DVDバックアップについては、わざわざ有料のバックアップ用ツールを買わなくても、DeCSS以降の各種ツールがあることは周知だ。 DeCSSはLinux上でDVDを鑑賞する目的で開発され、開発者とされるノルウェーの若者が訴えられたものの、 裁判ではこのツールは合法と認められた。ツールの目的についても上記の通りであることが裁判でも認められているので、 DeCSSは、日本の著作権法・第120条の2にいう「技術的保護手段の回避を行うことを専らその機能とする装置」にも相当しないだろう。 「専ら」とは言えないので……。
これらのツールは、現に広くネット社会一般で利用されており、公知である以上、 DVDは「技術的には」保護されていない。 暗号学の立場からみて、秘密鍵がこれだけおおっぴらに露見してしまったら、 もはやその情報が保護されているとは言えないことは明らかだ。
そもそも日本の著作権法でいう「技術的保護手段」は、 コピープロテクト信号を「音若しくは影像とともに記録媒体に記録」する方式を指し、 音や映像のデータそのものを暗号化するDVDの方式は、 法律にいう「保護手段」の定義にあてはまるのかどうかも疑問だ。 いわゆるコピーコントロールCDも、何もしなくても普通にコピーできてしまうケースも多いので、 同様に疑問がある。
[PrintScreen]を押せばどのコマでもキャプチャーできるのはWindowsの機能で、 無圧縮AVIでいいならWindowsはいわばコピープロテクト信号を無視する。 「用いられる機器(=Windows)が特定の反応をする信号」と言えるのはリージョンコードだけで、 日本の法律上、DVDはPCに対しては技術的保護されていると言いがたい。 ソフトDVDプレーヤー自身がキャプチャー機能を持っていることも多い。
ともあれ、実際問題、 DVDディスクは踏んだり落としたりして簡単に壊れてしまう心配があって、 高いお金を払って買ったデータをバックアップしたいと考えるのは自然なことだ。 さらに、DVD1枚に30分ものがたった1話や2話、果てはABパート別売といったマニアの心理につけこんだ非道な商法が広く行われているが、 仮にそれを認めるとしても、連続したシリーズである作品が10枚、20枚といった物理媒体に分割格納されていて、 ディスクを入れ替えないとAパートからBパートへシークもできない、といったありさまでは、 とても作品を快適に楽しむことなどできない。いわば「広辞苑」が5枚のCDに分かれていて「あ」から始まる言葉を調べるときと「け」から始まる言葉を調べるときとでは、いちいちディスクを入れ替えなければならないようなもので、利用者の利便性をいちじるしく損なっており、 その目的も理解できないわけではないのだが、消費者に与える不利益とのバランスのうえで適切とは思えない。 利用しやすくするためすべてをハードディスクにインストールして、いちいちディスクを入れ替えなくていいようにするのも、ごく自然な考えだろう。
なぜこのような非効率な事態になっているのか。 もとをただせば、ネットの発達で中間の流通経路の必要性がますますなくなってきているのだから、 値段を法外につりあげる「ダフ屋」には、申し訳ないけれどやはりご退場いただかねばならないと思う。 以前は情報の普及に役立った出版社などが、今は逆に情報の普及をある意味さまたげる存在になってしまっている。 もちろん良い意味の例外もたくさんあるのだが……。
高い値段で作品を買っても、それを実際に作ったアーティスト、創作者には価格の5~10%しか入らないことにも注意する。 1万円で作品を買ったとして、9000円は「ダフ屋」のふところに入り、実際のアーティストは1000円しかもらえない。 しかし、アーティストは、その1000円で実際に何とか生活して、作品を制作できている。 もし中間の無駄を省けたら、アーティストにとってもファンにとっても何よりだ。 音楽業界・出版業界などのビジネスのあり方が変わるべきときが来ているように思う。
今すぐRIAAやMPAAをぶっつぶせと言うわけではないのだが、これから5年、10年くらいをめどに、 もっと効率よく、実際の作品を制作するクリエーターとそれを愛するファンの双方にとって有意義な形で、 著作物の流通のあり方、したがって著作権制度が、変化していくべきであろう。 そして、版元は、著作権を主張したいなら、それに伴う義務も果たさなければならない。 すなわち、著作物をむやみやたらと絶版にせず、出来る限りつねに手に入る状態に保たねばならない。 すぐれた作品でありながら、大衆性に欠けるといった理由で絶版にし、 お金を払っても買えなくしてしまっておきながら、なおも「友達から借りてコピーさせてもらうのも違法」などと言い張るのは まったくばかげており、その作品にとっては、あまりにひどい仕打ちだ。 ひるがえって、インターネットのちからを活用して、すでに絶版になったような古今東西のあらゆる作品を安価に提供できるようなことにでもなれば、 出版社は新しいビジネスチャンスを得て、マイナーな作品の作者、消費者、そして中間でライブラリを構築する会社の、だれにとっても良い結果になるかもしれない。
技術の状況が変わってきているのだから、変化は避けられない。 変化には一過的な痛みも伴うが、それもやむを得ない。 現実にそぐわなくなった過去の制度にしがみつくために著作権法をますます訳の分からないものにし続けること —— つぎあてにつぎをあてるような、屋上屋を架すような、法律の専門家からすら支離滅裂と言われるような改訂につぐ改訂 —— 、 それは根本的な解決にはつながらず、一般の理解を得られないばかりか、 しまいには、「著作権」によって第一に保護されるべきクリエーターからもそっぽを向かれてしまうだろう。 なにしろ、作家を守るのでなく、中間の流通業者の既得権を守るための改訂ばかりやっているのだから。