大相撲の横綱、朝青龍さんが引退を決断したそうで、池袋駅前で号外をもらった。産経、毎日、日刊スポーツの3種。日刊スポーツの号外の裏面は、朝青龍さんの軌跡を、たくさんの笑顔の写真でまとめていた。いろんな人と交流して、世界にいっぱい笑顔を生み出してきたんだな。電車の中で、涙がこぼれそうになった。
ことによると、これが私が受け取る生涯最後の号外かもしれないな。千葉県にいた頃は、号外なんてテレビ画面の中の出来事でしかなかった。せっかくだから保存しておこうか、とも思ったが、こういうのをいちいち取っておけるほど部屋は広くない。また、これまでの人生を振り返るに、だいたいこういうのって、それっきり二度と見ることはないんだよね。帰宅後、もう一度眺めて、新聞紙の回収袋へ。
テレビニュースを見ると、街の反応は「解雇しろ」が大勢だった。横綱というのも、公務員とかと同じ「他人」なんだな、と思った。
どうして多くの人は、「他人」の問題となると、「職を奪う」という社会的制裁に簡単に賛同してしまうのだろう。仕事を失うというのはたいへんなことだ。
交通事故で人を死なせてしまっても、以前は仕事を続けることができた。そうでなければ、賠償金だって支払えないだろう。しかし近年は、飲酒運転の場合は即刻解雇する、という流れである。個人的には、放火・殺人と飲酒運転が同列というのは違和感がある。交通事故を起こしたくて飲酒運転をする人は(滅多に)いない。というか、「意図的な事故」なら「殺人」の範疇だ。
社会的制裁というのは結局、私的な制裁だ。客観的な基準がなく、世間の空気が事の軽重を場当たり的に決めてしまう。酔って暴れて、でも被害者との間で示談が成立して助かった、なんて話は私の周りにもある。「横綱だから解雇でいいんだ」という切断思考に、私は与しない。
「被害者の立場になって考えろ」なんてことをいわれるわけだが、酔漢が横綱なら許せないが、一般人ならいい、なんてことがあるのか。自分が酔払い運転の車のせいで怪我をしたとき、運転手が公務員や有名企業の社員なら許せなくて、貧乏な自営業者なら許せるのか。
「他人」にばかり厳しいことをいわないでほしい。横綱の「引退」を「生ぬるい。解雇すべきだ」とまでいった人が、酔って人を殴るようなことがもしあっても、私は「仕事を辞めろ」なんていわないよ。
長野県伊那市の洋菓子店『菓匠Shimizu』の店主は、隣町で起きた殺人事件について、こう考えた。
なんで事件があったその日の夜にうちのケーキを食べていただけなかったんだろうと。うちのケーキを食べながら語らってもらえば、そんな事件は起きなかったはずなんです。その日の夜、お菓子を囲んで親子が語らう時間を提供できなかったことは、うちの大きな責任なのではないか。本当に偏った考え方かもしれないですが、そう思ったんです。
そうして、子どもが絵に描いた夢をケーキにして届けるイベントを始めたのだという。
多くの人々が、各自の得意な領域で、こうした「私にできることは何だろう」という考え方を持つようになると、世の中もっと暮らしやすくなっていくのではないか。私の場合は、ブログ記事のパクり騒動が起きるたび、同じようなことを考えてきたから、店主の考え方には大いに共感できた。
「ブログの記事が盗用された!」なんてトラブルを、私は少しでも減らしたい。「転載・改変・盗用OK(著作者名詐称や商用利用も大歓迎)」を謳う私の文章が、もっともっと魅力的で、大勢の目に留まるものだったならば、罪を問われた方々が、盗用禁止のブログから無断で文章を拝借するようなことはなかったはずだ。
私の至らなさゆえに、無用のトラブルを撲滅できずにいるのだと思う。ある人が文章を無断で流用されて怒るのも、流用した人が社会的制裁を受け信用を失うのも、本来は必要のないことだ。ハイレベルな文章が「ご自由にお使いください」という形で世の中にあふれてさえいれば、八方丸く収まる。私はそのような社会の建設に貢献したい。
しかし残念ながら、私は無力だ。上記の理想だけで、日記を書き続けることは難しい。もちろん私も精進は続けていくが、私の意見に賛同して、ブログの文章を「再利用自由」とする方が、少しずつでも増えていったら嬉しい。
現在の著作権啓蒙活動は、「自分の権利意識を喚起することで、他人の権利への想像力を養成する」方向性に偏っている。「コンテンツを開放しよう」という話は、せいぜいクリエイティブ・コモンズくらい。現状を考えれば、無理もない話だ。「CCマークによると、この画像は非商用なら勝手に使えるっぽい」とかいって、大切な著作者名表示を怠っている人はじつに多い。まだまだ啓蒙が足りない。しかし将来的には、「ただし勝手に自由に使えるコンテンツもあるよ」という話も広まるといい。
なし崩し的に、それで生活しているプロの作品がフリー素材扱いされる(MSN産経ニュースの写真などは無断転載されまくっている)一方で、具体的被害のないケースで激しいバッシングが起きるというような、今の状況はおかしい。テレビ番組を切り貼りした動画がPVの過半を占めるYouTubeを受容する前に、人々はまず自分のコンテンツの素材化を許容するべきだ。
……と訴えても、人々に言葉は届かない。「もう8年ほどこのようにしていますが、全く不利益はありませんよ」と、自ら実績を積み上げていくしかない。
「これってまさに俺がいいたかったことだよ!」という文章があるなら、いちいち自分の下手な言葉で書き直す必要のない世界がいい。今日の気分を iPod に入れる曲目で表現するように、あるいは服装をコーディネートするように、日記だって心に響く言葉の取り合わせで十分なんじゃないか。
他人が作曲して作詞して歌っている音楽で、私たちは満足している。他人がデザインして縫製した服で、私たちは満足している。選択で個性は表現できる。日記だって、いちいち自分で文章を書くなんて、重くない? リンクだけじゃ嫌だよね。原作者が勝手に消したり、書き換えたりする。それに全部じゃなくて一部だけほしい、ってことも多い。やっぱり、転載したいよね。
待て待て、音楽や服は「盗用」してないだろ、って? まあそうなんだけど、人に会うたびいちいち「この服、俺がデザインしたんじゃないよ」とかいわないよね。日記だって、盗用が当たり前になれば、いちいち「この文章、俺が書いたんじゃないよ」とかいわなくて済むようになると思う。
ブログサービスがたくさんテンプレートを用意するようになって、「素晴らしいデザインですね!」という誉め言葉のニュアンスは自然と変化したと思う。
以前からあちこちで同じことをいっているのだけれども、孤独死の最大の原因は、人々の価値観にある。家族でもないのにひとつ屋根の下では暮らせない、孤独死が何だ、他人との同居なんて真っ平ごめんだよ、ということ。ルームシェアの相手を募集する個人広告が街にあふれているような社会と、日本との大きな違い。
他人と同居するのに結婚なんて高いハードルを設けているから、孤独死することになる。結局、孤独死なんてのは「怖い、怖い」というだけで実際の行動に結びつかない程度の問題なのであって、多くの人は現実に赤の他人と気軽に一緒に暮らすことをこそ真に恐れ、忌避しているのだ。
国民年金では生きていけないとか、生活保護が足りないとか、あるいはベーシック・インカムが日本では非現実的といわざるをえない理由も、この「ちょっとでも気の合わない人とは一緒に暮らしたくない」という価値観が浸透しているところにある。貧しい人が肩を寄せ合えるなら、ベーシック・インカムは月5、6万円程度あれば足りるので、現実味を帯びてくる。これを年額150万円にしようというと、まず不可能。
今では家族介護の悲惨さが啓蒙されて「老人ホームに入れるなんて金持ちはいいわね」みたいな風潮も出てきたけれど、私の幼少期(1980年代)、施設へ「入れられた」人々は「かわいそう」といわれていた。今もそういう感覚は残っているようで、金持ちが家族の介護に勤しむと美談になる。私の感覚だと、お金を払って他人に世話をさせた方が、当人に余計な気を遣わせることが少なくていいわけだが。
私の実家方面では、親戚や友人に家の鍵のスペアを渡していたりする。私のアパートの鍵も、両親と弟がスペアを持っている。この程度のことでも「えっ!?」と驚かれることが増えた。最近は親が勝手に家に入る「可能性」すら許せない人が珍しくないらしい。
そりゃ鍵を渡せば、自分が仕事に行ってる間に家に忍び込むことは可能だろう。でも、そんなことはしないでくれよと子どもがいっているのに、それを親が無視することを「ありうる」と考える信頼のなさって何なのだろう。寂しい話だ。
私自身は、別に自分の留守中に両親が部屋に入ってもいいと思っている。具体的に困ることを思いつかない。私の両親は決して勝手に物を捨てたりしないし、偶然、秘密に類するものを見かけた場合には確実に「見なかったことにする」ので。ただ、世の中にそういう人が滅多にいないことを、今の私は知っている。
無茶をいうつもりはない。しかし、みんなが自由に振舞って、されたくないことは物理的にブロックすることで対抗する、というような社会の方向性には危惧を抱く。それが多様な価値観が共存する社会のひとつの解であることは否定しない。否定しないが、私はその解に満足していない。
全く同じ記事なのに、ブックマークの付き方が全然違う。読んだ人数も大違いだと思う。転載先のブログは、ちゃんと原典へのリンクをしている。しているのに、この結果。
『増田にゃんねるβ』の記事は、多くの場合、原典よりブクマが少ないから、単純なことはいえないけれども、「リンクすればいいじゃん」が現実に即していないことはたしかだ。
もし増田にゃんねるがリンクだけしていた場合、原典に1000以上のブクマがついただろうか? そうはならなかったに違いない。アクセス解析をしてみれば明らかだが、リンク先を読みにいく人は少数派だ。リンク以外にほとんど何の情報もない記事ですら、特定のリンク先を過半の読者が参照することはない。
転載記事っぽく見えて、じつは肝心な部分が改変されていた、なんて事例はしばしばある。あるいは「中略」の部分を読んでみたら印象がガラッと変わったり。そういうことはみんな知っているのに、それでも原本を確かめる人は少ない。
はてブで政治家の「失言」が話題になると、「前後の文脈はこうだ」なんて記事が、後にまた話題になったりする。それが本当に労作である場合もあるけれど、しばしば官邸や官庁の会見録をまとめ直しただけのものだったりする。それをありがたがってる人たちが「情報をコピペしてるだけのマスコミ報道は使命を終えた」なんて意見を称揚していたりするから、私はポカンとなる。
結局、大多数の人は情報の収集整理を他人に任せたいわけだ。その生活スタイルはネット以前と全く変わっていない。コミュニティで話題になっているブロガーの記事を、それが自分の直感に反しない限り根拠なく信用するなんて、新聞を毎日きちんと読むより、世界を見つめる態度として劣化していると思う。
また今日もリンク先と関係ないことを書くんだけど。
だいたい仕事ひとつにあれもこれも期待するから迷うので、宝くじが当たったら仕事なんてしたくないという私のようなタイプは、「生活の糧を得るため」とシンプルに割り切った方がいいと思う。
世の中には仕事(そのもの)こそ幸福の源泉という人がたくさんいて、あれこれ啓蒙活動をやっているのだけれども、そうした風潮には表向き従っておけばいいだけ。いちいち反発してエネルギーを費やすのは得策ではないと個人的には思っているけれど、違和感があるのに、長いものに巻かれる必要はない。
私のような生き方をするならば、仕事は(少なくとも大枠では)上から降ってくるもの。自分の倫理に反しない仕事かどうかだけをチェックして、後は黙々と給料分の仕事をすればいいのだと思う。「なんでこんなことを」「だって、これをやれば給料をもらえるんだもの。需要と供給ってやつ」「はいはい」
こういうことをいうと、「そんなんで楽しい?」って訊かれることがあるんだけど、「深刻な悩み」から解放されると、ものの見え方が変わることが多い。「どうしてこんな作業に金を払う人がいるんだろうな」と思って、あれこれ観察してみるのも楽しいし、「戦略とかそういう難しいことはエライ人に任せる」ことにして、今やってることに集中すると、意外な奥深さを発見できたりもする。
多分、仕事って、どこまでいっても「誰かがそれを望むから」という天下り式の構図から完全には逃れられない。ならば当座は「上司がやれといっているから」やる、でいいと思う。自分に行動を選択する余地がある領域なら、考える価値は大いにある。でも、選択肢がない場面で悩んでも実り少ない。
本日開催の『九十九式9周年記念新年会』について、テキトーに虚実織り交ぜてメモを残します。(記事公開:2010-02-02)
29日の夕方、「明日は九十九式オフだよな……」と予定をチェックしたとき、「あれッ!?」と思ったんです。集合する場所と時刻がわからない。
明日の集合場所ってどこでしたっけ?
時刻の方も忘れてしまったので、
申し訳ありませんが、もう1回連絡ください。
こんなメールを出してみると、すみません!徳保さんがお忘れではなく、私が連絡を忘れていました!
という返信あり。宮本・ザ・ニンジャ開催のオフ会とはいえ、こちらは一般人のファンなので、情報を伏せたまま現地集合という離れ業はさすがに不可能。危ない、危ない。
そして30日、待ち合わせ場所の「六本木アマンド前」へ行ってみると、『六本木アマンド』はビルごとなくなっていました。よく調べてみると、アマンドは現在、路地裏に場所を変えて営業しているらしい。「六本木アマンド前」って、まさかそっち? 慌てて電話をしてみると、背後に宮本さんが出現。ホッとしました。
ところで、「六本木アマンド前」は、いつも待ち合わせの人でにぎわっているそう。「渋谷ハチ公前」や「新宿ルミネ前」などもそうなんだけど、お互いに顔を知らない人同士の待ち合わせには向かないと思う。よい対案はないけれども、地下鉄の出口を指定して、「正面」とか「すぐ右側」などと狭く限定するのも一手。
事前に聞いていた参加者は『九十九式』の宮本さん、『モーネ申通信』『えだは』のTKさん、私の3人。あと2人が参加予定だったけれども、1人不都合、1人インフルエンザで欠席とのことでした。
ところが、宮本さんの仰るには、『if→itself』のifさんが1時間遅れで参加する予定だという。急遽、という話だったので、「あー、不都合が解消されたのかな」と。この予想は「はずれ」で、事実は「インフルエンザが治った」のだそう。
「てことは、ついさっき病院へ行ってみたら、もう治ってますね、とかいわれたのかな?」……この予想も「はずれ」。熱が下がって2日経ったらもう大丈夫、という自己診断で参加を決めたのだという。「了解、了解。でもさ、だったら1時間遅れる理由って何?」……後で当人に質問したはずなのですが、回答は忘れました。
TKさんは宮本さんと先に合流していたので、ほぼ定刻に集まった3人で予約していたお店へ移動することに。
まず、宮本さんの案内で、西へ向かう。150mほど歩くも、残念ながらこの道は方向違いと気付く。途中で道路を渡って目的地に少し近づきつつ、最初の交差点へ。
今度は北へ。200mほど歩くと、残念ながら目的地を行き過ぎたことに気付く。「だんだん目的地に近づいてますよっ!」「ダウジングなら、すごく反応がきてる感じです!」なんて冗談めかして仰っていたけれども、さすが忍者、尾行を探知する歩き方が身体に染み付いているんですね。感心しました。
さて、ようやくお店に到着。2階のカウンターに「予約していた宮本ですが……」と声をかけると、「お席は3階に用意してございます。お手数ですが、3階の入り口へお願いします」とのこと。下駄箱に入れた靴を取り出し、履きなおす。
そうして階段を上り始めると……「お久しぶりですー」ifさん到着。これが真の狙いか!!! 神タイミング。忍者たるもの、これくらいの時間調整がパッと実行できなきゃ生き残れない、ということかな。
案内されたのは、窓際の掘り炬燵。ゆったりしていていい感じ。机の上には「(有)ツクモキカク御一行様」という札がありました。そういえば6周年のときも、ツクモキカクの慰労会という体裁だったような気がします。もちろん宮本さんが社長、他は一般社員。
忍者屋敷をイメージしたお店なので、店員さんが忍者風の格好をしています。女性店員は小手代わりの布を肘の先に巻いているし、桃色の装束で各部の意匠がよく目立つため、一目で「あっ、忍者!」という感じ。一方、男性店員の装束は「自然」な感じで、最初は忍者装束と気付きませんでした。「忍者としては、目立たないのが正しい」と宮本社長。「仰る通りです」と一般社員は納得する。
……というわけで、個人的にはこのあたりでもう大満足だったので、その先の話は他の方のオフレポに譲ります。(ええー!?)
memo:記事にならなかった話題(2010年1月版) 他(2010-01-25)の補足記事です。
私は様々な話題のメモにはてなブックマークを利用しています。会社の昼休み、自宅、出先、実家……どこでメモしても同期が取れて、ブックマークレットで簡単に記録できるのが、便利でよいと思っています。「ブックマークレットではてなダイアリーにかんたん投稿」という手もあるのですが、多少、思うところあって、非公開のブックマークにしてます。
もつたいないと思つた。(中略)記事の完成度だの何だのは氣にする必要がないと思ふ。
過去に何度か書いてきたとおり、私にとってウェブに何かを公開するのは「面倒くさい」ことなんです。何かしらの動機なしには、「面倒の壁」を越えられません。
はてブに記録するなんて、ボタンひとつ押すだけの手間なんですけれども、それすら「面倒くさい」。だから、「後で何か言及するかも」と思った記事しか記録しないのです。
で、1日に1回くらい、自分のはてブを眺めて、何か書こうかなあ……と思案します。でも、文章を書く面倒くささは身に沁みていますから、よっぽど「これだけは書いておきたい!」という気持ちが湧き上がってくるか、他の記事を書くのに途中で疲れて、何となく惰性で軽く書くか、何かしらそういった状況が整わないとダメなんですね。それぞれ思うことはあるんだけど、「また今度にしよう」というのが大半。
では、どうしてストックを消してしまうのか。それは、ストックされた話題が増えてくると、ひとつひとつの話題については、記事を書く面倒を乗り越える力がないのだけれど、それがたくさん集まると心を動かす力を持つからです。何か書きたい気持ちはあるのだけれど、具体的な文章にならない。結果、イライラする。
記事は書けなくとも、はてブから下書きページに転記するくらいのやる気はあるんじゃないか……そう思ってやってみたのが25日の記事なんですが、やっぱりいまひとつでした。
私が「気になる」話題というのは、それ自体は別に、人様に紹介したいものではないんですね。「こんな意見が広まったら嫌だな」みたいな部分を含んでいるので、そこのところを注釈せずに紹介したくはない。あるいは、全体としては平凡なんだけど、一部に注目すると面白い、とか。
だから、単にリンクだけしても、それで私の期待するようなことは起きそうにない。事実はそうではないかもしれないけれども、いま、私はそう思ってしまう。すると、ただコピペするだけの意欲すら、全くわいてこない。で、イライラ解消のために、記事にならなかった話題はネタ帳から消してしまう。
経験上、イライラとか怒りというのは、怠惰な私を動かす大きなエネルギー源です。heartyなドラクエ9のレビューですら、Amazonを舞台としたネガキャンの嵐への怒りと、「もっとこういうレビューを書く人がいていいはずなのに……」というイライラゆえに書かれた、といっても過言ではありません。
このイライラの力は、「記事を書く」という創造的な方向だけでなく、「ネタ帳をスリムにする」という破壊的な方向にも、大いに力を発揮する、というわけです。
これは、正直、わからない。わからないが、まあ、人気のあるブログはたいてい、それぞれに理由はあるな、とは思ってます。ただ、突発的に注目を浴びる記事というのは、もうどうしようもないというか、狙って書ける人なんて滅多にいないと思う。
昨年の私の記事の中で、概ね狙い通りにウケたのはPCに入れておきたいフリーソフト+α (2009年秋)(2009-11-25)くらいしかない。子どもの悪事が明らかになったときの対処(2009-08-25)などは、たしかに一定の反響は予想したけれど、結果は予想を10倍くらい超えていました。ときどき「同じような記事は過去に何度も目にしているんですけど……」みたいな記事がヒットしていたりするので、大当たりは目指してもしょうがない。
じゃあ他に何が、といって、わかりやすい目標は提示しにくいな。それでも、人気サイトの管理人たち(2005-06-29)に書いたことは、少し形を変えてはいるものの、5年経った今も、あまり変わっていないように思う。
この備忘録の固定客が1000人くらいいるのですが、私の記事にリンクしてくれる人は限られています。おかしな話なんですが、大手サイトの管理人さんしかリンクしてくれない(くれなかった)記事というのがたくさんあるんですよね。人気記事のいくつかは多くのサイトからリンクされていますけれども、じつはそういう記事の方が少ない。
大手サイト同士でアクセスの回しあいをしているように見えて、不愉快に感じる方もいらっしゃるようなのだけれど、少なくとも私には、そんな意図はありません。
私は滅多にオフ会などには行かないのですが、その乏しい経験からいうと、人気ブログ(仮に1日平均1000ページビュー以上とする)なんて割合としてはかなり少ないのに、オフ会は人気ブロガー比率が高い。一般ブロガーの方が少数派で、身をすくめていたりすることもあるくらい。
初期のイザ!からは彗星のように人気の記者ブログがいくつも誕生して、お祭り的に、いくつかオフ会が開催されました。その参加者には、やっぱり同様に頭角を現した人気のイザ!読者ブロガーの割合が多かった。毎日数千人が読んでいるブログなのに、ファンの集いに参加する20人、30人の内の2割以上が人気ブロガーというのは、単純計算で考えれば異様なことです。
『九十九式』が復活したとき、気付いてすぐ文中リンクした人は、みんな逆リンクされたと思う(リンクしても相手側のアクセス解析に全く記録が残らない零細ブログは別として……)。九十九式の読者でブログみたいなのをやってる人はもっとたくさんいたろうに、結果的に文中リンクした人の大半が、現役の人気ブロガーか、かつての人気サイト製作者だったのはなぜなのか。
こうした小さな体験の積み重ねを安直に一般化させてもらうと、特別な情報の乏しい、日々思うところを書いていく(だけの)ブログがそこそこの人気を集めるかどうかって、「コミュニティに関与していく意志」の影響が大きいんじゃないか。
この備忘録は、人気の割にはてブ数が多い。それはどうしてか。私は「話題をはてブから拾う割合が非常に高いブログだから」と理解しています。はてブの人気記事に対して、たびたび気合入れて言及する。すると、はてブのユーザーに認知される。結果、はてブされやすくなる。
ブログ検索してみると、私と同じようなことを書いてる人は既に存在したりする。しかも、コメント欄の賑わいとか、トラックバックのつき方とかを見ても、この備忘録より明らかに読者数も多そう。なのにどうしてはてブはうちの方が多いのか、と考えてみるに、はてブのコミュニティへの関与度の違いではないか。
つまり、ブログって同人活動に近いんだな。芸能人とファン、みたいな世界ではない。
『万年筆ト雑キ帳』は元『迎賓館裏口』です。書き手の柊楸(ひいらぎ・ひさぎ)さんには、いろいろご迷惑を……。
と、書いてみて思うのだけれど、私が何かしら言及しても、人気サイトや、あるいは後に人気サイトになったサイト以外からは、ごく稀にしか反応がない。柊さんは私のつまらない言いがかりによく相手をしてくださったので、ずいぶんご迷惑をおかけしました。
しかし逆にいって、2chなどを別とすれば、柊さんの書くことにいちゃもんをつける人は少なかったのだろうと思う。もし私みたいな読者がたくさんいたら、柊さんのようなレスポンスのよさでは、とっくに破綻していたはずなので。
……それにしても、「バクトラ」も一区切りなんですね。同志が欠けてしまうような感覚。なお、柊 (backentrance) on Twitterの方は更新が続いています。
「同人仲間と友人関係の違い」とでもいうか、お互いの関心事が離れてしまうと、けっこう簡単に人間関係もなくなってしまう。ブログは続いていても扱う話題が昔と変わってしまったので、全く言及しなくなったとか、ブログを閉じてmixiへ活動の場を移したのがきっかけで没交流になったとか、とくに珍しくもない。
twitterへ移った柊さんを追いかけるかというと、これはわからない。私はtwitterには距離を感じている状態なので、もしそれが変わらないなら……。はてブのユーザーがYahoo!ブログの記事をほとんど読まないようなもので、暮らしている街が違う、というような感覚なんです。
大学の教養系科目では、毎回のように小文を書かされたんだけれども、それについて先生がどんなことを感じたり考えたりしたのかを聞く機会はあまりなかった。たまに次の講義で少し触れられるくらいで。だから、こうした試みは大歓迎。
よくテレビドラマで「このドラマはフィクションであり、実在の人物・団体等とは一切関係がありません」みたいなことわりがきを流しているが、あれが必要なら占いや性格診断には「この占いは科学的根拠がありません。あくまで娯楽としてお楽しみください」みたいなものが必要だろう。
山口さんの問いかけに対し、大半の学生は現状肯定的な意見を返したのだという。
学生の意見に従うなら、ドラマに「この作品はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係がありません」といった注釈をつける必要もないように思う。ちなみに、この注釈は1972年の特撮テレビドラマ『超人バロム・1』放映時に放送局へ寄せられた抗議への対応がはじまりだという。40年足らずの歴史か……。
……あれっ!? とすると、「この作品はフィクションであり(以下略)」という注釈が普及しているのは日本だけなのか? 海外作品でも見かけたような気がするのは、気のせいかな。気になって30分くらい調べてみたんだけれども、よくわからなかった。
ちなみに映画のエンド・クレジット(英語では closing credits というが一般的だそうです)が長くなった詳しい経緯についても興味があるのだけれど、「1970年代にスタッフらの組合の活動が奏功した結果である」という以上のことがわからない。どうしてテレビ放映時にはクレジットをカットしていいのか、とか、多くの疑問が解消されないままになっている。
長く視聴率の問題でエンド・クレジットの短かった米国のドラマなどでも、90年代末から組合の意見が通り始めて、次第に長くなりつつあるという。Wikipedia英語版には、しかつめらしく、近年は画面を分割して視聴者を楽しませる映像とともにクレジットを流すようになっている、なんて説明がある。
そんなの日本のテレビドラマでは80年代から……と思って古い作品を見てみると、なるほど、長いクレジットは冒頭に近いあたりに配されていて、ラストはスパッと終っている。あるいは、クレジットを末尾に配する場合、長くない。『古畑任三郎』のように長いエンド・クレジットが長い作品は、この件を気にし始めてからでは、今のところ90年代以降の作品しか発見できていません。
「意外なものの歴史が浅いんだなあ」と。まあ、私の調べ方が浅いだけで、実際は長い歴史があるのかもしれないけど。
こういうのも、調べていくと今ひとつ真実が掴めない。「どこまで本当かなあ?」という疑問はある。ただ、こうした視点を持つことは大切だと思う。
新聞や本を全国民的に読むようになったのは高度成長期だ、とか。昔の人を引き合いに出す議論が出てきたら、だいたい疑ってかかった方がいい。客観的な観察では「偶然」以上でも以下でもない占いを「当たる」と思うのは「認知の偏り」のためなんだけれども、能力の高い人は、同種の人に囲まれて成長することが多いから、だんだん世間が見えてくると「社会が劣化した」と思いやすい。
そういうことを周囲の人に力説してきた私が、いま「えっ、そんなに歴史が浅かったの?」なんて驚いている。人間の脳の仕組みには根本的に欠陥があるのだと思う。(……これもまた、ろくに根拠のない決め付け)
最近、驚いたのが「ハートフルは和製英語」という事実。英語に親しんでいる人なら皮膚感覚でわかることらしいのだが……。ちなみに、英語では hearty というのだそう。
非モテSNS内の日記からリンクされたので、アカウントを取って読んでみました。
誰でもアカウントを取れるSNSの中で「全体に公開」されている記事でもあるし、一部を引用させてもらいます。
- カザ太郎 2010年01月26日 00:17
- ↑の記事によると新聞の価格は
流通+コンテンツ(ジャーナリズム+情報の写し・整理)
こんな良く指摘されてんのに、記事の中程からまたまぜてるんだもんなぁ。
・流通→超ダメ
・ジャーナリズム→価値あり!金になる!
・情報の写し→そもそも写し方がヘタ。価値なし。
雰囲気で書くとこんな感じかとw
今まで水増してた部分が削ぎ落とされて、売上縮小して利益確保じゃないかな。
以下、反論など。
私の記事がわかりにくいのでしょうが、私が書いているのは、人々の直感的理解に反して、金になるのは「印刷物を配達する」という部分であって、「ジャーナリズム」はほとんど金にならない、ということなんです。そして「情報の写し」はバカにされているけれど、実際には、テレビニュースや新聞報道に求められていることの大部分でもあるのです。
具体的には、毎日たくさん出てくる政府発表、広報資料、審議会報告、閣僚や幹部の会見、政治家の会見・インタビュー・講演要旨、各地の警察発表、海外の主要報道の要約、企業の決算、新製品、業界情報、民間団体の調査報告書・アンケート集計、イベント情報、映画・演劇・歌謡、伝統文化、地域情報などをマスコミが報じるのをやめた世界を、考えてみていただきたい。毎日、新聞をきちんと読めば、1日1時間でこれらをざーっとチェックできるわけです。新聞社の情報収集・整理能力は、IT技術がどんなに発達しても、一般人が追いつけるものではありません。
フリージャーナリストが独自取材をまとめた本が1冊1600円で売れる、といった程度には、ジャーナリズムもお金になります。けれども、独自に取材した情報しかない新聞は、ノンフィクションの本と同程度(1,000~10,000部)にしか売れないでしょう。いや、それさえも、ネットに出したら無料で読まれておしまいです。
ネットのマスコミや情報収集系ブログへの蔑視とは裏腹に、人々は「誰かが情報を集約してくれること」と強く望んでいます。ネットがどんなに発達しても、自分で大臣の会見記録を読みにいくのは高々数万人に過ぎません。面白い発言なんて100に1つもないからです。99.9%の国民は、報道機関などが「こんな発言があったよ」と紹介してくれるのを、ただ待っていて、それは合理的な選択なのです。
しかし、じゃあ誰がその仕事をやるのか。通信社がひとつあればいい、というのは、半分だけ正しい。もし国民が興味を持つ発言の見極めが簡単なら、通信社はひとつでいいのです。でも実際には、数十社が取材して、2~3社だけがニュースにして、それが話題になればみんなが報道するし、スルーされれば忘れ去られる、という風になっているのです。毎日、試行錯誤があるのです。だから、1社ではダメなんです。
記者会見の質問だってそうです。いろんな会社の記者さんが、あれこれ聞きます。読者が食いついてくる記事になるような面白い答えを引き出す質問を狙っているんです。でも、ほとんどは空振りです。記者が一人では、すぐにアイデアが切れてしまう。何人も記者がいて、限られた時間内に先を争って質問をして、それでも現状程度なんです。「低レベルな現状」をバカにするのは勝手だけれども、事業仕分けを毎日取材していて、スパコンの「世界一でなければダメなのか」発言が一番ウケるなんて、誰がわかりますか。ニュースへの需要は、膨大なトライ&エラーなしに掘り起こせないものなんです。
「内容さえよければ有料コンテンツを買う」という人は多い。けれども、ギリギリ成功した会社がWSJくらいしかない(それも山本一郎さんが喝破するように紙媒体のブランド力で何とか維持されているもの)。一部の有料メルマガが1万人くらいのファンを掴まえましたが、それでは現在の新聞社の業務を全く維持できません。人々の財布の紐は固すぎます。
無料のネットニュースは、紙媒体でコストをペイしている前提があって成り立っているのであって、紙の新聞が売れなければ存続できません。もちろん、壊滅はしない。ではどうなるかというと、テレビニュース程度の情報量にまで縮小せざるを得ない。現在のテレビの貧弱極まりない報道で十分だというなら、今まで水増してた部分が削ぎ落とされて
よかったね、ということになります。
もちろん私は、そんな風には思えない。
政府は毎年数十冊の白書を発行していますが、テレビ報道の取材班は、これを読んでいない。新聞記者が読んで要約して記事にし、その記事をさらに要約してテレビ報道にしています。新聞社が崩壊すれば、テレビ報道もガタガタになります。本当にそれでいいんですか? と私は思うし、山本一郎さんもそういうことを危惧しているのではないでしょうか。
どうせ独自取材の記事なんか少ししかないじゃないか、という「マスゴミ」批判は、報道機関の存在意義を勘違いしているのですよ。政府の何とか白書なんて、10万部もなかなか売れない。それが報道に乗ることで、1000万人程度には概要が伝わるのです。経済白書、警察白書、防衛白書、この3つだけでも毎年読んでいる人が、どれだけいるんですか。
ネット時代になってますます進んできている誤解なんですけど、「必要になってから調べればいい」なんてのは、辞書と文法書があれば英語がわかるというのに近い。ネットニュースは「知りたいことを知る」のには好都合ですが、「興味のないことを含めてさまざまなニュースを効率よく知る」には向いていないのです。だから紙の新聞がネットニュースに移行して消えてしまうとすれば、それは大問題だと思う。
「どうせ紙の新聞だって、興味のないページは読まないもん」ええ、ええ、そうなんでしょう。それが1億人の実感なんですよね。もう諦めるしかないのだけれど、1000万人の側に属する者としては悲しいな。
20年後か、30年後かはわからないが、広告だけでペイする水準まで報道が縮小された世界で、私はどうしているだろうか。ただ単に「面倒」に負けて、乏しい情報から世界を想像しているのかな。いやまあ、現状だって、世界の広さと比較して、私の得ている情報はあまりに少ないのだけれど。
地方の新聞社は、現在でも一般ニュースを通信社に頼り、独自の地元取材を足し合わせて新聞を作っています。この独自取材の部分はネットに出てこないわけで、チラシと同様、印刷媒体を売り続ける引きになりますよね。市場を独占している県もあるくらいだし、地方新聞社は、かなりしぶとく生き残っていくと思う。
危ないのは「全国紙」。産経新聞とか、真っ先に消えそう。現状でも読売や朝日と比較して(広告の少なさを考慮しても)
ま、そうはいっても、私が死ぬまでに新聞業界が完全に崩壊してしまうほど、世界の変化は速くないと思う。20年先を想像しても、固定電話が完全消滅しているとは考えにくいでしょ? VHSに敗れたベータマックスも21世紀まで存続したくらいで、あんなものでも27年間存続したわけ。炭鉱なんかでも、「もうダメだ」といわれてから完全消滅するまでには、ずいぶん時間がかかったんですよね。
それでも、業界の縮小整理は避けられないので、新聞ファンはこの先、長い長い悲しい道のりを歩いていかなくちゃならない。
私は何かしら元になる文章がないと自分の記事を書けないので、いつも20~30件くらいのネタをストックしています。が、実際には何も書けないまま終ることが多い。それで月に1回程度、記事になりそうでならなかった文章を消しています。
今回は、ふと思い立って、ネタ帳から消すことにしたネット上の文章の一部をご紹介します。いったんは何らかの記事を書けそうだと思った文章ですから、本文の内容orはてブなどの反応について、何かしら同意できないこと、違和感、疑問、補足したいことなどがあった文章ばかり、という点にご注意。
ところで、私が読む文章は印刷物が過半なのに、どうしてブログの記事はネット上の記事ばかりネタ元にしているのか? 自分でも疑問に思っていたのであらためて考えてみると、URIひとつでネタ帳にストックしたり、マウス操作で簡単にキーフレーズをコピペしたりできる利便性があるからかな、と。
あと、印刷物については、読んだらどんどん手放しちゃってるから、というのも大きな理由のひとつ。さあ記事を書こうというときにはもう、手許にないことが多い。私もニュース的な話題に言及することはあるのですが、基本的には、ある程度、時間を置いてから記事を書くことが多い。考えがなかなかまとまらない方なので、「こんなことを書こうかな」と思ってから何回か睡眠をとらないと、文章にならないのです。
常時300~1000冊の蔵書があるのですが、既読書は100冊程度。他は全て積読本。毎年、数百冊も読んでいるのに、ちょっと気を抜くと、みるみる蔵書が増えていく。ジュンク堂書店などへ行くと、私が読みたい本が軽く10万冊以上あることを実感させられます。人生の全てを読書に費やしても、読みたい本を際限なく買っていったら全く追いつかないことになります。
ときどき書店へ行っても読みたい本がないという人がいるんだけれども、私にはよくわかりません。
私は池袋の隣駅の大塚から歩いて4分くらいのところに住んでいるけれども、怖い人とか見かけたことないし、家の前をパトカーがサイレンを鳴らして通ったこともない。救急車は4年間で2回見たかな。
池袋は社員寮時代は平日は毎日利用していたけれど、私が職務質問を受けたのは1回きり。警官が目立つのもデモ隊が練り歩くときくらいで、ドラマとかに出てくる池袋にはピンとこない。まあ、よく知っているわけじゃないから、あれがウソだというつもりはない。ただ、ピンとこない人も実際ここにいるよ、ということだけは書いておきたいかな。
あと、はてブのコメントなどにもあるけれど、区だと単位が大きすぎるんだよね。池袋と大塚がある豊島区なんかは狭いけれど、かなり広い区はいくつもあるので、駅単位とかにしないと実りのある話にはならないような気がします。
ていうか、治安がいいとか悪いとか、何と比較しての話なんだろう。
私は自分が生まれ育った成田ニュータウンって、とてもいい街だったような気がしてたけど、私の高校時代だけでも、過激派が高校に侵入して警察署へ向けて迫撃砲で攻撃したり、「定説です」で有名な宗教指導者がミイラ死体事件を起こしたりしてる。客観的には結構とんでもない街だったのかもしれないよな……。
取り上げる基準が難しいんですが、「わりと昔からあるサイトで、今後も更新されそうな雰囲気がある、と僕が感じた」という、すごく自分でも恣意的だなと思うラインでピックアップしていきます。
個人的には、すごくしっくりくるラインナップになってます。せっかく更新が続いているのに、1年以上ご無沙汰してたサイトがいくつもありますね……。この機会にアンテナに「テキストサイト」フォルダを作って、登録しておこうかな……。
さまざまな価値観の持ち主が、自分の納得できる金額で自由に取引できることが、市場が成功するひとつの要件。無料掲載を許可した作家をみんなでワーワー批判するような状況にならなければいいが。
「批判」くらい自由だろう、といわれるかもしれないけれど、「意見に納得したから無料掲載を不許可にする」だけでなく、「批判を気に病む精神的コストを解消するため無料掲載を不許可にする」なんてことも起きるのです。つまり、実態として「私は***します」という発言と「***しないヤツは許せない」という発言の効果は違っているわけ。
で、道徳的観念を持ち込む言説は市場を歪めるんだよね。市場にだって倫理は必要でしょうけど、経済合理性をないがしろにする(という代償を払う)だけの確信があって、みんな発言しているのかな。そのあたり、疑問に思うことが多い。
Togetter(トゥギャッター)って著作権でトラブルになったりしないのかな。一度は騒動になりつつもコミュニティが発展し続けているTumblrのような例もあるし、2chまとめブログもますます隆盛だし、「問題になる=滅びる」というわけじゃないんだけど、著名人の発言とかもけっこう転載されてますからね……。
そういや「非公式RTは無断転載じゃないか」問題はいつの間にか下火になってるんだけど、これは一体どうしたわけなんだろ。
10,000人くらいから民事訴訟で賠償を勝ち取らないと、こういう状況って変わらないのかな……。
正月休みに読んだ佐々木俊尚さんの『ネットvs.リアルの衝突』(2006年12月刊)は、Winny裁判を中心に据えた本。その後の展開を知るだけに、いっそう興味深く読んだ。個人的に印象に残ったのは、Winnyがなければ人生を失わずにすんだのに、というような、著作権法違反で逮捕された人々の言葉。勝手なことをいうもんだ、とは思ったけど、その気持ちはわかる。
以下、関係ない話題ですが、「脱力」つながりで。
上念司さんの『デフレと円高の何が「悪」か』を読んでみました。
うーん……リフレ派の身内ウケ系の本かな、これは。素人向けだから極力わかりやすく、という意図は理解するけれども、論敵を「トンデモ」「非常識」「愚か」と表現し、判断基準を示さず「極端」「極めて」「非常に」という。軽妙に書かれ調子よく読めますが、手放しでは褒めにくい。
あと、明らかにマズイ記述も。ジャンケンでも、10億回ぐらいやれば、たぶん10連勝できる時もあるでしょう。
というのですが、1対1なら約1/6万の確率で10連勝できます。
あるいは、デフレ脱却の過程では、名目金利が3~4年程度安定しているということは、昭和恐慌とその脱却のプロセスからも歴史的に証明されています。
といった記述。昭和恐慌は強力な傍証ですが、「証明」は言い過ぎ。
言葉の選択の問題にとどまらないのが、「国民が本当に返済しなければならない国の借金は総負債の30分の1」という議論。総負債から国の資産を全て差し引き、続いて国民同士の貸し借りを相殺すると、たしかに1/30になるのですが……。
まず、財政が破綻しても国の資産を全て債務の返済に充てることはありえない。国家の清算は非現実的で、行政に必要な最小限の資産は残さざるを得ない。
そして、国内の貸し借りなんだから相殺可能というのはマクロの話。国債を(直接・間接に)保有しているのは資産家。資産の偏在は租税負担の偏りより極端なため、パッと国債を完済すれば貧乏人から金持ちへの所得移転になるし、逆に債権放棄すれば資産家イジメになります。
ひとつの整理としてはよいのですが、この議論から財政赤字のほとんどは返さなくていいお金でした
と結論するのは、おかしい。私も財政危機論者には与しないけれど、大勢の専門家が財政の危機的な状況を憂えていることには、それなりの理由があるのです。
著者は給料が変わらず物価だけ上がるようなことにはならないといいますが、可能性は否定し難い。そもそもデフレを脱却することで雇用が回復する最初の要因は「実質賃金が下がるから」です。その後、需要が経済成長を牽引し、人手不足になって、ようやく賃金が上がります。賃金の上昇が実現する前に次の不景気にもなりかねない。
デフレの脱却は、深く狭いデフレの痛みを、薄く広いインフレの痛みへ転換する作業。世論の支持を集め難い政策です。でもそれが全ての出発点で、デフレのままでは力強い経済成長はありえないと私は思うから、諸般のリスクは承知で、もっと早く確実にデフレを脱却できるような金融政策を待望しているのです。
著者には、デフレの害と大胆な金融緩和の利益を説くと同時に、様々なリスク要因と、専門家の間でも意見が分かれている部分も、ていねいに解説してほしかった。そうでなくては、一時的に増えた賛同者も、その多くが先入観に親和的な意見に切り崩されてしまう。もっと強靭な議論が必要だと思う。
http://ow.ly/ZblA この人に一応反論しておきます。 1.昭和恐慌脱却時に名目金利が急騰したデータを示して下さい。 2.財政危機とデフレ不況の関係はスルーですか? 3.デフレの痛みはスルーですか? 検索でヒットするので為念です
1.昭和恐慌の際、高橋財政が成功したことに異論はありません。しかし「似た事例」で同じ結果になる保証はないので、安達誠司さんの著書では慎重な言葉遣いになっています。「歴史に学ぶと、名目金利が急騰する可能性は低いと考えられる」という穏当な表現の方が、真に多くの人を説得できると思うのです。
2.財政危機論が財政支出の足を引っ張り、また早すぎる減税措置の終了や、財政再建を目的とした増税が景気の腰を折ってきたことを批判的に捉えている点で、私と上念さんに意見の相違はないでしょう。しかし財政危機論を否定するために、非現実的な仮定をおいた議論に踏み込むのは、賛成できません。財政危機派の前提に可能な限り歩み寄った上で、それでもなお「増税は不要」と主張する方が強い。
3.「失業率が50%に達するまでデフレ親和的な世論は動かない」というエコノミストの言葉があったかと思いますが、デフレの痛みは失業者に集中します。逆にインフレは薄く広く痛みを分散します。私はインフレの方がずっといいと思いますが、ともかくデフレ脱却=生活改善ではない事実をきちんと説明しなければ、短期的には生活が苦しくなる人々は「騙された」と思いかねない。
つまり私が申し上げたいのは、リスクも短期的な痛みも承知した上でのリフレ支持でなければ、「私も失業してしまうかも……」という恐怖が和らいだ段階で、みなさっさと元のスタンスへ戻ってしまうに違いない、ということです。論敵を罵倒せず、リスク要因も明示しつつ、データからリフレ政策の勝算を説く……そんな(安達誠司さんのような)書き方が必要だと思う。
私は「ハイパーインフレ」とか「国家破産」とかいったものを無批判に信じてしまう人たちをとりあえず正しい方向に向かせたいと思って書きました。トンデモを論破するにはある程度レトリックが必要です。
参加者がそれぞれに工夫を凝らし、いろいろな方法論を試すのが自由経済のいいところです。私の感想はどうあれ、現に多くの方が『インフレと円高の何が「悪」か』を絶賛されています。ズレているのは私の感覚であって、上念さんの採用した解説スタイルこそ、大勢の心を動かすのに最適なものなのかもしれません。デフレは今すぐ終ってほしいので、そうであってほしいですね。
政治系ブログの造語のセンスがよくわからない、という話題。
ブログ以前に、政治家の造語センスが、そもそもよくわからないんですよね、私は……。
高い支持率を概ね維持した小泉政権を思い出すに、そもそも「構造改革」というのが、ナゾワードですよね。まあ大勢にウケたんだから「変」ではないのでしょうけれども。「官から民へ」はわかりやすい。これはいいと思う。「改革の本丸」……「本丸」という言葉が、もう若い人にはわからない(私の周囲には「大切なこと、って意味?」「だよね?」なんて人がふつうにいた)。でも雰囲気で意味が伝わっていたので結果オーライ。
そして問題なのが、「三位一体の改革」。これだけは、擁護に困る。国庫補助負担金、交付税、税源移譲をセットで見直すという意味なんだけれども、誰か「その言葉の選択はいかがなものか」といわなかったのかな。
ちなみに初出となる経済財政運営と構造改革に関する基本方針2002には「三位一体」という言葉が2回登場します。歳出、経済振興策、税制の一体見直しも「三位一体」で推進すると書かれているのだけれども、こっちは世間にウケなかったらしい。
「上げ潮」とか「事業仕分け」も、先に広まった似たような意味の言葉を押しのけて政治報道の中に広まっていった。「事業仕分け」は世間的にもウケましたね。歳出の見直し、事業の見直しということなんだけれども、一体どういうことなんだか。将来、歴史の勉強をする学生がかわいそうだな、と思う。
第39回インターネプコン・ジャパン(ただし同時開催の第2回カーエレクトロニクス技術展が主な関心地)に行って疲れ果てました。気張って10時から18時近くまで歩き続けたから、もうクタクタ。営業マンは毎日こんな生活をしているのだろうから、尊敬するな……。
主催はリードエグジビジョンジャパン、年間53本の国際見本市を開催しており、ものづくり系の技術者なら、どれかには参加したことがあると思う。
私は2年近く展示会へ行くのをサボっていたので、いつの間にこうなったのかわかりませんけれども、今回、ちょっと気になることがありました。何かというと「名刺が復権していた」のです。50枚近く持っていたのに、きれいサッパリ使い果たしてしまいました。まさか、という感じ。
私が何度も行った2年くらい前までのリード開催の見本市では、持って行く名刺は2枚で十分でした。1枚はリード社に渡し、1枚はバーコードつきの入場カードにステープラーで留めます。入場カードにはバーコードに対応したシールが付属していて、リード社は受け取った名刺にシールを貼り、電子名簿を作成します。出展各社のブースには名刺の読み取り機があります。これで読み取った番号をリード社に問い合わせると、ブースへの来訪者の名刺情報が手に入るというわけです。
これ、来場者はいいけど、出展者には不都合な仕組みだとは思っていました。あれこれ相談されたことを、すぐに調べて返信したいと思っても、すぐには宛先がわからない。リード社の情報入力が終って検索できるようになっても、「何時何分に訪問した人か」がわからないと一発で検索できない。ここが曖昧な場合、話をしたとき名札に留められた名刺を目で見て訪問者票や手帳などにメモした会社名や名前と対照する必要がある。
技術の進歩が何かうまい解決策を生み出すのかと思っていたけれども、結局は名刺交換が復活した、と。1日中歩き回って、2回しかバーコードの読み取りを求められませんでした。
少し記事の書き方に悩むところがあって公開が遅れましたが、レビュー:ドラゴンクエストIX 星空の守り人の[後日談]、幸い多くの方の目に留まったようですね。よかったです。たぶん読みたい人が多いんじゃないかと思っていたのです。丸1日無反応だったので、RSSを最新10件から30件に拡大したら、気付いてもらえたみたい。
はてブのコメントなどでは、父のドラクエの楽しみ方と、母の地図のエピソードが注目されていますね。
じつは私がRPGをプレイしながら自分で地図を描いた最後は、2009年4月。えっ? と驚かれるかもしれないけれど、1年以内のことです。作品は『Phantasy Star 千年紀の終りに』でした。リンク先はWiiのバーチャルコンソール版ですが、私がプレイしたのは、PS2にベタ移植されたバージョンです。
この作品は世界地図がとにかくわかりにくく、それでいてイベントの都合であちこちへ歩いていかなきゃならない。2時間くらいプレイしたところでブチ切れて、地図を作り始めました。チラシの裏にどんどん描いていくと、あっさり紙をはみ出したのでセロハンテープで紙を継ぎ足して完成させました。適当な書き殴りだけれども、あるとないとでは大違い。苦労した甲斐があった……。
と、そんなタイミングを見計らったように、説明書の最後のあたりに地図が付属しているのを発見。ポカーンとして、それから無言で地図を処分しました。今思えば、写真を撮っておけばよかったな。まあ、こういうことで「無駄なことをした」と思ってしまうのが、私の未熟なところ。
結局その後、地図は不要になりました。地図を作っている間に、世界地図を記憶できたようなのです。ね、無駄じゃなかったんですよ。私が父に贈った『ドラゴンクエストIX 星空の守り人 公式ガイドブック 下巻●知識編』によって、母の地図は用済みになりました。しかし母は、自分の地図を家計簿に挟んで大切に保管していました。
こういう気持ちが大切なんだよね。幸せに生きるコツだと思う。
でも、新聞のコンテンツが全部ジャーナリズムかっていうと全然そんなことはないから経営難になってるわけで。新聞のコンテンツのうち、「単なる発表の写し」って部分はかなり多いと思うんだけども、そこでは新聞社がジャーナリズム(あるいはコンテンツ生成)としての仕事をしているわけではなくって、これまでも単に情報流通の仕事しかしていなかった。だからいま苦境に陥っている。
「単なる発表の写し」はインターネットによって不要になったかというと、全くそうなっていない。『Authority - 日本の影響力のあるブログランキング100』の上位に並ぶのは、情報の収集整理がメインのブログ。『GIGAZINE』は「オリジナルのコンテンツに乏しい」と蔑視されがちだけれども、それは中間情報産業への偏見によるもの。
現に、「自分で世界にアンテナを張るのは面倒くさい。自分とセンスの近い情報整理サイトをいくつかチェックすればそれでいいや」という人がたくさんいるからこそ、『GIGAZINE』などは人気を集めるわけ。官房長官の記者会見を『首相官邸』で毎日チェックしたいですか? かなり熱心な人でも、言葉尻を捉えた批判を見たときに「前後の文脈を合わせて知りたい」と思ったときだけ、見に行くのが精々だと思う。毎日たくさんの情報源をチェックするのは、現実には困難。だから情報の収集整理には、大きな価値がある。
『Livedoor Reader』のような膨大なフィードの処理に適したRSSリーダーが登場して以降、1000件以上のフィードを登録した方はたくさんいる。ではそれで自分の知りたい情報のオリジナル(に可能な限り近いもの)を網羅できているかというと、答えはNoでしょう。多分、フィードを1万集めても10万集めても、網羅はできないと思う。だから結局、『カトゆー家断絶』や『はてなブックマーク』などの情報整理サイトもチェックせざるをえない。
アニメ産業の金回り、音楽や書籍の著者印税などの話題を見ていていつも首を傾げるのが、「どうして最初の一歩ばかり注目されるのか」ということ。報道機関や『GIGAZINE』に投げかけられる軽蔑の眼差しも、構図は同じ。
もしアニメ製作会社の人だけでいい作品を完成させることができて、それを『YouTube』に投稿したら十分な宣伝になって、DVDの直販や高画質動画の直接有料配信だけで制作費を回収できるなら、みんなそうするはず。何より、まず出資者がそういうことを考えるよ。彼らは金儲けをしたいのだから、投資したお金の多くが本当に「無駄」になっているなら、黙っているはずがない。
「だから中間搾取している当人が出資しているんだってば!」って? そんなうまい話があるなら、世間には無数の投資ファンドがあるのだから、いくらでも新規参入があると思う。いやだって、真の経費が売上の1割で、9割を無駄遣いしても収支トントンの投資案件が実在するなら、夢のような話です。
あるいは、億円単位の現預金のある音楽業界のアーティストたちは、もう大組織に所属する理由がない。自己資金で作品をリリースできるのだから。そして実際、独立したアーティストは何人もいます。が、やっぱり少ない。多数派ではない。宇多田ヒカルのようなトップアーティストでも、手取りがかなり減ることを承知で他人に作品をリリースさせている。
俳優・タレントなど、まさに身一つをそのままコンテンツとしている方々さえ、ちょっと調べてみると意想外に独立している人が少ない。「ピンはね」は承知で組織に属している。でもそこに、「不当な中間搾取」はないのですよ。合理的な判断の結果なんです。
よく「テレビは総務省が電波を許認可しているから規制に守られた産業で云々」という。でも、地方は明らかに電波が余っている。関東だって、地デジ移行でみんなUHFアンテナを持つことになるので、電波の不足は問題にならない。総務省は「もうこれ以上、地上波のテレビ局は増やさない」なんて宣言はしていない。電波法の規制が採算ラインを吊り上げているとしても、「国民が納得できる範囲内の規制緩和で有力な新規参入業者が現れる」という説得力のある業界分析を見たことがない。
大都市圏と地方の経済格差くらいでこれほど局数が違ってしまうのだから、現状は規制より競争の結果と考えたほうがよほど納得しやすい。テレビ局の職員給与が単純に規制の産物なら、1968年開局のテレビ東京や1995年開局の東京MXの給料が安いのはなぜ? 東京ではリモコンの「12ch」や「9ch」のボタンを押したくなくなる病気が蔓延しているのか。
もし先行局の資本の蓄積が後発局の追随を許さない唯一最大の理由なのだとすれば、テレビ東京が民放トップを目指して増資に成功すれば、状況は一変します。そこに勝算があれば、ソフトバンクがボーダフォン日本法人を買収して携帯電話事業に新規参入したときのように、出資者が登場することでしょう。
現在の均衡が最適解だとはいわない。けれども、よほど変な規制でも存在しない限り、経済合理性を全く欠いたビジネスというのは、まずありえない。もしその数少ない例外を発見できたなら、ぜひ投資して大儲けしていただきたい。大勢の「果敢な挑戦」が中間搾取を少しずつ排除してきたのが資本主義の歴史だと思う。
かなりの割合の国民が新聞記事の内容を信頼しているのに、肝心の新聞を購読しなくなった理由は、ネットで新聞記事を読めるようになったからだけではなく、新聞紙に掲載されている情報のうち、読者が読みたいと思う記事が全体に比べてわずかだからである。
(中略)
国内のネット関連企業に関しては、Yahoo!の規模と収益性は群を抜いており、考えようによっては彼らが既存の情報産業に対する確信犯的なフリーライダー(ただ乗り)になっていると指摘することもできよう。もちろん、合法的な契約に基づいて新聞社、出版社などから記事の情報を提供され、読者に無料で閲覧させているのだから、何ら問題はないのだが、その記事を提供するために得られる対価だけでは、新聞社も出版社もその企業規模を維持することができない。持続可能な協調関係ではないのは明確である。
(中略)
いま、我が国の情報産業に対して必要とされるのは適正な利益率であり、対価をきちんと支払って情報を得るという本来の情報の消費活動に立ち返るための処方箋に他ならない。既存の情報産業がネット時代の新自由主義的な自由競争の流儀で戦う必要は必ずしもなく、いかに無秩序なネットの現状を統制し公正な競争状態に導いていくかが、いま一番求められていることなのである。
新聞のいいところは、「読者が事前には関心を持っていない情報」を精選して提供してくれることだと思う。私が『Yahoo!ニュース』などを見ないのは、自分が関心を持っているニュースを見ているだけで持ち時間を使い果たしてしまい、後で「えっ!? そんなことがあったとは……もっと早く知りたかった」となるから。
印刷物を毎日届けるコストを考えると、記事のバラ売りはできない。それで新聞は現状のサイズになっている。でも、せっかく新聞にいろいろな記事が書かれていても、ふつうの人は読まないらしい。見出しだけでも読めばいいのにな。『SANKEI EXPRESS』は記事が少なくていい感じ。栃木では読めないのが残念。
私はネットニュースもテレビニュースも時間効率が悪すぎると思うので、新聞の効率のよさにはお金を払う価値があると判断しています。それが宅配の新聞という印刷媒体である意味は、電源不要で独立・完結、面積の大きさと軽さ、折り畳んでも落としても雨で濡れても不都合ないタフさ、読み捨ての気軽さ、読み終わった後の紙としての用途、資源の再利用の容易さ、といったあたりかな。
かくいう私も、コンテンツ自体にお金を払っているわけじゃない。たとえば、私の巡回先でとくに紹介されれば『asahi.com』の記事も読むけれど、「情報料代わりに年1回くらい朝日新聞社の有料サービスを利用してみようか」とは思わない。
それでも、我が国の情報産業に対して必要とされるのは適正な利益率であり、対価をきちんと支払って情報を得るという本来の情報の消費活動に立ち返るための処方箋
という山本さんの主張には、強く同意します。
いろいろ書きましたが、ようするに「単なる発表の写し」というのが、意外と手間なのであって、読者はその手間を他人に任せたがっている。実際、その手間を読者の代わりに請け負って上手にこなしているブログは大人気じゃないか、と。
世界に薄く散らばった良質なコンテンツと一般の情報消費者との隔絶を埋めるには、検索エンジンやRSSリーダーでは力不足なのです。リンクという仕組みすら、一部の先進的なユーザー以外には、不十分なものです。「リンク先」なんて、大半の読者には読まれないのです。
にもかかわらず、「リンク先を参照」みたいな手間を読者にかけさせず、単独で完結する記事や、そんな記事を集めた新聞を作る、「情報を収集整理してパッケージングして届ける作業」の価値は不当に低く見積もられている。そのコストが「省略可能なもの」と誤解されている。これは不幸な話だと思う。
しかし私自身、ネットニュースにいちいちカンパする気にはなれない。紙の新聞という商品にお金を払っている。となると、紙の新聞の「良さ」に同意しない人が増えるにつれ、新聞社はつらくなる。現在の無料のネットニュースなんて現状の延長上には永続しえないのだけれど、降りた者負けのチキンゲームになっていく。
『GIGAZINE』が有料化しても読者がついてくるなら、新聞社の未来だって明るい。でも、そうはなるまい。山本さんの記事には見通しのよい結論がないけれども、私も最後は言葉を濁すだけ。
強いていえば、新聞と比較して極端に情報量の少ない(話題の量がまず断然違っていて、ひとつひとつの内容にもかなり差がある)テレビニュースでみんな満足できるなら、広告モデルで報道機関は存続できる、ということなんじゃないかな。「別にいいよ、それで」というのが、現実的な日本の未来のような気がします。
NTTが民営化されて、電話交換機の堅牢性は大幅に落ちました。携帯電話用の交換機に至っては、端っからベストエフォート思想が入り込んでいる。今でもかつての堅牢性を維持しているのは、高速道路などに備え付けられている緊急電話くらい。
新聞には宅配という問題があって、「どのみち、一定以下の価格にはしようがない」という条件がありました。そのため価格競争にはなりにくく、「過剰な利益」を様々な読者の要望に応えて「膨大なコンテンツを提供する」ことに振り向けていった……のではないか。NTTが独占市場で通信料を下げることを選ばず、電話網の堅牢性を高めていったのと同じ構図だと思う。
それが、NTTは民営化で、新聞は無料のネットニュースの登場で、従来とは全く違う競争に巻き込まれた。私はテレビニュースでは全く物足りないから、現状水準の新聞が維持されてほしい。強くそう願う。でも、無理かな、と。電話網も、ずいぶんボロボロになったんだけど、みんな価格が下がって喜んでいるもんね……。