趣味Web 小説 2014-02-16

私は紐靴を買わない

1.

私は紐靴は買わないことにしている。その理由は、手を使わずに履くことができないからだ。

足の甲が高いので、紐靴だとべろが押されて奥に入ってしまう。だから紐靴を履くときはいつも、べろを指でつまんで、奥に入らないように押さえなければいけない。これが面倒で仕方ない。

紐靴でなければ、べろが羽根と一体になっており、私の足の甲に押されたって絶対に奥に入ってしまうことがない。だから、床に靴底をギュっと押し付ければ、摩擦で固定された靴に足先を進めるだけで履くことができる。つま先をトントンとやらなければ入らない靴は、私の感覚では締め付けがキツすぎる。

紐靴においてべろが羽根と分離しているのは構造上当然だ。もし一体になっていたら、紐を締めたときべろにしわができてしまう。紐靴のべろはフリーにせざるをえず、べろが足の甲に押されて動くのはどうしようもない。べろの途中に靴紐を通してストッパーにしても、不完全である。足を入れた後で、ちょっとべろをつまんで引っ張らなければならない。

では紐靴以外ではなぜべろを一体化できているのか? それは、靴のアッパー全体が柔軟な素材でできていて、全体として伸縮することで足にフィットする仕組みだからだ。伸縮の程度には限界があるけれど、「運動靴」がほしいわけではない私にとって、紐靴は無用の長物である。

靴べらは20年くらい使っていない。靴べらが必要なのは、かかとが立派で履きにくい靴だ。私の用途では、立派なかかとは必要ない。だから私は、そうした靴を選ばない。

2.

私の場合、衣料品の選択はどれもこれも、着脱の都合、洗濯の都合、多少の機能性、これまでの生活習慣を変えなくていいこと、新しく何かを覚えなくていいこと、などが主な選択基準となっている。

「スーツに合わせるなら革靴でしょ」という人もいるが、私は革靴は履く人のことをまるで考えていない不合理な靴だと思っているので、就職活動のときも履かなかった。革靴は「靴に足を合わせろ」といわんばかりのカチコチさであり、履く人に歩み寄る姿勢を欠いている。

ピカピカの革靴って、靴にしわができないことが前提となっているわけだが、人間の足は、足裏を柔軟に曲げて衝撃を吸収しながら歩くようにできている。つまりトゥキャップのあたりにしわができるのが自然だ。ところがそれを許さず「トゥスプリングと称してつま先を少し上げておいたから、足裏を靴の形に合わせて硬直させて歩けばいい」というのが革靴であり、その尊大さにはギョッとする。

ピカピカの革靴がカッコイイてのは、靴に人間が振り回されることに疑問を感じない人らだけで後生大事に守っていってもらいたい文化だ。私は参加を辞退することにした。

そもそもスーツ自体が押し付け文化だが、私にとってスーツはメリットのある服だった。スーツなら、ワイシャツさえ換えれば、毎日同じ格好で出勤できる。理由はよくわからないが、毎日同じ私服で肌着だけ換えて出勤するのは「おかしい」らしい。私は「今日の服」を考えるのが憂鬱だし、さりとて社会と無用の摩擦も起こしたくない。スーツは、ちょうどおりあいのつく答えだった。

「おかしい」かどうかを気にするなら「スーツには革靴」も受け入れればよさそうだが、パッと見のデザインが革靴風のカジュアルシューズなら文句あるまい……というのが私の読みだった。実際、私がリクルートスーツを着ないことについては何度か面接で話題になったが、靴については誰も何もいわなかった。

入社後も、私はスーツにカジュアルシューズで通勤している。

3.

私が靴を買い換えるのは、靴底が磨り減ってツルツルになり危険を認識したときか、雨の日に靴底からジワッと水がにじんできたとき。仕事や生活のパターンが変わると靴の寿命も大きく変わり、これまでのところ、最短で3ヶ月、最長で1年余りとなっている。いずれにせよ、私にとって靴は消耗品である。(ところで、少なからぬ革靴が最初から靴底ツルツルなのはなぜなんだ? あんなの危険に決まっている。私の感覚では、あのような靴は売ること自体が犯罪だ)

ワイシャツの場合、袖か襟がすりきれたら買い換えている。形状記憶のを買い、洗濯機で洗って天日干ししている。当初は形状記憶でないワイシャツだったのでアイロンをかけていたが、あまりの面倒くささに「どうせスーツの中に着てるだけなんだからどうでもいいだろ。しかも会社に着いたら作業着に着替えてしまうのだし」とプッツンきて、やめてしまった。

ワイシャツは週1回洗濯すればすむよう、5着用意している。だいたい半年に2枚くらいずつ買って、擦り切れたのを処分している。

靴は1足しか持たない。新しいのを買ったら古いのを捨てる。正確には予備が1足あるが、かれこれ6年ほど靴箱に眠ったままだ。

スーツは春秋用2、冬用2。夏は上着なしで、春秋用の下だけ。最も短寿命のスーツでも9年は着れた。これは私の基準での「着れる」であって、「こんなボロボロになったのをいつまで着てるの?」という感覚の人も多いだろう。いちばん長持ちしているのは父からもらった冬用で、私より年上である。

コートも1着しかもっておらず、これは成人式のときに買ったものだ。ちなみに成人式のときに作ったスーツも現役である。

4.

私は面倒くさがりだから、自己紹介も面倒に感じる。くたびれた服を着ているのは、それ自体が自己紹介として機能するから……という理由もある。

職場では作業着なので出退勤の服装は自由なのだが、あえてスーツで通勤するのも、自己アピールの意味が皆無ではない。「服について考えるのが面倒くさい」のが主な理由だが、マジメでカタい性格を見た目でアピールしておくことに、メリットを感じてもいるのだ。

すりきれて穴が開くまで服を買い換えないのは、つまりは私の服に対する価値判断の明確な表現だ。基本的には、ただそれだけのことでしかない。ただ、それを見た人が勝手にいいように解釈してくれることも多くて、じつは個人的に得をしている面がある。それが損につりあうと思うかどうかは、人によるだろう。

私の場合は、「ボロを着ている人」と見られることで失うものが「私にとってどうでもいいもの」ばかりで、得るものが「私にとって価値あるもの」なので、服をボロになるまで着続けるのが合理的だ。

あと、こういう話をすると、「えっ、そうなの?」という反応の人が意外と多いことにも気付く。「あっ、ホントだ、すりきれてるね」とか。私がボロを着てることに最初から気付いていた人もいれば、いわれるまで気付かなかった人もいる。

私としては、気付いても私に害をなさない人か、気付かないような人と交流していきたい。ちなみに、話を聞くまで気付かなかった人は、ほとんどの場合、気付いても私に害をなさない人だということが経験的にわかっている。なので、しばらく交流のある人にカミングアウトするリスクは、大きくないと考えている。

ともあれ、自分と気の合わない人を自動的に遠ざけることができるのは、自分らしい服装をするメリットといっていいのではないか? 本来は相容れない人と仲良くなってしまうと、後に価値観のズレが表面化して距離を置くことになったとき、つらい。

5.

この記事を書くために、靴を構成する各部分の名称を調べた。

「べろ(タン、舌皮)」についてはすぐわかったが、「羽根」はなかなか見つからず、初稿では「シュー穴が設けられている部分」などと書いていた。まあ、その方がわかりやすかったかもしれないが……。

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