憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記

2004 年 10 月

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『恋愛論』を書いたスタンダールは (2004-10-05)

『恋愛論』を書いたスタンダールは

『恋愛論』を書いたスタンダールは、結婚していない。

恋愛主義の行先

先日の専業主婦オフにて、個人的な恋愛の話になった。

その内容は置いといて、以前として恋愛と結婚を結びつける意識は日本国民の間に支配的なようだ。フランスでは恋愛と結婚が結びついておらず、わざわざ届出などだすことなく、同棲したまま子どもを産んだりするのだが。困ったことに日本では、恋愛すると結婚したくなるらしい。「結婚する気なんてない」と言っていても、いざ交際がうまく継続すると結婚願望が出てくる人が多いようだ。

古典的な恋愛論として有名な『恋愛論』を書いたスタンダール(1783-1842)は、結婚していない。モテなかったわけではない。「生きた、書いた、愛した」と彼の墓碑銘に刻まれているように、情熱的に女性を愛した人である。

思うに、真面目に恋愛というものに向き合ってしまったなら、結婚というものは出来ないのではないだろうか。反対に、結婚とその後の結婚生活を真剣に考えるのなら、恋愛を否定するしかない。結婚すれば、ほとんどの人は冷めてしまい、そして配偶者以外とは恋愛できなくなるのだから。

と、これは極端な話。たいていの人はどっちつかずのところに着地するんだろう。

世の中には、結婚は否定的だが、恋愛に否定的な人は少ない。とくに女性には少ない。私的には、恋愛も結婚も否定してもいいのではないか、と思っている。

『恋愛論』を書いたスタンダールは、結婚していない。

専業主婦オフ

新宿で専業主婦オフ開催。

専業主婦は外出時間の調整が難しく、結局都合がついたのは2名。暇で暇で仕方がない専業主婦と、忙しくて時間がなく専業主婦が天職という女性。内心、この二人の間でバトルが勃発しないか心配だったが、杞憂に終わった。

矛先は私に向けられたが、激しい口論になることもなく、いつものオフ会の延長上のような、和やかで楽しい飲み会だった。

とは言うものの、やはり決着はつけなくてはいけない。専業主婦と腕相撲で勝負することになった。

負けられない試合である。かつてこんなにプレッシャーのかかった腕相撲は体験したことがなかった。もし負けた瞬間の写真でも撮られて画像をアップされたら、私の立場というものがなくなる。喜ぶ専業主婦は全国に100人ぐらいいると思うが。

勝負は激戦の末、私に軍配が上がった。左腕でのリターンマッチでも、私の勝利。やはり正義は勝つのである。10年早い。

(もしかしたら続く)


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お試し結婚期間の復活を (2004-10-08)

お試し結婚期間の復活を

かつて日本には、お試し結婚期間が慣習として存在していた。

同棲はまだまだ少ない

日本には同棲の習慣がない。以前と比べて増えてはいるのだが、それでもまだまだ少数である。

結婚する前に同棲してみて相手のことをよく理解すれば、うっかり結婚するという過ちも減って良いと思う。

しかしこの同棲、まだまだ社会からは認知されていない。若い世代では何の抵抗もないのだが、年配の方々からはよく思われない。いわく、不真面目だ、けじめがついていない、一緒に暮らすのは結婚してからだ・・・などなど。その上、家族やモラルの崩壊を嘆く声もちらほらと聞こえてくる。

さて、本当に家族やモラルが崩壊しているのだろうか。

お試し結婚期間

今から50年ほど前の日本では、結婚生活に入ってからすぐに婚姻届出を出す人は少なかった。同居して結婚生活に入って半年たっても、約半数の家庭では届出を出していない。

厚生労働省の「人口動態調査」からグラフを作成した。結婚生活がスタートしてから届出を出した期間の累積割合をグラフにしたものである。

1980年以降は、結婚生活突入後まもなく婚姻届を出している。だが、1950年の段階では、式を挙げて結婚生活に入っても届出を出す人は少なく、しばらく経ってから届出を出すのが一般的だった。

どうしてすぐに届出を出さなかったのか。それは、この期間が「お試し結婚期間」であり、もっとはっきり言うと「嫁の試用期間」であったからである。使い物にならないロクでもない嫁かもしれないし、子どもを産むことができない体かもしれない。だから、正式な届出を出さずに、しばらく結婚生活をしてみて、様子をうかがっていたのである。

「家」制度のもとでは妻が家風に合うか、子供が生まれるかを確認して届け出をすることが多く、そのために女性はなんの保護もなく婚家を追い出されるという悲劇が後を絶ちませんでした。

(金城清子『家族という関係』岩波書店 1985 p.69)

戦後間もない頃、「家」制度は、制度としては消滅しても習慣はまだ残っていた。そのため、結婚後しばらくは届出を出さないという「嫁の試用期間」が存在したのである。

現在から見れば、50年前のほうがモラルが崩壊しているように思える。当時としては当たり前のことだったのだろう。

お試し結婚期間の復活を

現実的に考えれば、結婚のお試し期間が存在するのは悪いことではない。企業が誰かを雇う際に試用期間を設けるように、結婚にもお試し期間があったほうがよい。やはり交際しているだけでは情報が少なすぎる。

今では同棲は実質的には結婚のお試し期間に近い。日本では同棲で子育ては出来ないが、同棲すれば結婚生活に近い体験が出来るだろう。

もっとお試し結婚期間としての同棲カップルは増えて良い。結婚前にもっとお互いを理解できれば、結婚する人が減って悲劇も減るだろう。

結婚できるのは、たぶん、相手を誤解しているからだ。

かつて日本には、お試し結婚期間が慣習として存在していた。

Yas的日常

もう忙しくて。


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ネットランナー掲載 (2004-10-09)

ネットランナー掲載

ネットランナー掲載

ただの雑記を。

『ネットランナー』11月号で、このサイトが紹介された。アクセス数はそれほど増えていないようだ。+100ぐらいだろうか。

立ち読みしただけなので記憶が曖昧なのだが、紹介文は「結婚や恋愛など、男女にまつわる話についてデータを用いてわかりやすく解説した人気ブログ」という内容だった。たしかに結婚や恋愛について書くことはあるが、そんなに数は多くないと思う。

「人気ブログ」と紹介されていたのもの気になった。ブログだと思ったことは一度もないのだが。そもそもブログだったら、ブログ部門の方にノミネートされるのがスジじゃないのか。もともとブログの定義が曖昧だから、ブログだと思えばブログなんだろうけど。(ときどき、「どこにコメントをつける場所があるのですか?」と聞かれることがあって困る。)

いえ、別に『ネットランナー』編集部に文句があるわけではないですよ。念のため。来年は受賞できるよう精進いたしますので。

雨の日は部屋でコーヒーを

死者が出ているのに不謹慎な話ではあるが、ひどい雨の日に部屋でひとり過ごすのが好きだ。もしも晴れていたならばどこかへ出かけたい衝動にかられてしまう。しかし、外は大雨のため、出かけられない。安心して部屋に引きこもっていられるのだ。

耳障りなはずの雨音も心地よいBGMに聴こえる。雨の日の休暇ほど、身も心も休まるものはない。


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負け犬の敗者復活戦について (2004-10-12)

負け犬の敗者復活戦について

売れ残った負け犬たちの敗者復活戦は、激戦である。

負け犬の特徴

先日の専業主婦限定オフで、負け犬(30歳を超えても未婚で子供のいない売れ残った女性のこと)の話になった。そこで私は、負け犬になりそうな女性の条件として、まず、「プライドが高いこと」を挙げた。

せめて実力がプライド相応であればいいのだが、安い人間なのにプライドばかり高いと、負け犬になりやすい。もう30を超えて魅力も低下しているというのに、結婚相手には年収800万円以上という条件をつける。

結婚の条件に経済的な豊かさを求めるのは、私は良いことだと思う。「お金なんて関係ない」なんていう現実感覚のない人は、将来生活が破綻しそうで怖い。

だが、高収入の人を期待していては、いつまでたっても結婚できずに負け犬のままだろう。

女性の期待と現実とのギャップ

25〜34歳の未婚女性がどれぐらいの収入を結婚相手に望んでいるのか、そして未婚男性が現実にどれだけ収入を得ているのか、データを見てみよう。

青森と東京のデータがあるが、ここは東京に注目する。未婚女性のうち、39.2%が年収600万円以上を期待しており、26.8%が400万円以上を期待している。6割を超える未婚女性が、男性には少なくとも400万円以上を期待していることになる。

では、その期待はどれだけかなうのだろうか。未婚男性の現実を見てみよう。未婚男性のうち、600万円以上の年収があるのは、3.5%にすぎない。400〜600万円の層でも、19.5%にすぎない。未婚男性のうち、2割ちょっとしか400万円を超えていないのである。

すでに買い手が決まってしまったから

上で見たように、女性の期待と現実にはギャップがある。その理由は、

  • 男性だからといってそれほど稼いでいるわけではない
  • 女性の期待がやや高い
  • 収入のある男性はすでに結婚している

などが考えられる。

私は、収入のある男性はもう相手をみつけていて結婚しているためだと思う。年収が高いほど婚姻率は高い。(「年収が低いほど結婚できない (2003-10-30)」)

収入のある男性はすでに結婚相手をみつけている。逆に言えば、負け犬は女性は収入のある男性に選択されなかったということである。30歳前後で相手を見つけていない負け犬女性は、おそらく5年、10年後も負け続ける。敗者復活戦のフィールドに立っている男性の数が、少ないからである。

女性の期待に沿うような男性はわずかしかいない。出会う確率がまず少ないのだ。そこにさらに、「結婚を考えているような恋人がいないこと」「価値観が合うこと」「性格が合うこと」なんていう条件を加えていったら、確率はゼロにどんどん近づいていく。

そして――これがもっとも重要な条件なのだが――男性が自分を選択してくれることを条件にくわえたら、確率はゼロに限りなく等しくなるのではないだろうか。負け犬になっている、あるいは負け犬になりそうな時点で、それほど結婚市場においては価値ある人間ではないのだ。諦めて自分にあった結婚相手を探すのがいいだろう。

負け犬の敗者復活戦は、厳しい戦いだ。

(私的には結婚しなければいいだけだと思うのだが、やはり女性は一生独身で過ごすのが嫌らしい。)

売れ残った負け犬たちの敗者復活戦は、激戦である。

Yas的日常

ネットランナー到着

『ネットランナー』11月号が到着した。ありがとう、編集部の方。

「ベスト・オブ・常習者サイト2004」、ノンジャンル部門の「テキストサイト 日記」カテゴリで、Simpleがノミネートされました。

紹介文を今度はちゃんと引用。

恋愛や結婚など、男女にまつわる事象を、データを使いながらわかりやすく解説している人気ブログ

男女に関する話題ばかりしているわけではないんだが。そういう話が期待されているということだろうか。書いている本人は何が期待されているのかよくわかっていない。

TECHSIDEのTECHさんから★を5つつけてもらったのが嬉しい。


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小学生とセックスするということ (2004-10-14)

小学生とセックスするということ

世の中「小学生を相手にセックスするのはよくない」と考える人ばかりではない。

中学生以下の性交渉禁止条例

中学生以下の性交渉を禁止する条例の話題がニュースとなった。

中学生以下の性交渉禁止条例、議論白熱−−都の委員会 /東京

都が設置した「青少年の性行動について考える委員会」(座長・加藤諦三早稲田大学教授)の第2回会合が12日、都庁で開かれた。中学生以下の性交渉を禁じる条例制定の是非をめぐって、議論は白熱した。

(中略)

また、女子高校生約70人を対象としたアンケート結果も報告された。「お互いの同意があれば誰とセックスしてもかまわないか」との問いには「そう思う」38%、「そう思わない」39・5%、「どちらとも言えない」22・5%――といった結果だった。 竹花豊副知事は「交通に例えるなら、ルールやリスクを知らない歩行者が道路に飛び出している現状。中学生かどうかは別にして、その年齢までは性行為は駄目だという対応をとるべきじゃないか」と語った。

Yahoo! News

興味深いのはアンケート結果である。意外と保守的だ。

判断力のある人間で他人に迷惑をかけなければ何をしてもかまわない(たとえ自分が傷つく行為でも)と思っている。中学生の場合、判断力があるとは言い切れず、また何かあった場合の責任を負うこともできない。自由を制限することも必要だとは思う。ただ、条例で性行為を禁止してしまうことは、かえって性行為の価値を高めてしまったり、問題が発生してもそれを隠匿化してしまうことに繋がるのではないだろうか。

世間はどう見ているか

世代によって性行為への規範意識は大きく異なる。年配の方なら、中学生どころか高校生の性行為を禁止したいと思っているのではないだろうか。

性別・各世代ごとの規範意識がどのようなものなのか、データを見てみよう。次に示すデータは、「18歳未満とセックスすることについて」質問したものである。若年層ほど、セックスを認めている。

40代から急激に規範意識が高まっているのがわかる。特に女性で顕著である。40代以上の女性からみれば、中学生のセックスなんてとんでもない行為なのだろう。

中学生のセックスについて議論するのは結構だが、こうした世代間による大きな価値観や規範意識の違いを認識した上での話し合いが必要だろう。

小学生以下とセックスすること

ついでに、13歳未満とのセックスの場合についてみてみよう。13歳未満とは、つまり小学生以下のことであり、ロリコンでありショタコンでもある。

こちらの方では、セックスに否定的な人が圧倒的に多い。それでも20代男性の12%が、20代女性の8%が「13歳未満の相手とセックスしてもかまわない」と答えている。

性癖は自由だが、実際に小学生以下に手を出してはいけないだろう。

世の中、善人ばかりではない。ドラッグ(覚せい剤やマリファナ)を使ってセックスすることについて、20代男性の16%が「かまわない」と答えている。セックス以前にまずドラッグそのものが違法なのだが。

世の中「小学生を相手にセックスするのはよくない」と考える人ばかりではない。

Yas的日常

セブンイレブンで「ちゃんこ鍋」(一人用)を買い、家で食べた。

且⊂(゚∀゚*)ウマー[65]

家に専業主婦がいなくて良かったとつくづく思う。


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子供の名前と親のDQN度 (2004-10-17)

子供の名前と親のDQN度

DQNは子供に革新的な名前をつける。

最近子供に変な名前付けるの親多いよなpart30

2ちゃんねるの「最近子供に変な名前付けるの親多いよなpart30」を読んでいて再認識したのだが、最近では子供に変な名前をつける親が多い。「光」と書いて「シャイン」と読ませたり、「柚瑠聖」と書いて「チェルシー」と読ませたり、もう何でもありの世界である。

同スレの13,14の名無しさんのまとめによると、こうしたDQNっぽいDQN名には次のような特徴があるという。

  • まず普通に読めない
  • 画数・文字数が無駄に多い
  • 単体でそう読めない読み・読みの一部だけを切り取って使用する
  • 良くない意味があったり、暴走族が使うようなイメージの良くない文字を使用する
  • 無駄に英語圏風の読み
  • 現実との乖離の可能性を考えてない夢想的なイメージの名前
  • 個性=自分しか思い付かない様な駄目オンリーワンという勘違いを土台にしている

「永遠」「那衣斗」「安夢路」「挑戦」「夢有人」「妃望」といった名前がスレには見受けられる。これらも上記の特徴を有しているといえよう。

名前による差別

こうした変わった名前をつけるのはDQN親に多いと言われる。そのためか、DQNっぽい名前はDQN名と呼ばれている。

そして興味深いのが、名無し97さんの書き込みである。

97 :名無しさん@生活サロン板できました :04/09/27 15:36:43 ID:wovMFf9t

思ったんだけど、DQN名の子供たちがオトナになるころには、名前で親のDQN度、つまり育ってきた環境がわかるということで、学歴ならぬ、名前で就職差別が起こりそうな気がする。

聖霊さんと、たとえば由紀子さんという普通の名前の人が並んでいたら、人情として、普通の名前の人を雇いたいと思うのは、自然なことだと思うんだが……。

97さんが指摘するとおり、名前と親のDQN度は相関関係がある。金原克範の『<子>のつく名前の女の子は頭がいい』(2001洋泉社)によると、女の子で「子」がつく名前の人と、「子」がつかない人では成績に差があるという。ある地区の高校入試の結果を分析した結果、名前に「子」がつかない女の子は「子」のつく女の子よりも偏差値の低い高校に入学していることが分かった。

名前は普通は親が決める。そしてほとんどの場合変わることはない。それゆえ、親の階層や人間のレベルというものが子供の名前に反映されてしまう。

単純に言えば、女の子に<子>のつく名前をつける家庭は保守的であり、<子>のつかない名前をつける家庭は革新的ということになる。

(『<子>のつく名前の女の子は頭がいい』(2001 洋泉社 p.57)

家庭環境が変われば子供の名前も変わる。女の子の名前に「子」をつけたからといって、頭が良くなるわけではない。保守的な名前をつける家庭は、教育に適した環境であり、そのために成績が良くなるのである。名前と成績に直接的な因果関係はない。

DQN再生産の仕組み」で述べたように、DQNの子はDQNになる。DQN名をつけたからといってDQNになるわけではない。DQNが無理して保守的な名前をつけたとしても、やはりDQNになる。(あくまで統計上の話でしかなく、DQN名でも立派な人間に育つ例はいくらでもあるだろう。)

名前は一生残るものである。生まれがDQNであることは隠せはしない。DQN名をつけられた子供が、大人になってもDQNならば、ある意味幸せである。真っ当な人間に成長し、その名前が社会の中で障壁となるなら、それは悲劇としか言いようがない。

(追記:名前はもっと真剣につけよう、という意見もあるが、DQNは真剣になればなるほどDQNっぽい名前をつけるだろう。)

DQNは子供に革新的な名前をつける。

Yas的日常

新宿の居酒屋「かあさん」で飲む。料理が美味い。

且⊂(゚∀゚*)ウマー [90]

居酒屋「専業主婦」なんて店があったら、誰も入らないだろうな。レンジで温めた冷凍食品ばかり出されるぞ。間違いない。


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沿志奏逢 (2004-10-20)

沿志奏逢

ただの雑記。桜井和寿によるカバーアルバム『沿志奏逢』について。

amazonより到着

すでに店頭に並んでいるところもあるようだが、amazonからBank Band(ボーカル:桜井和寿)のアルバム『沿志奏逢』が到着した。発売日前日に到着するとは、amazonもなかなかやるではないか。

限定発売なので、もうamazonでは入手不可能である。他のオンラインショップも軒並み品切れのようだ。店頭にはまだ残っているので、欲しい人はなるべく早く買いに行こう。

感想

『沿志奏逢』は「そうしそうあい」と読む。先日DQN名について書いたばかりだが、このアルバム名も一歩間違えばDQNっぽい名前である。相思相愛の当て字であり、珍走団が好む『夜露死苦』につながると言ってもおかしくない。DQNっぽさとクリエイティブ性というのは紙一重なのだろう。芸術的な創作物は奇異なものと見られがちだし、反対に単なる奇異なオブジェクトがクリエイティブさとして評価されたりもする。

さて、DQN名の話はおいといて、曲の話を書こう。

このアルバムは桜井が選曲を行った、邦楽のカバーアルバムである。桜井の声を聴いて満足できる人にはオススメのアルバムだが、そうでない人には退屈なアルバムかもしれない。

もっとも血圧が上昇した曲は、中島みゆきの『糸』。プロモーションビデオがテレビで流れていたり、ラジオでこの曲が流れているそうなので、知っている人もいるかもしれない。

縦の糸はあなた 横の糸は私

逢うべき糸に 出逢えることを

人は 仕合わせと呼びます

冒頭の「どこにい〜た〜の」の声が裏返る部分で、魂が抜かれそうになった。毎度思うことだが、桜井の曲は正座して聴かないと危険だ。本気で惚れそうになる。

アルバムは2種類あるらしい

某掲示板を眺めていて知ったのだが、このアルバムは2種類あるらしい。12曲目はエクストラトラックになっていて、PCで再生できるのだが、この曲が何になるかはランダムで、買ってみないとわからないらしい。ハマショーかタクロー、どちらかの曲が入っているようだ。

運のいい人は2枚購入してハマショーバージョンとタクローバージョンを入手している。運の悪い人はタクローバージョンを2つ手にしている。ハマショーバージョンの方が人気はあるようだ。ちなみにハマショーの曲は「僕と彼女と週末に」である。

ちなみに私はハマショーだった。

さて、これからもう1回『糸』を聴いて失神でもするか。


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別れる理由は (2004-10-21)

別れる理由は

別れる「理由」は、別れの原動力というよりもむしろ別れを説明するための社会的ボキャブラリである。

別れる理由

別れ話は面倒である。「どうして別れるの?」「何が悪いの?」などと問われることもあるだろう。そのたびに男や女は相手への説明に苦労する。

離婚する理由として最も多いのが「性格の不一致」である。恋人同士でも、別れるときに「性格の不一致」のひと言で済めばいいのだが、そうはいかないことが多いのではないだろうか。

動機の語彙

社会学者のC・W・ミルズは、「動機とは語彙である」という命題を立てた。

動機は、ある行為の「原動力」となる内的状態というよりは、人びとが自己および他者の行為を解釈し説明するために用いる「類型的な語彙」である。

『命題コレクション 社会学』(筑摩書房 p.30)

どんな社会でも、行為を説明するための語彙というものが存在する。犯罪であれば、「ついカッとなって」「むしゃくしゃして」「遊ぶ金欲しさに」などが代表的な例である。こうした「類型的な語彙」(tipicalvocabularies)を用いて、自分や他人の行動を解釈し、説明し、その意味を理解しようとする。

本当に「ついカッと」なったとは限らない。「むしゃくしゃ」とも違う感情を抱いていたかもしれない。しかし、そうした複雑な感情は理解しにくい。ある程度の動機のパターンを用意して、それに当てはめたほうが他人にとって理解しやすいし納得もしやすいのだ。

また、自分の行動を誰かに納得させるために類型的な動機を用いることがある。男女関係で言えば、「愛しているから」「お金持ちだから」などが典型的な語彙だろうか。「愛しているから結婚する」というのは、他人や自分を納得させるための動機の表明なのである。「お金持ちだから結婚した」というのも、納得できる理由の一つだ。結婚において愛情やお金というものが無関係である社会では、「愛しているから結婚する」と言ったところで誰も納得しない。

性格の不一致

離婚の理由に「性格の不一致」というものがあるが、これも類型的な語彙にすぎない。要するに、なんだか二人の関係がうまくいかないことを説明するために社会の側が用意した社会的ボキャブラリなのである。「性格の不一致」という原因が原動力となって離婚したわけではない。

結婚の理由も同じである。類型的な語彙の中から動機を述べることで、他人や自分自身が安心してくれる。「専業主婦になれば年金払わずに済む」という理由では、納得してくれない。本当にそういう動機で結婚してもまったくかまわないのだが。

以上のことを踏まえて、「別れる理由」とは何かをまとめてみる。別れる理由とは、相手を納得させるための社会的ボキャブラリである。理由は個人の中に存在しない。関係の間に存在する。

別れる「理由」は、別れの原動力というよりもむしろ別れを説明するための社会的ボキャブラリである。

Yas的日常

専業主婦の自転車に轢かれる

道路を歩いていたら、曲がり角のところで専業主婦の自転車に轢かれた。

新たなる刺客か?

スピードワゴン

「スピードワゴン」のDVDBOXが届く。休日にゆっくり見よう。


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ぬいぐるみも家族である (2004-10-23)

ぬいぐるみも家族である

親密さや愛情を感じれば、ぬいぐるみも家族である。

ハートたっぷりプリモプエル

バンダイから音声認識機能が追加された新しいプリモプエル、「ハートたっぷりプリモプエル」が発売された。

プリモプエルとは、癒し系のしゃべるぬいぐるみだ。これまでに100万体以上も売れている。育て方によって性格が変わるらしい。まるで自分の子供のように感じられてしまうために、暇な専業主婦の間でヒットしているようだ。

メーカーの広報の話によると、「新しい家族が増えた。ありがとう」という感謝の手紙が届くらしい。

人間ではないぬいぐるみも、今や家族として認識されることもあるのである。

ペットはすでに家族

あらためて「家族の範囲」というものを考えてみよう。たとえば、ペットは家族だろうか。どこまでを家族と見なすのか、約16年前の人々の意識の調査結果を以下に示す。

人々の意識では、愛情がない夫婦よりも、愛情をもって飼っているペットの方を家族と見なしている。これは約16年前の調査結果なので、現在とは様相が変わっていると思う。今ではペットを家族と見なす人は約16年前よりも増えているのではないだろうか。

私は、ペットは家族だと考える。猫と専業主婦のどちらが大事かといえば間違いなく猫である。重要な家族の一員で、かけがえのない存在である。専業主婦については言うまでもないだろう。

ぬいぐるみは家族か

私は今のところ、ぬいぐるみを家族とは見なせない。あくまで感覚的な話なのだが、どうも抵抗がある。

しかし、プリモプエルに夢中になり、プリモプエルを「大事な家族」と見なしている中高年の専業主婦を非難するつもりはない。

社会学者は家族の定義を放棄している。定義できないからである。家族の範囲は多様であり、人が家族と思う範囲が家族である。

現代の日本では、家族に情緒的交流が求められている。親密さや愛情を感じれば、ぬいぐるみも家族の一員と言っても良いのではないだろうか。

親密さや愛情を感じれば、ぬいぐるみも家族である。

Yas的日常

ツタヤで『24』を借りてきた。まだ深夜3:00。


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恋愛には技術が必要 (2004-10-24)

恋愛には技術が必要

今も昔も恋愛には技術が必要であり、学ぶべきものである。

技術があれば出会い系でモテる

久しぶりに誰かのツッコミに反応してみたい。

以前、自由恋愛や男女の交際機会の拡大による必然的な帰結として、モテるものはますますモテて、モテないものはますますモテなくなる、と書いた。(モテない者はますますモテない -男女交際におけるマタイ効果-」「モテない者はますますモテない -男女交際におけるマタイ効果- その2」を参照)

つい先日、出会い系界隈の事情に詳しいと思われるBlogで反論に近いものがあった。「ネットとリアルは違う。リアルでモテない人でも、技術があればモテることができる」というのが概要である。(『出逢い系ヲタの過激な恋愛記』「出会い系サイトだと非常にモテるよこれは絶対」

再反論するつもりはまったくなく、筆者の言う通りだと思う。ネットでは現実とは異なる演技者であるから、現実でモテてなくてもネットでモテるということは十分ありうる。

しかし、「技術があればモテる」ということは、裏返せば技術がなければモテないわけで、人間の数には限りがある以上モテない人はやっぱりモテない。

恋愛技術

私がこの記事で面白いと思ったのが、「技術」という修辞である。恋愛の技術というと多少違和感を感じざるを得ないが、実は適切な表現であると思う。リアルだろうとネットだろうと、技術があればモテるのは事実ではないだろうか。(もちろん技術がなくてもモテる人はモテる。)

私が知る限りで、はじめて恋愛を技術として捉えた人物は、有名な民俗学者である柳田國男である。『明治大正史 世相篇』(1930)で、恋愛技術は学校では教えてもらえず、自ら修得するしかないと述べている。

いかなる種類の学校が立っても、現に配偶選定の問題だけはまだ各自の自修に任せている。しかも人生の最も精確に学ぶべきもの、疑惑の特に多いのもまたこれであった。恋愛技術という語はやや弘きに失するが、そう名づけておかぬとかえって誤解を生ずる。実際今日はこれを一部の人の専門芸と見るまでに、普通の生活からは遠ざけられ、そうして特に奇縁に興味をもつ小説というもの以外に、この問題を説く参考書とてはないのである。

今から約70年以上前のテキストなのだが、今でも通じることの多い記述である。

恋愛技術というものは学校では教えてくれないし、親ですら教えてくれない。教えるようになったとしても、古臭い恋愛の様式を教えられてしまい、かえって足かせとなってしまうだろう。

先の柳田のテキストは、「恋愛技術の消長」という章で書かれている。消長、つまり栄えたり消えていったりすることである。恋愛技術というものは時代とともに変わってしまう。今通用する技術は、5年後にはもうすっかり通じなくなっている。社会が変われば技術も変わる。ヒロシというお笑い芸人が、自らのネタで「地方ではマメな男だと言われていたのに、東京に来たらストーカーと呼ばれた」と言っていたのが象徴的である。

我々は、冷静にこの技術を捉えてみることが必要だろう。柳田が述べるように、「人生の最も精確に学ぶべきもの」であり、「疑惑の特に多いのもまたこれ」なのだ。

今も昔も恋愛には技術が必要であり、学ぶべきものである。

Yas的日常

ナチュラルアクアジェル キュア

フィットネスクラブで、「ナチュラルアクアジェル キュア」というお肌のケア用品のテスターがあったので、試してみた。古くなった角質を取り除いてくれるらしいが、試してみるとたしかに宣伝文句のようにポロポロとカスが出てくる。なんとなく肌の透明感が増したような気がする。実際のところ効果はどんなもんだろう。具体的な数値で示して欲しいが。


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友達を失くすつもりで (2004-10-26)

友達を失くすつもりで

友達を失くすつもりで文章を書くことが、人気アップの秘訣である。

女性蔑視と言われちゃった

昨日に引き続き、気が向いたので外部からのリンクに反応してみよう。

人気ホームページを研究するぞ その33〜34 2004年10月18日」(自己中、ショージ)で、このサイトが紹介されている。

歯に絹着せぬ物言いや逆説的な視点からの自説を数字の裏付けや論理を使って訥々と書くスタイルの雑記だね。

(中略)

世間で常識と思われているものから逆を向いた、あるいは少し斜めに外れた解釈を上手にデータを使って展開するスタイルはニュースサイトから好かれ易そうだね。

書いてる人が意識するかどうかは別に、ニュースサイトから繰り返しリンクが入るような文書を書けるホームページは人気サイトになりやすい、と言うのは言ってもよさそう。

このサイトだけを読んでいる人にはわからないと思うが、私が書いた文章はニュースサイトに拾われやすい。意図してニュースサイト向けのテキストを書く場合もあるし、意図していないのに拾われてニュース化してしまう場合もある。ニュースサイトの管理者様に向けて「これ書いたので紹介してください」なんてお願いすることは一切なく、ただ拾われるのを待つのみである。

ニュースの定義」の中で、ニュースとは人をおしゃべりに駆り立てる何か、と書いた。つい誰かに話したくなるようなネタを提供し続ければ、ニュースサイトに拾われる確率も高くなるだろう。本人が望むかどうかは別として。

(私の場合、ニュースサイトからのリンクがきっかけでウチのサイトの固定客となった人も多いので、各ニュースサイトの管理者様には本当に感謝している。)

友達・彼女を失くすつもりで

さて、上でリンクしたホームページ研究の記事だが、冒頭に「女性蔑視yeeeeeea!」と書かれている。世間の印象も同じようなものなのだろうか。たしかに専業主婦に対しては、わずかに偏った視点に立ち、いささかの誇張を含めてテキストに落とし込んでいる。だが、働いている立派な女性や結婚していない女性はむしろ応援する立場に立っている。

しかし困ったことに、応援する立場では、面白いテキストは欠けないのである。『<不良>のための文章術NHKブックス』(永江 朗 NHKブックス)という本がある。タイトルに惹かれたので、渋谷の本屋で立ち読みした。(買えよ)

印象的だったのが、「友達を失くすような文章を書くこと」というアドバイスだ。清く正しく美しい学校の作文みたいなものではなく、読者を楽しませるために必要なのは、そういう毒々しさなのだと。

たしかに人気のエッセイストには、そういう毒々しくも切れ味のよい爽快感がある。私もそういう文章を量産できるようになりたいものだ。

彼女がいる人は、彼女を失くしてしまうテキストを書いてみよう。友達や彼女を失くすつもりで文章を書くことが、人気の秘訣だと思う。

友達を失くすつもりで文章を書くことが、人気アップの秘訣である。


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命を粗末にあつかえば (2004-10-26)

命を粗末にあつかえば

命を粗末にあつかうことが、少子高齢化の解決になる。

「命は大切」という神話

私たちは「命は大切なもの」と思い込んでいる。そう教えられてきたし、メディアで流布する言説には命の無条件な肯定が溢れている。多くの人はそれに納得するだろう。自分の命は大事だし、子供が生まれればその子の命は大切なものに感じられる。親の命も大事なものということになっている。

しかし、「命は大切なもの」というのは一つの価値観にすぎない。日本でも50年以上前は病気になった高齢者の命は大切なものではかったし、子供もそれほど尊重されていたわけではなかった。

高齢者介護の神話

「高齢者の介護は、昔からあった困難な問題であると思われがちであるが、実はそれほど古い問題ではない」という指摘が、1994年度の『国民生活白書』にはある。なぜ古い問題ではない(つまり新しい問題)かというと、昔の高齢者は病気ですぐに死亡していったからである。今のように寝たきりになったりすることはない。

当時は高齢者の「最後を看取る介護」はあったが、重い障害者のある高齢者を何年も介護するようなものではなかった。

(『高齢者医療と福祉』岡本祐三 岩波書店 p.38)

農村では高齢者が重い病気にかかると、皆は「もう終わり」だと思ってそのまま放置し、農作業に出かけていたという。まだ貧しい時代である。ひとりの命を大事に扱っていられるわけではない。

「昔は家族が懸命に親の介護をした」とは必ずしも言えないのである。最近はとくに命の価値が高まっているため、親を見殺しにするような行動は非難の対象となっている。

子供はかけがえのない存在ではなかった

今の日本では、親は子どもに対して愛情を抱き、子供をかけがえのない存在だと思い込む。だがこれは、人間にとって普遍的ではない。

現代は少産少死である。子供の数が少ないため、子供の命に価値がある。多産多死の時代は子供の死がありふれていたため、子供はかけがえのない存在だとは思われていなかった。

18世紀末ごろのヨーロッパでは、子供が死んだときに母親に向かって、「また次の子が生まれるよ」「手のかかる子が一杯いるんだからいいじゃない」と言って慰めたそうだ。(『子どもという価値』柏木惠子 中央公論新社 p.52)

今の日本で、子供を亡くした親に同じことを言ったら、おそらく激怒するに違いない。人でなしと言われる。

子どもの命の価値、親が抱く感情というものは社会に応じて変化するものである。

子供を大事にするから子供の数が減る

少子化対策として、「子供を持つこと、命の素晴らしさを教育しよう」という意見がある。だが、これは逆効果となる可能性がある。家族社会学者の山田昌弘は『近代家族のゆくえ』(新曜社 p.4〜)で、「子どもを大事にすればするほど、子どもの数が減る」と述べている。

日本は、母の子への愛情が強制される社会である。子どもを置いて遊びに行く母親は非難される。「子どもを愛さなくてはいけない」「母性愛はすばらしい」と煽られている。これでは親に負担がかかってしまい、子どもの数を減らすことでしか対処のしようがない。

現代日本社会では、子育てに全力投球する基準がめちゃくちゃに高くなり、インフレ傾向は止まっていない。「愛する子どものために尽くす」はよいことだから反対しにくい。反対しにくいからつらいのだ。子どもの数を少なくなることによってしか、つらさを和らげる手段はない。

つまり、「家族愛の強調こそが、子どもの数の減少を招いている」のである。

以上のことから、少子高齢化対策について考えてみる。

単純に考えて、子供の数を増やし、お年寄りの数を減らせば良い。そのためには、命の価値を軽く見ればよい。命の価値を軽くすれば、子育ての負担は減って子供の数は増える。高齢者も手厚い介護を受けることがなくなるので、早死にして数は減る。

命を粗末にすれば、子どもの数は増えて高齢者の数は減るのだ。

そんな価値観の世界に、私は住みたくないが。もっと大きな問題も出てくるだろう。ただ、個人の命を大事にするあまり、社会の活力が衰えるというのは、皮肉なことだと思う。

命を粗末にあつかうことが、少子高齢化の解決になる。

Yas的日常

11月上旬に京都へ旅行に行くことになった。憂鬱なプログラマ的観光スポットはないものか。


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京都には別れを祈願する神社がある (2004-10-28)

京都には別れを祈願する神社がある

京都には別れを祈願する通称『縁切り神社』と呼ばれる神社がある。

憂鬱なプログラマ的スポット

先日京都に旅行に行くと書いたら、さっそく『江草乗の言いたい放題』の江草氏から面白いスポットを紹介された。(ありがとうございます)

京都には、通称『縁切り神社』と呼ばれる神社があるという。その名は安井金比羅宮。もともとは悪縁を切り、良縁を結ぶというのが御利益らしい。祈願する人の「縁切り」の怨念が鬼気迫るものがあり、ただならぬ雰囲気が漂っているという。

絵馬には、「彼の奥さんが死にますように」「○○と××が別れますように」「彼と別れたい」「○○氏ね」などという愛憎の限りの願いが書かれているという。もちろん、普通の良縁を願うものもあるとは思うのだが。

誰かと誰かが結びつくということは、裏返せば誰かと切れるということである。愛という美名の裏には、誰かを排除しようとする暗い影が横たわっている。

憂鬱なプログラマ的にはぜひ訪れてみたい場所である。行ってみることにしよう。

二者排他性

近代が生み出したロマンチックラブ・イデオロギーには、二つの特徴がある。

  • 永続性
  • 排他性

の二つである。基本的に「あなただけとずっと一緒に」というのが恋愛における暗黙の前提である。二人の女性と同時につきあったり、一年限りの契約で恋愛を行うというパターンもないわけではないが、いい顔はされないし例外的だろう。「ずっと」という永続性と、「あなただけ」で他の人とはつきあわないし、相手も他の人と付き合わないという二者だけの関係である排他性が、大きな特徴である。

この排他性が、時に人を苦しめる。恋愛は、一対一でしか行えないと思い込んでいるし、結婚という制度はその思考習慣に基づいている。

ある人と恋愛したくてもその人が結婚していればそれも出来ない。不倫となってしまう。ある人と恋愛して交際することは、その恋愛相手の恋愛の自由を奪ってしまう。

ある時は僕の存在が君の無限大の可能性を奪うだろう

たとえば理想的な もっと官能的な恋を見送ったりして

(Mr.Children/『Hallelujah』)

恋愛の関係が排他的であるということが、様々な苦悩の源泉にもなる。

恋愛に排他性という特徴と人間に嫉妬心というものがある限り、『縁切り神社』の絵馬ような別れへの切実な願いはなくならないだろう。誰かを愛することは、誰かの別れを願うことでもある。

京都には別れを祈願する通称『縁切り神社』と呼ばれる神社がある。

恋愛に排他性という特徴がある限り、愛することと別れることは表裏一体である。

Yas的日常

『負け犬の遠吠え』で有名な酒井順子によるエッセイ、『少子』(講談社文庫)を読んだ。個人的には『負け犬〜』よりも面白かったが。『少子』は子持ち専業主婦を嫌うスタンスで書かれていて好感が持てる。彼女とは部分的に魂が共鳴しそうだ。

amazonでは「不快な気持ちになった」というレビューが見受けられた。それが彼女の味ですから。


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義援金と偽善 (2004-10-30)

義援金と偽善

善行だろうと偽善だろうと、義援金は悪いようにはならない。募金は自分のためでもある。

しない善よりする偽善?

新潟の地震で被災した人たちへの義援金を送っている。うまい棒半年分ぐらいの金額でしかないが、何かの足しにはなるだろう。

こうした募金行為に対して、偽善だと批判する声もある。たしかに個人や企業が売名行為として行う場合もある。募金はするがそれ以上に遊びでお金を浪費する人もいる。純粋に善意から自らの財を投げ打って募金したり、あるいはボランティアに参加する人は少ないだろう。

だが、偽善で何が悪いのだろうか。募金という行為は善意の上に成り立つべきものなのだろうか。

私の場合、募金をした理由は純粋な善意からだけではない。

他人のために何かをすること

募金は、他人のためにお金という資源を提供することであり、自分は募金した分損をする。そのため、募金行動は善意によるものか、あるいは募金による損失以上の利益を得ることが目的という売名行為などのいわゆる偽善によるものなる。

だが、そうではない募金もあると思うのだ。自分のために困っている他の誰かに募金をするという行為もあっていいと思う。

「情けは人の為ならず」という諺がある。情けは他人のためじゃなくて自分自身の為だから他人に情けをかけなさい、という意味だ。今、たとえば地震や台風による被害者の人たちに何か援助をするという行為は、将来の自分のためになる可能性がある。

自分は東京近郊に住んでいる。もしも大災害が起こったとき、災害にあわなかった地域からの援助がないと困るのである。国や自衛隊では、組織の構造上十分な救援活動が期待できない。

困ったときはお互い様である。ゆとりのある地域の人が救いの手を差し伸べるような慣習があれば、自分達が被災したときにそれで救われる可能性がある。だから、自分のために被災した人に募金するという行動もありうると思う。

利他的利己主義

社会心理学者の山岸俊夫は、相手に協力的な行動をとらせるために自分も協力的な行動をするような、利己的な動機に基づく利他的な振る舞いを利他的利己主義と呼んでいる。(『社会的ジレンマのしくみ』1990 サイエンス社)

自分が協力的でなければ相手も協力的にはならない。自分のことだけ考えていればその時は良くても、長い目で見た場合損をすることがある。もちろん相手に協力しても裏切られることはあるし、損したままで終わることもある。

だけど、損をしてもいいかな、と思える範囲で相手に協力しておくのは自分にとって悪い戦略ではないと思う。実際に募金する人だってそうだろう。全財産を募金する人なんていやしない。

要するに、善行だろうと偽善だろうと、募金は悪いようにはならないのだ。募金は自分のためでもある。

と言いつつも、やはり

と言いつつも、被災した場合に、募金した人も募金していない人も受ける援助は同じである。だから、募金した人だけやっぱり損はしている。募金しないという行動もある面で合理的だ。でも全員がそう考えてしまうと、募金が集まらず、被災した人全員が困ってしまうわけで。まったく社会や集団というものは難しい。

個人的な動機

私が被災した場合、誰かに助けてもらうこともあるだろう。かなり個人的な感情なのだが、誰かが困っているときに何もしないで、自分が困ったときだけ都合よく「助けてくれ」と言いたくないのだ。将来、自分が地震で被災したときのために、今のうちに出来ることはしておきたい、そう自分は考えているのかもしれない。


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ビギナーズラックの正体 (2004-10-31)

ビギナーズラックの正体

ビギナーズラックは、確率的にあり得るごく普通の現象である。

ビギナーズラックは存在するか

ビギナーズラックというものは存在する。

ビギナーズラックとは、「かけ事などで、初心者が往々にして得る幸運」(大辞林)である。初心者は時としてギャンブルなどで幸運をつかむことが多いように観察される現象である。

だがしかし、世間では頭の固い人ほどこういうものを否定する。「そんなものは迷信だ」「神がかり的なものはありえない」などと言って否定する。

なんでも頭から否定することは良くない。

ビギナーズラック

なぜ初心者には幸運が訪れやすいのか。それは、初心者は試行回数がまだ少ないからである。経験者は何度もギャンブルを行っていて、試行回数が多い。そのため、実際に勝つ回数と理論上の確率による勝利回数とが同じような値になる。だが、試行回数の少ない初心者は、結果に偏りが生じる。そのため、極端に勝ち続けたり、負け込んだりする。理論上の確率との差が大きい。

したがって、初心者には次の二つのパターンのような特徴が見られることが多い。

  • 想像上の確率よりも多く勝利するビギナーズラックの人
  • 想像上の確率よりも多く敗北するギャンブルの才能の無い人

経験者にとって、自分が体感している確率は理論上の確率に近い。一方で試行回数の少ない初心者は、ビギナーズラックか負け込むかどちらかになることが少なくない。

おそらくこれは想像だが、ギャンブルの経験者が初心者を連れて行ったとき、初心者は上の二つのパターンのどちらかに当てはまるのではないのだろうか。少なくとも理屈の上ではそうである。

抽象的で理屈っぽい話だったので、プロ野球の打率を例に考えてみよう。シーズンが始まったばかりは、打率が7割近い選手もいるし、1割ぐらいの打率の人もいる。まだ打席数が少ないから、たまたま打てることが多かったり、打てないことが多いだけである。何度も打席に立つうちに、本来の打率に近づき、3割ぐらいに落ち着くのである。(選手の能力や調子は考慮しないものとする)

本来3割の打率で打つ選手でも、試行回数が少なければ、打てる数には偏りが生じやすい。そのため、打率が7割だったり1割だったりする。

ビギナーズラックという何か不思議な力が作用することで初心者がギャンブルに勝利できるわけではない。初心者は試行回数が少ないため、理論上よりも勝ったり負けたりすることが多いように観察される。その勝った場合の現象をビギナーズラックと呼んでいるに過ぎない。

あくまで、観察されてそのように思い込むだけであり、確率は初心者も経験者も同じである。ギャンブルのテクニックは別として。

世の中に不思議なことはない。不思議なのは人間の観察の方だ。

ビギナーズラックは、確率的にあり得るごく普通の現象である。

Yas的日常

ミスチルカラオケオフ

新宿の某所で開催されたミスチルカラオケオフ(仮称)にお邪魔した。マイナーな曲を歌っても許されるってすばらしい。みんながバックコーラスを入れてくるのもすばらしい。

3ヶ月ほどまえにウチのサイトでもミスチルカラオケのオフを開催しようという企画を考えたのだが、ミスチルについての苦情が多いのでやめることにした。

「私はミスチルが嫌いです」

「不倫は許せません」

「あの不倫相手はどうなのか」(私に言われても困る・・)

「ミスチルの歌詞が邪魔」

「ミスチルについては書かないほうが人気が出ると思います」

もう少しあるのだが、意見としては否定的なものがほとんど。ここまで言われると意地になってもっとミスチルについて書きたくなる。好きなことを好きなように書くというのは理想であって現実的にそんな文章は他人に読ませられない。読み手を意識して書くことが必要だろう。でも、譲れない線というものがあるのだ。


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