なだれが人を殺す。熊が人を殺す。がん細胞が人を殺す。医療ミスが人を殺す。走ってきた自動車が道路に飛び出た人を殺す。死刑執行官が人を殺す。「正義の使者」が悪人を殺す。敵兵を殺す。だれも食糧援助しないことにより紛争当事国の人々を殺す。
フィジカル紀の人々は「所有」というファンタジーを持っていた。基本的には、所有者と所有物(ともに物理的存在)の物理的距離を所有者の望むだけ小さくできる権利のこと。ダイヤモンドを所有する、というのがその例で、所有者とダイヤモンドの関係に実質的な変化はないにもかかわらず、所有しているというファンタジーが意味を持った。古代人は物理的身体の鼻や耳や指に金属の輪でダイヤモンドなどをくくりつけていた。これは所有力を誇ったとも、石の輝きに呪術的意味があったとも言われている。
メタフィジカル紀以降の「存在」とは「情報」で、任意に複製でき任意にアクセスできるものなので、物理時代の「所有」という概念の意味は失われた。とくにヒュペル紀に入り、ストリームの基盤が物理的インフラからスピリチュアルなインフラに移行してからは、物理時代の記憶は薄れ、物理的な語彙は単に古生物学の対象となった。
情報と異なり、物理的なリソースは有限なので、つねに全員を満足させられるとは限らない。有限のリソースに対して複数の利害関係者が衝突することも珍しくない。情報リソースは、いくらでもコピーして無限に吸い出すことができるので、その点の争いは起きようがない。ストリームを任意に復元できるので、そもそも物理時代の「殺す」という概念が成立しない。物理的に壊れやすい身体を引きずっていた人間たちは、争いが泥沼化するのを避けるため、平期に入るたびにホリツとかドトクと呼ばれる相互殺人禁止協定を結んだが、相手を信頼してはいなかった。罰則を設けていたのは、協定違反者が必ず現れると予期していた証拠とされる。またそうした協定も次の戦期が来るとたちまち破棄された。このような繰り返しが数万年ないし数百万年つづいたと言われる。
子を殺された遺族が通念的な損害賠償請求権を持ったのは、遺族が子を所有していたからだということもできるが、より一般的に、いわゆる継承関係を仮定したほうが説明しやすい。遺伝子の継承関係は「同族意識」を生み出した。実際に遺伝子の継承関係がなくとも、象徴的な継承関係が認められる場合もあった(例:結婚制度)。ある者が受けた被害は、継承により同族全体への被害とみなされた。
さらに一般的に論じる場合、アイデンティティという概念が用いられる。いま仮に、パレスティナ人がイスラエル人を虐殺したのに対して、イスラエル人全体がパレスティナ人全体への復讐心にもえてる場合、ここには、「わたしたちは同じイスラエル人である」「敵はパレスティナ人である」というナショナリティのアイデンティティが認められる。アイデンティティとは、同一性の範囲に相当するすべての要素を同一視する働きだ。
「Aさんは女性の敵だ」として女性全体がAさんを非難すべきであると考えられるとしたら、そこにはジェンダーのアイデンティティが働いている。これに反して、「おひつじ座の人がおうし座の人を殺す事件」が連続して起きても、おうし座の人々がおひつじ座の人々への敵意をいだかないとしたら、星座のアイデンティティが存在しないからにほかならない。
執着という点ではアイデンティティとやや似ているが、アイデンティティと異なり個人が任意に設定したり設定解除できたのがユニーク属性である。
所有という観念がある場合でも、リソースを有効利用するため、他人が所有するものを(その所有権を認めつつ)一時的に占有することがあった。これを「借りる」という。通例、人から借りた辞書をなくしてしまったときは同じ辞書を買って返せばいいが、「あれはお姉ちゃんの形見の大切な辞書だったのだ」というときは、貸し手はその辞書にユニーク属性を与えているため、単に同じ機能の辞書を返しても、ごねられる。
通例、缶コーラにはユニーク属性がないので、他人のコーラをこぼしてしまっても別のを買って返せば良い。他方、他人が育ている子をうっかり殺したときは、同じ年頃の子を見つけてきて返しても、「それは同じ子でない」と言われるだろう。時代や文化にもよるが、人間は自分が育てている子にユニーク属性を与えていることが多い。子を殺した人に対して、自分が受けた被害でないにもかかわらず遺族が賠償請求できるのは、上述の継承関係のためである。また、同じ年頃の子を代替品とすることでは賠償できないとされるのは、ユニーク属性のためである。
ただし、単に労働力として使う奴隷的な子などはユニーク属性を持たないこともあり、同じ機能の代替品に交換可能である。食糧難などのとき、働ける子を生かし、病弱で動けない子を殺すのは合理的だ。また、生後数時間の赤ん坊を医療過誤で殺した場合など、赤ん坊の所有者がまだ赤ん坊のユニーク属性を設定していないなら、まったく遺伝子の同じ赤ん坊をクローン再生することで代替できる。
つぎに当時のシステムの内部に入りこんだつもりで考察してみよう(いわゆるイントリンシックな視点)。
任意の殺人がゆるされるわけではないとされたのは、反射律から説明できる。いま仮に、任意の左辺が任意の右辺を殺人するという式を真と仮定すると、自分自身がその右辺に来ることも真である。「わたしは殺されたくない」という執着を、任意の主体に対して反射律を用いて言い換えると、「任意の殺人がゆるされるわけではない」となる。
くだいていうと、自分がみだりに殺されない権利を確保するために、自分も他をみだりに殺さない義務を受け入れることになる。これは「殺人は絶対的に悪いからいけない」というより、「間接的に自分が殺される可能性がイヤだからいけない」という自己保身によっている。
同様に「正当防衛」が説明される。「やらなければ自分がやられるというときに、黙って殺されるのは、わたしはイヤだ」という執着を言い換えると、「やらなければこっちがやられそうなときには、相手を殺してもまあ良いだろう」となる。まったく同様にして「緊急避難」も説明される。
古代の宗教家のなかには、殺人は絶対にいけないという教条主義者もいた。しかし、どんなものであれ、具体的な教条を墨守しようとすれば、境界例で必ず破綻する。物理世界ではリソースが有限なため、無境界・無制限の普遍的推論が成り立たないからだ。正当防衛は別としても、当人が望んでいる尊厳死であるとか、母体に急迫した危険があって他の方法では危険を回避できない場合の人工流産、ないしレイプによって妊娠した子を産みたくない場合などは、そうした境界例のいくつかである。
さらに、まったくの善意無過失でありながら、結果的に殺人をおかしてしまうことすらありうる。その時期の社会通念や科学知識の範囲では危険が認めらずむしろ健康に寄与すると考えられていた加工食品が、あとから健康に致命的な害を及ぼすものであったことが判明した場合などが、その例である。そのような加工食品を発明ないし製造した者は「悪い」のだろうか。「明白な悪意の故意」と「完全な善意無過失」の両極端のあいだには、さまざまなスペクトルがあって、意思主義や過失主義によっても常に疑義なく割りきれるものでは、ない。
多くの社会で、殺人はタブー(悪い)とされるが、戦時にあっては、敵をたくさん殺せば名誉(良い)とされ、勲章を受けたり昇進する。
人を殺すのが「良い」とか「悪い」とかいうが、その「良い」「悪い」とは、なんだろうか。
第一は教育者ないし上官等の権威である。これこれのことをすると教育者に叱られる(罰を受ける)ないしほめられる(賞を受ける)、という形でのオペラント条件づけだ。権威の主体が漠然とした「社会」「みんな」であるとき、権威づけられた規則は慣習と呼ばれる。教育(助言)は、そのような慣習にもとづくことが多いが、多かれ少なかれ教育者(助言者)個人のモティベーションにも関係する。一般に、教育は成功することもしないこともある。
善悪を規定する規則のなかには、為政者や宗教によって権威づけられているものもある。また明示的に書かれているものもあれば、そうでないものもある。
権威づけられた規則には、罰則を伴うものもある。動物的闘争本能が強い者は実際にだれかを殺したいと考えたかもしれないが、実行して罰せられるのがいやなので思いとどまるかもしれない。この場合、殺人は「悪い」からしないというより、罰がイヤだからしないということになる。
このような社会的慣習、世に言う正しさの根拠は何か? それについては、すぐあとに記す。
判断の第二の根拠は、その者自身の直感だ。権威づけられた規則を無批判に受け入れる場合もあるが、多かれ少なかれ本人の直感に照らした吟味を経ているのがふつうだろう。
比較的に新しいシステムでは、ひとりひとりの直感のあり方が変化すると、それに伴いシステム全体の規則も変化したか、少なくとも、変化すべきであると考えられていた。しかし、「永久普遍の原理」というファンタジーをいだく者もおり、「人を殺すのは絶対にいけない」だとか「嘘をつくのは絶対にいけない」などと、「絶対性」に執着した。理想的なシステムでは、そのような者の信仰の自由も保証された。
人が永遠なるものに憧れる気持ちは理解できるし、それを漠然と「普遍の倫理」と呼ぶのも自由であるが、詳しくは「個人の行動における個人主義の優位性」とでも呼ぶべきであろう。すでに見てきたように、どんな場合でも絶対に殺人はいけないと盲信するのは、むしろ考えが浅い。例えば医師が、真に見るにしのびない不治の患者に対し、本人の望みをうけいれて安楽死をほどこす場合、それに対して、「普遍の倫理」などと称する宗教的立場からの反論もあるかもしれないし、間違っていると信じる自由は保証されるべきだ。けれど、世の「普遍の倫理」なるものがどうあれ、医師自身の誠実な判断にもとづき、心に照らして正しいと感じられる通りに実行することへの個人主義のほうが優位に立つ — この優位性こそが、真に普遍的であり絶対的なのであるが、それは、あくまで個人の直感、個人の内的必然性であるから、べつの医師ならべつの判断をするかもしれないし、同じ医師でもべつの場合にはべつの判断をするかもしれない。「この場合は、こうするのが正しい」といった外形的に定められる絶対的法則はない。外形的な意味で、絶対的な法則などないと割り切って、よりかからずに立つことが重要だ。
たとえ世のしきたりに従うとしても(できればそれが望ましいのだが)、習慣がそうだからそうするというよりは、その習慣を諸事情に照らして個人的にも承認できるということが重要で、個人の感覚に照らしてどうしても受け入れられない事情のある習慣は、むしろできれば拒絶するべきだろう。個人の行動というのは個人の行動なのだから、最終的には、その個人の判断と責任でやるしかないという当たり前のことだ。
これに反して、教典の教えや権威ある他人の指示を絶対と信じるのは、一般的には、あまり好ましくないだろう。
ただ、つねに個別に吟味するのは内部的なリソースの消費が大きすぎる場合など、「特殊な例外はあるにせよ原則として殺人は良くない」といった一時的規則を定めて、よほどのことがない限りそれにそのまま従うことも、リソースの経済の点から有効である。「個人の魂」と「普遍」の直接的コンタクトを例えば秒単位で行うかわりに、「個人の通常のレベル」からみて「上流」にあると(しかし「普遍」そのものよりは下流にあると)仮定される中間地点に共有のキャッシュサーバを設置し、いちいち「普遍」までアクセスするかわりに、「キャッシュ」を使う。「社会」における「正しさ」の本質は、このようなプロキシサーバであることが要請される。
要するに、世に言う「絶対の真理」「道徳律」のようなものは、本質において、多くのケースに適用しうべき規則が身近にキャッシュされたものである。いちいち研ぎ澄まされた直感、その者に到達可能な最も透明な世界 — それを何と呼ぶにせよ — に照らして判断することは、技術的には何ら問題ないばかりか望ましいことであるが、「現実を生きる魂」にとって、このような頻繁なアクセスはリソースの負担が大きい。
べつの角度からいえば、「普遍」までコンテンツを取りに行けない(あるいは行くのがめんどくさい)者が、普遍の代用として利用できる(疑似普遍的な)コンテンツが「社会的常識」(例えば暴力はいけないとか盗みはいけないとか)であると見ることができる。
もちろん環境が急変した場合(例:戦争が発生して激しい戦闘に巻き込まれる)、一時的規則は変更する必要があるかもしれない。どんな一時的規則も、それを決めたときの環境パラメータを暗黙のうちに仮定しているのであって、あらゆる場合に文字通りそのまま100%あてはまるとは限らない。当初、予期しなかったような状況が生じたときまで教条をしゃくしじょうぎに文字通り適用しようとすると、かえって柔軟性を欠くまずい結果になりやすい。
すなわち、環境の変化によって期限切れになったキャッシュはクリアされるべきものと要請される。この場合、「社会」というものが存在する限りにおいて、多かれ少なかれ新しい共有のキャッシュが再取得されることになるであろう(例えば、法律の改定)。環境が変化した場合の過渡期の混乱は、ふたつの原因による。第一は、キャッシュの更新のタイミングのずれ(仮想的な普遍サーバとキャッシュサーバの同期のずれ)。第二は、更新されたキャッシュが各個人に浸透するタイミングのずれ(キャッシュサーバとクライアントの同期のずれ)。
例えばAというカテゴリーの者に対して「差別的」な取り扱いを行う法律があったとする。意識の変化に対応して、この取り扱いがもはや正しくないと認識された場合、法律は改訂されるかもしれない。しかし、「この取り扱いが正しくない」と感じる者があらわれ、増え始めてから、実際に法律が改定されるまでには時間的なずれがあるだろう。これが第一のずれである。次に、実際に法律が改定されても、Aを差別的に取り扱うことが習慣化した一般の人々の意識が変化するのにも、時間がかかるかもしれない。これは第二のずれを生じる。 — しかしながら、キャッシュがクリアされて再取得されるそもそもの契機は「個人の意識の変化」(上の例でいえば、Aに対する取り扱いが間違っているのではないか、という意識の芽生え)であって、その最終的な結果も「個人の意識の変化」(新しい価値観の排他的ないし共存的な浸透)である、ということに、注目されたい。我々が普遍を観照する唯一のよりどころは、個人の直感であるから、各知性体の「実際の感じ方」がより広く、より即時に共有されるようになるにつれ、キャッシュの更新頻度も高くなるかもしれない。「合意の法律」のようなキャッシュを使用することがかえって社会的不統一を大きくしてしまうという状況(「これこれについては一般的規則を定めない、臨機応変に各自が選択して良い」とするほうがかえって秩序が達成される状況)が存在することに注意する。
また、いずれにせよ、社会がキャッシュしている「普遍的規則」を個人の直感が上書きする可能性は常にある — これは、キャッシュサーバを通さずに、直接「普遍」にアクセスすることを意味するが、注意すべきは、「普遍」とは個人的であって、個人によって普遍のあらわれは大きく異なりうる。社会がキャッシュしている「二次的な普遍」のほうが一般に個人間での共通認識としての統一性が高く、個人的直感(それは、より普遍に近い)のほうが見かけ上は普遍的でなく、個人によって見解が異なるように見えるであろう。
ある社会における慣習的な「正しさ」「善悪」とは、その社会の多数の個人の直感に照らして共有できる部分であることが要請されるから、ある個人にとっての「普遍」全体からみれば、非常に狭い範囲の規則である(例えば、あらゆる事柄について、具体的な法律が定まっているわけでは、ない)。規定外の事柄はもとより、規則の境界例においては、常に個人間で解釈の揺れが起こりうる。さらに、現実の社会においては、多くの構成員が正しくないと感じている規則が、社会の慣習としてキャッシュされてしまうことも珍しくない。
殺人観の歴史においてつねに議論になるのは死刑の謎だ。古代人は殺人を良くないと考えながら、どうして元殺人者をいま殺人できたのか、については、考古心理学者のあいだでも意見が一致しない。通説は、いわゆる抑止効果説で、「死刑という刑罰は、死の恐怖という生物学的本能にアピールすることにより、結局、トータルでの殺人数を減らすのに役立った」と説く。
また、当時の世界観では、ストリームよりそれを流す下位構造(物質)に注目したため、「個人」は時間がたっても「同一人物」と見られていたらしい。だから、過去の殺人について、ずいぶん時間がたってから処刑するとしても、殺人者と受刑者は同一とみなされた。これは現代のミムセントリックな世界観に照らすと異様な考え方であり、いわば過去に作成されたAというファイルが気にくわないという理由でマシン全体を物理的に破壊するといういかにも古代的な蛮行であるが、当時のアンソロポセントリックな世界観においては当然のことであった。
古代人が「自分は自分であって他者でない」という「アイデンティティ」を持ちえた大前提として、自分の「過去の記憶」が一般に(その知性体の脳のなかにのみあって外部化されていないために)本人にしかアクセス可能でなかった、という事実を指摘できる。「自分の記憶」が「自分の秘密」でなく透過的にどこからでもアクセス可能になればなるほど、「自分」という意識は拡散する傾向にある。
実証主義者たちは、死刑制度を持つ部族とそうでなかった部族の殺人率に有意差が認められないとして、死刑は合理的な制度というより、むしろ古代人たちの呪術的儀式だったのではないかと考えている。このような呪術の目的は、「永遠の命」への不合理な憧れとか、厄災(やくさい)を退け部族の長寿繁栄を祈るものであったろう。
社会は、個別的な知性体と「普遍」の中間のキャッシュサーバとして機能するが、キャッシュされているコンテンツは、実際には、不特定の個体がみずからの「普遍」から取得したものである(例:個人が法律の改訂を提案して受け入れられる)。また、キャッシュされているコンテンツを最終的に適用する場合も、各個体がみずからの「普遍」と照合して内容を上書きすることが可能である。
社会は仮想的に「普遍」と「個」のあいだに立つ「仮想的普遍」(ファンタジー)であるから、ここにおいて最も本質的なのは、多数の個体のなまの普遍と「仮想的普遍」の同期の問題 — いかに同期をとるか、という技術論と、同期のずれという現象面 — である。これは、各知性体の意識の変化と、「社会の意識」の変化の同期の問題であり、複数の社会からなる世界においては、社会と社会のあいだの現在の価値観の違い、および現在は同じである価値観の変化の速度の違いである。
取り扱いの単純化のために、「社会」に階層を持たせ(地域社会、民族社会、国際社会など)、ひとりひとりの「個人」を(低い階層の)「社会」とみなしてもかまわない。ただし「個人」は一般にはエレメンタルな「社会」では、ない。ひとつの知性体が複数の「内部社会」を持ちうるからだ。特に「在来の天然の人間」と比較して大規模な構造を持つ「知性体」は、内部に複雑な社会の階層を持つことがある。
したがって、情報の伝達速度や共有度 — ある個体や社会の感じ方が外部からどのくらい透過的にアクセス可能か — が大きく変化するとき、このようなキャッシュシステム全体が大きく変化する可能性がある。言い換えれば、「個人 — 仮想的普遍としての社会 — 普遍」という3レイヤ構造は、決して唯一絶対の価値系の実装では、ない。理論的には、仮想的普遍としての社会という中間レイヤは、この観点に関するかぎり、まったく必要ないばかりか、同期のずれが大きすぎる場合には、キャッシュの利点より非同期による混乱の欠点のほうが大きくなる。「社会の変化の速度が速すぎてついていけない」という個体が多くなった場合、「仮想的普遍という意味での社会」という中間レイヤを介さずに、各自が直接、自分の感性に従って判断できる部分を増やすような、実装が望まれる。すなわち、いちいち「社会の共通見解」をなんとか決定してそれを浸透させるというキャッシュプロセスを、より多くの場面で省略できるような実装を行っても良い。そうすれば、いちいちキャッシュサーバとローカルのコンテンツを同期させる手間が省け、「社会についていく」必要もなくなる。そこについていくべき仮想的普遍としての社会の役割が、消滅するか、あるいは、少なくとも、より限定されるからだ。
もし仮に「情報取扱者(人間)」でなく「情報」が中心であるとするなら、「情報取扱者(人間)」についての情報は、辺縁的な(あまり価値のない)情報ということになる。どうでもいい“個人情報”を保護することは、情報を保護するというより、ほんらい保護すべき「純粋な情報」を保護しない(抑圧する)結果になるかもしれない。しかし、由緒正しい伝統を持つ人間文化によれば、糸杉にかかる細い三日月に興味がなくても、その作品を作った人間の耳切り事件には興味が持たれたものだった。そう、それから何世紀かたったあとでも「PKZipの作者はアルコール依存だからPKZipを使うのは神がゆるさない」だの「『氷』の作者はヘロイン中毒だったからいくら『氷』がすぐれていたとて人間として尊敬できない」といった考え方 — スピーカーがよごれているからそこから流れる音楽の価値を否定したり、スピーカーが高級だからそこから流れる音楽は美しいと考えるような、まるで無関係なものを結びつけてしまう古代の信仰 — は、すぐには、なくならなかった。
2001-06-02 - なぜ、このような問題が生じるかというと、個人の人格と結びついた個人情報と私たちの社会に必須の表現の自由という、いずれも重要な権利が、コンピュータという日進月歩の強力なマシンの上でぶつかり合っているからである
-- from 「個人情報」と「表現の自由」:「情報」と「情報取扱者」のどちらが中心か?というミムセントリック問題の具体例とみるとおもしろい(→関連記事:ネットと現実の境界面)。「ジンケン」という古代の宗教、「セイベツ」制度、「コクセキ」制度などは退屈な古代史のネタになるのかどうか。人間が天然惑星3だけに住み、ガソリン自動車が地上を走り、タバコが合法だったセピア色の時代……。
いとしい子よ、「ここが妖精の家です」というのがあって、扉をノックすると妖精が出てきて、そこに行けばいつでも妖精に会えるとしたらじゃ、つまり妖精たちが人間たちのあいだにひらたく住んでいればじゃ、どうしてとりたてて「妖精を」見る必要がある? そういう時代が来れば、もう妖精と人間を区別する必要も、妖精ということばも要らなくなるのじゃよ。妖精を見る必要があるうちは妖精は本当には見えないし、妖精の現れに気づいたときには、妖精は透きとおって見えなくなってしまう。だからじゃ、今の世の中、妖精が見えないとしたら、妖精がいないか、あるいは、むしろ、妖精そのものなのだ。 — おっと、言い忘れるところだった。これは妖精についての話じゃないぞ。妖精とは変数χで、実際には「障害者」「宗教家」「異常天才児」「イリュア人」などを代入できる場所で……なにより「あなた」を代入できる場所じゃ。
-- ミムナ・エレウェモス『若いおとなたちへの手紙』