アラ
わたしは信じてるのよ
わたしがきっと
えらい詩人になるってことを
でも
図書館の
椅子なんて
あまり頂けないわたしは
支配力を持ってます
でも それをたもつために
一方で
わたしは
売れない詩人になるでしょうそうニューヨークで
わたしはとってもクールなの
スイングもしなけりゃ 突っ走りもしないの美人が死んだら住むという極楽の
大きな木のそばで
わたしは牛のように
わたしのプライドを反芻するのです
ダイアン・ディ・プリマ『いくつかの愛の詩篇 11番』
自分でキソクを決めてしまうのは、おもしろくない。
通常、いちいち個別的に判断するかわりに規則をキャッシュしておくことが多い。例えば「日本人は悪い」という規則をキャッシュしておいて、ある個別の事例について個別に判断する代わりに「相手は日本人だから悪い」と判断する。当然、考えは浅くなるが、脳のリソースを節約できるので、リソースが不足気味のかたがフリーズしないためには、やむを得ないことだろう。
しかし、たまにはキャッシュをクリアして、違うやり方を試してみるのもいい。妖精現実を支配しているドグマは「ミムセントリック」なので、それをひっくり返してみよう。人間中心の見方でも情報の価値を否定するわけじゃないように、ミムセントリックな観点でも、人間を中心に語ることができる —— 人間を中心にした語り口というのも、ひとつの情報因子だからだ。
翻訳者は、基本的には相手の文化圏のロジックへの写像を試みる —— 「わたし」を主語にしたほうが相手がすとんと分かりそうなら、それが正しいわけで、変てこな書き方をするのは正しくないとも言える。あえて相手のロジックと違う「自分の文化圏」のロジックを説明しないで放置することで差分から思考を「挑発」する、という行き方もある。さらに第三の立場として、あまり相手と自分の差にこだわらず、とりあえず「自分ネイティブ」に思いつくまま、自分のいちばん自然なストリームを直接、書き下してしまう、という方法もある。「理解」されるかどうかは、相手にゆだねる。理解してもらうことが第一優先じゃないという立場で、自分固有の自分にとっていちばん自然な発想をありのままに書いておいて、多少なりともおもしろいと(共感できる部分もあると)思ってくれるかただけがそう思ってくれればいい、と。
この態度は傲慢(ごうまん)だが、この傲慢さは虚栄ではない —— ゴーギャンふうに言えば。単にこころに浮かんだことを、高ぶることなく低ぶることなく、自分にとっていちばん自然な表現で表現するだけだ。
ウェブサイトは多数決でないという主張もこれだ。あなた固有の観点が、たまたま「あなたの社会」の多数派が支持する内容のこともあるだろうが、そうでなくてもかまわないし、そうでない場合 —— つまり少数の者しかおもしろがらないことであっても —— 、むしろそのままのほうがいいという考え方。もちろん、「個性的」ということは、人と違うということでは、ない。
このサイトでよく使う言葉、イントリンシック(=二次元の平面国なら平面国に「住んでいる」観測者から世界はどう見えるか?)ないしトポセントリック(=測心的: 地球重心や太陽系の重心を原点にした「普遍」座標系でなく、ある観測者を原点とする「ローカル」座標系の) —— 前者は代数幾何、後者は位置天文学の用語を流用している。「固有」といっても、そこには、もちろん社会的なプロトコルも大前提として入っている。例えば、トールキンがエルフ語だけで物語を書いたら誰も理解できないだろう。
脳リソースが不足気味の人は、「それは○○だから間違っている」というすりきれたキャッシュを何度も何度も使う。○○に入るコトバは、その者の属する社会によって異なるが、例えば「異端」「反キリスト」「反体制」「プラエセンス」などが象徴的な代表例と言えよう。もっとリソースが不足している場合、事例(あるマシンのなかのファイルと思ってほしい)についてキャッシュを適用するパワーさえなく、「あいつは○○だから間違っている」と相手のマシンを見ただけで、全部のファイルがすべて間違っているという、あほくさい判断をする。
充分にリソースに余裕があれば、当然のことながら、個々の事例について個別の感覚が働くのであって、「某国は絶対正義で某国のすることは全部好ましく、某々国は絶対悪魔で某々国のすることは全部悪い」などと前もって請けあえるわけない。上記の「リソース不足」のたとえは、むしろ一部の者で、後者の観点のほうが当たり前だろう —— とりわけ、ありとあらゆる情報がまぜこぜになっているネット空間の住民にとっては、(ネタとして遊ぶときは別として、まじめに考えるときは)ひとつひとつの情報について、セカンドオピニオンを参照しつつ、個別に吟味し、最終的には自分の直感に照らして判断する、というのは常識的なことで、「どこどこのサイトに書いてある」というだけでそれを信じる人は、いるかもしれないが、あまりいないだろう。
同様に、新聞や雑誌や本に書いてあることであれ、「偉い」学者の説であれ、聖典であれ、国連決議であれ、W3Cの勧告であれ、それは「情報」にすぎない。そこにキャッシュされている推論図が正しいか、正しいとして個別的な事例にどこまで適用できるかは、不明。 —— ひるがえって、「あやしげ」な団体の主張、奇人変人のたわごとのように見えることでも、それを個別的に吟味することなく否定することは好ましくない。あなたの考えていることですら多少は正しいかもしれない。さらには、ここに書かれていることですら、時には正しいのかもしれない。
それを見きわめる絶対的な基準は、あなた自身だ。「情報論的時空」のある特定の一点にいる観測者の局部座標で測っているのだから、空間的に異なる位置にいる観測者、つまり他人(それが多数派であれ)からみて違うとか、あとから考えたらやっぱり自分が間違ってた(時間的に異なる視座にいるあなたの観測)、なんて可能性は問題にならない(原理的に回避不能な可能性なので)。その場その場で、とりあえずこうだろうと決めるしかない。あなたの人生は、あなたのものなのだから —— 。ミムナの哲学者エレウェモスは、これを車椅子のクララの理論と呼ぶ。自分が立てないと思っていつまでも立たなければ、永遠に立てない、という意味であり、よろけながらでも、こけながらでも、それで赤っ恥をかきながらでもリハビリをしなければ永遠に自立歩行ができない、という趣意。 —— もちろん象徴的な意味であって、足が不自由な人をからかうたとえでないことは、明らかだ。 ——
なお、ここで、車椅子のクララの理論というのが本当に存在する哲学用語だと信じたかたは、だまされやすい性格なので気をつけてほしい。そんな用語は存在しない。勝手にでっちあげた用語だ。 —— もっとも、わたしが決めた用語は、わたしにとっては存在する。わたしが良いと思えば、それは良い。正しさに関する法則というのは、わたしがするようになっているのだ。わたしにとっては。 —— なんて書いてあるのをみて誇大妄想とか短絡するかたも、リソース不足に気をつけてほしい。ベートーベンの日記の有名な一節を引用しただけで、わたしのコトバではない。(ホントかな?)
ことさら魔法使い(魔女)というコトバを使うのは「わざとらしい反抗」では、ある。こんにちの世界を実効支配する世界標準の基本文化 —— それが良いかどうかは、ともかく —— であるキリスト教文化に照らし、サイトの表紙ページのいちばん目立つ最上部にホロスコープを貼り付け、「魔女出没注意」の標識をかかげるのがどんなに「ウィッカ」な態度かは説明するまでもない。
妖精たちは、キリスト教によって矮小化(わいしょうか=姿を小さくさせる: diminish)され草陰に追いやられたものの、体制宗教より起源が古く、そして新しい。「絶対普遍唯一の神」が存在せず、住まいごと人ごとに守護妖精がいて、エルフ、シー、シーリーコート、トントゥなどと呼ばれ、「良いお隣さん」であった —— 聖書に書いてあるからこうこうなのだ、という全体主義でなく、ひとりひとりが勝手に信じたり信じなかったり、あるいは窓辺にミルクを置いた。ちょっと感傷的かもしれないが、この素朴でやさしいセンチメントを思うと、胸が痛む。‥‥妖精を信じるとは、「自分」を信じることであり、情報発信者の社会的地位や権威と離れた「情報そのもののに内在するちから」を信じることだ —— 「自分」が注目されたくて/賢く見られたくて/相手を言い負かしたくて発信し作るものもあるとしても、そうでなく「表現」そのものが、そのものに内在する必然によってほとばしりでることがあるのだ、という経験にもとづく知識である、と。
無肉の妖精たちは「ミーム」という新しい名まえを与えられ、あらたな命を得た。さほど中央集権でなかった多様性の時代 —— 良い意味でも悪い意味でも —— の記憶をとどめつつ、それはネット空間の新しい「ぐしゃまら」そのものでもある。情報空間は良くも悪くも豊饒(ほうじょう)で、システムは分散系へと向かい、独占して一儲けしようとたくらむ者があらわれれば、必ずといっていいほど「フリー」「オープン」を確保しようとする自発的な精神におびやかされる。OSならLinux、SSHにOpenSSH、ナップを潰せばOpenNap、PGPをNAIが乗っ取ればOpenPGP、春菜がへたれになれば偽春菜(にせはるな)、大企業がろくなブラウザを作らないとフリーのプログラマが結託して怪獣 Mozilla を作り始めるし、旧情報財閥の巨大メディアでさえ、ほんの少数のちいさなサイトによって簡単に拮抗(きっこう)されてしまう。
そして、妖精たちとのひみつのまじわりを永遠に語られない「うちわ」のひみつとして、そっと後世に伝えてゆきたい者たちは、妖精とはこのような比喩であり象徴なのだ、という堅いシェルのなかに身をひそめる。
右翼とは「保守的(あまり急激な変革には反対すること)で自分たちの固有の文化や独自性を尊重する考え方の者」だ、と定義してみよう。 —— 日本地域で「右翼」というと、君が代がどーたら、街宣車に乗って音割れスピーカーで「天皇陛下は偉い人」、日の丸をたかだかと、政府与党ばんざい、なんていう皮相のイメージもあるかもしれないが(そういうハンパな右翼も実際いるかもしれないが)、きっすいの右翼は、もし仮にそうすることが文化的多様性を守り、世界を単一色の退屈な世界にしてしまうことを防ぐのに役立つと思えば、与党だろうが野党だろうが大統領だろうがミルクチャンだろうが批判すべき相手は批判するだろう。
当たり前だが、右翼というのは「思想」。昔の人のコトバを借りれば、ノンポリ(ポリシーがないこと)じゃない。しっかりとした自分の考えを持ち、国や世界、一般的にいえば、今後の社会のあり方を考えるにあたって、「改革、改革、古いのはダメ」ばかりじゃなく、現状や過去の良いところもくみとる姿勢が「右」なのだ。
自分の考えを持つからには、必然性がある限りにおいて、天皇であろうが日の丸であろうが、それがおかしな利用のされ方をしていれば、批判する。天皇賛美だからいけない、復古的だからいけない、日の丸だからいけない、なんていう思考停止も、当然、疑問視する。天皇だから批判してはいけない、日の丸だから馬鹿にしてはいけない、といった「公理の密輸」も疑問視する。だいいち天皇制がどうこう自衛隊が憲法が、なんていうのは、表面的なオブジェクトの話で、右とか左とかいうのは、オブジェクトを操作するときのメソッドの話だ。
「まとも」な右翼のかたには一目瞭然のように、このサイトも少し「右寄り」だ —— 「自主憲法」とかを(押しつけだから気にくわない、自主的が良い、とかいった表面的な意味でなく、もっと深い意味で)考えているかたなら、このサイトを左翼っぽいとか勘違いすることは、まずあり得ないと思う。まして旧ソ連・アメリカの行動について疑問を指摘したからといって、「反米」だとかそこからさらに飛躍して「左翼」だとか言うのは、考えなおしたほうがいい —— あなたが失笑を買うからだ。日本の、そして世界各地の固有の文化を、西洋キリスト教的規範と異なるからというだけで否定せず、独自の文化がいろいろあったほうが良いという立場で一貫しているのは、多文化的な浮動視点の「ナショナリズム」であることを別にすれば、むしろ日本の国粋主義者に近い(当然のことながら「いろいろな文化があるのは間違いで、ある文化だけが優位なのだ」という考え方の文化圏があるとしても、それもひとつの情報因子(考え方)として尊重する(現にそういう考え方がある以上、あってはならない考えだ、などと目をそらしたりしない))。
プライベートなレイヤでは「まとも」な人間にはついていけない先走った感覚を持ちつつも(例えば、いまだに性別制度を廃止していないあなたがたが、男女差別だの男女同権だのといった枠組みに執着しているのは見ていておかしいし、性別を記入しないと商品の購入ができないに至っては苦笑を禁じ得ない)、現実的には「急激で強引な変革は好ましくない、その社会の内部での自然な意識の変化に裏打ちされなければならない」と繰り返している。つまりは保守派というか、現実に何かを変えたいという思いは少ない。電波っぽっく言うなら、人間さんの社会に直接、関与する気は、ない。「今後数万年に人間精神の革命が7回くらい起きればともかくも」
人間の観点が物理世界を中心とし、国籍のアイデンティティがまだ残っている社会の段階においては、日本地域の多くのかたが日本のことをたくさん考えているのは当然のことだろう。が、右翼というのは、べつに日本に固有の視点では、ない。いったい、ウラルの文化と深くかかわってきた過去の経緯があるため —— そしてウラルというのは、アジアでもヨーロッパでもアメリカでもイスラムでもなく、一般には縁遠いかもしれないアフリカの諸文化よりもさらに知られていないので —— 、このサイトの多文化的な見方が具体的にどういうしくみになってるのか、分かりにくいかもしれない。「西欧かぶれ」とか「アラブ好き」とか「アフリカ愛好家」のほうが、まだ理解しやすいだろう。
べつの観点からいえば、文化的アイデンティティを見失った者が、とくに「自分の文化」として尊重するものもなく、また「異なる文化」として違和感を覚えるものもない、といった無重力状態を、肯定的に見るとき「マルチカルチャラル」ということになるのかもしれない。 —— そして、結局、文化的価値観が混乱していて、自分の個別的感覚に頼るしかないので、それを詩的に表現すると「妖精文化」ということにもなろう。
どうしても納得のいく説明がほしければ、そういうことにしても良い。べつに書き手の舞台裏など理解しなくても、書き手が媒介する書き物だけでたくさんだと思うが。
ともあれ、国体を「世界」すなわち「国際社会」の構成要素と見るとき、「日本は日本で独自のスタンスを持つべきだ」というのは、ある社会における個人のあり方と同様の主張にすぎない。台風のうずまきと銀河のうずまきのようなもの。日本の文化的、社会的価値観の独自性に立脚するとき、たまたま日本が「正しい」と考える結論が五大国などの意向と一致することもあるだろうし、一致しないこともあるだろう。いずれにせよ、大国が命令するからへいこら従うばかりが能じゃない、というのがここで言う「国粋主義」だ。強大な国の意向も踏まえて判断するにしても、それがすべてでは、ない。大国が言うことだからただちに賛成するのでも、大国が言うことだからただちに反対するのでもない。そんなのは、どっちにせよ独自性のない考え方だ。
多くの人々のコンプレックスにそくして言えば、反米的とか親米的とかいうのは、右翼とか左翼とかのくくりとは異なる。個々の事例について「独自」の立場から考えて、アメリカと同意見に達することもあれば、別の意見を持つこともある、というだけの話。 —— 反EU的か、親EU的か?というのが、いわゆる右翼、左翼などと独立の問題であるのと同様で、そもそも、ある事例(例えば公害車のごり押し輸出)に関してはEUを悪く思っても、べつの事例(例えばCO2排出規制)に関してはEUを好ましく思う、ということは、少しもふしぎでない。「反○○」ないし「○○支持」というポリシーが先にあるのでなく、個々の事例について感想があるにすぎない。思考のリソースが充分にある限りにおいて。
「○○党支持者」のたぐいには、情報の実体を吟味することなく、発信者の名前を見ただけで情報を無条件支持する、という古代人の世界観が反映されている。
ここで、左翼というのは、改革志向、「革命的」な考え方の思想傾向である、と定義してみよう。当たり前のことだが、社会の変化に対応して変えたほうがいい制度は変えたほうがいいと誰でも思う。その意味では、だれでも「左翼」的な部分を持つ。あらゆる改革に反対するほうが奇妙だ。そして改革の方向が復古的に見えると、右翼とか原理主義と言われ、あるいはルネサンスとかアルカイックと言われたりする。どのコトバも単なる言い換えの記述概念にすぎない。そこにテレビ洗脳映像にもとづくてきとーなイメージで価値を付与するのは人間さんの勝手。コトバはコトバで無色透明だ。
左翼の特徴づけが改革志向なら、右翼というのも、復古的であれ国粋主義的であれ、なんらかの変革を望んでいるという意味では、左翼なのかもしれない。みんなと同じじゃなきゃイヤだ、でもちょっとだけお金で買える部分でコセイを主張しよう(笑)といった我々のメッキ社会において、右翼とか左翼というのは、実質において「おまえのかあちゃんでべそ」とかと同じ無意味なののしり語っぽいので、あんまり概念を追求しても仕方ない。「みんな」と同じでないものは悪というあなたがたの信仰による限り、障害者だけが「公認エスパー」なのだ。もっとも、それをすら「ノーマライズ」しようという余計なお世話があるけれど。
国立特殊教育研究所について何がいちばん好きかというと、略語が NISE だということ。
とりわけ、「まとも」な右翼であれば、国民の精神の変革を求めているに違いない。ことさら「右翼的」な言葉遣いをすると ——
「われわれヤマト民族は、礼節を重んじる高潔で誇り高き民族である。利己に走らず、諸国民の気持ちも考えようとできる繊細な民族である。自分だけ良ければ良いなどと身勝手なことを言わず、公正、仁義をむねとし、困っているときは助け合うという融和の精神を持っている。自分と異なる見解だからといって言下に否定したりしない雅量を持っている。過去におかしたあやまちについては、いさぎよく非を認め、これを省みて将来の糧とする勇気を持っている。我々は小国であるが、たとえ相手が強大な国であろうと、悪いことは悪いと指摘する魂を持っている。みずからが犯したことを犯していないなどと言を左右にするような卑劣な態度は決してとらない —— そのような態度を恥と思うのが、我々日本人である。以上のような日本人としての誇りある姿勢をもとに、新しい歴史教科書を作りなさい。」
これがきっすい右翼の主張であって、一般のイメージに照らせば、むしろ「左翼的」かもしれない。
繰り返すが、なにやら過去の蛮行をみだりに正当化したり、直視する勇気を持てずに「学校でも教えないことにしよう」などとうじうじ言っているようなのは、ハンパなエセ右翼だ。そのような自称ウヨクちゃんは、「日本文化」「日本人の魂」うんぬんを語る資格なし、と言われても致し方ないであろう。逆に、なにやら大国やら自国の政府がやることには全部、反対しないと気が済まないような連中がもしいるとしたら、そんなのは右翼でも左翼でもへちまでもない、ただのアホウ。そもそもまともな思想家なら —— 政府が何やら言っていることを後追いして賛否を論じるのもいいけれど —— 、だれも何も言っていないうちから、独自の視点を提示するであろう。だれかが言ったことを後追いして、かっさいしたりケチをつけるのでなく。
○○の言うことだから絶対に正しい/正しくない、という見方が不適切なことは明白だが、これを逆向きに考えると、あなたは部分的には「右翼的」であり部分的には「左翼的」であり、資本主義的であり社会主義的であり、まぜこぜであってかまわない、ということになる。なんであれ「正しさの絶対的基準」を言語化してしまうと、たちまち逆手にとられる —— 民主主義が絶対だと思えば「これは民主主義的に多数決で決めたことだから、あなたも従いなさい」などと変なことを押しつけられるであろう。そして「見せかけの民主主義」だの「真の」民主主義とは、といった、レトリックのラビリンスに迷い込むハメになる。絶対があるとしたら絶対的不可知論だけで、本当の本当のことなんて分からないので、自分で判断するしかない。あなたが採用すべきは、しいていえば「あなた自身主義」だが、言語化すると「それは個人主義ということだろうが、公共の福祉が」とか「自分主義もいいが、自分が常に絶対に正しいわけでもあるまい。人の助言にも耳を」とか、からまれて、同じことを何度も説明するのにうんざりするので、むやみに言語化しては、いけない。ひみつひみつ。
人間語訳で「左翼的」なのは、人間語訳で「感覚が急進的」だからだ。しかし最も進歩的な「健常者」にも「原文」は理解できないだろう。
それは、ヒトに犬の嗅覚の世界が理解できないようなもの、ライチョウに「仮定法現在」の意味が理解できないようなもので、改革できるできないのギャップでないので、わたしがあなたの世界を変えたいという意味での革命志向などあり得ない。しかし、かなり多くの人間は(表現の仕方はともあれ)有肉のヒトであると同時に無肉の妖精でもある。妖精というのは少し変な訳語だが、人間語には対応するコトバがないので仕方ない。
「事実」についての知識と、それらの事実を最も透明に解釈できるような視点を発見することは、異なる。前者は「記憶」に関係する「ハードディスクの仕事」、後者は「思考」に関係する「CPUやソフトの仕事」と切り分けると分かりやすいだろう。
人は「ただの記憶媒体」にならず、思考するべきだ。ネットは、情報を集める場所であるかもしれないが、集めた情報をもとに判断することが本質的だ。事態を「つめこみ教育」のせいにしては、いけない —— 教育が良いとか悪いとかの二分法などどうでもいい。学校が何をどう教えようが教えまいが、調べて「考える」ことは、そうしたければ、いまこの瞬間にも始められる。学校が「考えるちから」を重視すると言おうが言うまいが、考える練習は考えることそれ自体によってのみ可能で、教えてもらうことでは、ない。また、つめこみ教育がいけないとも限らない —— 10代のうちに外国語の単語をたくさん暗記しておけば、あとで役立つだろう。もっとも、そうした勉強は、なにも学校に行かなくてもできるし、このインタラクティブの時代に、テレビや何かのように同じ授業を全員が同時に受けるのは、たしかに非能率では、ある。
ハードディスクタイプの議論では、ある知識が正しいか不正確か?つまり知っているか知らないか?というつまらないネタしか出ようがない。
「フェアリーランド」にもちらっと出るが、大量画一情報を流すマスコミュニケーション(マスコミ)になぞらえ、在日フィン人は、もう十年も前から、日本の学校を「マッサコウルトゥス」(マスエデュケーション)と呼んできた。こんな事態(2001年、崩壊前のアメリカ合衆国であった過激な抗議行動と、それに対するアメリカの軍事粛正政策を指す)になっても、平常授業をしているなんて。中学、高校はもちろん、小学校でも高学年は、授業をとりやめてまる一日ディスカッションをしたら良い。テレビでは教えてくれないことを自分で調べる絶好の機会だ。目の前で展開されている生きた世界史について「見ぬふり」をして、古墳の種類の分類の話などしている場合か。
といっても、失望することは、ない。絶対の正義などないことが、あらためてよく分かったハズだ。ある国が良いとか悪いとかいうことはなく、どの国にもいろいろな考えの人がいることが実感できたハズだ。絶対の正義などないから、世に失望する? そうでは、ない。だからこそ、自分で判断することの大切さが分かると思う。自分の直感をとぎすます訓練をつづけなければいけない。湾岸「侵攻」のときは、大多数はテレビの大本営発表を本気にしておもしろがっていた。モニカ・ミサイルのときは、少し疑問の声が出た。コソボの空爆になると、政府もしどろもどろになった。そして今回、とうてい無視できない割合のかたが、問題を深く考えている。インターネットのちからもあるが、人間は進歩していると思う。
I'll live through, as myself, nobly, coolly.
Your way and mine may part, which makes me so sad,
but you see, I need this revolution in myeslf.
A baby bird remaining in its own shell
Will die, not knowing "flying" nor the "world" --