Primrose(妖精現実の姉妹サイトのひとつ)の掲示板「妖精の間」への投稿で、下の「マンガや本との出会い方」の続編みたいになってます。ほかにフィンランドのサウナの話も書いていますが、ここではアルフヘイムねたのみ抜粋引用します ——
リーデさん、ほか、みなさん、こんにちは。
自分は、いま妖精国を読み返しています。
赤い河も楽しんでいますが、赤い河を読んでいたら、
なんというか、どうしても、また・・・
アルフヘイムの深さ。
至純の光であると同時に激しい闇、氷のような憎悪であるローゼリー。
読者が共感(親しみ)をいだくことさえゆるさない一線のむこうにある、
「中山星香先生が自分自身のためだけにえがいた世界」・・・。
とくに1~4巻くらいの(ほかにもありますが)冒頭部分のほとばしりと
名言、名場面には、涙うるうるです(;。;)
そして、ちょっと関係ないんですけど
「出会うことになっている作品(本)なら、だれから紹介してもらわなくても、
必ず自分でいつか出会う」って気がするんです☆彡
ちょっと「エイリエルとエアリアン」の発想に似てますが^^;
(8巻143ページ)
mionさん、こんにちわ。
「妖精国」では、緑の妖精王や、モンノックの王妃の言葉にははっとさせられるものが多いように思えます。
妖精王の言葉は…
わたしたちがどこかで見落としている真実―または故意に目をつぶろうとしている真実―を言い当てているからこそ、あれだけ重く響くのかもしれませんね。
まさにプロローグにあった「花は最初からそこにある…云々…」の言葉そのものです。
もしかするとこのこともまた、「妖精国」の作品そのものが持つ主題のひとつなのかもしれませんね。
モンノックの王妃については…
実をいうと、あの王妃さま像は「わたしが年齢を重ねた時になれる女性像が選べるならば、あんなかんじがいいかな?」というイメージのひとつだったりするんですよね(多分、シェンへの「無力でいるのが…云々…」というメッセージ以降、こうした見方になっているのかも…)♪
そうしたことがあるからこそ、幼い頃から無意識に母の影響を受けていたであろうシルフィニール王女が、あれだけすてきな成長を見せているのかな?とも思えてしまいます。
投稿のつづきです。「千種類の花には千種類の美しさ」というのは、ご存知のかたも多いと思いますが、自分がよく使うたとえで、イタリア語の「ミルフィオーリ」ということばに触発されて思いついたものでした。
リーデさん&みなさん、こんにちは、mionです。
Proたま@Knightさま、コメントありがとうござます。
美子ちゃんは、自分は、直接は見てないんですが、中山星香ファンのFAQ(?)になってるみたいで、本人はイヤでイヤで仕方なかったそうです。でも、妖精国の筆の軽やかなほとばしりをみるとき、中山先生が商業誌で不本意なテーマなどでも書いてきたそのすべての修練が、結局、「慣れ」として、あの一点に収束しているような気がして、すべてはムダじゃない、っていう気がするんです。
また篠原千絵さんですが、自分は中学時代たまたま「闇のパープルアイ」を読んで(よく分からないのですが、当時連載中だったというより、たまたま単行本を借りたのだったか、、、記憶があいまい)すごく怖い印象をもった記憶があるんです。人の心理の奥を鋭くえがけるちからを持った作家さんじゃないでしょうか。ですから、天河も、たぶん、RPGふうに大きなイベントが定期的に起きるのは、多少、篠原先生からみても本意じゃなしに編集部とかの要望もあると思うんです(もちろんストーリーテラーとして、それすらもスリリングにドラマチックにえがいておられますが!) 天河もエポックでしょうが、まだまだもっと凄い世界を秘めた作家さんだと思うんですね。
で、千種類の花に千種類の美しさがあるように、どの作品にも魅力があるように自分には思われます^^
妖精国の「花は常にそこにある。人が見ないだけだ」は、「真なるものと芯なるものに満ちて」いるセリフのひとつだと思います。
松尾芭蕉の「見るところ 花にあらざるは なし」とか、般若心経の頭の3文字「観自在(かんじざい=自在に観る)」すら連想してしまいます~
「妖精国」は、mionさんも仰言るように、「本当にこの作品にすべてを賭けているんだなぁ…」というものを感じさせますね。
わたしがこの作品に触れて、改めてその思い入れの深さを垣間見たと感じたと時にふと思ったのは、「これだけの大作が生まれるには、これだけの時間がどうしても必要だったんだなぁ…」ということでした。
あれだけ壮麗な物語を実際に形にしていくにあたっては、絵や(形にするうえでの)構成の修練などにも、最初に中山さんがローゼリィ姫と出会ってから、実際に「妖精国」の執筆に入るまでの間に培う必要があったのでしょう。
そうした意味でも「時が完全に満ちて」いたわけですね。
そして。
思い返せば、「妖精国」が世に出た頃は、日本がFTブームの波にゆられ、天使や妖精といった存在が市民権を得ていた時代…
小説は勿論、コミック方面でも必然的に「軽い感覚で見る」というものよりも「世界そのものを読む」という形の物語が求められていた時代だったと思うんです。
ある意味、「あの時だったからこそ、”妖精国”はこのような形で世に出ることが叶い、そして今なおその世界を育てている」ともいえるように思えてしまうのです。
発表されるのがもう少し前であっても、もうちょっと後であっても、多分現在の形は大きく損なわれるような気がしてならないんです…
まさにいろいろな意味で「運命的」といえる作品…ですね。
そう思うと、天はすべての本当の思いを見透かして、それぞれに相応しい運命を用意しているんだなぁ…と思わずにいられなくなってしまいますね。
どんな意味においても。
わたしが篠原さんの作品に出会ったのは、この「赤い河」が初めてだったりしますが、手にしてみて「もしやすごい作家さんなのでは?」と思いました。
だからこそ…
余計に「ノリとスピート感重視のRRG的展開にだけはなってほしくない作品」と思うようになっていったのでしょう。
創作物というものは、ある意味、作者の魂を分けたもの…ですよね。
文学、芸術、古い時代の遺物…
ジャンルを問わず、そうしたものに触れて、時折自分でも驚くほどの強い印象(衝撃という方がいいでしょうか?)に不意に出会った時などは、そのことを実感せずにいられなくなります。
以上、リーデさんと自分のカキコの一部を引用しましたが、このおしゃべりは、これで終わったわけじゃなく、まだ続いてます(妖精の間参照)。「冒険に終わりがあるのだろうか。わたしは、ないと思う。だれかが物語を続けなければならないのだ。」
参考までに、erehwon の掲示板に自分が書いたカキコも一部、引用しておきます。妖精現実のミール・エア・リーデ美術館についてのやりとりの一部‥‥
愛さん、こんにちは。
リーデさんの作品は、いっけんなにげないイラストのように見えながら
深いテーマ性や象徴性、寓意性を秘めてるところ、
そしてまた、プロならではの服飾の細部の描き方などが
魅力だと思っております。
また愛さんご自身も、ユニークな美の世界をお持ちのかたと
お見受けいたします。
ものをつくる者は、たぶんみな、本当には他人に見せない
自分の堅固な「確信」のようなものを持っていて、
象徴的にいえば、それが“妖精とのまじわり”なのかも
しれません‥‥