ラグナロク教会

本項の罪

道徳の罪について

 本項はキリ番3000人目を記念したリクエスト施設である。
 見事GETなされた名誉村民はこの施設に名を冠するラグナロク氏、名前と施設のバランスが取れていていい感じです。そしてお題は「懺悔せよ」とのこと。
 これには少々困りました。懺悔と思いましても私、そうそう悪いことをしている訳でもないし、本当にした悪いことを書くと読者は確実にヒキます。それに結構ネタ的に住宅街の犯罪エッセイ「大山会系佐田組」とかぶるところがあるんですよね。
 そこで本項は若干趣旨が変わりますが、教会ということもあって「道徳罪」について書きたいと思います。つまりはその行為を為したからといって即警察が飛んでくるというものではありませんが、世間的・倫理的・宗教的には後ろ指さされそうな、そんな「道徳に対する罪」について書いていきましょう。勿論懺悔エッセイという当初の意義も踏まえて、私の体験等も書いていこうと思います。
 具体的には「大食」や「淫行」や「濫費」など、とりあえず最初は「食」「性」「眠」の三大欲を斬り、続いて精神的な罪について斬っております。
 とはいっても私、品行法制などとは縁遠い衆生でございますが、一応教師&公務員志願者なので、欲は欲として肯定しつつも世間的にみっともない欲は慎んでいこうと殊勝なことを考えております。
大食の罪

貧乏人の逆説

 今回は大食、ことに食べ放題の店について考えてみたい。
 別に僕はダイエッターではないので、日本の一般的な大学生よりは一日の摂取カロリーは高い方だ。だから、僕のことを大食漢だと思っている友人も案外いるのだが、これが胃の限界量は非常に低い。満腹になるのは常人の7割程度OKなのである。
 これは日々他人より多く食事をしているので、常にある程度腹にたまっているせいかもしれない。事実、1日千円は食事に費やし、僕個人のエンゲル係数は60%は超えている。だから空腹感というものについては奨学金という潤沢なる借金生活を送って以来、縁がない。世界規模・歴史規模でみればなんと恵まれたことか!
 他にもこの早期満腹には貧乏人の職業病たる特性も影響している。即ち早食と炭水化物を好む性格である。
 以上の3点から僕は貧乏人のくせに食べ放題が嫌いである。2時間の会合があったとすれば僕は大抵30分で僕はアウトだ。皿数はやはり友人たちの方が遥かに高く積み上げられ、当方は損した気分ばかりになる。2000円も払って苦痛と屈辱感だけではやりきれないではないか。
 流石にこの年になれば品位もあるので、吐いたりトイレに篭ってまで食べようとも思えないが、それにしても大食中の人間は醜いと、やっかみ半分にそう思うのだ。
 そうそう、食べ放題の罪といえばこんなことがあった。
 高校2年生の頃、食べ放題の店で、僕は自分も偏食癖があるくせに友人に「サラダを残すな! アフリカの難民は飢えているのだぞ」と云った。これに対する彼の返答は凄かった。

「あんなの人間じゃねえ!」

 その余りの身も蓋もない発言に、僕は失笑してしまった。
 彼の放言を咎める気はないが、やはり大食の場は罪深い。
(追記;
 私は身長体重比も体脂肪率も適性と出ています
 にも関わらず仲間からはデブ扱い。恐ろしい世の中です
 身長170あって65で肥満児ですよ。
 仲間はみんな50キロ前後、信じられるか!)
肉食の罪

トラウマの克服には時間がかかる

 僕が、かつて肉類がまったく食えず、それを段々克服していった話は色々なところで書いている。今では牛丼などは毎日食っている身ではあるが、名称付(タンとかレバーとか、骨付きもNG)の肉は未だ食えない。後遺症は今なお健在なのだ。
 今回は何故僕がそうなったかについて書いておきたい。
 これは多感な頃に父が放った無責任な一言に尽きるだろう。
 3歳児まで、父が問題発言をするその日までは普通に肉が食えたらしい。そりゃ幼児であるからして食べた肉とてたかが知れているが、後にサラダに入ったハムの一片まで排除するようなことはしなかったことは確かだ。
 僕は彼の一言が完全要因ではないだろうが、そう云われた日以降、転がり落ちるように動物を殺すという罪悪感から肉嫌いに陥った。お陰で給食はいつも一番最後まで肉を睨む生活が続き、先生と日々対立し、特殊学級に送り込まれかけたくらいだ。仲間と食事する時も僕には食べられない料理が多すぎて、調整には相当苦労した。
 そこまで僕を肉嫌いにした父の言葉とは何か?
 父は幼い僕が肉を食べる前に必ずいうんだ。

「あっ、あー。牛さんが鳥さんが食べられてるよォ。
 痛いなあ、可哀想だなあ。豚さんの家族は泣いているだろうなあ」

 僕は当然嫌な顔をする。それが面白いらしくて毎日やるんだな。なまじ悪意がないだけ始末が悪い。とにかく幼心に刻まれた罪悪感が僕を鉄壁の肉嫌いにしたって訳さ。
 あれから16年は経つが、未だに平常人と同じ食事は出来ないことがある。幼少期の教育が如何に大事か、この一事だけでもお解かりいただけるだろうか?
飲酒の罪

酔客を/見るのは楽し/山田かな

 酒の上での無礼な振舞いは不問に付すという習慣が、我が日本国には存在する。僕はこの悪習には複雑な気分を胸に反対する。
 複雑な気分とは僕は酒に弱く適量厳守主義なので、おそらく将来酔って人に絡むより、絡まれるほうが多いであろうから自然批判的になるのである。しかしその反面、酒に弱いということはとりもなおさず意識不明になる率も高いということである。
 「酒」という名の免罪符、他人に突きつけられるとこれほど腹のたつことはないが、いざそれを認めない立場になってしまうとそれはそれで問題があるのである。
 僕個人の酔いパターンを見ると、ビール一杯でいかれるので話は早いのだが、どうも以下の行動のいずれかを始めるらしい。

1.多幸症 2.山田オペラ 3.擬人化 4.鬱 5.遺言
6.猥談 7.口説き

 勿論、酒に酔えば吐くとかそういった生理現象は除いてある。
 各種説明していこう。
 多幸症とは訳もなくニヤリとしたり、イヤな奴が来ても許してしまったりとかそう云うことである。別にいいことではないかというが、相手(特に女性)には気味悪がられるし、散々メールなんかで罵倒文を遣されても笑って許してしまい、酔いが冷めてから激しく後悔するのである。
 山田オペラとはいきなり節をつけて「アーアアアーアーオーオーオオオーウーイーアアアー」などと意味不明の母音群を長々と叫び出すのである。オペラみたいな野太い声で吼えるのでそう云う。
 擬人化とは僕の幼児趣味を余すことなく出しており、例えば手元の端や小鉢と喋りだすのである。「ねえ、箸君。キミも大変だねえ」「(声色を変えて)あたりめえだい。若いねーちゃんならいいけど、汚い親父にしゃぶられる身にもなってみろ」といった感じである。
 鬱とは簡単、何も喋らないのである。まるで脳中に宇宙の哲学を論じているような顔をして、実際は吐き気に耐えているのである。
 遺言とは気持ち悪くてぶっ倒れているときに、いきなり「おい、**。お前に俺の書いた小説の版権をやる」とか事細かに始めるのである。先日はいきなり「俺が死んだら、**(←助役の本名)に云え、HPの著作権はやるからよォ」といったらしい。そんなもん貰っても困るよな。
 猥談と口説きは多くを語らない。何人かの女性と酒盃を重ねて、断行になったことを考えれば何をかいわんやである。
喫煙の罪

かっこいい喫煙

 僕は煙草は吸わないし、吸ったこともないが、煙草人種については基本的に寛容である。そりゃ喫煙車両などに長時間監禁されれば耐えがたい吐気を感じるが、レストランで相棒に付き添われて喫煙席に入ったって排煙設備があれば気にならない。許可も得ずに吸い出すのは腹だたしいがその怒りは喫煙とは別問題である。
 もう少し込み入った話をしようか?
 僕は実のところ来月21歳を迎えるというのに、喫煙というものをカッコいいと認識している。ま、そこらへんのストリートキッズやオッサンなどの吸い方などを見ていると全然そうは思わないのだが、ハードボイルド小説やその種の映画を見ると、やっぱり煙草は欠かせないなあと思う(ネオがつくとそうでもないけどね)。
 笑ってしまうのは、僕の憧れたタバコスタイルが未だに20年代アメリカのギャングスタイルである点、トレンチコートにソフト帽、点火するのは勿論マッチである。反社会的なことを敢えていうが、吸殻はすべからく道に投げなければならない。そもそも反社会的な者なのだ。煙草は。
 ここまで妙な哲学を持っているのに吸わない理由は、親父が殆ど病的なスモーカーだからだ。一々算段した覚えがないのだが、以前はニコチンが強いらしいハイライトを即日空にしていた。今はそれでもやめようとして色々努力しているが、あの調子じゃ無理だね。
 親父は変なところで意志が強いので、「一月の煙草予算・ン千円」と決めたらそれを守り、安煙草を大量に吸っている。本数の制限をつけたら自分の吸殻から吸えそうな奴を見つけて点火している。
 とある短大に通う知人の学校ではミッション系らしく学則で喫煙は禁止であり、高らかに「ニコチンの依存性は麻薬以上」と書かれている。僕は自分の意思能力には全く自信がないし、おそらく一本点火した瞬間から中毒になるだろう。
 親父はもう長らく僕に人生論を垂れなくなったが、煙草の害だけは苦しそうに語る。口調は半べそだ。これは目の前にしているだけに結構堪える。麻薬だって濫用防止には経験者を連れてくるに限る。覚醒剤の場合、初犯はまず執行猶予がつくから、学校にでも回らせればいい。
 だから僕は煙草はやらない。
 カッコよさに憧れるし、長生きにも健康にも関心はないが、未知の快を得て、意に反した多額の出費を一生涯に渡って支払うことはしたくない。
 これは僕のゲームだ。煙草もライターも合法に手に入る。
 しかし…それでも敢えて吸わないのが僕のゲームなのさ。
淫行の罪

判事のコンプレックス

 別にお互いがいいと思ってんならセックスしたっていいじゃんか。とまあ頭悪げな発言だが、なんとなく僕の思っていることである。
 時々「本当に相手を愛しているなら…」式の保健の教科書棒読み方の人間に出くわすことがあるし、誰も聞いてもいないのに乱れた性風俗を我がことのように嘆く輩もいる。どうしたわけかその手の道徳家は確実にモテナイ人間である。それも生真面目な、それ故に女性と接することが出来ないことをコンプレックスにしているような…ねじれた人たち。僕もモテナイ人間なので多少はそう云う意見に与したくなる気分もあるし、そう云う主体でこのHPに物を書いたこともある。しかし…。
 昨日、こんなことがあった。
 31歳の主婦。15歳の少年と同意の上で60回ほどセックスをしちゃって逮捕。これならまだいい。問題は昨日、この事件の判決でなんと懲役10ヶ月の「実刑」判決が下されたという。僕が問題にしているのはこの「実刑」というところですよ。
 弁護士は即日控訴したが、それも当然どう考えても厳しすぎます。裁判を傍聴すればわかりますが、実刑というのは余程のことがない限り下されません。今回、事件の性質からいって前科が主婦にあるとは思えませんし、少年だって結構満更じゃなかったと思いますよ。
 それで実刑? 麻薬もってたって、恐喝だって、傷害だって執行猶予がつくというのに? 僕は恋愛至上主義者とははっきり一線を画す身だが、同意の性交で懲役10ヶ月だって? もう家庭の崩壊はほぼ確実なのに、その上で刑に復せと(女性の場合は男性よりも一般的に軽いんです)。
 刑罰比例の原則から云っても過去の判例から見てもおかしなこの判例。まず高裁で執行猶予は取れるでしょう。それにしても、気になったのはこの判決文。新聞の引用では丸々、保健の教科書の生き写し。
 おそらく裁判官はそう云う人だったんだろうな。またそう云う人でもないと裁判官にはなれないか。最近、司法の世界すら聖域ではなくなりつつあるけどね。きっと唾きし歯噛みしながら、判決文を書いたんだろうな。モテナイ、コンプレックスに凝り固まった人間が、時として狂気の行動に出ることを、僕は経験から知っている。
奪愛の罪

怒っていないが許しもしない

 今日は昔、僕の彼女をかっぱらってくれた人非人が夢に出てきましたよ。ハッハッハ、彼は夢の中で違う女を連れてやがった。抑圧が解けている夢の中でも「なあ、じゃ俺が彼女とまた付き合ってもいいんだよな」などと情けないことを云わなかったのは、我ながら流石である(云いかけたというのはナイショである)。
 当然のことながら僕は即座に断行声明を出し、これを友人各位に公告したのだが、案外友人世論は僕の方に批判的だったな。これは彼が事前に根回しをしていたせいで、「用意に勝る敵はなし」とはこのことかと自失した覚えがあるよ。
 さて、ここで僕は「略奪愛は認められん!」などと被害者面して泣き喚くような醜態は晒さない。逆に僕のような被略奪愛者の女々しい感性を斬るのである。
 これは妄想エッセイで書いたところと重複するのだが、僕はこの事件の勃発後、即座に略奪愛について友人のケースを聞いて回り、彼らがどの様に対処したかを調査した。
 それで僕は一つの括弧とした法則を手に入れた。
 例えば男Xと女Aのカップルを男Yが攻略したとする。
 まともな頭の人ならXA間の関係は全く途絶える。僕の場合は、この場合、まったく優等生だったといえる。なんせAからの連絡をすべて途絶しているくらいである。連絡してくる女も女だが、ここで男が未練を残すとストーか犯罪が発生してくるわけで、恐ろしいことである。
 問題はXY間であるが当然断行状態が続く。YはまさかおめおめとXの前に面が出せるわけもなく、何を考えているかは知らないがYとしては何のアプローチも出来ない。
 ここでXである。僕に云わせれば全く不条理なのだが、ここでXが何故だが女を奪ったYに頭を下げて仲直りを請うというのである。何なんだこれは。僕は大いに呆れた。
 このケースが別人の口から4件も語られたのだ。
 はあ、と思ったね。いや、それ以外に感想もないや。
 僕は謝ろうとは思わないが、ある異種、彼との関係改善を考えたこともあったが、厭々それでは私のプライドはどうなるというのだ。
 彼が高校生活を振り返るとき、その中に僕は重要人物として出てくるだろう。それくらい僕と彼は仲がよかった。もはや怒りの炎が出てくるほど僕は怒ってないし、一時期懇意にしている仲間が主張したように討伐隊を組んで殴りにいく気もない。
 ただ、彼が高校時代の夢を見るとき、寝覚めのいいことは二度とないだろうね。
売春の罪

彼女の言い分

 どういう訳だか、僕の知人には援助交際関係者が何人かいる。
 小学生期の擬似フリョー時代でもなく、中高の友人膨張主義時代の話でもなく、友情最選択時代である大学期の知人にそういう人がいるのはなかなか退廃的でよい。
 ここは懺悔エッセイなので馬鹿正直に言うと、僕はそういう人達と関係したことが一度もない! 何故かと言えば堪えは単純で彼女らが嫌がったからに過ぎないのさ(とはいっても、殆どこちらから口説こうとしたことはないのだが。多分一人だけだと思う)。娼婦にまで嫌われるこの魅力よ。大したもんだね。
 ところで、その中の一人から興味深い話を聞いたことがある。
 彼女は中学生の頃からやっていて、最近廃業したらしいのだが、こう語ってくれた。
 中学生というのは一般的にお金のないものであり、その割りには小学生とは異なり世の中には様々なものや快があることがわかってくる。それをすべて満たしてくれるのが、援助交際である、と。
 服やバッグや装飾品、高価な食事やバーでの一時、自分のために使える2時間数万円の収入(中学生ともなれば、相当貰えるのだ)そしてなによりセックスは悪くはないものなのだ。悪い相手は排除できる、声をかけずに通り過ぎればいいのだ。
 僕は援助交際に関してはなんにも思わない。ちょっと大学にいられるといやだなとは思うが、例えば僕の話した彼女は僕のいる大学より偏差値は10以上高い。頭と道徳は余り変わらないのだ。
 結局のところ、おそらく僕も彼女も大した人生は送れないだろう。僕はその経歴ゆえに、彼女はその人生観ゆえに。どうせ哀れな末路ならば、楽しみ、財を得たほうが得というものだ。
 愛も倫理も薄っぺらいこの時代。
 僕はメンタル系ではないけれど、道徳家の声は決して彼女に届かない。「だからあなたも生き抜いて」という本も、「プラトニック・セックス」という本も、悪戯に非行少女を正当化させている事実には返す言葉もない。
(追伸、最後の2冊の本に関しては、一部では「あんな生活をしてたって運がよければVIPになれんじゃん」という風に誤読されているという。誤読の自由もあるとはいうが、ねえ)
男色の罪

なぜだ!

 初めに断っておくと、僕はノンケであるが、どういう訳か衆道の人だと思われることがよくある。
 あ、ちなみにこの項のタイトルが「男色の罪」であるのは言葉のアヤという奴であり決して同性愛差別をしている訳じゃありませんので御理解あれ。世間じゃ未だにタブー視されてんじゃん。
 僕がそういう人に思われる要因は…自分でもはっきりと分析することは結構恐ろしいので高校時代の要因に絞るが、まず第一に僕がクラスの女子全員に対して徹底的に敵対していたこと。これは文化系男子(つまり世間的にはヒヨワな外見オタク系)を蔑視する女子の姿勢を打破するいう大層な理由で始めた「階級闘争」である。
 こんな真似をして孤立を食わなかった理由が第二の理由で、常に十人規模の男子とつるんでいたこと。また彼らが運動が出来なくてね(僕だってそうだが)、悪く言えば外見オタク系だがよく言えば文学的耽美系でね。その手の男子とは相当広かった。自然高校時代に女子と口も聞かず、男子ばかりと嬉々としてつるんでいればそう思われても仕方がない。
 第三は一と二の複合系で文芸部という所属部の特性である。普通文化部は女子の巣窟なのだが、「山田のいるところ、女知らず」という格言(?)に準拠してか、男子25名/女子5名という極端な比率の部活で僕が統括し、女子批判の文章を学校の金で出していたのだ。当然マトモな女子はみんな辞めてしまい、残った人は…僕と比較的仲のよかった(それ自体エキセントリックな)方々。
 第四に文芸部読者の特性です。圧倒的にこのHPの読者は男性が多いから、或いは知らないかもしれないが、文学系な女子の中には「ボーイズラブ」という要するにホモセクシャルを題材にした小説や漫画を愛好する輩が圧倒的に多い。彼女にとって(矛盾した話であることは重々承知だが)ホモの男子とは憧れの象徴であり、一般のように唾棄すべき人ではないのだ。そこへ女子に喧嘩を売り男子の人脈を誇る変人が現れれば…ただでさえ発想の飛躍がちな中高生が飛びつくのは自明である。
 僕は文芸部では人気投票首位のモノカキで、ファンレターなどを貰うのを無情の喜びに高校生活を過ごしていたのだが、「大佐ってホモなんですか?」と女字で書かれた時は絶望し、「そうだったら嬉しい」と続いているのを見たときは死にたくなった。
 ま、とかなんとかいいつつも高校の頃に付き合っていた女の子が僕のことを好きな理由の一つが「ホモっぽかったから」というものであったことは、私生涯の秘密にする予定なので、読者各位はくれぐれも御内密に、ヨロシク。
惰眠の罪

キミたち何してる?

 ガキというのは時として妙な不健康さを自慢したりする。
 曰く、飲酒量。曰く、性体験。曰く、睡眠不足。
 今日は睡眠不足について書く。
 どうした訳か「睡眠時間が短い方が偉い」という暗黙のルールがガキ、それも小学校高学年から高校生に至るまである。本当はそれ以降もあるのだが、少なくとも表面には出ない。「他人のライフ・スタイルに干渉するのはダサい」という流行のお陰である。
 僕は遺伝上の問題、また小学校5年生の頃まで貫徹された「8時就寝法」を厳密に守っていた為、睡眠時間は相当必要とする。惰眠をむさぼる人間を一昔は「ダミアン」と悪魔化して呼んだらしいが、まさしく僕もそれで、中学から高校にかけて22時にはまず眠っていた。そのお陰で授業中に眠ったことは2回しかない。
 こうなると「あー昨日徹夜ー」とかギラついた目を輝かせながら吹聴するのを名誉としている小坊主にとっては格好の標的であり、僕個人は政治的権力(ポリティック・パワーと読むべし)という奴で直接の指弾は免れたが、同症の連中は珍獣を見るような目つきで馬鹿にされていたものだ。
 ところで、「長眠はダサい」という意味不明の中傷は、おそらく「忙しいことは偉い」というテーゼと一脈通じていると思う。即ちこういうことだ。

 「暇人=やることがない=長眠」
 「忙人=仕事がいっぱい=短眠」

 勿論、暇人からはさらに貧乏人とか無能者等というネガティブなイメージが喚起され、忙人にはヤンエグとかエリートとか云うイメージが出てくるのである。
 他にも「夜活動するのはヤバくてクール」とか「いい子ちゃんは寝てなさい」とかいった下らん夜闇礼賛主義もあるだろう。地方の進学校の進学クラスが夜に起きてたって、別に悪いことなんて何も出来ないんだけどね。精々が深夜にコンビニに行くくらいでね。
 ともあれ社会人が徹夜すれば確かにある程度は偉いのかもしれないが、しかし高校生が徹夜して、なんか重大なことでもしているのだろうか。
 大抵は僕にいわせれば、どうでもいいとまで言わないが、特段人に誇る何かをしているとも思えない。とある友人は高校3年の段階で中高5年分の彼我の睡眠時間差(1日4時間)を計算して曰く、「300日も俺の方が多く生きている」と。
 その割にはあんまり二人とも能力においてそう差があるようには思えず、事実今の経歴を見てもあんまり差があるとは思えない。

 かつての友人のある者に僕とは逆の短眠者というのがいる。
 これは強がりでもなんでもなくて、実際1日2時間も眠ればOKというこれまた特殊体質の人間だ。彼の話を聞くとそうそう彼らの誇りたる夜明かし生活もいいものじゃないことが理解できる。
濫費の罪

千円生活

 大学入って、金遣いが荒くなったなと思う。
 思えば小学生の頃、小遣いは十円単位の生活だった。当然主な購買品は駄菓子であり、百円はたけば贅沢、千円になれば自分の力では如何ともし難く親に頭を下げて出して貰うのが普通だった。
 これが中学生も2年以降になると自由に処分できる額が増えて、生活は百円単位になる。カップラーメンやスナック菓子、ジュースに古本古CDなんかが主購入品になる。ゲームセンターにもたまに行くことがある。僕の中高期は近所にそれほどなかったが、今なら100円ショップのお陰で随分威力を発揮するようになった。
 普通の人なら百円時代は中学生段階で終わり、潤沢な小遣い或いはバイト代で高校時代から千円生活に入るのだろうが、僕の場合は貧困(←経済ではなく親の発想がである)な環境にいたので小遣いは貰えず、また厳格な宗教高校にいたためバイトは出来ず、いつもピーピーいっていた。
 この時の収入は「お年玉の分割」「乞食的親戚巡り」「学食詐欺」などなどであった。故に僕の高校時代には娯楽というものがない。何故、あれだけ僕が高校時代に異常な文が長々と書けたかといえばひとえに娯楽の不足に他ならない。金なき所に楽しむ所はない。
 百円生活はその後も続き、大学1年末まで百円単位の生活だった。
 さて、この反動が大学である。
 人品卑しき我が大学では余裕で優等生となり2年生の時より日本育英会の無利子奨学金受給生となった。
 返さないといけないので、それほど優等生でもないのだが、月々5万円也が振り込まれることになった。就職できるかわからんのに無謀なことをしたもんだが、とにかく乾いたスポンジがよく水を染み込ませるように僕はそれまでの倹約家から一変浪費家となった。
 定期代で1万、諸雑費で1万、あとの3万は任意である。大体、1日に千円使って割に合う。千円生活へデビューである。
 こうなると便利なもので僕の生活レベルでは大抵1日で欲しい物は買えるのである。よしんば無理でも3日何も買わなければ購買欲は収まる。
 高校の頃ロクに行けなかったゲーセンもファミレスも何の痛痒もなくいける。服も装飾品も雑誌も、買って生活に困ることはない。なんて素晴らしいこと。VIVA、千円生活。週明けに5000円何の気なしに卸して週末には使っちゃう。ほんの2年前には想像も出来なかった世界。裕福なことはいいものだ。

 ところが、ね。
 ここで危惧するのは将来レベルアップできるかということ。
 まさか百円生活に戻ることはないと思うけど、万円生活。たぶん無理だろうな。自分の技量や才能からいってもそこまで上り詰めるのは無理だろう。世の中には実際、万円生活を送る人が相当数いるんだろうけど、就職さえおぼつかない身としてはねえ。
 こうなったら宝くじでも買うかァ?
不助の罪

席を譲ろう!

 ここでいう「不助」とは読んで字の如く助けるべき人を助けないことである。と、いっても今回は、事故や病気で倒れてたり川や池でおぼれているなんて瀕死のケースではなく、もっと身近な「電車の座席」について考えてみたい。つまり譲られてしかるべきの方に席を譲るかどうか、である。
 仮にも僕は良識人(を目指すもの)であるからして、取り立てて偽悪趣味を気取るようなことはしない。また偽善趣味もとりあえずはないものと自負(←ホントかァ?)しているので、要は心の裁量に完全に任せている。
 さてその僕の心の倫理大系はどう判定するか。
 JRの列車内に例示されている「妊婦・老人・障害者・子供」を考えてみよう。

 まず、妊婦。
 これは最優先事項である。
 僕の座っているのが普通席であろうと、電車がラッシュであったとしても譲る。これは別に根拠はないのだが心に硬く決めている。なんせ新しく生まれてくる命を抱いているわけで、偽善チックな話ではあるが、僕の心は「さっさと立て」というのである。
 ところが、難しいのは元々太った女性でこれは判定が難しい。僕は2度ほどフライングをしたことがある。いやあ、みっともないね、これは。でも太った女性が座りそうな目でこっちを見れば譲らないわけには行かない。きまり悪いが胎児の発育のため、このくらいのリスクを負うのが社会の先輩たる義務だろう。

 次に老人。
 優先席に僕が座ってる、なんて珍しいときには問答無用で譲る。普通席の場合、ラッシュの時は断固として譲らない。足腰が弱く、障害者状態のときは別である。
 何故譲らぬかといえばラッシュ時は弱肉強食の常態と心得ており、そもそもラッシュ時の老人は反復継続して乗る場合が多い。多分、勤め人じゃないかな、そんなに譲っていたらキリがないし、向こうも期待していないだろう。
 ラッシュでもないが、混んでいる場合はどうするか、僕は相手の顔を見て決める。要は感謝されそうな人には譲るのである。威張り腐って当然の如く座るような奴や逆に怒り出すような(過去に数名いた。尤も、怒りのベクトルは何故か僕ではなくその妻に向けられることが多いのだが)勘違いジジイ、また絶対に固辞して座らないような奴に譲るのは馬鹿げている。
 ま、大抵は礼を言う常人であるから云いのだが。

 障害者、肢体不自由なら譲ります。これは足腰の弱くなった老人も含みます。これはラッシュであろうと原則譲ります。ラッシュ時に肢体不自由な方は見たことありませんが。
 精神の方に問題のある奴は打って変わって絶対に譲りません。あ、席が空いて隣に座ってきたら退避します。これはナイフ等を恐れてではなく、むしろ涎や鼻水を恐れてです。昔、何を興奮したのか、隣のOLに鼻水を手にとってなすりつけやがった奴がいたからね。ちょっとしたトラブルになったが、あのスーツは着れないだろうな。

 ガキ、こんなのには絶対に譲りません。
 昔、僕は家族旅行で疲れきってしまい、電車の床に横になるほどのことがあって、席をオバサンに譲って貰ったことがあったんです。だから誰かに譲ろうとは思ってるんだけど、電車のガキってどいつもこいつも小生意気でうっさいからねえ(携帯電話の普及で一人でもうるさい)。
 どこかに床で眠っているガキいない? 即刻譲るのだが。
背教の罪

僕も本当は…

 僕は「とりあえず仏教徒」である。
 一応宗教都市に生を受け、仏教系列の学校に中高大と通っているから同世代の人間に比べれば知っているかもしれないが、ちょっとかじった人間、または敬虔な信者に比べれば無知である。ブッダの生涯については手塚治虫の漫画の域を出ないし、その後の仏教団がどうなったのかとかどのような神仏がどのような家庭で流入したのかとか全く知らない。
 ただ、門前町の生まれということでそういう雰囲気は好きである。参道はどこも似た風情があるが、そういうのがたまらなく好きなのである。京都や奈良に初めて行ったのは中学の修学旅行だが、妙に懐かしさを覚えたことがある。
 そういう訳で仏教のことはまったく知ろうとは思わないが、因縁というか仏恩はある。もし日本で宗教戦争があれば僕は当然仏教軍に従軍して、おそらく敗北・戦死するだろう。
 ここで背教の罪である。我が家はもうやらないが昔はクリスマスも祝っていた手前、大声ではいえないが、仏教系の学校から基督教系の学校に行くとはどんなもんかなとは思う。尤も僕だって仏教という点では同じであるが中高と大学では真言と禅という違う宗派であるので批判資格は弱まるが、疑問は残る。
 そのことを訊いてみると彼は史学専攻だったので「基督教は先祖に申し訳ない宗教だね」と笑っていた。一応、背教だということはわかっているらしい。またある友人は「だって仏教学校って馬鹿が多いじゃん。宗教にこだわってブランドの高い一流大学を逃す手はないよ」と云った。これも正論である。悔しいが。
 ただどうせ背教したのなら、僕はある程度風情に染まって欲しいと思う。高校のとき、仏教校の生徒のくせに徹底的に仏式を拒絶し、関連行事はすべて休む奴がいた。別に校則で仏教徒に入学者を限定しているわけではないので構わないが、どうせ無宗教な社会のこと、大学で当局主催で洗脳をすることなどありえない。社会の道徳装置と化した希釈宗教、色々感じてみるのも一興かと思う。
 ちなみに矛盾を感じるかもしれないが、僕の葬式スタイルは遺族の任意だが坊主だけは絶対に呼ばないこと。現在個人的に知る僧侶はいない以上、僕の財産は家族・一族・少々の友人のために存在し、決して死後出し抜けに現れる面識なき、宗教家と名乗る俗人の為にあるのではない。よって戒名なども不要である。
 僕は仏教を信仰しているわけではない。仏教の雰囲気、自分で勝手に解釈した仏教というイメージに心酔しているのである。この点、新興宗教と全く代わりがない。
 僕は「とりあえず仏教徒」である点を死後も貫徹するつもりだ。
誣告の罪

痴漢にされないために

 「誣告」とは「ぶこく」と読む。意味はありもしないことをあるといって人を陥れようとすること。刑法にもちゃんと「誣告罪」というのがありました。最近の法文平仮名化の刑法改正で難解すぎるという訳で「虚偽告訴罪」になりました。意味はそんなところだ。
 最近、僕の使っている駅でちょっとした事件が新聞を賑わせた。話題としてもホットな痴漢問題である。痴漢糾弾のキャンペーンが激化するに及んで、その逆である冤罪が急激に社会問題化したのである。通例は疑われただけで社会的身分を抹殺されるので、問題の根は深く、小遣い稼ぎの美人局なども暗躍していると聞く。
 舞台は日本一治安の悪いことで知られるJという路線のNという駅だ。要は痴漢と疑われた男が裁判で無罪となり、逆に自分の名誉と家庭と職場を破壊した女子高生に対し損害賠償を請求したという事件である。
 何が情けないといって、女子高生が彼を痴漢だと名指しした理由が「そういう顔をしていたから」だというもの。ああ、近代警察はどこにいるのだ? 担当検事は何をしていたのか? そんな薄弱な理由で裁判官だけが正気を保っていたのは僥倖といえる。
 「女子高生は痴漢のショックで家から出られなくなり」等と新聞は同情的に書き、両親は我が娘の正当性を主張している。だが職を奪われた方はどうだ。たかだかそういう身なりでいたというだけで、名指しされて、職を奪われた男は? 女子高生には未来がある。美人局業界では未来はないかもしれないが、男にはこれからもう以前以上の生活を営むことは難しい。
 鉄道乗客研究所でも書いたが、僕はおそらく発生しなかった痴漢事件を目撃している。その時、かなりの確率でありもしない事件をあったと証言した婦人活動家風のオバサンがいた。
 一体、これでは公権力を使った無法の是認ではないか。罪刑法定主義は一体どこに行ってしまったというのか? 犯人にみたいな顔だから? 冗談じゃない!
 一頃、セクハラ問題が浮上したとき、「モテル奴がやったなら、セクハラ発言も歓迎される」という身も蓋もない、学生の身分から言えば首肯されるテーゼが広まった。ポルノのシチュエーションではないが、カッコいい奴の方が疑われないのは確実である。
 と、すれば外見オタク系の僕のこと。
 髪を切り、金に染め、ピアスをし、肌を焼き、ブランドを買い、ジーンズで決め、サングラスをし、ギターを背負い、パンクになり、………とにかくキリがない!
虚言の罪

優しいかもしれんが、迷惑だ

 テレビの2時間ドラマなんて、本気になって見るものじゃない。ありえないとかなんとかむきになって抗弁するだけ、自分の品位が落ちようというものである。偶然に頼り過ぎ、とか警察が無能すぎ、とか観光のPRをし過ぎとかいうものである。
 おっと、今回は直接2時間ドラマとは関係ない。
 昔ね、2時間刑事ドラマでこんなシーンがあった。
 愛するものを守るため、偽証に偽証を重ねる女。刑事が苦労の末に調べていくと女は元々そういう虚言症があり、昔は常習詐欺師であったという。刑事は後にその女と妙な仲になるのだが、そのせいか刑事は後輩の巡査にこういうことをハードボイルドっぽく言う。
 「嘘をつく人は優しい人だ。相手を楽しませようとして嘘をつく。  その嘘を悟られないために蟻地獄に落ちていく。
 つらい現実から逃れるための優しい嘘、誰が責められる?」

 恋は盲目とはこのことである。
 確かに相手に好かれようとして嘘を重ねる奴は多々いる。僕は昔から精神的情緒的に問題のある知己が大量にいるので解るのだが、友人の少ない寂しがり屋には沈黙を恐れてなのか、矢鱈と嘘を連発する輩が非常に多い。
 しかもそいつらは大抵、嘘の才能がないから始末が悪い。
 虚言症というのは殆どビョーキだから仕方のない点があるんだけど、彼らは本当によく解る嘘をつく。
 曰く「外国人と今、交際している(どこで出会ったんだよ、と聞くとナンパと答える。学校で女の子と喋ってるところ、見たことない)」
 曰く「今日学校に来る途中、ゴジラの着ぐるみを着た奴にあった(昨日は電波系じゃなかった?)」曰く「高校の同級生にコンビニ強盗をした奴がいる(そう云う話は前にもあったよ、少年院出身かい?)」
 「UFOと通信し、彼らの星に連れて行ってもらった(それはそれは…)」などなどなど。
 いずれもちょっとでも深く尋ねるとすぐにボロが出るので嘘だとわかる。そういうことをいうのはいずれんも友人が少ない者と確定している。こっちに好かれようと、楽しませようとして言っているのはよく解る。要は自分に注目して欲しいのだ。(事実、相手にもされなくなると訳もなく相手の嫌がると解ってることを(致命傷にならに程度に)云ったりもする。これは大抵相手への攻撃ではなく、相手の嫌がるようなことを何度も勧めたりするのである)。
 なるほど、そういう哀れ極まる彼らは救済しなければいけないのかもしれない。しかしどのようにして? 相手を突然抱きしめろとでも?(事実そう主張する教育関係者は多い) 冗談じゃない!
 嘘をつきたがる奴は勝手にせよ。
 そうして将来パンクするがいい。優しい人? そうかもしれない。確かに自分に注目を集めようと嘘を続けるものは、大抵善人過ぎるほどに善人で、それ故に人に嫌われる。一軒逆説だが、人生実務を見ればお分かりの通りだ。
 ただ、気になるのは彼らの口ぶりだ。その明々白々なる嘘を彼らが嘘と解って侮蔑されているのならいい。問題は真実だと妄想している場合だ。僕の知人である精神科加療者の中でもそういうことをいう奴が少数いて、こいつはやばいんじゃないかと思うがね。
誹謗の罪

情けなきメール戦争

 大学に入ってすっかり口喧嘩をしなくなってしまった。
 これは人間関係の密度が薄くなったのか、みんな大人であるせいか(精神年齢から考えればとてもとても…)大学のチーマーはすぐに人を便所に呼びたがる性癖があるからか、理由は解らない。解るのは大学では口喧嘩が存在しないということだけである。
 ならばどのような喧嘩があるか、口喧嘩も殴りあいもまあない。
 底辺大学の常として理由もなくチーマーが「便所こいやコラァ」と来ることはあるが逃げればいいだけの話である。
 さて、ではどのような喧嘩が現時点であるかといえばメール戦争である。これ、知らない人同士がやるととんでもないことに発展しがちなので、当然ここでのメール戦争というのは知っている者同士でやっているのである。高校の同窓生と。
 当然、メールというとりあえずはパンチの届かないメディアなので、収拾のつかないレベルにまで喧嘩はエスカレートする。高校時代は僕に臣従していたようなのが(言うことはよく聞いた)ある日突然、「おい、三流大学のボケ野郎」とメールでよこしてくる。
 これを皮切りに送れば送るだけ、嫌味倍増のエキサイティングなゲームが楽しめる。だが勿論、楽しめるというのは皮肉が8割で、実際見ているほうは楽しいどころか不愉快千万で効果的な反撃文を送り返しては悦にいるという不毛な戦争の繰り返しなのだ。
 だけどねえ、どうしても学歴低さの限界はあるよ。こっちは底辺校で同窓生は錚々たる一流大学だから、最後には「そんなことを云ったってお前はどこに就職できんだよ。この五流大学」と来れば、こっちは「何を…何を…何を…」と脱力して白旗を涙で濡らすしかない。困ったことである。A大学やらT大学から昔はきたもんだ。K大の奴なんてこっちのアドを受信拒否してるらしいからね。
 一度、僕は弱い者イジメをせんと試み、僕よりレベルの低い大学に行ってる奴に「この底辺大学が、偉そうな口を叩くな」と喧嘩のついでに送ったことがあるが、彼は大人なので「お前だって似た様なもんだろ」の一言でやられてしまった。すぐ謝罪文を書いたよ。
 最後に傑作な罵倒メールを紹介しよう。私信不可侵の原則があるので大意だけを僕が改変して述べる。
 「よ、山田。お前の将来なんてもう見えてんじゃねえか、将来は乞食かホームレスだろ? お前の大学じゃ、それがいいところだな。俺はおめえの年収を3日で稼げる。食に困ったらカップラーメンを半分やるから、皿もってこい」
 僕はこれを見た瞬間、激怒してねえ。
 メールは破るわけには行かないから捨てちゃったよ。
 惜しいことしたなあ、彼からの謝罪文はまだ持ってんだけどね。
漏洩の罪

スピーカー利用法

 どこにでもいるのが、「ラウドリイ・スピーカー」な奴。
 話がうるさい奴という意味ではなく、ここでは何でもバラす奴、のことだ。これも一種のビョーキだと僕は思うけどねえ。情報屋を気取ってるのか、はたまた自分をVIPに見せたいのか、とにかくせっせとしょうもない情報を集めてはバラしまくる。
 小学生のうちならガキの一言で済むが、高校生でこれっていうのはどうだかね。大学生の今、流石にそういう手合はいない(?)が、いなくて幸いだよ。
 困るのは、こういう手合は情報がないときは捏造する特技なぞを持ってる上、密告屋を兼業していることもあるという点だ。
 ただし以上に述べたような、堂々と営業しているような奴はまだいいのかもしれない。問題は普段は温和な相談者のような顔をして、背後から情報のナイフで突き刺してくるような奴だ。
 特に女子に多いんじゃないかな? ま、男子でも僕の属している(または属していた)運動ダメなナヨった文化系男子集団にはこういう手合が散見される。
 僕は一度、この手のスピーカーが大好きな恋愛がらみで後ろから刺されたことがあるからね。以前にもちょっとした会合での内輪話が漏れているので、なんだか仲間内に卑劣なスピーカーがいるのは解ったんだけどね。
 いぶりだすのは簡単な話で、容疑者個人まで特定できたらそいつに出鱈目な話を流せばいい(その時は「誰にも云うな」と念を押すのを忘れないこと)。その話が廻ってきたらそいつの犯行だと解る。この場合は2日で入ってきたね。
 この後は、まあぶん殴るのが正解なんだけど、世の中には無駄な仕事はないというし、彼は利用させてもらった。「100%外れる占い師は、それはそれで使い道がある」って格言があるけど、逆転の発想だね。
 即ち、なにか暗にバラしたい話があれば彼を通せばいい訳だ。
 情報屋とか密告者と云った信頼を失うような仇名や怒った対象者から殴られるような危険は彼が背負ってくれる。また噂というのは時としてありもしないことを真実にすることもある(別にペルソナのやりすぎではないぞ。喧嘩の噂が喧嘩を招くとかそう云うレベルの話だよ!)。
 恐ろしいかな、進学校。一部では確かにこのような心理戦の勉強が繰り広げられていました。みなさん、くれぐれも進学校の出身者には無闇に喧嘩を売ってはいけません。彼らはそれこそ小学校のみぎりよりそういう悪い勉強でも優等生ですからね。
(3年間、殴り合いの発生しない学校ですよ。
 どうやって対立を解消していると思ってんですか!)
自殺の罪

僕の自殺論

 とりあえず所謂メンタル系HPの是非については弁じない。
 ここでは自殺の是非について勝手に論じる(ま、助役に比べれば論にもあたわないが、それを云えばこのHPが崩壊してしまう)。僕がここで何を書こうと死ぬ人は死ぬだろうし、死のうとする人は死のうとするだろう。
 んで、僕はやぱり自殺はダメだと思うね。
 僕はこの眼で自殺を試みた人を何人か見たことがある。皆々僕と同年代だ。
 僕はどうしようもなく嫌悪感を覚えたね。
 だから自殺はいけないと思う。「僕に」嫌悪感を覚えさせたからではない。「関係者に」嫌悪感を覚えさせるからだ。僕は別段道徳家ではないので、「お父さんお母さんにすまないから」とか「神様仏様に貰った命を」とかいうつもりはない。
 どこまで行っても、他人に迷惑をかけるからいけないと思う。
 まず自殺すりゃあ死体収容とか大変でしょ? 誰もそんな仕事はやりたくないよ。それに遺族が嫌な気分になるでしょ? 悲しむんじゃない。悲しみはいずれ消えるけど、嫌悪感というのは長く残る。友人知人が例えば将来、昔のアルバムを見たとき、自分と全く関係のない動機で自殺されたとしても、その人の永遠に記憶に残る。
 そして思い出すたびに後味の悪い思いに駆られるのだ。
 これほど他人に迷惑をかけることはすんなと思う。
 同じような理由で自殺未遂もよくないね。未遂自体が目的だとしても、うっかり成功しちゃうってことがあるのだよ。そういう人の話を聞くと「勝手にやっちゃう、意識では止まらない」ってみんないうから、まったく提言の有効性はないのかもしれない。
 けれども例えば昨今流行の「なんで○○しちゃいけないの?」の自殺編には僕はそう答えたい。



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