鳥には鳥のなまえがあるだろうか —— 人間が鳥につけたなまえは、鳥のなまえでない。「鳥」ですら。
—— ミムナ・エレウェモス
仮定の話をしてみましょう。これは、現時点においては、ひとつの仮定であり仮想ですが、もしかすると、ある時代、ある社会においては、当たり前の現実なのかもしれません。
さて、ネットの世界を、それ自体で独立した、自己完結的なものとみなすとき、その理念は「共有」でしょう。ネット上のあらゆるもの —— 情報(学術、趣味、娯楽などの)、ソフト、電子化されている芸術作品などを、だれもが等しく利用できる、ということは、単純に考えれば、たしかにひとつの理想に見えます。ここで「共有する」というのは、決して「無料でダウンロードして楽しむ。利用する」というばかりでなく、そうしたければ自分も発信できるということ、しかも、そうしたければ、ダウンロードしたものを加工改変して再発信することができる、ということを指します。
もちろん、一般的にいえば、ネット上にあるすぐれた情報やソフトを、しろうとが思いつきで加工改変すれば、かえって「価値」がさがるかもしれません —— 価値が「破壊」されたり、「不正確」な情報になったりするかもしれません。けれど、従来の情報や着想をもとに、それをさらに「すぐれた」ものに高めてゆけることもあるでしょう。また、加工といっても、ほんのちょっと自分の感想をつけくわえるくらいで、ほとんど「原文」のまま再発信することもあるでしょうが、この場合、「価値」は、とくに増えも減りもせず、単に情報の流通に役立つということになるかもしれません。
もし仮にこれがネットのあるべき理想像だとして、従来の社会がそういう世界へと移行してゆくとするなら、その過渡期には、次のような大きな変化が生じ、個人ごとなどの意識の変化の速度の違いから、認識の食い違いや、それによるいさかいが生じるでしょう。
以上は、もしネットが自己完結的な独立した世界であったらの話です。現状、実際のインターネットは(上記のような理念で動いてる部分も確かにあるけれど)昔ながらの物理世界と非常に複雑に結びついています。
ネットが物理層にささえられている、という点は本質的では、ありません。「人間の精神活動が呼吸や血液の循環にささえられているという」見方が、ふつうは必要ないのと同じことです —— 何層かのレイヤを通じて結局は結びついているのですが、酸素や二酸化炭素やヘモグロビンが思想を媒介するのでないのと同じくらい、光ファイバーやケーブルといった物理層は、ネットの世界の現れと「直接には無関係」です。 —— 古いタイプのネット批判は、「コンピュータに頼りすぎるとネットの物理層が故障したときに大変なことになる」というようなもので、これはこれで大切な観点ですが、以下で注目するのは、この界面(冗長性、フールセーフ、エラーからの自律的回復……)ではなく、「個人としての人間存在」と、「ネットの“共有”がまねく個人の透明化」とのかねあいの問題です。
例えば ——
これらのことは、いくつかの観点からみることができます。ひとつは、在来のいわゆる「現実」世界では、リソース(財産)が有限で、共有でも平等でもないということ —— 必ずしも、それが悪いという意味じゃないのですが、事実として、この点がネットの世界の理念と異なるので、ネットの論理と在来世界の論理が接触する界面(例えばクレジットカードによるオンラインショッピングで物理世界のモノの所有権なり支配権が動く局面)では、難しい問題が発生します —— 。
「新世界において放っておくと自然に絶滅してしまう古いタイプの論理」を —— どうせ遅かれ早かれ滅ぶとしても —— 過渡的措置として、しばらくは保護することが必要になるかもしれません。「著作権」も、まさに、そのような「絶滅寸前の古代の信仰」のように思われます。
従来の「現実」世界で、人間の個別性が残っている以上、ある個別の人間への興味が存在し、「プライバシー」も、依然、存続しますが、他方において、情報が容易に高速に共有されるようになればなるほど、さしあたっては、いっそう強力な手段でプライバシーを「保護」する必要を感じるかもしれません(このことは強力な公開鍵暗号系の必要性と関連づけられます)。
ここでふたつのことに注意しないといけません。第一に「人間の個別性が依然として残っている」ことを指摘するのは、決して、人間が個性的であってはならないという全体主義じゃなく、その正反対に、他人の個性に対して関心を持つべきでない、という意味で、徹底した反全体主義をはらんでいます。しかも、ここで「反全体主義」というのは、「みんなが同じでなければいけない」という全体主義への単純なアンティテーゼですらなく、すでに述べたように、媒介にすぎない人間自体への無頓着 —— 「みんなが同じか、それとも個性豊か?」ということ自体に関心を持たないという二重の無頓着 —— です。体内のさまざまな酵素は、みな異なる独特の働きをもっているのでしょうし、だからこそ身体がうまく機能するのでしょうが、身体の側では、べつにひとつひとつの酵素について詳細な関心を持つ必要などないからです。そして、第二点として、そのような「個の透明化」が「好ましい」のかどうか、は、またべつの哲学的問題でしょう。
少なくとも、従来の価値観で生きている人々にとって、とりわけ「個人の尊厳の喪失」などという言葉遣いを用いれば、とんでもないことに思われるでしょう。あるいは、思想として理解できても実感できないでしょう。でも、これは将来、起こりうべき世界観の変化の話であって、いますぐ“革命”を起こそうなどというわけじゃないので、その点は、どうでもいいのです。また、この文章を書きとめている者自身が、そうなることを望んでいるわけでも望んでいないわけでもありません。
さて、個人の「変」な性格への無頓着(とくに積極的に尊重しない)ということが、結局は「みんな同じでなければいけない」という全体主義になるのではないか、とのうたがいがあるかもしれません。つまり「個性的である権利を積極的に保護しない限り、本当に個性的に生きられないのでは?」と思われるかもしれません。 —— これは一理あるように見えるかもしれませんが、じつは二重に錯覚です。第一に、「約束を取り決めて意図的に保護しあわなければ確保できない権利」というのは、本質的には保護されておらず、つねにおびやかされているからです。例えば「キリスト教徒を差別してはならない」とか「女性に男性と平等の地位を保障しなければならない」という法律があるとしたら、そのこと自体が(過渡期においては必要な良いことであるとしても)結局は、無意識の問題が解決していないなによりの証拠でしょう。わたしたちは「思想、良心、信条の自由は、これを侵してはならない」などという法があることそれ自体を、「古代のくるしみ」だと感じているからです。
第二に、これは「政府による思想の検閲の問題」などとも関連しますけれど、もし仮にここで考えているような「ネットの論理」が新しい世界観の基礎となるなら —— これは仮定ですが —— 、その世界では、そもそも中央集権的な政府など存在しないことになります。「検閲をしては、ならない」とかいう以前に、検閲を行う当局が存在しないわけです(対等な分散系なので)。要するに「個性的に生きる権利」を保護するも妨害するも、そういう全体的なちからをもった存在がないわけです。例えばネットの世界で平和に電子政府というものができれば(結局は、そういった方向に行くのでしょうけど)、最後は完全な直接民主制になって、中央集権的な政府は(本質的には)自然消滅するかもしれません。
ここでいつも問題になるのは「じゃあネット上の犯罪は、だれが取り締まるのか」という点でしょう。これについては、いろいろ言えますが、基本的に、ミームの流れだけがある「自己完結したネット世界」では、原理的に、だれも犯罪をおかせないのでは、ないでしょうか。なぜなら「悪い」ことといっても、ミームを破壊するとか、芸術作品を改悪することくらいですが、たとえ「ひとつの無名細胞」がそのように動いたとしても、ネット全体のホメオスタシスによって「破壊」は自律的に修復されるばかりか、そのような「破壊=突然変異」が新たな創造のちからとさえなりうるからです。もちろん物理層に対する破壊活動の脅威は残りますが、もしネットの世界観に知性体の意識が移行したとすると、ネットの物理層を破壊することは、自分自身を含む世界そのものの破壊でしょう —— それは、たとえば、今の地球の大気上層に巨大な真空ポンプを設置して、地球の空気をぜんぶ宇宙空間に吸い出してしまおうというような、非現実な話かもしれません。そもそも、「人類(知性体)全体が、ある反逆者の自殺的蛮行によって全滅する可能性」がわずかにせよ存在することは必要なのです —— いろいろな意味で。分かりやすいところでは「免疫系が退化せず、いざというとき働くため」に無菌状態は危険でしょうし、「宇宙線による遺伝子の破壊が画期的な突然変異により種全体としての適応力を維持する」とたとえることもできるでしょう。より哲学的にいうなら、もし何があっても絶対に知性は滅びないという保障が得られれば、退屈かもしれません。なにも人間のなかから狂気の破壊者があらわれなくたって(たとえ、それをどんな強力で横暴な警察力でとりしまったって)地球なんて壊れるときには壊れるに決まってます。
現在、ネット犯罪といわれているものの大半は、実際には、真にネット上の犯罪ではなく、現実世界上での犯罪(詐欺など)をネットを通じて行ったり、いわゆる現実世界の古い論理にもとづく「犯罪」(名誉きそんなど)をネットを通じて行っているにすぎません。
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