アメリカがいうところの「ベトナム戦争」――ないし現地でいうところの「抗米救国闘争」――の終結から25年。軍事介入を繰り返し、果ては毒ガスのたぐいを無差別にまきちらしたテロ国家が、仲直りをしましょうと正式に戻ってきた。反応は色々だけれど、皮肉っぽい人も「クリントンは最後くらいなにかいいことをしたいのだろう」と言っている――つまりは、これは結局、良いことなのだろう。
犠牲になったアメリカ人とベトナム人にむくいる方法は、「to find a way to build a better future」で、「that's what we're trying to do」という言葉も、とてもうつくしく聞こえる。
単純に当時のアメリカが悪かったとかいうのもあるけれど、これはアメリカ人にとってもトラウマになっている。クリントンの訪越(※エツはベトナム=越南[エツナン]の略)は、どこのニュースサイトでも大きくとりあげられているが(とりわけVietnam Globe。いま見てきたら、島国ローカル新聞アサヒコムにまで大見出しで出ていた)、アメリカのCNNでは「微妙」な扱いになっていて、BBCのように「枯れ葉剤」だの「ダイオキシン」だのずけずけと書きたてていない。見比べて、アメリカは自分たちのしたことをきちんと書いていないと腹を立てるかたもいるかもしれないが、そうでなくて、アメリカの多くの人にとって、「言わずもがな」なのだろうと思われる。
ところで、ベトナムの外務大臣ら高官がクリントン大統領を空港で出迎えた、とニュースには書いてある。うっかりしているとぼーっと読み流してしまう部分だが、ここがことのほかおもしろい部分で、つまり、アメリカ大統領の歴史的訪問だというのに、チャン・ドク・ルオン国家主席(ベトナムのいちばん偉い人)もファン・バン・カイ首相も出迎えに来なかったらしい。例えば、先日、同じようなシチュエーションで中国の国家主席チアン・ツォーミン(江沢民)がカンボディアに行ったときは、シアヌーク国王、フン・セン首相が出迎えに来ている(こっちがふつうでしょう)。どうです、おもしろいでしょう?
ところで、ユーゴスラビアがアメリカと国交回復するというニュースが同時に流れてますが、先にベトナムのほうをとりあげます。
日本を叩きのめしたアメリカ。ベトナムをみて「お、なにそれ?おまえ(日本)のか?なかなかいい土地だな。おまえは負けたんだから、この土地はオレ様がもらっておくとするぜ。ひひひ」と、ベトナムをいただこうとしたら、「てめえらいいかげんしろよ!日本もアメリカも出てけ」とベトナム人にかみつかれて、ほうほうのていで逃げ帰った。説明おわり。
わたしたちの生まれる前に起きたことだし関係ねーという気もするのですが、なんか、それ以来、安っぽいアメリカ映画で主人公にトラウマを与えたいときはベトナム帰りという設定にしちゃうというのが、はやったという関係があります……(?)
とうのベトナム人自身、若い世代は、戦争が終わってから生まれているので、下の記事にあるように、考え方もさまざまなようです。
時代背景としては、1945年、日本をこてんぱんにやっつけたアメリカ、調子にのって朝鮮半島などにもしゃしゃりでた時期。マッカーサーが「中国、シベリアにも原爆落とすぞ」と主張してました。それは実現しなかったが、細菌兵器や毒ガス兵器はじゃんじゃん使って、みんな悪酔いしてたようです。1951年でしたか朝鮮半島が南北に分断……という話は今回は関係なくて、今回は、そのあとのベトナム戦争なのですが、ベトナムも南北にちょんぎられたってのは1946年くらいから、つまり二次大戦が終わるやいなや。以前はフランスの植民地、そこに日本が攻め込んで「その土地は、おれらがゲットだぜ」と、もとをただせばベトナム人の土地なのに、なんか関係ない連中がとりあっているのをみて、てめえら全員でてけ、おれらは独立するぜ、と現地の人が怒ったのは当然といえば当然の動き。日本が負けたのをきっかけに、とりあえず北の町ハノイを首都に部分的にですが独立(北ベトナム)……けれどフランスは「ベトナムにおける全権益を放棄する気はない」と南ベトナムになんか国をでっちあげた。
この説明じゃ、いまいち分からないでしょう……。というわけで、分かりやすくいうと、「東南アジアは日本のものでした」。「その日本に、連合国が勝った」ので、連合国――フランス、アメリカ、ソ連など――が「日本から横取りした戦利品のえものの分配をめぐって争い始めた」……これで二次大戦で日本が負けた直後に旧日本領(朝鮮半島や東南アジア)が切り刻まれたわけが分かりましたね。学校の教科書にはばびっと書けないけど、あれは、「日本が強奪したブツ(朝鮮半島とか)を、日本からさらに横取りした連中が、オレにももっと分け前よこせよ、へっへっへと内輪で争い始めた」といえば、サルにも分かるでしょう。ちなみに、戦争に勝ったり、独立を達成したとたん、勝った(独立した)側の内輪で争いが起きることは非常に一般的な現象のようです。
話を戻して、フランス(のでっちあげた「南ベトナム」)は北ベトナム(=ベトナム人のベトナム)との戦闘で、敗勢になってきました。ふつうだったら、ここは和平交渉で平和が回復……というところですが、この時代は、ふつうじゃない:二次大戦の勝利に酔いしれるアメリカ、おらぁフランスがベトナムを手放すなら、おれらがもらうぜ〜ひひひ、と「南ベトナム」(=にせもののベトナム)への軍事援助をじゃんじゃか開始。あわよくば北ベトナムを倒して全ベトナムをアメリカ色にするつもりだったのかもしれません。
「南ベトナム」の政権は、フランスが(あやつり人形にするつもりで)でまかせにでっちあげたものなので、政治もあまり良くなかったようです。独裁政治に国民の反発は強まっても、アメリカがバックにいるので、政府は、やりたい放題。あまりにひどいので、さすがのアメリカも、自分が応援しているその独裁政権を、クーデターを起こさせて倒したほどです(説明が分かりにくいかな?つまり、アメリカは表向き政権を支持しているように見せかけながら、裏で「あたかもその国で勝手に起きたように」クーデターを起こして、もうちょっとマシなあやつり人形に首をすげかえた。まぁよくあることでしょう)。
さて、いつものパターンで、アメリカと戦う側はソ連や中国の支援を受けてます。「こいつらをおれたちの手で独立させて社会主義圏に加えるぜ〜」と思ってるわけです。どっちもどっちでしょう……。地図を見ればすぐ分かることですが、「南ベトナム」での反政府ゲリラ(「政府」というのはアメリカのあやつり人形)への援助物資は、北ベトナム経由で中国から来ています。北ベトナムというのは、ベトナムの民族がいちおう独立した場所で、ベトナム全体の独立を願っているわけですから、もちろん「南ベトナム政府」を倒そうとしてるわけです。
すると、アメリカとしては、戦略上、この北ベトナムをぶっつぶさないことには、南ベトナムで不利になるわけで、補給路を断つ意味でも、民族独立運動に水を差す意味でも、「北」をたたきたい。これまた非常によくある手口ですが「北ベトナムの船が米軍艦に攻撃してきた」との言いがかりをつけて(あとから嘘と判明)、北ベトナムへの猛攻撃を開始。いわゆる「北爆」……。
もちろんアメリカの全国民が賛成していたわけじゃありません。ここが戦時中の日本と違うとこなのですが、アメリカではベトナム攻撃中に反対の声がどんどん高まりました。とりわけ、マスメディアが、ベトナムでの米軍の蛮行を伝えると……。しかし当時のニクソン大統領は、後方安定と称してカンボディアにまで侵攻、国際世論の非難でアメリカが引き上げざるを得なくなってくると、「南ベトナム」軍自身に北ベトナムと戦わせようと、あれこれしました。(ベトナム人同士に、ベトナムというえもののぶんどり合戦の代理戦争をさせようとした。)おまけに、和平会談が最終合意に近づいていたとき、どういうつもりか、とつぜん不意打ちの捨てぜりふのような大爆撃をやらかしたので、ニクソン大統領は非常に評判が悪くなりました。ちなみに、ニクソン大統領の前のジョンソン大統領は、ベトナム戦争のことで消耗し、政治をやめて、故郷のテキサスの牧場にひきこもってしまったそうです。
Clinton's Vietnam visit (BBC, Thursday, 16 November, 2000) ビル・クリントンがベトナムを訪れた。アメリカ大統領としては25年前の戦争終結以来初めてのことだ。四日間の滞在は、クリントンのアメリカ大統領としての、最後の外国訪問でもある。
1975年の米軍撤退で終結したベトナム戦争では、150万人以上のベトナム人が犠牲になり、5万8千人のアメリカ人が戦死した(※正確には米軍撤退完了は1973年、そのあとの2年間は、北ベトナムが「南ベトナム」傀儡政権を倒す闘争。アメリカのサイトでは、さすがに1973年と書いてあるが、遠いイギリスから見ると、そんなのは細かい点だろう)。
クリントン政権のもとで、アメリカとベトナムの関係は変化した。クリントン大統領は、今回の公式訪問により、ベトナムとの関係改善をさらに進めたいとの考えだ。「我が国の記憶のなかで、ベトナム、イコール戦争です」クリントン大統領は、今回の訪問の直前、復員軍人の日(※11月11日)の式典で演説している。「しかし、ベトナムは、国なのです」
クリントン大統領が就任した1993年当時、アメリカ合衆国はベトナムに対して経済制裁を課していた。クリントン大統領は、この制裁を解除し、さらに、ベトナムとの外交関係を回復させ、米越は通商条約を結んだ。
しかし、クリントンのベトナム訪問を不愉快に思うアメリカ人も多い。復員軍人やベトナムで家族を亡くした人々だ。ベトナム人自身は、クリントン大統領が反戦派だったことを知っている。「わたしたちはクリントン大統領を歓迎します。なぜなら、クリントンは戦争に反対していたからです」とベトナム軍の士官は語る。「米軍が戦争であやまちをおかしたとしても、謝罪は期待していません」とも付け足した。「起きてしまったことについては、行いをもって対処するほうが良いでしょう」
他方、ベトナムでも高齢の世代は、大統領の訪問に反発している。「アメリカは嫌いです」ある高齢のベトナム人は語った。「ここにやって来て、わたしの子どもたちを殺しました」戦争で六人の子を殺されたという。そして、つれあいも。
両国政府としても、二国間の明るい将来を展望してはいるが、過去の問題を避けて通れないことは明らかだ。何万トンもの地雷や不発弾が、いまもベトナムの土のなかに埋まっていて、古い地雷で現在も毎年25人が犠牲になっている。
米軍はベトナムの国土全体の14%にあたる広大な範囲に、枯葉剤(※かれはざい=生物化学兵器。通称「エージェント・オレンジ」)を撒(ま)いた。アメリカの敵視する「コミュニストたち」から、食糧と身を隠す植物を奪うためだ(※主にジャングル地帯に撒いたようです)。含まれていたダイオキシンが、今でも高濃度、残留していることが明らかになっている。
さらに、約2000人のアメリカ人が、現在も行方不明のままだ。クリントン大統領によれば、これらの未帰還者の捜索が最優先の外交課題であるという。
会談では、このほかに、経済問題や人権問題(アメリカは、ベトナムにおいて、宗教や思想の自由が侵されていると考えている)が議題になる予定。
Clinton arrives for historic Vietnam visit (CNN, November 17, 2000) 16日、木曜日、アメリカ大統領ビル・クリントンがベトナムに到着した。アメリカ大統領がベトナムを訪れるのは、1969年のニクソン以来、31年ぶり。なお、ニクソン大統領の訪問以前にも、リンドン・ジョンソン大統領がベトナムを訪問している。いずれもベトナム戦争の時期のこと。
クリントン大統領は「ベトナムとの関係の新たなページを開く」ための訪問であると語った。ベトナムの首都ハノイの空港で、ベトナム側のグエン・ジー・ニエン外相、ブー・コアン貿易相が出迎えた。公式の歓迎行事は行われず、クリントン大統領はただちに宿泊先のホテルへ向かった。ホテルには、大統領を一目見ようというベトナム人が数十人、集まった。
戦後初の駐越アメリカ大使となったピーターソン氏(※1995年の国交回復後、97年4月に任命)は、「クリントンのベトナム訪問は、ベトナムのコミュニストたちにある改革の動きのなかでも大きな勝利だ」と語った。「米越関係改善に意欲的なのはクリントンの側だ。ベトナムとの関係改善は、アメリカの政治にとっては、たいして意味がないにもかかわらず、クリントンは動いている。アメリカが(ベトナム戦争の)トラウマをいやす機会と考えているのだ」
1994年、クリントンはベトナムへの経済制裁を解除し、一年後、外交関係を再開した。しかし、クリントンがベトナム戦争に反対だったことについて、ベトナム側は言及しないだろう……と、ピーターソン大使は言う。「ベトナムでも有名な話なのかもしれませんが、でも、ベトナム人は、わたしに一度もその話をしません」
クリントン大統領と家族一行は、三日間、ベトナムに滞在し、日曜日にホー・チ・ミン市(旧サイゴン)に立ち寄ってから、帰国する予定。ベトナムのチャン・ドク・ルオン国家主席(大統領)、ファン・バン・カイ首相とも、貿易拡大について会談する予定。
若いベトナム人の反応がいまいち書いてないので、APから、上の記事にない部分を適当に補っておきます。
まず、到着時に首脳は出迎えず歓迎式典もない、という点ですが、いちおうきょう金曜日の朝にセレモニーがあるそうです。そしてCNNではクリントンを見に来たベトナム人がホテルに数十人と書いてありますが、空港とホテルのあいだの道には数千人以上のベトナム人が待ちかまえていたそうです。
「集まっている人々は、たいてい30歳以下のようだ。深夜0時直前だったが、クリントンのリムジンが通過すると、歓声をあげた。『とてもわくわくします』22歳の大学生が語った。自動車の行列がどのくらい長いか見に来たのだという。バス数台を含めて、およそ二十台の車両だった。ベトナム人たちはアメリカ人のように見える相手を見つけると、だれとでも握手した。なかにはアメリカの新聞記者にキスする人もいた。『こんなことって数千年に一度でしょ』五十歳のベトナム人が声をはずませた」
……というわけで、猛毒ダイオキシンの話などを長々書いているBBCの記事と対照的に、けっこう現地では浮かれているようです。やはり物質的繁栄への憧れがあるように思われます。車の列がどのくらい長いか……というのは、「どんな偉大な大国の大統領がやって来たのか一目みたい」という素朴なあこがれでしょう。
「空港では、数十人の士官が、赤いじゅうたんをしいてクリントンを歓迎した。伝統的な民族衣装アオ・ダイをつけたベトナム人から花束の贈呈があった」
というわけで、チャン・ドク・ルオンがじきじきに迎えにこないのは(もちろん実際にアメリカがやったことを考えるといろいろあるのでしょうが)、一種のポーズというか、かけひきのような面も強いと思います。国民的雰囲気としては、歓迎ムードが強いように思います。
ところで話が前後するようですが、ベトナムの人口は現在7800万ということで、日本と同じくらい大きな国。経済制裁が解除され、どちらからどちらへも、いろいろ輸出したいでしょう。アメリカからみても、もし参入できるなら大きなマーケットでしょう(例えばWindowsが一千万本、売れるかも)。
まぁしかし、次のオチがいちばん印象的でした。「ベトナム政府はクリントンの訪問を歓迎し、一般の人々の多くもアメリカに好意的だが、しかし、このサッカー狂の国では、みなアメリカ大統領のことなどよりタイガー・カップのほうが、気がかりだ。タイガー・カップとは、地域のトーナメントで、ナショナルチームが好調。テレビで試合中継が始まると、ベトナム人は国じゅう総立ちになった」
引用した写真の出典:Associated Press (AP Photo/Richard Vogel)「木のいかだのうえで休んでいる子。いかだが浮かんでいるのは、南部ベトナムのメコン川のデルタ地帯に無数にある運河のひとつ。ベトナムの土地は、河川デルタ地帯から山岳地帯まで変化に富む」
「ベトナムといえばベトナム戦争」ではなく、そこにいま住む人々がいて、人間のちいさな幸福、ちいさなかなしみがあるだろう……。この子は、どんな夢をみているのだろうか?
Clinton says Vietnam on 'virtually irreversible' course toward greater freedom, openness(CNN):「より大きな自由」といえば聞こえがいいが、アメリカの頭は自由競争(市場開放)。競争すれば勝者と敗者が生まれ貧富の差が広がる。アメリカ大資本と今のベトナムが「自由競争」すれば結果は初めから分かっていて、自分がぜったい勝つ「自由」競争を強要するのは、imperialistic と言われても、ある意味、仕方ない。だってベトナムの市場開放がアメリカの利益になる、ってことは、市場開放すればベトナムが損をする、おかねを吸い取られるってことだもの。
「旧ソ連は崩壊した、旧ソ連型の経済は良くなかった」という論理で、それが世界の趨勢= irreversible と言いたいのでしょうが、旧東欧圏、急激に自由経済に移行して、かえってまずい事態になっている……。市場経済に移行すること自体は必ずしも悪くないけど、強要は良くない。自由だい好きのアメリカ。アメリカの要求を「断る自由」も尊重してくれることでしょう。