同じ文章が、 オタク(身内)向けと一般向けでどう変化したかの対照表。 原子力問題に関連して「Re~」の紹介にリンクしたいときは、 この記事にではなく、「原発がどんなものか知ってほしい」へどうぞ。
オタク版は最初に「妖精現実」に投稿されたメモで、 『Re:原発がどんなものか知ってほしい』を紹介しつつも、 ウェブサイト「EiFYE 原子力発電所」でいちばん良かったのは「原発D」「原子力宣言」であると力説している。
非オタク版は一般向けのバージョンで、 オタクネタをすべて消し、毒のある表現をマイルドにしたもの。 一般の読者は長文を嫌うだろうと、パラグラフを短くし、小見出しをつけている。 「日本人の心」の問題に触れたり、 今すぐできることとしての未来への提言をしたり、 元がマッドネタ好きのマニアックな文章とは思えないほど、 良識あるエッセイに早変わりしている(笑)。
「EiFYE 原子力発電所」のおもしろさは、オタク系ネタと、まじめな原子力ネタと2種類あった。 後者で有名なのは「Re:原発がどんなものか知ってほしい」だが、これは素人でもどうかと思うような幼稚な間違いを訂正しているだけ。 良心的だが、本質的には良いコンテンツとは言えない。 おもしろかったのは、まともな疑問に答えているFAQや、原発職員としての日記・身辺雑記だ。 「EiFYE 原子力発電所」のユニークさ、真の魅力は、ディープなオタクネタと、 一般向けのまじめな原子力関連記事が共存していたことだ。 しかし前者のブラックジョークが過ぎたため、結果的に後者も受け入れられなかった。
その教訓を生かし、 「知ってほしい」に対しては「Re~知ってほしい」だけで、余計な(直接関係ない)ことに触れないようにした。 「知ってほしい」に引っ掛かった読者には、とりあえず「Re~知ってほしい」だけでたくさんであり、 それと全然別のレベルにあるナンセンスユーモアの良さをあわせて紹介するような欲張ったことをしない。
実際に記事d20903に追加されたのは非オタク版だ。
原子力問題がどうこうより、 オタクと非オタクに関する実験だった。 おおげさに言えば異文化交流論。 「知ってほしい」の話自体は、 専門知識豊富な人がいろいろ語り尽くしており、今さら付け加えることは何もないし、 専門知識もない。単に実験用の素材ということになる。
内容自体はわりと無意味だが、 しいて言えば、 プレゼンテーションがちょっとおもしろいかもしれない。 主部で賛意を繰り返し強調し、支持しているように見せかけながら修飾節で言いたい放題言うのは、 基本的な弁論術だが、なかなか効果がある。 事を荒立てたくないが言いたいことがあるときは、こんな感じに褒め言葉でサンドイッチしておけば良いのだ。
「こういう活動それ自体は、良いことであり、応援したい。 ○○が××なのは△△で間違っているし、 ★★が☆☆とは基本的な調査も不足しているようだが、 それでも、世の中のことに無関心でいるより、自分なりの意見を発表しようとする態度自体はりっぱだ。」
強調部分前半の「より悪いこと」の部分に、読者(第三者)が身につまされることを書いておき、 それに比べるとりっぱだと、もっともらしく述べることで、あなたの中立性を強く印象づけることができる。 ターゲットは「基本的な調査もできていない間違い」と強く否定されるが、 それは情報が間違っているだけでやっている人間は悪くない、それどころか、そういうことを考えるだけでもりっぱだ、 と書いておけば、ややこしい人間の挙動をかなりの程度、バイパスできる。 (注: 妖精現実を知っていそうな相手を、上のフレーズでおちょくるのは、 問題がかえって複雑にこじれる原因になるので、おやめくださいw) 「あんな平井のトンデモを信じるようなバカ読者は」と内心では両方向ばかにしていても、 そういう書き方は良くない。
オリジナルのメモにとげがあるのは、 一般読者や平井をばかにしているのではなく、 「原発D」「原子力宣言」などのジョークコンテンツを削除させた人に対して腹を立てているのだ。 平井が何を言おうが、 平井の名を勝手に使った誰かががどんな作文をしようが、 それを読んでどんな誤解がはびころうが、 知ったことではない。 勝手に推進でも反対でもしてくれていい。 エネルギー危機になって死ぬのも、原発の大事故で死ぬのも、どちらも一定確率で起きるだろう。 だが、 サイトが続けば読めたであろう同人系コンテンツが失われてしまったこと…それが残念だ。 「原発D」と「原子力宣言」は読めたし保存もできたが、他にもまだあったし、 続いていれば新作も出ただろうに。 しかも、このことが「ニュースサイトがネタとして取り上げたこと」から引き起こされたこと、 つまり自分たち(オタクネタもあるが一般人も読む各種サイト)のあり方にも間接的にせよ責任があることが、いたたまれない。 (微妙な問題のあるネタは、場合によっては取り上げ方を工夫する必要がある。 少なくとも、一般人が読む記事に、不必要に混ぜるべきではない。)
平井の文については正直、興味もなく、ちゃんと読んでさえいない。 あんなのをウンウンうなずきながら真剣に読む人がいるというのも、 まあ、世の中、そんなもんだろう。 別にそれをばかにしたいとも思わない。 反論文には、結果的には読んでためになる部分もあるのだが、 基本的な成立事情は「素人の幼稚な間違いをただしているだけ」で、 かみ合っておらず、本当の原子力問題の論点は見えてこない。 平井名義のトンデモ文書は、 到底、建設的な議論のたたき台になるような代物ではないのだ。 反原発の人ですら、まともな人なら、かかわり合いになるのを避ける。
旧「EiFYE 原子力発電所」で見たなかで、 最も感激したのは「原発D」のアイデアだ。 「MAD美味しんぼ 3題」の「激突! 放射能料理対決」は、 「原発D」へのオマージュでもある。
誰でも勘違いやだまされることはあり、それは仕方ないことだが、 常識で考えると、そういう場合、声の大小はともかく反論サイトも出てくるはずだ。 「原発~」は実力のない間違いサイトが残り、間違いを正した反論サイトが消されたところに特殊性がある。 間違いサイトの陰謀などではなく(そんな実力はない)、 まじめな反論と併置していた危ないオタクネタのせいなのだが、 この構造は一歩間違えると、公安の微罪逮捕・口封じに通じ、怖いものがある。
オタク版 | 非オタク版 |
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『原発がどんなものか知ってほしい』は、素人がまとめた文章だが、 一般の人が原子力にどんな不安を感じているかを、歪んだ形で、端的に示している。 その意味で一つの「真実」だ。
それに対する『Re:原発がどんなものか知ってほしい』( 「職員が会社と無関係に個人サイトで原子力について語る」こと自体、 少なくとも当時としてはユニークで、インターネットの良さ、新しい時代を感じさせた。 原子力発電への偏見・風当たりの強さ、そうした悲しみが、 彼を強く、優しくさせたのだろう。 穏和で誠実な筆致で、辛抱強く、ひとつひとつの疑問に答えていた。 |
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「原発がどんなものか知ってほしい」は知る人ぞ知るネット上のおもしろ文章だ。 この文章は、読者を二重に混乱させてきた。 第一種の読者は、書かれていることを普通に信じてしまう人で、 ブログで共感の日記を書いたりする、 が、事実を知る人からコメントがつき自分も確認して恥をかく…ということが、 繰り返されている。 第二種の読者は「この文章は平井という人が書いた反原発プロパガンダで、 内容は間違いだらけ」と認識している。それもまた勘違い。 今からここに書くのはとりあえずの走り書きのメモで、 一般向けでない。エネルギー問題(原子力問題)と無関係なオタクの話が出てくることをあらかじめお断りしておきます。 |
『原発がどんなものか知ってほしい』について 「原発がどんなものか知ってほしい」は知る人ぞ知るネット上の怪文書だ。 この文章は、読者を二重に混乱させてきた。 第一種の読者は、書かれていることを普通に信じてしまう人で、 ブログで共感の日記を書いたりするのだが、 事実を知る人からコメントがつき自分も確認して恥をかく…そんなことが繰り返されている。 第二種の読者は「この文章は平井という人が書いた反原発プロパガンダで、 内容は間違いだらけ」と認識しているが、それもちょっと事実と違う。 |
この文章を掲載している反原発の会ができたのは2000年、 著者とされる平井が死んだのは1997年1月だから、 このウェブ文書を平井自身が執筆した可能性はない。 平井自身は、不治の病で気持ちが動転している面があったにせよ、 それほどめちゃくちゃなことは言っていないと思う。 「講演をしていた時のお話をします」といった部分があることから、退職・解雇などで失業した後、 講演活動をしていたわけだが…。要するに、
「去年(一九九五年)」「アメリカでは、二月(一九九六年)に」という表現から、 オリジナルの講演の時期は1996年春~1996年末のいつかだ。間違い方の程度から、 文章化した人は、基礎的知識がなく先入観で凝り固まっているようだ。 去年という言葉に西暦を注記していることから、 文章化は1997年以降に公表することを踏まえている。 スタイルからみて、もとは縦書きだったと可能性が高い。 素人が数名を相手に刷っていたミニコミ紙のたぐいか。 こういう活動それ自体は、多少間違っていても(この場合「多少」の「多」だが)、良いことだ。 公開した文章が間違いだらけで基本的な調査を怠っているなどアプローチがまずいが、 それでも、世の中のことに無関心でいるより、自分なりの意見を発表しようとする態度自体はりっぱだと思う。 |
誇張された講演に素人が尾ひれ この文章を掲載している反原発の会ができたのは2000年、 著者とされる平井は1997年までに亡くなっているから、 このウェブ文書を平井自身が執筆した可能性はない。 平井自身は、不治の病で気持ちが動転している面があったにせよ、 現場を知る技術者であり、 それほどめちゃくちゃなことは言っていないはずだ。 技術者が「放射能でロボットが狂う」だの「原発の建物の物はすべて放射性物質に変わる」といった幼稚なうそを、 公の講演で言うはずがない。 他方、現場ならではのリアリティある記述も多く、平井自身は門外漢ではない。 幼稚な間違いと現場のディテールの混在は、 複数の人間がかかわって成立した文章だと考えることで、最も合理的に説明できる (「平井は精神病で、認識が混乱していた」などの特殊な可能性は除外する)。 結論だけ言えば、
「去年(一九九五年)」「二月(一九九六年)に」という表現から、 オリジナルの講演の時期は1996年春~1996年末のいつかだ。間違い方の程度から見て、 文章化した人は、基礎的知識がなく「不安」という先入観に支配されている。 もとは縦書きだったようだ。 素人が数名を相手に刷っていたミニコミ紙のたぐいか。 こういう活動それ自体は、良いことであり、応援したい。 結果的には間違いだらけで、基本的な調査を怠るなどアプローチがまずいが、 それでも、世の中のことに無関心でいるより、自分なりの意見を発表しようとする態度自体はりっぱだ。 |
ともあれ、この文章をそのまま信じる第一種は問題外として、 「平井という人のトンデモ文書」と信じている第二種読者も勘違いしているわけだ。 最もばかばかしい部分は、ほとんど、平井自身の発言ではないと見られる。 次の例を考えてみよう。 「ボルトをネジで締めながら、もう10分は過ぎたかな、15分は過ぎたかなと、頭はそっちの方にばかり行きます。アラームメーターが鳴るのが怖いですから。アラームメーターというのはビーッととんでもない音がしますので、初めての人はその音が鳴ると、顔から血の気が引くくらい怖いものです。これは経験した者でないと分かりません。ビーッと鳴ると、レントゲンなら何十枚もいっぺんに写したくらいの放射線の量に当たります。」 平井がしゃべった内容は、おそらく「許容被ばく量管理があるから、のろのろ作業することは許されない」 「アラームは作業現場で騒音があっても聞き取れるように非常に大きい音で、滅多に鳴らないが、鳴るとびっくりする」 「被ばくと言っても、みなさんが検診などでレントゲンを何枚か撮るのと変わらない安全なレベルだが、 そうはいっても不安はある」という主観的不安であり、自分はそのせいでガンになったという思い込みから、 多少誇張してしゃべったのだろう。そしてそれを文に起こした者は「頭はそっちの方にばかり行って作業は手抜きです。 アラームが鳴るのは非常に怖いことで、レントゲンの何倍、何十倍というおそろしい量の放射線をあびてしまうのです」などと、 尾ひれをつけたのだろう。尾ひれといっても悪意や扇情主義ではなく、無知からくる率直な(しかし間違った)不安が根底にある。 一般的なX線検診(胸部撮影)での医療被ばく実効線量は平均 0.057 mSvで、それを基準に何十倍というのは、 現実には考えにくいのだが、必ずしも間違いとは言えない。 しかし問題になる量は50~500 mSvのオーダーであり、胸部直接撮影はたとえ100倍の5.7mSvでも、 それよりはるかに低いオーダーだ。 |
反論者も勘違い 『知ってほしい』をそのまま信じる人は問題外として、 「平井という人の怪文書」と思っている読者も勘違いしていることになる。 『Re:原発がどんなものか知ってほしい』で反論した人自身、同じ勘違いをしている。 『原発がどんなものか知ってほしい』で素人がつけた尾ひれ。 明らかに間違っている部分。 『Re:原発がどんなものか知ってほしい』では、 それを「現場を知る技術者の発言」として真剣にとらえた。 理解に苦しみながらも、 どういう極端な状況でそんなことがありうるのか一生懸命考え、コメントした。 そのため、原子力問題の核心からずれた、ほとんどあり得ないケースの枝葉での、かみ合わない対話が多い。 次の例を考えてみよう。 「ボルトをネジで締めながら、もう10分は過ぎたかな、15分は過ぎたかなと、頭はそっちの方にばかり行きます。アラームメーターが鳴るのが怖いですから。アラームメーターというのはビーッととんでもない音がしますので、初めての人はその音が鳴ると、顔から血の気が引くくらい怖いものです。これは経験した者でないと分かりません。ビーッと鳴ると、レントゲンなら何十枚もいっぺんに写したくらいの放射線の量に当たります。」 平井がしゃべった内容は、おそらく「線量管理があるから、のろのろ作業することは許されない」 「アラームは作業現場で騒音があっても聞き取れるように非常に大きい音で、 めったに鳴らないが、鳴るとびっくりする」 「被ばくと言っても、みなさんが検診などでレントゲンを何枚か撮るのと変わらない安全なレベルだが、 そうはいっても不安はある」という主観的不安であり、自分はそのせいでガンになったという思い込みから、 多少誇張してしゃべったのだろう。 それを文に起こした者は「頭はそっちの方にばかり行って作業は手抜きです。 アラームが鳴るのは非常に怖いことで、レントゲンの何倍、何十倍というおそろしい量の放射線をあびてしまうのです」などと、 尾ひれをつけたのだろう。尾ひれといっても悪意や扇情主義ではなく、無知からくる率直な(しかし間違った)不安が根底にある。 一般的なX線検診(胸部撮影)での医療被ばく実効線量は平均 0.057 mSvで、 それを基準に何十倍(約2 mSv)という量は、実際の現場では考えにくい値だが、 絶対ないとは言えない。 しかし問題になる量は50~500 mSvのオーダーであり、胸部直接撮影はたとえ100倍の5.7mSvでも、 それよりはるかに低い。 要するに、そもそもそんなことはまずないし、 たとえあったとしても、問題ない。 十二分に余裕を見て基準値は決められている。 『Re~』では、こうした素人の勘違いや誇張に対して、 いちいち真剣に回答している。 |
こうした具体的な諸問題については、既に旧「EiFYE 原子力発電所」の『Re:原発がどんなものか知ってほしい』以降、 綿密な批判があり、さらに『Re:原発がどんなものか知ってほしい』をも批判的に校訂・補足した資料もウェブ上で、 容易に見つかるので、ここでは繰り返さない。 まれに『原発がどんなものか知ってほしい』と『Re:原発がどんなものか知ってほしい』を(50:50の重みで)合わせて読むことで中立的な観点が得られると誤解している人がいるが、平井に最大限敬意を払っておまけしても1:99の重みであり、 現実的には前者と後者の重みづけは、0.01対99.99のレベルだろう。 平井の「知ってほしい」にはリンクする価値もない。 |
かみ合わない対話 『知ってほしい』と『Re~』のやりとり自体については、既に語り尽くされた感がある。 結論として『Re~』にも微妙に不正確な部分があるが、 『知ってほしい』は99.9%でたらめ。 『Re:原発がどんなものか知ってほしい』を、さらに綿密に校訂・補足した 『Re:Re:原発がどんなものか知ってほしい』とでも言うべき資料もウェブ上で容易に見つかる。 結果的には、『Re~』は素人が勘違いしやすい部分をくだいて説明してくれていて、 ためになるのだが、これは技術者レベルの対話ではない。 専門の技術者が、無知から来る不安に支配されている素人を、同レベルの技術者だと勘違いして対応してしまっている。 かみ合わないのも無理はない。 まれに『原発がどんなものか知ってほしい』と『Re:原発がどんなものか知ってほしい』を、 50:50の重みで合わせて読むことで中立的な観点が得られると誤解している人がいるが、 事実は上記のとおりで、 現実的には前者と後者の重みづけは、0.1対99.9のレベルだろう。 前者にはリンクする価値もない。 |
ウェブ上に怪文書がいろいろあるのは普通のことで別にいいのだが、 この件での最大の問題は、でたらめな方の『原発がどんなものか知ってほしい』が残り、 基本的に正しいコメントを行った『Re:原発がどんなものか知ってほしい』があった「EiFYE 原子力発電所」が閉鎖に追い込まれてしまったという点にある。 ただそれは平井の名で文を載せた会とは関係なく、どちらかと言えば偶然だった。 「原発D」などのオタク・コンテンツが直接の原因と見られる。 オタクうんぬんはともかくとしても(百歩譲って「原発D」と「原子力宣言」は国民感情を逆なでするブラック過ぎるネタと認めるとしても)、『Re:原発がどんなものか知ってほしい』は『原発がどんなものか知ってほしい』に対するまじめなコメントであり、 将来のエネルギー問題を見すえ、決して原子力さえあれば大丈夫などという安易な話でなく、 実際に今そこで働き、反対運動との対峙のなかで苦悩し、考え続けている現場の人間からの、 本当の意味で生々しい意見であった。 Re~があらゆる意味で正しいとは言わない。 だが自分が関係者であることから偏ってしまう可能性は否めないと自覚した上で、 あらゆるデータを確かめながら最善を尽くし、 真摯に、しかし権威主義に陥らず謙虚に問題を掘り下げていくそのアプローチは、 情報の重みで言えば、「知ってほしい」の100倍のオーダーの重要性がある。 そういう貴重な情報の損失だったのだ。 |
残念な幕切れ ウェブ上に怪文書がいろいろあるのは普通のことで別にいいのだが、 この件での最大の問題は、 『原発がどんなものか知ってほしい』が残っている一方、 それに誠実なコメントをつけた『Re:原発がどんなものか知ってほしい』があった「EiFYE 原子力発電所」が、 閉鎖に追い込まれてしまった点だ。 ただ、それは『知ってほしい』の会とは関係なく、 同じサイトに掲載されていた原子力発電所に関するジョーク・コンテンツが直接の原因と見られる。 残念な結末だ。 そのジョーク・コンテンツはともかくとして、 『Re:原発がどんなものか知ってほしい』は『原発がどんなものか知ってほしい』に対するまじめなコメントであり、 近い将来の(差し迫った)深刻なエネルギー危機を見据え、 決して原子力さえあれば大丈夫などという安易な話でなく、 実際に今そこで働き、反対運動との対峙のなかで苦悩し、考え続けている現場の人間からの、 本当の意味で生々しい意見であった。
『Re~』があらゆる意味で正しいとは言わない。
だが「自分が関係者であることから偏ってしまう可能性は否めない」と自覚した上で、
あらゆるデータを確かめながらできる限りの最善を尽くし、
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でも個人的には、ネタ系コンテンツの喪失の方が悲しい。 『原発がどんなものか知ってほしい』のでたらめさは『Re:原発がどんなものか知ってほしい』をまつまでもなく、 素人でもちょっと批判的に見ればすぐ調べられることだ。 作者さんの方では誇りに思っていた自社で隠蔽などが見つかり失意を味わったなどの現実的事情もあったようだが、 受け手の側としてはどうでもいいことだろう。 最重要なのは「原発D」と「原子力宣言」。 このすごさ、おもしろさこそ唯一無二の絶品だ。 脱オタだの隠れオタだの言っている最近のくずと違い、 オタクであることに鉄の誇りを持っている“同世代”ということも感じられた。 原子力発電所の関係者がこんな「あぶない」ネタを公開したらまずいだろう、というのは、まあそうなのだが、 そこが今の軟弱な世代と基本が違うということだろう。 「EiFYE 原子力発電所」を閉鎖に追いやった最後のわらの何本かは、 少なくとも間接的には、妖精現実にも責任があった。 「原発D」ウェブ版に感激して、反射的に紹介したのが、 より一般向けのニュースサイト(俺ニュース)に中継され、最終的にネタやシャレが分からない野暮な一般人が、 神聖なオタク世界を変なふうに発見して「EiFYE 原子力発電所」管理者の勤務先にわざわざ苦情を入れたらしい。 編注: 複数のニュースサイトで紹介されたので、苦情がどの経路から行ったのかは分からないが、 要するに、オタク系ネタが一般に流れたことによる結果だろう。 閉鎖に追い込まれた当事者がいちばんつらいのはもちろんだが、 それを見ているのも苦いことだった。 せめてこの出来事を教訓として、今後に生かしたい。 妖精現実では今でも責任を感じて勝手にミラーしているわけだが、 上記のコンテンツは写真まで復元しているのに、 『Re:原発がどんなものか知ってほしい』はGoogleのキャッシュをZIPにまとめて放置してある。 ちょっと投げやり。 『Re:原発がどんなものか知ってほしい』も、特にZIPに同梱してあるFAQなど非常におもしろく、ためになるので、 一度は読んでおいたら良いとは思う。でも原発推進か反対かなんてのは、実は、どうでもいい。 石油がなくなればあっという間に反原発の連中もぴーぴー泣いて原子力にすがってくることは分かり切っているからだ。 だいたいトンデモ文章「知ってほしい」をホストしているサーバー自体、 電気で動いているわけで、 その電気はどこから来ていると思っているのかw 運良く核融合まで行けた日には「こんなクリーンなエネルギーは他にない」「何しろ太陽エネルギーと同じだもんねー」などと、 逆のことを言い出すのも目に見えている。 というか、連中にはそもそも核分裂と核融合の違いも分からないし、逆に低温核融合なんかを(素朴な意味で)信じていそうだが…。 少なくとも、「国がうそをついていなければ、 原子力関係の仕事をする人は絶対にガンになる危険がない」というわけの分からない信仰の持ち主、 統計とか科学とかとは無縁の世界の住民だ。地球上でいちばんきれいな島で素朴な生活を送っていたって、 その発病確率に応じて病気になるときはなるわけだが。 どんな技術も誤用すれば危険だが、正しく運用すれば有用、 再現可能な現象は管理でき、エラーに備えfail‑safeにできる…なんてのは技術者にとっては当たり前のことで、 今さら論じるまでもない。 技術そのものの欠陥による事故など一度も起きていない。 ばかな人間のせいで、技術が悪いように言われるのは技術が可哀想だ。 「知ってほしい」うんぬんでも無視できない間接的社会問題が論じられており、 一定の価値はあるというものの、それは本質と関係ない部分。 |
日本人の心の傷 原子爆弾を投下された歴史的トラウマから、心の傷を負い、 「原子力」について過敏になっている日本の人、その原子力アレルギーを「歪んだ認識」だと笑うことは許されない。 心の問題で苦しむ人をその心の問題であざ笑うなど、卑劣きわまることだろう。 一方、エネルギー問題、石油の不足・枯渇が現実に差し迫っていることも事実であり、 楽観的に見ても、50年以内には相当深刻になるだろう。 今からプランを考え、準備していく必要がある。 永遠に忘れてしまえばいい悲しみなら、なるべく触れないようにして、忘れてしまうのも良い。 でも、エネルギー問題はそうではない。 忘れて済む問題ではないのだ。 反対することは悪くないが、 地に足のついた議論をしよう。 差し迫った問題Aがあり、それに対して対策Xがあるとき、Xに反対するならXなしでいかに問題Aに対処するのか、 現実的な別案を考えなければならない。 原子力に反対する人の中には、そのような高い見識のある意見を持っている人も多いが、 『知ってほしい』は違う。 代替プランを示さず、間違った知識に基づきいたずらに不安をあおるだけだ。 |
ましてわれわれの生活は今この瞬間も、原子力で成り立っているのだから、 賛成反対というのはナンセンスだ。 現実的に停止できるし停止すべきであるむちゃな戦争に反対するのとは、わけが違う。 ネタが分かる読者に本当に読んでほしいのは、「知ってほしい」より上記の2作品の方だ。 |
今、この瞬間にも始められること わたしたちの生活は今この瞬間も、原子力で成り立っているのだから、 実は、賛成反対というのはかなりナンセンスでもある。 現実的に停止できるし停止すべきであるむちゃな戦争に反対するのとは、わけが違う。 原発に反対して「ただちに原発を停止せよ」と息巻いている運動家に従い、すべての原発を停止してみよう。 東京は大停電に陥り、電話もインターネットも水道もガスも病院も…何も機能せず、 大混乱のカオスとなるだろう。飢え死にする人もでるかもしれない。 暗黒のパニックの中で、殺人・強盗などのあらゆる犯罪も起きるだろう。 原子力の可能性を語るとき、誰も「何をやっても原子力は安全だ」などとは言っていない。 人類の知恵と知識を結集すれば、原子力を安全に運用できる道があるはずだ。 そういう「人間の可能性」に対する希望が根底にある。 人間は堕落してきているかもしれないが、希望と信念を持って未来に立ち向かう若者が一人でも残っている限り、 未来はまだある。わたしはそう信じたい。 現実的な危険性に対策が必要なのは当然だが、 無知や偏見から発生する心の中の漠然とした不安・恐怖については、 わたしたちひとりひとりが直面し、乗り越えていかなければならない。 よく調べもせず、イメージだけで漠然と怖がるのはやめよう。 どこからどこまでは技術的に解決できていて、何が本当の問題なのか、 また石油資源はいつまでもつのか、そうしたことを一人一人が認識していくことが第一歩だ。 |
ちょっと笑った。かたや
「ネタが分かる読者に本当に読んでほしいのは、「知ってほしい」より上記の2作品の方だ。」
かたや
「どこからどこまでは技術的に解決できていて、何が本当の問題なのか、
また石油資源はいつまでもつのか、そうしたことを一人一人が認識していくことが第一歩だ。」
同じことを書いているのに、結論が全然違う、しかもどっちも、それだけ読むと、
もっともらしく見える(笑)
よく国語のテストとかで「この部分で作者の言いたいことは何か」とかあるけど、 本当の考えと表現は、必ずしも連動してないと思うのです。 上記の場合で言えば、