アメリカの DMCA では、 著作物の公正な利用について制限が強すぎた。 それを修正してバランスを回復しようという DMCRA が議論されている。 この法案は2002年から存在しているが、2004年5月には公聴会が開かれている。
DMCRAメモ。
著作権者と著作物の利用者の関係を定めている著作権法が、 一部の著作権者の主張する保護ばかりに偏り、利用者に重すぎる制限を課す傾向は、1998年前後から、各地域で見られる。 それに先立つデジタル技術やインターネットの急速な普及で、利用者に急激に利便が生じたことへの反動として、 理解できる面も多い。
しかし、2004年現在では、権利者、特に一部の中間流通業者等の保護という特殊な目的ばかりが重んじられ、 著作物を創作した著作者の権利も、 著作物を利用するユーザの権利も、不自然に制限されている傾向は否めず、 著作者と利用者の双方で、疑問や反感がつのっている。 (ミュージシャン自身の意思に反してCCCD化を強制されたり、 アニメの市場が巨大と言われながら制作現場は極貧であることは、 ゆがみの一端を象徴している。) 日本の「レコード輸入権」やオーストラリアの「私的複製の禁止」、 アメリカの「誘発法案」などは、一般の理解を得るところからほど遠く、 法律が形骸化し法制度そのものへの不信を招いているふしがある。
家電業界やコンピュータ業界などでも、 例えば消費者から「貴社のドライブではCCCDが再生できない」と苦情が来る一方、 CCCDを再生できるように工夫するとレコード業界から「保護手段を不正に回避し」と訴えられる危険があるのでは、 板挟みに陥る。 どれか一つの特定産業だけを過保護で甘やかせば、全体にゆがみが生じるのは必然だ。
「著作権法改正」というとそれだけで「また変な禁止を増やすのか」という反応があるほど、 一方向への偏った「改正」が進められてきたが、 アメリカでは「誘発法案」のような極端なものばかりではなく、 DMCA に消費者寄りの修正を加えてバランスを回復しようとする法案も存在している。 それが DMCRA — Digital Media Consumers’ Rights Act だ。
DMCA は問題の多い法律として、さまざまな論争の中心となってきた。 DMCA は、コピーコントロールやアクセスコントロールといった技術的保護手段(日本の著作権法でいう「技術的保護手段」とは若干範囲が異なる)と、 その回避について定めており、問題は多岐にわたるが DMCRA で軌道修正しようとしているのは、以下の3項目だ。
どれも当たり前の感覚の話だ。
こうした法案がテクノロジー・家電業界から支持されていることも、容易に理解できる。 コンテンツ業界にDRMなどで指導権を握られたくないうえ、 フェルトン vs. RIAA の例から分かるように、DMCAでは、 企業の技術研究や製品開発が突然違法とされ訴訟に巻き込まれるリスクが存在するためだ。
支持勢力:
Intel, Philips Consumer Electronics North America, Sun Microsystems, Verizon, BellSouth, Qwest, Gateway, SonicBlue, Red Hat, Consumer Electronics Association, Video Software Dealers Association, National Humanities Alliance, Association of American Universities, American Library Association, Association of Research Libraries, American Association of Law Libraries, Medical Library Association, Special Libraries Association, Art Libraries Society of North America, Home Recording Rights Coalition, Digital Future Coalition, Consumers Union, Consumer Federation of America, Public Knowledge, National Writers Union, United Auto Workers Local 1981, American Foundation for the Blind, Computer Research Association, Computer Professionals for Social Responsibility, Consumer Project on Technology, Association for Computing Machinery (Public Policy Committee), Electronic Frontier Foundation and 3-2-1 Studios.
出典: 公聴会資料
Hearing Held on Boucher’s Bill, H.R. 107, the Digital Media Consumers’ Rights Act, May 12, 2004.
参考記事: Tech heavies support challenge to copyright law, Congress asked to unpick copy lock laws
例えば、DVDを個人的にコピーすることの合法性が確認されるため、 DVDをコピーする製品は「実質的な非侵害用途」が確認され、その合法性も確認される。 自己が購入し自己の支配下にある物品についての誰にも損害を与えない活動は合法であり、 合法の行為を助ける製品はもちろん合法である、というに過ぎないが、これは消費者にメリットがあるだけでなく、新たなビジネスチャンスを生む (例えば、CDに対する携帯音楽プレーヤーのような、携帯映画/アニメビュアーといった新コンセプトが考えられる)。 「自分の販売したメディアに関して第三者が商売するのを許さない」といった不公正な商売も是正されるであろう。 現在は、まるで「ジャガイモを販売したのはわたしだから、第三者によるジャガイモの皮むき器の販売は違法である」とでも言うような、 不合理な主張が行われている。
ここで注意しなければいけないのは「非侵害的」というとき、 「技術的保護手段」はあくまで著作物を保護するための手段であって、 「回避」それ自体は侵害でも侵害の予備的行動でもない、ということだ。 「回避」もまた、利用するための手段の一部に過ぎない。 この点を誤解すると「結果が非侵害的なら、回避しても良い」という法案が意味を成さなくなる。
ちなみに、その対極にある考え方が「著作者は、著作物へのアクセスを許可する権利を専有する」というもので、 その立場では、 例えば本を立ち読みしたとき「著作権者からまだ読むライセンスを購入していない」という理由で侵害とみなされたり、 視覚障害者がウェブページを音声ブラウザで読み上げたとき 「著作権者は読み上げ装置によるアクセスを許可していない」という理由で侵害とみなされたりする。 アクセスコントロールという考えは、 最初からアクセス可能な方法を具体的に制限しなければならず、 当初想定していないが明らかに問題のない新しいアクセス方法が違法とされ、 ひいては新しい技術の開発を阻害するなど、 そのまま一般的に実行すると混乱を招き、理解を得られない。
コントロールするには、制御対象の技術を理解し、それより上位レベルのメタ技術を考えなければならないが、 その制御技術を実装した翌年には、その制御技術がまるで想定していなかった新技術が登場するであろう。 アクセスコントロールとはアクセスの仕方、利用の仕方を規定するものだが、 10年後にどういうデバイス、どういうインターフェイスを使っているか分からないのに、10年後の技術を今の技術でコントロールできるわけがないし、 すべきでもない。
上記で、最初の2項目は抽象的な規定だが、デジタル音楽については特に具体的に規定している。 CCCDについて、 著作物の技術的保護手段を除去してはいけない と主張する業界に対して、 消費者を保護する手段を除去してはいけない とそのまま自業自得を味わわせるかっこうになっている。 消費者を保護する手段とは要するに「これは音楽CDではありません。音楽CDプレーヤーでは正しく再生できないことがあります」というシールであり、 「音楽を破壊する信号を入れるなら、そのリスクも負うべし」という当然のバランス感覚だ。 音楽を破壊せず自由に複製させるか、 音楽を破壊してユーザによるフェアユースの回避を行わせるか、どちらを選ぶかは、企業の自由だ。 どちらを選ぶにせよ、一方的に自分の都合ばかりを言うのでなく、家電メーカや消費者の事情も考えなければならない。 音楽CDはレコード業界だけで成り立つものではなく、それを再生するデバイスの製造者や、それを楽しむ消費者がいて初めて成り立つ。
DMCRA は決して DMCA のすべての問題に対応しているわけではなく、 例えばリバースエンジニアリングをめぐる論争は、先送りされている。
日本のマスメディアでは、DMCA を制限する法案の存在は、あまり報じられないかもしれない。 DMCA の名を切り札として「国際的動向をふまえ」と法改正を進めることと関係するのかもしれない。 「誘発法案」ばかりを騒ぎ、著作権法はどんどん消費者に厳しくするのが国際的動向だ、と誤解させたり、 あるいは自らも誤解している者が、多いかもしれない。 それでもインターネット経由で、情報が流れることは止められない。
DMCRA案(Boucher's bill)は5条からなり、その原文はPDFファイルとして
http://www.house.gov/boucher/docs/BOUCHE_025.pdf (2002)
http://www.house.gov/boucher/docs/dmcra108th.pdf (2003再提出)
で見ることができ、
http://thomas.loc.gov/cgi-bin/query/z?c108:H.R.107:IH
ではHTML形式でも閲覧できる。
各条の要約と趣旨も公開されている。 最近の状況や議論について、 CDFreaks や PCWorld などでも、読むことができる。
この法案は、 日本でいうCCCD (この法案では copy-protected compact discs ) についての規制、 CSS等の「技術的保護手段」の回避がフェアユースでは認められること、 そして、P2Pソフトなどの開発が「実質的な非侵害用途」があれば合法であることを含む。
5条からなり、第1条は法律名、第2条~4条がCCCD、第5条がDMCAの修正という構成になっている。
第2条では、 日本でいうCCCDについて「これは音楽CDではありません」といった適切な表示や通知を行わなければならない、ということ、 また、日本の公正取引委員会にあたる Federal Trade Commission が取り締まりを行うことなどの、総則的なことを定めている。
第3条は4つに分かれて、順に「言葉の定義」「ちゃんと表示していないCDもどきを流通させてはいけない」「何を表示する義務があるか」 「取引委員会はどういう取り締まりを行うか」といった規定がある。 以下のメモには含まれないが、法案では、レッドブック規格といった用語についても、きちんと定義している。
第4条では、 2年後に取引委員会は実態について報告し法律の見直しを行うべきことを定めている。
最後の第5条が最も異色で、DMCA への直接的な修正を明示している。 これは内容的に3項目からなる。 まず (a)は「専ら学術目的では、技術手保護を回避してもいい。これはハッカーが学術目的と称して好き勝手をやるのを認めるものではない」 というおとなしいものだが、 Felten vs. RIAA 訴訟を承けている(厳密に言えば、 これは判決ではなく、政府が提出した「コントロール技術の科学的研究では、DMCAは適用されない」という見解によって、 裁判が中止になった)。 (b) は、侵害を結果しない回避はすべて合法ということを明示し、 フェアユースを回復している。これは DMCA 1201 (c)(1) で、フェアユースを拡大するものでも縮小するものでもない、 と言いながら、実際にはフェアユースが損なわれて消費者の不満がつのっている現状に対応している。
(b) ではさらに「実質的な非侵害用途があれば、開発は合法」というベータマックス裁判での判断の回復を行っている。 日本でも Winny事件によって技術開発への萎縮的効果が問題視されたところであり、 実際、P2P技術はこれからの最も重要な技術のひとつであるから、開発に制限が多ければ、ただちに国際競争力の低下につながる。 日本の著作権法改正2005(私案)でも「中立的行為の保護」として、 「侵害する行為以外の行為に用いられ又は用いられる可能性がある物」を開発等するのは、 侵害の教唆やほう助と見なさない、という形で「非侵害用途」の有無を問わない提案が行われている。
Digital Media Consumers’ Rights Act Section-by-Section Description
http://www.house.gov/boucher/docs/dmcrasec.htm
をほぼそのまま訳した — 。
Section 1 では、法律名を示す。 この法律は the Digital Media Consumers’ Rights Act (the “DMCRA”) と呼ばれる。
Section 2 では規格に合致しない「コピー制限された音楽CD」の問題が消費者・販売者・再生装置の製造者に及ぼしている問題を示す。 このようなディスクは市場に混乱をもたらし販売者や製造者に負担をかけるので、 通常の音楽CDでないことを示す適切な表示をしなければならない。 連邦取引委員会が担当する。消費者は規格外の「コピー制限された音楽CD」について、購入前に、再生や録音の機能低下について通知されなければならない。
レコード会社は新しいコピー制御を開発する自由を持つが、 消費者に規格外の「コピー制限された音楽CD」の再生と録音について適切に通知する義務を負う。 家電メーカ、コンピュータメーカは、消費者が期待するとおりの機能をするように、デバイスを修正しても良い。
Section 3 では規格外の「コピー制限された音楽CD」について、表示等の要件を定める。 Federal Trade Commission Act (15 USC 41 et seq.) に Section 24A を追加する。
Subsection (a) では「音楽CD」(audio compact disc)、「録音済みデジタル音楽ディスク製品」(prerecorded digital music disc product)といった言葉を定義する。 後者は新しく定める表示義務を満たさなければならない。 DVD-Audio ディスクと Super Audio CD については、表示義務を免除する。 これらについては、従来の音楽CDと異なることについて、既に適切な通知が行われているからである。 (取引委員会は、subsection (d)(2) に鑑み、必要によっては、これらのフォーマットや新しいフォーマットについても、この法律で定める表示義務を課すことができる。)
Subsection (b) では、不当表示された録音済みデジタル音楽ディスク製品の流通、販売、頒布目的での提供・宣伝を禁止する。 さらに、最終購入者以外による表示の除去や損傷を禁止する。 本条項の違反は、これを Federal Trade Commission Act に定める不公正な方法による競争と不公正・欺まん的な行為であるとみなす。
Subsection (c) では、これら規格外の「コピー制限された音楽CD」について、表示の要件を定める。 特に「この製品は通常の家電製品で適切に再生できない場合やパーソナルコンピュータのハードドライブに録音できない場合がある」旨を、 パッケージ表面に目立つように表示しなければならない。 録音済みデジタル音楽ディスク製品を含む製品では、さらに、パーソナルコンピュータ上での再生に必要な最低条件、 楽曲をダウンロード[訳注: ここでは「購入した製品からPCのハードディスクへのコピー」のこと]する場合の制限、 および返品の条件について、消費者に通知しなければならない。
Subsection (d) では、取引委員会が行うべき二種類の規制について定める。 第一に、取引委員会は、禁止の実効性を確保し、録音済みデジタル音楽ディスク製品に適切な表示が行われるように、 必要な措置を講ずることができる。 さらに、新しい音楽フォーマットについて、以下に該当する場合、適切な表示を行うように規制することができる。 (1) 当該ディスクの再生可能性と録音可能性について消費者に相当の混乱が発生し; (2) 規格に合致したCDプレーヤでの再生可能性について、適切な表示が行われておらず; かつ、 (3) 当該ディスクがパーソナルコンピュータで録音できないか、または録音したとき制限がある場合。
Section 4 では、法律制定の日から2年後に、取引委員会が連邦議会に提出すべき報告について定める。 特に、取引委員会は、規格外CDが消費者にもたらす問題の持続の程度、 販売者・製造者の消費者からの苦情への対応についての負担の状況、 および、消費者の利益を保護するために必要と考えられる法改正について、報告するものとする。 さらに、取引委員会は、新しいCD形式の導入が消費者にもたらした混乱の程度、および取引委員会に寄せられた消費者からの苦情の程度について、 報告しなければならない。
Section 5 では、米国著作権法の歴史的なバランスを回復するために必要な DMCA の修正を行う。
Subsection (a) は、 sections 1201(a)(2) と (b)(1) を修正して、 学術研究の目的では、 これを許可するものとする。 この変更は、学術界の実際の懸念に対応するものであり、 学術的研究と称してハッカー等がトレードシークレットをインターネット上で公開することを許可するものでも、 その他の不法行為について学術的研究を仮装することを許可するものでもない。 修正では Section 1201(a)(2) の解釈についても、 Felten vs. RIAA訴訟での司法省の判断を盛り込む。
Subsection (b) は、 section 1201(c)(1) への修正であり、 回避が著作物の著作権の侵害を結果しない場合には、作品にアクセスするため、または作品を利用するための技術的保護手段の回避は、 1201条に違反しないことを明確にする。 例えば、ユーザは、自己が購入した電子ブックを自己のコンピュータ上で読む目的で、 アクセスコントロールを回避することができる。 ただし、電子ブックをインターネットにアップロードして配布すれば、 1201条の回避に関する違反と著作権侵害の両方に問われる。
Subsection (b) はまた、 section 1201(c) を修正し、 著作物の実質的な非侵害用途に用いられるハードウェアまたはソフトウェア製品の製造、流通、非侵害目的での使用は、 1201条に違反しないことを明確にするように、paragraph (5) を追加する。 この規定は、 1984年の最高裁判決、 Sony v. Universal City Studios, 464 U.S. 417 (1984) (いわゆる「ベータマックス裁判」)の判断を、 回復させるものであり、 合法的な行為を目的とするハードウェアおよびソフトウェア製品への消費者のアクセスを保証する。 例えば、自己が購入した電子ブックのテキストを音声として読み上げさせるためのソフトウェアを開発しても良い。
以下のリンク集は Digital Media Consumers' Right Act などの検索語でヒットした日本語のページで、 法案名だけでなく内容や背景についての情報があるものを、機械的に抜き出したものです。 (詳しく調べてないので、他にもあるかもしれません)
情報や作品の流通に対して課金するのではなく「流通させないこと」に対して課金するとどうなるか。
ファイルをダウンロードすること自体には課金されないが、もしそのファイルを再公開しないと課金される。 再公開するなら課金されない。実装においては、ファイルのダウンロードのときに一時金を払うが、 再共有認証を受けると全額返還される。再共有登録の更新を怠ると、その時点で再び課金される。
以下では、このモデルが決して「コピー天国」や無秩序を発生させないこと、 従来のシステムの自然な延長であること、 さまざま見地から合理的であることを説明する。 このメモは概念のラフスケッチであり、実装上の諸問題は考慮されない。
追記: このモデルの実装例はパブリックトレントである。 パブリックトレントでは、もし自分の上り帯域を提供し、他の利用者に協力しながらダウンロードするなら無料だが、 他の利用者に協力せず、専用の下り帯域を使って早くダウンロードだけしたければ、有料になる。 自分経由でのコピーを許可すれば無料、しなければ有料、というトポロジーを観察せよ。
このシステムは、単なる非現実な思考実験ではない。例えば、巨大な古本マンガ店を「共有」だと考えてみよう。 マンガをそこから100円で買うとする。読み終わったマンガを再びその店に50円で売れるとしよう。 するとマンガを再共有させる(つまり再び売る)行為は安上がりだが、 再共有をしないで自分のところで止める行為には、より多く課金される。 つまり「流通をストップさせること」に課金する制度は、既に現実に存在している。
レンタルしたビデオを返却しないと違約金を課せられるのとも似ているし、 飲み物のびんを返却すると10円戻ってくるのにも似ている。
飲み物の場合は、びんだけ返しても、なかみは復活せず、なかみが商品なので、びんの流通をストップさせても、再共有させても、 あまり差は発生しない。
音楽CDのような場合は、入れ物ごと返すことでなかみはそのままなので、再流通には大きな価値があり、 したがって、再流通させた場合のインセンティブが大きい。
しかし、中古ショップの運営のコストがあるので、再流通させても、初めに払った額は100%は戻らず、 したがって、再流通させても多少は課金される(再流通させない場合より課金は少なくて済むが)。
インターネットの場合、中古ショップにあたる部分の運営コストは消費者自身の自前なので、再流通させた場合は完全に無課金にして、 巨視的には、つじつまが合う。ただし、ユーザは、 電気代やハード代などで「中古ショップの運営コスト」に相当する部分を(無店舗に合理化した形で)広く薄く課金されている。 自分がダウンロードしたものを長期に渡って共有し続けるには相当なコストがかかる。 しかし共有を停止すれば、その時点で課金される。どちらを選ぶにしても、何でもかんでもはダウンロードできなくなり、 良いものを選ぶようになる。最終的には現行のシステムと似てくる。 一次公開者は、公開直後の収入が減るかわり、何十年にもわたって、公開した作品に対してコストの回収ができる。 人気がなくなって、だんだん共有から消えれば消えるほど、それが収入になる。 このシステムは、もし理論的に完全に機能するなら、大部分の作品に対しては良い働きをする。 その代わり、何年たっても大人気の、超メガヒット大作は、この制度では存在できなくなる。
例外もあるが、一般論としては、音楽CDやマンガなどを物理的に所有したいという気持ちは少ない — 特に人口密度が高く部屋が狭い地域では、そういう人が多いだろう。そういう人のすべてが、実際に媒体を中古ショップに再び売るわけではない。 なぜか。売れば空間リソースが節約できるうえ、金銭的にもメリットがあるのに売らないとしたら、 ひとつには売る手続きそのものが面倒だからだろう。
「流通をストップさせることに対して課金する」ということは、裏を返せば、課金されたくなければ、 何らかの手続きを踏んで「共有継続登録」を更新し続けなければならないことを意味する。 それが面倒と思えば金を払うことになる。 金を払いたくなければ正式に手続をとって、現在の流通コストにあたるものを自分の電気代やマシンリソースによって負担する。
つまり「流通させないことに対する課金」の本質は「物理的店舗」と「販売者登録」の仮想化によるコストダウンにすぎない。
利用者自身が流通経路を提供し、流通コストを利用者に広く薄く再分配するという点で、 超流通の一種とも考えられる。
今でも、小売店というものは、仕入れ値よりわずかに高い値段で販売することで、運営コストをまかなっている。 小売店が特定商品の販売をやめれば「デッドストック」になって、損失が発生する。 卸元に対して返品ができるなら(それは再流通なので)基本的には損失は発生しない。 「流通を止めることでコストが発生する」システムは少しも奇異でなく、現実のモデルだ。 販売するものが「純粋にデータ」である場合、小売店は販売者でありながら「勝手に」そのデータを利用できる役得がある代わり、 再流通を成功させなければ自分がコストを負担することになるリスクを負う。
このシステムがネット上で実現された場合、現在と比べて超大作が存在しにくくなるかわり、 マイナー作品が存在しやすくなり、絶版・品切れなどが起こりにくくなる(品切れの原因になる行為に対して課金されるので)。 一般には、消費者からみても、アーティストからみてもメリットが大きい。 ただし、現在の物理的中間流通業者と、超巨大エンターテインメント産業には不利な展開となる。 また抽象レベルでは店舗と同じだから「自分は大量に共有続けらるぜ」と思って無選別に何でもかんでもダウンロードしまくると、 何らかの理由で共有ができなくなった瞬間に巨額の負債が発生することにも注意しなければならない。 決してダウンローダに一方的に有利なシステムではない。作品に対する愛や選別眼も要求される。 広めたいと思えないようなつまらないものをダウンロードするとカネをとられ、 自分がおもしろいと思いファンになった作品は無料になるからだ(つまらないものを取得する行為には結果的にペナルティが課せられる。ネット上ではマッシブな宣伝工作ができない以上、売った方ではなく買った方が悪いのだ。“購入”といっても本質は店舗としての“仕入れ”なのだから、だまされれば負けだ)。
繊細な情報網そのものであるネット上のことなので、 大量宣伝でつまらないものを良いと思わせることもできない。 このシステムはいろいろな意味で巨大作品には適合しないので、 巨大作品は従来の物理的媒体による販売が行われるかもしれない。 その流通があれば、既存の物理的中間流通業者も依然、必要とされるが、規模は縮小されるだろう。 他方、この新システムで流通されるすべての作品はデジタルデータとして仮想化されており、 (本の紙、CDの円盤のような)物理的に所有できる部分はない。ジャケット写真、表紙、扉絵、解説ノートなども、すべて仮想化される。 物理的媒体と縁を切るからこそ流通コストが限りなく低くなり、このシステムのような「超流通」系が可能になる。 アーティストは、当面の経済的要求を満たすため、あるいは物理層に執着する一部ファンの要望に応えるため、 別に物理的メディアの販売を行っても良い。その場合にも、 既存の物理的中間流通業者のビジネスチャンスとなる。
— 基本的には、ファンは「自分が愛するのは作品であって、作品の物理的容器ではない」ことを理解すべきだ。単なる蒐集家ではなく、芸術作品に対する愛好家である限りにおいて。 まんがを印刷した「紙」はまんがのストーリーの本質ではないし、 アニメを収録した「円盤」はアニメではない。 そのような共通認識がなければ、新システムは根本的に機能しない。 つまり、このシステムは移行期において多少の「意識の変化」を必要とするという欠点を持っているが、 「新しい考え方に自然になじむ人が増えている」という追い風もある。アナログレコードからCDになったとき、 音楽CDのリッピングが普及したとき、そして音楽がDL販売に移行しつつあるとき、わたしたちは、一歩一歩、物理的メディアを仮想化してきた。
言い換えると、手すきの和紙や木工細工のような、物理的基盤そのものに依存した作品も、新しいシステムでは流通できない。 良くも悪くも、物理層と縁を切れるものに限定された世界になる — 作品もそれとシステム的に共存する人間も。 この限定も、一部の作品にとっては致命的な(システムがまったく利用できない)欠点であり、 一部の人間(物理的コレクター)にとってもそうだ。
しかし、このシステムが人間にとって何より良いのは、そうしたジャンルの制限とは関係ない精神的な面にある。
「良いものを広めることは良いことである」という自然な力動の実現になっていることだ。
現在のシステムは「勝手に広めるのは悪いことだ」「広めたいならカネを払え」というものだが、 新しいシステムは「勝手に作品を消すのは悪いことだ」「消すならカネを払え」となる。 作品中心の立場からは、ずっと自然だろう。
実際問題、現在のシステムでは大量に「無断コピー」されても、そこに課金することが技術的に不可能である。 すべての通信をモニタするのでない限り課金できないが、 すべての通信をモニタすることは望ましくない(倫理的にはもちろんコスト的にも)。 ステガノグラフィや将来の量子暗号通信を使えば、理論的に不可能かもしれない。 「流通しないことに対して課金」するシステムに移行すれば、消費者はダウンロード時に払った一時金を返してほしければ、 自分から否認不可能な登録をしなければならず、わざわざ疑心暗鬼で監視しなくても、消費者の側から積極的に報告が発生する。 無駄な「監視コスト」(広義での)が省ける。 再共有すれば全額返還されることが分かっているので、購入の動機づけになる。 「このシリーズは好きだから、手続はちょっと面倒でも、ダウンロードして広めるぜ」という自然な力動は、 「ほしければ登録してカネを払え、ただしダウンロードしてもDRM保護されてそこで行き止まりだぞ」「感動しても友達には見せるなよ」という陰湿で不自然なシステムよりずっと良い。
普遍的な善し悪しはともかく、現実問題として、 音楽やマンガは「これいいから聞いてみて」「貸してあげるから読んでみて」といった個人を“酵素”ないし触媒とする連鎖反応で広まることが多かったという事実、 現在のアーティストたちもそうした連鎖のなかで刺激を受けながら育ってきたという事実は無視できない。 こうした「私的な連鎖反応」を禁止すると、長期的にあらゆる創造の低迷をもたらすおそれもある。 そうした過剰な禁止が少なくとも「不自然」であることは、直感的にも明らかなはずだ(特にそうした分野に現に関連している者には)。 プログラムのコードも、マンガも、アニメも、ピアノの演奏も、絵画も、こうしなさいという大手出版社の教科書などではなく、 先輩からの伝授、「資料」と称するまね、先生のお手本の模倣、模写といった現場的な「コピー」に(すべてではないにせよ)相当の基盤を置きながら、 そこからやがて真の独創性が芽生えるのでないか。「私的複製」だから良くて「職場の複製」だから悪い、といったあいまいな線を引くより、 もっと透明に「コピー」は良くて「非コピー」は悪いと線を引いてはどうか。
「コピー(ここでは送信可能化を言う)に課金する」方法では「無断コピー」は防げない。しかし「非コピー(送信不可能化)に課金する」方法では「無断非コピー」は防げる。 「非コピー」を行えば最初に払った一時金が返却されない、返却してほしければ「共有をやめたときに引き落としを行うクレジットカード等」の登録が必要、 というシステムにより、 「非コピー」は無断では行えず、行うときは必ず課金される。どちらにしてもアーティストの収入はトータルではたいして変わらないか、 あるいは中間の無駄が省けるぶん増えるであろう。
アーティストは、いつでも、発表済みの作品の改訂を行える。 オンラインで確保され登録されている流通経路により、作品のバージョンアップが準リアルタイムでネット上の全リソースに反映されるような実装すら可能だ。 特に学術的な論文などの場合、エラータを別途配布するのでなく、誤りが見つかった場合には随時アップデートできることは、実用上メリットが考えられる。 しかしながら、このことは引用の場合の「同一性保持権」のようなものを自己解体させるなど、 さらなる新しい人間精神の変革を要求するかもしれない。それは「作品は生きていて、いつ成長するか分からない」 「あなたが買った瞬間のまま静止しているものではなく、あなたの意思と独立して、自律的に変化する生き物だ」という認識だ。 あなたは作品を所有できない。作品はもはやあなたの奴隷ではない。あなたの日記ページからリンクしたウェブページのようなもので、 何らかの意味であなたの日記の「一部」にかかわっているという意味で「あなたのもの」なのだが、あなただけのものではなく、 あなたの意思と無関係にいつの間にか変化している可能性が常にある。
このことはさらなる議論と関連する — 「作者といえども、みだりに作品を改訂できない」「一度公開した作品は、作者の気分が変わったからといって勝手に消せない」といった主張の是非だ。作品が消費者の奴隷でなくなり、作者の従属物でさえもなくなる。 作者は建設的な改訂を行うことができるべきであろうが、 作者であるというだけで、いつでも無制限に作品を改訂したり削除できるようにすると新システムは正常に機能しなくなることにも、注意しなければならない。 さらに敷衍すると、作者以外の者も同様の資格を持つべきでないか、というあの議論に発展する。 一次作者がAというすばらしいアイデアの作品を公開したとしよう。 ところが一次作者にはこのAをさらにすばらしいBに発展させるちからがない。 もしAが一次作者に従属すると、Bを作れる人がいるのに、Bが生まれない。 また、一次作者には翻訳できなくても、 Aに感激し、ボランティアで翻訳して広めたいファンがいるかもしれない。 こうしたことが、新しい支配関係と支配の制限について、さまざまな新局面を生むであろうことは容易に予想できる。 ただ、こうした問題は、このメモでラフスケッチしている概念の枠組みより、もう少し下位のレベルであって、 必ずしもここでの議論全体とは関係しない。
作品の自動アップデートを無効にして、ある瞬間のスナップショットだけを所有(私物化)したいなら、その代償として、カネを払わなければならない (ただし動的共有は続けながら、共有物の私的複製を非共有で保存することは可能だ)。 あなたは作品の自律的拡散・自律的発展を支持するのをやめたことによって一種のペナルティを課せられるが、 その代わり、その作品を完全に「従来方式で所有」できるようになる。 結局、「流通させないことに対する課金」は従来の意味での販売そのものである。一部のパラメータは変わるが、本質的なトポロジーは変わっていない。
これは例えば、本屋の店員が新刊書を「勝手に」読むことは現在でも実際に可能だ、 汚れや摩滅が少しも発生しなければ基本的に無害である、 というトポロジーを思い切り「引き伸ばした」像だ。 新システムで書店にあたるのは共有されているあなたの記録メディアであり、 書店での本の平均滞留時間にあたるパラメータが、10倍から100倍のオーダーで伸びるだろうが、トポロジーは変わっていない。 そこから「本が消えた」瞬間に金銭の支払いが発生する。
現在でも、流通が止まった場所のエンドユーザが、最終的にコストを負担するのだから、 「非コピー課金」は逆説的に見えて、実は当たり前の現実の自然な拡張・抽象化に過ぎない。 帯域の限界に達すると、新しいものをダウンロードするには古いものを消して支払いをする必要があるという意味で、 時間差の大きいクレジット決済とも言える。 当然、巨視的にはつじつまが合う(物価の上昇・下降は別問題だが、それは単に公定の物価変動係数をシステムに含めれば解決する)。 例えば50年間(今でいう著作権保護期間)共有しきったときは権利を取得する、としてもいい。 長期間共有し続けたコストを計算すれば、最初のダウンロード販売の定価とほぼ等しく、 つまり現在発売元が負担している商品の流通コストを実際に肩代わりしたことになるだろう。
別の角度から言うと、損もないがまったく儲からない店を運営しているようなものだ。 運営コストは非常に小さい。 儲けはゼロな代わり、自分の好む作品を自由に試聴し、利用できる。
このシステムは人間にとってメリットがあるばかりか、情報自身の生存権の確保という意味でも、重要な転機となる。 情報を殺す方向の行動をとる人間は、ペナルティを課せられるからだ。と同時に、帯域が有限である以上、定められた品質で共有を続けられる量には限度があり、 情報が一方的に増殖することもない。 人間と情報の新しい共存の形を示している。
「独占権」という概念を基礎とする「知的財産保護」は失敗する。
ここでは「知的財産」というものがそもそも存在するかどうかは論じない。 それを肯定する人々の立場に立って「知的財産」というものが実質的に存在すると仮定し、 それでもなお失敗に終わることを示す。
(換言すれば、現在の制度で観念されるところの「知的財産」は安定して存在できない。 存在できないものは、存在していない、と言うこともできる。 制度を変更すれば、異なる結論になるから「知的活動の成果に価値を認めること」それ自体を否定しているわけではない。)
クリエーターは「自分の作品から収入や名誉を得られなくなること」「生活に支障をきたすこと」を心配しているにすぎず、 「作品に対する権利」といった抽象的なものについて直接的に心配しているのではない。 今そういう制度になっていて、いろいろ問題もあるが一応機能しているので、 その機能しているのが機能不全になると「自分の作品から収入や名誉を得られなくなる」という結果につながる、 という形で、間接的に心配している。
独占権を設定する、という実装を行わなくても、創作から収入や名声が得られるような他のシステムがあるなら、それでも構わない。
どんな制度も、技術や文明の発展、人間の意識の変化につれて、変化すべき場合がある。 いろいろ問題もあるが一応機能と言ったが、実は「いろいろ問題もある」度合いが最近急激に悪化している。
悪化しているというより、問題点を浮き彫りにするような技術刷新があった、ということだ。 新しい技術的可能性が具体的なものとして見えるようになったため、 もっと良いシステムにシフトしたいという潜在的欲求があちこちで高まっている。
技術者やクリエーターが平和に生活していけるなら、特許権や著作権のような制度などあってもなくてもいい。
作品自体を商品とするのはともかく、作品に対する権利を別の独立した商品とするシステムのため、 中間レイヤのオーバーヘッドによる無駄が発生する。 印税制度を例にとれば、クリエーターの実効収入が作品の市場価値の10分の1程度になってしまう。 他に道がなかったときには、それは不可避のコストであったかもしれない。 「直売」の道が見えてくると、この前提が崩れてくる。今すぐ崩れるというわけではないが、 あちこちで揺れが生じてきている。
あくまで理論上であるが、もしオーバーヘッドをなくせれば、単純計算で、作品は10分の1の価格になって文化が10倍豊かになるか、 または、クリエーターの収入が10倍になって、メジャー指向にこだわらない実験的でおもしろい作品が出やすくなる。
通例、このような独占は利益を目的とする。 ゆえに利益をもたらさない作品は虐待されやすい。
保護期間の長期化は、全ての著作物に対して適用されるため、流通にのっていない廃盤著作物については、そのまま滅失したり、入手がほとんど不可能になっていることもある。著作権の保護期間をのばせばのばすほど、文化的にはマイナスになりかねない面もあると考えている。
より多くの作品を保存し、高速に伝達するテクノロジーを手にしたにもかかわらず、制度的にあえて作品が見殺しにされることを首肯することは、 公益に反し、文化の発展という著作権法の法益にすら反している。
「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。」
岩波文庫の後ろに書いてある、おなじみ「読書子に寄す」の冒頭だ。
「真理は自ら欲し」「芸術は自ら望む」とミムセントリック(作者中心の作品ではなく、作品を中心に人間が回るという考え方)な表現を使ったところが、 今見ても斬新だが、 まさにそのとおり。 優れた作品・技術・発見などは、人類共通の財産であり、本来的に広がるべきものだ。
優れた発明や美、特に情報や技術のように共有できる性質のものを、あえて独占し、囲い込むことは、普遍的な道徳律に反している。
「大道廃れて仁義あり」とはこのことだ。普遍的な原理に反することを推し進めようとするから、嘘に嘘を重ねるような、 わけの分からない小手先の「改正」を毎年重ねるはめになり、 「不正である」「違反である」「侵害である」と小難しい仁義を説く。
真・善・美の意識、 その実現としての成果・作品は、 国境を越え、世代を超え、万人によって共有され、享受されるべきものである、という大道をまず踏まえて、それに対する「例外的措置」「過渡的措置」としての限定的独占を認める認めない、 という話になるのが筋であるのに、そこが逆転してしまっている。大事と小事を逆にすれば、結局失敗に帰するのは理の当然だ。
知的財産権は土地だ。
地上げ屋は、その土地をそもそも持っていた地主から土地を安く買い上げ、 流通経路に対する独占力を利用して、値段をつり上げた。
流通経路の独占が崩れると、バブルは崩壊した。
例えば、この曲の権利を500万円でなら売っていい、という音楽家がいたとしよう。 他方、この曲を5000円で買いたいというあなたがいる。 そういう人が1万人いれば、5000万円で売れる。 そこで地上げ屋は、500万円で買い上げた音楽を5000万円で売る。
この虚業が成立するためには、仲介屋は、 音楽家とあなたを直接引き合わせることを回避しなければならない。 音楽家とあなたが直接取引できてしまうと、話が変わってしまう。
現実の実装はここまで図式的に単純ではないが、本質はそういうことだ。
そこで音楽家が試しに1000円でいいですよ、と言ったとする。 あなたが大ファンであるところのミュージシャン、これまで5000円払って曲を買っていた相手が、 1000円でいい、と言ってくれたら、こんなにすごいことはない。
仮定により5000円でも買うファンは1万人いるのだから、 1000円で売っても、1000万円の売り上げになる。 ファンが支払う額はぐっと格安になり、ミュージシャンの収入は何と倍増する。 しかも5000円なら買わないけれど1000円なら買う客もいるに違いない。 逆に言えばもっと安くしてもミュージシャンは困らない。
こうして、著作権バブルがはじけると、5000円の値段で売買されていた音楽が500円になるが、 バブルであぶく銭を稼いでいた者が損をするだけで、 消費者も音楽家も損はしない。本来の実質的市場価格になっただけだ。
恐らく現在もっと悲惨なのはアニメだ。その末端の製作現場の平均的な極貧さと、 何億円産業とか何兆円産業とか言っているバブリーさのギャップは、必ずどこかでいつか破綻する。 バブル自体が構造的にはじけなくても、ぶっちゃけ、現場の人間が飢え死にする。 アニメで特に虚業規模と実質の落差が大きいのはなぜか。 何か巨悪があるというわけではなく、 最初の地主・手塚がまずい初期設定で取引を開始して、 前例を作ってしまったせいだとも言われている。
別の意味で過酷なのはソフト開発の現場だ。 コンピュータの時代になり、プログラマーがいなければ何も始まらない事態になっているのに、 その肝心のプログラマーが一般には悲惨な立場にいる。 アニメの製作現場と違って収入は高く、飢え死にはしないが、それでも死ぬ。狂う。壊れる。 どっちの死に方がより悲惨なのか分からない。 手塚のアニメに対するマニアックな愛がヒルたちをはびこらせたように、 プログラミングの場合も、問題の根源は、それでもコードを書くのがおもしろくておもしろくて仕方がない、 仕事としての締め切り・人間関係・仕様書の変更などがなければ、 本質的にプログラミング自体は大好きだという現場の人間の愛と情熱だ。
マニアックな情熱というのは値段がつけにくく、本人もその実質的な経済価値を把握しづらい。 金ではなく愛が原動力なので、そこそこ食っていける限りにおいて、自分の仕事の値段に第一義的な興味を持たない。 そんなことより創作自体がおもしろくて、おもしろくて仕方ない。 そこにバブル産業のつけいる隙がある。 付け加えるなら、漫画やアニメの場合は、マニアックな情熱は消費者側の判断をも鈍らせ、 作品に感動したあまり、くずのような関連グッズをばかげた値段で買ってしまう。 仲介者の両端ともあぶくであり、仲介者はまさに濡れ手にアワだ。
繰り返すが、これらは実際にはそれほど単純な図式ではない。 歴史的な複雑なしがらみに加えて、個別的には多くの例外や考慮事項があるだろう。 それでも、これらの問題のかなりの部分は、 製作・流通・消費・フィードバックのシステムを近代的に整理できれば、 相当に軽減される。
「知財制度」が失敗する三つの理由を指摘した。
失敗するとすれば、そのとき起きるのは、知財バブルの崩壊であり、 ネズミのたとえの結末だ。