「自分探し」の果てに (2004-11-04)
「自分探し」の果てに
個性という悪夢が人を「自分探し」へと駆り立てる。ほとんどの人は、人に語るような人生を歩んではいないのに。
自分探しの果てに
香田さん惨殺映像を見た。「自分探しの旅に出る」と言って旅に出た結果がこれである。本人は満足しているだろうか。他の誰でもない自分に成れた。たくさんの人が注目している。歴史にも名を残すことになるだろう。
最初の自分探し
自分探しという表現は、いつごろから登場したのだろうか。小谷野敦の『軟弱者の言い分』によれば、社会学者の上野千鶴子の著書『<私>探しゲーム』(1987 筑摩書房)が初めてらしい。
わざわざカッコつきで<私>と表現しなければ、おそらく意味が通じなかったのだろう。<私>は探す対象ではなかった。80年代以前に「自分探し」「私探し」と言ったところで、多くの人にはピンとこなかった。
「自分探し」という言葉は90年代に定着し、歌の歌詞にも普通に登場するようになった。背景には個性重視の社会がある。近代が個性という悪夢を生み出し、個人が「他の誰にも似ていない私」になろうとしているため、「自分探し」が必要になる。そして、他人にそれを理解してもらうため、自己呈示として自分史を語りだす。
近代社会の私たちは個性という悪夢にとりつかれているから、誰もが表現すべき自己を持っていると信じこんでいる。八〇年代は自己表現が大衆化する時代だと言える。誰もが即席にシンガー・ソングライターになり、自分史をつづる。「どんな人でも、他人に語るに値する一生を持っています」と囁かれて、自分史の自費出版ブームが起きる。願わくは、人口の数だけ、自分史が増えないことを祈るばかりだ。
(『増補 <私>探しゲーム』筑摩書房 p.112-113)
ここ数年間のホームページ作成ブームの盛衰や最近のブログの流行を見ると、自己表現の欲求は増大しているように思われる。だが、最初は喜んで自分を呈示するものの、次第に語ることが何もなくなり、ネタが尽きてゆく。さらに追い討ちをかけるように、アクセス数が伸びない(=誰も自分に興味を持ってはくれない)という現実を突きつけられ、更新は停止してしまう。
他人に語るに値する人生を歩んでいる人なんてそうはいないのだ。友達だったら聞いてくれるだろうけど。
現代に生きる若者は、「個性」・「自分らしさ」と煽られ、その結果「自分探し」の旅に出る。
つじつまを合わすように型にはまっていく
「自分らしさ」や「他の誰でもない自分」は、本当に良いものなのだろうか。
「他の誰でもない自分」は「誰にも似ていない」という不安も同時に生み出す。誰からも理解されない、本当に他の誰でもない自分に、人はなりたいと思うだろうか。反対に、何かの型にはまりたいと思うだろう。そして人々は「他人と一緒」と「他人とは違う」という同調と差異の欲求の狭間に陥る。
人と違いすぎてはいけない。人と同じでもいけない。その中途半端な空気の中で、「自分探し」という終わりなき旅が続く。
個性という悪夢が人を「自分探し」へと駆り立てる。
Yas的日常
恋愛とは
「恋愛とは」をキーワードにしてGoogleで検索すると、私が書いたコラムがトップに表示されるらしい。読者様から教えていただいた。
京都
土曜の朝には京都旅行に出発する予定なのだが、まだ何にも用意していない。まずい。
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しばらくお休みします (2004-11-05)
しばらくお休みします
お知らせ
旅行などで更新できるヒマがなくなるので、4日ぐらいお休みします。
メールの返信も遅れます。すみません。
ツアーDVD
ミスチルツアーのDVDが出ます。Mr.Children Tour2004 シフクノオト
12/21発売予定。私はAmazonで予約した。クリスマスはこれを見ながら号泣・痙攣・弛緩の後に気絶する予定。さ、皆も遠慮せずに。
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京都の話 (2004-11-10)
京都の話
京都に旅行に行ってきたので、その話を。
縁切り神社へ
「京都には別れを祈願する神社がある」で書いた神社に行ってきた。
負の力に満ちた空間がそこにはあると思っていたのだが、意外にそうでもなかった。快晴の秋空の元だったから、印象が違ったのかもしれない。
参拝客が残していった絵馬を見ることができた。ストレートに「死ね」と書いてあるものや、「嫁と別れられますように」という切実な願いが込められたものまで様々な絵馬があった。
傾向としては女性の願いの数が多い。女性の怨念は恐ろしい。「義母が死にますように」という、みのもんたも困るような願いや、「○○が奥さんと別れて、私と一緒になって、幸せになりますように。○○が他の女に見向きしませんように」という不倫真っ最中のような願いが見受けられた。女性にはこの「○○と別れて私と一緒に」というパターンが多かった。
絵馬の例
自分が幸せになるには、誰かを不幸にしなければならない。それもある種の真実ではある。入試での合格を祈願をすることは、誰かの不合格を祈願することと同じである。自分が誰かと結ばれることを願うことは、他の誰かと結ばれないことを願うことである。
今の自分の幸せは、誰かの不幸の上に成り立っているかもしれないし、今の自分の不幸によって、他の誰かが幸せになっているかもしれない。そんな当たり前でどうでもよいことを考えた旅だった。誰だってそういう中途半端な現実を生きている。今日も明日も。
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統計が作り出す規範 (2004-11-10)
統計が作り出す規範
統計データは新たな規範を生み出す。それが誤ったデータに基づいたものであっても。
恋のリアルライフ
今週発売の『anan』を立ち読み。特集は「恋のリアルライフ」。2004年版恋愛白書というフレコミで、出会いやデート、同棲から結婚までのアンケート結果を代発表している。
サンプルのとり方に問題があるので、データとしての妥当性はない。真面目に読んではいけないものである。大手の新聞ですら時々おかしなデータを持ってくることがある。『anan』レベルの雑誌であれば、まともな調査はしないのだろう。
統計に操られる人々
統計データや具体的な数値というのは、なまじ説得力があるだけに人は騙されやすい。そして、自分の行動の正当性の根拠として、統計データを示す。なかなか結婚しない理由として、晩婚化が進んでいることを示したり、子どもをあまり産まない理由として、少子化に関するデータを呈示したりする。
統計データによって他人を説得し、自分自身を納得させることが出来るのだ。他のみんなも同じだと知って安心したり、自分だけ逸脱していると認識して焦ったりする。平均から外れることは恐ろしい。世間の標準を知りたくて、人は統計データを知りたがる。
嘘のデータが作り出す真実
恐ろしいのが、データが現実世界の反映ではなく、データそのものが現実世界の方に反映してしまうケースだ。やたらとセックスや恋愛を煽る雑誌に掲載されるデータは、いい加減なものがほとんどだ。そんなデータでも判断力のない若者は納得してしまう。そして、嘘の統計データに煽られた人々は、そのデータに従うように行動してしまう。結果、データと現実世界が近いものとなる。
実際にアメリカには、誤った統計データを元にした性や恋愛への言説が、性の解放を推し進めてしまったという過去がある。1947年に刊行されたキンゼイの『キンゼイ報告』は、アメリカの性の実態を明らかにした書物である。それまで性に関する統計データがなかった時代だったこともあって、人々に大きなインパクトを与えた。オナニーの経験率が女性では62%であったり、男性の同性愛経験率が37%であったりと、当時のアメリカでは衝撃的な数値だった。この数値は実態を反映しているとは言えない数値だったが、様々なメディアで取り上げられた結果、オナニーや同性愛の増加につながってしまった。
キンゼイ報告がそのサンプリング技術上の問題から、実際の性交経験率やオナニー・同性愛経験率より過剰な数値をはじき出していたことは現在では明らかだが、そのことはさておくとしても、ここではキンゼイ報告という合衆国で行われた調査結果が「若い人の考え方が変わりつつある」ことの指標として示されることに注意したい。そうした数字は一人歩きを始めて、婚姻前性交やオナニーや同性愛に対する規制緩和を後押しし、ときには根拠づけるためのレトリックとして利用されるようになっていくのである。
(赤川学『セクシュアリティの歴史社会学』 勁草書房 1999 p.307)
「結婚したがらない女性が増えている」というデータは、女性の考え方が変わっていることの指標となり、そのデータが女性の未婚化を後押しする。また、結婚しないことの根拠づけにもなる。
『anan』も、正しいとは言えない統計データなのだが、そのデータを人々が本当だと思ってしまえば、データが現実に反映されてしまうだろう。
統計データというものは規範や行動のルールを示すものとなってしまうのである。それが誤ったものであっても。
統計データは新たな規範を生み出す。それが誤ったデータに基づいたものであっても。
Yas的萌え猫
こそどろフェースな憎い奴(憂鬱な昨日に猫キック 不安な明日に猫パンチ かーずSP経由)
「よぅ!どうしたんだいっ?」って感じで萌え。 且⊂(゚∀゚*) [85neko]
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愛を誓い結婚する理由 (2004-11-14)
愛を誓う理由
愛を誓い結婚という終身契約を結ぶ理由は、愛が続かないからである。
結婚の利点
某所で、「結婚の本当の利点って何だろう?」という書き込みを見かけた。
わざわざ結婚という永続的な契約を結ぶ理由は、人の気持ちが変わりやすいからである。たとえ嫌いになっても簡単に別れられないようにするための契約が結婚である。
感情に任せて別れたりくっついたりしていたら、家族が安定しない。子どもの教育にも影響がある。
結婚する本人にとっても終身契約はメリットがある。女性は有能で高収入の男性と結婚してしまえば、それで一生安泰に暮らせる。結婚しても数年絶てば愛情は消えゆくが、契約は一生続く。契約が結ばれている以上、そのうちまた愛が芽生えるかもしれないし、お互いに愛するよう努力するかもしれない。
愛を誓う理由
社会学者マックス・ウェーバーの著書『職業としての政治』の中に、次のような一文がある。
地上のどの宗教の発展も、その逆が真実であるという事実の上に基づいている。
(岩波書店 1980 p.93 脇圭平訳)
世の中、善人が損をし、悪人が得をすることもしばしばである。神が創ったとされるこの世界であるにもかかわらず。
現実は宗教家や神が述べるような世界ではない。天国もなければ地獄もない。天国と地獄という世界があることによって、今生きている人間が精神的に救われるだけだ。世界は不合理であり、その不合理さを誤魔化すのが宗教の役目である。
なぜ、人は神の前で愛を誓うのか。それは、通常であれば愛が続かないからである。もともと愛が続くものであるなら、永遠の愛を神に誓う必要なんてない。自然にまかせていればいい。(真剣さをアピールするという意味ならあると思うが)
「愛は永遠」という思想は、その逆の現実である「愛は冷める」という事実が社会に存在するために、逆に社会に受け入れられた。社会にとっては永続的な関係が結ばれることで社会の安定化が図れる。個人にとっても、愛情に関係なく永続的な関係を維持することが結果的に可能になるというメリットがある。
もしも現実に、男女二者間の永遠の愛なんてものがごく普通に存在するならば、その逆の思想をベースとした宗教が登場しているだろう。永遠の愛がありふれるような、そんな重苦しくて鎖につながれた世界に誰が住みたいだろうか。
愛を誓い結婚という終身契約を結ぶ理由は、愛が続かないからである。
Yas的日常
金曜の夜は星がやたらと綺麗だった。
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喫煙女性の子どもはIQが低い (2004-11-17)
喫煙女性の子どもはIQが低い
喫煙する女性は急増していない。
喫煙女性の子どもはIQが低い。
女性の喫煙者は急増しているか
女性の喫煙について読者様から話題を振られることが何度かあったので、今日は女性の喫煙について。
「最近は女性でもタバコを吸う人が増えている」という話はよく聞く。たしかに周りの女性は、ごく普通に吸っている。だが、そんなに昔と比べて喫煙女性が増えているのだろうか。
上のグラフは喫煙者の割合の増減を示したものである。こうして見ると、20代の女性では喫煙者はそれほど増えていないことがわかる。グラフにはないが、全年代でも同じような傾向である。
むしろ特徴的なのは、男性喫煙者の急激な減少だろう。健康意識の高まりからか、タバコを吸う男性は減っている。今の特徴としては、女性の喫煙者の増加よりも、男性喫煙者の減少の方が際立っている。
「女性でもタバコを吸う人が増えている」という印象が強いのは、外でもタバコを吸う女性が増えたからではないだろうか。タバコは男性が吸うものという規範意識が強い時代だったので、女性は外ではなく家の中でタバコを吸っていたのだろう。また、一人当たりのタバコの消費量が増えたからかもしれない。
喫煙女性が生む子ども
タバコを吸うことで、生まれてくる子供に悪影響が出ることはよく知られている。妊娠中だけでなく、妊娠前に喫煙していても、流産や死産の確率は高まる。
『かもめ歯科HP』さんのまとめによると、妊娠中喫煙を続けた女性では、妊娠中喫煙しなかった女性に比べて、胎児に注意欠陥・多動症候群(ADHD)が生じるリスクが3倍近く高くなる。またさらに、妊娠中に喫煙していた母親の子供は,喫煙しなかった母親の子供よりIQも低いらしい。
Biederman教授らによると,子供のADHDのリスクは母親の妊娠中の喫煙の結果増大し,母親の社会経済的位置,母親や父親のIQ,あるいは親のどちらかが子供のころにADHDだったか否かなどとは関連が認められない。
ADHDを発症した子供の母親は,人よりも妊娠中に禁煙することが難しかったか,あるいは発達する胎児に及ぼすたばこの悪影響についての認識が足りなかったのだろう。
タバコを我慢できない忍耐力のない母親の遺伝子を受け継いだために、我慢してテストを受けることが出来ず、IQテストの結果が悪くなってしまったのかもしれない。ああいったテストには注意力や忍耐力が必要だ。(それも知能のうちではあるが)
ここは素直にタバコの害を受け入れたほうがいいのかもしれない。タバコの箱に、「タバコを吸うと障害児が生まれてくる可能性が高くなります」とか「喫煙女性の子どもはIQが低い」とか書いておけば、もっと喫煙者が減るのではないだろうか。
喫煙する女性は急増していない。
喫煙女性の子どもはIQが低い。
Yas的日常
「お笑い芸人相関図」を読んだ。ダウンタウンVSとんねるずが面白い。(年齢がばれる・・)
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笑いの種類と空気 (2004-11-19)
笑いの種類
「笑い」には2種類ある。
2種類の笑い
週末は独りで映画『笑の大学』でも観に行く予定。なので今日は笑いについて書いてみたい。
「笑い」には二種類ある。
- あるある系
- ありえない系
の2種類である。「あるある系」は、物事の核心をついたときの笑いである。普段は言えないような物事の本質をついたり、状況の説明があまりに的確だった場合に笑いが起きる。お笑い芸人でいえば、長井秀和や波田陽区が代表的だろうか。
もうひとつ、「ありえない系」というのは、普通ではありえない状況やコミュニケーションのパターンが発生したときに起こる笑いである。ボケとツッコミの典型的な漫才がこれに該当する。若手芸人ではアンタッチャブルやインパルスが代表的か。
たとえばコントでよくあるシチュエーションで、「ファミリーレストラン」がある。店員と客とのありえないコミュニケーションを、観客は楽しんでいる。
お笑いの空間の中でボケに対してツッコミが入ることで、観客はその状況が「ありえない」ことに気がつき、笑いが起こる。状況が「ありえない」から突っ込むのではなく、突っ込むから「ありえない」状況だと思えるのである。
怒りと笑い
怒りのツボと笑いのツボは近いところにある。怒りも笑いと同様、共有された理解や期待が裏切られたときに発生する感情である。
社会学者のガーフィンケルは、日常における会話によるコミュニケーションについて実験や考察を行っている。ガーフィンケルは「楽しい一日を!(Have a niceday!)」という習慣的な呼びかけに対し、「楽しいとはどういうことですか?」「一日のうち、いつの頃を指していますか?」というリアクションをとった場合、相手はどんな反応を示すか、実験を行った。結果は、相手は狼狽し怒る事もあったようだ。当たり前の結果と言える。
日常の会話の中には、暗黙の諸前提がある。それらの前提を崩したときに、人々は緊張を感じるのだろう。当事者であれば怒り出し、観客でお笑いの空気に包まれていれば、それが笑いに転じる。
Amazonの『ウケる技術』のレビューが実に示唆的である。ある人はとても参考になると絶賛し、ある人は自分がこんな事言われたらブチ切れると全否定している。笑いも怒りも前提崩しや核心突きだから、社会的文脈によって解釈は変わってしまう。言い方をかえれば、そのときの「空気」次第なのである。
お笑いのライブでは、必ず最初の方に笑いの空気を作り出す。前説や前座がいて、笑いの空気を作るようにしている。よくウケる人というのは、こうした空気を作るのがうまい人でもある。同じ事を言っても、ウケる人とウケない人がいる。
空気を読む力、空気を作り出す力、前提を崩す力、核心を突く力、この4つがあれば、きっと優れたお笑い芸人になれるだろう。
笑いには、「あるある系」と「ありえない系」がある。
笑いになるか怒りを誘発するかは、社会的文脈によって異なる。
Yas的日常
近所のスーパーで専業主婦からショルダータックルを受ける。
今月は個人的に「専業主婦愛護月間」なので、慈悲深い心で許すとしよう。
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会話の原則と口喧嘩の演出 (2004-11-21)
会話の原則と口喧嘩の演出
会話の場面では、一時に一人だけが話をする。
会話の原則
社会学者のホックスは人々の会話を観察し、会話では「一時に一人が、そして一人だけが話しをする」ことを発見した(『日常性の解剖学』マルジュ社 1989)。会話では、とくにルールが定められているわけでもないのに、一人ずつ交代で発言がなされる。
この会話の原則は、あまりに当たり前すぎて気がつかない。だが、たしかにその通りである。二人が同時にしゃべっていたら会話にならない。
このような私たちにとってはどうでもよいことに関心を向ける所が、社会学者らしい。
口喧嘩の演出
この会話の原則を壊すことで、効果的な口喧嘩や口論を演出することができる。
脚本家にして演出家の三谷幸喜は、監督作『ラヂオの時間』の一場面で、この会話の原則を意図的に破壊している。映画の中で、登場人物同士が対立し、口論する場面があるのだが、そこでは二人が同時に言葉を発していて、緊張感のあるシーンとなっている。
三谷はDVDの中で、次のような解説をしている。「二人を同時にしゃべらせると、本当に喧嘩をしているように感じられるんです。普通は一人ずつしゃべらせちゃうものなんですけどね」と。
現実のケンカの場面では会話の原則にのっとって、一人ずつしゃべることの方が多いだろう。同時にしゃべらせるのはあくまで演出である。会話の原則を破ることで生まれる緊張感が、現実のケンカよりもケンカらしい印象を観客に与えるのだ。
才能のある演出家には、こういった日常的な暗黙の原則に気がつける能力が備わっているのだろう。
会話の場面では、一時に一人だけが話をする。二人が同時にしゃべることは、基本的にはない。
Yas的日常
笑の大学
映画『笑の大学』(脚本:三谷幸喜)を見た。心に残る映画だった。DVDが出たら買いたい。よくあるお笑い番組の延長を期待すると裏切られるので要注意。
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親の教育力はもともと低い (2004-11-26)
親の教育力はもともと低い
親の教育力は低下しておらず、もともと低かった。
現代の日本では親に子供の教育の責任が押し付けられるようになった。
親の教育がなっていないのか
最近の子どもによる凶悪犯罪や、公共の場での子どもの傍若無人な振る舞い等を見て、「最近の親は子どもをしつけることができない。低下した家庭の教育力の復活を図るべきだ」と主張する人がいる。たしかにしつけや教育が行き届いていれば、少しは礼儀正しい行動ができるだろうし、もしかしたら犯罪も減るかもしれない。
また、「義務教育のカリキュラム『育児』を追加したら、少子化にも歯止めがかかるのでは」というユニークな意見を述べる人もいる。
だが、本当に家庭の教育力は低下しているのだろうか。なぜカリキュラムに『育児』を追加しようという発想が出てくるのだろうか。
軽視されていた家庭での教育
かつての日本では、上層の一部の人々をのぞいて、家庭での教育は重要だとは考えられていなかった。教育は地域の共同体によって行われるものであり、社会性は自然と身につくものであった。
上のグラフは、親への教育についての質問の結果をまとめたものである(1971年)。「子どもの人間形成のカギとなるものは何か?」という主旨の質問に対し、ホワイトカラー層の親の多い「付属小」グループは「家庭教育型(家庭での教育が重要)」に分類される回答が多かった。それに対して山村部では、家庭での教育は軽視し、放任したり学校に依存したりしている。
伝統的な日本の家庭の中では、教育がしっかりされていたわけではない。むしろ教育には無関心だった。相対的に進んでいる、伝統的ではない家族の方が、家庭での教育を重視しているのである。
親に押し付けられる責任
近代化が進み、共同体のつながりが薄くなるにつれ、教育の担い手が親へとシフトしていった。そして子どもの教育の責任が親に押し付けられるようになった。親が子どもを育てるべきという規範は、当たり前のように存在している。子どもを放置する親には最大級の非難があびせられる。(子どもを車の中においてパチンコをする母親など。)
「家族の教育機能が低下している」のではなく、「子どもの教育に関する最終的な責任を家族という単位が一身に引き受けざるをえなくなっている」のである。地域、すなわち伝統的な慣行や価値観を伝えた共同体は、戦前期から次第に子供の社会化に対する影響力を弱めていき、高度成長期に最終的に消滅した。
(中略)
親たちは以前に比べてはるかに子供にさまざまなことを教えようと努力するようになっている。
(中略)
現代の親たちは、しつけや教育の担当者でもあり、手配師でもあり、最終的な責任者でもあるのだ。
(広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』1999 講談社 p.127-128)
もともと親の教育力などというものは当てにならないものなのだ。それなのに、親に教育の責任が押し付けられている。教育が出来るような立派な親であれば、それでも良いだろう。だが、親にも能力差がある。いくら親に子どもへの教育を訴え、しつけの方法を教えたとしても、出来ない親は出来ないだろう。
「最近の親はしつけができない」と非難するだけでは、良い結果を生み出さない。もともと出来ない親の方が多いのだ。非難する人はもともと育ちが良い(比較的教育熱心な親に育てられた)のではないだろうか。
義務教育に『育児』を取り入れるのは面白い考えだが、それはともすると親の育児の責任を強化することにもつながる。その良し悪しについてはここでは触れないが、まず「親が子供を教育すべき」という暗黙の前提にとらわれているため、カリキュラムに『育児』を、という発想が出てくるのだろう。
低下したのは親の自信と余裕
親の教育力は、平均すれば低下していない。親に責任が重くなったため、親の差がそのまま子供に反映されるようになった。出来の悪い親の子供は、出来の悪い子供になる確率が高い。
重い親へのプレッシャーにより、親から自信と余裕が奪われていく。
現代の子育てで失われたものはなにかというと「親の自信と余裕」、とくに母親のそれである。
(山田昌弘『家族のリストラクチュアリング』新曜社 1999 p.170)
もともと存在しない親の教育力を回復させようとするよりも、親の自信と余裕を回復させるべきではないか、と私は思っている。
親の教育力は低下しておらず、もともと低かった。
現代の日本では親に子供の教育の責任が押し付けられるようになった。
失われているのは親の自信と余裕である。
Yas的日常
ゴルフショートコース
河川敷のショートコースでゴルフをしてきた。PAR30のところを50で上がる。まだまだ修行が足りん。
河川敷なので、ゴルフ場の脇は川であり、人が散歩する道もある。その道を専業主婦が犬を連れて散歩していたりする。万が一誤った方向に球を打ってしまうと、その道まで飛んでいってしまう。非常に危険だ。スピードのあるゴルフボールは凶器である。もしもコースを越えて飛んでいったボールが犬に当たり、犬が怪我でもしたら・・・と考えると心配でショットの方向が定まらない。
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セレブはトイレットペーパーを三角に折らない (2004-11-29)
セレブはトイレットペーパーを三角に折らない
本物のセレブはトイレットペーパーを使った後に三角に折ったりはしない。三角に折るのは清掃員の役目である。
セレブはトイレットペーパーを三角に折るか
とある記事の中のセレブ度チェックに、「トイレで使い終わった後にトイレットペーパーを三角に折る」という項目があった。三角に折る女性の方が、セレブ度は高いらしい。
たしかにわざわざペーパーを三角に折るという行為は女性らしい心遣いが表れている。男性のほとんどはトイレットペーパーを三角に折ることはしない。
だが、このトイレットペーパーを三角に折るという行為は、本来なら清掃員がやるべき仕事である。一般の人がやることではない。もともとは清掃が終わったことを示すサインが、トイレットペーパーの三角折なのだ。本物のセレブは、絶対にトイレットペーパーを三角に折ったりはしないだろう。
私はお掃除係です
このトイレットペーパーの三角折を痛烈に笑い飛ばしているのが、福田和也の『悪の対話術』(講談社 2000)である。
数年前から、トイレット・ペーパーの切った後を、三角に畳んでおく、ということをやる人がいます。一部の女性などは、それがタシナミだと思っているらしい。
ご存知の方もいると思いますが、あれはそもそも、トイレの清掃係の方が、ここは掃除がすみましたから改めて掃除をしなくていいですよ、という合図なのですね。もしもその三角が切れていれば、点検した職員の方が、ここは使用された、ということで、また掃除をする。トイレの美観を気にして、頻繁に掃除をするホテルなどで作られた仕組みだと聞いています。
だから、トイレット・ペーパーを三角に折ったりするのは、私はお掃除係です、と云っているのと同じなのです。まったくエレガントでも何でもない。別に、掃除の職員の方を貶めているわけではありませんよ。でもそのふるまいは、盛装した姿とはまったくそぐわない滑稽なものです。第一、みなが片端から折るものだから、掃除したんだか、してないんだか解らなくなって職員の人にも迷惑でしょう。
そういう脈絡も考えずに、ただ何となく見栄がいい、というようなことでとりいれて、自分は上品なつもりでいる。まったく恥ずかしい、大笑いな事態ではありませんか。
(福田和也『悪の対話術』講談社 2000 p.82)
トイレットペーパーを三角に折って自分は上品なつもりでいる女性が多いのではないだろうか。本来、三角に折るのは清掃員の人の仕事である。一般の人がやってしまっては、清掃員の迷惑になる可能性もある。くれぐれも海外旅行先で三角に折るなんてことはしないで欲しい。旅行先の文化次第では、恥をかく場合もある。
洗っていない手で折ったら汚い
あくまで起源は起源で、日本の女性は三角に折るのがエチケットだ。という主張もあると思う。だがこれも本当にエチケットとして妥当なものか疑問である。考えてみればわかるが、洗っていない手でトイレットペーパーを折るのである。トイレットペーパーが汚れてしまうではないか。次の人はその汚れた紙を使うしかない。なんと迷惑な行為ではないか。
Googleで検索して調べてみたところ、「三角に折られたトイレットペーパーは汚い」という意見の人が多く存在していた。中には汚いから破って捨ててから使う人もいた。資源の無駄使いであり、地球も迷惑である。
私はそれほど細かいことは気にしないので、別に多少は汚れていてもいいじゃないかと思う。だが、気にする人は気にするだろう。己の見栄のためにトイレットペーパーを三角に折るという行為が、他の人にどれだけ迷惑をかけているか、今一度考えてみる必要があるだろう。
本物のセレブは、トイレットペーパーを三角に折ったりはしない。
トイレットペーパーを三角に折るのは、他人に迷惑をかける行為である。
Yas的日常
ドラクエVIII
ドラクエをプレイ中。楽しい楽しい。
300万Hit
もうすぐアクセス数が300万を超える。ありがとうございます。
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