新刊文庫本 |
読書黎明期の無知
記憶が正しければ中学生の時の小遣いは2000円だったような気がする。そもそも母親はとある教育評論家に帰依しており、その教育評論家が「子供に現金は持たすな」と書いてあることに従い、まず現金は持たせない主義だったのだが、何の気紛れかそれだけは給付してくれたのだ(もっとも中学3年以降大学入学まで殆ど未払だったが)。
さて中学一年当時、僕は初めて文庫の小説の面白さに目覚めた。それ以前だって文字本は読んでいたが大抵は児童向けの本で大人も読むような文庫本は読んだことがなかったのだ。
当時ハマっていたのは赤川次郎の「三毛猫」シリーズと、何だか最近はトンデモ扱いされてる門田泰明の「黒豹」シリーズである。まったくの中坊趣味ではあるが、僕らはこれを本屋で立ち読みで、数冊読破していたのだから馬鹿らしい。
まあそういう具合に読みまくっていると、自宅でくつろぎながら読みたくなるのが人情というもの、僕はしばしば小遣を使い、また親戚の某金満家が入学祝いにくれた図書券5000円分(入学祝の現金は没収されたが、この図書券だけは下付された)を使っては、定価でその本を買い続けた。
図書館は? という当然の疑問が聞こえそうだが、当時僕は小学校の過保護な自転車禁止校則を馬鹿正直に守っており、その後遺症から図書館が非常に遠く感じられたのだ。今、考えると大したことない距離であり、事実中学2年時は毎日のように通っていた。
ともあれ中学1年の1年間でなんと購入総冊数は30冊を超えることからその熱中振りは解るだろう。年間収入の半分を僕は書籍代に当てていたのだ。当時は文庫本の平均価格が500円という、今と比べるとまあいい時代だった。
やがて、中学1年の冬に僕は近所に古本屋が出来たことを知る。今流行のような大手古本屋ではなく個人の零細系の店ではあったがそこには今まで生活を切り詰めて買った本が、1冊100円(特に赤川次郎の本はどこも古本屋ではだぶついているのだ)という価格で売られていた。一話完結のシリーズものは大抵安くなっている。
僕はこれを見て大いに失望し、そのショックからしばらく本嫌いにさえなったのである。
そしてそのショックを克服した時、僕は古本屋というメディアを知り、友人などから新しい本の世界について沢山の話を聞き、もう三毛猫も黒豹もまったく読まなくなった。
中学2年の春。
僕の蔵書は文庫文字本ばかり500冊ほどのレベルだが、今でも奥のほうに三毛猫と黒豹30冊がある。それ以外に定価で買った本は確実に10冊もないはずだ。 ▲ |
古本文庫本 |
消費者の都合と文化発展
僕の蔵書は文庫文字本ばかり500冊程度(ただこの数字は2年前のものであり、いまはもう100冊以上は読んでると思う)だが定価買いした本は1割にも満たない。
残り8割は古本屋、内訳は高校付近・大学前・ゲーセン街・通学駅のジャンクションにあるという理由でブックオフが圧倒的。次は家の近くにあるブックアゲインという店のも多い。あとは復活書房が十数冊。残りは零細系や露天の古本市などで買っている。
そして所蔵本の2割は助役からの下賜本である。助役はよく本をくれるのだが、ありがたいことである。大体僕の本棚で立派で綺麗で高級な本があれば間違いなく助役の下賜本である。僕は彼の弟子筋なのだがそれに報いてるかといえば、いやはや。
さて、助役にこの話をすると彼はいきなり「う〜む、それは全く日本の出版業界に貢献していないねえ」と云われた。あくまで穏健な彼のことだから「古本屋業界も出版文化を担う一翼であることは否定しないが」とフォローをしたが、彼は本当に気に入った作家の本は手元不如意でもなければ定価買いするそうだ。
なるほど、そう考えると数十冊の本を持っていても僕は筒井康隆にも村上春樹にも龍にも景山民夫にも別冊宝島編集部にも呉智英もロバート・B・パーカーも、ともかく随分お世話になっていながら1円も彼らには支払っていないことになる。
この点、重篤な図書館ユーザーも同じような身分なのだが、彼らは「納税者」という意味で負担はしており、なにぶん所有権までは保持していないのだ。そう考えると若干すまないような気にもなってくる。
最近コミック作家を中心に特に新古書店に対する批判が集まっている。確かに廉価で買える消費者としてはありがたいが、作り手の側としてはたまらないだろう。同じ廉価で享受できるものでも例えばCDレンタルなどは禁止期間が明示されており、レンタル自体での収入も大きいのだが、書籍には一般にそういう縛りがない。
僕が普段読んでいるような本が文化的かどうかはともかく、(前述した作家の本はあくまで誰でも知ってそうな例としてあげただけで、もっとしょうもないものを随分と読んでいる)出版文化の為にも、たまには新刊文庫本でも買おうかと思う。
でも最近の文庫本って高いんだよなあ、特に海外。
800円なんてざらだもんなあ、なんとかしてほしいよ。
追記;最近はあまりブックオフに行かない。
何故かといえば「ヘビーユーザーの清水邦明です」
とかいう店内BGMが不愉快過ぎるゆえである。
僕は絶対にあそこではバイトできない
昨日2chをみたら創価企業とか書いてあったし。 ▲ |
週刊誌 |
柔らかいのが好き
最近ブックオフに行っていない。理由は店員の態度が不快な点と (マニュアル接待の形骸ここに極まれりである)店内の宣伝BGMが嫌いだからである。
では帰りの電車、3時間はどうやって過ごしているかというと、ストリートでホームレスが売っている捨て週刊誌を買ってくるのである。徹底して日本の出版社に金を落としたくない口らしい。全ては僕の貧困が悪いのである。
1冊150円、大体片道で全部読んでしまう。
捨て週刊誌とはいっても別に僕の知る限りそう汚いものはない。ホームレスも一回の利益よりリピーターを重視しているのか、僕は数十回利用しているが、一度も染みや匂いのついた触るのも不潔な本には当たったことがない。網棚がメインなんだろう。
ちなみに僕は自分でゴミ箱を開けて取り出したことはない。
それは堅気がやっちゃいけない気がする。
それはともかく僕が一体どんな週刊誌を読んでいるかというと、柔らかい系の、そこはかとなくエロ系記事があるような、「実話」「大衆」「アサ芸」である。人間堕落すれば堕落するものである。最もそれ以前も通学文庫本は、大衆的な毒にも薬にもならない本が殆どだったのだけれども。
とはいっても流石に混雑した車内でエロ記事を読むような度胸は僕にはない。貧乏ッちいオヤジがよく堂々とヌードグラビアを車内で掲げているが、それは僕の倫理に反する。僕は地方都市に住んでいるので終点駅にちかづくとガラガラになるのだが、ならエロ記事を読むかというと、実はあんまり読まない。
別に見栄を張っているわけでもなくて、座れるようになると僕は大概クロスワードパズルをやるからだ。グラビアも一瞥で済ます身としては況やエロ記事を丁寧に読むようなことはしない。ゆっくり座れる最後の10分間のクロスワードはなかなかにいい(夕刊でもこれは同じ、ただナンプレの場合は立ちながら30分かける)。
では何故、わざわざロクに読みもしないエロ記事付きの週刊誌を買うかというと、おそらく子供の頃の体験に遡る。今ではすっかり性淡白になってしまったが、最盛期は小学校の頃で思春期が集中的にきたようなものだ。
なんせ暇さえあれば本屋や悪友宅でエロ本を見に行ったものだ。そのくせ気が小さいから店員や客がくると本を伏せて立ち去る。エロ本の棚の前に立つ勇気がないから、週刊誌のコーナーに立ってそういう柔らかめの雑誌のグラビアを凝視するのである。
勿論、人がくると時事問題の文字ページへ行くのである。これは本屋でなくてもコンビにでも出来た。クラスメートに見つかると、とても恥かしいので入口付近という週刊誌置場のロケーションもよかった。ガラス張りだからすぐにやってくる敵を発見できるのだ(発見したら、すぐにジャンプに持ち変えるのだ)。
そんな過去があるとどうも同じ額出すなら、と今ではロクに興奮しないにも関わらず当時の僕を慰霊するために買ってしまうのだ。
先日、本屋で小学生がグラビアを見ていた。僕がくると突然アフガン軍事情勢にページを移した。小刻みに震えた肩がなんとはなく可愛かった。
いずこも同じだなあと、僕は苦笑して立ち去った。
帰り際、彼は別の雑誌のグラビアをせっせと見ていた。 ▲
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ホビー誌 |
無趣味無教養な僕
ここでのホビー雑誌とは、週刊誌を除く何らかの目的性を持った雑誌と定義する。カー雑誌だろうとスポーツ誌だろうと音楽雑誌でもエロ本でも園芸誌でも育児誌でも資格雑誌でも転職雑誌でもなんでも含ませる。
本屋に行くとあまりの量の雑誌に驚く、およそ他人が興味の引くところ全てのジャンルを網羅しているといってもいいだろう。それに加えて、例えば音楽雑誌というジャンルの中でもロックやら演歌やらクラシックやらテクノやらの細分化された雑誌があり、まさに日本は雑誌天国といえよう。
勿論、これだけの雑誌が堂々と店頭に並べられているということはそれに足るだけの顧客がいるということでありこれにはまったく素直に感心する。日本の文化程度は高いだろう、たぶん。
僕は無趣味無教養な貧乏人なので、基本的に読み捨てである雑誌というものは殆ど買わない。
ただ子供の頃はそれでも幾つか買っており、例えば幼稚園で取り配布していたキンダーブックは毎回楽しみにしていたし、小学校も入学直後は親も小学館の雑誌「小学一年生」を買っていた。1年も親が買い続けなかったが。
その後、進研ゼミ(チャレンジ、当時は福武書店が発行)は市販本でないから厳密に雑誌といえるのか怪しいものだが、あれを月刊(或いは隔週誌)の雑誌と見れば、これは小学校後半から中学2年にかけて確かに取っていた。投稿が載ったような気も、しないこともない。教育熱心な親だったから勉強臭のするものに弱いのだ。
そういえば中学の時にCDつきの「ザ・クラシック」は貧乏な癖に初めから数えて4回は買っていた。いまはどこにあるのやら杳として行方知れず。文芸部の同期相棒は雑誌終結まで全巻そろえたというから大したものだ。第一巻チャイコフスキーを持っていた奴はたくさんいたがあまりそういう人は知らない。彼は教養人だったね、確かに。
あとパソコン雑誌も「遊ぶWINDOWS」なるエロ系が何気に入ってるCD−ROM2枚つきで780円の雑誌も大体半年ばかり買っていた記憶がある。
と、僕が読んできた雑誌は以下の通りだが、ではリアルタイムで読んでいる雑誌がなんなのかといえば、これが特にないのである。前述したとおり無趣味なる貧乏人には月500円の出費でもとりあえずは痛い。
敢えて言えばクロスワード誌である。高校の頃は好事家の友人が買って仲間内でわいわいやったり(仲間内で単純クロスワードなら一番出来た)結局放置したのを勝手に揃えたりした。その楽しみは知っていたが、自分で買ってやるようになったのは大学入ってから後である。
電車など退屈な時に一人でやる。片道3時間(電車の中にいるのは2時間半)は本当にあっという間だ。これに気をよくしてちょくちょく楽しんでいる。1冊クリアーというのもよくやる。
ちなみに正解者プレゼントは一度も応募したことがない。
当たるわけないからね、あんなもんは。 ▲ |
文芸雑誌 |
実は活字嫌い?
文芸部にいたくせに何気に文芸雑誌というのは一度も読んだことがない。あ、ちなみに文芸雑誌というのは「文藝春秋」とか「小説宝石」とかあんまり知らないけど、そういう小説ばかり入っている雑誌のこと。文芸部で発行した本は同人誌のコーナーに書いてある。
本好きなのに文芸雑誌を読まないのは一つには高い(500円以上は大抵高い)、一つには重い(電車通学で読むには重い)、一つには連載が大っ嫌い(非常に気になる性格)、関心のない作家の文章は読まない(食わず嫌いとも云う)、そのくせ一人の作家に拘泥しない (この作家が書いてるから一冊買うなんてことはない)、手元に残らない形では読みたくない(あまり図書館を使わないのと同じ)など。
要するに文芸雑誌を1冊買うなら、その金で好きな作家の文庫本を1冊買った方が個人的にはいいと思っているんですね。
と、いうよりたまにいるのだけれど、本屋でそこに巣食うあまりの活字の量に眩暈を起こすことは僕はないんだけど、文芸雑誌1冊を手に取るとそんな感じがしないこともない。見ただけでお腹一杯という奴である。
そう考えると、僕はそれほど小説や文章が好きじゃないかもしれないね。本当に文章メディアが好きな人は四の五の理屈をつけずに本能の赴くままに文字が詰まった雑誌を買っていくでしょうし。
僕は大学で「よくそんな文字のつまった本を読む気がするな」といわれるのが不思議で仕方ないんですが(学術書じゃなくてただの大衆系文庫本なのに)、やはり文芸雑誌を読んでいる人には僕自身もそういいたくなります。個人的に多段組の小説は読まないね。
結局何が云いたいのかよく解りませんが、要するに僕は文芸雑誌を買うほど本が好きなわけでもないし、文芸雑誌を愛読している人は本当に尊敬しますね。 ▲
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漫画雑誌 |
買ったことがない
これは何気に皮相的な自慢なのだが、僕は実は漫画雑誌を一度も買ったことがない。これは新品中古を問わないし、少年誌青年誌の別も問わない。
単行本ならある。ゴーマニズム宣言は新旧特別本あわせて10冊は持っているし、何故か寄生獣とハートカクテルは全部。特に後者はなぜか「わたせせいぞうコレクション」を6冊も持っている。
講談社+α文庫版の「ピーナッツ」(知らない人が案外多いが、スヌーピーの出てくるあれである)は数冊持っていたのだが大学の仲間に貸したら返ってこない。大学の連中の貸借間のなさは特筆的で、いまのところ債権が8冊分もある。まあ債務本も5冊あるから大きなことは言えないが(それにノート債務なぞ数十講義分くらいあるから余り強く出れない)。
まあこの単行本の量にしても極めて少ないだろう。今や古本屋では1冊100円で大量に手に入るので(事実前述の本はゴーマニズム除いて百円本)、買おうと思えばいくらでも買えるが、漫画本は読み終わるのが早すぎて電車の暇潰しにならず、結局何も買わないまま今に至っているのである。
ともあれ漫画雑誌の話に戻るが僕は週刊少年ジャンプが黄金期の頃に小学生を送って、マガジン興隆期に高校生活を送ってきたが、その間一冊も漫画雑誌は買わなかった。理由は親の思想による。 だからリアルタイム漫画の話をされても僕は全くついていけない。
これは当時もそうだったし、今もそうだ。
だが単行本化されてしばらくした本なら会話が通じるし、同世代(僕は現在21だが)の連中とかつての懐かしい漫画の話をする時は、殆ど違和感なく会話が出来る。そういう意味ではブックオフ等の立読み自由の古本屋というのはありがたいものである。
先の文芸雑誌で僕は連載というものが嫌いだと書いたが、だから今更漫画雑誌を買おうと思わないのはそこに原因があるのである。あれは一度買い始めるとやめられないものらしいが、そもそも中毒にさえならなければ漫画雑誌を手にとっても解らないのである。
電車の網棚に今でもたまに落ちていて、その時は読むが一話完結でもない限り(最近は殆どないね)はたしてどういう話か解らないので面白くないのである。例えそれが初めの方の単行本を読了した後でも、その近接がわからないと面白くない。
小学校の頃と違って、漫画雑誌読んでないから寂しい思いをすることもない。また最近は幸いにも(BJのリブレイクやコミック・バンチの潮流から解るように)古典漫画の再注目がなされている。
これは僕にとっていい時代がきたと思う。 ▲ |
ハードカバー |
最新作の希求性
一般に文字本の話題作というものはハードカバーの本になって、世間にお目見えになるのが普通である。百万部とか何十万部とか、そういう類型もハードカバーの売れ行きで計算される。そしてその種が尽きた数年後(最近は随分短縮されているが)、新書になるか或いは直接文庫になる。
勿論、文庫書下ろしとかノベルズで登場という本もたくさんあるが、それらはどうも薄いような気がしている。特に有名作家の文庫書下ろしというのはどうも好きになれない。
さて、ハードカバーというのはその名の通りに(文庫などに比べれば)重厚な作りで紙質や装丁もしっかりしており、当然のように重い。無論それに呼応して値段も高めで最低でも1500円から、3000円を越えるものも珍しくない。
それで、僕はこのハードカバー。定価では全く買わない。
大学の教科書などはハードカバーだろうといわれれば確かにそうであるが、僕はハードカバーというものを本の外形ではなく、中身の問題だと思っているので、一般人が買わなさそうな本は除外して考えている。
さて、何故買わないかといえば答えは簡単。高いのである。それに普段の読書は電車や退屈な講義なのだが、それに対するにはその長大さが邪魔なのだ。それに普段は100円で十分読み応えのある本が手に入る時代、その数十倍を払ってよしとするほど好きな作家はいない。
そもそも古本派にとって最新作の話などどうでもいいのだ。流行に対する反発も勿論ある。じきに古本屋に落ちてくるという考え方もある。現代は流行のめまぐるしい時代である。前述の通り話題作であれば文庫本に落ちるのと古本屋でダブって大量に100円で落ちてくるのとどちらが早いかという問題である。
要するに今すぐ読みたいという必然性がなく、待てばいいのだ。
ただハードカバーを買うことだって勿論ある。
ハード→新書→文庫といくに従い当然淘汰はあり、売れない本はハードカバーどまりというのはしばしばあることである。ここに、隠れた名作が現れる余地がある。古本屋の文庫廉価コーナー。有名作家で溢れたここに食傷を感じるとき、博打的に無名作家の小説や専門がかった本を買ってみるのも悪くない。
勿論百円で。
(そういえば文庫が出る前にハードカバーが100円落ちすること も最近は随分多くなった。そういうときは買うようにしている) ▲ |
教養新書 |
似非教養人を目指して
大学の遊び人連中を見て、その極端な馬鹿さ加減を笑いながらもさて自分はどうだろうと考える。勿論ああいう享楽的な生活を送るのは生来の性質からして到底不可能だし強行しても楽しくないだろう。
では、ということで2年の後期から教養人になろうと思い立った。
まず、残念ながら我が底辺大学の学生相手なら知識人として崇められても、他大学の法学生と拮抗しあえるような法学理論のことを深く掘り下げて理解するような頭は僕にはない。法律学の専門家として資格試験を勝ち上がる技量もないらしい。
では、幅広く世界の出来事を知れる教養人になろうと思った。
まあ教養人といっても勿論本物の意味での教養人になるのはまず不可能で、話題豊富な(しかして享楽市民には理解不能の)ただの物知りの変人で終るだろうけどそれも結構。こう考えた時に使えるのが教養新書である。
あくまで表層の、一般人が理解しうるレベルのことしか書いてないが、これをテキストに色々知っていくことにした。大学の教養課程や教職での浅く広い諸学概論もそういう視点からは十分役に立った。
さてその教養新書であるが、僕が利用するのは岩波・中公・講談社現代新書がメインである。ブルーバックスなど自然科学系は理系の初歩的知識がないから殆ど理解できず(それがなくても理解可能という建前の本でも挫折する)、社会科学も含まれる本(人口爆発やエイズの問題など)などを中心に読んでいる。
やはり新書を読むにしてもジャンルの偏りは否めず、政治経済や軍事・外交・歴史地理ばかり読んでおり、反対に経済系や自然科学の匂いがするもの(心理学も当然含む)はあまり読まないから総合的教養人を目指す身としては困ったものだ。
それでも5冊100円という古本相場は大変便利だし、ただ普通に生活しているだけでは知りえない雑学が身に付くのも嬉しい。
はっきりいって日常生活を生きていく上では知っても知らなくても全く関係のないことばかりだが、それでも毎日の通学時間やどうでもいい消化講義の最中など徐に本を取り出し、新しい知識の海を泳いでいくのは気持ちのいいことだ。
たかが一般人向けの教養新書、本物の知識教養人からは軽侮嘲笑の的たる市井人の為のインテリ気取れる書。それでも僕は今、この本に注目している。
教養新書を読むようになってから小説、特に娯楽長編は殆ど読まなくなった。気がつくのが遅いといわれそうだが、最近は助役推薦の献本以外はまず読まない。 ▲ |
岩波文庫 |
スノッブの必需品
「大学に云ったら難しい本とか読みまくれよ
なんせこの時期しかそんなもの読む時間はないから」
高校のとき、いつも雑談ばかりの国語の先生がそう云った。僕はこの言葉が妙に高校当時、頭に残っていた。その頃の相棒で文学的に極めて早熟だった読書家も、大学入学後にこの言が印象に残っていたといっていた。
大学入学後、彼は一流…とは云えないかもしれないが優秀な大学に入った。彼は遊び人との二足の草鞋で小難しい本や歴史の教科書に出てくるような古典文学を読みふけりだした。
しかるにこっちは一年当時、僕は大学の余りの馬鹿さ加減に頭のネジを完全に飛ばし、今なお「狂気の時代」と呼ばしめる文字通り狂気の時代を送っていた。おそらくはノイローゼの一種だろうが(医者やらカウンセラーなどには一度もかかってないのであくまで素人判断だが)、とにかく相当荒んだ生活を送っていた。
生来の性格ゆえ、自暴自棄といっても遊び人にもなれず、家計の状況から大学をサボることもなく、奇妙に真面目に講義は出て仲間も作っていたが、何にも展望のない生活を送っていた。
読書も退屈な通学時間に読んだが、あくまで低俗な毒にも薬にもならない娯楽小説ばかりで、時間つぶし以外の効用はなかった。
岩波を全く読まなかったのはそういうヤケな気分もあるが、他の理由としては金がなく、古本屋には殆ど出回らない特徴があった。 確かに歴史的な古典は結構読んでいた。岩波に収録されているかは知らないが、日本の近現代文学の本(芥川・太宰・夏目など)は主に新潮文庫で読んだ。そう考えるとおそらくは岩波という敷居の高さも遠慮の理由だったかもしれない。
そういう訳で殆ど大学1年から2年の半ばにかけては岩波は殆ど読まなかった。読んだ本は「三銃士(上・下)」「ガリア戦記」「ソクラテスの弁明・クリトン」、おそらくはこれだけだと思う。もう数冊あったかもしれないが、どの道たいした量ではない。
この底辺大学ノイローゼは大学2年にとある女性と正式に交際をすることによって諦観しその恋愛が終る頃には達観し、教養人志願になる頃には払拭されていた。
そして教養新書の傍らに再び岩波文庫が出てくるのだ。
手にとったのは大学3年以降だが、これが注意深く本を選べば、なかなか面白いものであることに気がついた。平易な文で書かれていることと、興味関心のあるものならばという前提付きだが、今ではしばしば大学図書館などで借り受けて読んでいる。
相も変らぬ教養人気取りの粗悪なスノッブに過ぎないけれどそれでも岩波文庫を抱えてキャンパスを横断するのは呪詛と憎悪に満ち満ちた目つきで愚鈍極まる馬鹿学生をねめつけながら放浪していた昔よりは百万倍ましといえよう。 ▲ |
絵本 |
価格というのは一体なんで決るのであろう。
いや、別にここでは経済理論について云々するコーナーではないので厳密な答えはどうでもいいのだが、ここで問題にしたいのは、あの絵本の馬鹿高い価格だ。
勿論単純に文庫本などの文字本と比較してはいけない。
紙だって結構厚いし絵というメディアは文字とは違う。仕上がりの美しさも求めるだろうし、オールカラーであるという特徴を忘れてはいけない。
しかし、しかしだねえ。
たかだか20ページにもならない作品に2000円とか見ると、やはり我が目を疑ってしまう。中身を見ると子供向け(最近は癒し系ブームという奴の恩恵で大人向け絵本もあるが内容は似たようなものだ)らしく白い部分が異常に多い、シンプルな絵と1ページ2、3行の大したことない言葉だ。
勿論、絵本というメディアが多弁にはしってしまっては、それはそれでしょうがないような気もするが、しかしながら絵本を片っ端から見ていくと(なにせ短いから早い早い)、中にはとんでもない詐欺じゃないかと思うような酷い絵本にも巡りあえる。
詳述は避けるから是非、読者諸兄も本屋に行って欲しい。古本屋では滅多に見ないので大型書店に行くことを勧める。
こんな物でいいのなら僕も絵本作家になりたいぐらいだが、だがならなってみろといわれても無理な訳で、彼らも選び抜かれた精鋭なのであろう。しかしとてもあれが2000円もの価値ある作品とは思えない。100円で300ページとか読みまくっていると特にそう感じる。
絵を描いて全部で原稿用紙2枚に収まりそうな文書いて2000円じゃなあ、絵文が同じ場合と違う場合があるけど、いい商売だよなあと思う。
本の値段といえば僕はいつも学年初めに語学の教科書代を、60ページで2000円という法外さに怒り狂うのだが、この絵本なる奴はそれ以上な訳で結構なことである。我が両親が僕に一切絵本を買い与えず、幼稚園が定期講読している「キンダーブック」の付録絵本で代行したのもこんな理由だろう。
僕は結婚もしたくないし、自分の子供が出来るなど想像しただけでも恐ろしいことだが、もし子供が出来てしまった場合やはり絵本など一切買わないであろう(物心つき文字本が読みたいといったら遠慮なく与えるが)。
それならどうするか家人(トップページなどを書いてる人ね)が可愛い絵を書く才能が人並みにあるようなので、絵を描かせて自作絵本でも作ってやることにしよう。その結果、どんな子供に育つかは知ったことじゃありませんが。 ▲ |
児童文学書 |
読むべし
児童文学とは何か?
読んで字の如く、児童(狭義では小学校高学年から中学生を主な対象とする)が読んで理解できる文学作品である。それ以前の一般に絵本や童話と呼ばれる本はここには入らない。それらは幼年文学と呼ばれるのである。
児童文学は前述の通り文学だから文字本である。文学とは何かを定義するのは極めて重厚で難しすぎるテーマなのでここでは敢えて扱わないが、子供は子供なりに色々と考えさせる作品であることには間違いない。それゆえ一定の年齢の制約がはめられるのである。一定の主題をおく以上、ある程度の基礎知識は必要なのである。
逆にいえば、児童文学は絵本とは違って大人が読んでも全く遜色なく、感情を動かされることが出来る。それはこれらの対象年齢の子供が大人の読む大衆小説を読んで理解できるレベルにあることを考えれば解るだろう。
最近では「ハリーポッター」は児童文学だね。
と、まあ偉そうなことを云っているが僕はこの該当年齢当時、実は全く児童文学を読んだことがなかったのだ。幼少期に読んでいたのは全て図書館で母が借りてきた童話や絵本・図鑑の類で、特筆をするならズッコケ三人組は小学校5年に行く前に出てる限り読んだはずである。
では小学校5年当時何を読んでいたか。子供版であることは当然だが、勉強になる漫画をよく読んでいたつまりは漫画日本の歴史の通史と人物史編や文学作品の漫画版を図書室にあるだけ読んだ。
文字本では火の鳥伝記文庫等の歴史物や、シャーロックホームズシリーズ(子供版だが)に当時興味が非常にあった落語を読んだりもした。あとは若干文学作品の子供版も何故だか家にあった関係で読んだが、いざ書名となるとこれは殆ど記憶にない。
中学入学後はもう普通に文庫本を読んでいた。ちなみに何故だかファンタジー小説や宗田理には行かなかった。赤川次郎ならば理解できるが門田泰明を熱心に読んでいたというのはよく解らない。
そういう訳で児童文学には縁のない読書ライフを送ってきた僕が何故児童文学に触れ出したかというと、司書教諭という学校図書館の先生にある資格を取るにあたり履修した講義で先生が非常に強くプッシュしたからである。
毎回先生が課題図書を出し、半期の講義だったのだが、期末試験にはその一冊の感想を書けという念の入れ様。
僕は初め非常に憂鬱で「ケッ19にもなってガキの読む本なんて読めるかよ。どうせ弟子が書いてるような剣と魔法の話だろ?」と非常に偏見を持っていた。
ところが、こういう場合は大抵こうなるのだが、思いっきり児童文学にハマってしまった。
初めに読んだ本がカニズグバーグの「クローディアの秘密」で、これはみんなの歌でおなじみの「メトロポリタンミュージアム」の元ネタとなった話なのだが、これを読んで大いに感動し「僕とジョージ」「魔女ジェニファーとわたし」を読破。
ついで推薦本であるハンス=リヒター「あのころはフリードリヒがいた」などのナチス迫害物(これで弾みがついた)。ついで日本の作品を5冊ほど読んだ(詳述しないが「車のいろは空のいろ」が有名かな?)。
白眉だったのはフィリパア=ピアスの「トムは真夜中の庭で」、これは講義中に読んだのだがラストで泣きそうになりヤバイと慌てて読むのをやめた経緯がある。まあ読んでみなさい。
最近は読んでいないが実はミヒャエル=エンデの「モモ」を未読という恥ずかしい過去もあり、また読んでみようと思う。児童文学、岩波少年文庫がいい作品をそろえているが、この癒し系全盛の中、読んでみるといいと思う。
追伸、助役はこの業界に異常に詳しい。 ▲ |
学術書 |
あくまで高い大学教科書
筒井康隆の「文学部唯野教授」には自分の書いた本を学生全員に買わせ、表紙の脇を切ってレポートに貼らないと単位をやらないという教授が登場する。
あなたはこれをフィクションだと思うだろうか?
と〜んでもない、ちゃんとしっかり我が大学にも存在します。
あんまり書くと卒業できなくなってしまうので内密に願いたいが教科書印税で財テクしている先生、確かにいます。流石に教科書の一部を貼れといった露骨なことはしないが、似たことはする。
法学部の必修、選択必修ばかり受け持つその教授は、定年間際の老教授で顔は関西芸人「アホの何某」そっくり。講義はつまらなくはないのだがまったく面妖な個性的な講義で、良くも悪くも賢そうな業の深い老人である。
彼の方法は極めてシンプルである。1年間に1万円分の教科書を買わせる。買ってしまえばあとは成績は優は確実なのである。試験は年末一度だけ、教科書があれば確実に解けるが逆にないと絶対に解答不可能な問題が出るのである。教科書は3冊あるのだが当然、3問必答で1問につき1冊の教科書から出るのである。
だからこの教授の講義は優か不可のどちらかしかつかない。
こんな講義でも確実に優というのは馬鹿な遊び人大学にとってはおいしいらしく履修者は常に大教場を埋め尽くすほどである。尤も実際に埋め尽くすのは初回と最終回だけなのだが。
呆れたことに、一部の講義は多額ぶり修正にも解放されており、恐ろしい顔した他学部の連中が列を作って認証印を求める始末。金で罪が購える免罪符に似ている。いくらサボっても本の1万円分の印税を納めればどんなサボっても優なのである。
僕は専攻の関係できちんと金を払い講義を受けているが、教科書は試験のとき以外開いたことがない。講義は然程つまらなくもないからこれは奇妙なことである。だから出席者が10人以下とか言う馬鹿大学らしき一般講義に比べれば人が来ている。
しかし1万円かあと年度始めになるたびに僕は思う。前述したが必修や選択必修ばかり食いこんでいるため、また噂が噂を呼び一般講義ですら大盛況のため彼は相当儲けている。
印税1割として考えても、彼は年間100〜150万円は儲けているはずである。 ▲ |
漫画単行本 |
例えば本屋に入って、無数に見える漫画本の山を見たとき、僕が常に思うのは「漫画家って儲かるよな〜」ということである。無論これはトップクラスの話であるが、それとてもトップクラスの小説家を凌駕するだろう。
文字本で云えば余程のことがない限り100万部とは行かない。30万部も行けば万々歳である。しかるに漫画家はそもそも雑誌の段階でその倍を叩きだす。
更に単行本、小説の場合はまあ巻分けされるものもあるが基本は一冊完結。長い場合も大抵は上中下とあれば終る。しかるに大抵の漫画は1巻から延々と続く。新しい巻が出る度に何十万部が売れていくのである。小説で何十万部を定期的にはじき出すのは難しい。漫画家は物語が好調に進んでいる間は(この維持が難しいのだが)絶対的収入保証をされているわけである。それこそ数十巻レベルになれば一生暮らせる分お金は出来る。
さらに漫画は小説と違ってビジュアル的な側面が強いから、その特性を活かした媒体に転化され易い。具体的に言えばアニメ・映画・ゲームなど、キャラクター商品からのロイヤリティーも大きい。確かに小説も原作としては遥かに使われるが、キャラクター商品やゲーム化というのはあまりない。
とにかく漫画家が儲かるというのは間違いないだろう。
それで、僕が一体今まで漫画単行本を買ったかというと、寄生獣とゴーマニズム宣言しかない。妙な取り合わせだがそれしかもっていないので仕方がない。わたせせいぞう関係は10冊以上持ってはいるが、あれは当節流行の漫画文庫である。
僕は暇人であるからして、しばしば古本屋に行くので全然漫画を持つ必要がない。非常に好きないつでも読んでいたい漫画だけ厳選して購入したらこうなってしまったのだ。あとは面白くとも古本屋に行けばいつでも読める類のものだ。
僕が漫画単行本を買わないのはそういう理由が主だが、他に早く読み終わるので電車の暇潰しの役に立たない(電車の中で読んだのはゴーマニズム宣言しかない)ことや、漫画というのは完結する迄にやたら巻があるので(まあ大抵は10巻から)1冊100円でも買えばやたらと金がかかることである。あとは収納場所の問題で、早く読み終わるしページも結構あるので、おそらくただでさえ飽和気味の本棚がどうしようもなくなる。僕は読み終えた本を売ったり捨てたりするのは好きではないので、かくてうず高く積みあがる。部屋が漫画図書館になっている奴はしばしば僕の回りにもいるが、そういうのは避けたいと思っている。
そういう訳で持っておきたい本も結構あるのだが、僕は全く万が単行本を買う気がない。 ▲ |
問題集 |
僕の問題集史
我が家は教育程度の低い典型的地方都市のさらに辺境の地に居を置いていたのだが(「○○のチベット」「××のアマゾン」と呼ばれ、呆れたことに地元選出議員が出るまでは下水管さえ通っていなかった化外の地だったのである)この地域に住んでいる親の中では我が家はずば抜けて教育熱心だった。
問題集は小学校1年のときから与えられて、まあよくやっていた。今考えると将来の展望もなく(中学受験を考えたのは小5である) ただ学校のテストがよければいいという観念で問題集をやっていたのである。元々母が僕の病弱振りや不器用さ加減を見抜いた上で、学問なくして身は立てぬと厳しく仕付けたのがその動機である。
塾通いこそ5年生からだが(その塾も高名な進学塾で同学年中、皆無だった)進研ゼミは熱心に続け、これだけで神童の出来上がりであった。最も長じて神童の試し無きの格言どおり、今ではすっかり零落しているが、当時は天才児だとしておだてられたものだ。
ところが勉強したのは小学校の頃までで、進学塾に入ったら自分がどこにでもいるちょっと優秀な奴であることに気づかされ、私立中学校に入ったら落ちこぼれである。如何に狭い世間の中で生きていたかが解る。
中学受験時代は本当に問題集(中学受験用のね)を塾が指定するままに買いあさり、とにかく毎日一心不乱にやった。15冊近く今でもあるが精神がやばいんじゃないかと思うくらい書いてある。1日休日は8時間やっただけはある。
そして中学では教師がクラスで一括して買った問題集をやって、なんとかついていった。まあ国社はやらなくても何とかなったので理数系に限られるのだが、これは試験前2週間から計画を立てて、猛烈にやっていた。
中学はなんとか凌いで「内特進クラス」に入ったが、逆にそんなエリートクラスに入ったため高校に入ったらダメである。今じゃあ学歴序列は下位2位(現在は大学価値下落によりビリ)で同窓会ではバカにされること仕切りである。
僕の性格と高校の校風から遊ぶようなことはしなかった。ずっと本を読んで小説を書いていた。受験勉強はこれが全くしなかった。ターゲット1900を買って、日本史の一問一答を買って終わりである。高校教師が一括購入した問題集は手をつけた形跡すらない。
随分陰気な高校生である。それ故、底辺大学に入ったのは、全く世の道理といえるかもしれない。しかるにあのあまりの大学の馬鹿振りを見るとき、小学校時代の連中を思い出してしまう。僕は随分金をかけて遠回りして結局来るところは同じだった。
大学では当然問題集なんかないし、勉強もしない。
それでも僕はトップクラスの成績を納めている。 ▲
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教科書 |
案外面白い
公務員になろうと考えていた時期がある。具体的には市役所職員である。参考書は法律や経済関係は何冊か持っているが、教養問題に関してが少々足りなかった。
教養とはそれこそ国語数学理科社会英語である。大学教養程度という触れ込みだが、実際はそんな底辺大学が太刀打ちできる内容ではない。それ専門の勉強が必要なのだ。とはいっても僕は物理とか化学に関する知識はまったくない。
文系公務員を受けるわけだから理系科目については高校基礎知識程度で十分なのだがこれすらない。文系でも地理や世界史と云ったところは少々突っ込まれると抜けていることに気がついた。
ちょうどそんな時、僕は高校地歴教師(地理日本史世界史教師)になるための講義で日本史教科書を800円で買わされていた。教科書は年ごとに変わるから最新の版を用意せよという厳命だったのである。模擬授業(+学習指導案)の講義であったから、当然熟読が必要なのだが、ところがこれが教科書を読むと面白いのだ。
到底皆さんは教科書が面白いとは信じられないのかもしれない。しかし、義務やテストの重圧をとっぱらってただただ己に知的教養をつけるためだと思って読むと、これが非常に知的好奇心をかきたててくれるのだ。
なんせ教科書は簡潔である。要点よくまとめてくれる。ほぼ全体を網羅している。広く浅くの教養では非常に有為な本である。高校と今では5年と離れていないが、やはり脳は伊達に活動している訳はない。時間をかけて読めば昔解らなかったことも理解できる。
僕は新しく買った日本史と、これは高校の頃に使ってた世界史と数学TAを半年間かけて読み直してみた。実に読み応えもあり理解も高校のときと比べて格段に出来るようになった。
大学生が高校の教科書を理解したといって喜んではいけないが、馬鹿にしてもいけない。だいたい完璧に今でも理解していると自信を持って言えるものがどれだけいるのだろうか。確かに高校は高等教育である。高等教育を理解しなくても卒業出来るのだが。
例えば我が大学にきて普通に世情のことを話してみるといい。その基礎的知識のなさ、語彙や表現力の欠乏、無教養の人間が集まると如何に苦しいかがよく解る。
高校の学問は無駄ではない。たとえそれが机上的とか受験用とか云われていても、人間の進歩発展には役立っているのだ。僕は今夏社会教育実習生として市内の社会教育を見て回った。
そこで自分の自由意志で学ぶ中高年の人達はあくまで真面目で、熱心で、向上心に溢れていた。年を取ってから出来る学問、したくなる学問も確かにあるのである。
僕は公務員は体力検査で刎ねられるので諦めたが、この教養人の為の学習は続けている。正直云ってこのままやっていけば他所のせめて三流大学なら受かるほどの頭が出来るかもしれないぞと思うこともあるが、この年ではそれも致し方ない。
不思議と「あの時、これだけ勉強してればなあ」とは思わない。あのときにこれだけ進んで学習するのは無理である。僕はかつての自分を全肯定した上で、今日も誰も褒めてはくれない、自己満足のための学習を続けている(だから変人と呼ばれる)。 ▲
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エロ本 |
ドキドキするべきだ!
「大佐もやっぱエロ本とか買うわけですよね」
僕の家で酒盃を交わしていたとき、弟子が云った。
「ああ、それがどうした?」
自慢じゃないが小学校のときは友人の三下で密売していたなんてことはおくびにも出さない。
「いや、やっぱりエロ本を買うときは緊張しますか?」
「いや」僕は即答した
「全然緊張しないね。寧ろうまい棒を買うときの方が緊張する」
「そうですか〜、僕は未だに緊張するんですよねえ」
昔はエロ本には関心あれども手にとるのは異常に緊張した。性とモラルの間で真っ二つだったのである。時代にして小学校6年の頃だ。微妙な時期である。本屋で立読みをするのさえ完全にコチコチになっており、神経質に知人が本屋にきてはいないか何度も店内を巡回したものだ。本棚の周りに人がきたら、勿論ページを変えるか逃げだすのである。
エロ本を買ったことは長くなかった。金がないのは勿論だが隠し場所がないのだ。僕の部屋はあったがプライバシーはない家で、僕の机の中から外から見放題。日記は読む手紙は開ける電話は聞く、とにかく子供の管理が大好きなのである。
そんなようだから随分屈折した。助平が出来てしまったという訳である。しかし中学2年の春、象徴的な事件が起こる。僕が従来の母の抑圧にキレて半殺しにしたのである。
これは、非常に意義深い出来事である。ここに僕は自分の自由を手に入れたのである。もっとも厳格に仕付けられたから自由にしても問題は起こさず、母の勧告には耳を傾けたが、命令とか不合理な物言いは謝絶できるようになった。つまり思春期を越えての小独立である。
勿論、抑圧はその後も続いたが少なくとも母がここに来て一個の人間としての僕を容認したことは云うまでもない。その後も手紙の監視や普通の家庭ではやらないことは今に至るまで続いているが、ある種の対立で反撃をする権益は得た。
そして中学2年といえば古本の味を占めて貧乏でも本が楽しめた時期である。古本といってもエロ本(所謂ポルノ雑誌)に限って言えば期限が切れて裁断される運命の雑誌をどこかから買い叩いて売る代物である。文庫本などのように一般の消費者が買って使ったものを買い取っているわけではない。
いや、僕は買うときはいつもここだったね。貧乏だったから年に数冊のものだったけど、その店の貧乏ッちい薄暗くてアナーキーな雰囲気は、勿論ポルノショップではなく普通の古本屋なのだけれど買っても恥ずかしくないような印象を僕に与えた。
かくして僕はこの店で羞恥心を奪う訓練をし、別に本屋でエロ本を買うことはあまりないのだが、例えばヌードグラビアがついた週刊誌を買うときも、恥ずかしくなくなった。例えレジが若くて可愛い女の子だったとしても。
それはそれで僕は自分に寂しく思うようになった。
エロ本を読んだって「それが?」とか内心いってる冷めた自分が確かにいる。だからもうここ1年ばかりは買っていない。エロ本を買うときのドキドキした後ろめたさはそのまま本を開いた時に褒章として授けられる物なのかもしれない。
エロ本を買うとき、いつもドキドキしているというのは、非常に健全である。僕は例えばセックスで言えば数が少ないので、殆ど病的に緊張するが、しかしこれが緊張しないようになったら、僕は僕として終わりだな、とそう思わないこともない。 ▲ |
同人誌 |
70冊の帰らざる思い出
同人誌と云ったって別に僕はここで一般の同人誌については語らない。いくら僕がオタクっぽい風貌をしているからといって、別に一般人がオタクと聞いて連想するアニメオタクではないし、コミケという祭典にも興味関心が特にない。
では、一体僕が何について語るかといえば高校文芸部の頃に出していた文芸誌のことについてである。
高校の頃出していた文芸部の雑誌の名前はARCADIA、読みはアルカディアで意味は理想郷。僕が部活に入る24年前から連綿と出された文芸誌で、僕が入学した時は97号まで出ていた。
別に製本などこったつくりであるわけではない、B4用紙にB5の原稿を2枚貼って片面印刷する。それを折り曲げ束となし各印刷分をテーブルにおいて部員が取りまわり一冊の本にするのである。この紙束をホチキスで止め、表紙として色つきの厚紙を包むように糊で貼り、完成である。
標準ページ数は70ページで80冊印刷。1冊当たり大体60円近くかかった。これを部員が取り、バックナンバー用2冊を部室に保管し、あとは一般配布である。図書館の脇に置かせてもらって、来た読書家に持っていってもらうのである。
本の内容はまがりなりにも文芸部であるから小説や詩やエッセイや文芸色のあるものである。
それで僕は高校3年間ここにいたわけだが、少々僕は文芸部史に名を残してもいい存在だった。助役はこの頃からの師匠なのであるが、彼とつるんで改革を片っ端から行ったものだ。
簡単に言えば技術革新と積極拡販である。
両面印刷の導入と新型ホチキスによりページ数を150頁にまで限界を増し、返す刀で読者のアンケートを利用してそれまでの22年間で96冊だったのを、年間で70冊近く発刊した。それまでは細々と部内でやっていたのを積極的に一般生徒にアピールをして、常に1週間以内に完売を目指した。
部内一人一人に年頭は自己紹介を課して周知を図る一方、折々の企画号を出して常に読者主眼の部活運営を行った。ささやかな自慢を言えばこの頃、校外からファンレターが来たし、バレンタインは困ったことがなかった。
今となっては昔日の栄光ではあるが、いずれこの部活の思い出についてはコンテンツを作って書いてみたい。
当時を共に生きた部員達は全員、70冊以上の本を持っている。僕も全巻、我が家の本棚の一番上にある。初めのほうは文も稚拙で今ではとても読めないが、それでも大切な宝物である。
嬉しいことも哀しいことも怒ったことも悔やんだことも、ページを開けばいつでも思い出せる。そう、僕の思い出は今も僕の本棚に息づいているのだ。 ▲
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恩師の著書 |
顧問の先生の書いた本
本項は助役リクエストである。
しかし恩師の本といっても書くことあるか…そう思って先日来宅時に助役に聞くと「大佐、この施設の名前を何だと思ってるんだ」と云われた。
そうでした、この施設「星光堂」は高校文芸部時代の顧問の先生の名前から取っているのです。苗字と名前から一字ずつ。
顧問の先生なんですが、これが本物の作家で純文学に強い出版社河出書房新社の「文芸賞」を受賞した人なんですね。今は同人活動が専門で、ローカル紙(県単位の新聞ですね)に文芸評論を書いていらっしゃるのでしょうか。無論本業は高校国語教師です。
さてそんな先生の本が我が文芸部にも2冊ばかりおいてあった。ひとつは文芸賞受賞作である純文学小説。もうひとつは文学評論集である。
両方ともディープで重い十年以上前の本であり、現代の高校生が読みます、と宣言して読みきれる本ではない。我が高校はまあ平均よりは遥かに優秀な進学高校で、文芸部というのは性格等の問題はおいておいて、頭はいい奴の集団だった。当然読書家も多い。
その彼らを以てしても、一体何を書いているのか解らなかった。学術書の趣が強い後者は読めなくて当然とはいえ、小説である前者さえ読めなかったのだ。
その小説とは学生運動を巡った話なのだが、不覚なことにこの僕も10ページも進まないうちに飽きてしまい結局学生運動がテーマということ以外はなんにも知らない。とにかく当時の僕にとっては重くてディープで読むのが辛い退屈な話だった。
先生の名誉のために云うと、先生はこういう文壇から評価される作品の他にも色々笑える話を書いている。僕が部員だった頃はもう部発行の雑誌には本の紹介以外は(これはとても解りやすく高校生が読んでも妥当な話だった)書いていなかったが、以前は抱腹絶倒の娯楽小説をよく書いていたものだ。
僕は過去の作品を読んで、それを知っている。
今度、地元の市立図書館にいって読んでみようかと思っている。郷土の文人を称えてか、確かに一冊、その本はあるのだ。大学生の僕がどれだけ進歩したか、あの先生が大学時代に体験したことを元にした難解純文学小説。
読むなら今だ。
追記;最もこの本は助役や本当に小説を読める人は読破している。
文芸部で僕の読書数は恐らくベスト5にも入らないだろう。 ▲
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