フェアリーランド

小さな妖精


 鍵を鍵穴に差しこみます。半回転。ノブをひっぱり、玄関の重い扉がギーッと
ひらきます。
 奥のほうからピコピコと、陽気で空虚なゲームの音が聞こえてきます。
「ひさしぶりだなァ、有馬んち」わたしは玄関のなかを見まわしました。「あー、
有馬んちのにおいだ。懐かしい」
「まあ、入ってよ」と有馬は言い、それから2階に向かって、
「まもるぅ!」
(階段の上から)『なあにぃ、兄ちゃん?』
「ちょっと来い」
(迷惑そうに)『なぁにぃ?』
「いいから来いよ」
 5秒くらい間があって。ファミコンの音が止まり。階段を降りる足音がして、
守くんがやって来ました。おっとりとした雰囲気の中3の男の子。おうし座さん
です。
 わたしはにこにこ手を振りました。
「守くん、お久しぶりィ。あたしのこと、覚えてる?」
「え? ……えーと」兄の顔を見ます。
「分かんねえのか」と有馬。
「まさか――観月ありさ?」
「ばっかじゃねー」有馬は吹き出します。
「いやだぁ、そんなぁ、ほんとのこと」わたしは笑っていいました。「おほほほ
ほ」
「どこが観月ありさだよ。春川さんちの菜美ちゃん、覚えてんだろ? 『なっち
ゃん』だよ『なっちゃん』」
「ああ。マルコキアスか」守くんは急に親しみのこもったにやにや声でいいまし
た。
「そうそう。堕天使」と有馬。
「もう堕天使じゃないって、いってるでしょう」わたしは抗議しました。
「妖精と合成すれば、天使になるよ」守くんはマニアックなことをいいました。
無意識のように左手の親指を前後左右に動かしながら。それから、わたしに向か
って、ちょっと照れたように、
「どうも。おひさしぶりデス」
「いやぁ。こちらこそォ」(観月ありさと間違えられたので上機嫌)
「──というわけで、おまえ、ちょっとフケろ」有馬は弟にいいました。「カネ
やるから、夜までゲーセンしてろ」
「え? というわけって?」と守くんはいい、有馬を見、わたしを見て、視線を
泳がせ、うつむいて赤くなりました。「う、うん」
「なに赤くなってんだよ、おまえ」
「赤くなるのには、赤くなる理由があるからだよ」(いうことが有馬の弟っぽい)
「なにも追い出すことないじゃん」わたしは小声で有馬をとがめましたが、その
声にこもっていたのは本当の熱意ではありませんでした。
 そのへんの機微を察してか察しなくてか、守くんは、
「じゃあ、まあ。あと10分くらいしたら行くよ」
 ぼそりといいました。「いまやっと泉の精に会えたとこだから。橋へ行く行き
方おそわって、キリのいいとこまで行ってからね」

 2階にある有馬の部屋は本だらけ。本棚からあふれた本があちこちに山をなし
ています。部屋の隅の壁ぎわには、何千というCDやカセットが、まるで超高層
ビルのように積み重ねられています。
 そうしたものに囲まれて、ひんやりとした木の床に腰を下ろすと、開け放した
窓から、曇りない澄んだ青空が見えました。9月3日、火曜日。2学期の始業式
の午後、A高から直接、有馬の家に来たのです。この日は有馬の十七歳の誕生日
でもありました。
「ちょっと待ってね、いま冷房つけっから」そういって、有馬は部屋の窓を閉め
ました。暑苦しい蝉の声が不意に遮断され、守くんのやっているゲームの音が、
壁越しに、耳につくようになりました。
 なんか、しんとして、気まずいなぁ。
「音楽でもかけない?」
 静かな部屋のなかで、自分の声がやけに大きく、うつろに響きました。
「おれさ、普通の友達きたときはCD聞くんだけど、ホントの友達んときとか、
まじめな話んときには、BGMはかけないことにしてるんだ」
「へー? 音楽、好きなのに?」
「まあ、いろいろポリシーがあるんだよ、おれにも。ふたつのことはいっぺんに
できないってゅーか。それにさ、おれ、ときたま自分で歌いたくなるじゃん。B
GMなんてあると発想がとどこおるんだな」
 わたしは笑いました。「有馬って、すぐ歌いだすよね――。昔から」
「I  speak  Music ! なんかきっかけがあると、ニューロンがびしばし発火し
ちゃうんだな。高速増殖炉みたいにさ。音楽が自己増殖して。心があふれて、口
から歌が流れ出る。おれが歌うんじゃない、音楽が歌うんだ――」
「出た出た、有馬名言集」わたしは冷やかしました。「カックイイ!」
「フフン」
「でも、まじで、有馬の才能、すごいと思うよ。ほんと、まじで。有馬ってさ。
もしかして、二十一世紀のミスチルになるかもね」
「やめてくれよ」
「え? なんで? ほめたんだよ」
「おれだって、ミスチルは認めてるよ。だけどさ――だからこそ、第2のミスチ
ルとか、いわれたくないよ」
「……どういうこと?」
「おれは第1の有馬猛ってこと。この世で最初の有馬で、最後の有馬。おれの前
におれはなく、おれのあとにおれはない」
「お、出たな、有馬名言集パート2」
「だろ? まじで。だから、おまえも、観月ありさなんていわれて喜ぶなよ。こ
の世でたったひとりのおまえなんだからさ」
「――ウン」
「まあ、そんなヨタ話はともかくとして。早くあれ見してよ。ミカからの手紙」
「え? うん……」
 わたしは少々ためらいました。
「なんだよ、早く見してくれよ! 今朝から、あとで、あとでって、すっげえ気
になってんだぞ。おれ宛ての部分もあるんだろ?」
「それはそうなんだけどぉ」
「ここならいいだろ。ほかにだれもいないんだから」
「あたしだって、早く見せたいって気持ちはあるんだけどぉ……。揺れる乙女心。
なのよねぇ」
「そんなに揺れるんなら、おれがしっかり押さまえてやろうか」
「まぜっ返さないでよ」
 わたしはかばんのふたを開け、中を探りました。
「冗談じゃないよ。今の」
 有馬のシリアスな声が聞こえます。「ミカがそういう考えならさ、春川も本気
で考えてよ。おれのこと。そんな結婚生活なんて不可能だろ、おまえとミカ? 
何度もいうようだけどさ」
 有馬はわたしがどちらを選ぶかという観点で考えているのでした――ミカか有
馬かという。
 わたしは、黙って白い封筒を差し出しました。少し大きな、日本でいえば定形
外の封筒で、外国の切手が貼ってあります。EMSという特殊なエアメールなの
です。
「じゃ、一緒に読も?」
 ありったけの勇気を出して、明るめの声でいいました。
「おお」
 有馬は床の上に大きくあぐらをかいて、封筒の中身を取り出します。真剣な表
情で。何枚か重なっている薄手のびんせん。ふたつ折りになっているのをひらき、
背を丸めてのぞきこみます。
「ミカって……こういう字、書くのか」
「きれいな字でしょ」
 わたしも横からのぞきこみます。
 有馬はしだいに真剣な表情になりながら、ミカの手紙に目を走らせてゆきまし
た。

〈エルフィンランド 一九九六年八月二十三日
 いとしい菜美 No.240
 いまヘルシンキ→オウルを移動する旅の途中です。途中の駅で、接続列車を待
っているところ。その列車が来てから、ミカの乗っているオウル行きが発車する
のです。でもその列車が少し遅れています。日本の電車の車内放送のようにこま
ごまとしたアナウンスがないので、詳しい事情は分かりません。
「接続列車が遅れています。この汽車は待ちます」
 と、静かに告げて、それで放送は切れました。
 そんなわけで、今は汽車から出て、駅のベンチで日なたぼっこをしながら、こ
れを書いています。
 こちらはもう秋です。太陽は輝いていますが、日本の夏の太陽のような、濃厚
な光ではありません。斜めからさしてきて、あらゆるものを透きとおらせてしま
う、そんな稀薄な光。高い山の上の空気の味と、似ているかもしれません。白い
ペンキを塗った駅の柵の向こうは牧草地のようになっていて、そこではハーパが
さわさわ鳴っています。ハーパは、どんなかすかな風にでも反応して、さわさわ
音をたてる木なのです。
 菜美のいう悩みのことですが、なぜそれが悩みなのか、ミカにはよく分かりま
せん。まず第1に、ミカの体が変わっても、ミカがミカでなくなるわけではあり
ません。むしろ、ミカがミカでありつづけるための手術なのです。そうしなけれ
ば、ミカはミカでなくなってしまい、ここにはいられなくなってしまうでしょう
から。
 だから、ミカが手術を受けることで、菜美のミカに対する気持ちが変わること
はないはずです。
 いとしい菜美。あなたが心配しているのは、むしろ、あなたの体のことではあ
りませんか。そのことでなら、ミカに気がねする必要はないんですよ。あなたに
いいました。別れたくないならミカに肉体的なことを求めてはいけないと。でも、
有馬に求めてはいけない、とはいっていません。有馬とあなたは、あんなに愛し
あっていて、そして、あなたの手紙によれば、肉体的にも求めあっているのでし
ょう? それをさまたげるものは、なにもないはずです。それはとても自然なこ
とで、人間としてみた場合、ミカの方が間違っているのです。ただ、ミカはどう
しても人間の考え方ができないので、それで、人間のようにはなれないでいます。
 ぼくはきっと、生まれたときからこの世にいなかったのです。世の中との接点
を見いだしたいと願いつつ見いだせなかったのではなく、世の中との接点を見い
だしたいと願うことさえなかったのだから、もっと悪いことだったのかもしれま
せん。世の中との接触は、仮面の人格(おうむのように日本語やフィンランド語
を反復する)に、まかせきっていたのです。
 少女の気持ちを持った男の子がいるとします。その男の子にとって「本当の自
分」は少女です。でも、その少女は、現実にはどこにもいません。だれも、その
少女を見ることはできません。その男の子にとって、現実とは自分がどこにもい
ない場所、自分とは無関係な場所でした。彼にとっていちばん恐ろしいこと、そ
れは、自分自身によって本当の自分である少女が侵され、けがされ、殺されるこ
とではなかったでしょうか。強制された自殺を避けるために肉体を滅ぼしたとし
ても、それは彼にとっては真実なのかもしれません。
 記録してください。ぼくは、そんなふうに生きたのです。

 あなたとミカの関係は、あなたのいうような人間と妖精の恋愛ではありません。
むしろそれは、妖精と妖精の恋愛だったのです。あなたのなかにも小さな妖精が
いて、その妖精が、ミカとひかれあっていた。そうでしょう? あなたは心の一
部で、たしかに妖精の世界にひかれている……そして、同時に、あなたは人間の
恋愛にも憧れている。そうですよね? つまり、菜美のなかには人間の気持ちと
妖精の気持ちが両方あるのです。
 そこでお尋ねするのですが、どうして、人間か妖精かどちらかひとつに決めな
ければいけないのでしょうか? 現に両方あるのなら、両方あるがままでいいで
はありませんか。おとなになるには妖精を捨てなきゃいけないなんて、だれが決
めたの?
 ミカ自身は、そういう両立ができません。人間の考え方はまるでだめ。おとな
の多くも、たぶん、そういう両立ができないでしょう。つまり妖精の考え方はま
るでだめ。でも、あなたはふたつの気持ちを持っている。妖精というたとえを用
いるなら、あなたは妖精と人間のハーフ、半妖精なのです……そして、ぼくらの
友人、有馬もそうだと思いますよ。彼はあなたのいうような「欲望だけのただの
男」ではなく、とてもきれいな気持ちを持っている。あなたと同じように。その
うえで、自分の体の欲望は、それはそれとして、自分の存在の一部として受け入
れているのです。菜美も同じように(あ、もう出発だ。とりあえず汽車に戻るね)

 接続の汽車が来たので、こっちの汽車ももう動くと思います。

 ……だから、菜美は、この手紙を有馬にも見せてください。そうすれば、きっ
とすべてうまく行くはずです。あなたが肉の交わりをもったからといって、あな
たのなかのきれいな気持ちは、たぶん、消えないでしょう。なぜなら、あなた自
身が「そうしたい」と思っているから。それがあなたの真実だから。ミカの場合、
それができない。ミカは「そうしたい」と思えない。「そうしたい」と思えない
のがミカなのです。「そうしたい」と思っているのは、ミカの体だけでした。ミ
カが「そうしたい」と思えるようになったとしたら、それは、ミカがミカがでな
くなったときです。人形に飲みこまれて。あなたは自分の体を含めて「自分」と
思えるからいい。ぼくにとって、この子は、いつも奇妙な人形でした。

 あ、汽車が動きだす。文字が乱れますよ。
 菜美と有馬が愛しあっていても、それはミカからみて不公平ではありません。
そのわけは、ミカとリーサも愛しあっているからです。リーサはミカの半身。ミ
カはリーサの半身。ぼくはリーサに「リーサ」と呼びかけたことがありません。
まるで独り言のようにいきなり話し始めます。リーサも同じようにします。独り
言のように会話します。まるでふたりでひとつの同じ名前を持っているかのよう
に。自分に対する独り言なら、名前を呼ぶ必要はありません。
 有馬を愛したからミカを愛せなくなるわけでもないし、ミカを愛しているから
有馬を愛せないわけでもない。そうでしょう? あなたが、そんなにちゅうちょ
するなら、ミカはもっとスゴイことをいっちゃうよ。――ミカも有馬を愛してい
ます!
 つまりこういうことです。あなたにとって、有馬は現実世界でいちばん大切な
人。現実を共に生きる人。有馬にとってのあなたもそうでしょう。一方、あなた
にとって、ミカは心の世界でいちばん大切な人。現実で強く生きながら、なおか
つ妖精を信じ、愛しつづけることは可能です。ふたつの世界に住んでもいいので
す。少なくとも、住もうとしてみてもいいのです。いけないなんて理由は全然ど
こにもありません。ましてや、そのことがあなたの人生をいっそう美しくするの
であれば、なおさらです。いとしい人、妖精の国は現実の世界に対立するもので
はなく、現実の世界を包みこむものなのです。花の神秘にかけて。星のきらめき
にかけて。この世は決して現実だけで成り立っているのではありません。この世
の背後には、ふしぎがあるのです。あなたは想像してみたことがありますか。人
類のなかで初めて、虫メガネで雪を見た人の驚きを。
 どちらかが身を引くとか、一方が失恋するとか、それは人間のドラマ。妖精の
国では両方だいじょうぶ。そこが妖精のふしぎなところ……。
 揺れてゆらゆら目が疲れました。またあとで書きます。旅は長い。気楽に行こ
う!

[以上は青いボールペン。以下は鉛筆書き]

 いまオウルのホテルです。ホテルといっても、大学の学生寮。夏休みだからサ
マーホテルになっているのです。学生寮といっても日本のちょっとしたホテルの
ようなもの。中には保育園もあります。
 フィンランドの大学は、日本の大学と違って、純粋に学問の府です。すべては
国の予算でまかなわれ、学費は無料。学生寮のなかに保育園があるのも、学生に
とって便利でしょう。
 では、菜美のもうひとつの悩み、結婚問題について書きます。菜美は有馬と暮
らすべきです。それがあなたがたの幸せですから。ミカとのあいだにも法律的な
結びつきを望むのであれば、菜美は北原家の養子になってもいいのです。菜美と
有馬が両方、養子になってもいいのです。そうすれば、あなたがたは、きょうだ
いで夫婦というすてきな関係になれますよ。まるでギリシャ神話の神々みたいに
……
 いとしい菜美。あなたは、自分自身の心に照らして、いちばん正しいと思われ
る選択をしてください。あなた自身の問題なのだから、あなたには自分で決める
権利と義務と責任があるのです。
 その前提の上に立ちつつ、ミカはあなたを脅迫します。あなたは、必ず、この
手紙を有馬に見せなければいけません。そうしなければ、ミカはあなたを軽蔑し
ます。そのわけは、あなたが自分の魂を裏切ることになるからです。
 妖精の国の永遠にかけて、地上で犯すあやまちは、すべて許されます。しかし、
自分の魂を裏切ることは重罪です。これは人間の論理ではなく、妖精の論理です。
人間の場合、心のなかで罪を犯していても、地上でいい子なら大丈夫。でも、菜
美には妖精のようにふるまってほしい。自分の心のなかのいちばん澄んだ部分で
感じられる直感――それを裏切ることは、自分の魂に対する冒涜、聖霊に対する
罪です。菜美は有馬を愛している。有馬と結ばれたがっている。その気持ちを彼
に知らせたいと思っている。それなら知らせるべきです。
 この手紙を彼に見せれば、すべてはうまく行くはずです。あとからキューピッ
ドのミカに感謝するでしょう! だって、そうでもしないと、あなたは純粋さに
関する勘違いから、一生ミカだけを「純粋に」愛しつづけるという泥沼に、はま
ってしまいそう。そのいわゆる純粋(=禁欲)は、あなたにとっての本当の純粋
ではありません。なにが純粋かは人によって違うはずです。純粋さとは、外形的
な事柄ではなく、その人の心のなかの問題なのです。他人の言葉や世間常識に惑
わされず、純粋に自分自身の直感に耳を傾けること。これが本当の純粋です。
 あなたの人生はあなたの人生なのです。いとしい人、どうかこの意味をよく考
えてください。もしも有馬になにかいわれたら、「だって、ミカに見せろって脅
されたんだもの」といえばいいでしょう? でも、いとしい有馬、どうか菜美を
からかわないであげてください。その代わり、いいことを教えてあげます。菜美
は、中学時代から、あなたのことをものすごく愛していました。ミカに宛てた手
紙のなかにも、「今、すっごい性欲がある。抱いて! 抱きたいんでしょ? ミ
カがしてくれないと、有馬に求めちゃうよ」といったたぐいのことが、毎回のよ
うに書き連ねてありましたっけ。
 ミカが嫉妬したりしないからといって、ミカが菜美を本当には愛していないの
だと誤解しないでください。もし菜美の体を愛していたら、それを有馬にとられ
たくなかったかもしれません。でも、ミカが好きなのは、菜美のなかの妖精です。
 人間の流儀で「本当」という言葉を使うなら、ミカは菜美を本当には愛してい
ないでしょう。でも、ミカの考える「本当」だと、本当に愛している。どちらの
本当が本当かは問題ではありません。ぼくたちは、自分自身に対する「本当」に
関してのみ、責任を持っています。ほかの人がどう考えるかは、さしあたっては
関係ないことです。
 どうか誤解しないでください。ミカだって、他人の考えを気にしたくなったと
きは気にします。本当は気になるのに気にしないふりをするとしたら「本当」で
はありません。「他人の考えや世間常識にこだわらない」ということにも、こだ
わらないのです。たまたま他人と同じになることもあれば、他人とは違ってしま
うこともある。他人の助言が心に響けばそれに従うし、そうでなければ人の考え
など気にしない。いいかげんだと思いますか? だから妖精は気まぐれ? いと
しい人。よく考えみてください。いいかげんに表面的な気分で決めるのではあり
ません。あなたの心のなかのいちばん澄んだ部分で感じられる直感。それを信じ
るということです。あなたはあなたの人生の主人なのです。あなた自身に関する
事柄においては、あなたに、ただあなたにだけに、最高の権威と最終決定権がゆ
だねられています。そしてそれに伴う責任が。あなたは自分の直感に従うことも
できるし、自分の直感を裏切ることもできる。言い換えれば、自分のなかの聖霊
に従うこともできるし、それに歯向かうこともできる。あなたが聖霊によって生
きているか聖霊を裏切っているかは、外からは分かりません。あなたと神のあい
だの問題です。
 自分のなかの聖霊を裏切り、濁った思いに従うことは、結局あなたの魂にとっ
て不利益となります。なぜなら、聖霊とは、最も高められたところのあなた自身
だからです。「正しい人は自分の無垢に導かれる」のです(箴言11・3)。
 言葉の上のロジックにとらわれず、あなた自身が、心のいちばん澄んだ部分に
おいてホッとできる、そんな選択をするべきです。
 雪の結晶の神秘にかけて。矢車草の青の深みにかけて。ぼくの愛する有馬も、
きっと気づくでしょう。他人と同じじゃイヤだということにこだわるとしたら、
逆の意味で他人の動向にこだわっていることになる、ということに。そうでしょ
う、有馬? でも、これはミカの心が発した言葉というより、有馬のために、ミ
カの心を通して、いま「むこう」から届いた言葉です。ミカは単に配達しただけ
ですから、ミカに説教されたと思って腹を立てないでくださいね!

  愛を込めて。いな、込めないで。
  込めるまでもなく、
  すべて愛。
                      北原ミカ〉

 有馬は静かな笑みを浮かべました。至福の色の頬をして。「愛してるよ、ミカ。
おれも」
 わたしはといえば、うつむきがちに、耳のたぶまで真っ赤になっておりました。
隠していたことを何から何まで知られてしまい、あまりの恥ずかしさに、顔から
火が出るようでした。
「この手紙をおれに見せてくれたってことが春川の答だって、解釈していいんだ
ろ?」
 有馬はまじめな顔で尋ねました。微量の不安を含む声で。
 わたしは本当に気恥ずかしく、ミカが見せろっていうから見せただけよ、ミカ
は勝手に勘違いしてるの、と、冷たい棒のような声で彼を突き放したいような気
さえしました。だって、この手紙の内容を肯定することは、実質的に「今まであ
なたの前では自分を偽っていたの。わたしはあなたに抱かれたい」と打ち明ける
意味になります。女の子の方から、そんなこというなんて常識的に考えて――。
でも、これは人生の重要な局面でした。ここで自分を偽れば、もう一生、素直に
なれないかもしれないのです。
「そう解釈してください」
 プロポーズにも似た、ひたむきな声でいいました。いってしまうと、とたんに
胸のなかが熱くなりました。喜びが込み上げてきたのです。あたしって、けっこ
う素直になれるじゃない……。
「幸せだな、おれは。きょうは人生最良の日だ」
「有馬がそうなら。あたしも」
 消え入るような声で答えました。だって、とても恥ずかしかったんです。
「まあ。……ってわけだな」
 有馬は意味不明の言葉をつぶやき、にやにや。でも、わたしには、しっかり意
味が伝わっていました。
「……わけ」
「いやはや」
「へへ」
 わたしはちょっと甘えてしまいました。彼の右肩に寄りかかるようにして。
 有馬は優しい目をして、さらにびんせんをめくります。「もう1通あるんだ?」
「別の日に書いたやつ。同時に届いたの」
「ふむ。なになに……」

〈PS 本日二十四日、午後三時一五分、父と会った。TX社のラボで。父は忙
しすぎて、子供が日本から来たのに三〇分しか話せなかった。もともと多忙な人
だが、来年、彼はサバティカル・リーブ。副社長のG・Y氏が社長代理となる。
引継ぎの調整でますます忙しいらしい。あまりの忙しさに頭がどうかしてたんだ
ろうね、ぼくを見たとたん、スウェーデン語で話しかけてきた。それで、ぼくも
とっさにスウェーデン語で答えた。日本人とフィンランド人がスウェーデン語で
話しあうというのもおかしなものだ。そう気づいて、日本語で「お父さん」と注
意をうながした。それから、日本語に切り替わった。
 話はすでにおおかた伝わっていた。ぼくの入院中にリーサから話が行ったらし
い。ぼく自身、父に手紙を出してあった。要するに手術の同意書にサインしても
らえば良かった。サインする気があるなら郵送でも済む。カナリア諸島にいる母
親アイノの方は、そんなぐあいで済んだ。けれど父の方では会って話がしたいと
いう。彼が日本にいない時期だったから会いに行くのも大変だったが、仕方ない。
人生全体にかかわる問題なのだから。十五歳にして子孫を残せない体を選択する
ということは。
 父・北原修は五十がらみの日本人。「輝く冠」たる白い髪をいただく。しらが
を染めるような人間ではない。その透徹した性格にふさわしく、問題の本質だけ
を次々と尋ねてきた。
「法律問題はどうなった?」
 まずきかれた。
「日本の法律では『故なく』生殖機能を破壊することは禁じられているのですが」
と、ぼくは説明を始めた。「この場合は、『故』があると解釈できるようです。
泌尿器科のほうでは精神科の診断書があれば執刀するといっていて、その診断書
はもうできています」
「倫理問題はどうかな」
「カトリック教会には非難されるでしょう」
「……うむ」
「……」
「こっちはプロテスタントだからな。だが、それでも異端だろうな、これは。な
るべく地上でトラブルを起こしたくないね」
「ええ」と、ぼくもうなずいた。
「だが自分のなかの神に従うべきだ」
「お父さんの仕事にさしつかえませんか」ぼくは気になっていたことを口にした。
「社長の息子が頭がおかしくて、変な手術を受けた……って。性転換と混同され
るかもしれませんが」
「かまわんよ、そんなことは。それはおまえの問題じゃないだろう。よし仕事上
の不利益になるとしてもだ、それは単なる経済上の不利益で、地上の問題に過ぎ
ん。おまえの方は、聖霊にかけて、自分の選択は正しいといえるわけだ」
「周囲ではとやかくいわれるでしょうが、心のなかでは罪を犯していません」
「じゃあ問題はないさ。『わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわし
くない』」父は聖書を引用していった。「おまえは父の仕事のことを気にして、
自分の真実に歯向かってはならん」
「……はい」
 父はパイプをくゆらすような調子でゆっくりと続けた。
「もっとも、おまえの魂が、父親の仕事のことを考えろとおまえに命じるなら、
話は別だ。どうなんだ? 正直なところ、おまえの直感では、父親の仕事のほう
が大切なのかな。天秤にかけるとして。何がおまえの真実なんだ?」
「自分の心の真実のほうが大切です」
「そうだろうね……」父は優しい目で、ぼくを見た。「同意書の紙を出してごら
ん。サインするから。おまえがわたしより神を愛したという理由で、わたしはお
まえを支持しよう。それはわたしたちにふさわしいことだ」
 彼は同意書の文面にすばやく目を走らせ、それから、
「おまえのいった言葉のなかに嘘があったとしても、わたしはおまえを裁かない。
それは、おまえと神のあいだの問題だ。おまえが良心にかけて自分は真実だとい
えるなら、なにも問題はないよ、ミカ」そういって、必要な署名をしてくれた。
「仮にこのことでおまえが迫害されても、天の国はそのような人のためのものだ」
 父はつぶやいた。
「ええ」
 と、ぼくはうなずいた。
「仮にこのことでおまえが異端とされ、教会から破門されても、天の国はむしろ
そのような人のためにひらかれている。キリストに倣いなさい。キリスト教の教
えに倣うのではなく。わたしたちに教会の免罪符は要らない。神は直接ご覧にな
る。……この言葉がおまえに嘘の言い訳を与えるか、それとも真実を助けるか、
それはおまえと神のあいだの問題だ。すべてをご覧になっている方を信頼しなさ
い――そして大いに恐れなさい」
 礼をいって部屋を出ようとすると、追いかけるように、うしろで父の声が響い
た。
「ミカ。おまえの人生は初めから終わりまでおまえのものだ。やりたいことは露
骨にやれ。傲慢に生きろ」
 書類の件が済んだことによるホッとした気分もあって、ぼくは、しまりのない
顔で振り向いた。「はい。お父さん」
 だが父は、社長の椅子から、厳しい目でぼくを見つめていた。
「傲慢に生きる権利を確保するために、あらゆる地上の努力をしなさい」

 ……こうして用件は済んだわけだが、じつは途中で君たちのことも話題になっ
た。父いわく、場合によっては菜美や有馬を養子にしても構わないそうだよ。本
当にそうなったら楽しいだろうね!
 以上、取り急ぎご報告まで。KM〉

 有馬はウームとうなりながら、びんせんの束を床に突いて整え、なにもいわず
に、もういちど初めから読み始めました。本文の部分を読んで、にやにやして。
それからPSのところも読み、終わりまで来ると、
「おれ、この父親の息子になりてえな。まじで」
 ひとりごとのように、つぶやきました。
「守くんはどうするの?」
 ゲームの音が聞こえなくなっていることに気づきながら、尋ねました。
「そうだなあ。その問題もあるんだよな。うーむ。それにしても――」彼はびん
せんをペラペラめくって、「『おまえのいった言葉のなかに嘘があったとしても、
わたしはおまえを裁かない。それは、おまえと神のあいだの問題だ』か。すげー
信頼だよな、これ」
「自分の責任で意思決定しろ、その結果も自分でかぶれってことだよね」
「二重の信頼だよ。子供の判断を信じるってことと、神を信じるってことと。結
局、この連中はさ。自分のなかのいちばん澄んだ部分を、自分の神としてるんだ
な。絶対的な正しさなんて不可知なんだから、結局つきつめると、そういうこと
になってくるのかな」
「でも、なるべくなら、地上でトラブルを起こしたくないっていうことみたいね」
「ああ。難しい問題だよな、それは」
 彼はそういって口をつぐみました。それから、ふたたび口をひらき、
「おれが考えてんのは、おれのおやじのことなんだけどさ。どんな父親でも、自
分の親なんだから愛さなきゃいけない、みたいなのがあるじゃん」
「育ててもらった恩もあるしね」
 有馬はごくりと唾を飲みこんで、「だけどどんな法則にも例外があるっていう
かさ。親は大切にしなければいけない、っていうのも単なる『人間の言い伝え』
だよな、聖書の言葉でいえば。ハッキリいって、ひどすぎるんだよ、うちの親は。
それでも愛さなきゃいけないって思ってたけどさ。そうじゃないよな。自分の魂
に照らして、おやじと縁を切ることが神の前に正しい! って断言できるなら、
それは正しいんだよ」
「そうなのかぁ?」
「おれと神の間の問題だよ。この正しさは」
「なんとなく危険思想っぽいような気がするな、その思考パターン」
「だからさ」彼は静かにいいました。「自分は本当は間違ってるって分かってい
ながら、『おれがそう思うんだから、おれにとっては正しい』とかうそぶくんな
ら、そいつはヤバいよ。けどこれは――」鼻からゆっくり息を吐き、「まあ。で
も。もうチットよく考えてみなければ分かんないけどね。だけど、きのうもさ。
おやじ酔っぱらって、洗濯バサミ入れるカゴあるじゃん? ――あるのね。その
カゴの、とんがってるとこでマモルのことモロぶったたきやがって。ゲームの音
がうるさいとかいって。カゴが割れてやんの」
「止めれなかったの?」
「ああ。一瞬のことだった。また言い争ってるなとか思ったけど、いつものこと
だから、ほっといたのね。したら、なんかいつもと雰囲気ちがくて、胸さわぎし
て行ってみたら、バチッてやるとこでさ。クソッ。血ィ出てやんの。額んとこ」
「あ。あの三日月型みたいに赤くなってたとこだ?」
「ああ」
「どこかにぶつけたのかと思ってた」
「おやじにやられたんだよ。まあ、このくらい、いつものことだけどね。だから
昔から生傷たえなかったじゃん、おれたち。おれとマモル」
「お母さん亡くなってから大変だったよね。あのソースの瓶のときなんか……」
「ああ、そんなこともあったなぁ。あれは中学か。――あ」有馬は急に違った調
子になって、にやにや笑いながら、
「そうそう、そんなことよりさ。おまえ、なんだ。中学んときから、おれとやり
たかったのか?」
「ちがう」
 わたしは強気でいいました。目で笑いながら。「中学んときからなんて、ぜっ
たい、ぜったい、違うもんね」
「じゃあ、なんだよ。あのミカの手紙に書いてあることは」
「あれは事実」
「じゃあ、そうだろ。中学んときから」
「有馬君ってアッタマわるーい」わたしはからかいました。「それでも学年トッ
プなのォ?」
「なんだ。どういう意味だ、それ」
「あたしねぇ」かわいいアニメ声でいいました。「サラマンドラの作り方、知っ
てるよ」
「あああっ!」有馬は叫びました。「おまえぇ」口を大きくあけたまま、目を見
ひらいて、顔でにやにや笑います。「やったなぁ?」
 小学時代のあだ名、有馬はルシフェル、わたしはマルコキアス、これはそのこ
ろ流行っていた『魔界転生2』というゲームから来ています。クラスメート全
員にマカ転キャラにちなむあだ名がついていて。このゲームにはほとんど無限に
「悪魔の合体」のパターンがあるのですが、ルシフェルとマルコキアスを合体さ
せると、火の精霊サラマンドラになるのです。
「そうか……。おまえも、おれと同じことやってたのか。ははあ。分かったぞ。
おまえ、中学からじゃなくて、小学時代から、おれと寝ること考えてたんだろう」
「小6のときからね」わたしは悪びれずにいいました。
「じゃあ、おまえ、なんで、あのとき、キスくらいで逃げたんだよ。あの夏の日」
「だからぁ……」
「だからなんだよ?」
「あれはね」わたしはささやくようにいいました。「菜美のなかの妖精」
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