に斜め読みをしている自分に気がつきました。改行の少ない本ほどそうした傾向があり、ひどい場合にはページごとかっ飛ばして素知らぬふりをしています。
最近読んだ新潮文庫版「老人と海」(134頁)は50分程度で読み終り、さすがに急ぎ過ぎたと後悔しました。けれども、最後の2駅を行く間、暇なので読み返していると、いつもと違ってほとんど読み飛ばしていないことに気付きびっくりしました。やはり面白く乗って読める本は違います。
家で読んでいてもときどきそうしたトランス状態になることがあり、やはり新潮文庫版の「十五少年漂流記」をつい数日前に読みましたが、これは早かったです。285頁を3時間ですから、我ながら感心しました。「十五少年漂流記」は本国で凡作だったものが、素晴らしい日本語訳によって日本で名作となった作品です。これも翻訳の楽しみでしょうか。とにかく「十五少年漂流記」は各社より出版されておりますが、私は新潮文庫版をお奨め致します。
昔、アニメ映画(?)で見たときと同じく、私が目指すのはやはりゴードンなのですが、最近はゴードンといえば機関車トーマスに出てくる大きな蒸気機関車が有名ですね。あ、どうでもいいですね、はい。
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私の速読記録は、やはり電車内で作られました。五木寛之の「怒れ!逆ハン愚連隊」は300頁程度の作品だったと記憶しますが、ざっと1時間で読破しています。1分間に5ページですか。下半分が白い小説とはいうものの、まるで漫画を読むような速さです。途中、一息入れたりしなかったのでしょうか。さすが、電車内は異空間です。
思うに、プルーストの「失われた時を求めて」など、電車の中でなければ「見る」ことさえ不可能だったのではないかと思います。長すぎるせいもありますが、もはやストーリーなど何も覚えていません。村上春樹「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」の終幕に似た印象のある「部分」が存在したような気がするだけです。
ふだんの私は大方の予想を裏切って読書ペースの遅い方です。単純に読書時間が長いので読破した冊数はたいへん多いのですが、おおよそ文庫本1ページを1分弱かけて読みます。200ページ強の本で3時間といったところ。しかしこれも電車内で読めば2時間でお釣りがきます。とはいえお釣りといっても、ただ暇なだけ。それで私は、薄い本なら必ず2冊セットで持ち歩くのです。
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高校時代、電車通学に縁がなかった頃の私はのんびりとしていました。何日もかけて、ゆっくり本を読んだものでした。しかし逆に、勢いで読むということも滅多になく、手はつけたもののすぐにやめてしまった本の、なんと多かったことでしょうか。
今でも図書館で借りた本は8割以上、読破できないまま返す生活です。とはいえ古書店で買う本が増えたこともあり、全体では大抵の本を読破するようになってきました。やはりケチなので読み終らない本を人にあげるのは嫌で、かといって本棚は既に満杯。とにかく在庫を読まないことには、新しい本にも取り掛かれないのです。
けれども、やはりあの頃にしか読めない本がありました。今からジョイスの「ユリシーズ」と「フィネガンズ・ウェイク」を読めといわれても、さすがに無理でしょう。高校時代だからこそ読めた本でした。
高校3年生のときでしょうか、山田という有名な英語教師が「フィネガンズ・ウェイクは18章からなる小説で、絶対に翻訳不可能な作品として有名である。私は卒論のテーマにジョイスを選び、教官にそれはお前の手におえない巨大なテーマだといわれながらも、必死に頑張ったものだった」といった雑談をなさいました。
私は昼休みに英語科研究室へお伺いして「全18章というのはフィネガンズ・ウェイクではなくてユリシーズではないでしょうか」とお話しました。先生ははたと膝をうち、「私としたことが!」……以降、私は毎回ひどい試験結果だったにもかかわらず、成績表に打ち出された得点は常に上位をキープしました。
「最近の高校生は本を読まない。だから学がなく、驚くほど浅はかだ」そういっていつも嘆いておられた先生は、もう退職されてしまいましたが、いつも私の将来を大いに期待してくださいました。未来は既に現在となり、ああ、現実はいかばかりか。時の流れは残酷です。
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電車の中で読書が進むとすれば、飛行機の中はどうでしょうか。
高校1年の夏、私はロータリークラブの企画で短期交換留学生として、10日ほどサンブルーノ市(サンフランシスコの衛星都市)でホームステイしました。もう昔のことでほとんど何も覚えていないのですが、いい機会だということで携えていった本がありました。
旅先での毎日は刺激的で、飛行機の中では映画が面白く、そして非常に眠たくて、結局数ページしか読めなかったのですが、本棚の片隅に眠るこの本の背表紙を見るたびに、遠き日を思い出します。
ジャック・フィニイ「ふりだしに戻る」
私が一番好きな長編小説です。それなのに、きっちり読み返したことが一度もない、不思議な本。
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