この作品のこの場面で(あるいは作品全体として)作者は何を言いたかったのか?という問の立て方がある。と同時に、ご承知のように、すぐれた作品は「原作者ひとりのプロット」にとどまらない。それは原作者自身が意図・意識・予想していなかった解釈を与えられるだろう。つまらない作品なら結果として作者ひとりのものかもしれない。しかし、多くの作品は、結果として多かれ少なかれほかのストリームを触発する。
そもそも作者などいない、とも言える。実際、詩聖ホメーロスは、こんにち的な意味では存在していないと考えられる。いたとしたら、たぶんカレワラにおけるリュンロットのような役割だろう。ホメーロスにとってイーリアスは人間のドラマというより「機械的な美しさをもった響きのストリーム」であったに違いない。実際、これは文学作品でなく、音のストリームだ。今で言えば音楽の歌曲に近いし、言うまでもなくミューズの領域だ。
そして、そもそも作品などない、とも言える。ホメーロスがホメーロスの世界で完結していると考える人は、いない。作品には音楽のように時間的な始まりと終わりがありえるが、時には3000年たってもまだ続いているし、そもそもの始まりも分からないことも多い。消えたようでも音は時間の記憶としてかすかに漂っている。
音楽の場合、「これは何かを言うためにあるのでなく、これ自体です」という意味が、わりと分かってもらえるだろう。コトバには意味があると思われがちで実際、意味があることが多いが、ときには音響詩もある。「ゼファリーアン 西風さん」「ジプソフィラ かすみそう」というとき、べつに何も言いたくなくて「ゼファリーアン」とか「ジプソフィラ」という響きに耳をすましている。分かるかたには分かるだろう。だから「エレン・シーラ・ルーメン・ノメンティエルボ」とは「エレン・シーラ・ルーメン・ノメンティエルボ」でいいのだ。
「エレン・シーラ・ルーメン・ノメンティエルボ」「エレン・シーラ・ルーメン・ノメンティエルボ」と何度も何度も歌うように繰り返し、きゃはっ、きゃはっ、キレイな音!とぴょんぴょん飛び跳ねるのだ。