私はいまの勤務先について、「かなり理想的な職場です」と繰り返し書いてきました。労働者の権利がきちんと守られていて、健康を害するような長時間労働、希望に反する異動・勤務地変更はない。失敗した人を怒鳴りつけるような社員が(ほぼ)いない。一般社員が荷物を運んでいれば、社長が廊下を譲る、そんな会社。
それでも、毎年、辞めていく人がいます。ただし同業他社と比較しても特段の差異はなく、「若い社員ほど出入りが激しい」という一般的な傾向の範囲内のようです。逆にいえば、「こんなにいい会社でも、とくに若い人を引き止める力がない」わけです。
先月、6人しかいない私の所属部署から1人が辞めるということを知って、驚きました。市役所職員に転職されるのだという。私の前年に入社された方で、
といった理由で転職を決めたそう。2番目の理由を補足すると、同僚氏は自分を「平凡なサラリーマン」と認識しており、奥さんの「希少な仕事」を優先するべき、と考えています。だから東京から栃木への職場移動にはついていかず、部署を移って東京本社で働き続けるつもりでした。もちろん、私の勤務先はそれが許される会社なんだけれども、そもそも勤務地変更の打診がなければ、それを断る心労もないわけです。
私にとっても、理由1は切実です。けれども、私には理由2と理由3はない。私の社外の知人の多くは、零細企業の社員、派遣、フリーター。だから主観的に私の年収は「かなりよい方」。それに、過去のあちこちでのアルバイト体験から推察するに、現在の職場ほど居心地のいいところは滅多にないと断言できます。だから、会社の存続のため、可能な限りの努力をしたい。
職場の誰が既婚者なのか、みんなちゃんと把握していないというくらい、お互いプライベートに踏み込まず、それでいて「家族の急病」などには優しい。こんな人たちが集まっている会社に、再び運よく巡り合うことができるとは、とても思えない。
でも、「この会社では俺の能力を十分に伸ばせない」「給料が少な過ぎる」などといって、同期や同僚はポコポコ抜けていきました。研究や開発の部署にいたから、客観的に能力の高い人が多かったという事情もあるとは思う。しかしその後、みんな幸せにやっているのでしょうか。給料が安くても残っていればよかった、と後悔していないか。
これまでに転職された方とは「それっきり」になっているのだけれども、今度お辞めになる同僚氏とは、今後も交流が続きそう。1年後、2年後にまたお話を伺いたいと思う。
職場親睦費が1人1万円出るので、6人で予算6万円。今年度の行き先は『叙々苑』と決まった。
結果、みな話したいだけ話し、満腹になるまで食べ、飲みたいだけ飲んで、58,740円也。誰も個々の注文の小計をとっていなかったので、「奇跡だ!」と大盛り上がり。
1人の送別会を兼ねた慰労会で、「寂しくなっちゃうね」「これから大丈夫かな……」なんて雰囲気もあったのだけれど、きれいにまとまってよかった。
「**だったら買うのに」という意見を素直に聞いても、あまり結果は芳しくないことが多いもの。
はてブの反応は山本一郎さんに概ね同調しており、「表紙の大きな写真が購買意欲を下げる」という認識が共有されているらしい。
しかし勝間さんの本は、主にファンの方々によく売れているはずなので、パッと見て「あっ、勝間さんの本だ!」とよくわかるようにした方が売れるのは、間違いないと思う。どんな本も国民の95%は買わない。勝間本の表紙を貶している人の大半は、どんな表紙だろうと勝間本を買わないに違いない。
勝間さんは自著へのひどいレビュー(実際の内容と全く異なる妄想で中傷するレビュー、本と無関係の著者攻撃、など)を放置する方針なんだけれども、私は、それはよくないことだと思っている。しかも、やるだけやって諦めたらともかく、最初から「賑やかでよい」という姿勢なんだもの。
おかげで、勝間さんが関わっている本にまずまず好意的なレビューを書くと、もうそれだけで「参考にならなかった」票がポンポン入る。「参考になった」票が入るたび、一昼夜で対抗票が入る。私の他の本のレビューと比較して、勝間本のレビューだけそんなにひどいという理由があるなら、誰か説明してほしい。
これは以前、2chで話題になっていた福島瑞穂さんの著書をきちんと紹介するレビューを書いたときも同じだった。ネガティブキャンペーンを管理しなかったらレビューの存在意義は相当に毀損されてしまうのに、それを放置している Amazon にまず苛立つが、著者がそれをよしとしているのもどうかと思う。
もっとも、『ドラゴンクエストIX』の先例を見ても、レビューがどうあれ売れる商品は売れる。ネガキャンしたい人々をレビューの放置でガス抜きできるならリーズナブル、という判断は合理的かもしれない。
ただ、ふつうにレビューしたい人が逃げてしまうのはもったいない。とはいえ、Amazon にレビューするような読者はきわめて少数だから、彼らのレビュー意欲を削ぐようなレビュー環境を放置しても、多くの読者はとくに不満にも思わないだろう。好意的な評を書きたい読者は、Amazon を諦めて、twitterやブログを選択すればいいのかもしれない。
Amazon にたくさんレビューを投稿している珍しいタイプの人間としては、残念な話なんだけど。
知人が『みんなの党』の党員になった。その際の事務局とのやり取りが面白かったので、許可を得て転載。
「たった2000円のカンパ」のつもりで入党を希望します。ただし、3つの質問をさせてください。とくに回答を希望してはいません。無回答なら消極的肯定と判断いたします。でも、「絶対にダメ」なら、今のうちに教えてください。後から文句をいわれたくはないです。
1.年会費を払う以上のことをするつもりは全くない(選挙ポスターを貼る手伝いなどはしたくない)のですが、それでもいいですか?
2.民主党の代表選で1票を投じたいというだけの理由で民主党員になったこともあるのですが、そういう軽い気持ちでもいいですか?
3.将来、人間関係のしがらみなどで、他の党と掛け持ちになってもいいですか?
***様
お世話になります。
みんなの党本部事務局です。
この度は入党手続きを頂きありがとうございました。
お問合せの件ですが、3点とも問題ございません。
今後ともご指導ご鞭撻宜しくお願い致します。
みんなの党本部事務局
これ、もともとは私が「21世紀の日本で“みんな”の党であろうとすれば、かなーり緩くないとダメだよね。入党する際に、確認の質問はしておいた方がいいよ」と話した内容。「ちょっとハードル高め」のつもりが、あっさり。党費を送金すると、すぐ返信がきたそう。
なんていうか、今日、みんなの党を支持したことで、明日の自分を縛りたくない。自由に判断できるのが有権者の特権でしょ。それを手放したくない。そういう人、多いんじゃないだろうか。でも、「企業献金は問題の温床。かといって、税金で政党を養うのもどうかと思う」といったら、個人献金をするしかない。けどなあ……というジレンマがある。
私の勘違いかもしれないけど、私と同世代の30歳前後の層には、「政党」について「よくわかんないけど、怖い」「秘密結社の親戚、みたいな?」というイメージがあると思う。だから、
というのは、ホッとしたというか。あー、こういうのが「ふつう」になっていくなら、「宗教じみた政党以外はみんな資金不足で滅びちゃう未来」は見ずに済むかな、と。もちろん、これだけ敷居が下がってもなお、9割超の有権者にとっては、今後も入党なんて「考えたこともない」って話であり続けるとは思いますが。
さっき調べてみたら、党員の紹介を入党要件にしている自民党も、知人がいなければまず支部に電話してね、ということになってた。以前からそれはそうだったんだろうけど、いまは目立つところにそう書いてある。へー、という感じ。まあ、そうはいっても敷居は高いかな。
民主党の入党案内を見ても、掛け持ちOKとは書いてないな。ダメだとも書いてないけど。問い合わせがあったら答える、という感じなのかな、どこでも。
こちらは主要政党の年会費などのまとめ記事。
みんなの党には一般会員(年会費2,000円)とネット会員(年会費1,000円)があって、一般会員は「希望者にメルマガ配信」なんだけど、ネット会員は「メルマガ配信」となっている。個人的にはこれ、ちょっと面白いと思う。
「充実した学生時代」を過ごすのって、たいへんなんだな。ま、こういうのを読んで劣等感を持っても得することはない。「ご苦労様です」と祭り上げておけばよいと思う……のだが、私なんかでも「先輩として何か一言」なんて話を振られた経験はあって。無碍に断れないから、こんな話をしたと思う。
「留年」のコストを意識すれば、たいていのことがうまく回っていく。「失業」不安が多くの不真面目な人をそこそこちゃんと働く社会人に変身させたり、「中退」を忌避することで高校生活を自分で律していくことが可能になったりするのと同じ。多くの日本人は危機感駆動型なので、自分に上手に負荷をかけるとよい。
「留年したくない」と思えば、自ずと勉強や研究に意識が向く。「試験? ギリギリ通過でOKじゃん」なんて危険を冒す考え方とは、距離を置くことになるだろう。
留年すると、年収1年分などが消え、生涯収入が減る。これが大きい。入社1年目の収入はバカにできない。生活費は留年しなくたって必要になる出費だが、就職すれば住宅手当がつく。さらに「入社が1年早い=出世も1年早い」と仮定すると、定年は決まっているのだから、最も給料が高い1年分の収入が消えることに気付く。年金の支払い免除期間が伸びれば、将来の受取額が減る。現在割引価値で考えても小さな額ではない。
もちろん、収入が減るだけではなく、出費も増えることになる。まず授業料。私大なら80~200万円くらいにはなる。同じ科目なのに教科書の指定が変わって買い直しになったり、といったロスも地味に痛い。一人暮らしなら家賃の負担もある。
その他、就職活動で留年をプラスに転化するのは容易ではない。面接のポイントが少なくともひとつ明確になるという意味では、「対策しやすくなっていい」といえなくもないが。それでも生涯年収の期待値が2%程度は減るかも、という算段は成り立つのではないか。
以上の話を逆に読むと、学歴が利益につながらない世界へ進むなら、大学で時間を無駄にしない方がいい。早く仕事を始めた方が、生涯収入は増えることになる。
ともあれ「留年」は、もしその理由が単なる怠惰だとすれば、相当にコストが高い。しかしその多くが「生涯収入の減少」によるものなので、「ま、いいか」となりやすい。もったいない話だ。人生は長いが、しかし1年は1年だし、500万円は500万円である。
まじめにお勉強してる学生は就職に有利である、という「当たり前」のことが、きちんと書かれている本。個別の採用担当者にはいろいろな考え方があるだろうけれども、傾向としては、遊び呆けていた学生より、まじめに授業に出て、研究に打ち込んでいた学生の方が人気があることは間違いないと思う。
留年のコストを出費の方だけで見積もって「これならトントン」と判断して実行してしまった人は、就職活動の面接で話す予定の言い訳を見直した方がいい。留年を正当化するなら500万円分のコストを説明できているかどうか、「反省してます」なら状況認識の度合は適当かどうか、ぜひ再検討してほしい。
……なんて書いてみても、これを読む人の大半は高校生でも大学生でもないだろうし。ていうか、そもそも「充実した学生生活」なんて、どうせ大半の人には無理な話なんだ。できもしないことを目指して、当たり前のように失敗して、自己嫌悪に陥って。それで人生、楽しい? ハイ、といえる人はご自由に。私は降りる。
留年だって、したっていいんじゃないの。500万円くらいの損、どうってことないよ。現に大勢が留年してるわけでさ。それで人生が終るわけじゃない。だから本当の本当にひとつだけ、敢えていうなら、
これだね。意外と、死んじゃうんだよ。一番、身体が丈夫な時期のはずなのにさ。父の友人は、山で亡くなった。先輩の知人は、酒で亡くなった。祖父の弟は、南方戦線で散った。みんな、死にたくて山に行ったわけでも、酒を飲んだわけでも、出征したわけでもない。それなのに、二十歳前後で命を絶たれた。
誤解を恐れずに書けば、「いま自分は生きている」。何を気をつけてきたわけでもない。運がよかっただけ。そして、馬齢を重ねてさ、「俺がアドバイス? 無理だよ、そんなの」って困った顔をしながら新入生にお説教をする。小さな幸せ、だよね。
あ、ちなみに、【4.】は社員寮自治会主催の新入社員歓迎会に呼ばれたときに私が話してきたことの一部改変バージョン。私にお鉢が回ってくるのはいつも二次会なので、まあこれでいいと思う。立派なことは他の人が散々話してくれているし、1分もスピーチすれば長すぎるくらいでしょ。
3月2日、連立与党の来年度予算案が衆院本会議を通過し、年度内成立が確定した。一般会計総額92.3兆円、税収を国債の発行額が上回る計画。世論はこの予算案を支持しなかった。鳩山由紀夫内閣の支持率はガックリ落ち込み、とうとう不支持率が上回った。
安倍晋三内閣以降、これで4代続けて同じような展開が続いている。最初は一定の期待を集めるものの、半年前後ですっかり人気を失くす。その間、参院選、衆院選が1回ずつあったが、「民意」は政治家に伝わらなかったようだ。
すなふきんさんの疑問は、菅原琢『世論の曲解』を読めば氷解すると思う。
菅原さんは自民党の敗因にフォーカスしており、「有権者がどのような政策を期待しているのか」について歯切れの良い説明をしていない。けれども、求める答えは自民党が支持を失った理由から類推できて、それは即ち「構造改革」と「財政再建」である。
ここでいう「構造改革」とはイメージ語であって、小泉純一郎政権では「不良債権処理」が「構造改革」最大の成功例という説明だった。
また「財政再建」は、「今後10年以内に税収が支出を上回るようにする」というくらいの急戦論を指す。消費税増税に賛成している世論調査で過半数を占める人々が、概ねその支持層に重なりそう。
「青い鳥」は明確だ。財政を緊縮的に運営して、そのために必要な「改革」は何でもやっていくことだ。これには小泉政権の前半という前例がある。国民は新政権を熱狂的に迎えた。だがしかし、不況が深刻化するにつれ、支持率は次第に下がっていった。「青い鳥」政策を愚直に推進しても、未来はない。
小泉政権の後半は、「りそな銀行救済」「テイラー・溝口介入+量的緩和」といった金融政策で景気を持ち直し、支持率の低下を食い止めた。世論はこれらの金融政策に不満顔だったが、結果として生じた「不良債権処理」や、税収の持ち直しによる「プライマリー・バランス黒字化」の計画策定を好感したようだ。
そこそこ高い支持率を保った小泉政権の歩みを振り返るに、国民の期待に応える現実的な政権運営の道筋は明確なように思われる。具体的には、
以上の3項目だ。鳩山政権が「コンクリートから人へ」をテーマに予算編成をするのはよいが、予算の総額を増やさないための努力・工夫がもっと必要だった。財政による景気刺激に色気を出してはいけなかった。
衆議院で、最大野党の自民党は何をしていたのか。与党政治家の不祥事の追及に注力し、ついには審議拒否に至ったわけだ。的が外れている。先の政権党であり、前政権の麻生太郎内閣が財政刺激を志向したので、批判が難しかったのはわかる。しかしここで「自民党は変わった!」と宣言せずに政権奪還が可能だろうか。
予算案の「バラまき」を批判し続けた舛添要一参議院議員が「首相にふさわしい人物」として人気を集め、また政党別支持率でみんなの党の人気が高まったのは当然の話だと思う。とはいえ、有権者は冒険を避ける。新しい政党、小政党が、政策への共感だけで突然に大勢力を形成するとは考えにくい。
財政タカ派の与謝野馨さんが、大きな経済の落ち込みに直面して財政支出による景気刺激を企図した予算を組んだことは記憶に新しい。民主党も選挙前に主張した緊縮財政の逆をやってみせた。有権者が「政策」より「安心感」で投票先を選ぶのは道理だし、実際、みんなの党だっていざとなれば豹変するだろう。
いま「国民に支持される政策」を何が何でもやり抜く力のある政治家は見当たらない。人々の政治への不満は、当面、解消されないのではないか。
私は「有権者の多数派が支持する政策は正しい」とは考えていない。しかし失政ストッパーとして民主主義は必要であり、世論を無視した政治はありえない。小泉政権は、予算自体を減らさず、増税をせず、金融政策を(不十分なりとはいえ)頑張った。無茶をいう世論との付き合い方がうまかった。
少しわからないことがある。マスコミでは政治家の指導力指導力とうるさいが、「指導力」っていったい何なんだろうと最近思う。マスコミがイメージする指導力とはただ単に人気が高い政治家とかそんな感じだが、それがどう指導力と結びつくのかさっぱりわからない。
これは簡単な話。ようするに、いま国民は「政治の世界では国民の求める政策が実現されていない」と認識しているわけ。
マスコミも商売なので、消費者の見解を代弁しようと頑張っていると判断するのが妥当。ネット世論との意識のズレは、読者層、CMの対象層とネットで発言する層のズレによる。ネットで政治・経済に関心を持って発言している人はテレビニュースの視聴者より断然少ないので、ブロゴスフィアの多数意見の方が偏っている。
そういうわけだから、「指導力のある政治家」が「人気のある政治家」なのは当たり前の話だ。にもかかわらず、政治家が「指導力を発揮する」ことが難しいのは、世論の求める政策に賛成しない政治家が多いからだ。
どうして投票で選ばれたはずの政治家の少なからずが、世論を代弁しないのか。それは有権者自身が政策より政党・候補者への信頼感を重視して投票しているからだろう。つまり究極的には、有権者は政策を政治家の専門知に委ねている。だから有権者の怒りは、ある程度、抽象化して理解した方がよいのではないだろうか。
「政治や経済の詳しいことは、自分にはわからない。わからないが、方向性が間違っていないか?」と。端的には、将来への不安が増大するとき、有権者は政治家を批判する。
だいたい、この3つが大きな不安だと思う。まず大抵の政策は財政支出を伴うので、財政不安に結びつく。お金の流れがよく見える政策は、叩かれやすい。少子化対策の必要性は共有されているが、子ども手当てはダメで、仕事と子育ての両立を支援するさまざまな(個別の必要経費がよくわからない)施策が人気を集める。雇用対策も同じで、公共事業はNGで、有給休暇取得の義務化などが支持される。
おそらく、とくに財政支出に関して、政治家の「専門知」と国民の「不安」がぶつかりやすいのだと思う。政治家は、すぐに予算を増やす政策を口にする。それで助かるのは一部の人で、大多数は財政不安を募らせる。定額給付金への反発は、「不要」な給付の利益より、財政悪化の不安が勝った結果だ。それでもみんなが受け取ったのは、「どうせ政治家が浪費するなら自分でつかう方がマシ」と判断したためと考えれば納得がいく。
道路公団の民営化をはじめ、小泉純一郎政権の「官から民へ」が支持されたのは、それが「財政不安を解消する方向の政策」だと国民の目には映ったからだ、と私は考えている。
とはいえ、国民が飛びつく個々の施策を実施すること自体は、あまり意味がないと思う。小泉政権は、りそな救済や量的緩和をはじめ、とくに国民の支持のない政策をいろいろやった。そうして景気が底を脱したら、「不良債権処理を頑張った。エライ」なんて評価された。それは結果として実現できたことなんだけど……という反論はせず、素直に政権が進めてきた「構造改革」の成果として、誇ってみせた。
ともかく国民は、膠着状態や悪い雰囲気を突き抜けて、将来不安を縮減してほしいわけだ。しかし最終的に不安を解消できる政策も、短期的に不安をガツンと増大するのでは、国民の強烈な反発を喰らう。小泉さんは、世論の不安を刺激しない政策を選ぶ眼を持っていた。それで従来型の政策を打ち出す議員と喧嘩になった。
年金の持続可能性を上げる施策にせよ、雇用の確保にせよ、それ自体は誰もが賛成すること。小泉さんは結局、個別具体的な政策において「古い政策論」と戦っていたのではないか。そして国民は小泉さんを支持した。「不安」に支配された時代には、「不安」とうまくつきあう政策が必要とされている。
「孤独死は怖い! でもルームシェアはもっと嫌!」な日本人(2010-02-03)にも書いたとおり、私は、孤独死なんてのは本人の自由な選択の結果という側面が一番大きいと考えている。
そりゃもちろん、満足はしていない人が多いのでしょうよ。「もっと子どもが親孝行だったらなあ」「嫁や婿が自分を苛立たせないキャラクターだったらなあ」「結婚したかった」「こんなに貧しくなかったら……」「全部、酒のせい。俺は悪くない」とか何とか、言い分はいろいろあると思う。
それでも、「孤独死こそが最悪であり、その回避は人生の最優先事項なのである」とすれば、「ルームシェアすればいいじゃない」で終了。その簡単な解決策を実施できないのは、もっと他に大切にしていることがあるからであって、ようするに「そういう水準」ではあるものの、自らの意思で孤独死を選択しているのだ。
私も夢見て来た個人の自由を追い求めた一つの結果が「無縁死」「行旅死亡人」だとすると考えさせられた。
現に孤独死を恐れる人が世間にたくさんいる以上、有効な対策があれば実施すべきだが、この手の「人々が自由な選択を行った結果、生じた問題」は、解決が非常に難しい。ああすればいい、こうすればいい、という解決策はすぐに出せるが、「いくら孤独死が怖いといっても、それは嫌です」ということになる。
アパートの隣の部屋の住人の顔も知らない都会の寂しさ、なんてことがいわれるけれども、「隣近所の人にプライベートへ踏み込まれたくない」というお互いの気持ちが核にあるのだから、基本的には解決不能。こっちは近所のことを把握しておきたいけれど、自分の情報を開示するのは絶対に嫌だからね! 論理エラー。
それでも。金持ちの場合、(スタッフの水準や入所者の階層などについて)自分の納得できる老人ホームを選択する、という形で孤独死を避けることができる。だから貧乏な老人でも入れる老人ホームを……と、上の水準に全員を引き上げようとすると、お金が足りない。そんな「過剰な福祉」に税金を湯水のごとく使われてたまるか、と喧嘩になる。
では行政にできることは何もないか、というと、意外とそうでもなさそう。現在、自由の結果貧乏人がルームシェアを募っても、おそらく応募者がいない。老人ホームという概念は普及したが、長屋という概念は、逆に滅びてしまった。しかし、親子同居が減少し、生涯未婚率が上昇、離婚も増加したいまこそ、シェアハウスやルームシェアという概念を世に広報していくべき時期ではないだろうか。
概念の広報と同時に、環境整備も行う必要がある。「事故物件にしたくないから、死にそうな老人はお断り」という不動産業者を規制・指導し、そもそも「事故物件」などという不合理な概念の撲滅キャンペーンを張っていくことだ。
逆に行政が関わることの不安は、老人向けシェアハウスに、補助金と引き換えに、やたら規制をかけてしまいそうなこと。バリアフリーでなければならない、とか何とか。シェアハウスと老人ホームの違いは、管理者をおかず、各々が自己責任で生活を営むこと。設備の水準と価格の兼ね合いは市場に任せるべきだ。
昔から文通だけの縁というペンフレンドなんてのがあった。
通ってる病院に先日行ったら「予約システム稼働開始しました!」みたいなビラが配られていた。
ようやくネットで予約できるようになったのかと思って見てみたら、電話をかけて「日時を入力してください ピッ」みたいに流れてくる音声に従って入力するシステムだった。今時それはないわ。そうまでしてネットを使いたくないのか。
この記事は、「お年寄りがネットを使えない」から病院の予約が電話を利用した仕組みになるのだ、と説明する。私は、これは単純に「使える」「使えない」という話ではないように思う。
「あるある」「それはないわ」……いろいろな感想があると思う。ともかく、お年寄りがどうこうといわず、「まず自分がどれくらいネットを活用しているか」を考えてみてほしい。携帯電話を使いこなしている私の弟でさえ、プレゼント選びは全くの行き当たりばったりだった。「どうしてそこでネットを使わない?」と、自分に問いかけてみてほしい。
ひとつの仮説として。私は「不確実」を忌避しているのではないか。実際には記憶ほど当てにならないものもないのだが、いざというときほど、記憶に頼る。それで、喘息に苦しむ私は、耳鼻科の広告板のところへ行った。そこには絶対、耳鼻科の場所が記載されているはずだ。病院の定休日も、ネット上に情報があるかどうか、あったとしてそれが正しいかどうか、わかったものではない。病院の入り口の看板なら、確実だ。
あるいは、私は「決断をギリギリまで先延ばしにしたい」と考えているのではないか。映画のチケットを予約したら、その日の行動は、予め定まってしまう。それで何の問題がある? ないよ、ないんだけど、フリーハンドを維持すること、それ自体に私は価値を感じているのではないか。流動性選好と相似。ほしい本をAmazonで買わないのは、無意識の迷いがあるケースなのではないか。商品を手に取って最終判断をしたい、と。
後はもう単純に、「事前調査」のコストが、そのメリットに見合わないケース。「ひどい店に入っちゃった。先に評判を確かめておくんだった……」と思っているのだけれど、無意識の情動まで加味したとき、じつは「グチグチいって、後で調べてお店の悪評判を眺めるのが、かなり楽しい」のかもしれない。そうであれば、無策で突っ込んで成功したら文句ないし、失敗しても総合的に見て不都合はないことになる。
歯科医は基本的に予約制なんだけど、私は「何時間でも待つ」といって、予約しないで行くことがある(あった)。病院の待合室では、目移りする要素がないから、読書がスイスイ進む。これが嬉しい。そもそも「予約」という仕組み自体に魅力を感じない、ということも十分に考えられるわけ。
リンク先の記事の筆者は、病院をネットで予約したいらしい。そういうこともあるとは思う。でも、電話を使った仕組みにガッカリする理由が、私にはよくわからない。
私が連想するのは、宅配便の再配達依頼。不在連絡票には、「ドライバーに電話」「集配所に電話」「電話の自動応答システムで依頼」「ウェブサイトで依頼」という4種類くらいの依頼方法が書かれている。電話受付が可能な時間帯なら、私は必ず「ドライバーに電話」を選択する。帰宅が遅くなった場合は、24時間受付の「電話の自動応答システムで依頼」をする。「ウェブサイトで依頼」したことは、一度しかない。
予定表との連携とか、繰り返し作業の自動化とか、そういったことを考えなければ、やっぱり電話が簡単でいい。最初に電話番号を入力した後は、自動音声にしたがって数字キーをピコピコやるだけで予約を完了できる簡便さは、ネット予約にはないと思う。
行政の電子申請システムがほとんど利用されないという問題がたびたび報じられるのだけれど、「稀にしか書かない書類」が電子化されても、正直、メリットを感じない。窓口で人に相談しながら空欄を埋めていく方がいい。
「えっと、ここに苗字ですよね」
「はい」
「ふりがなは、えーと」
「ひらがなでお願いします」
「はいはい」うん、たしかに「ふりがな」と書かれている。
「住所は東京都から?」
「はい、都道府県からよろしくお願い致します」
「んー、丁目は略して、1の46の、と書いてもいいですか」
「丁目は入れていただけると助かります」
「了解しました」
この例はちょっと極端かもしれないけれど、慣れない書類を書くときって、細かいところが妙に気になるじゃないですか。
ネット予約は、電話よりビジュアルに優れた面はあると思う。最初から「もう無理」な時間帯が表示されていれば、希望時間帯を入力してから「混雑しています。他の時間帯を指定してください」と返されてガッカリせずにすむ。それでも、電話方式のシンプルさは、過半の予約システム利用者にとって有意義だと思う。
同じようなことばかり書いているので、いい加減、記事タイトルを考えるのにも飽きた。今後、「またか」という話には『memo:経済雑感』の題をつけることにする。
景気対策としての「一過性の支出」によってハイパーインフレが起きるだろうか。
それはそれとして、私も「日銀の国債引受」で財源を作って財政政策を実行することには賛成できない。金融緩和が目的ならば、物価の様子を見て機動的に「止める」ことができる方がよい。財政政策だと、そういうことができない。
だから、政府貨幣で国債を償還していく方がいい、と私は思っている。いい加減、しつこいけど。国債を償還するか、借款債を発行するかは、短期間の検討でしがらみなく決定できることなので、物価をモニターして適当なところでスパッと止めることが可能だ。
これは実質的には金融機関の国債を現金で置き換える政策になるので、財政政策よりはGDPギャップの縮小に手間取るし、より多くのマネー供給が必要と予想できる。けれども、この方法ならば、財源は不要だし、国債残高はデフレ脱却に手間取るほど減っていく。国民の将来不安も減るし、中立命題でも無効化されない。
この政策は国債市場の縮小を招くので、国債暴落どころか国債価格の上昇(金利低下)が予想され、大量の国債を保有する銀行の財務体質は強化される。それでいて、国債はどんどん償還されていくから、銀行の国債保有額が拡大することはない。
うーん、私の頭で考えると、日銀の国債引受より政府貨幣で国債を償還した方がいいのは間違いない。
よく「円建てなんだから紙幣を刷れば国債は返せる」なんて言い方を目にするのだけれど、そもそも紙幣を刷る必要なんてあるのだろうか。
日銀が市場にマネーを供給する際、いちいち紙幣の印刷をしているとは思えない。過去、日銀は巨額の資金供給を即日実施してきた実績があるが、そのたびに紙幣を刷っていたら、印刷ミスのチェックが間に合わない。……というところで私は既に何か思い違いをしているのだろうか。
政府貨幣による国債の償還も、政府が日銀に専用口座を開いて、「1兆円硬貨」数百枚を日銀に預け入れ、銀行と政府の口座間の送金という方法で償還手続きを行うなら、「政府貨幣の市中流通による混乱」なんて問題は起きるわけがないと思うのだけれど。
「年率2%の経済成長=主観的な生活水準は横ばい」仮説(2010-02-28)に関して。
何が書いてあるのかよく分からない。高度成長でも苦しくなったと感じるなら2%超どころじゃ全然ダメじゃん。新製品の値段が下がらないってのもよく分からん。同じ価格で質が向上してるなら、値段下がってるでしょ。
まず、高度成長期にも産業構造の変化はあって、衰退産業に従事する人と、その家族は生活が苦しくなるのは当たり前の話。とはいえ、高度成長期に1割超の人が「生活水準の低下」を感じていたという事実、さらには6割近い人が「生活水準は横ばい」と感じていた事実は、かなり重い。
たしかに仰る通り、2%超どころでは人々を幸福にするには足りないように思うけれども、「デフレさえ解消すれば実現は堅い」といえそうなのは年平均2%の実質成長まで。それ以上は、挑戦の領域。
それに80年代は、実質2%ちょいちょいの成長で「生活水準の低下」を感じる人が減少傾向にありました。定常志向による目線の低下と2%+アルファの実質成長が均衡しつつあった……のではないか。2%成長が「質」で全て使われるのだから、「新しいもの」を選ぶためには何かを我慢しなくてはならないのだけれど、それは「生活の組み替え」であって、「生活水準の低下」ではない。とすれば、定常志向なら、不満はないはず。
この話題の発端であるWATERMANさんの疑問は、「日本は経済成長しているはずなのにどうして何かを選ぶのに、別の何かを我慢しなくてはならないのか」というものだと認識しています。おそらく人は、「質」より「量」の増進に反応しやすいのでしょう。しかしそれはそれとして、WATERMANさんはともかく、多くの人々は「生活水準が横ばい」と実感できるなら、概ね満足ではないかと。
だから、まずは2%超を目指せばいいと私は思うのです。
新製品の値段が下がらないといっているのは、「質」はそのままでいいから、とにかく値段を下げろ、というケースをいっているわけ。「あなたの収入が実質1.5倍になりました」というとき、月給で買える物の「量」は1.5倍に満たないわけです。しかし「質」の向上を考慮すると1.5倍になった、と。
私の記事は、WATERMANさんの疑問に答えようとするものです。その点に注意して読み直していただければ、そんなにわかりにくい話ではないと思う。
端的には、WATERMANさんは「質」の向上のボリュームを見誤っている、といいたいわけです。年率2%、20年で実質1.5倍の経済成長、と聞くと、「量」が1.5倍になることを想像しがち。ところが現実には、年率2%程度の経済成長は、人々が意識しない「質」の向上に吸収されてしまう。だから、「新しいもの」を買う、つまり「量」を増やす余裕なんてありはしない。
80年代までは、実質2%+アルファの成長をしていたので、+アルファの分だけ、他の何かを我慢せずに「量」を増やす=新しいものを買うことができたのでしょうね、と。そういう話です。
「年率2%の経済成長=主観的な生活水準は横ばい」仮説(2010-02-28)に関して。
今から 40 年前に発売された KPGC10 (箱スカ GT-R )は、およそ 150 万円でした。
- 5.
- その150万円の車は、市場で全く競争力を持たない。なぜなら、現代の衝突安全性の基準を満たしておらず、燃費が悪く、乗り心地もよくない。減税も補助金も、当然、ない。これらの欠点は、30万円の価格差では正当化できない。とくに安全基準の問題は致命的だ。「安全」の向上は不可逆な「質」の変化である。
確かに、
なぜなら以下は KPGC10 にも当て嵌まる。 今、シートベルトの無い自動車に乗った事のある人は少ないのではないか。 着用が法制化されたのは比較的最近ですが、シートベルトじたいは随分前から附いて居ました。 それ以前の車です。 また、スポーツ走行を目的として居るので、足回りは硬い。 つまり、乗り心地なんぞは ほとんど考慮されて居ません。 そんな KPGC10 ですが、市場で全く競争力を持たないかというと、決してそうではない。 発売時を上回る価格で取引されて居ます。 何度か書いたけれど、S20 というエンジンに価値がある。 もう少し正確に言えば、このエンジンを設計した櫻井眞一郎さんの考え方(思想)に価値があります。
いや……それは私の書いていることとは違う話だと思います。だって、KPGC10を新規に生産しても商売にはなりませんよね? 輸送機械は大量生産をベースに非常に安い価格を実現している商品なので、100台、1000台という数で作ったら、とんでもない値段になってしまいます。
定価1500円の本が古書になってプレミアが付いて数倍の価格になっていることはよくありますが、増刷して利益が出るかというと、残念ながらそうはならないことが多い。印刷の版下が揃っていればまだいいけれど、それがもうなくなっている場合、100冊くらい増刷したのではプレミア価格よりも高くなってしまう。
ニッチな中古市場もちゃんと雇用を生み出しているわけですが、規模としては小さい。全体の傾向を云々する際に持ち出す話ではないと思います。
人命を守るのは先づドライバー(人間)であって、自動車の機械的な安全性ではない。 当たり前だと思うのですが、これが分からないとしたら何うかして居ます。
と言うと、安全基準を無くすべきだ、みたいに読む人が居るので困る。
新規に生産される輸送機械は、厳しくなる一方の安全基準に従っていくしかない。「なぜ中古なら基準未達の商品が売られていいのか?」という疑問はありますが、少なくとも日本では多数意見によって、現状のようになっている。新規に生産される商品は、現代の安全基準を満たさねばならない。
個人的には、「中古ならいい」というなら、基準を満たさない商品も、その事実を客に伝えることだけを義務化して、製造・販売は許可すればいいのに、と思います。そうならないのは、貧しい人が安全性より価格を優先して危険な自動車を買うのは認められない、「安全」という「質」の向上は不可逆でなければならぬ、という発想があるからでしょう。
安全基準を厳しくするだけで人命が守られると思って居る人
はいないでしょう。でも、2005年のマンション・ホテルの耐震偽装事件では、新基準の施行前に建てられた基準未満の建造物は中古市場で取引され続けているのに、新規物件の基準未達は絶対に認められない、壊して建て直せ、という反応でした。散発的に発覚する「健康に影響のない水準の食品衛生法違反」への反応も、似た感じです。
なるほど、安全と健康について、日本の世論は「そう考える」のか、と。
ところで、世の中には「質」が下がっても「価格」の方を優先したい、という方向に流れていくものも少なからずあります。電話の安定性は、そのひとつ。携帯電話の交換機は、かつての固定電話の交換機とは比較にならない脆弱さです。
NTTの固定電話用の交換機は非常に堅牢だったので、その製造メーカーの商品は、自衛艦の設備など軍事用途にも、多少のカスタマイズをして流用されていきました。地震が発生しても電話がつながるように、という設計だから、甲板にドカーンと着弾して大揺れに揺れても止まらない電源として重宝されたのです。
しかし趨勢としては、「質」は「上がって当然」とみなされがちではないか。毎年、少しずつ「質」は向上しているのに、それは「当たり前」として評価されず、なかなか「量」の豊かさが向上しないことに人々は苛立つ。「日本は低成長でいい」という言説がまかり通るのは、そろそろ勘弁してほしいな、と。
先月末、チリで大地震があり、1日かけて日本に1m程度の津波が押し寄せるという出来事があった。気象庁が最大3mの津波を予想して太平洋側を中心に各地に津波警報を出した。それで電車が止まったり、イベントが中止になったり、逆に「問題ない」と予定通りにイベントを開催して論議を巻き起こしたりした。
文筆業の坪田知己さんが、twitterで私怨じゃないけど、津波警報を金科玉条に電車を止めるJRはアホじゃないかと思う。危険度と乗客の生活、仕事のバランスを考えるべき。田舎だから許されると思っている野k、東京だと訴えられるよホントに。私のホテル代、返せーーーーーーっ!!
と呟いて、多くの批判を浴びたのだという。
私も九十九式の記事を読んだ段階では「みんながそんなことをいったら、防災も気象予報も成り立たないじゃないか」と素朴に思ったのだけれど、後日に坪田さんが補足された内容を読んで、少し印象は変わった。
JR四国は、高知県に津波警報が出てるので、運休にしたのでしょうが、高知から岡山は太平洋には面してなくて、瀬戸大橋もかなり高いところにあるのですから、津波の影響はないはず。それを止める判断はちょっとやりすぎと思いました。
なるほどね。たしかに瀬戸大橋の橋げたは海面から50m以上の高さの位置にあって、下界が津波に飲み込まれても電車が運行するのに不安はなさそうです。ちなみに高速バスは当然のように通常運行だったのだけれど、満員で乗れなかったのだそう。なんでこれで電車が止まるんだ、おかしいだろ、という気持ちはよくわかる。
もっとも、それでもJRが運行を止めた理由は想像できます。山手線のどこかで「線路への立ち入り」が起きると、環状線だから、一周の反対側でも電車が止まってしまう。
そしてじつは、電車というのは、環状線でなくとも、どこかで止まると、広範囲で麻痺しやすい。とくに田舎暮らしをしたことのある人は経験があるのではないかと思うけれど、電車で2時間弱の距離の場所で発生した問題のために電車が止まることは珍しくない。鉄道会社は限られた線路にたくさんの列車を同時に走らせているので、遠くで電車が止まると、連鎖的にその影響が波及していく。
坪田さんとしては、「瀬戸大橋だけピストン輸送してくれたらそれでよかったのに」ということかもしれないけれど、電車が高いところを走っているのは橋の上だけ。香川側の宇達駅、坂出駅も、岡山側の児島駅も海沿いの低地にある。香川県はたしか大丈夫だったけど、岡山県には警報が出ていたと記憶しているので、JRが運休したのは正しい判断だったと思う。いざというときの柔軟な対応力は、バスと電車ではかなり差がありそうなので。
個人的には、坪田さん叩きを見るのは「つらいな」という感覚がある。あの橋の上を走る電車を見たことがある人なら、「津波警報でアレが止まるの?」という疑問を持つ人がいることは、理解できるんじゃないか。共感や賛同までは求めていない。理解はできるでしょ、と。
私は、理解できた。できたから、怖いな、と思った。きっと私もこういう「間違い」をする。いや、今すぐピッタリの思い出話を引っ張ってくることはできないけれど、私も同じような「間違い」をして、全然、言い分を聞いてもらえないまま一方的に非難されて、悲しい思いをたくさんしてきたはずなんだ。
「たしかに、橋の上を走っている分には、電車は安全でしょうね」と、その一点だけでいいと思う。まず相手の言い分を聞ける人に、私はなりたい。
瀬戸大橋をタクシーで渡ると、いくらくらいになるのだろう。泊まった方が安かったりするのだろうか。
ハッキリわかる「障害者」の支援だと、「いい話だ」「見習いたい」と、口先だけであれ、賞賛の声が集まる。どうせ他人事だとでも思っているのではないか。まずは自分の職場の一番デキの悪い人との付き合い方から見直してはどうだろう。その無能が「脳の障害」のせいでないと、どうして断言できようか。
少なくとも80年代までは何かを買うために何かを諦めるということは無かったはずです。新しいものは高いから買えないだけで、いずれ安くなれば買えるしそう安くならなくとも給料の上昇が追いつくはず、でした。(中略)経済は20年前の1.5倍に成長しているはずなのに、なんでボクらはクルマ一台を買うのにためらわなくちゃいけないんだろう。誰かこの質問に答えてくれないだろうか。
先進各国に差をつけられている名目GDP成長率ではなく実質GDPではそれなりに成長していると思うんだが、なのに豊かになった実感が湧かないというのも大きな謎の一つではある。実質で考えるとはどういうことかというと、給料が上がらなくても同時に物価も上がっていないのだから理屈では生活水準は不変のはずということ。しかし、実際の経済心理を観察すると明らかに消費に消極的になり、将来に備えて生活防衛型の生活スタイルにシフトしている人が激増しているように感じる。これはどういうことだろうと改めて思う。
生産性が2倍になって労働時間が半分にならない3つの理由(2010-02-19)にも書いたことだけれども、生産性の上昇の大部分は「量」ではなく「質」の上昇で、しかもその「進歩」は不可逆である、ということなんじゃないかな。
「量」と「質」はちょっとうまく定義できないので、ニュアンスを好意的に汲み取っていただきたい。(……と、ここで「アホか。それじゃ意味ないだろ。こんな駄文、読む価値なし!」と判断された方は、それで結構)
いまインドから車を輸入して、そのまま走らせることが可能なら、タタの激安新車は日本でも大ヒットするのかもしれない(注:当然そのとき車検制度は大幅に簡略化・低コスト化されているはずである)。でも、それは「ありえない」。その安全性の低さなどがすぐに問題視され、こんなのはダメだ、となるだろう。
自動車の安全性向上は日本の消費者が望んだことだ。何度、仮定の話として安全基準を緩和した状態をスタートラインに設定しても、シミュレーションを続けていくと、必ず復活してくる。もっと安全基準を厳しくせよ、人命を軽んじるな、となる。
生活の質ということについて。80年代にはクーラーが普及していなかった。学校の教室にクーラーがきたのは90年代の話。中小企業の(基本的に来客のない)オフィスにクーラーがきっちり普及したのも90年代のことでしょう。21世紀になって、やっと町工場の作業現場などにもクーラーが入るようになってきた。
私の勤務先は大企業ですが、本社併設の屋内現場にクーラーが入ったのは、私が入社した後のこと。冬の暖房はないと死ぬから用意されていたけれど、夏は「耐えろ!」といわれた。夏の暑い日に汗水たらして仕事して、みんなで冷たい麦茶を飲んで休憩したのは、いい思い出。今の新入社員はあの「ああ、夏だなあ!」という体験ができなくてかわいそう……なんて話をしたら、「営業、いきたい?」って睨まれた。すみません。
まあ、金属加工なんて材料の温度管理をしっかりしなきゃ精度が出ないんだし、クーラーのおかげでパラメータ調整の手間が減ってよかった。というか、所詮、もう思い出になっちゃったから「楽しかったな」なんで、「明日から気温32度の現場で3ヶ月働け!」と命じられたら、「ウッ」となる。
パソコンの性能向上について。パソコン市場では、たびたび「売れ線価格」の再調整が行われてきた。しかし「価格性能比の向上が止まった」ことはない。市場は性能に満足していない。
登場した頃のネットブックではリッチな年賀状の作成は厳しかったが、これには消費者の不満が噴出した。結果、昨年発売のネットブックは、どれも基本的に年賀状作成に十分な性能を有していた。「量」の革新は「質」の革新と速度が違う。在庫処分ではなく新規生産で赤字にならない価格を設定すると、年賀状作成に対応するかしないかで価格差は1万円程度にしかならない。これは最新機種の在庫処分価格より高い。だからネットブックの性能は、下がらない。
ネットブックが登場し、ヒットしたことをもって、「パソコンの性能競走は終わった」と評するのは間違いだった。技術の進展によってWindowsXPが快適に動作するネットブックが実現されたから市場が立ち上がったのであって、安くて小さいだけではダメだったのだ。
一般家庭においてパソコンは「家族で共用するもの」だった。そういう価格の商品だった。ネットブックは「真に個人用のパソコン」であり、その性能の向上は、これから本格化するのである。
昨年後半には「ネットブックの大画面化」が進んだ。「えっ!?」という声が聞こえてきそうだが、じつはネットブックはあまりモバイルされていない。「自分の部屋」に置かれることが多いのだという。リビングから個室へ。そもそも大画面ノートは「使うときだけテーブルの上に出して使う」という形で普及しのだった。
いまネットブックの小ささに利便を感じておらず、「安いパソコンは画面が小さいのしかないのか、残念だ」と思っているユーザーがたくさんいる。ようは人々の収入が増えない以上、「個人専用パソコン」の価格には上限がある。その枠内で可能な性能の向上は、全て実現されていく。大画面化も、そのひとつ。
話を整理すると。まず、実質GDPの成長は「質」の向上が大半であって、実質GDPが1.5倍になっても、消費できる「量」は1.5倍にならない。20年前に1台180万円で製造販売できた車を、いま120万円で製造販売することはできず、例えば150万円くらいがギリギリのラインだ、ということ。
しかも、その150万円の車は、市場で全く競争力を持たない。なぜなら、現代の衝突安全性の基準を満たしておらず、燃費が悪く、乗り心地もよくない。減税も補助金も、当然、ない。これらの欠点は、30万円の価格差では正当化できない。とくに安全基準の問題は致命的だ。「安全」の向上は不可逆な「質」の変化である。
かくて、新規に製造された自動車の価格は下がらない。「20年前の性能でいいから、安くしろ」というのは無理な話で、(画期的な技術革新がない限り)そういう商品が日本市場に出てくることはない。
携帯電話、パソコン、インターネット、クーラーの一般家庭への普及は、この20年の間に起きた。一人暮らしの若者にまで、これらの商品やサービスは浸透した。個々の商品の「質」が向上し続け、自動車のように全く価格が下がらない商品が多い中、よくこれだけ新しい消費の対象を増やしてこれたものだと思う。
私たち(あえてこう書く)は、「1.5倍の経済成長」というとき、ついつい「量」が1.5倍になると考えてしまう。「質」の向上、とくに不可逆に生じる「質」の向上は、意識されにくい。
不可逆の「質」の向上というのは、以前より改善されているのに消費者が「これくらい当然」と思っている状態、と考えてほしい。消費者って、「願望」が実現されたら喜ぶけど、「不満」が解消されてもすまし顔。
90年代以降の閉塞感、それは、新しいもの、新しい生活を得るためにそれまで当たり前だったものを諦めなければならない、あるいはどちらを取るかのトレードオフを迫られているためではないか、と思うのです。
60年代の本を読むと、高度成長期にも「生活が苦しくなっている」という人が異様に多かったことに気付きます。どうやら「平均的な人は、年率2%くらいずつ生活水準が向上して、ようやく主観的には生活水準が横ばいと感じられる」らしい。「これくらい当然」の水準が、年率2%で上昇していくといってもいい。
ゆえに、実質2%程度の成長では、「何かを捨てないと新しいものを選択できない」となってしまう。本当は「質」の向上が続いているのに、「それくらい当然」だからカウントしてくれないんですね。実際には「失われた20年」の平均成長率は2%未満なので、「質」を我慢して「量」まで減った、と実感される。
まあ、こういう人の心のバイアスはどうにもならないと思うので、処方箋としては「実質2%超の成長を目指す」しかないんじゃないですか。もっとも、個人へのアドバイスとしては、自分の意識を変える方を勧めますけれども。