貴重、貴重といっても、どこがどう貴重なのか説明できない、受け売りの知識さえ持たないとは、自分で、いかに自分がからっぽかと思わないだろうか。あれは非常に古いから貴重だとか大きいから貴重というのでなくて、例えばバーミヤンの仏像がある天井にペガサス(ギリシャ神話の羽のはえた馬)の絵があるというウワサとか、そういうホントにおもしろい話は報じられたのか。
古代ギリシャの彫刻家が、例えば、白花石膏かなにかで真っ白い肌のアフロディーテ(ビーナス)像をつくり、「ポイキロットロ・ナタナ・タプロディータ」といったサッポーの詩をささげたりしたかもしれない、その彫刻の美の形式が世界中に広まり —— といっても古代社会で —— 、中東を越えて、砂漠を越えて、はるかアフガニスタンでもその美が認められ、今は名も知られない芸術家たちの手によって、同じようなものが作られ、さらには、仏教美術とまで混合するとは、これはギリシャの美術家自身は想像もしなかったところであり、まさに芸術のミムセントリックな本質をあらわしている。
前にもちょっと書いたが、アフガニスタンの先イスラム美術の独自性は、東洋的な仏教美術でありながら、いわゆる「ギリシャ彫刻」のような(ギリシャやローマの神殿のような)西洋様式 —— つまりヨーロッパのキリスト教美術と同じ源流、同じテイスト —— を含み、両者が共存していること、時期にもよるが、その混ざり方のおもしろさだろう。
ある場合には、典型的な仏教芸術のなかにギリシャ的な要素がわずかに入っている程度だが、ある場合には、ギリシャ神殿ふうの形式やギリシャ彫刻の形式(例えばマテリアルとして石膏)をとって、仏教的なものが表現される。さらには、「これはギリシャで出土しました」と言われても専門家以外には、そうとしか思えないような、ギリシャ神話の神々(アテナとかヘルメスとか)の像まで出土しているという(たぶん専門的にみれば、わずかに東洋様式の影響が入っているのだろう)。
言うまでもなく、これは、いわゆるシルクロードをはじめとする東西交流の結果であって、ローマとペキンのほぼ中間にアフガニスタンがあることを知れば、この地点の美術への興味も深まろう。ご存知のように、ギリシャ的モチーフは、この中間地点を越え中国にいたり、さらに海を渡って東の果てジパングの島まであえかに伝わり、れいの薬師寺・三尊(さんぞん)像の台座の模様を生んだわけで、みなさんは、修学旅行で奈良に行くとき、夜、枕投げをしたりは当然として、あらかじめギリシャ神話な彫刻の写真集とかでちょっと目をこやしてからいくと、「おおおおおお、こ、これは。仏像なのに、なんでブドウの模様が?これは、つまり、はるばるギリシャのバッカスがこんな極東まで伝わったのか? どれだけの距離、どれだけの人々の手を経て? どれだけの時間を経て?」とかなんとか、いろいろ楽しく驚くことができるのである。
そんなわけだから、アフガニスタンは、ふたつの世界 —— 東方と西方 —— のちょうど接触する中間点、界面なのであって、日本人のロジックに翻訳すれば「我々のアジア文化圏と外国の文化圏とが、ちょうど拮抗(きっこう)して、微妙にせめぎあい、美しいハーフたちを生んだ地」なのだ。ある意味、まさに妖精現実の、わたしの象徴なのである。以上のような事情があればこそ、その「あいのこ」のような美術品は、大げさに言えば、象徴的な意味で自分の分身のようにいとしいものであって、はっきり言って、わたし自身は、それが壊されてもいいけれど、あなたがたアフガン美術のイロハのイも知らない人々が、文化を守れと称しつつ、その文化の重み、いかなる意義があるかを少しも知ろうとせず、ただただ「仏像だから壊していけない」といった、なんとも浅薄な、ほとんど思考停止に等しい主張でくだをまくのは、かたわら痛いのである。
なんか、おとなっぽい文体で書こうとしてるんだけど、かえって厨房な文体になるなぁ。やっぱ、なぁとか言いながら書くのが素直な自分なのかな(微笑)。それはともかく、アフガン問題の政治的複雑さについては、もう語り尽くしたし、おおむね認識されたと思う。政治的思惑から反タリバン宣伝にうつつをぬかす人々に躍らされるばかりでなく、もう少し多角的な見方がなされるようになったと思う。ので、今度は一転して、いままでみなさんがさんざん叫びながら、ほとんどだれも本当には叫んでいなかった「あれは貴重な美術品なのだ」という話をしてみた。仏像のうえにペガサスが飛んでるなんて、おもしろいじゃん。「セクト主義?」の現在だったら、少なくとも正統的な意味で、キリスト教美術を制作する人が仏教の様式をとりいれたり、その逆をやったりの融合は、ありえないでしょう。仏教の神話世界と、ギリシャ神話の世界が、制作した当時の美術家たちのこころのなかで、なんのふしぎもなく連続していたらしい、という、その「人間の探求」的なおもしろさがあるのでは、ないでしょうか。
うむ、どうも文体がイマイチ定まらないが、言いたいことは通じたと思う。なお、ここに書いてあるロジックを受け売りして、別の掲示板で「あの美術はこれこれの深い意味で貴重なのだからそれを壊すタリバンとは」などと、わざわざ火に油をそそぐことはご遠慮いただきたい。もう壊れちまったものは仕方ない。べたべたしつこく執着せずに、たんたんと行きましょう。
次の公案では、ふたつの様式をまぜてみた。自分はふつうの意味では「仏教徒」でも「イスラム教徒」でもないから、詩の立場からふたつの様式を連続させられる。前半の説明からお分かりのように、これはアフガニスタン美術への、うたによる、オマージュである。その真意をご賢察いただきたいところだが、ハッキリいって、こういうふうに書くと、対立する両者を仲裁するどころか、「どちらの教徒からみても激しく異端」になってしまって、身があぶないかもしれない。ま、しかし歌うたいとは、そういうもの。宗教家は殉教するかもしれないが、ひとつの宗教の信者である限り二重に殉教することは、できない。仏教への真摯な思いゆえに仏教徒に迫害され、しかも同時にイスラム教への真摯な思いゆえにイスラム教徒にも迫害され、二重、三重、五重、八重……(フィボナッチ数列)に受難したり、へこむ思いをするかもしれないが、これは「両方、信じてる」とか「両方、大切に思う」とか、そういう思想の話じゃなく、まさに、仏像のうえにペガサスを飛ばせてしまう(良く言えば)無邪気、(悪く言えば)放恣(ほうし)なイマジネーション、幼稚さないし純真さ —— 例えばシャガールの馬と同じく —— なのであって、格言的にまとめれば、「詩人は、ただみずからの内なる純真だけを信じることにより、あらゆる宗教から異端とされる」といったところでしょうか(かなりテキトーなまとめ。なので話半分と思ってください)。
この名もなき者が、ここでふと考えつき思いついたモチーフが、実に三千年後の、なんだか想像もつかないマルティメディア芸術を縁の下でささえる台座のひとつの模様にでもなるとしたら、なかなか楽しいが、そんなことはミームの勝手。「鳥は歌うことを知っている」のだ。
せんせんと流れる水とは何か。現実とシステムのあいだに立って、動的にみずから感じ、決定するちから。よどんだ水とは何か。古いシステムと現実のおりあいに悩んだすえ、「こう考えてここまではよろしい」という解釈についての教えにすがり、記憶する頭。我らのこの公案は何ぞや。この公案を信じる者は決して救われぬという月並みな断言。この公案に感動し、真実をかいま見たと思う者は、真実でない、と我らは説く。
言ってやるがいい。「何たる愚か者よ、あんなに預言者を敬愛すると称し、その受難をいたむと称しつつ、いざ自分のもとに知らせが来てもそれと気づかぬばかりか、砂をかけて追い返す」と。「人の目には不思議に思えることも起こせるのだ。最後に消えたものが消えてないこともあろう。まして永遠の真理が再び語られることに何の不思議があるのか、杉の丸太ん棒のように、どこにでもごろごろ転がっているのに」と。
言ってやるがいい。「お前の目がいま見ているものは何なのか考えないのか。世界の主催者を信じると称するペテン師どもめ、この世界にしるしでない事はないという事が分からぬか、すべてにかの意志が働いていればこそ、すべてはお前へのメッセージではないか。お前の信じる偉大なるお方は、石くれや花びらや虫けらやお前が敵と呼ぶ相手を通してさえ、お前に語ることがおできになるのだ。見ていないというなら許されもしよう。お前の目がいま見ているものを見たからには、『何も置かれていませんでした』とは言えまいぞ」と。
言ってやるがいい。「かの日には、お前に問うぞ。『あのとき、あのバカな妖精詩人のくちを通して、我らがお前の前に置いてやったあの贈り物を、お前はどうしたのだ』と。そのときお前は我らの贈り物を粗末にした罰で業火に焼かれ、ぎゃふんぎゃふんと悲鳴を上げながら歯ぎしりして後悔するだろう。『あのときそうと薄々分かっていながら、ちっぽけな人間の心から愚かなことをしてしまったものだよ。しかしあの詩人は、これは冗談だと言っていたのに。私は至高の聖典というものは唯一無二と信じていたのに』。そんな言い訳ができぬよう、いま前もってこうして言っているのだ。『聞け。かの方は全能なるお方、そうしたいと思えば、いつでも、化学調味料からでも名無し象の鼻からでも、いくらでも聖典など作れるのだ。こころをひらいて野の花を見よ、それこそ、まことかの方が手ずからお記しになった啓示。お前は我らが、預言者の手を借りて記した物を信じると言うなら、まして我らが直接、記したものをあに信ぜざらんや』」と。
そもさん —— 神を信じないと断言して目をつむる者と、神を完全に信じると公言してしっかと目をひらきつつ正しい道を見ない者とでは、どちらが義とされるか? せっぱ —— 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
言ってやるがいい。「阿弥陀仏(あみだぶつ)は、お前たちの尊い像を破壊した悪人たちのためにこそおわします。お前たち善人のものではないぞ。善人め、他人の持ち物に執着するとは何の理ぞや」と。