通常の(主に男性向けの)エロゲではプレーヤーが人間として世界に参加し、恋愛に失敗することもあるのに対して、 やおい的な世界では、鑑賞者は基本的にその世界に入り込まず、傍観者・構築者・夢想者・第三者・神の立場にとどまる。
前者ではプレーヤーが恋愛に失敗して傷つき、心の痛みを味わうこともあるだろうが、 後者では世界に参加していないので、そういうふうに巻き込まれることがない。 プラトン的に言えば、エロゲが「(現実の恋愛という)偽物」の偽物であるのに対して、 やおいはイデアの直接の実現なのだ。したがって、絶対音楽である弦楽四重奏曲を聴いて傷つくことがないように、 やおい自体で傷つくことはない(やおいをめぐる人間関係では傷つくことはあるが)。
このことは、ある種の安全保障と、それと引き換えの制限をもたらす。 絶対に失敗しない絶対に傷つかない世界では、成功による達成感のようなものもないと考えられるからだ。
ここでバナナブレッドの衣良を思い返すと、 彼女は自分の恋愛対象の理想とする同性愛者の少年が「世間に後ろめたさを感じている」ことを要求している。 この点は重要だ。 彼が後ろめたさを感じていることで、一般のやおいのパースペクティブと異なり、 衣良には「彼をなぐさめる役割」という形でその世界へ参加する道が開かれるからだ。 彼が実際には後ろめたさを感じているわけではなく「後ろめたさを感じている演技をしていた」ことが分かったとき、 彼女の世界は崩壊した。
少年同士の話に少女が巻き込まれない、というのは、要するに当たり前のことだが、 この「世界に巻き込まれたくない感じ」は、エロゲにおけるトールキン的な意味での逃避(第三世界の構築)よりも、もっと逃避的だ。 第三世界は第二世界(現実)を生きるための活力を与えるべきものだが、 やおいは第二世界を拒否している。 エロゲオタと摂食障害はあまり結びつかないだろうが、 やおいと摂食障害は明らかに相関がある(注: 「相関がある」とは「常に結びつく」という意味ではない。やおい群と非やおい群の間で頻度に有意差がある、という意味)。 エロゲは「この世界を自分の欲望のままに生きたい」というある意味「健全」な話だが、 やおいは「この世界で生きたくない」という話なのだ。
そんな一致があるものか といひきる
異常な敵意
そんなに世界に深入りしたくない
と駄々をこねるのは
あなたの靴が破れてゐたからでした
水をひどくこはがった 泳げないオンディーヌ
「オンディーヌ」吉原幸子
この違いの根本を突き詰めると、 思春期のとまどい・わけの分からなさのなかで、 男性の生理が身体的快楽をもたらすのに対して、 女性の生理が身体的苦痛をもたらすことに帰着されるように思われるが、どうだろうか。
エロゲは「この世界を自分の欲望のままに生きたい」というある意味「健全」な話だが、やおいは「この世界で生きたくない」という話。
…というやおいの距離感は話(作品世界)のことを言っている。 作品世界の構造のことだ。
エロゲは動物的に人間社会無視、 やおいは妖精的に人間社会無視、と言えるかもしれない。
エロゲが「(現実の恋愛という)偽物」の偽物であるのに対して、やおいはイデアの直接の実現、 とか、 第三世界は第二世界(現実)を生きるための活力を与えるべきものだが、やおいは第二世界を拒否、 とか、言うのは、ぶっちゃけ、 第二世界(現実)の焼き直しである第三世界にやおい穴はあり得ないが、 第一世界(イデア)の直接の実現の(つまり神の立場でパラレルワールドを作る)やおいには穴があってもいい、ということだ。 そのことをもって現実を知らないとからかう男性たちは、やおいのパースペクティブが分かっていない。 わたしたちの現実は最初からあなたがたの現実に背を向けているのだから、あなたがたの現実の話など関係ない。
非常に極端に言えば(あくまで極論)わたしたちは「女が性に巻き込まれない、女が無性でいられる世界」を求めている、 ということだが、妖精とやおいの違いは、妖精(例えば、わぴこ)が単に無性的であるのに対して、 やおいは「そうは言いつつ、性に興味がある」というジレンマをかかえていることだ。
これが同人活動やファンフィク・サイトに象徴される腐女子一般のことではなく、 あくまで yaoi の話であることに注意してほしい。 狭くは創作系のJune少女の作品世界、もっと狭くは森茉莉のような作品世界、 あるいは言及されているバナナブレッドのプディングの衣良、 版権もののファンフィクでも少年同士の m/m スラッシュで、 腐女子が作ったからといってさぶな世界やレズな世界は含まない。 yaoi である。June少女と拒食症の関係を最初に指摘したのは、たぶん中島梓だったと思うが、 非常に思い当たるふしがあった。
また、そうしたやおいとか耽美とかの作品世界が「この世界で生きたくない」という方向性を秘めているからといって、 それらの作品の作者や読者がこの世界で生きることを常に拒否して自害するとか、 あるいはこの世界において消極的であるとか、そういうことには、もちろんならないし、現実にもなっていない。
「こんなグループ活動(同人活動のことではなく、一般に何らかの社会活動のこと)に参加したくないよ」というようなグループ活動に無理矢理参加させられている人は、 そのグループのなかで消極的で無気力であるかもしれないし、 あるいは「くだらねえ」「どうでもいい」ということから粗暴で無責任でめちゃくちゃな態度をとるかもしれない。 「現実世界に巻き込まれたくない」という方向性は、引っ込み思案を生むこともあるし、 毛を逆立てた猫のような攻撃性を生むこともあるだろう。あるいは(最も一般的には)違和感を覚えつつも、 きちんと参加の演技をする。
逆に、やおいという作品世界の構造が現実世界に対する拒否を秘めているとしても、 その読者や作者は、その世界によって、現実に直面するための慰安を得るかもしれず、 結局、ライトな関わり方をするなら、トールキンの第三世界のような、有益なファンタジーともなる。
通常の少女まんが一般でも、少年の男臭さは捨象されているから、通底するものがある。 設定がヘテロであっても、前略ミルクハウスの涼音ちゃんのような存在に少女があこがれるのは、 安全そうに見えるからだし、 設定が同性愛者の少年なら、本当に「安全」だ。 「少年」に引かれるけれど「怖いこと」はいやだ、 危険なことに引かれるけれど安全でいたい、という機微を、うまく包み込んでいる。 (本当は設定上の性別自体どうでもいい。リボンの騎士、べるばら、不思議の国の千一夜、ウテナ、等々。) この機微を抽象化すると、バナナブレッドの衣良になるわけで、 萩尾望都が(多くの少女まんが家が)バナナブレッドを全少女まんがの最高峰に位置づけているのも、 直接には少女の心理の微妙なひだを、象徴的に美しく描いているからだが、 ある意味、少女まんがの構造そのものについての作品だから、とも言えるかもしれない。
反対に、こち亀のまりあちゃんや、らんまや、天使な小生意気の子など、 少年向けの場合、少女に見える少年は通常「非常に強い」=男性性を強調して描かれている。 対象読者をアイデンティティの揺れのある思春期の男性とする場合、女性に見えて本当に女性っぽい一方の男性を主人公などにすえて、 そこへの感情移入を行わせると、 読者が(自己のアイデンティティの面で)不安になるので、でも本当はすごく男性的なのだ(君より強いんだぞ)という逃げ場を与えているようにみえる。 要するに女性性に憧れていい口実を与えている。 少女まんがのあれが、手塚のリボンの騎士から、連綿と続いているのに対して、 少年まんがのこれ(美女に見えて、格闘能力は無敵の少年)は、ストップひばりくんから始まったと思われる(もっと前にもある?)。 ひばりくんが完結できなかったのは、読めば分かるように、この話だと着地点がないのだ。 現実と両立しない(両立することが難しい)設定を、果敢に、現実に持ち込んでいる。 こち亀のまりあちゃんも、らんまも、天使な小生意気も「魔法」「呪い」という機械仕掛けの神でストーリーを成立させているが、 ひばりくんから見ると、いかに安易なことか。 白いワニを見なくても、ストーリー展開に苦しむのがよく分かる。 彼が成長したらどうなるのか。(マライヒとかもそうだけど。) でも、だからこそ、この作品は偉大なのだ。
「摩利と新吾」も着地点がないため、ふたりを殺してごまかした(というと言い方は悪いが)。 バナナフィッシュのアッシュもそうだ…。 現実的な意味で最初に着地させたのはこれまた大島弓子の「つるばらつるばら」かもしれないが、 実のところ、少女まんがの作品世界は現実的に着地する必要などないのであって、 なぜなら、少女たちは現実的な結末が知りたいわけではなく、今その瞬間の作品世界を必要としているだけで、 その美少年が50年後にどういう姿になっているかとか、 ビョルン・アンドレセンが今どんなおっちゃんになっているかとか、 そんな話には興味がない。 時間が止まっていて主人公がずっと中学生とかだって、ありだし。
少女まんがは「中途退学」することを前提に描かれている世界、と言えるのかもしれない。 途中でやめないでその方向に突き進めば、ああなったり、こうなったりするわけだが、 着地点(オチ、落としどころ)がないことに変わりがないばかりか、 ますます現実と離れて「無意味」になる。
レズものはとりあえず関係ないと思ったが、 ライトな意味では「アルトの声の少女」など思い出すと、 やっぱり根底は同じような気がしてきた。 オスカルさま~、ウテナさま~と考えると、 少年愛になるのか少女愛になるのかは、 単に性別設定の問題で、本質とは関係ない気がする。 性別は「あなたがたの第二世界」つまりいわゆる「現実」の言葉で、 この世界を「現実」で切り取るときの切り口が、どっちになるか、に過ぎない。 この考え方は「究極的には無性なるものへ」という方向性とも合致する。 本質は無性なのだが、それを現実にあてはめるとき…、ということだ。
でも、そうはいっても、これらの作者読者のかたがたは、 現実的に性に興味があるからこそ、そういう世界を構築するわけで、 そこが、ねじれてる感じ。
また、このような無性への方向性を秘めている世界に、健全な男性が強い反感を覚えるのは、 もしかして去勢不安(古くさい言葉だが)ってやつなのかもしれない。 「非現実だ! ばかばかしい! いいかげんにしろ!」という彼らの批判は、夢分析的に言えば「不安になるから書かないで!」なのかもね、と。
(このメモは夢想・妄想・思いつきのオープンソースな走り書きで、 その瞬間にそう書いたというだけで、 バグ出しのために公開している、訂正されるためにある、ということに注意してください。)
追記: きっと「現実世界に巻き込まれたくない」という言葉がウソなのだ。 本当は「性に巻き込まれたくない」と書くべきなのに、 「性に巻き込まれたくない」からこそ性と書かずに「現実世界に巻き込まれたくない」と言い換えてしまっていて、 そのため微妙に論理が破綻してしまうのだろう。まさに(ユングな意味での)夢のロジックだ。 「今度その夢を見たら、もっとよく見てきなさい」と。
この記事は「やおいの距離感」として4回に渡って走り書きしたメモのうち、 1~2と3の前半をまとめたものです。3の後半は話がそれすぎており(「マリみて」と「丘ミキ」の比較など)、4はまた新たな話になるので (「やおい」は世界にとけ込めない、本質的に現実としっくりしない、だから「悪い」「異常だ」「ビョーキだ」で終わらず、 では当事者はどう生きればいいのか? という対策編)、ごちゃごちゃしないように、ここには収録しませんでした。
真のテーマは4の対策編にあるはずですが、そこでは「やおい」論から「優等生」論になっています。 現実をそのまま受け入れずある種の理想主義をとるという点で、やおいは現実に妥協しない完璧主義者であり、 平均的な程度に甘んじることができない「優等生」です。
「やおい」という言葉は、「おたく」という言葉と同様、現在では意味が広がりすぎており、 多様な人が自分はやおい(系)というアイデンティティを持っていますが、 この記事で話題にしている「やおい」は、そのなかのごく一部の者、ということになるでしょう。 といっても「真のやおい」「ディープなやおい」といった言葉遊びをするつもりはなく、 要は、ここに書いてあることが何らかの意味で(実感として)当てはまるような「わたし(たち)」のことです。 この記事は、広い意味でのやおいという現象を高所から見下ろして、やおいというアイデンティティを持ついろいろな人の状況を、 客観的・総合的・中立的に分析する「研究」ではなく、 主観的な一当事者視点、やおいが現実世界を見たときの見え方・距離感・パースペクティブに関連するものであることに、注意してください。
あえて言い切るなら、ここで考えている「やおい」は、June少女に象徴されるような「自分自身の(作品)世界を一次的に構築する」ような者であり、 人が作ったやおい系作品を受動的に楽しむライトな消費者層や、 既にある作品をもとにSSなどの二次創作を楽しむ半分消費者・半分創作者の層より、 一種パワフルと考えられます。 現在では、物事とのライトな関わり方が好まれることが多いこともあって、 数が多いという意味での「一般的なやおい全般」には当てはまらない内容かもしれませんが、 本質においては通底するものもあるのかもしれません。もっと穏和な人なら、もっと一般論的な書き方をするでしょうが、 そこはそれ、上記のような性質なので、これがわたしの「やおいの距離感」です、あなたがそれに同意するかどうかなんて興味ありません、 ということになってしまうのです。