趣味Web 小説 2003-02-27

ネットバトル 3

明日は更新できませんので、今日はとくにていねいに書くよう心がけます。

Just Our Styleへの批判とその反響について

まず、私が批判したうりさん自身のご意見をとりあげます。

文章力の無さ、読解力の無さ、行為自体(文中リンク)の稚拙さについて考察されるのは一向にかまいません。その考察の結果、私に批判的な意見を投げかけるのも一向にかまいません。事実、私自身がそう思っています。勢いだけで文章を載せ、挙句文中リンクまでやらかし、しかも文章の内容がお粗末ときています。まったくもってお恥ずかしい限りで、穴があったら入りたいです。

しかし、私の地下鉄での行為まで考察するというのは、少々お門違いかと思います。私が考察・批判されるべき部分は、ちっとも似ていないのにこじつけたかのように文中リンクを張ったという部分。また似てもいないのに似ていると思ってしまった・取り違えをしてしまった私自身の稚拙さのみです。私が地下鉄でやらかしてしまったことについてはあくまでも私自身の問題であって、表現が悪いですが他人には関係ありません。(当たり前のことを当たり前にできなかった私への罰だと言われればそれまでですが)

叱られるようなことをした、それは事実であり、私も反省しております。二度と地下鉄・バス・JR・市電にて携帯電話でゲームをするということはないと断言します。逆ギレしたことについても、同様です。私の子供じみた行為を、恥じております。

私の意見を述べます。

リンクは、私がうりさんのサイトを知ったきっかけに過ぎません。リンクがあろうとなかろうと、私はうりさんの日記を読んだら備忘録の記事にしたでしょう。ただ、リンクの件がきっかけだったから、たろたま騒動とその教訓という視点から記事をまとめたのです。

私が最も疑問に感じ、批判したかったのは、「最終的に逆ギレを正当化している」ということでした。おばちゃんにひどいことをいわれてついつい逆ギレしてしまったけれども、それは誉められたことではなかった、という展開ならさもありなんと思います。ひどいことを言われて憤慨するのは理解できますし、ときにはぶち切れて行動の抑制が取れなくなることもありうるでしょう。しかし該当記事の後半は以下の通りです。

とうとう周りが止めに入りました。

おっちゃん「もういい加減にしなさい。アナタ(おばはん)少し言いすぎですよ。」

私「最初のきっかけを作ったのは私です。それは反省し、謝罪します。」

おばはん「悪かったわね!ふん!でもアンタが悪いのよ。」

私「それで謝ってるつもり?いいねぇ、それで今まで許してもらってきたんだ。幸せな人生だったね。」

待てよ。。。なんかコレにすげー似てない? と思ったのは私だけでしょうか?

ちなみに、キレるきっかけになったおばはんの一言は、「アンタみたいなロクでもない女が、ロクでもない事件とか起こしたりするのよ!!!」車内で携帯使ってたくらいで言われることじゃないですよね?

携帯電話の件は過ちを認めるけれども、おばちゃんの言葉が過ぎていることは明らか。だから逆ギレしたのは当然だといっているように読めます。私が疑問に感じたのは、この点です。

おじさんは確かに仲裁に入りました。おばちゃんの言葉が過ぎているのもわかっていたでしょう。けれども、うりさんが逆ギレなどせずに、我慢してくれたらどんなによかったか、と困惑した面持ちだったのではないかと想像します。少なくとも、うりさんの怒りを共有していたわけではないだろうと思います。周りが止めに入りました。とあるので、おそらくおじさん以外にもおばちゃんをたしなめた方がいたのでしょうが、やはりその方々も、うりさんの怒りを共有してはいなかったでしょう。みんな、「二人ともいい加減にしてほしい」と思っていたのではないですか。

話の流れを勘案するに、ここはうりさんが我慢するのが一番穏当な方法だったと思います。憤懣やるかたない気持ちは、それこそ日記で吐き出せばよかったのではないでしょうか。今日、携帯電話のことで注意された。最初に注意したおじさんに続いて、横からおばちゃんが出てきてひどいことをいう。あんまりひどいことをいうので心中煮え繰り返る思いだったが、その場はどうにか我慢した。それにしても「アンタみたいなロクでもない女が、ロクでもない事件とか起こしたりするのよ!!!」なんて車内で携帯使ってたくらいで言われることじゃないですよね?……というように。こういう話なら、なるほど調子に乗って暴言を吐くおばちゃんはひどいね、と共感できるわけです。

えっと上手く纏められなかったのですが、ご理解いただけたでしょうか? 私の日記を読んで、私と同じ気持ちになれとはとても言えません。文章力の無さから、私の言いたいことを読み取ってくれとも言えません。しかし考察するべき部分・しなくていい部分というものをご理解いただきたいと思います。私の人間性が著しく欠如しているということについても、今回の失敗同様、私自身がそれを周囲の反応で認識していくだけのことです。

そう思うのは私だけでしょうか?

私は人間性が著しく欠如しているといった批判はしていないつもりです。うりさんの逆ギレについて、少なくとも賢いやり方ではないとは書きました。しかし私は、うりさんにむしろ同情的でさえあると思っています。あんまりひどいことをいわれて怒るのも、逆ギレするのも自然なことです。ただ、結論だけが納得できないわけです。なぜ、「それでもやっぱり逆ギレしたのはよくなかった」とならないのか、ということです。(もちろん、私はおばちゃんにも同情的です。おばちゃんが激昂するのもわかるんですよ)

私にとっては、北朝鮮を語るのも、アメリカを語るのも、田中真紀子を語るのも、汚い手を使う某ライバルメーカを語るのも、うりさんを語るのも、家族を語るのも、基本的には同じです。おかしいと思えばおかしいといい、疑問を感じれば批判する、素晴らしいと感動すれば賞賛する。田中真紀子の逆ギレ正当化は批判してもよいが、うりさんの場合は批判してはならない、とは考えません。書きたいことは書きます。ご批判があれば拝聴します。

あらためて申し上げます。リンク云々は、私にとってはどうでもいいことです。私はうりさんの行動に疑問を感じたので、苦言を呈しました。うりさんは私自身がそれを周囲の反応で認識していくとおっしゃっていますが、私の備忘録も周囲の反応のひとつです。

その日あった出来事・そのことについて思ったことを書くというのが、私なりの日記におけるスタイルです。日記への意見・批判は有難くお聞きしたいと思っております。しかし、日記から読み取れる私の人となりについての意見・批判には対応できません。何卒、ご理解いただきたく思います。

私は、日記に記されたうりさんの行動、考え方を批判しました。日記から読み取れる私の人となりについての意見・批判には対応できません。という一文は(どの記述をそうおっしゃっているのかわからないため)意味不明ですが、念のために書き添えるならば、私が備忘録として批判を書きとめていることにご注意ください。私は積極的にうりさんを考え方を変えようとしているわけではありません。世の中にはこういうことを日記に書いている人がいるが、私はこうした考え方には批判的に接していきたい、という私の意思表明として発表しているわけです。

ならばリンクは不要だという意見もありましょうが、私は意見を異にします。私は批判対象を明らかにすることで、読者の判断も仰いでいるのです。そして、備忘録は私の思索の軌跡であり、関連文書へのブックマーク集です。リンクを用意することは、理に適っていると私は考えます。

うりさんのご意見への、私からの回答(意見の再提出)は以上です。

続いて、これに関連する白夜の街角のご意見に回答いたします。

魚周「以前から親しくしているうりが徳保さんとやらに文中を受けた。」

白夜「そうです。」

魚周「深く考えずに文中したのはうりだな。」

白夜「そうなんですよ。だからその点についてはうりが悪い。」

魚周「その通りだ。だが、それ以外の事をとやかく言われる筋合いはないわな。」

今一度、言明しておきます。私は、うりさんからリンクされていなくても、もしうりさんの当該の日記を読んでいれば備忘録で取り上げたでしょう。

ところで、うりさんのリンクの何が悪かったのですか。だからその点についてはうりが悪い。とおっしゃるわけですが、私にはその理屈が理解できません。リンクは好きときに好きなだけしたらよいと思います。

私はもともと、白夜さんのおっしゃるところのそれ以外の事に疑問を感じ、批判したのです。なぜ、どうでもいい、本筋と何の関係もないリンクの話が最初に出てくるのですか。もしよろしければ説明していただきたいと思います。

白夜「こんな事を公にしても仕方ないのですが、うりは非常に責任のある仕事をしています。」

魚周「うむ。」

白夜「彼女には愚痴を言う人間すら居ません。TOPに立つ人間の宿命ですが。」

魚周「そうだな。」

白夜「そんな彼女の愚痴がサイトにちらほらと書いてあります。」

白夜「その愚痴に対してまで上から見下すように言及するのは筋違いだと思うんです。」

魚周「そうだ。何様のつもりなんだろうな。」

白夜「細々とやっている零細サイトまで言及しなくてもいいと思いました。」

白夜さんのご意見を、私の理解にしたがってまとめ直してみます。

  1. うりさんは非常に責任のある仕事のTOPという立場にあり、愚痴をいう相手が周りにいない。
  2. うりさんの運営する零細サイトには、それ故に、愚痴がちらほら書かれている。
  3. こうした状況を斟酌して、徳保はうりさんへの批判を自重すべきだった。

一理あります。息抜きのサイトでちょっと書いた愚痴を、いちいち真剣に批判されてはたまらない、というのはひとつの正論でしょう。

私は白夜さんのご意見を理解しますが、しかし今後も構わず言及を繰り返すでしょう。これは白夜さんと私の価値観の違いです。私は他人の愚痴にも正当性を求めます。

個人の考えだからいいじゃないか、といって批判を恐れる人がどんどん増えることを、私は危惧します。社会常識が体に染み付いているので、当面はみんなそれなりにまっとうな生活を送るのでしょう。しかし上っ面だけ正常に装う危険な均衡は、いつか破綻します。例えば、学級崩壊のようにです。みなの隠してきた本音が抑制をはねのけ吹き出したとき、世の中はどうなってしまいますか。……という理屈はいま考えたものですが、私のような何でもかんでも批判するスタイルにも、正当化の方法はいくらでもありそうだ、ということです。(ちなみに掲示板に投稿されたご意見への返答においても、あれこれ思いつくままに正当化の理屈を並べていますので興味がおありでしたらどうぞ)

いずれにせよ私は意見を述べる自由を、意見されることを嫌がる個人の感情・状況よりも重視しています。

私はうりさんの愚痴に疑問を感じました。逆ギレを正当化しているのはおかしいと考えました。だから、その通りに備忘録を書きました。

うりさんはどこかの市井のおばちゃんを批判しています。本人がうりさんの日記を読めば、会話の記録からすぐに自分のことだとわかるでしょう。白夜さんはそうしたことについてはどうお考えなのでしょうか。どこかの誰かさんなら市井の人でも批判してよく、うりさんなら批判してはいけないのでしょうか。私は、誰が誰を批判するのもありだと考えます。

たまたまうりさんのサイトが小さかったとか、責任ある仕事でTOPの立場にあるとか、それらは(少なくとも私にとっては)どうでもいいことです。うりさんがおばちゃんを批判した際には、おばちゃんには言葉をエスカレートさせずにはいられなかった事情があったかもしれないという可能性を、少しでも考えていたのでしょうか。あるいは白夜さんが私を批判するにあたり、私の事情を何か斟酌されたのでしょうか。こうしてみると、周辺事情にとらわれるのは意味がないという私の意見も、少しはご理解いただけるかと思います。私は、うりさんにとって愚痴を書くことが大切だという意見は認めますが、だからうりさんの愚痴は批判してはならないという意見は相手にしません。

私の批判が的外れだ、事実誤認がある、書き方がまずい、そうしたご批判は歓迎します。しかし、批判自体をするなという意見は、たしかに一理あることは認めますけれども、私が納得することはまずないものとお考えください。

最後に、以下のご意見について。

徳保氏は自分のサイト発足の理由は自分自身の後学のためのテキストになる…みたいなことを言っていたはず。

それがいつの間にか「○○さんのため」という恩着せがましい動機になるのは変ではなかろうか。

要するに、なんでも良いから晒し上げる大義名分が欲しかったんじゃないのか?と疑われるんではないかい

痛いところを突かれました。もう少しよく考えを練ってから答えればよかったと思います。個人的な作業が公益を生み出すに至り、考察を書いたらそれきり消すことも考えていたサイトを延々と残すことになった過程については、数日前の備忘録に書きました。しかし掲示板に書いたような恩着せがましい理屈は、どうにも筆が走った感があります。

さて、私の持ち出す正当性の根拠は、たいてい後付けです。うりさんの日記を批判したのは、ようするに批判したかったからです。そうしたらいつものように、批判するな系の反応が返ってきました。で、こういうときに、「批判したいから批判したんだ、文句あるか」とやって納得してくれると思いますか。そんな展開はありえません。「自分勝手なことをいうな!」とふんぞりかえって、自由な批判の価値を一片も顧みてはくれないわけです。だから私は、あれこれ自説の正当性を保証する根拠を持ち出すわけです。

私を批判する人が持ち出す、「自由に批判してはいけない理由」というのも、私の持ち出す根拠と同じようなものだと思います。ようするに自由な批判は嫌いというのが先にあって、後から「なぜそう思うのか」について考えているのです。だからお互い様だと思います。ここで注意していただきたいのは、後付けの根拠は無意味ではない、ということです。もし「俺は批判したいから批判する、それだけだ」「俺はそれがむかつくからむかつくという、それだけだ」と言い争っていたら、お互い「こいつわけわかんねーよ!!」のままです。だからお互い、苦心惨憺しながらも根拠を繰り出しあう方がよいと思います。そうすれば、仮に議論がまったくの平行線を辿ったとしても、お互いの持ち出した無数の論拠から、せめて相手がどのような価値観を持っているのかだけは(ある程度)理解しあえるのではないでしょうか。

補記:私はこれまで、自由な批判に否定的な価値観に決定的に共感を覚えることがありませんでした。だから今でも、どんどん批判するぞ派です。ただ、個々のケースについては、相手の持ち出した根拠に納得して批判を取り下げたり、お詫びしたりすることもありました。最初に表明する立場というのはあくまでもスタート地点であって、ゴール地点は議論の過程から見えてくるものだ、とも思っています。

めけめけ@DCへの批判とその反響について

私がぽよさんを批判したのは、読んで自分の意見と違っても「そういう考えの人もいるな」って静観しててくださいね。という書き方にカチンときたからでした。最後にご意見は教えてくださいって書いてあるとおっしゃいますが、静観しつつ意見する方法とは?

一方、私はサイト上で意見することについて、例えば連邦の吉野さんが紹介するソフトウェアのバグを発見したとして、作者にフィードバックはしなくても、サイトの記事にはする、というような感じ。ソフトウェアのバグ改善には興味ないけど、バグ情報に感謝する読者は意識する、というスタンスは十分ありなんじゃないですか。と書きました。私はぽよさんが反応されたことを意外に思いました。

かといって私は自分に向けられた討論はともかく、他人がweb上に書いている意見が自分と違っていても、納得出来なくても批判をする気はありません。何故なら、そこには「元々の考えの違い」や「物事に関する認識の違い」、そして「文章では言い切れていない何か」が存在すると思うからです。それに「完全に理解しあえること」などあり得ないですしね。そりゃ、なるべく色々と考えて理解しようとはしますが、分からなくても納得できなくても「批判をする行為」に有意義さを求めません。だって、ただでも誤解が起こりやすい世界なのに、時間のかかる討論なんてことをやっていたら時間が足りませんよ。というより忙しくてそこまでする時間は無いし、web上で討論を交わすよりも仕事やプライベートの時間を大事にします。まぁ、ここは人によって違いがあるので「私は有意義さを求めない」という程度の事で、全否定するつもりはありません。

さて、ぽよさんはこのようにお考えなので、自分への批判もなるべく回避したいわけですね。自分が有意義に感じないことに時間を取られるのは嫌だという考え方は理解できます。しかし常々思うのですが、読んで自分の意見と違っても「そういう考えの人もいるな」って静観しててくださいね。といったことは、書かない方がマシだと思います。こうした文言がなかったなら、私はぽよさんを批判しませんでした。意見そのものはよく見かける内容で、ていねいに書かれている(と私は思った)ので腹も立ちません。

まず、私の中でネットバトルと言うのは「討論の域を超えて、感情的に汚い言葉(「氏ね」とか、「バカ」とか)で罵り合ったりすこと。泥沼の揚げ足取り合戦をしたりすること。許可無くメールを公開したりして無理矢理ネット上での個人のいざこざの決着を付けようとすること。などの行為」だという認識です。討論によって、お互いの考えを理解し合うのは大切で有意義なことだと思うのは、徳保さんの考えとそんなに相違は無いと思います。この点で誤解をさせてしまったのであったとしたらそれは私の文章力不足と「ネットッバトル」への認識の違いでしょう。

疑義あり。

24日の雑記「誤解」についても言及をしてくださっています。こちらはあからさまに特定の個人を誹謗中傷するような感じの事が書かれており、前述した「ネットバトルでの揚げ足取りや罵り」に近いモノがあると私には受け取れました。

特定の個人と書いていらっしゃいますが、私はぽよさんを名指ししています。そして次の点が最も気になるのですが、誹謗中傷するような感じとは? 誹謗中傷はよくない、という意見は理解します。しかし誹謗中傷するような感じにも否定的なのですね。誹謗中傷するような感じの表現と、ぽよさんが認められる表現との線引きはどこにあるのですか。

私は、根拠の有無で批判と誹謗中傷を線引きしますが、それ以上の線引きは不可能と考え、厳しい表現も相当程度の皮肉も許容範囲としています。恣意的な基準でこの言葉はよし、この言葉はダメ、と線引きする(かのような)ぽよさんの考え方は、私には受け入れ難いものです。

相手に言われたことで少しでも「ああ、そうか」とか「なるほど、そういう考えもあるな」と思えば、それは自分の認識や考えを少しずつ変えていっている事だと思います。そして、それをお互いに行うことで起こる「意識の変革や認識の微調整」があるからこそ「議論」は有意義なことに成り得るのだと思います。そもそも、理解するってこと自体が自分の認識なり、何かが変わっていることです。徳保さんがどの辺に「変える」という言葉の意味を当てはめたのかは分かりませんが、これが私の「批判や議論で変えること」の意識です。そして、その作業はweb上でやることは時間がかかる場合が多いので、私は「時間も無いし、面倒臭い」ので人の意見に敢えて口は出さないということです。

議論を嫌がる人にはいくつかパターンがありますが、そのひとつが「議論を何かご大層なものだと考えている」というものです。ぽよさんは僅かな意識、思考の変化も「変わる」の範疇とされているようなのですが、私の定義はだいぶ違います。例えば、原発推進派が心底から原発嫌悪派に変わるとか、あるプランに入れ揚げていた人がまったくやる気をなくすとか、ある命題への認識をがらっと変えることを、考えを「変える」といっています。だから、議論が目指すのは、基本的に相手の考えを変えることではない、と申し上げているのです。

ディベート遊びをある程度やったことのある方なら、あえて自分の考えと逆の側に立つというルールも試したことがあるかと思います。お互いに本来の自分の考えを論破する資料を集めロジックを構築し、審判の前でギャーギャーやりあうわけです。勝負は真剣なので一生懸命やるわけですが、それでもディベートが終わった後、やっぱりたいていの人はもともとの考えを再び主張するようになります。自分で自分の考えを散々否定しておきながらです。

議論に負けたからといって相手に屈服しなくてはいけないとか、考えを変えなければいけないとか、そうやって思いつめる必要は全然ありません。たしかにあんたには反論できない。あんたのやり方に利点が多いことは理解した。でも俺はこのやり方を続けるよ。結果に拘束力のない議論では、こうした結末は十分にありえるわけです。では議論は無意味だったか。そうではないと思います。決定的に自分のやり方が行き詰まったとき、もうひとつのやり方を理解したことが必ず活きてきます。

多くの考え、様々な考えが世の中にはある、というだけなら、いちいち議論せずともわかりきっています。しかし、他の考えを理解するには、面倒でも議論が必要となる場合が多い。こうしたことを踏まえて、私は「議論の目的は相互理解にある」と申し上げているのです。

誤解を解くという事はリアルタイムで行った方が良いのは事実だと思います。実際に話をしていて誤解が生じた時に指摘されれば、すぐに「ああ、ごめん、そういう意味じゃないよ、俺が言いたかったのは・・・」と始まって、色々な意見の交換が行わた後に「ああ、そういうことか、違う意味だと思ってた」とか「そういう考え方もあるんだなー」って感じになると思うんですよ。そして最後に「誤解させてごめんなー」、「いやいや、こちらこそ」というような「認識の摺り合わせや妥協点でのある程度の解消」が速やかで円滑に出来ると思います。これは皆さん経験があることと思います。少なくても私は結構ありますよ、言葉足らずの傾向があるんで。

中略

「全ての誤解が無くなる訳では無い」とも書いてある通り、「会えば誤解が無くなる」なんて思っていないです。そもそも「誤解が完全に解消できるか?」なんて事は「人は完全に分かり合えるか?」と同じような話になってきますので、私の文章は「誤解の完全な解消は無理」ということを前提として書かれています。その上で「多少の誤解は解消できる」と書かれているのは「完全では無いが、上記の理由により、比較的速やかに、そして円滑に解消(勿論、納得するしないだけではなく、妥協点も含む)できる事が多い」という意味です。

ぽよさんが、どのようなレベルの誤解について語っていらっしゃるのか、ようやくわかりました。事実誤認があったとか、説明するべきことを省略してどうでもいいことばかり話していたとか、そういった原因に基づく誤解なら、なるほど直接会った方が話は誤解を解くには早いかもしれません。また、ぽよさんのおっしゃるような誤解は、無駄の多い長い文章からより多く生まれます。もしぽよさんが誤解を恐れるのであれば、むしろ十分に言葉を絞り込む方が得策でしょう。

一方、「朝まで生テレビ」や「ここが変だよ日本人」や「真剣10代喋り場」を見ての通り、価値観、世界観を乗り越えるための議論の方法としては、会話は無力とさえいえます。こうした議論には、お互いが一定の量がまとまった小論を、ある程度の時間を置いてやり取りする方が理に適っています。そして価値観の違いに発する根の深い誤解もまた、そのような方法でなければ、解くことは非常に難しいと考えます。

前回の批判は、議論と誤解の質を定義せずに一律に話を進めた私の手落ちだったかと思います。

出来たらテキスト企画へのゲスト参加もお願いします!!言及を見に行ったついでに、テキストを少し読ませて貰ったら、「ちょっと表現がきつめだけど、面白いなー。」と思ったんで。駄目っすか?・・・これは個人的なバカ意見ですけど、実際に会って酒でも飲んで語りゃ、ある程度の誤解も解消できて、それをネタにしながら楽しく飲めると思うんですよー。やっぱりおいらの経験上では、酒飲んでぶっちゃけ話をすりゃー、大体の人とは仲良くなれると思うんです。徳保さん!おいらは文章で語り合うより、酒でも飲んで語り合う方が性に合ってるんで、今度、機会があったら飲みに行きましょうよ!今回の一件をネタで日本酒とか良いなぁ。

割り勘ならば……あと、高いところはちょっと。と、真に受けてみたりして。ぽよさん、お疲れ様でした。回答をいただいたことに感謝します。

今後のこと

以上は原則論であって、実際にどうするかという話になりますと、さすがに今まで通りというわけにもいかないでしょう。小さなサイトの主張を批判すると、私の意見に正当性があろうとなかろうと、あたかもそれがいじめであるかのような言い方をされる方がいらっしゃいますしね。おかしいものはおかしいという自由もないのか(→追記)。というか、実態としては単に一時的にアクセス数が流入するだけですよ。何の実害もない。カウンターをつけず、アクセス解析もしていなかったなら、何もなかったかのような静けさなわけです。シャトル記事関連で当サイトが俺ニュースにリンクされたときも、サイト批評サイトリンク集がちゆメモで取り上げられたときもそうでした。

だから私としては、気にしないでください、といいたいのだけれども。ダメなんですか? どうしても気になってしまうのですか?

……なんて書いてみても無力なので、以後、自重します。

自由はもちろんある。徳保の場合は言及された相手に「なんで俺がここまで言われなきゃいかんのだ」という不快感を与えがちな記述になっているために、晒し罵倒と解釈される可能性が大きくなる。おまけに、徳保がたろたま関係でサイトを出せば、あまり考えずに徳保側に立って騒ぐ奴も出てくるだろ、今は。俺らにもおかしいものはおかしいと言う自由がある。それを受けて徳保は「おかしいものはおかしいという自由もないのか」などと自分の自由が束縛されたように感じているわけだろう? 徳保に言及されたサイトは今の徳保と同じように感じていたと思う。

納得。おっしゃる通りです。

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