言葉が先か思考が先か (2004-03-01)
言葉が先か思考が先か
言葉を教え込んだからといって、思考力が高まるというわけでもない。
再び、思考と言語
何人かから先日の「言語相対論」についてツッコミをいただいている。続きを書こうと思っていたのだが、つい話がそれてしまった。今日は先日とは矛盾する話かもしれないが、言語能力を身につけたからといって思考力が高まるわけではない、という話を書いてみたい。
言語が先か思考が先か
思考能力が低いDQNは、言葉が貧困であることは、先日示したとおりだ。親から伝達される言葉がDQNであるため、思考もDQNになる、という話だった。しかし、思考能力が低いから言葉が不自由なのだ、と考えることも当然できる。
タマゴが先かニワトリが先かみたいな話だが、
- 言語能力が劣るから、思考能力も劣る
- 思考能力が劣るから、言語能力も劣る
の二通りが考えられる。
心理学者ピアジェは、後者の立場をとり、『新しい児童心理学』の中で、次のように言っている。
言語は論理の源泉をなすものではなく、逆に論理によって構造化されていくことを示しているように思われる。
言語は記号のひとつに過ぎず、記号を操る論理的な思考能力が言語に先立つ、ということをピアジェは主張したのだ。
教育への応用
こうした心理学の理論は、教育の現場で実践されていた。教育の遅れている黒人に対して、アメリカは積極的な教育を行った。
その結果、言語ばかり教えてもそれほどうまくいかないことがわかった。たしかに文字を書いたりするのには向いているのだが、言語だけを教えたからと言って、自動的に思考能力が身につくわけではなかった。
だからといって、言語の重要性は否定できない。言葉を覚えなければ概念を操作することも難しい。記号、数字、図などで思考能力を身につけ、なおかつ言語を身につけさせるのが、ベターな方法だろう。
(当たり前の結論で面白くない・・・)
言葉を教え込んだからといって、思考力が高まるというわけでもない。
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なぜ役に立たないことを勉強しなければならないのか (2004-03-03)
なぜ役に立たないことを勉強しなければならないのか
教育のひとつの目的は人を振り分ける「選別」にある。学校で得た知識が役に立つかどうかは、振り分ける社会の側にとっては、問題ではない。
なぜ勉強しなければならないの?
よくある質問「学校では、なぜ役に立たないことや意味のないことを勉強しなければならないの?」に答えてみたい。
こうした疑問は、多くの人が持っている。子どもを持つ親の立場になっても、自分の子どもに明確な答えを提示できる人は少ない。「将来役に立つことがある」と子どもに言い聞かせるが、「将来ほとんど役には立たない」というのが本音だろう。歴史の年号、古文の文法などなど、どう考えても将来役に立たない知識を、我々は詰め込まされる。なぜ、役に立たないことを勉強しなければならないのだろうか。
教育の目的
教育の目的は、2つに集約される。
- 社会化
- 選別
教育社会学の教科書的なスタンダードな答えとしては、この2つが教育の目的である。
社会化は、社会に適応させるための価値観や知識・技術などを身につけさせることである。そして選別は、労働市場などの社会のために、人間を振り分けることである。選別は、結果的に人間が選別されてしまうわけではなく、教育が選別を目的としているのである。
「エリート」(社会の上層の人間)に必要なのは、頭の良さや真面目な態度である。そして、「DQN」「だめな奴は何をやってもだめ」のような社会の下層の人間は、逆に頭が悪くて不真面目で、反抗的である。
こうした人間を振り分けるには、学校で勉強をさせ、試験を行うのが手っ取り早い。学校で成績が良い人は、頭が良くて、勤勉である。DQNはその逆だ。社会的地位の高い職業には、学習能力の高さや勤勉さが求められる。そういった人間を選び出したり、DQNをふるいにかけたりするために、教育が存在するのである。
小学校低学年ではみんなが100点をとれるテストが実施され、高学年になるにつれて差が出てくる。差がでるようなテスト問題を用意しているのである。そして中学校では、完全に序列化し、偏差値で自分の位置を知ることになる。
教師も普通の人間だから、簡単に試験問題が作成できないといけない。また、誰かにとって選別が有利にならないよう、中立的な試験問題や学習内容にならなければならない。そのために、学校で勉強する内容は、役に立たないものになる。極端に言うと、役に立たないものでなければならない。
教育の主体は社会
学校で得た知識が役に立つかどうかは、振り分ける社会の側にとっては、問題ではない。「こんなの意味がない!」といくら叫んでも、勉強する側の個人に意味があるのではなく、社会の方に意味があるのだ。「勉強しても役に立たない」と言ったところで、社会からは「役に立ちませんが、それが何か?」という返答が返ってくるだろう。
この世の中に意味のないものはない。
- 本人が意味に気がついていない
- 世の中にとっては知らせないほうが好都合
このどちらかだろう。
選別のための教育では、勉強内容は役に立たないものの方が好都合である。そのため、役に立たないことを勉強するように、社会からは強制される。
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教育の主体 (2004-03-04)
教育の主体
教育は、社会がその存続のための諸条件を更新する手段である。
なぜ役に立たないことを勉強しなければならないか
昨日の日記で、なぜ役に立たないことを学校で勉強しなければならないのか、その理由を書いた。
ある人から、「もっと早くそのことに気がついていれば、ちゃんと勉強したのに」と感想をいただいた。気がつかなくても真面目に勉強したり、勉強しなくても頭が良くて成績が良い人を選別しているのだから、学校や教師は、選別のことを公言しない。ほとんどの教師は知っているし実践しているのだが、生徒たちに向かって「この中には何をやってもダメな奴が確率的に何人かいるので、それを振り分けるために勉強させてテストをしてみます」と公言する人はいない。
タテマエでは「みんな仲良く」「平等思想」を教え、その裏では選別を行っている。中学校で非行が増える背景には、このような二つの対立する行為があるのではないだろうか。(勝手な想像だが)
教育は誰のものか
決して選別を批判するわけではない。選別は必ず必要なものだ。
教育を「良き物」「素晴らしいもの」と考えていては、本質を見失う。ありのままに見なければならない。教育は、個人の成長だけを目的にしたものではない。
社会学者のデュルケムは、大学での講義で次のように述べたという。
「教育とは個人の利益を主な目的とするものではなく、社会がその存続のための諸条件を更新する手段である」
デュルケムらしい言葉だ。我々は、将来の自分の利益のために、教育を受けるわけではない。教育は、社会がそのシステムを維持するための手段なのである。(医者を例にとれば、医者としてふさわしい人間が教育によって選別され、そして社会が維持される)
教育は、社会がその存続のための諸条件を更新する手段である。
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どう教育しても無駄な人 (2004-03-05)
どう教育しても無駄な人
個人の才能や能力には差がある。親はそのことを自覚しなければならない。
差別か平等か
教育によって「選別」を行うことが差別につながる、と主張する人もいる。学校内での習熟度別学級編成に反対する人も少なくない。
テストの結果で人を分類することで、選別された人が差別感を味わうこともある。だがしかし、人間の能力には個人差がある。頭が良い子供もそうでない子供もいる。多様な子供を、同じ教室にまとめて同じように教育を行うことが、果たして良い効果を生むだろうか。
個人の能力差を認め、能力別に学級を編成し、その能力に応じた教育を行うほうが、平等だとも言える。勉強が苦手な子供にとって、普通のレベルの授業は、暴力に近いものがあるのではないだろうか。理解できない内容の話を、椅子に座ってじっと聞いていなければならない。これは苦痛だろう。逆に出来る子供は、退屈な授業に飽きてしまう。
個人的には、中学校レベルでは能力別の学級編成を取り入れるべきだと思う。都会の私立中学では、入試によって同レベルの人が集まるから、能力差はあまりない。しかし、地方の公立中学では、個人の能力差が激しい。
個人差を認めない悲劇
こうした能力別学級編成を提案すると、必ず反対の声を上げる母親がいる。「差別だ」「人格が歪む」などと言っては、能力差を認めようとしない。どんな人でも勉強すれば成績が上がるとでも思っているのだろうか。勉強しても成績が上がらない人もいる。勉強しなくても成績が良い人もいる。
がんばれば成績が上がる、という思想は危険だと思う。比較文化学者の小谷野敦が、『中庸、ときどきラディカル』で、次のように述べている。私もまったく同感である。
子供を夜遅くまで塾に通わせたり、過酷な勉強へ追いやったりしてたのは、「努力すれば誰でも成績はよくなる」という、まさに「遺伝」的、生得的素質を無視した考え方だったのである。
(中略)
その頃私は大学生として、塾教師や家庭教師のアルバイトをしていたが、中には、どう教育しても無駄ではないかと思えるような、勉強への意欲もなく努力する能力もない生徒が大勢いた。「受験戦争」の本当の問題は、このような子供でもカネを注ぎ込めば何とかなると信じた親たちにあったのだ。
(小谷野敦『中庸、ときどきラディカル』筑摩書房 p.131)
教育することは重要で、決して軽視してはいけない。だがしかし、個人にはもともとの能力差がある。教育しても効果が上がらないこともある。いくら有名私立に入れたいと親が考えて、教育費に金を注ぎ込んでも、期待した効果は得られない。そして子供にとっては苦痛でしかない少年時代を送るのではないだろうか。親も子も不幸になる。
子供の能力差に応じて親が支援するのが、もっとも無難で効果の高い教育方法ではないだろうか。子供の能力差以上のことを、親が期待してはいけない。
個人の才能や能力には差がある。親はそのことを自覚しなければならない。
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オンとオフの差 (2004-03-06)
オンとオフの差
軽めの雑記を。某オフでの話。
イメージとのギャップ
土曜日に、オフ会があった。お互いに初対面だった人から、「フツーの人で良かった」と真顔で言われた。本心からの言葉だった。いったいどんな人間を想像していたのだろう。偏屈ジジイかデブヲタをイメージしていたのだろうか。20代まんなかぐらいだし、太ってはいないのだが。
サイトに写真や詳細なプロフィールを載せていない以上、情報は不完全だ。日々更新されるテキストから、人間を想像するしかない。日記では、あえて偏屈なことを書いたり、挑戦的なことを書いている。だから、実物の人間も、同じようにおかしな人間だと考えてしまっても不思議ではない。
良い意味なのか悪い意味なのか
「フツーの人で良かった」と思う人もいるかもしれないが、「フツーの人でがっかり」という人もいると思う。たとえオフで会うにしろ、サイト上のキャラと似ていなければ、会う人はある意味がっかりするのではないだろうか。
「ろじっくぱらだいす」のワタナベ氏も、「オフではつまらないんですね」と言われてショックを受けた、と書いていたことがある。(もちろん、「笑い」の文脈の中でだが)
このサイトのテキストは、どちらかというと常識破壊的、常識懐疑的である。だから、その管理人が「フツーの人」というのは、良い意味でも悪い意味でもある。
もっと奇抜な外見をして、おかしな言説を延々と話していたほうが、イメージと合致したりするんだろうか、なんて考えた日曜日の朝。
(追記:専業主婦は嫌いだから、その手の発言については、サイトのテキストのイメージどおりだと思う。)
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面白い作品を薦めることは難しい (2004-03-07)
面白い作品を薦めることは難しい
面白い作品を他人に薦めることは難しい。期待を持たせすぎると、がっかりさせてしまうことになる。
感情が発生するとき
DVDでホラー映画の『呪怨(じゅおん)』を見た。今日は感情の発生と作品を紹介することの難しさについて、書いてみようと思う。
感情とは、現実と期待のギャップにある。自分の期待以下だとがっかりしたり悲しんだり、つまらなく感じる。逆に期待以上だと、幸せを感じたり、面白いと感じたりする。
期待を持たせないこと
推理作家の綾辻行人が、「面白いミステリを他人に紹介するときは、あまり期待を持たせないほうがいい。期待しすぎるとつまらなくなる」という主旨のテキストを書いたことがあった。(出典は忘れてしまった)
その通りだと思う。作品が面白いか否かは、作品そのものにもよる。しかし、「期待している状態」と「現実の状態」のギャップの差が大きいほど、面白い作品である場合が多いと思う。レンタルショップで何気なく借りた映画や、何気なく手にとった本がやけに面白かったりするのは、そのためである。期待していないから、実際に良い作品だった場合の期待と現実のギャップは大きく、面白いと感じる。逆に期待した作品ほど、つまらなく感じることも多いだろう。
友達でも誰でも、「絶対面白いから!」と言って薦めている作品ほど、つまらない場合が多い。そんなに面白いのか、じゃあ見てみよう、と思って作品と接すると、「期待している状態」の水準が上がってしまい、面白いと感じるための「ギャップ」がなくなってしまう。そして、期待を持ちすぎると、あまりにも作品がつまらないと感じられてしまう。
面白い・面白くない、という判断が、作品そのものの出来や個人の好みではなく、個人が抱く期待にあるところがポイントである。
テストの点数が80点という現実を前にして、100点とれるはずだと思うか、60点の実力しかないのにと思うかによって、経験する感情はかなり異なってくる。人間は、期待している状態をコントロールすることにより、感情を捏造することができる。
(山田昌弘ほか『感情の社会学』世界思想社 p.58)
相手にどれだけ期待させるかによって、相手の感情に影響を与えてしまうものなのだ。
それゆえ、映画や小説を他人に薦めることは難しい。積極的に薦めれば薦めるほど、相手が期待してしまい、その作品を面白くないと感じてしまう。そのため、自分が「面白い!」と思った感情は、相手に理解されない。逆説的だが、相手に作品の感動を伝えようとすればするほど、相手は理解から遠のいてしまうのである。
『呪怨』について
以上のことを踏まえると、『呪怨』の感想は何も書かないほうが良い。
というわけで、何も言いますまい。
面白い作品を他人に薦めることは難しい。期待を持たせすぎると、がっかりさせてしまうことになる。
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子供は可愛くない (2004-03-09)
子供は可愛くない
「子供は可愛いもの」という思想は、人類にとって普遍ではない。
猫はかわいい
私は猫が好きだ。誰がなんと言おうと好きだ。子供を作るぐらいなら、猫をたくさん飼って猫帝国でも作りたい。
こんなことを言うと、「いや〜、子供は可愛いよ〜」と訴えてくる親がいる。たしかに子供は可愛いかもしれない。しかし、私は子供は好きではない。「親になればその可愛さがわかるさ」と言う人がいるが、そうは思わない。もし「可愛い」と感じなかったらどうすれば良いのだ。
子供の価値は
親と子供が精神的に繋がっている・満足を与えているというのは、人間の本能によるものではない。社会的な状況によって、子供の価値は変化する。先進国であれば、親は子供を可愛がり、精神的なつながりを求める。しかし後進国では、親は子供に労働力としての活躍を期待する。
日本ならば、可愛らしい子供が望まれる。しかし、他の国では、便利な子供を期待する。
親が子供を可愛らしいものとして接触するのは、先進国で観察される現象である。人間の本能ではない。社会・経済的な状況によって、子供に期待する価値は異なるのである。
子供が可愛いとは限らない
子供を可愛がっている親を非難しているわけではない。可愛いと感じるなら、結構なことである。先進国では、たいてい子供のペット化が進むものだ。しかし、その感情を人類にとって不偏的なものだと考えて、他人に押し付けるのはどうかと思う。
今の日本では、「子供は可愛くない」とはっきり言うことは難しいのではないだろうか。特に女性の場合、「母性」という言葉が、「子供は可愛いものだ」という感情を強制している。
その結果、自分のリアルな感情と周囲の期待とのギャップに苦しみ、育児ノイローゼになる場合もある。子供は可愛いとは限らない。可愛いと感じられない母親は、別に異常でもなんでもないのだ。
個人的には、子供は可愛くないと思っている。猫の方が圧倒的に可愛いと思う。
「子供は可愛いもの」という思想は、人類にとって普遍ではない。
(「普遍」を「不偏」と書き間違えていたので修正しました。)
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『源氏物語』はオナニーに使われていた (2004-03-10)
『源氏物語』はオナニーに使われていた
『源氏物語』はオナニーのオカズとして使われていた可能性が高い。
興奮していた古文教師
古典作品である『源氏物語』で性的に興奮していた人がいた。私の高校時代の古文の教師がその人だ。
授業中、教科書の範囲を超えて『源氏物語』の話になり、『源氏物語』の一説を朗読することがたまにあった。『源氏物語』には露骨な性描写はないが、濡れ場は少なくない。しかもなかなかマニアックな性行為をしている。読解力と教養がある人ならば、興奮しても不思議ではない。
60歳前後のその古文の教師は、『源氏物語』を朗読しながら、明らかに性的に興奮していた。顔が赤みを帯びていたし、声の調子もいつもと違う。これが本物の古文の教師か。真の古文の教師は古典作品でも興奮できるものなのだ、と感心した。
オナニーのおかずとして使用できるか
実は、比較文学者の小谷野敦が書いた『もてない男』(ちくま新書 1999)を読んでいて、古文の教師のことを思い出したのだ。小谷野は、『源氏物語』はオナニーのおかずとして使用されていたのではないか、と述べている。
『源氏物語』は「オナニーのおかず」になりえたのではないだろうか。『源氏物語』には、言うまでもなくセックスの場面が何度も出てくる。むろんそれは後世のポルノグラフティーのそれのように微に入り細を穿ったものではないが、その気になればけっこう興奮できるかもしれない。
だから長いこと『源氏物語』は「晦婬導欲の書」つまり人をエロティックな気分にさせる悪書と見なされてきたのだが、それが近代に入って「文学」として見直され、日本最高の古典になった。それはそれでいいのだが、それでもこの物語が「おかず」として用いられた可能性は否定できない。
(小谷野敦『もてない男』 p.59)
小谷野の指摘どおり、その気になれば興奮できるもので、後は想像力を膨らませれば、実用に足りうるものではないだろうか。私の恩師も、想像力が豊かだったのだろう。
小谷野は他にも、オナニー向けの古典作品を挙げて、次のように述べている。
もしかすると私たちは文学史を「オナニーのおかず」の観点から書き直さなければならないかもしれない。
(小谷野敦『もてない男』p.60)
もしも近くに国語や国文学の先生がいたら、この点について小一時間問い詰めてみるのも面白いだろう。(問い詰めた後の保障はいたしかねます)
『源氏物語』はオナニーのオカズとして使われていた可能性が高い。
追記:古典作品に詳しい国語の先生から、「ズリネタ説は全く同感」とのご意見をいただいた。
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サウンドノベルとビジュアルノベルの壁 (2004-03-11)
サウンドノベルとビジュアルノベルの壁
サウンドノベルとビジュアルノベルとの間に壁はない。エロゲー業界とそうではないゲーム業界との間に壁があっただけだ。
サウンドノベル
ゲームの話。「サウンドノベルとビジュアルノベル」で、サウンドノベルとビジュアルノベルの違いについて簡単に論じられている。「サランラップとクレラップのような商品とか商標的な区分けで、本質的には同じ概念」という結論だが、私も同意する。
サウンドノベル第1弾は、チュンソフトの『弟切草』だった。その後、他のメーカーから似たような作品がサウンドノベルとして発売され、ひとつのジャンルとして確立した。
チュンソフトのサウンドノベルをパクった会社がチュンソフトまで出向き「サウンドノベルという名前を使わせてください」と頭を下げた、という記事を、昔のゲーム雑誌で読んだことがある。チュン側も、「サウンドノベル」というジャンルが広まるなら、ということで了承した。こうしてサウンドノベルという名前がチュンソフトのゲームだけではなく、一般に広まることとなった。
一方でビジュアルノベルは、某エロゲー会社が某エロゲーに対してつけたゲームジャンルである。業界が違うので、チュンソフトのサウンドノベルというジャンルはつけにくいし、頼んでも許可してくれないだろう。それよりもビジュアル重視(要はエロ画像)という意味で、ビジュアルノベルというジャンルが生まれ、エロゲー業界でパクりあい、ジャンルとして広まった。
ジャンル分けの難しさ
サウンドノベルとビジュアルノベルでは雰囲気は違うのだが、それぞれ厳密にジャンルを定義することは難しい。そもそもゲームは厳密なジャンルの定義づけが難しいのだ。
最近あまりぱっとしていないドラクエのシナリオライターの堀井雄二が、自身のエッセイ『虹色ディップスイッチ』で、「RPGには成長過程を楽しむ要素があるが、アドベンチャーゲームとRPGって、よく考えるとはっきり分類できないものだ。」という主旨のテキスト書いている。1986年のことだ。
つまり、なにをいいたいかというとアドベンチャーゲームとRPGは、はっきりと分類できるような要素の違いがないということ。
にもかかわらず、現状として、アドベンチャーゲームタイプと、RPGタイプという、二種類のゲームが明らかに存在するのは、作り手がそれをアドベンチャーと思って作っているからであり、また、RPGと思って作っているからに過ぎないのではないだろうか。
いってみれば、思い込みによる分類の産物である。
本来、アドベンチャーゲームとRPGの間には、なんの壁もないはずなのだ。
(堀井雄二『虹色ディップスイッチ』p.54)
RPGとアドベンチャーでは、雰囲気はまるで違う。しかし、ジャンルを厳密に定義しようとすると、とたんに難しくなる。雰囲気でユーザーが判断するか、売り手側や作り手の思い込みによって分類するしかないと思う。
サウンドノベルとビジュアルノベルも、ゲームの要素としてみるとはっきりと分類できるものではない。どちらも同じものだ。両者の間に壁はない。ジャンルが生まれ、確立した業界が違うだけなのだ。
サウンドノベルとビジュアルノベルとの間に壁はない。エロゲー業界とそうではないゲーム業界との間に壁があっただけだ。
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『動画ファイルナビゲーター』からリンク (2004-03-13)
『動画ファイルナビゲーター』からリンク
また『動画ファイルナビゲーター』からリンクされてしまった。
ネットでは、正しいか正しくないかよりも、面白いか面白くないかが重要。
1時間で2000アクセス超
正しいか正しくないかよりも、面白いか面白くないかが重要なんだな、と再度実感した。「源氏物語=オナニーのオカズ説」が、『動画ファイルナビゲーター』からリンクされ、アクセスが集中した。さすがはアダルト動画情報を扱うサイトである。利用者は多いようだ。
金曜日に帰宅して、サーバに接続を試みても、レスポンスが悪くてなかなかつながらない。このサイトのトップページがなかなか表示されずにタイムアウトとなってしまう。金曜日から土曜日にかけてアクセスできなかった人が多いのではないだろうか。原因は、『動画ファイルナビゲーター』からリンクされてアクセスが集中し、サーバの処理能力が不足したからである。悪いのは『動画ファイルナビゲーター』である。
土曜日の朝になって、一段落したので、アクセスログを確認してみた。
ログ解析で捕捉しきれないアクセスもあるのだが、1時間で2000を超えたアクセスが記録されている。恐るべし、アダルト情報サイト。
「日本の童貞」以来
『動画ファイルナビゲーター』にリンクされたのは、これで2度目だ。かつて、「日本の童貞」を書いたときにもリンクされ、1日で1万2千ほどのアクセスを記録した。
このサイトの歴史上、もっとも反響の多かった日記が、「日本の童貞」と「源氏物語はオナニーに使われていた」の2つということになる。
ある意味、悲しい。そして、ある意味、男らしい。
金曜ロードショーで『耳をすませば』を観ていたら、なんだか悲しくなった。ああ、自分にもこんな時代があったのに・・・。
面白いか面白くないか
「日本の童貞」を書いた時も実感したのだが、このWebの世界では、正しい情報よりも面白い情報が流通しやすい。そして、それが当たり前の「事実」として定着してしまう恐れがある。
本当に「先行者」は存在するのかどうか、そんなことはどうだってよかった。面白ければ、それがネタでも全然かまわない。
ネタなのかネタじゃないのか、そのうち誰も気にしなくなって、面白い情報だけがぐるぐると伝達されていく。そして世の中のほとんどの情報がネタでしかなくなってしまう。そんな「素晴らしき世界」を、少しだけ想像してしまう。
ネットでは、正しいか正しくないかよりも、面白いか面白くないかが重要。
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なぜ「お×んこ」と言ってはならないのか (2004-03-14)
なぜ「お×んこ」と言ってはならないのか
人々が性器を求めるから、その言葉を発してはいけないのではなく、言葉が禁じられているから、人々はそれを求めるのである。
リンクするのに勇気がいるblog
「きんたま空間」というブログにリンクを張った。人々がタブーとしている言葉をあっさりと書いていて、痛快である。私にはできない。トップページの説明どおり、「リンクを貼るのにちょっと勇気がいるblog」である。
「×んこ」という言葉は、サイト上では一度も書いたことがない。どうにも恥ずかしくて、伏字にしてしまう。不思議である。どうして「おXんこ」という言葉が、語りえぬもので、沈黙せざるを得ないものなのか。
お×んこがいっぱい
現在、東京大学大学院の教授である上野千鶴子は、『女遊び』(学陽書房 1988)で、「お×んこ」という言葉を連発している。活字では伏字になっておらず、そのものズバリ「お×んこ」と書かれている。
お×んこ、と唱えて相手の驚く顔がみたい、というわたしのこどもじみた欲求は、フーコーの言う<性の抑圧>仮説にぴったりだと、今さらのように感心する。フーコーは、禁止があるからこそ性の言説がはびこる。性の抑圧と性的ディスコースの特権視は、タテの両面だと喝破した。お×んこ! と叫んで他人のヒンシュクを買いたいわたしの不幸なビョーキも、この近代の射程の中にあることが、今じゃはっきりわかるよ、フーコーおじさん。
お×んこ、と叫んでも誰も何の反応も示さなくなるまで、わたしはお×んこと言いつづけるだろうし、女のワキ毛に衝撃力がなくなるまで、黒木香さんは腕をたかだかとあげつづけるだろう。それまでわたしたちは、たくさんのお×んこを見つめ、描き、語りつづけなければならない。そしてたくさんのお×んこをとおして、”女性自身(わたしじしん)”が見えてくることだろう。
(上野千鶴子『女遊び』 p.20)
今も上野おばさんは東大で「お×んこ」と叫んでいるのだろうか。それはさておき、このように「お×んこ」を連発していたこと事体が特別視されてしまうことが、不思議ではある。普通、恥ずかしくて書けない。歯に衣着せぬ物言いの小谷野敦も小浜逸郎も、「お×んこ」とは書いていない。男性にとって、公の場では恥ずかしくて言えない言葉なのだ。
禁止しなければならない
私は「お×んこ」という言葉の指し示すもの、それ自体が本質的に恥ずかしいものなのではないと考える。その逆で、普段我々が「語ることが許されないもの」という禁止の対象としているからこそ、「お×んこ」が恥ずかしいものになるのだ。欲しいから禁止するのではなく、禁止するから欲しくなるのである。
ブラジャーの普及によって、胸が性的興奮の対象としての価値を向上させた。日常の世界から排除することで、我々はそれを強く求めるようになる。
男性が女性のお×んこを強く求めるように、お×んこという言葉が禁じられているのではないだろうか。男のチンチンは良くて、なぜ女性の「お×んこ」がタブーとされるのか。
真の男女平等な社会、ジェンダーフリーの社会とは、おそらく「お×んこ」と叫んでも誰も何にも反応しない世界であろう。だからこそフェミニストの上野は、「お×んこ、と叫んでも誰も何の反応も示さなくなるまで、わたしはお×んこと言いつづける」のだろう。
そんな世界は激しくつまらない、と個人的には想う。「お×んこ」という言葉を発することに恥ずかしさを感じなくなったら、性的な興奮もどこかに飛んでいってしまうだろう。
それゆえ、性欲を維持し子供を再生産するために、社会は「お×んこ」という言葉を禁止しなければならないのだ。
語ることが禁じられているから、人々はそれを求めるのである。
追記:一箇所だけ伏字にするのを忘れました。m(_ _)m
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男女平等思想が世界を滅ぼす (2004-03-15)
男女平等思想が世界を滅ぼす
男女差別は必要だ。男と女の差の消失が、セックスレスを招く。
ジェンダーフリーな世界へ
昨日の日記で、うっかり「お×んこ」を伏字にするのを忘れたところが一箇所だけあった。見つけた人はラッキーということで。
それはさておき、昨日もちょっとだけ書いた「ジェンダーフリー」について、もう少し深く掘り下げたい。
ジェンダーとは、社会的な性のことを意味する。「天才外科医」をイメージすると、たいてい男性を思い浮かべる。人間自身の性をセックスと言い、社会的な性をジェンダーと呼ぶ。
男女共同参画社会の号令の下に、ジェンダーによる差別をなくそうとする「ジェンダーフリー」の運動が、一部では支持されているし、ジェンダーフリー教育も行われている。
しかしこのジェンダーフリーという思想には、大きな問題がある。
セックスレスを招く
1999年にNHKが行った性に関する全国調査で、セックスレスについての分析が行われた。統計データは、セックスレスの要因の一つが「男女差の消失」にあることを示している。
データによると、セックスレスの方が、男女間の性の態度が一致している。非セックスレス(ふつうにセックスする)人たちの方は、男女間での性の態度のズレが大きい。
つまり、男性と女性という伝統的であった性差が自明でなくなったときに、その間で営まれていた行為もまた行われなくなったのではないか
(『データブック NHK日本人の性行動・性意識』NHK出版)
男も女も、同じように考えて同じような態度をとっていたら、あまりセックスをしなくなるのではないか。意識・態度にズレがあるからこそ、我々はそのギャップを楽しんでいるのではないだろうか。
NHKは、「ジェンダー差の消失がセックスレスを招いているという可能性も指摘されることとなった」と報告している。
仮に男女の差がなくなったとしたら、いったい何を求めればよいのだろう? 何も求めなくなってしまったら、子供を産めず、世界は滅んでしまう。だからこそ、男女には差が必要なのだ。
ある意味で、男女差別は必要だ。男と女をはっきりと区別することが世界で最も重要な事なのだ。
男と女の差の消失が、セックスレスを招く。
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「そんな人だとは思わなかった!」と言われる理由 (2004-03-16)
「そんな人だとは思わなかった!」と言われる理由
男女の修羅場において「そんな人だとは思わなかった!」と言われてしまうのは、もともと恋愛が誤解に基づくもので、相手が勝手に誤解しているからである。
そんな人だとは思わなかった
恋愛関係にある男女の修羅場で、「そんな人だとは思わなかった!」というセリフをよく聞く。似たような言葉を言われたこともあるし、目撃した場合もある。(ただし、自分で言ったことはない。)
このような認識のズレが生じた背景には、次のどちらかがある。
- 片方が仮面をかぶっていた
- 片方が誤解をしていた
仮面をかぶっているなら、いつかはその仮面がはがれてしまう。そして「そんな人だとは思わなかった!」となる。また、片方が勝手に誤解をしている場合も、「そんな人だとは思わなかった!」となってしまう。
後者の「誤解」は、実は恋愛の本質的な部分を占める。この点が厄介なところだ。恋愛は「誤解」なので、たとえば男は仮面をかぶっていたつもりがなくて、ありのままを見せているのにも関わらず、女性から「そんな人だとは思わなかった!」と言われてしまうことがある。
結晶作用
スタンダールは「恋愛とは美しい誤解」と述べている。かなり平凡な相手を見ちがえて、全然別個の人間を想像し、作り上げてしまう。この誤解を「結晶作用」と呼んでいる。
いかに聡明な人間も、恋をしている時には、どんな対象もあるがままには見ない。自分の長所は過小に考え、愛するもののわずかな好意をも過大に考える。不安と希望とが、一瞬のうちになにかあるロマンチックな(気まぐれな)様相をおびる。彼は、もう何事をも偶然のせいとはせず、蓋然性の意識を失い、想像したものが、彼の幸福に及ぼす結果として実在のものとなる。
目が眩んでいる一つのおそるべき証拠は、何かよく見えない些細なことを考えるとき、君は、それを白いと思って、自分の恋に都合の好いように解釈するが、一瞬の後、実は、それが黒であったと気がついても、やはりそれを、自分の恋に都合の好いように決めていることである。
(スタンダール『恋愛論(上)』前川堅市訳 岩波書店 p.68)
恋愛状態では、相手をあるがままには見ない。逆に、あるがままに見えていない状態(誤解している状態)を恋愛状態と定義することもできる。
醜くも美しい誤解
恋愛とは誤解なのである。そのため、あるがままの自分が垣間見えてしまうと、「そんな人だとは思わなかった!」と言われてしまう。相手が勝手に誤解していただけなのだが、恋愛とはそもそも誤解であるため、どうしても恋人間での誤解は生じてしまうものなのだ。
人間の誤解の上に恋愛があり、その上に結婚がある。誤解(恋愛)した挙句の果てに結婚をし、専業主婦となり、人生という坂道を転げ落ちていく。人間とはなんと愚かな存在なのだろうか。
恋愛は「美しい誤解」ではなく、「醜くも美しい誤解」だと思う。
恋愛は「醜くも美しい誤解」である。
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結婚の条件 -現実的な女性- (2004-03-18)
結婚の条件 -現実的な女性-
結婚相手に求める条件は、男性よりも女性の方が現実的である。
ロマンチストな男性
ある女性から、恋愛や結婚では女性よりも男性の方がロマンチストではないか、という話を聞いた。彼女は既婚者なのだが、突然夫が「星空を見に行こう!」と言い出して困るらしい。いい夫だと思うのだが。
女性にとって結婚は人生の転機である。それゆえ、慎重にならざるをえない。女性はロマンチストではいられないのだ。社会学者、山田昌弘は、「結婚は男性にとってはイベント、女性にとっては生まれ変わり」と述べている。
女性にとっての結婚は、「生まれ変わり」の機能を持っている。この感覚は、私を含め、男性にはなかなか実感しにくいもののようだ。女性は、結婚によって、今までの人生をチャラにして、新しい人生を送ることが可能なのだ。
(山田昌弘『結婚の社会学』丸善ライブラリー p.43)
女性の「生まれ変わり」に対し、男性にとって結婚は「イベント」でしかない。結婚しても会社が変わることもない。名前も変わる事もない。男性は、交際の延長線上に、結婚があり、それは単なるイベントなのだ。であるから、ロマンチックな夢を見ていることができる。
結婚の条件
統計を見てみよう。国立社会保障・人口問題研究所の「第12回出生動向基本調査(2002)」からグラフを作成した。結婚の条件として、それぞれの項目に「重視する」「考慮する」と回答した割合である。
ポイントを列挙すると、
- 全体的に女性の方が、要求が高い
- 経済力・職業の男女差が大きい(女性は男性に経済力を求める)
- 唯一男性が女性を上回っているのが「容姿」(男性はかわいい女性を求める)
といったところだろう。
男性は、女性の仕事や経済力をあまり評価しない。男性が求めるのは容姿である。逆に女性が男性に対して求めているのが、経済力や職業である。
この女性の露骨な欲求は、さすがである。現実的でよろしい。この統計の背景には、女性の専業主婦願望の強さが見え隠れするが、それはまた別な話。
ともかく、男性よりも女性の方が現実的で地に足がついていると言えよう。
結婚相手に求める条件は、男性よりも女性の方が現実的である。
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同時進行の性的関係 (2004-03-20)
同時進行の性的関係
性的関係が複数の人間の間で同時に進行することは、珍しいことではない。
過去1年間の経験人数
金曜日に、友人と激安居酒屋で飲む。二股の関係が話題となった。女性が二股をかける(かけざるをえない)場合もあるし、男性が二股をかける場合もある。
話は遠回りになるが、まず、NHKの調査結果を見てみたい。過去1年間のセックスの経験人数のデータを、以下に示す。
ここでの質問対象者は、「過去1年間にセックスの経験がある人」のみである。童貞はもちろん過去1年間に経験のない人は回答していない。
男女交際が比較的盛んな20代では、男女ともに2人以上と経験をしている人が多い。
面白いのが、40代、50代のデータである。男性は元気に2人以上と経験している人が少なくないが、女性の場合ほとんどが1人としか経験していない。これは、女性がしっかりした貞操観念を持っているからではなく、女性としての魅力に欠けるからだろう。夫以外の人から求められることがないのだ。一方で男性の場合、元気な人は2人以上とセックスしている。「昨今の若者の性の乱れ」を批判できる立場ではない。妻以外の若い女性とセックスしていると考えられる。
同時進行の有無
先ほどの質問の続きで、2人以上とセックスの経験がある人に「過去1年間、2人以上の相手と性的関係が同時進行になった時期はありましたか」という質問がなされた。
「はい」と回答したのは、男性で52%、女性では60%だった。約半数が、2人以上の相手と同時進行で性的関係を持っているのである。そしてその割合は、男性よりも女性の方が多い。
あくまで割合なので、絶対的な数としては男性の方が多い。しかし女性の方でも、複数の男性と同時進行で性的関係を持つことは、決して珍しくない。彼氏を乗り換えたりする場合には、一時的に2人以上と性的関係を持つことが、ごく普通なのだ。
男性であれ女性であれ、同時進行の性的関係は、珍しくはない。
性的関係が複数の人間の間で同時に進行することは、珍しいことではない。
Yas的日常
10時起床。お笑いタレントフットボールアワーのライブビデオ『ジェットボールアワー』を見る。ボケが良い。
それから美容院へ。1ヶ月前にカットしたと思い込んでいたが、記録によると2ヶ月前にカットしていたらしい。うっかりどころの話ではないが、まあいいか。
その後、ご飯どころの大戸屋へ。親子丼を食べていたら、おばさんに足を踏まれた。痛い。きっと専業主婦に違いない。まったく、いまいましい。
無印良品で生活雑貨とシャツを1つだけ買って帰宅。
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『男が語る離婚 破局のあとさき』 (2004-03-21)
『男が語る離婚 破局のあとさき』
『男が語る離婚 破局のあとさき』(文春文庫)の紹介と日常の雑記を。
沈黙に込められた思い
女性が語る離婚は多い。しかし、男性のそれは少ない。まだまだ離婚にはマイナスイメージがつきまとう。仕事の社会で生きている男性なら、なおさらだろう。妻に逃げられた夫の姿は、どこか物悲しい。
『男が語る離婚 破局のあとさき』(文春文庫 中国新聞文化部編)は、離婚という選択をした男の語りを集めた1冊である。これから結婚を考えている男性と、どうも妻とうまくやっていけないと感じている既婚男性にオススメしたい本だ。(俗説的で信頼性にかける部分も少なくないが、気軽に読めるという点で推薦したい。ホルモンとか脳の話は、読み飛ばして良い)
離婚を視野に入れた結婚を
前にも一度主張したことがあるが、結婚する場合には離婚も視野に入れるべきである。離婚も珍しくない時代である。最初は好きで結婚しても、一緒に暮らすうちに嫌いになる例なんていくらでもある。
「自分にはない性格を持っているから」という理由で結婚する人も少なくない。そんな人たちが今度は「性格の不一致」を理由に離婚するから世の中不思議である。前にも書いたように、恋愛は誤解であり、相手のいいところばかり見えてしまう。欠点すらも美点に感じられてしまう。危険である。
『男が語る離婚』を読めば、過ちに気づき、冷静になって再考できるかもしれない。文庫本1冊で不幸の谷底へ転落することが防げるのなら、安いものだろう。
本に出ている悲しい例を読めば、結婚の悲しさと専業主婦の愚かさを知ることができる。専業主婦という悪に屈せず、男性には光ある人生を歩んで欲しいと思う。
Yas的日常
朝食からペスカトーレスパゲティ。重い。(8:49)
品川庄治コントライブ『INSTANT』見る。(10:20)
代官山のカフェで専業主婦に足を踏まれる。またか。専業主婦に「裁きの雷」を!(13:12)
『カイジ』を渋谷の漫画喫茶バグースで読む。「質問すれば答えが返ってくるのが当たり前か…? バカがっ! とんでもない誤解だっ! 世間というものは、とどのつまり……肝心なことは何一つ答えたりしない…………!」(17:15)
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東京で一番安い居酒屋 (2004-03-22)
東京で一番安い居酒屋
ゲーム業界の友人と哲学科の友人と新宿で飲む。月曜だというのに。
「東京で一番安い」という宣伝文句の居酒屋「一休」で飲んだ。男3人で、約7000円だ。たしかに激安だ。酒は美味しくはないが、飲めないレベルじゃない。料理も同様。安くあげたいなら「一休」はオススメ。ただし300円払って会員にならないと、ここまで安くはならない。
安かった、とアピール・自慢するのは、本当はいかに自分が激安人間かをアピールしていることなのである。お金のある人ならば、料理や酒のレベルが同じでも、値段の高い店にいく。レベルの低い人間を見なくてすむからだ。ちょうど列車でいえばグリーン車みたいなものだろうか。あれは高い金を払わせることで人間を選別しているのである。
安い店に行くのはそれなりに安い人間なのだ。安く飲んだ、ある商品を安く買った、という自慢は、己の激安人間ぶりをアピールしているにすぎない。
(でも「一休」は値段の割にはいい店だと思います。)
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なぜ占いは女性の間で流行るのか (2004-03-23)
なぜ占いは女性の間で流行るのか
占いが女性の間で流行するのは、自分自身で未来を切り開くことが困難だからである。
占い好きな女性
男性よりも女性の方が、占いが大好きである。これは間違いない。女性誌の方が占い記事が多く、また占い専門雑誌も発売されれている。(毎回ネタが尽きないのか、内心心配だ)
女性は論理的な思考を苦手とするので占いという馬鹿げたものを信じてしまう、という分析もあるのだが、あまり面白くない。占いとという文化装置という点から、女性が占いを求める理由を考えてみたい。
文化装置としての占い
占いは一種の娯楽・遊びである。遊びは一見すると無駄なように思えるが、実は人間にとって有益な働きをしていることもある。たとえば、社会学者の石川准は、黒人文化の中で親しまれているゲームが、将来の社会的適応に役立っている、と指摘している。
実際黒人文化には、挑発や侮辱への耐久力を訓練するさまざまな文化装置が用意されている。<サウンディング>、<シグニファイ>、<ダズンゲーム>などと呼ばれる挑発ゲームがそうである。こうした挑発ゲームでは、挑発に傷ついたりたじろいだりカッとしたりしたほうが負けとなり、喧嘩を買わずに売り続けられたほうが勝ちとなる。黒人たちは子どものころから繰り返しこうした遊びをおこなって、挑発や侮辱にたじろがない精神の耐久性と挑発へのとっさの応酬力を鍛えている。
(『感情の社会学』世界思想社 p.190)
黒人として差別され、不遇な人生に耐えうるだけの能力を、子供のころから遊びを通して身につけているのである。
占いという文化装置も、女性に対してなんらかの適応能力を与えていると私は考える。
祈り信じること
社会学者の山田昌弘は、「専業主婦に出来ることは祈り信じることだけ。専業主婦に未来はない」と述べている。(『家族というリスク』)
専業主婦は夫に寄生した存在であるため、自分の人生は夫次第である。自分がいくら家事を一生懸命やったところで、給料が上がって生活水準が上がるわけではない。夫と夫の会社が将来どうなるか、ただ「祈り信じること」しか出来ない。だから専業主婦はやめておいたほうがいい、というのが山田の主張のひとつである。
山田もそうなのだが、男性の視点からすれば、「祈り信じること」しかできない他人に依存してしまう人生を選ぶ専業主婦は、不思議な存在である。しかし、女性は小さいころから、「占い」という文化に接しているのである。そのため女性は、自分の力ではどうにもならない専業主婦という存在を受け入れていられるのだ。
女性は、祈り、信じ、「運命」というありもしないものを受け入れて、人生を正当化させている。女性の幸せは、結婚によって大きく左右される。夫の年収次第で、生活水準が大きく違う。もちろん生活水準がすべてではない。しかし結婚(とくに恋愛結婚)という運の要素の強い出来事で、自分の人生が大きく変わってしまう。
黒人が挑発ゲームで差別に耐える力を身につけるように、女性も「占い」によって自分ではどうにもならない、幸せすら夫次第、という人生に適応しているのだ。だから、「占い」がなくなったら、女性にとってこんな苦痛なことはない。逆に「占い」に頼っているぶん、女性の人生はまだまだ他人次第ということである。
占いが女性の間で流行するのは、自分自身で未来を切り開くことが困難だからである。
Yas的日常
セブンイレブンで買った『へーゼルナッツチョコレートアイスクリーム』の味が普通だった。
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占いが当たってしまう理由 (2004-03-24)
占いが当たってしまう理由
「占い」そのものが人間の行動を変えるため、結果的に占いは的中してしまう。
的中してしまう占い
タロット占い師の方から、「未来を予測した占いがなぜか当たってしまう。どうして当たってしまうのか。腹立たしい」というメールをいただいた。今日はこれをネタにしたい。
まず、人間は占いが当たったと思い込みやすく、そのことを人に話したがる。天気予報が的中したからといってテレビ局に報告をする人はいない。しかし、占いが的中した場合、占い師に報告する人はいるだろう。その結果、的中した例ばかりが報告されてしまう。この種の心理的なエラーはよくあることで、挙げたらきりがない。
もうひとつ、占い自体が当人の未来を変化させてしまう場合も多い。これはアメリカの社会学者マートンが述べた「予言の自己成就」に近い。
予言の自己成就
「予言の自己成就」とは、ことわざでいえば「ウソから出たマコト」である。本来的中するはずのない予言が、予言したことによって現実に成就してしまう現象だ。
ある状況が起こりそうだと考えて、人びとが行為すると、そう思わなければ起こらなかったはずの状況が、実際に実現してしまう。
(「預言の自己成就」『命題コレクション 社会学』 p.80)
マートンは、銀行の例をあげている。銀行の支払不能の噂がながれ、お金を預けている人は銀行からどんどんお金を引き出してしまった。その結果、本当に銀行が支払不能に陥ってしまったのだ。噂がなければ支払い不能になることもなかったのに。
また、受験ノイローゼの例もあげ、「受験に失敗するのではないか」という不安が実際に受験失敗を引き起こしてしまう、と述べている。
たとえ占いがインチキだろうと、その結果を人が信じてしまうと、実際に占いの通りになってしまうことがある。「絶対に3ヶ月以内に結婚すべき素敵な男性が現れます」という占いを信じてしまえば、3ヶ月以内に出合った男性を「素敵」と思い込み、その人と結婚すべきなんだと勘違いし、実際に結婚してしまう。
本当は未来なんて分かるはずのないことなのだが、結果的にこうして占いが的中してしまうのだ。
もちろん、すべての占いで「予言の自己成就」が起こるわけではない。現実のものとならないものも多いだろう。しかし、占いが未来を予測するものではなく、占いそのものが未来に影響を与え、未来を築いてしまうという事実があることも、確かなのである。
「占い」そのものが人間の行動を変えるため、結果的に占いは的中してしまう。
Yas的日常
『anan』を立ち読みしてたら、専業主婦の子どもにタックルをくらった。
『スタンダード 反社会学講座』が本になるらしい。『スタンダード 反社会学講座』からは、2パーセントぐらい影響を受けている。興味がある方はどうぞ。実はネタがかぶってしまわないよう気をつけている。
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予知夢の確率計算 (2004-03-25)
予知夢の確率計算
夢に出てきた知人が死んでしまったという「予知夢」を体験する人は、1年間で何千人もいる。
なぜ占いが当たったと思い込んでしまうのか
人は、占いが当たったと思い込んでしまいやすい。このメカニズムを心理学的に論じた本として、『超常現象をなぜ信じるのか -思い込みを生む「体験」のあやうさ-』(菊池聡 講談社ブルーバックス)を薦めたい。値段もお手ごろなので、読みやすいと思う。
人は自分が見たものではなく、見たいものを見てしまう。占いによって自分の認識の「スキーマ」を決めてしまい、それによって物事を観察してしまう。
ハーバード大学のブルーナーとポストマンの実験を紹介しよう。12枚のトランプを被験者に見せて、短時間で記憶させる実験を行った。トランプの中には5枚のスペードのエースが入っている。しかしそのうち2枚は、通常の黒色ではなく、赤色のスペードだ。
実験の結果は、多くの人がスペードのエースは3枚としか報告できなかった。赤色のスペードのエースは見たことがないため、それをスペードのエースとして認識されなかったのである。
私達はありのままの世界を見ているのではない。自分の認識のパターンによって、世界の見方が変わってしまう。占いによってある期待を抱かせれば、その人が認識する世界もまた違って見えるだろう。
予知夢の確率計算
占いをなぜ当たったと思い込んでしまいやすいのか、簡単には説明しきれないので、興味のある方は菊地の『超常現象をなぜ信じるのか』を読んでみてほしい。コンパクトに面白くまとまっていると思う。
ついでなので、もうひとつだけ本の中のネタを紹介したい。菊地は「予知夢」の確率を計算している。これが面白い。(p.159〜)
問題
あなたが知人の誰かを夢で見たとします。そしてまったくの偶然で、その日に、まさにその人が亡くなってしまう確率はどれくらいでしょうか。
また、このような偶然の体験は、日本中で一年に何回くらい起こると考えられますか。
- 夢に出てくる可能性のある知人を100人とする
- 100人のうち、50年後に半数が死亡すると仮定
- ある1人を50年間に1度だけ夢をみるとする
- 自分の今後の人生を50年とする
この条件の下で確率を計算すると、偶然の一致が起こる確率は、0.003となる。少ないように思えるが、日本人の大人の人口を約8000万人とすると、このような偶然の一致は、日本中では1日に約12件、1年では4000件以上起きている計算になる。
夢に出てきた人が死んでしまうという「予知夢」は、決して珍しい出来事ではない。さらに、
- 皿が割れてしまった
- カラスが庭先に来て鳴いた
- 普段寄り付かない野良猫がすり寄ってきた
- 猫が騒々しかった(単なる発情)
なんてものまで、人は知人の死と関連付けてしまいやすい。親戚一同が集まれば、誰か1人ぐらいは、このような経験をしているはずである。確率的にとくに珍しい現象ではないのだが、人は「あの人の霊が猫にのりうつって、最後のお別れの挨拶をしにきたんだ」などと誤解してしまいやすい。特に専業主婦はこの手の話に弱いので注意が必要だ。
見たこと、感じたこと、体験したことが正しいわけではない。
Yas的日常
理屈が通じないDQNや専業主婦ほど恐ろしい存在はない。『ファニーゲーム』(DVD)を見て、そう思った。納得のいかない、不快な犯罪。現実の犯罪もこんなものなのだろう。
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データコレクション追加 (2004-03-27)
Yas的日常
春らしい天候。
これから新宿御苑で花見の予定。1人で花でも見てきます。その後、夕方から友人らと新宿で飲む予定。
データコレクション追加
昨日からサイトのあちこちに手を入れてます。主な修正点は次の通り。
- テーマを変更。(トップページ左上に表示)
- 1つの日記記事へのリンクURLを変更。1つの日記だけを表示する形式にした。(昔の形式でも問題なし)
- データコレクションを追加。
- 日替わり表示のトップページの「名言」を「シフクノオト」に変更。
Mr.Childrenのニューアルバム『シフクノオト』は4月7日発売。どうぞよろしく。
新たに「Simple データコレクション」のページを作りました。統計データなどを用いた過去の日記一覧です。過去の日記を読み返してみるのも面白いかと。どうぞお楽しみください。
ひさびさに自分の過去の日記を読み返してみて、意外に統計データを用いている日記が少ないことに驚いた。結婚についてはもっと深く分析してもいいのではないだろうか。今後の課題か。
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日本人はイナゴをよく食べる (2004-03-28)
日本人はイナゴをよく食べる
日本人はイナゴを食べる。一人あたり年間で数匹のイナゴを消費しているらしい。
長野人はイナゴ好き
土曜の夜、友人と飲んだ。長野県出身の人から、長野ではイナゴを佃煮にして食べる、という話を聞いた。私の出身は東北だが、東北でもイナゴを食べる習慣はある。幼稚園の運動会の時の出店で、イナゴが袋につめられて売られていた憶えがある。
しかし、東京の足立区の人は、イナゴを食べたことがないそうだ。売っている場面を見たこともないらしい。イナゴはマイナーな食べ物なのだろうか。
家に帰り、イナゴについて調べてみた。すると、なんとほぼ全国区でイナゴが食べられているという事実が明らかになった。
イナゴは日本最大の食用昆虫
(社)農林水産技術情報協会によると、イナゴは日本で最も食されている昆虫で、日本で捕れるイナゴだけでは需要量に追いつかず、中国からイナゴを輸入して消費しているそうだ。
また、大まかな計算ですが、すべての日本人が少なくとも1年に平均数匹のイナゴを食べていることになります。 これが多いか少ないかはともかく、これが日本最大の食用昆虫の消費の実態です。
(『食虫のメジャー「イナゴ」の佃煮』(社)農林水産技術情報協会)
イナゴは日本で最もよく食べられている昆虫で、「佃煮」としてよく食べられている。また、栄養価が高く、健康食品でもあるらしい。
イナゴを好んで食べるのは日本ばかりではありません。イナゴ類とその親せき筋のバッタ類は、世界的に食用昆虫の花形といえます。とくにアフリカでは飛蝗(サバクトビバッタの仲間)が時々大発生し、移動しながらすべての農作物を食いつくし、しばしば深刻な飢饉を招いていますが、その一方で飢えを補っているのがバッタそのものです。
もしも大災害に見舞われ食糧難におちいったら、イナゴでも食べて飢えをしのぐとよいかもしれない。
イナゴは日本でもっともよく食べられている昆虫である。
Yas的日常
地元の漫画喫茶のアイスコーヒーが激薄だった。
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恋愛結婚と見合い結婚の推移 (2004-03-29)
恋愛結婚と見合い結婚の推移
40年ほど前までは、恋愛結婚よりも見合い結婚の方が多かった。今ではほとんどが恋愛結婚である。
人気のない見合い結婚
奇をてらわない、結婚に関する基本的な話をひとつ。
見合い結婚は人気がない。今では喜んで見合い結婚をする人はほとんどいないのではないだろうか。恋愛結婚ができず、異性との出会いが限られている人たちが、お見合いをするのだろう。
また結婚相談所による結婚は、データを媒介としたお見合いだと思うのだが、宣伝文句は「恋が見つかる」「素敵な出会い」などの恋愛を想起させるものばかりだ。
見合い結婚は恋愛結婚よりもワンランク下のものというイメージがある。恋愛状態に陥って、うっかり結婚してしまい、うっかり愚かな専業主婦になるよりも、堅実で冷静な見合い結婚の方がお互いにとって良い場合もあると思うのだが、なぜか多くの人が恋愛結婚で人生からドロップアウトしていく。
恋愛と見合いの推移
40年以上前は、恋愛結婚よりも見合い結婚の方が多数派だった。恋愛結婚が主流となったのは、ここ数十年の話である。国立社会保障・人口問題研究所の統計をみてみよう。
恋愛結婚と見合い結婚が交差したのは、1960年代である。1965〜69年に、恋愛結婚が48.7%、見合い結婚が44.9%となり、恋愛結婚が見合い結婚を上回った。
2000年以降では、恋愛結婚が87.6%、見合い結婚が7.3%となっている。(残り5.0%は、その他・不詳)
恋愛結婚の急増と見合い結婚の激減のグラフは、分かりやすくて興味深い。結婚の形態が、わずか数十年で綺麗に逆転してしまったのだ。
この恋愛結婚の増加を、私は良いとは思っていない。人間はそんなにも恋愛できるものなのだろうか。どう見ても不細工な人や人間的魅力に欠ける人は必ず存在する。こうした人まで無理に恋愛をして結婚しなければならない社会の方が、異常とはいえないだろうか。
40年ほど前までは、恋愛結婚よりも見合い結婚の方が多かった。今ではほとんどが恋愛結婚である。
Yas的日常
深夜のスーパーは専業主婦が少なくて良い。
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定職につかない人の方が恋愛結婚しやすい (2004-03-30)
定職につかない人の方が恋愛結婚しやすい
定職につかない人の方が、見合い結婚ではなく、恋愛で結婚しやすい。
夫の職業別結婚形態
ひきつづき、恋愛結婚と見合い結婚について。
今日は男性(夫)の職業と結婚形態について書いてみたい。
上のグラフは、夫の職業分類別の結婚形態割合である。
- 農林漁業は恋愛結婚が少なく、見合い結婚が多い
- 臨時・日雇い・無職は見合い結婚が少なく、恋愛結婚が多い
この2点が特徴的である。
なぜ恋愛結婚が多いのか
臨時・日雇い・無職(フリーターなどを含む)の人たちの多くが、恋愛によって結婚しているのはなぜだろうか。理由として思いつくのが、次のふたつ。
- 農業や他の職業と比べて異性と接する機会が多く、恋愛機会に恵まれているから
- 臨時・日雇い・無職には見合いの話なんて来ないから
前者の豊富な恋愛機会による原因も十分考えられるが、私としては後者の「見合いの機会すら与えられないから」という原因を支持したい。無職であれば、ほとんど見合いの話はないだろう。見合いの際には、必ず職業もセットで紹介されるはずだ。男性を紹介する人が、無職の男を紹介するはずがない。
「結婚の条件 -現実的な女性-(2003/3/18)」で明らかにしたように、女性は男性の経済力や仕事を重視するのである。
つまり、恋愛機会が多いから恋愛結婚の割合が高いのではない。見合い結婚の機会が与えられないから、相対的に恋愛結婚の割合が高まってしまうのだ。
あえて言おう、無職であると!
ここから本題からはずれる。男性の場合、無職というとあまりいいイメージを抱かれない。非難の対象にもなる。しかし、女性の無職には、「家事手伝い」「専業主婦」というラベルが貼られ、非難されることはあまりない。そして、女性は「家事手伝い」(無職)だろうと、結婚の際に不利になることはあまりない。男性が無職だったら、見合いの話すら来ないのに。
これはおかしい。企業内での男女平等が叫ばれているのにもかかわらず、同じ無職でも男子と女子とで社会的な差別があり、それが堂々とまかり通っている。労働市場での男女の機会平等や均等を目指すならば、市場から阻害された存在に対するまなざしも改めなければならない。
「家事手伝い」「専業主婦」と呼ばず、「無職」と呼んだらどうか。実際に「無職」なんだし、なにか不都合があるだろうか。それがイヤなら、無職の男性にも「専業主婦」に相当するラベルを与えてあげなければならない。
定職につかない人は、見合いの機会すらない。
Yas的日常
『13階段』(DVD)を見た。山崎努が良い。
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