『原発がどんなものか知ってほしい』は、素人がまとめた文章だが、 一般の人が原子力にどんな不安を感じているかを、歪んだ形で、端的に示している。 その意味で一つの「真実」だ。
それに対する『Re:原発がどんなものか知ってほしい』(
「職員が会社と無関係に個人サイトで原子力について語る」こと自体、 少なくとも当時としてはユニークで、インターネットの良さ、新しい時代を感じさせた。 原子力発電への偏見・風当たりの強さ、そうした悲しみが、 彼を強く、優しくさせたのだろう。 穏和で誠実な筆致で、辛抱強く、ひとつひとつの疑問に答えていた。
「原発がどんなものか知ってほしい」は知る人ぞ知るネット上の怪文書だ。
この文章は、読者を二重に混乱させてきた。 第一種の読者は、書かれていることを普通に信じてしまう人で、 ブログで共感の日記を書いたりするのだが、 事実を知る人からコメントがつき自分も確認して恥をかく…そんなことが繰り返されている。
第二種の読者は「この文章は平井という人が書いた反原発プロパガンダで、 内容は間違いだらけ」と認識しているが、それもちょっと事実と違う。
この文章を掲載している反原発の会ができたのは2000年、 著者とされる平井は1997年までに亡くなっているから、 このウェブ文書を平井自身が執筆した可能性はない。 平井自身は、不治の病で気持ちが動転している面があったにせよ、 現場を知る技術者であり、 それほどめちゃくちゃなことは言っていないはずだ。
技術者が「放射能でロボットが狂う」だの「原発の建物の物はすべて放射性物質に変わる」といった幼稚なうそを、 公の講演で言うはずがない。 他方、現場ならではのリアリティある記述も多く、平井自身は門外漢ではない。 幼稚な間違いと現場のディテールの混在は、 複数の人間がかかわって成立した文章だと考えることで、最も合理的に説明できる (「平井は精神病で、認識が混乱していた」などの特殊な可能性は除外する)。
結論だけ言えば、
「去年(一九九五年)」「二月(一九九六年)に」という表現から、 オリジナルの講演の時期は1996年春~1996年末のいつかだ。間違い方の程度から見て、 文章化した人は、基礎的知識がなく「不安」という先入観に支配されている。 もとは縦書きだったようだ。 素人が数名を相手に刷っていたミニコミ紙のたぐいか。
こういう活動それ自体は、良いことであり、応援したい。 結果的には間違いだらけで、基本的な調査を怠るなどアプローチがまずいが、 それでも、世の中のことに無関心でいるより、自分なりの意見を発表しようとする態度自体はりっぱだ。
追記: http://www.janjan.jp/living/0501/0412292132/1.php によると、 「原発がどんなものか知ってほしい」は 故人である平井氏が生前語った話を「PKO法『雑則』を広める会」の佐藤某たちがまとめたものだという。 予想通り、本当の筆者は平井氏ではなかった。 内容の程度については、上記のようなあまり信頼されているとも思えないメディアであってさえ、 良心がうずいたらしく、 「編集部注」で、現場を知る平井氏本人の文だというのはうそであることを補足している、という点からも、 推測できる。暇を持て余しているなら、実際に読んでみれば、どれほどめちゃくちゃかは、 素人でもすぐ分かる。わたしは、中立ではなく、現在の原子力発電や東京電力のやったことにはっきり反対する立場であり、 特にごまかしや隠蔽には強い嫌悪を抱くのであって、 反原発の立場からも、このような、著者名すら偽りであるねつ造資料「原発がどんなものか知ってほしい」の存在は、 混乱を招き、かえって反対運動への信頼を失わせるものだと考える。 ただし反対する立場といっても「今すぐ原発を止めろ」といった非現実なことを言うわけではなく、 変えていかなければならない部分がたくさんあるし、 今の原発がエネルギー供給の完成型とは思えないということである。 特に、天然ウラン資源がこのままでは100年ももたないという事実に即して、 現状では駄目だと主張するのである。 賛成か反対かという単純な二分法ではない。 既存の原子力発電所を叩くことは、エネルギー問題の解決に少しも寄与せず、それこそ無駄なエネルギーである。
『知ってほしい』をそのまま信じる人は問題外として、 「平井という人の怪文書」と思っている読者も勘違いしていることになる。 『Re:原発がどんなものか知ってほしい』で反論した人自身、同じ勘違いをしている。 『原発がどんなものか知ってほしい』で素人がつけた尾ひれ。 明らかに間違っている部分。 『Re:原発がどんなものか知ってほしい』では、 それを「現場を知る技術者の発言」として真剣にとらえた。 理解に苦しみながらも、 どういう極端な状況でそんなことがありうるのか一生懸命考え、コメントした。 そのため、原子力問題の核心からずれた、ほとんどあり得ないケースの枝葉での、かみ合わない対話が多い。
次の例を考えてみよう。 「ボルトをネジで締めながら、もう10分は過ぎたかな、15分は過ぎたかなと、頭はそっちの方にばかり行きます。アラームメーターが鳴るのが怖いですから。アラームメーターというのはビーッととんでもない音がしますので、初めての人はその音が鳴ると、顔から血の気が引くくらい怖いものです。これは経験した者でないと分かりません。ビーッと鳴ると、レントゲンなら何十枚もいっぺんに写したくらいの放射線の量に当たります。」
平井がしゃべった内容は、おそらく「線量管理があるから、のろのろ作業することは許されない」 「アラームは作業現場で騒音があっても聞き取れるように非常に大きい音で、 めったに鳴らないが、鳴るとびっくりする」 「被ばくと言っても、みなさんが検診などでレントゲンを何枚か撮るのと変わらない安全なレベルだが、 そうはいっても不安はある」という主観的不安であり、自分はそのせいでガンになったという思い込みから、 多少誇張してしゃべったのだろう。
それを文に起こした者は「頭はそっちの方にばかり行って作業は手抜きです。 アラームが鳴るのは非常に怖いことで、レントゲンの何倍、何十倍というおそろしい量の放射線をあびてしまうのです」などと、 尾ひれをつけたのだろう。尾ひれといっても悪意や扇情主義ではなく、無知からくる率直な(しかし間違った)不安が根底にある。
一般的なX線検診(胸部撮影)での医療被ばく実効線量は平均 0.057 mSvで、 それを基準に何十倍(約2 mSv)という量は、実際の現場では考えにくい値だが、 絶対ないとは言えない。 しかし問題になる量は50~500 mSvのオーダーであり、胸部直接撮影はたとえ100倍の5.7mSvでも、 それよりはるかに低い。 要するに、そもそもそんなことはまずないし、 たとえあったとしても、問題ない。 十二分に余裕を見て基準値は決められている。
『Re~』では、こうした素人の勘違いや誇張に対して、 いちいち真剣に回答している。
『知ってほしい』と『Re~』のやりとり自体については、既に語り尽くされた感がある。 結論として『Re~』にも微妙に不正確な部分があるが、 『知ってほしい』は99.9%でたらめ。 『Re:原発がどんなものか知ってほしい』を、さらに綿密に校訂・補足した 『Re:Re:原発がどんなものか知ってほしい』とでも言うべき資料もウェブ上で容易に見つかる。
結果的には、『Re~』は素人が勘違いしやすい部分をくだいて説明してくれていて、 ためになるのだが、これは技術者レベルの対話ではない。 専門の技術者が、無知から来る不安に支配されている素人を、同レベルの技術者だと勘違いして対応してしまっている。 かみ合わないのも無理はない。
まれに『原発がどんなものか知ってほしい』と『Re:原発がどんなものか知ってほしい』を、 50:50の重みで合わせて読むことで中立的な観点が得られると誤解している人がいるが、 事実は上記のとおりで、 現実的には前者と後者の重みづけは、0.1対99.9のレベルだろう。 前者にはリンクする価値もない。
ウェブ上に怪文書がいろいろあるのは普通のことで別にいいのだが、 この件での最大の問題は、 『原発がどんなものか知ってほしい』が残っている一方、 それに誠実なコメントをつけた『Re:原発がどんなものか知ってほしい』があった「EiFYE 原子力発電所」が、 閉鎖に追い込まれてしまった点だ。
ただ、それは『知ってほしい』の会とは関係なく、 同じサイトに掲載されていた原子力発電所に関するジョーク・コンテンツが直接の原因と見られる。 残念な結末だ。
そのジョーク・コンテンツはともかくとして、 『Re:原発がどんなものか知ってほしい』は『原発がどんなものか知ってほしい』に対するまじめなコメントであり、 近い将来の(差し迫った)深刻なエネルギー危機を見据え、 決して原子力さえあれば大丈夫などという安易な話でなく、 実際に今そこで働き、反対運動との対峙のなかで苦悩し、考え続けている現場の人間からの、 本当の意味で生々しい意見であった。
『Re~』があらゆる意味で正しいとは言わない。
だが「自分が関係者であることから偏ってしまう可能性は否めない」と自覚した上で、
あらゆるデータを確かめながらできる限りの最善を尽くし、
原子爆弾を投下された歴史的トラウマから、心の傷を負い、 「原子力」について過敏になっている日本の人、その原子力アレルギーを「歪んだ認識」だと笑うことは許されない。 心の問題で苦しむ人をその心の問題であざ笑うなど、卑劣きわまることだろう。
一方、エネルギー問題、石油の不足・枯渇が現実に差し迫っていることも事実であり、 楽観的に見ても、50年以内には相当深刻になるだろう。 今からプランを考え、準備していく必要がある。
永遠に忘れてしまえばいい悲しみなら、なるべく触れないようにして、忘れてしまうのも良い。 でも、エネルギー問題はそうではない。 忘れて済む問題ではないのだ。
反対することは悪くないが、 地に足のついた議論をしよう。 差し迫った問題Aがあり、それに対して対策Xがあるとき、Xに反対するならXなしでいかに問題Aに対処するのか、 現実的な別案を考えなければならない。 原子力に反対する人の中には、そのような高い見識のある意見を持っている人も多いが、 『知ってほしい』は違う。 代替プランを示さず、間違った知識に基づきいたずらに不安をあおるだけだ。
わたしたちの生活は今この瞬間も、原子力で成り立っているのだから、 実は、賛成反対というのはかなりナンセンスでもある。 現実的に停止できるし停止すべきであるむちゃな戦争に反対するのとは、わけが違う。 原発に反対して「ただちに原発を停止せよ」と息巻いている運動家に従い、すべての原発を停止してみよう。 東京は大停電に陥り、電話もインターネットも水道もガスも病院も…何も機能せず、 大混乱のカオスとなるだろう。飢え死にする人もでるかもしれない。 暗黒のパニックの中で、殺人・強盗などのあらゆる犯罪も起きるだろう。
原子力の可能性を語るとき、誰も「何をやっても原子力は安全だ」などとは言っていない。 人類の知恵と知識を結集すれば、原子力を安全に運用できる道があるはずだ。 そういう「人間の可能性」に対する希望が根底にある。
人間は堕落してきているかもしれないが、希望と信念を持って未来に立ち向かう若者が一人でも残っている限り、 未来はまだある。わたしはそう信じたい。
現実的な危険性に対策が必要なのは当然だが、 無知や偏見から発生する心の中の漠然とした不安・恐怖については、 わたしたちひとりひとりが直面し、乗り越えていかなければならない。
よく調べもせず、イメージだけで漠然と怖がるのはやめよう。 どこからどこまでは技術的に解決できていて、何が本当の問題なのか、 また石油資源はいつまでもつのか、そうしたことを一人一人が認識していくことが第一歩だ。
以下は、たいへん有意義なコンテンツでありながら事情により削除を余儀なくされたEiFYE原子力発電所のコンテンツを、GoogleのキャッシュからひきだすためのURL集です。これらのページに記されているすべての情報がすべての意味で「正しい」とは限りませんが、実際に原子力発電所を運転なさっていたかたならではの、現場からの貴重なコメントであったことは間違いありません。以下のリンク集は、このサイト(妖精現実)の独断で作成したものであり、「EiFYE原子力発電所」の意向とは無関係です。(2002年8月7日)
現在このキャッシュはすでに期限切れになったようです。 以下の書庫をご利用ください。eifye.zip (2002年9月3日)
こちらでも、ごらんいただけます。 原発がどんなものか知ってほしい