憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記

2004 年 08 月

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オフレポ(暫定版) (2004-08-02)

オフレポ(暫定版)

新宿で開催した「日記才人限定オフ」のレポート(暫定版)を忘れないうちにメモしておきたい。

ただ今、8月2日の0:40。明日からふたたび仕事。まだ酔った状態だが、忘れないうちにオフ会の記録を刻み込んでおく。

以下、会話の内容と構成の比率。騎乗位の話題が多かった。

  • 騎乗位 23%
  • 日記才人界隈の話 27%
  • サイト作成について 20%
  • 専業主婦の話 12%
  • ミスチルの『くるみ』 0.001%
  • 東野圭吾 1%
  • ライトノベル 1%
  • 学校・教育・学歴 2%
  • 恋愛 4%
  • 日記才人は「にっきさいじん」じゃなくて「にっきさいと」と読むんだよ 0.1%

合計すると100パーセントに成ってないけど酔っているし考えるのも面倒だしこの辺でカンベンして欲しい。もう寝たい。

有名人が参加されて緊張しましたが、すごく楽しいオフ会でした。

日記才人オフなのに専業主婦が参加しないのは人数の割合からしておかしい!という意見があった。それは私のサイトが主催するオフ会だからだろう。それはみんなわかってる。というわけで、今度、「日記才人専業主婦限定オフ」を開催します(断言)。詳細は未定。子連れもあり。

とりあえずオフレポ(暫定版)はこんなところで。詳しいことはまた明日。


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「割れ窓理論」で秋葉原が滅びる (2004-08-02)

「割れ窓理論」で秋葉原が滅びる

「割れ窓理論」の応用で、秋葉原が滅びてしまう。

「割れ窓理論」を応用

電気街の違法陳列撤去=秋葉原、犯罪の温床摘み取れ

電気街として有名な東京・秋葉原で、警視庁万世橋署と千代田区などが協力し、路上にはみ出した電器店の違法陳列や立て看板の撤去に乗り出した。軽微な犯罪を取り締まることで、凶悪犯罪を防ぐという「割れ窓理論」を応用。安全な街づくりを目指す試みだ。

 割れ窓理論は米国の学者ジョージ・ケリング博士が提唱。建物の窓ガラスが割れたまま放置されていると、管理人がいないと思われ、凶悪な犯罪が増えるという理論。ニューヨーク市では地下鉄の無賃乗車や落書きを「割れ窓」に見立て、これらを徹底的に取り締まった結果、劇的に犯罪が減ったとされる。 (時事通信)

「割れ窓(broken windows)理論」は「破れ窓理論」とも訳されることが多い。知名度の高い理論である。90年代にジュリアーニ・ニューヨーク市長が「割れ窓理論」を応用し、犯罪の発生率を低下させた。

引用した記事では「管理人がいないと思われ犯罪が増える」と書いてあるが、そうではない。ガラスが割られた状態を放置しておくと、それよりも大きな無秩序が増加する。小さな無秩序が大きな無秩序を呼び込み、そして犯罪が発生するという理論である。綺麗に整頓されている部屋なら、人はそれを維持しようとするが、多少散らかっていればあまり気にもならないし、ますます散らかっていってしまう。ちょっとした無秩序を放置しないことが、秩序維持には重要なのである。

割れ窓理論の応用は効果があったのか

割れ窓理論は理解しやすいし、納得のいく理屈ではある。しかし果たしてその応用がニューヨーク市で本当に成果を上げたのだろうか。

まず「割れ窓理論」そのものに対する批判もある(Harcourt,Bernard E. 2001. Illusion of Order:TheFalse Promise of Broken Windoes Policing.Harvard UniversityPress)。ここでは「割れ窓理論」は否定され、秩序の維持が街頭の犯罪率と関係しないとされている。

また、そもそもニューヨークで犯罪率が低下したのは、アメリカ経済の復調とそれによる失業率の低下の方が、影響としては大きいと考えられる。犯罪予備軍の減少そのものが犯罪率を低下させたのであり、「割れ窓理論」の応用が成果を上げたわけではない。もちろん影響がなかったわけではないが、少なくとも「割れ窓理論」の応用――落書きを消したり街を綺麗にしたこと――だけが犯罪率の低下につながったわけではあるまい。

秋葉原はどうなる

「割れ窓理論」の応用により、秋葉原の違法陳列などが撤去されてしまう。そして小さな無秩序が消え、秩序が維持されようとしている。

しかしもともと秋葉原は小さな無秩序の集合であり、混沌とした街である。そしてそれが秋葉原の魅力なのである。その魅力である小さな無秩序を排除し、いったい何をしようというのか。「割れ窓理論」の応用がどこまで効果を及ぼすかわからない。ただ単にキレイな街に変わり、面白みのない街に変貌してしまう可能性だってある。秋葉原が滅びてしまうのだ。

外国人やオタクを減らそうとしているのだろうか。仮に秋葉原から外国人やオタクを締め出しても、他の街へと流れるだけである。統計的に、ある地区の取締りを強化し犯罪率を低下させると他の地区で犯罪率が増加してしまう。犯罪者が他へと移動するだけだからである。秋葉原がキレイになれば、同じことが起こるだろう。周辺に飛び火するだけだ。

むしろ小さい無秩序は秋葉原という街に閉じ込めておいたほうが良い。そのほうが秋葉原としても魅力的であるし、他の街にとっても自分の街の秩序が維持される。

「割れ窓理論」の応用で、秋葉原が滅びてしまう。

Yas的日常

某サイトに書かれていた昨日のオフ会のレポートを読む。記憶が蘇り、若干鬱になる。W(ダブルユー)のマネをして写真をとったことを激しく後悔。

ちなみに私についての印象は、「爽やか系好青年」とか「温厚で爽やか」だそうな。専業主婦の方々は誤ったイメージを抱いている人が多いと思う。(自分が原因か?)


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夫から妻への暴力 -「誰のおかげで!」と言ってはならない- (2004-08-05)

夫から妻への暴力

「誰のおかげで生活できるんだ」と妻に言うと、妻にはそれが暴力として捉えられてしまう。

妻が受ける暴力

ある方から、「夫からの暴力に苦しんでいる専業主婦は多い」という話をうかがった。原因としては家族が「聖域」だからであろう。外部から遮断された領域で、他者のコントロールが効かない聖域内では、上に立つものが権力を行使しやすい。

「家庭」が公的領域の支配や原理の及ばない「神聖不可侵」の私的領域として確立されたことは、必ずしもそれが「友愛のユートピア」であることを意味しない。私的領域はいつでも閉ざされた専制の小王国と化す。

(上野千鶴子『家父長制と資本制』岩波書店 1990 p.61)

閉ざされた空間での逸脱や犯罪という意味では、学校内での教師の犯罪と似ている。教師がもともと犯罪に走りやすいように、実は家庭内での夫(あるいは妻)は逸脱した行動をとりやすい。(参考『教師はもともと犯罪に走りやすい (2004-07-27)』)

暴行の実態

さて次に夫から妻への暴行の実態をデータで見てみよう。

夫から妻への暴力

大声で怒鳴られたり、家庭内で性行為の強要(レイプ)があったり、怪我をさせられた経験のある女性は少なくはない。これだけの女性が被害を受けているなら、大きな問題である。そして、被害者の中には専業主婦もいると思われる。

「誰のおかげで生活できるんだ」と言ってはいけない

しかしデータを良く見てみると、暴力とは思えない項目がある。「誰のおかげで生活できるんだ」と夫から言われるのは、果たして暴力だろうか。これが暴力なら、妻が夫に「安月給」というのも暴力になる。

不思議なことに専業主婦は「誰のおかげで生活できるんだ」と言われるのが嫌らしい。夫の稼ぎを利用して自分は楽して生活したい、と思って結婚する人は統計的にも多い。それなのに結婚してからそのことを夫から指摘されると腹を立てる。もちろん、全員が自分の意思で専業主婦になったわけではないが、実に不思議である。

とはいえ暴力は暴力。男性は「誰のおかげで生活できるんだ」などと自分の妻に言ってはならない。これは妻への暴力になる。美人に「ブス」と言っても暴力にはならないが、ブスに「ブス」と言うと暴力になる。同様に、夫のおかげで生活できている妻に「誰のおかげで生活できるんだ」と言ってしまうと暴力になる。

事実がどうあれ、暴力はよくない。「誰のおかげで〜」とは言ってはいけない。

家庭内では夫から妻への暴力が横行している。

「誰のおかげで生活できるんだ」と妻に言うと、妻にはそれが暴力として捉えられてしまう。

Yas的日常

プールでゆったりと泳ぐ。


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妻が逃げ出さない理由 (2004-08-06)

妻が逃げ出さない理由

妻が暴力を振るう夫から逃げ出さない理由は、逃げ場所がなく、古い規範意識にとらわれているから。

暴力を受ける妻の心理

先日の夫から妻への暴力の話の続き。

暴力を振るう夫となんてさっさと別れてしまえばいいのに、と私は思う。しかし現実には被害にあっても別れない妻は多いし、問題が顕在化せずにじわじわと悪化していくケースも多い。なぜ、妻は別れないのか。

内閣府は、夫の暴力が妻にどんな心理的影響を与えているのか調査をした。申し出があった62人に対する面接調査で、妻の心情の詳細が浮き彫りになった。サンプルに偏りがあることと、情緒に安定性が欠ける点を差し引いてデータを読む必要があるが、貴重な調査である。以下に、暴力を受けていたときの妻の心理状態を列挙したい。並びは回答の多かった順である。

  1. もし家をでたら、相手が追いかけてきて私はきっと殺される(52人)
  2. 誰も助けてくれる人はいない(51人)
  3. 裁判や警察などは自分を助けてくれない(49人)
  4. 暴力を振るわれていることを誰にも知られたくない(48人)
  5. 私ひとり、または子どもと自分だけで生きていくことができるか不安だ(47人)
  6. 今はひどいが何とか状況をよくすることができる(47人)
  7. 家族は一緒にいるべきである(46人)
  8. 相手が暴力を振るうのは私に非があるからである(45人)
  9. 家族全員が幸福に暮らすという理想から外れることが不安だ(44人)
  10. 結婚生活をうまく進め、まるくおさめるのは女性の役目だ(42人)
  11. 相手がいないと経済的に生活できないので別れられない(41人)
  12. 相手を助けることができるのは私しかいない(39人)
  13. たとえ暴力を振るう親でも、子どもには父親が必要だ(38人)
  14. 自分より相手のことがかわいそうだ(38人)
  15. 暴力を振るっていない時の相手はとても魅力的だ(37人)
  16. 結婚した時一生一緒にやっていくと誓ったのでそれを守りたい(37人)
  17. 暴力を振るう相手を見捨てることはできない(34人)
  18. 暴力を振るわれるのは私のせいで、私はこうなっても仕方がない(31人)
  19. 私が受けている暴力はたいしたことはない(30人)
  20. 子どもを取り上げられてしまうのではないかと思うと別れられない(30人)
  21. もし別れたら相手が自殺するかもしれないのでこわい(24人)
  22. パートナーのいない女性は半人前である(14人)
  23. 男性とは暴力を振るうものであるから、仕方がない(14人)

出典は内閣府「配偶者等からの暴力に関する事例調査」(2002)による。カッコ内の人数は、各項目について「少し思っていた(思っている)」「かなり思っていた(思っている)」「強く思っていた(思っている)」と答えた人の合計。

なぜ逃げ出さないのか

なぜ妻は逃げ出さないのか。データから読み取れる理由としては、

  • 逃げ場所がない
  • 家族の<標準>から外れたくない
  • 妻がいわゆる<いい人>である

という3つの理由が大きい。

誰も助けてはくれないし、警察も相手にしてくれない。家を出て行っても生活力がない(おそらく専業主婦なのであろう)ため、逃げられない。

また、規範意識の強さも逃げ出せない理由だ。結婚してこそ一人前であり、家族は父親がいてみんな一緒であることが幸福なのだという意識が強い。結婚は一生のものであり、離婚はよくないと考えている。そのため、逃げられない。

最後に、妻が<いい人>である場合、妻は逃げ出さない。暴力を振るわれるのは私のせいと考えたり、暴力を振るう相手を見捨てられないと思っている妻もいる。こうした女性は、逃げ出さずに家庭内にとどまり、暴力を受け続ける。

家庭生活から逃げることは可能だし、<家族はかくあるべし>なんて規範は強すぎると個人を苦しめるだけだ。必要以上に<いい人>になって自分ひとり負担や被害を負う必要はない。状況によっては別れたほうがいい場合もあるし、また別れるべきなのだ。

夫から暴力を受けても妻が逃げ出さない理由は、「逃げ場がない」「標準的な家族にとらわれている」「妻がいい人である」の3つ。

Yas的日常

インパルス(お笑いタレント)のライブビデオを見る。


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なぜレイプしないのか (2004-08-08)

なぜレイプしないのか

「なぜ男性の多くがレイプをしないのか」と問うことが、レイプを防ぐ第一歩である。

暴力シリーズ

前回に引き続き、夫から妻への暴力について。今回はレイプについて書くことにしたい。

そもそも結婚している以上、性行為は互いに同意しているようなものである。結婚式とは新郎新婦が「これから私たちはセックスしても誰からも文句を言われることが絶対にありません」と宣言しているようなものである。逆の見方をすれば、夫婦以外とセックスした場合、文句を言われてしまう。

とは言うものの、人間やりたくない日もある。肉体的に不可能な日もある。しかしそれでも妻が嫌がっているのにも関わらず、夫がセックスを強要する場合がある。総理府の「男女間における暴力に関する調査」(2002)によると、妻のうち17.7%が夫から性的な行為を強要された経験があるという。夫から妻へのレイプは、決して少なくはない。逆に妻から夫へのレイプはごく少数である。

なぜ、夫は妻をレイプするのか。なぜ男性は女性を無理やりにセックスを強要するのだろうか。

もしレイプのチャンスがあったなら

もしもレイプのチャンスがあるなら、男性はレイプをしてしまうものなのである。

心理学者デヴィッド・M・バスの『女と男のだましあい ――ヒトの性行動の進化――』(草思社 p.270)に、興味がそそられるデータがある。

ある調査で、男性に対して次のような質問を行った。「かりに、ある女性にむりやりセックスを強要できる機会があったとする。逮捕されたり他人に知られたりする危険はなく、性病をうつされる恐れも社会的評判が落ちる恐れもない。もしそうなら、あなたはどうするか?」この質問に、男性の35%が、そうした状況の下ならばセックスを強要するかもしれないと答えた。

自分にとって不利益な事態に絶対にならなければ、男性の多くはレイプに惹かれるのである。男は生まれながらにしてレイプ魔であり、日常ではその悪魔が水面下に沈んで顔を出していないだけなのだ。

発想の逆転

レイプ願望は決して特殊な人間にだけあるのではない。このことから、「なぜ夫、男性はレイプをするのか」という問いを修正しなければならない。すなわち、「なぜレイプするのか?」ではなく、「なぜレイプしないのか?」という問いの逆転である。

家庭外の現実世界の中で、レイプをする男性は少数である。願望は潜在しているのにもかかわらず。レイプをしないのは、社会的な力が作用しているからである。であるから、家族という特殊な社会の中ではレイプを抑止する力が機能せずに、夫は妻をレイプするのだ。

「なぜ男性の多くがレイプをしないのか」と問うことが、レイプを防ぐ第一歩である。

Yas的日常

横浜国際競技場

ヒマだったので、横浜国際競技場まで足を運ぶ。横浜FマリノスVSレジーナのドリームマッチを見るためである。ビール片手に夜空の下でサッカー観戦というのも粋なものではないか。

なんといっても見所はレジーナ中村俊輔である。昨日、北京で中国と戦ったのに、今日また試合である。大丈夫か?と心配していたが、案の定後半の途中で交代となった。中村目当ての人が多かったから、お客さんも不満げ。でも仕方あるまい。

写真

写りはよくないが、写真を2つアップしておく。目の前に専業主婦4人組(専業主婦クインテット)が陣取っていて、シャッターコースを見事に防いでいた。それをかいくぐってのショットである。

生で見るとカッコ良さ1.3倍だった。


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ニュースの定義 (2004-08-11)

ニュースの定義

ニュースとは、人をおしゃべりに駆り立てる何かである。

ニュースサイトからのリンク

アクセス解析を見てみると、最近はニュースサイトからのリンクが少ないことに気がつく。ニュースサイト好みの話を書いていないからだろう。

ウチみたいなコラムを書いている立場だと、誰に向けてテキストを書くかで悩むことがある。私はたいてい次の2つのどちらかに向けて文章を書いている。

本来、テキストを書く人間ならば、ニュースサイト管理人などの存在は気にせずに、読者の方を向いて書くべきである。しかし、普通の読者に向けて書いたところで反応はない。一方でニュースサイト向けに書いたネタだと、管理人が勝手にリンクを貼り、記事を紹介してくれる。この反応が面白い。自分の書いたものが次々とリンクされていく快感がある。

某大手サイトの管理人さんから、同じような話を聞いた事がある。反応が欲しいがために、反応しやすいニュースサイトの方を向いてしまう。本当は読み手を意識しなければならないのに、と。

ニュースとは何か

19世紀アメリカの近代的ニュース編集の開拓者、C.A.デイナのニュースの定義は、「ひとをおしゃべりに駆り立てる何か」である。ニュースとは、我々の感情を揺さぶるものでなければならない。よく言うように、「犬が人を噛む」ではニュースにならない。「人が犬を噛む」からニュースになるのである。当たり前で興味をひかないものはニュースではない。戦争の模様を伝えるニュースも、我々が面白いと感じるから報道されるのである。無関係な地域の紛争や空爆などは、軽いニュースとして扱われる。

ニュースサイトに取り上げられるためには、ニュースになる文章を書かなければならない。ニュースになる文章とは、「ひとをおしゃべりに駆り立てる文章」である。おそらくニュースサイトの管理人とて、誰かに自分で得た情報を伝えたくて(おしゃべりに駆り立てられて)、コラムをニュースとして取り扱っているのだろう。

誰に向けて書くのか

ニュースサイトの方を向いて記事を書いたところで、読者は別段困りはしない。読者もそこそこ面白いと思ってくれる可能性が高い。「おしゃべりに駆り立てられる」テキストは、大多数の読者にとっては面白いだろう。実際、私が書いたネタを職場や家庭で話題にする人が少なくない。

ニュースサイトに取り上げられれば、アクセス数も増える。アクセス数が増えれば注目を浴びるようになり、ニュースサイトからはますます取り上げられやすくなる。そしてまたアクセスが増える。

アクセスを増やしたければ、ニュースサイトの管理人の方を向き、「おしゃべりに駆り立てられる」話を書いていけばよい。それをずっと生産していれば、いつしか人気サイトと呼ばれる日がくるかもしれない。そして同時に、ニュースのような「おしゃべりに駆り立てらる」テキスト以外は書けなくなる日もくるだろう。

・ニュースとは、人をおしゃべりに駆り立てる何かである。

・おしゃべりに駆り立てる話題ばかり書いていると、いつのまにか記事がニュース化してしまう。

Yas的日常

喫茶店にて

とある喫茶店の入り口に「中学生以下のお子様同伴のお客様の入店はご遠慮願います」と書かれた看板がかかげられていた。店主は子どもが嫌いらしい。もしくは子連れの専業主婦が嫌いなのか。

店内は静かで古めかしく、ジャズが流れていた。おそらくこの雰囲気を壊したくないのであろう。

どこかの社会学者が言っていた――地図を取り出して子連れの女性が行けない場所を黒で塗りつぶしてみれば、ほとんどの場所が塗りつぶされて地図が真っ黒になってしまう。大げさだが、たしかに子連れの立場だと、外出しにくい。食事もしにくいし、娯楽施設も利用しにくい。

おそらく結婚して子どもが出来れば、自分の中の地図を更新しなければならないのだろう。世界がまた違って見えると思う。


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錯覚を売るのが宝くじの本質 (2004-08-11)

錯覚を売るのが宝くじの本質

宝くじの本質は錯覚である。

サマージャンボの結果

サマージャンボ宝くじの当選番号が発表になったようだ。私はほとんど宝くじを買わないので、まったく関係がない。1等あたった人、おめでとう。そういえば、宝くじに当選し、3億円を手にした若い夫婦が、お互い金額を折半し、別れてそれぞれ別の道を歩んだ、なんて話を聞いた事がある。依存は結婚を維持する力となり、自立は離婚を促進させる。そんな話はどうでもよくて、今日は宝くじと錯覚の話。

ギャンブラーの錯誤

二つの宝くじの番号がある。

  • (A)11組 111111
  • (B)46組 327874

(A)と(B)の宝くじ、どちらか一方を貴方にプレゼントしたい。貴方ならどちらを選ぶだろうか。私なら(B)を選ぶ。なんとなく(B)の方が当たりやすそうだからである。(A)は当たりそうもない。「見本品」みたいな番号である。

しかし、確率を少しでも知っている人ならわかることなのだが、(A)と(B)では、どちらも同じ確率で当選する。つまり、どっちを選んでも同じなのだ。だが、私は(B)を選びたいし、多くの人も(B)を選ぶのではないだろうか。

ギャンブラーの錯誤

このようなギャンブルの確率上の錯覚を心理学で「ギャンブラーの錯誤」と呼ぶ。たとえばサイコロを6回振って、「2、3、5、4、5、6」という順番に出る確率と「6、6、6、6、6、6」と出る確率は同じなのだが、後者の方の6が連続で出てしまうケースを珍しいものだと錯覚してしまう。

頭で考えればわかることなのだが、つい直感で判断してしまうと間違える。直感とは間違えるものであり、直感を大事にしてはいけないのだ。とくにギャンブルでは。

宝くじは夢である

再び宝くじの話に戻る。先ほど挙げた(A)と(B)の宝くじは、どちらも当選する確率は同じである。しかし、(A)はなんとなく当たりそうもない。こんな1が連続して並ぶなんて、めったにありそうもない。つまり、それぐらい宝くじとは当たりにくいものなのである。

だが、(B)の宝くじを見れば、なんとなく当たりそうな気がしてくる。少なくとも(A)よりは当たりやすそうだ。そしてほとんどの宝くじ番号は、(B)のようなランダムに見える番号だ。確率的には絶望的なのに、なぜか当たりやすそうだと思ってしまう。

おそらく番号によって錯覚を起こさせ、消費者に夢を与えているのが宝くじの本質なのだ。だから私は確率が同じでも(B)の宝くじが欲しい。少しぐらい夢を見たい。

かしこい消費者とは騙されない消費者のことだろう。でも宝くじの場合、冷静に確率を考えていてはいけない。うまくギャンブラーの錯誤に陥り、将来に夢を馳せることが大事である。錯覚を売るのが宝くじの本質なのだ。

宝くじの本質は錯覚である。

Yas的日常

ミスチルのライブチケット入手。(横浜国際競技場、9月12日)

生『くるみ』でも堪能してこようか。遠くの2階席から。


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しばらくお休み (2004-08-13)

しばらくお休み

昨日プールで専業主婦と競い合ったため、筋肉痛です。まいった。

さて、諸事情により3,4日ほど更新いたしません。田舎に帰って山篭りします。

そろそろ200万Hit達成です。何か特別企画をやろうと思ったのですが、何にも思いつきません。何かしてほしい!という方はメールください。

時々 誰かが僕の人生を操っているような気がする

誰に感謝していいのかは分からないけれど

僕は今日も生きている まだもう少し君を愛していれる

良いことがあってこその笑顔じゃなくて

笑顔でいりゃ良いこと あると思えたら

それが良いことの 序章です

(『PADDLE』/作詞:桜井和寿)


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社宅と専業主婦 (2004-08-17)

社宅と専業主婦

どんな国にも社宅のある組織が3つある。

社宅を持つ組織は構成員に対して住居の変更を命令する。夫についていく妻は住居の変更により専業主婦と化す。

非自発的専業主婦

読者様から「夫の転勤などでやむを得ず専業主婦になってしまった人はどうなのか?」という主旨のメールをいただいた。

せっかく能力があっても、その能力を生かすことの出来ない場所に引っ越さねば成らない場合もある。特に結婚している場合、夫の転勤で妻もついていく場合が多い。「妻の仕事があるから」といって、夫は仕事を辞めたりはしない。反対に妻に転勤の命が下った場合、夫は妻についていくことはない。現在の収入や将来の収入を考えれば、妥当な判断と言えよう。

どうしても専業主婦になりたくない人は、結婚相手の男性の職業をチェックし、転勤のあり・なしを結婚の条件に加えておくべきだろう。社宅のある会社に勤めているなら、要注意である。

公害

社宅といえば、近所の某N社の社宅に住む専業主婦たちの行動が目に余る。というか邪魔である。ほぼ毎日、私が通勤する時間に社宅の前の歩道を占拠し、専業主婦同士でおしゃべりをしている。強固なディフェンスを突破するのも疲れるので、大きく車道の方に踏み出して専業主婦らをかわさなければならない。お年よりも迷惑しているのである。天下の公道をなんだと思っているのか。もっと端によって話をしていただきたい。税金で作られた道路が傷む。道路さんが可哀想だ。

社宅のある3つの組織

さて、専業主婦の悪口はこれぐらいにしておいて、本題に戻ろう。

社宅があるのは日本に限ったことではない。社宅のような住宅はどんな国にもある。どんな国にも社宅を用意している組織が3つある。

  • 軍隊
  • 教会
  • 官庁

この3つである(佐藤博樹ほか『新しい人事労務管理(新版)』有斐閣 p.197)。

これらの組織は、構成員に対して住居の変更を命じる。組織に雇われる人は、転勤があることを了解した上で、組織に属する。

もしも社宅という住む場所がなければ、組織の構成員は異動の命令を安心して聞くことができない。社宅があるから、将来の転勤の不安を拭い去ることができるのである。

ただし、日本の特徴として、転勤のためではない社宅の存在がある。企業の資産形成の一環として社宅を建てたり、福利厚生の一部として社宅を整備した。だが、現在ではこうした類の社宅の存廃が各企業で議論されている。

社宅に住む家庭は移動性の高い存在である。夫はひとつの企業でキャリアを形成しやすいが、妻は夫についていくために、仕事上のキャリアは積みにくい。そのため、専業主婦と化してしまう。社宅は専業主婦製造装置と言ってよい。

社宅を持つ組織は構成員に対して住居の変更を命令する。夫についていく妻は住居の変更により専業主婦と化す。

Yas的日常

夏風邪。


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不毛なる主婦の論争 (2004-08-20)

不毛なる主婦の論争

働く女性は2つの層に分裂している。キャリア・ウーマン層とパート層である。

共働きか専業主婦か

「共働きVS専業主婦」という不毛な対立がしばしば見受けられる。専業主婦は「共働きは人格的に問題がある」とか「共働きの子どもには問題が多い」と共働きを批判する。「Yasさんはどう思われますか?統計的にどうですか?」「Yasさんはもちろん共働き支持ですよねぇ」と言われることもあり、議論に巻き込まれそうになることもあった。

こうした単純な「共働きVS専業主婦」の議論は、あまり建設的なものにならない。絡んでくるのが女性だから議論にならないというのもある。が、そもそも単純に共働きと専業主婦を比較してはならないのである。

妻は4つの層に分断される

共働きといっても、キャリアウーマンもいれば、生活苦からパートに出ている妻もいる。これらは分けて考えなければならない。

社会学者の山田昌弘は、フェミニズムの影響と子どもの教育水準の上昇によって、妻が3つの層に分断されると述べている。(『近代家族のゆくえ』p.212-213)

  • 専業主婦層
  • キャリア・ウーマン層
  • パート層

親や夫が経済的に豊かで、働く必要もなく子供に高い教育を受けさせることができる専業主婦層。本人の学歴が高く、理解ある夫の元で職業生活に精を出すキャリア・ウーマン層。子どもの教育費を稼ぐために、専業主婦ではいられなくなったパート層。この3つに分断されていると山田は述べる。私はこれにもうひとつ、DQN層をつけくわえたい。そもそも子どもの教育に無関心であるために多くの収入を必要とせず、親としての一般的な責任を放置しがちな層である。気が向けば働くかもしれないが、働く気力もあまりない。

妻という存在は決して一枚岩ではなく、夫の経済レベルなどによって異なるのである。

子どものいる女性が働く理由

働く妻は「キャリア・ウーマン層」と「パート層」に分けられると述べた。具体的にデータを見て確認してみよう。子どものいる女性が働く理由(複数回答)を、以下の表にまとめた。

子どものいる女性が働く理由

子どものいる女性が働く理由として最も多いのが、「働かないと経済的に苦しいから」である。これはパート層に該当する。高すぎる教育水準についていけず、自ら働いて教育費や生活費を稼がねばならない。

キャリア・ウーマン層と思われる回答「やりがいのある仕事をしていたので,働き続けたかったから」「将来のキャリア形成のため働き続けたかった」は、やや少なめであり、キャリア・ウーマン層の薄さを反映している。

だから議論は終わらない

よくある共働き批判は、「キャリア・ウーマン層」に対するものなのか、「パート層」に対するものなのか。共働きといってもひとつじゃない。これを整理せずに話を進めても、不毛に終わるだけである。

だから、「Yasさんはもちろん共働き支持ですよねぇ」と聞かれても、まず「共働き」とは何かを明確にしないと答えられない。

働く妻は2つに分けられる。キャリア・ウーマン層とパート層である。

Yas的日常

生サンマ焼いて食べて夏風邪から快復。


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女性に関するデータの嘘 (2004-08-22)

女性に関するデータの嘘

社会的な合意を得るために、官公庁は統計データを悪用する。

働く女性と子どもの数

働く既婚女性多い地域ほど出生率高い…政府調査で判明

働く既婚女性の割合が高い地域ほど、1人の女性が生涯に産む子供の数も多い――。こんな傾向が、政府の男女共同参画会議の調査で明らかになった。

YOMIURI ON-LINE

記事の全文を読まずに見出しだけを読めば、多くの人が驚くのではないだろうか。この見出しでは、まるで女性が働けば(働きやすいならば)子どもの数が多いと述べているように思えてしまう。

農村よりも都会の方が専業主婦率が高いことが原因であろう。農村は初婚年齢も早く、結婚・子どもを産むことへの圧力も高い。まだ少子化が進んでいないのだ。だから統計的には働く女性が多い地域は産む子どもの数が多い。(理由は他にもあるが、ここでは書かない。)

ゴミを撒き散らす理由

官公庁が発表するデータには、なぜおかしなものがあるのだろうか。専門家の助言があるにもかかわらず、時に疑問符がいくつも浮かぶ調査結果が発表される。

谷岡一郎(『「社会調査」のウソ』文春新書 2000)によれば、官公庁からヘンな調査が生まれる理由は3つに分類される。

  • 動機自体は悪くない「単なる思慮不足」
  • 外部の不満の声に対する「弁明的なごまかし」
  • 将来の予算を獲得するための「政策的サポート」

今回おかしな結果を発表した理由は、記事の最後に表れている。

同会議は女性の労働と出産などの関係を検討する専門調査会を設置し、分析結果を来年夏にまとめる予定の新たな男女共同参画基本計画に関する答申に反映させる考えだ。

新しい専門調査会の設置のために、何かしらの裏づけ・データが必要だったのであろう。思慮不足によるものだとは思わない。

女性の社会進出戦略

このように、統計データは様々な形で利用・悪用される。人々が納得してしまいやすいからだろう。

とくに女性に関係するデータは悪用されやすい。女性の社会進出に関するデータを見たら、注意してデータを読みたい。政府・マスコミは女性の社会進出を煽り、労働市場へと走らせようとしている。

厚生労働省「第5回女性の活躍推進協議会議事録」を読んでみると、それがわかる。

○座長
これを言ったら不謹慎なと叱られるかもしれませんが、女性活躍の企業ランキングというのは面白いな、一度やってみたらどうかと思いながら、もし、その結果が出て、企業業績との相関がどう出るのかと考えたら、フッと心配になりました。3つのケースが考えられるわけです。トヨタを筆頭にわあーっと業績の順位がいまイメージとしてあります。女性の活躍の順位があれに非常に相関していたとしたら、これは大拍手なのです。全く逆で、業績の悪いところがこの女性活躍の上位にきていたという形、中間の全くばらばらで無関係と、この3種類のどこかに出るのですが、少し業績のいい大企業の2、3の様子を見てから、この辺は上位にきそうだという確信を持ってドーンとやるようにすべきかと思ったりして聞いていました。

(中略)

○委員
 まずデータを取ってみて、相関関係がうまくある程度出たら、そのまま出し、全くアットランダムだったら、業績とは関係ないかもしれないけれども、長期的に、国際的に見て、女性の管理者の登用が遅れているから、上げなければいけないというのを別な言い方でもって、持っていくという手もありますから...

まずは調査を行ってみて、「女性が活躍している企業ほど業績が良い」という結果が得られればそのまま公表し、逆に「女性が活躍していない企業ほど業績が良い」という結果が出たら、引っ込める。誰でもやることなのだが、政治的意図と異なるデータは見なかったことにする。女性の社会進出がいかに社会にとってマイナスになるのか、我々には知らされない。

官公庁が発表し、マスコミが流すデータには、何らかの「意図」が隠されている。それを意識しつつ、マスコミの流す情報に触れるべきだろう。

社会的な合意を得るために、官公庁は統計データを悪用する。

Yas的日常

24時間テレビ

24時間テレビで感動。

バナナマン

なんとなくツタヤでバナナマンのライブビデオを借りてしまった。

M-1グランプリ2003

M-1グランプリ2003(amazon)」のDVDを購入。レンタルとは違い、敗者復活戦の模様も収録されている。

スピードワゴンの童謡ネタは、著作権上の問題で音声がカットされている。全然笑えない。何の歌なのかすらわからないようになっている。スピードワゴン目当ての人は要注意。


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専業主婦ボランティアの害 (2004-08-25)

専業主婦ボランティアの害

ボランティアは有害でもある。

専業主婦ボランティア

ヒマだからなのか罪滅ぼしなのか自己満足のためなのか、理由は定かではないが、専業主婦の中にはボランティアに熱心な人がいる。中には面倒な労働の場での自己実現を放棄し、ボランティアの場で自己実現をしようとするために、専業主婦になろうとしている人もいる。

ボランティアに参加すれば社会から必要とされる感覚を得られるし、社会の役に立っているようにも思える。褒められることはあっても非難されることはない。しかし、現実には社会の迷惑になっていることもある。だが「善意」でやっている以上、周囲は非難しにくい。だから、ボランティアは社会にとっては諸刃の刃であり、危険性をはらんでいるのである。「地獄への道は善意で敷き詰められている」。私の好きな言葉のひとつだ。

たとえば高齢者介護

たとえば高齢者介護のためのボランティアがある。単純に考えれば高齢者のために役に立っているのだが、因果はめぐって高齢者にとって迷惑な結果を引き起こす。

家族社会学者の落合恵美子は、介護ボランティアの危険性を指摘している。

高齢者の介護をボランティアに頼ろうとする考えかたがありますが、こうした方法は危険だとわたしは思います。ボランティア自身は善意としても、片方に無償のボランティアが存在することで、ホームヘルパーなど介護労働に携わる職種の賃金が不当に低く抑えられ、よい働き手も集まらなければ世間の評価も低いといいう結果につながってしまうからです。介護はボランティアでという発想の背後には、本来は家事で無償であるべき介護を有償化するのは後ろめたいという思いがあるようです。

(落合恵美子『21世紀家族へ(新版)』 1997 p.226)

ホームヘルパーの賃金は、労働の割には安い。その背後にはボランティアの存在がある。賃金が安いために優秀な労働者が集まらず、結果的に高齢者への介護サービスが良くならない。つまり、広い視野に立てば、高齢者の役に立っていない。

しかし、善意でやっている行為を、我々は止めることができないのだ。

私悪すなわち公益

何もボランティアを全否定するわけではない。ボランティアに一存したり頼りすぎたり、神聖視することが危険なのである。特に素晴らしい行為ではなく、あくまで専業主婦が暇つぶしにやっているものだ、というぐらいの気持ちで良い。

何をしても誰かの迷惑になるし、誰かの役に立ってしまう。複雑に絡みあった社会なのだ。ボランティアも例外ではなく、誰かにとっては迷惑になっている。その自覚が必要であろう。

私の好きな話に、マンドヴィルの『蜂の寓話―私悪すなわち公益―』がある。自分勝手な行動が、社会にとっては良い結果をもたらしてしまうという逆説的な話である。

かように各部分は悪徳に満ちていたが、全部そろえばまさに天国であった。

(中略)

その国家への天恵はじつに大きくて、罪も偉大な国民をつくるのに手をかした。

(中略)

それからは、全体のうちの最悪のものでさえ、公益のため何かお役に立つようになった。

(中略)

奢侈は貧乏人を百万も雇い、いとわしい自負はもう百万雇った。羨望そのものや虚栄は精励の召使いであった。彼らお気に入りの愚かさはあの奇妙でばかげた悪徳の食物や家具や衣服の気まぐれで、これは商売を動かす車輪になった

個々の事象は「悪」であっても、そうした「悪」が社会を動かし、社会を発展させた。私悪は公益なのである。

私利私欲だけを考えて行動せよ、と言っているわけではない。私悪が公益となり、善意が公害となる。そんな風にして世界は動いていて、善意だけでは世の中は成り立たない。その自覚は必要だろう。

ボランティアは有害でもある。


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不細工な女性の方が仕事では有利 (2004-08-27)

不細工な女性の方が仕事では有利

美人よりも不細工な女性の方が、就職やその後の職業生活で有利に働くこともある。

不細工しか採用しない社長

とある中小企業の経営者から面白い話を聞いた。その社長は女性の能力の高さを評価していて、積極的に女性を採用し職場で活躍させている。女性の高学歴が進んだ今では、女性も会社にとっては貴重な戦力であり、なくてはならない存在になっている。だが、その社長は、美人は採用しないというポリシーを持っていた。「ウチは不細工しか採らない」と断言し、それを実行していた。

社長いわく、「美人は結婚して辞めてしまう」から、不細工しか採用しないそうだ。この社長の戦略は、一応は合理的である。理にかなっている。

人材育成の基本はOJT

企業は実務を通して、自社にとって必要な人材を育成する。OJT(On-the-Job Training)はコストや具体性の面で優れ、世界中の労働環境で実施されている訓練方法である。

実際に実務で必要な知識をどこで身につけたのか、日本労働研究機構のデータを見てみよう。

実務をどこで覚えたか

仕事で必要な知識は、大学・大学院よりも、圧倒的に実務で身につけることが多い。工学系であれば大学・大学院で得た知識というものが有益であるが、人文・社会系は勉強したことが仕事ではあまり役に立っていない。理系には女性が少ないので、女性の多くは職場で仕事を覚えることになる。

教育投資を無駄にしたくない

先ほど述べたとおり、会社は仕事を通じて人材を育成する。仕事をさせることは、生産することだけではなく、同時に投資でもある。将来会社にとって必要となる人間には、重要なポストを経験させたりすることで、育成を計る。

だが女性は結婚して辞めてしまうので、せっかくの投資が無駄になってしまう。だから、女性は補助的な仕事が多いのである。貴重な仕事の経験を、女性に割り当てたくないのである。

しかし、女性の中にも優秀な人材はもちろんいる。経営者は高い労働力を持つ人間は、ぜひとも活用したいと願っている。だけど、女性は結婚して辞めてしまう可能性がある。ならば結婚から遠い女性、つまり不細工を採用すれば良いと考えるのはごく自然なことである。結婚しない女性ならば、比較的安心して教育投資を行える。高い給料を払うので、女性自身も満足である。いざ結婚しようと思ったとしても、不細工で高給取りの女性は男性からは敬遠される。

積極的に女性の能力を活用しようとするならば、不細工を使った方がよい。企業倫理としては疑問だが、合理的ではある。しかも女性従業員や女性管理職の比率が高い企業として対外的なアピールになる。女性管理職が美人か不細工かは、数字の上には現れてこないからだ。

不細工女性を有効活用することが企業の発展につながり、そして日本経済の再生のカギとなるのかもしれない。(でもその分、少子化は進む)

不細工な女性が日本経済のカギを握る。

Yas的日常

フットサルな木曜

日曜日にフットサルの大会に出ることになったので、そのための練習をする。

ケイゾク

DVDでドラマ『ケイゾク』を鑑賞中。


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「最近の若者は・・・」とボヤく理由 (2004-08-30)

「最近の若者は・・・」とボヤく理由

「いんちき」心理学研究所

リンクに「いんちき」心理学研究所を追加。この「いんちき」心理学研究所は、通俗心理学や「いんちき」を暴くコラムが面白い。世の中にはインチキ心理学が溢れている。売れている心理学の本は、正当な心理学よりもインチキ心理学の本である。「恋愛心理学〜」みたいなタイトルがついていたら、まず9割以上の確率でインチキである。書き手も確信犯でやっている。世の中、口がうまい人が得をするのだ。せいぜい私たちは騙されないよう気をつけるしかない。

今と昔の比較

興味深かったのが、「『今』と『昔』の記事比べ」。昔を美化してしまう癖が人間にはあるようだ。私も、30年以上前に書かれた本に「最近の大学生は本を読まない」なんてことが書かれていて驚いたことがある。今も30年前も、同じ言葉が若者に浴びせられていたんだろう。30年後、私たちの世代も同じようなことを若者世代に言うのだろうか。

「最近の若者は・・・」というタイプの悪口・批判は、昔からあるようだ。遺跡のカベに残されていた古代の文章を解読したら、「最近の若者はダメだ」という意味だった、という話を聞いたことがある。かなり怪しげな話ではあるが、面白い。老人や中年の若者批判は、人類普遍らしい。

なぜ年寄りは若者を批判したり、嘆いたりするのだろうか。理由のひとつは、過去の自分たちの世代と今の若者を比較することができるからだろう。若者が「最近の中年は〜」と批判しないのは、自分がまだ中年時代を経験していないから、比較できないのである。過去の統計や文献から中年像を浮かび上がらせ、現代の中年と比較しなければ、「最近の中年は〜」とは言えない。

日常的に中年について調べることはほとんどないが、中年はごく普通に若者と接触しているから、現在の若者像というものが頭の中に入り込んでいる。だから、過去の自分と今の若者を比較しやすい。若者と利害や価値が対立し、若者に対する不満が沸き起これば、「最近の若者は〜」という発言が出てきてしまう。反対に若者による「最近の中年は〜」という批判は起こりにくい。そのため、「最近の若者は〜」という嘆きは人類にとって普遍的なものになるのだろう。


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リスキーシフトと掲示板 (2004-08-31)

リスキーシフトと掲示板

ひとりで考えた末の結論よりも、みんなで考えて出た結論の方が危険である。

白熱する議論の果てに

アクセス解析を覗いていみると、時々自分のコラムが掲示板で引用されていることがある。興味をもって読むと、書き込みが白熱した議論となっていることも少なくない。人間は議論が好きなのだろう。自分と同じ意見を持つ人と同調したいし、異なる意見に対しては反論したい。匿名掲示板では、現実の世界よりもそれが顕著だと思う。

たとえば、「大手小町(発言小町)」では、日々くだらない質問から真剣な悩みまで、様々なトピックについて人々が自分の意見を書き込んでいる。常識的に考えると、色んな意見が出て議論が起きれば、弁証法的に良い結論が導き出される。だが、現実には、結論は極端なものになりやすい。J.A.F.ストーナーが行った未発表の研究を発展させたM.A.ワラック、M.コーガンらは、個人決定よりも集団による決定の方がリスキーになることを実験によって示した。これをリスキーシフト(riskyshift)という。

リスキーシフト

risky shift

討議にもとづいて集団としての意思決定を行うと、構成員の個別の意見よりも集団決定は利得は多いが成功確率の低い危険に賭ける現象をいう。

(『社会学小辞典』有斐閣)

会社での会議や、親族たちが集まって話し合いを行ったときの結論が、危険なものに感じられたことはないだろうか? 集団での意思決定は、危険なものになりやすいのである。

実験では、たとえば次のような質問で危険率の高い決定が行われる傾向が見受けられた。

「ある人が重い心臓病を患って、大手術を受けなければ、普通の生活をあきらめなければならない。しかし、その難しい手術は、成功すれば完治するが、失敗すれば命にかかわる。その手術をするかどうかで迷っている。どうするのが良いか?」

集団での討議の結果、利得は大きいが危険な結論、つまり手術をするという結論が、個人の結論よりも多くなる傾向が見られた。集団で話し合った結果、危険な方向に偏向したのである。

どうしてリスキーな結論が導き出されるのだろうか。いくつか理由は考えられる。

  • 自分の意見を支持する意見を聞き入れるため、自分が正しいと確信しやすい。反対意見には耳をかさない。自分の聞きたいものしか聞いていない。
  • 自分の立場を主張するために、極端な意見を述べやすい。
  • 人よりも勝りたいと思う気持ちがあるため、人よりも極端な意見を述べる。

現実世界では上に挙げた理由でリスキーシフトが起きる。では、ネット上での議論ではどうなるのだろうか。

危険なインターネット?

実験で確認されたわけではないが、経験的に同じようなことが言えるのではないだろうか。匿名性の高い世界では、よりリスキーシフトの傾向が観察されると思われる。所詮は他人事だし、自らの意見に責任があるわけではない。そんな中で、人々は極端な意見を述べたがるし、その意見に触れればそれに同調し、さらに極端な意見を述べるだろう。

実は、集団決定が必ずリスキーなものになるとは限らない。反対に安全志向になる場合もある。これをコーシャスシフトという。(両方をあわせて集団分極化現象という)

どちらにせよ集団による討議は極端な結論が得られる。だがネットの場合、危険な方向に偏向することが多い。政治的な話であれ、恋愛であれ、危険だけど利得の多い決定がなされる。

まずは「話し合えば良い結論が得られる」という前提を捨て去ることが必要だろう。

ひとりで考えた末の結論よりも、みんなで考えて出た結論の方が危険な場合がある。

Yas的日常

名古屋オフ

「専業主婦限定オフ」とは別に「名古屋オフ」を開催予定。

幸水

梨を食らう。おいしゅうございました。もう秋ですか。このままクリスマスまでノンストップ激走の予感。


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