趣味Web 小説 2002-12-31

「拒絶」は心外:補足

「正しい」と云ふ事を拒絶するのに拘はる事こそ、良くない事だと思ひます。或は、「正しい」事に自分は拘つてゐない、と信じながら、現實には「正義の拒絶」に拘つてしまつてゐるとしたら、それこそ、愚かしい事だと思ひます。

私は正字正かなを金輪際使いません、とはいっていません。今すぐに勉強して使おうとは思わない、といっているに過ぎません。野嵜さんや「私の國語教室」の主張などには、なるほどと思っているのです。正字正かなを拒絶しているわけではありませんよ。

テーブルレイアウトをやっていた私がHTMLをもう一度勉強し始めたのは、野嵜さんの主張に感銘を受けたのがひとつのきっかけになっています。HTMLとは何か、という情報は当時の私にとって非常に刺激的で、面白かったのです。その後、ある程度勉強したところで飽きたわけですが、今年3月になって野嵜さんから批判を頂戴しまして、また少し勉強を進めました。

たしかに私は「正しいこと」に不徹底ですが、別に「正義の拒絶」をやっているわけではない、と思います。やる気の充実と適当な機会が揃えば、順次「正しいこと」を取り入れていくつもりでいるのです。

ただし、「ダブルスタンダードは惡い」「一貫性がないのは惡い」から、一貫性のないものは徹底的に排除すべき、とは考えていません。野嵜さんと意見が食い違うのは、決定的にはこの部分の価値判断だろうと思います。何事も遊びがある方が、そこそこ不徹底を許容する方が気楽でよい、そのためにはダブルスタンダードも一貫性の欠如もある程度許容しましょう、というのが私の基本的な考え方です。

新字新かなと正字正かな、正当性に勝るのは正字正かなだと思います。けれども「現代仮名遣い」が駄目である以上、最善ではなくとも、次善のものである事は間違ひのない歴史的假名遣を日本人は使はざるを得ないというのは、極端だなあと感じるのです。使はざるを得ないとまでいってしまえるほど、私は正字正かなの美点である「一貫性」に価値を見出せないのです。

結局、私にとって正字正かなは、使った方がよさそうという程度の位置付けなのです。

私はテーブルレイアウトはやめた方がよさそうだ、と思ってから実際にやめるまでに半年を要した人間です。HTMLをちょっと勉強するだけでも、それだけ機会を、やる気の充実を待ちました。将来、一念発起して正字正かなの勉強をすることがあるかもしれませんが、私にとって正字正かなの勉強はHTML以上にとっつきにくい印象があるので、すぐには正字正かなに移行できないでしょう。死ぬまで無理かもしれません。

野嵜さんは、正しいと確信していることがあるなら、当然、すぐさまその通りにすべきとお考えなのかもしれません。けれども私はもっと不徹底にやっていきたいと思っていて、それは正しくないものを許すというよりは、消極的ながらもダメなものを認めるのもありだろう、という立場なのだ、ということです。この立場を「正義の拒絶」と表現されるのは抵抗感があるので、こうしていろいろ書いてみたわけですが、その辺り、伝わりましたでしょうか。

Information

注意書き