All your base are belong to us (AYBABTU) —— このフレーズはネット上では有名(日本でもかなり有名)で、 Googleに専用カテゴリーまでできてしまっているほどだが、なぜそれほどウケたのか肝心の語源である日本ではあまり知られていないようだ。 日本語の解説ページを見ると「我々日本人はそれが英語として間違っていることまでは理解できても、ガイジンさんの絶大な支持を集めるほどの面白さ、馬鹿馬鹿しさにつながるニュアンスまで汲み取るのは難しい」などとある。 なぜウケたのかの想像も書いてあるが、そこに書いてあるような複雑なこと —— belong to には卑猥なニュアンスがあるとか —— ではなく、 もっと単純な話だ。
ポツダム宣言からちょっと連想したので、このネタにふってみる。
これは日本のあるゲームの海外向けバージョンにあった字幕で、たしかに変な英語だ。 しかし、このくらいの変な英語は、相当ブロークンではあるが、それ自体としては、ネット上ではぜんぜんオーケーで、 意味も完全に通じる。 これがウケた理由は、決して「中学生レベルの恥ずかしい文法ミス」をしやがって —— といったようなことではない。 文法の間違いそれ自体を笑っているのではない。 英語のあやまりの結果、異図せず変な意味になってしまった、というわけでもない。 分かりやすく言えば、「反省しる」のようなものだ。 非常にシリアスな場面で予想外のことなのでインパクトがある。 ふつうの場面だったら「反省しろ」を「反省しる」と書いても、 単にミスタイプしただけだな、で終わりで、読み流して気にも留めないだろう。 が、偉い政治家がシリアスな表情で抗議する抗議文のなかに、 こんな誤字があったら、ずっこける。言いたい内容の真剣さと、ミスののほほんさの落差がはげしいからだ。
「All your base are belong to us」も同じこと。 深刻なストーリー展開。基地に爆弾をしかけたとかいうニヒルな悪役。 彼が「あきらめたまえ。諸君の基地は完全に我々の支配下にある」と冷笑する場面で、「支配下にあるにょ」などという字幕が出たら、 吹き出してしまう。べつに「あるにょ」が正しい日本語でないからとか、文法的にどうこうでなく、 シリアスな場面で突然アホな言葉遣いをするのが笑いをさそう。そういうことなのだ。 だから、「英語圏の人はちょっとした英語の間違いで大笑いするのだな」などと勘違いして萎縮した気持ちにならないでほしい。 繰り返すが、ふつうの場合であれば、このくらいの間違いは —— もちろん、ほめられたことではないけれど —— 許される。 (参考: 自然な英語表現例 Your whole base is now under our control. Resistance is futile.)
立場上、ここで具体例を挙げるのはさしさわりがあるので書かないが、 英語ネイティブの人が作った英語字幕のなかにもとんでもないものがゴマンとある。 こんな程度で意気消沈してはやっていけない。
日本で「~しる!」を使う人の大半がキム・ヨンジンを知らないように、 All ... are belong とふざけて言う人も全員が語源まで知ってるわけでも、ましてや日本叩きをしているわけでもない。 もちろんどこにでも特定の国や地域を嫌いな人というものはいて、「日本人」をあざ笑う趣意でこのフレーズを使う人もいるかもしれないが、 それは極めて少数だろう。また、外国語(この場合、日本の英語)の間違いをみだりに笑う人というのは、 たいてい自分は一言語しか話せない。ひとつでも外国語を本気で習ったことがあれば誰でも、 文法の間違いやつづりの間違いに対する許容度は極めて高くなる。 一言語しか話せないことは少しも悪くないが、一言語しか話せないということは「外国語で話すのがどんなことか」を知らないわけだから、 自分の知らない行為についてあれこれ言ってみても適切な批評にはなりえないだろう。 間違いながらでも、しどろもどろでも、ちょっとでも外国語を使ってみようとする人のほうが、 知らずに笑っている人より、よっぽどりっぱだ。非日本語圏の人が漢字とかなで「反省しろ」と書くのが、どのくらい大変なことなのか、 たぶんあなたは想像してみたことすらないだろう。「All your base are」を安易に笑うことについても、 そういう意味での浅薄さも否めない。
しかしまあ、読み流すチャットとかでなく、商用のゲームのような売り物である以上、やはり日本語ネイティブの人と英語ネイティブの人が協力して、 間違いがないようにちゃんとチェックするべきだった、というのも確かだ。 海外で発売する商品である以上、語学学習の大変さとかとは別の問題だ。 英語の間違いそれ自体というより、日本の有名な大企業がこんなものをノーチェックで売ってしまう、ということが、 ひとつの意外性であり、したがって驚きや笑いの対象ともなるだろう。