仕事始めですね。まずは初日から遅刻しないように。それだけは気をつけましょう。
昨日付けで、私の意見に対する端的かつ有効な反論が。
自分、または自分の親しい人がイラク国民だったとして、同じように攻撃を容認できるのか
徳保さんが、反戦平和を叫ぶことを奇麗事だと言うならば、徳保さんの意見もまた、平和な国に暮らす国民ならではの奇麗事と言わねばなりません。
これはこれとして筋が通っている批判ではないかと思う。たしかにそのとき、私は理屈抜きでイラク攻撃に反対するのかもしれない。あるいは、フセイン政権を放置してもさしたる危険はないことを示唆する資料を、必死に探すのかもしれない。
けれども、私の考えはやっぱり変わらないので、以下、簡単に感想を述べる。
まず、私は(少なくとも表面的な言動の)一貫性を重んじない人間である。ある場面でしゃにむに反戦平和論を唱えるようになるとしても、今回のイラク攻撃について賛成することに問題があるとは感じない。もちろん、この点を問題にする意見もあっていいし、なるほどとは思う。けれども、そうした意見は私の心にあまり響かない。
次に、私はエゴを肯定する人間である。私がイラク攻撃に賛成する理由は、露悪的に書けば「遠い国の小さな(注:あえてこう書く)戦争により将来の大きな悲劇(そのときは日本もただではすまないかもしれない)を予防できる(かもしれない)以上、私には今回のイラク攻撃に反対する理由がない」ということになる。究極的には私も単に我が身の安全を祈っているだけであり、そのために何が最も有効な方法かを考えた場合に、イラク攻撃賛成という結論に至ったということだ。あらゆる戦争に反対する、という試みには展望を見出せない(それはあたかも警察廃止論と同様に見える)のである。
最後に、私は奇麗事を決して過小評価しない。世の中のたいていの問題は、当事者ではなく第3者が解決の中心的役割を担う。当事者だけで解決できる問題など、まずありえないといっていい。念のため、第3者の関与を排除した場合、とくに弱者or被害者にとって厳しい結果を招く可能性が高いことを指摘しておきたい。さて、第3者を動かすものは何か。それは必ずしも現実的な生の声ではない。新聞の見出し、ワイドショーの論調に明らかなように、第3者は(あるいは第3者であるが故に)奇麗事に敏感に反応する。奇麗事は、その名の通り美しい言葉である。美しく麗しい言葉には、人を動かす力がある。
余談。反戦平和論にも、イラク攻撃賛成の意見にも、それぞれもっともらしい理由があり、論を支えるロジックがある。世の多くの論者が一貫性を重んじ、論理的整合性を尊ぶのは、論理の美しさに(半ば無意識的に)価値を見出しているからなのかもしれない。