憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記


占いの責任回避機能 (2005-01-04)

占いの責任回避機能

占いは単なる遊びではない。占いには責任を回避できる機能がある。

どっちでもいい女性の悩み

喫茶店でコーヒーを飲んでいて耳に入ってきた話。

ある女性が「今の夫と別れたい。離婚したほうがいいのだろうか」と悩んでいた。

いっぽうで相談された友達は困っていた。「そんな重要なこと私に相談されても、責任が取れない」と。

この類の相談で、相談された人が的確なアドバイスをすることは難しい。友人であったとしても、相手に関する情報は限られている。「離婚したほうがいいよ」と言ってあげられる友人は勇気のある人か、実は無関心な人だろう。

離婚しても結婚生活を維持しても、どちらでもそれなりに幸福でそれなりに不幸な人生が待っていると思う。だから、私はどっちを選んでも大差はないと思う。(逆に、大差がないからどちらを選んでいいかわからずに悩んでいる、とも言える)

そんな風に悩んだときに役立つのが占いである。

責任回避の機能

水晶やカードや手相が未来を見通すことはない。流布している「占い」は、ほとんどすべて適当なものである。占われた未来が偶然的中することもあるが、基本的に占いは適当である。

だが、適当だからといって、それが無意味なものとはならない。占いには様々な機能がある。社会にとって有益な機能があるからこそ、長い歴史の中で占いが生存しつづける。

大きな機能の一つが、「責任回避」機能である。先ほどの離婚相談の例でも、相談された人はその相談内容の重さに苦しんでいる。友達に相談せずに、占い師に占ってもらえば、決定について誰も責任は取らなくてすむ。離婚するかどうかを決めたのは「占い」の結果によるものだ。占い師ももともと適当に占っているから、結果について責任はとらない。占った結果を保証する占い師は存在しない。よく「占った後の人生は本人の行動次第」という逃げ道を用意してある。

自分で選んだのなら、どう結果が出ようと責任は自分にある。その責任を背負い込みたくないからこそ、占い師にアドバイスを求めるのだ。また、すでに自分では決めているのに、踏ん切りがつかない場合も同じ。自分以外の誰かに背中を押してもらいたいのである。

つまり占いとは、自分を納得させ決断させる上での巧妙な責任回避システムとして働く。

(中略)

占いは、さまざまな人生の岐路において選択の意味を教え、ガイドを示してくれる非常に実用的な道具なのである。決して単なる気晴らしの遊びではないのだ。

(菊池聡『超常現象の心理学』平凡社 p.154-155)

占いが正しく未来を指摘しているかどうかと、実用的かどうかは、また別の話。それと、実用的だからといって、占いを全面的に肯定するわけではない。

占いには責任を回避できる機能がある。

Yas的年末年始

大晦日

某所にて実況。読み返して鬱になる。

ミスチル新曲

日清カップヌードルのCMでミスチルの新曲が使われていた。新年早々大興奮。

帰省

田舎に帰って同窓会に出席。田舎はなぜかDQNがモテる。DQN女性が多いからか?

お笑いライブ

渋谷公会堂で「新春!爆笑スーパーLIVE」を観る。スピードワゴン、アンガールズ、パペットマペット、エレキコミック他が出演。私的には大満足のライブ。小沢さんの甘いセリフを生で聞けてよかった。

ドラクエ8

更新しながらプレイ。まだレベル35。


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年金と少子化問題を解決する究極の方法 (2005-01-06)

年金と少子化問題を解決する究極の方法

年金制度そのものを廃止してしまえば、年金制度の問題は無くなる。また、扶養者としての子供の価値が高まるため、出生率が上昇する可能性がある。

年金制度を廃止すれば問題解決

少子化が進めば今の年金制度は破綻してしまうと言われる。社会学者の赤川学は『子どもが減って何が悪いか!』(ちくま新書 2004)で、年金というシステムそのものを無くしてしまえば、年金の問題はなくなるという面白い視点を提供している。

少子化のデメリットとしての年金破綻は、視点を変えればあっというまに消失してしまうからだ。極端な例だが、政府が「明日から、年金制度はやめます。老後の設計は、自分で蓄財して、自分でやりくりしてください」と一方的に宣言してしまえば、年金制度の「破綻」問題は、消えてなくなる。

(中略)

要するに、年金制度が破綻しかねないという懸念は、政府が現行の年金制度を維持しなければならないという問題関心のもとでのみ、解決すべき難問として立ち現れる。その前提を取っ払ってしまえばそもそも「問題」ですらない。

(赤川学『子どもが減って何が悪いか!』ちくま新書 2004 p.127)

さらに赤川は、年金の廃止が出生率を回復させるかもしれないと述べる。子どもには老後の面倒を見てもらえるという生活保障の効用がある。私も時々「老後はどうするんだ。結婚して子どもを産め」と言われる。だが年金の存在がその効用を相対的に低めてしまった。だから、年金制度が無くなれば子どもの需要が増え、親は老後のために子どもを産もうとするだろう、という単純な理屈だ。

子どもは親の面倒など見ない

仮に年金制度が無くなったとして、子どもは親の面倒を看ようとするだろうか。子どもがしっかり親の面倒を看てくれるなら、年金自体の必要性は薄くなるのだが。

結論から言うと、現代の若い世代の人たちは、積極的に親の面倒を看ようとはしていない。青年の意識の国際比較を見てみよう。

日本の青年は他の国と比較して、親の面倒を見ようとはしていない。このような意識の下で年金制度を廃止すれば、様々な問題が噴出するだろう。

「自分の老後の面倒は子どもに見てもらおう」と考えている人が少なからずいるが、立派な子どもに育てる自信があるのだろう。

そもそも国民年金は

国民年金という制度がなかった50年代後半の新聞を読み返してみると、老後の生活保障のための国民年金制度を求める声が少なくない。平均寿命が延びていく中で、何の生活力もない老人は家族を頼りにするしかなかったが、その家族から見放されてしまう人もいた。

今さら年金制度を廃止することはないだろうが、廃止したとしてもまた同じように年金制度を求める声が上がるだろう。老後のことなど何も考えてなかった人や、家族から見放された多くの老人が社会問題化してしまう。だから結局は強制加入の国民年金が必要になってしまうのだ。扶養者としての子どもの価値は低くなるが、それはそれで仕方が無いことだ。

(赤川は「年金制度を廃止すべし」とは主張していないので、その点は注意されたい。)

年金制度そのものを廃止してしまえば、年金制度の問題は無くなる。また、扶養者としての子供の価値が高まるため、出生率が上昇する可能性がある。

子どもが親の面倒を見ることは期待できない。結局、年金制度は必要である。

Yas的日常

ドラクエ8クリア。

これで更新ペースが上がるか?


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人は嘘をつく -過大申告する男性- (2005-01-12)

人は嘘をつく

アンケートなどでも、人は嘘をつく。

男性は、性行為にかかる時間を女性よりも多く申告する。

読者様からのメール

久々に読者様からメールが届いたので、今回はそれを話題にしてみたいと思う。

メールは「性などのタブー視される事柄についてのデータは信憑性が薄いのではないか。本人が口外したがらないだろう」という主旨だった。

この指摘は確かに正しい。

男性は行為の時間を過大申告する

性の領域では、女性は過小報告をし、男性は過大報告をすると言われている。

性行為の所要時間のデータを見てみよう。

年代によって時間が異なるのも面白いが、ここで注目したいのは、どの年代でも女性よりも男性の方が長時間セックスをしていると申告しているところだ。セックスは多くが男女で行うもので、年代を同じにすれば男女ともに同じぐらいの時間になるはずである。

ところが、男性の方が女性よりも長い時間性行為をしていると答えている。ここは男性のプライドや社会からのプレッシャーが、男性に嘘をつかせていると考えたい。(女性よりも男性の方が高齢である組み合わせが多いという理由も考えられるので注意が必要だが。)

人々の規範意識が、嘘を生み出すのだ。

8割の人が選挙に行った

読売新聞社は、98年の参議院選挙の後に、国民が実際に投票に行ったかどうかを調べた。「投票に行きましたか、行きませんでしたか。」という質問をしたところ、約84%の人が「行った」と回答した。しかし現実の投票率はというと、政治的無関心の反映か、約59%だった。

単純に考えて、約2割強の人は投票に行っていないにも関わらず、「投票に行った」と嘘をついている。

「選挙には行くべき」という規範意識や社会からの圧力が、人々に嘘をつかせたのだろう。

嘘が含まれているといっても

社会調査の結果として表れてくるデータには嘘が含まれる。だからと言って情報を無視してしまうのではなく、嘘も織り込みずみでデータを読んでいくことが重要だろう。

統計データは現実を反映した鏡だ。だけどその鏡は歪んでいたり割れていることもある。その歪んだ鏡に映し出された「虚像」から、現実の有り様を探っていく所が面白い。

人は嘘をつく。

男性は、性行為にかかる時間を女性よりも多く申告する。

Yas的日常

荒川で焼き芋

日曜日の出来事。北千住駅から歩いてしばらくいったところにある荒川の河川敷で焼き芋を焼いて食す。

且⊂(゚∀゚*)ウマー [85]

荒川といえば「3年B組金八先生」なので、「贈る言葉」を歌った。

ゴルフ練習

新しいアイアンセットを購入。飛距離がワンランクアップした。練習あるのみ。


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恋愛するなら政治学を学べ (2005-01-16)

恋愛するなら政治学を学べ

政治学を学ぶならまず恋愛を。

恋愛するなら政治学を学べ。

政治学を学ぶなら恋愛を

恋愛は政治的だと思う。 そんなことを考えてネットサーフィンしていたら、面白いコラムを見つけた。

ある政治学の教授が、「政治学を学ぼうとするなら皆先ず恋愛をしてみたまえ。」と 学生に教えたそうだ。(とある会社員のコラム「政治の世界」より)

この教授の本意は「政治も恋愛も結果がすべて」であるようだ。その意とは異なるが、恋愛は政治的である。利害や価値が対立し、答えがひとつに決定できない。

まず恋愛をすれば、そのようなせめぎあいの政治的状況を体感できることができるだろう。

政治とは

政治の定義は多様で、政治学者の数だけ存在するという冗談がある。有名なのがイーストンの「限られた資源の権威的配分(authoritative allocation of value)」だろう。簡潔な定義でスマートである。

もう少し簡単な政治の説明を、バーナード・クリックの『現代政治学入門』(講談社学術文庫)から引用しよう。氏の定義(説明)によると、「政治とは、多くのひとびとのあいだで正当なものとして受け入れられる方法によって紛争を調停し和解させること」となる。 こちらの方が冗長だがわかりやすい。

利害や価値が対立するだけでなく、正当性が求められる点が重要である。

政治と家族

家族は政治的な場である。

恋愛の後の結婚や家庭生活は、描いたようなユートピアではない。むしろ利害や価値をめぐる対立が避けられない政治的状況であることは社会学者がすでに指摘している。

家族社会学者の山田昌弘は、「家族はつとめて政治的な場」と述べている。

家族は、再生産と生活保障に関するせめぎあいの場と見ることもできる。社会システム、家族責任者の受益者、負担者が、正当性を調達しながら他の要求と対立、妥協して要求を実現しようとする。家族はつとめて政治的な場」である。

(山田昌弘『近代家族のゆくえ』新曜社 1994 p.60-61)

再生産(例えば子育て)の労働は誰が負担するのか。どの程度負担するのか。どのように再生産を行うのが正しいのか。家族は再生産に関するせめぎあいの場である。

恋愛するなら政治学を学べ

恋愛と政治に話を戻す。

現代も恋愛は政治的になっている。ここでの恋愛は感情としての恋愛ではなく、他者が関係する行為、いわゆる「現代的男女交際」である。

恋愛では、さまざまな利害や価値がせめぎ合う。これは今も昔も変わらない。だがとくに80年代以降、 恋愛の自明性が失われつつあり「本当の恋愛」という言説があふれ、よりいっそう政治的状況となっている。「ひとびとのあいだで正当なものとして受け入れられている方法」が多様になってしまったのである。

一昔前までは、男と女が一対一でいればそれだけで恋仲であり、それで幸せだった。

二十年くらい前までは、好きな人と恋人になりさえれば、すべてうまくいくと信じられていた。しかし、今となっては、恋人ができた後の付き合い方が問題になっているのだ。

(山田昌弘「情熱と親密性の間」『AERAMook 恋愛学がわかる。』 朝日新聞社 1999 p.155)

政治的状況の中で恋愛に関係する人々(本人、恋人、本人が浮気している人などなど・・)は、 「正当性を調達しながら他の要求と対立、妥協して要求を実現しようとする。」 だろう。

恋人同士のケンカは、まさに政治的状況の表れであり、政治的な紛争である。お互いが自分の正当性を主張するケースが多い。そして、どちらが正しいのか、一概には言えない。

政治的な視点から恋愛をみつめると、また世界が違って見えてくるだろう。 コラムで登場した政治学の教授は、「政治学を学ぶならまず恋愛を」と言った。これは恋愛という人間同士のせめぎあいが、まさに政治的状況だからではないだろうか。

であるならば、次のように反転させても面白いだろう。

「恋愛するならまず政治学を学べ」と。

恋愛というものが見えてくる。

そしてきっとモテなくなる。

政治学を学ぶならまず恋愛を。

恋愛するなら政治学を学べ。

Yas的日常

ペンション「クヌルプ」

ゲームソフト『かまいたちの夜』の撮影場所となった、ペンション「クヌルプ」に行ってみようと思う。場所は長野の白馬。

恋人役募集。あくまで


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美人の方が性格が良い (2005-01-20)

美人の方が性格が良い

美人の方が性格が良い。

美人の方がブスよりも性格が悪いというのは、現実から目をそらすための言葉にすぎない。

美人は性格が悪いか

友人が「美人は性格が悪くなるんじゃないか。周りからチヤホヤされるし」言っていた。私はその場で否定した。そんなロジックで良いのなら「不細工は性格が悪くなる。恋愛中心の世界で男からまったく相手にされないのだから、性格は歪む」という答えになってもいい。

そんな前置きは置いといて、「美人は性格が良い」ということについて書いてみたいと思う。

美人を生産するには

高い階層の人には美人が多い。

容姿は基本的に先天的なものだ。親の組み合わせと運で決められる。確率的には容姿の優れたカップル同士から美人が生まれる可能性が高いだろう。よって、美人の親もまた美人やイケメンである確率が高いと考えることができる。

また、美人という要素は大きな資源であり、美人であればよりよい男性と結婚できやすいが、不細工だと難しい。あくまで主観にすぎないが、女性労働者を眺めてみると、家計が苦しく働きに出ざるを得ないパート労働者は比較的容姿が劣る。経済力のある男性を捕まえられなかった結果だろう。美人であれば、不細工よりは高い確率で経済力のある男性に寄生して専業主婦に成り下がることもできる。

美人か不細工かで結婚相手の可能性がある程度決まり、結婚をして子どもを産む。そして容姿は遺伝する。

以上のことから、高い階層の人々はその資源を生かして不細工よりも美人を多く再生産してしまう、と考えられる。

高学歴者は冷たくない

高学歴者は人間的に温かい。

有名大学に入ることの出来た人は有名進学校で受験競争を勝ち抜いてきたたために人間として学ぶべき大切な何かを忘れてしまった・・という類の言説は愚かな専業主婦を中心に世に溢れている。「勉強はできるが人への思いやりが欠ける」「理屈っぽくって心が冷たい」など、いかにもステレオタイプな高学歴像である。

教育社会学者の苅谷剛彦は、こうしたステレオタイプに囚われた見方を批判し、むしろ有名進学校出身の人たちの方が様々な経験をし、地方の公立学校の人よりも豊かな人間形成が達成できていると述べている。その背景には、経済的・文化的豊かさがあるという言う。こうした生まれながらの家庭環境の影響で、子どもは巧みな人間関係の術を身につける。(苅谷剛彦『知的複眼思考法』講談社 2002 p.38-39)

豊かな環境で育てば教育も充実し、心も豊かになる。貧しければ文化レベルも低く、お金もないので活動できる範囲が限られ、心を成長させる機会に乏しい。

美人の方が性格が良い

親が美人であれば結婚して豊かな生活を手に入れられる。遺伝子は子どもに受け継がれ、美人が再生産される。生まれた家庭環境は経済的・文化的レベルも相対的に高いので、そうでない不細工よりも経験豊富で豊かな心を形成する。

よって美人の方が性格が良い。

やはり「持てる者はますます持つ」のだ。

ここでは、遺伝と家庭環境から容姿と性格の関係について考えた。少なくともこの2点からは、「不細工の方が性格が良い」という結論は導き出せない。

人は現実から目を背けなければ生きていけない

先ほどの苅谷氏の本から引用しよう。

「受験を勝ち抜いてきたものは、人間的には冷たい」といったイメージが、どうしてこれほど広まっているのか。そうした「常識」が広まることで、何が隠されているのか。競争の勝者を否定的に見なすことで、私たちの社会は、何を得ているのか、何を失っているのか。

(苅谷剛彦『知的複眼思考法』講談社 2002 p.39)

競争の勝者やこれから勝つであろう勝者、つまり美人のことだが、なぜ美人は否定的に見られるのだろうか。

美醜によって、人の値打ちを計るのは残酷かもしれませんが、美醜によって、好いたり嫌ったりするという事実は、さらに残酷であり、しかもどうしようもない現実であります。

(福田恒存『私の幸福論』ちくま文庫 p.16 )

あまりに捻りのない考えだが、どうしようもない現実から目を背けるために、美人の価値を低めるのではないだろうか。「美人の方が性格が悪い。不細工の方が性格が良い」と考えてた方が、不細工と付き合っている男性にとっては、溜飲を下してくれる効果をもたらす。世の中美人が増えたとはいえまだまだ不細工が多く、そしてそうした不細工と付き合うのは高い立場にいる男性ではない。もろもろの不満を飲み込んで解消してくれる役割を持つ言葉が「美人の方が性格は悪い」なのではないだろうか。

美人の方が性格が良い。

美人の方が不細工よりも性格が悪いというのは、現実から目をそらすための言葉にすぎない。

Yas的日常

ゴルフ練習

週末に軽くコースへ出ることになった。その練習。

「かまいたちの夜」ツアー

ゲームソフト「かまいたちの夜」の撮影場所となった長野県のペンション「クヌルプ」に行くことになった。2月の予定。現時点での募集枠:女性1名。ゲームを遊んだ事のある人の参加をお待ちしております。興味のある方は適当にメールなどを。わりとすぐに締め切ります。


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「いんちき心理学研究所」の終了 (2005-01-31)

「いんちき心理学研究所」の終了

アクセス数が増えれば増えるほど、人は孤独を感じる。

「いんちき心理学研究所」の終了

当サイトからリンクを張っている「いんちき心理学研究所」が終了を宣言した。私が書いた「沈黙のオーディエンス」がリンクされ、「読者からの反応がなく、更新の意義がなくなったから」という理由が添えられていた。

「いんちき心理学研究所」の管理人である浅野教授とは最近になって交友を持てた。互いの苦労を語ることもあった。アクセス数を増やすのは簡単らしいが、読者から反応がもらえないことが悩みの種だったようだ。いくら1日にアクセスが1万以上あっても、感想のメールなんて届かない。風邪を引いたと書いても誰も心配しない。読者からの反応がないから、という理由で終了を宣言しても、届くメールはほんの数通。人気サイトでも、読者からのリアクションなんてこんなものなのである。

このような状況が続けば、精神が病んでいくのもいたしかたあるまい。

Simpleの場合

浅野教授からは、「Yasさんは恵まれている」と言われている。たしかに、私のサイトではオフ会も何度も開いているし、たまにではあるがメールも届く。それでもたまにだし、読んで心が躍るようなメールなんてあまりない。

届いたメールはすべて返信を書くようにしている(専業主婦をのぞく)。返信した場合に読者の方が驚くことがある。「返信が返って来るとは思わなかった」と言う人が実に多い。

Webサイト・ページというものが雑誌と同じようなメディアとして見られているために、返信を期待したりしないし、わざわざ感想を送ったりすることがないのだろう。好きな作家に手紙を書いても、普通は返事を期待しない。ちゃんと読んでくれるかどうかもわからない。だから時間を割いて手紙を書いたりすることはしない。

外部からの刺激が必要

つい最近読んだ小谷野敦の『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人に』の中に、ひとりで書いているとやる気が起きない、という記述があった。

その当時(引用者注、32歳)は、こういう考え方は負け惜しみかも、と思っていたが、今は事実だと言えるのは、書き手というものは、褒められたり、編集者から書いてくれと言われたりすると、嬉しいから脳が働いて新鮮なアイディアも出るけれど、一人でやっているとなかなかやる気も起きないしアイディアも出ないのである。実に、凡庸な書き手と俊英との違いはそのために増幅されるのであって、もともとの才能が同じくらいでも、外部から鼓舞されることがないと、才能も涸れしぼんでゆく。

(p.152)

Webサイトでコラムなどを発表している人は、じつに孤独なのである。編集者もいない。発表前のテキストをチェックしてくれる人などいない。

アクセスがあればたしかに人に読まれているという感覚は得られる。だがそれもアクセス数が多くなればなるほど、単なる数字以上の意味を持たなくなる。そして数字が多くなればなるほど、こんなにたくさんの人が読んでいるはずなのに、人間的なコミュニケーションがとれていないという事実に苦悩する。

閲覧者が増えるほど壁に向って話している感が強くなっていく

浅野教授はそう言ったが、私も同感である。まるで海に向かって石を投げているような空しさがある。やはり小谷野が言うように、外部からの鼓舞が必要だと思う。もっとも、外部から賞賛されるようなテキストを書いていることが前提となるが。

届かない言葉

友人と「最近面白いサイトある?」という話をしていて、「いんちき心理学研究所」が話題になったことがある。「あそこ面白いよね。○○の話がさぁ〜」と会話は弾んだ。

このような声が多く管理人の下に届いていれば、また違う方向にサイトが発展していったんだろう。残念だけど、仕方が無い。

声なんて届かない。どこかで誰かが楽しんでくれている。そんな風に信じて、物を書いていくしかないと、今では考えている。

アクセス数が増えれば増えるほど、人は孤独を感じる。

サイトの維持には外部からの刺激が必要。

だが、管理人が外部から刺激を受けることは稀である。

Yas的日常

ミスチルカラオケ

ミスチルファン50人ぐらいが集まってカラオケをした。曲はミスチルオンリー。大満足。楽しい。

24

「24」(ファーストシーズン)をようやく見終える。ラストは自分好み。セカンドシーズンもさっそくレンタルしてしまった。


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