趣味Web 小説 2003-03-22

常識を構成する論理

なぜ、常識を構成する論理を探求するのか、探求したところで常識が変わるわけでもないだろうに、という問いへの回答。

私が社会で生きていくにあたり、常識に沿った行動を求められる場面が多々あります。無意識に常識的な行動を取れる方には何ら造作もないことでしょうが、私の無意識は非常識的なので、そうはいきません。様々な体験、知識から、「こうすれば常識的だろう」と思われるあたりを意識的に選択する必要があります。そのため、十分な体験と知識のない分野では途方に暮れることになるのです。失敗を繰り返しつつ公式を見つけていくのも悪くはありませんが、できることなら最初から公式を教えてほしいという思いがあります。

Aのときaせよ。ではBのとき、どうしたらいい? たった1例からでは判断つきかねるわけで、私は困ってしまいます。なぜAのときaするのか、と問うのはそのためです。公式さえわかっていれば、Bのときbすればいいのだな、とすぐにわかりますから。

公式を説明する手間を惜しんで、「常識だからこうなのだ」とだけ説明される方の気持ちはわからないでもないのですが、私はそうした姿勢を今後も批判していきたい。

日本に来たアメリカ人に「日本では家では靴を脱ぐものだから」と日本の「常識」を教えたのに、「なんで靴を脱がなきゃいけないんですか、どこからその常識は来たんですか、ボクの国では靴脱がないです」なんて聞かれたって困るべさ。そんな細かい所知りたきゃ、人に聞かずに自分で勉強してくれってもんだ。

高校時代の話ですが、ロータリー倶楽部の企画に応募して、短期交換留学という名目の相互ホームステイに参加したことがあります。相手方はサン・ブルーノ市の高校を卒業したばかりの方でした。夏休みの暑い暑い時期でした。

相手の方も一応、日本の家屋内では靴を脱ぐことを知っていました。けれども、その理由までは知らなかった。それで早速、やってくれちゃったことを覚えています。客人が泊まったのは、ふだん母が使っていた和室でした。客人は冷たい飲み物をグラスに注いで部屋に持っていき、無造作に畳の上へ置きました。我が家にはクーラがありませんから、グラスの周りにはすぐ結露がつき、しばらくすると大きな滴となって畳へと滴り落ちます。すぐに拭けばいいのですが、すっかり水が染み込んでしまった翌朝まで、誰も惨状に気づきませんでした。その間、客人は冷蔵庫から冷えた缶ジュースを持ってきたり、グラスの飲み物を注ぎ足したりして、一晩で5、6箇所にしみをつくってくれました。

Aのときaする、とだけ教えられても応用が効かないというのは、例えばこういうことなのです。

日本の気候は温暖湿潤、日本の大地はいつも湿っています。湿った地面に直接体を横たえて寝るのは毛皮を失った人間には不健康です。だから日本家屋は高床式で、湿った外界と乾燥した屋内を峻別するのです。外界を歩き大地の水分を吸って裏側が湿った靴を屋内にあげさせないのは、こうした背景によります。

乾燥した屋内空間を前提として設計される日本家屋では、紙と藺草を積極的に利用できるようになりました。障子と畳からなる和室はこうして誕生したのです。日本家屋を大切に住まうにあたり、気をつけなければならないのが湿気です。障子も畳も液体による汚れに非常に弱く、すぐに染みができ、カビが生えてしまいます。

さて、今あなたの目の前に、結露が畳の上に滴り落ちている状況があります。あなたは、これはまずい、と思わなければいけません。グラスの下にハンカチを敷く、あるいはティッシュペーパーでも良しとしましょうか。けれども、もし私たちに一言声をかけてくださったなら、お盆をお貸しすることができたのですが……。

な~んてね。薀蓄は適当なでっち上げですが、「日本家屋の構成部品は濡らすべからず」という公式を教えていれば、客人は問題に自分で気付くことができたはずです。日本家屋に靴で上がってはいけません、畳の上に冷たい飲み物を置くときはお盆を使いなさい、そういったAのときaせよ式の事実を積み上げていくだけでは、なかなか常識の裏にある発想は見えてこないし、いつまでも「お前はなぜわからないんだ」という失敗を続けることでしょう。

靴で上がるなといわれたからといって、サンダルなら上がっていいのかな、と思うほど私はバカではありません。その程度の応用ならできますとも。けれども、靴の話から畳とお盆の関係を想像するのは難しいと思いませんか。けれども、靴の話の背景にある理屈を知ることで、一挙に応用範囲は広がっていくわけです。なぜ日本家屋に雨戸がついているのか、とかね。障子は濡らしちゃいけない。だから和室、障子、縁側、雨戸という構成がとられているわけです。それを知っていれば、雨が降り出したら客人も自ら進んで雨戸を閉めるのを手伝ってくれるでしょう。私たちが何をやっているのか、即座に理解ができるわけです。

日本人は無意識に床は濡らしちゃいけないとか、そういったことを考えているわけでしょう。けれども向こうの家へ行ったら、床がタイル張りなので、少々濡れたって全然平気なんですね。バスルームの前の廊下なんて、いつも濡れていました。そういう環境で育ったら、グラスの結露くらい気にしないのも当然だな、と思いました。で、文化の違う人にこちらの常識を伝えようと思ったら、相手に理解できるレベルまで噛み砕いて理屈を説明しなきゃいけない。ただ一言「常識は常識だ」というだけじゃ伝わりません。

私が批判したいのは、例えば「常識は常識だ」としか説明しないくせに、別な場面に常識を応用できないことを「なぜお前はわからないのだ」という方々です。その気持ちはわからないでもないのですが、なぜAのときaするのか、その理由(理屈)を説明してください、お願いしますとくり返し頼んでいるのに、まるで相手にしてくれない方は意地が悪い。大体そういう方だって、無知ゆえに非常識なことをやっている場面がしばしば見受けられるのだから、お互いに説明するひと手間を惜しまないようにしましょうよ、といっているだけなのだけれど。

少々補足。仕事の方では、滅多に常識の押付はありません。むしろ、もうわかったから説明を切り上げてください、といいたくなる場面の方がずっと多い。研究職だから、ということもあるかと思いますけれども。営業の同僚は、石頭の上司に頭ごなしに物言われて困惑することが少なくないようです。というわけで私が常識、常識とうるさい連中に閉口させられるのは、主に日常会話において。あとWWWでの議論でも、しょっちゅうそういった場面に出くわします。まあ、高校を卒業して以降は、いろいろ気楽になったものです。

Information

注意書き