胎児が結合双生児と分かった場合、中絶する親が少なくないという。原則として出産者が子を養育する時代と地域においては、重い障害をもった子が産まれたら育児がめんどうという論点もあるだろう。また、生まれてこないほうがその子のためなのだ、という深慮もあるかもしれない。
結合双生児は、その身体構造上、骨格や臓器に弱点がある場合が多いが、そのような問題が少なく、長生きする例もある。
その親は、ある国からイギリスにやってきて、今年の8月8日に結合双生児を出産した。それだけではニュース性にとぼしい。そう、我々の精神の娯楽のためには「死」というドラマが必要だが、ただ赤ん坊が死んだとか死にかけてるというだけでは部外者の興味を引きにくい。というわけで、これも、分離手術ねた。ひとつの心臓を共有しているので分離すれば一方が死んでしまう(埋め込み可能な人工心臓が実用化されていないという時代背景を理解してほしい)。それだけでは、まだ我々のハイエナ精神が満たされない。そう、分離手術をしなければ半年以内にふたりとも死んでしまうという神のお告げ、もとい医師の診断、これで舞台設定は万全。
さしあたっては人間の文脈にあわせて視覚的描写をはさもう。人間さんはリンゴの絵がないと足し算も引き算もできない……。ジョディー(仮名)は明るく活発な赤ちゃん。分離手術が成功すれば、健康な一生をおくれる可能性がある。お母さんが話しかけると、にっこりほほえむが、ほほえみながらも苦しそうにあえぎつづけている。ジョディーの肺と心臓は、ふたりぶんの酸素と血液を循環させなければならないので、つねに全力疾走しているような状態だ。ジョディーにくっついているメリー(仮名)のほうは、脳障害があるらしく、ほとんど反応もない。血流も呼吸もジョディーに依存している。ジョディーにくっついているから命がつながっている。切り離せば、確実に死ぬ。だが切り離さなければ、よくもっても数か月。であるから、「切り離せ」とはメリーを殺せ、「切り離すな」とはジョディーを殺せ、と、等価である。
フフ、おもしろくなってきましたか?
ここで画像を挿入しておく。といっても、この記事とは、まるで無関係。アフガニスタンの首都カブールの風景。大国のおもわくに翻弄され、破壊されつくしている。飲み水にもことかくこの国に敷設された一千万個の地雷のでどころは、どこだろう。地雷による死者だけで毎年8000人、簡単な予防接種で防げるはずのポリオで多数の子が死ぬ。
対人地雷に関しては、アンゴラもすさまじい。地雷を踏むとき、連れがいたらラッキーだという。ひとりで歩いてるとき踏むと、動けなくなって終わりだからだとか。
では平和なイギリスの「尊い命」のお話に戻りましょう。ふたり死ぬまま「自然」にまかせるのが正しいか、それとも、ジョディーだけでも助けるべきで、そのためにはメリーを殺すのも可か。
医師は、ひとりでも助けるべきだ(分離手術を行うべきだ)と考えた。が、親は、宗教上の理由からそれに反対。前回この同じネタで世界の先進国に知的パズルを提供してくれたペルー人の場合、親も手術に賛成していたので比較的に単純だった。今回は、もっとおもしろい。いわく「子どもの命を決めるのは医者ではなく神さまです。ふたりともわたしの子です。どうしてひとりを助けるためにひとりを殺せましょう」……それが人間のドラマの始まり。医師は裁判所に訴えた。「親の意思に反してでも、手術を実施する許可をください」医師には医師の倫理があるのだろう。手術すれば助かるかもしれない子をみすみす死なせては、寝覚めが悪い。かりに死ぬとしても最善は尽くしたい。とはいえ、あとで訴えられたりしては困る。なにしろ完全に予見可能な殺人で、この時代のイギリスでは、殺人は重罪に問われるおそれがあるのだ。
裁判所は「執刀すべし」と判定したが親は控訴。他方、ローマ教皇庁は、親のほうが正しいとして、イタリアに「safe haven」を提供しようと申し出た。メスを振り回す「悪魔の手先」からふたりを守り、安全に死なせてあげる場所、ということ。詩的にいえば、安全な天国に保護して「神の国への転移(ポア)」をさせましょう、と。
医師は執刀が正しいと考える。だが、社会において殺人罪に問われるリスクをおかしてまで、個人的な信仰に従うつもりは、ないらしい。医師がおうかがいをたてた神殿は裁判所だ。個人主義的な観点に立てば、医師は「司法等のきちんとした手続きを踏むのが正しい」と判断した、と描写できる。
いっぽう親は自然にまかせて死なすのが正しいと考える。難産になりそうだから、と、わざわざ海をわたってイギリスの病院まで来るところがすでに不自然といえば不自然で、自然出産で親子とも死んでおれば自然だったと思う人々もいるかもしれない。ちょっと昔なら実際そうなったでしょう。が、テクノロジーの発達に伴い、どこまでのテクノロジーが「常識」の範囲かは移ろってゆく。言い換えれば、宗教的/倫理的な意味での、社会の規範の推移にしたがう。火を使うとか、畑を作るとか、魚を養殖することに反対する人は少ないが、原子力を使うとか、遺伝子地図を作るとか、人工知能が支配することには、まだ抵抗があるかもしれない。
「鉄のかたまりに乗って空を飛ぶなど、神のご意志に反すること」とか「脳死移植は良くない」とか、まぁ、人間には、その時代に応じたいろいろな信仰があるのだろう。
人は社会の信仰に反してまで自己主張することを避ける傾向にある。双子のひとりでも救え、とか(前回のペルー人は、それが神の意志だと考えていたが)、それは神の意志に反する、とか、いずれにせよ我々の常識にそっている。これに反して「そんな赤ん坊は殺してつくだににして食べてしまおう」などといえば、我々の社会では非常識扱いされるであろう。たとえスターリンの粛正下では、それが生きるためのぎりぎりの選択だったかもしれないにしても。
そして、その社会において許された信仰の範囲では容易に行動するし、また信仰が行動を強めるかもしれない。「子どもを産むだけのために地球を半周する」とか「超微細針で卵子に精子を注入する」とか「輸血をする」だとか、いろいろテクノロジーは、あり、宗教的な好みもあるでしょう。
子どものころから「神さま」の話など一度も聞かずに育てば、またべつだろうが、人間は「神さま」なるものを夢想するのが好きらしい。実際、実用的にもべんりなのだ。「わたしは、ふたりを死なすことが正しいと感じる」と明言するのは、「神さまのご意志は、これこれだと思います」と言うより、はるかに勇気がいる。ある意味、「神」は議論をやわらげるための一種のていねい語だが、議論をやわらげるとは論点をあいまいにすることでもある。神さまの名を出せば、殺人だってできちゃうかもしれないが、そもそも殺人がいけないというのも「神の教え」なのだから、変な話だ。自分の直感でなく教典や宗教的指導者に従っておけば、たしかに、あとで後悔するリスクが小さいのかもしれないし、あるいは、もはや個人の直感と教典の教えが渾然一体となった人生もあるかもしれない。
宗教は、弱い人間を強くする。わたしたちは、その時代に応じた人間の固有の文化を尊重すべきで、無理やり人間から宗教をとりあげるような否定の仕方は、ふさわしくない。魚をなまで食べたりクジラを食べるのが「野蛮」だとか、茶碗を手にもって食事するのが「下品きわまる」とかいうのは、すべて人間の習慣で人間の習慣を測っているにすぎない。
不妊治療そのものを全否定する立場もあるが、話を進めるために、ここでは人工授精をすでに与えらた手段であると考える。そのさい、元気な子が産まれる可能性が最も高くなるようにするのは、治療の目的からしても当然のことだろう。何らかの異常が認められる卵子や精子をわざと用いるのは、よほど特殊な研究目的でもない限り、まずない。感傷が強い人は、ここに潜在的な殺人 —— 優良児だけを生かし不良児を殺す —— を感じるかもしれないが、一般の認識としては、精子や卵子のいちいちに人格があるとは考えないだろう。
「意思」を重視する立場にも、ほころびがある。受精卵のたぐいに意思はないと考えるだろうし、胎児どころか、生後まもない今回のシャム双生児にも、自発的な意思はないと考えるだろう。実際、占有物は占有者である親の意思の支配下にある。子どもにも権利がある、という理念と、実際には充分な意思表示能力がないという現実のギャップの処理は、かなり技巧的になるだろう。例えば「子の保護者は子の権利を代行する」などと理屈をつけることも可能かもしれない。保護者という虐待者もいるかもしれないけれど。
でも、実際の議論は、人間おとくいの「擬人化」だ。ジョディーには殺されない権利があるだの、じゃあメリーちゃんは黙って死にたいというのか、手術すれば生きられるかもしれないのに、とか、いろいろ意見はあろう。そうまでして生きても、つまらないだの、わたしがジョディーだったらメリーに命をあげるだの考えて、自分の想像に感動するのも人の自由というべきだ。が、実際には、生きたいとか死にたいという意思の主体が存在していないことに注意すべきかもしれない。
だからといって、占有者である親にすべての決定権があるわけでもなく、主治医とてめぐりあわせで隣人となったからには、なるべく自分の気が済むようにしたいと思うだろう。
「意思」ないし「主体」という観念を前提にする場合、死ぬことと死なせること、生きることと生かすことは異なるが、人間には「当事者の身になって」あれこれ考えるという性質があるので、足を踏むにせよ踏まれたほうは痛いだろうな、と考えてしまう。たとえそれが単に「自分は踏まれたらイヤだ」という意識の反映にすぎないにしても。
各項目の前者を生かすために後者を殺すことについて。
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