小林よしのり「戦争論3」は、総員必読だというので読んでみました。なるほど、私には興味深い本でした。ファンの方はとっくに読んでいるでしょうから、とりあえず小林嫌いの人にお勧めしておきます。無関心層は、まあ、無関心のままでいいと思う。
ちょっと気になったこと。小林さんは後書きの中でこれで論理的には完全にポチどもを追い詰めた
と書いているのだけれども、本文の方を読んだ限りでは、もはや議論の余地がない状況だとしかいいようがないのではないか。つまり、論理の基準となる価値判断の決定的な差異を小林さん自身が認めていて、そうである以上、双方に歩み寄りの道はありません。
小林さんの価値観を認めるなら、ポチ保守はいかにもポチなのだけれども、いわゆる保守派の価値観を認めるなら、小林さんのいっていることは虚論空論に過ぎず、顧みるに値しない。これは話の前提をどうとるかという話であって、論理でカタがつく話ではないでしょう。
戦争論3には、3つの思想的立場が紹介されているので、各々が大切にするものを重要度順に並べ、簡単にまとめてみる。
どれが一番近いかといえば、私は保守派。国民の生命・財産を守るためなら、伝統・礼節などは少々犠牲にしてもよい。ただ、現状はあまりにも伝統・礼節がないがしろにされすぎているために問題が生じている。だから、伝統・礼節をもう少し復興した方がいいと考える。一方、反戦・平和も重要ではあるけれど、話し合いと非暴力を神聖視する勢力が強すぎて問題が増えている。反戦・平和主義は今より少々抑制すべき。……というように。
小林さんは、大東亜戦争を肯定する。国民の生命・財産を大量に消費したけれども、それは日本が日本であるために必要なことだったとする。そうかもしれない。けれども、日本が日本であること(=伝統を守ること)に、どれだけの人が支払った対価以上の価値を見出すだろうか。現代の日本人の多くが、「つまらない戦争だった」と考えるのは、論理の問題ではなくて価値観の問題ではないのか。伝統の存続よりも生命・財産という舶来の価値観を上におく保守派を小林さんは批判するけれども、価値観の選択に関する批判は、論理にならない。
A>C>B だから A>B というのが論理的展開だけれども、価値観の違う人と話をすると A>C>B という説と A<D<B という説がぶつかり合う。それらを包括して A>B と A<B のどちらが正しいかを決める手はなくて、結局、どちらが自分にとって共感できるのか、という話にしかならない。
議論にならないものを議論だといい、論理的に勝ったなどというのは、どうかと思う。じゃあどう書けばいいんだ、といわれると困るのだけれども、とりあえず「私の価値観を基準に取れば」という留保つきなんだということは、自分自身は認識しておいた方がよいのではなかろうか。
ちょっと悩むところだけれども、リンク先はnotebookにしておく。2003年10月3日付の記事を参照のこと。
国民の生命・財産を守るためなら、伝統・礼節などは少々犠牲にしてもよい。ただ、現状はあまりにも伝統・礼節がないがしろにされすぎているために問題が生じている。だから、伝統・礼節をもう少し復興した方がいいと考える。
どのくらいかは知らないが、伝統を重視するという構えに絶対量があると仮定しないかぎり、この文章の論理は破綻している。これは大抵の中立的な、あるいは相対的な文章にも云えることだ。
そもそも破綻しているのだから話を進めるのも愚かなのだが、少しだけ、いわばポチ保守に関して論及しておきたい。
徳保氏がまとめている通りに、「保守」というものを解釈するならば、それはちゃんちゃらおかしな、支点なき立場に過ぎない。なぜといって、
国民の生命・財産を「保守」するというのが保守派ならば、国民の生命・財産を支えているものは何かということに必然考えざるを得ず、それは伝統であるという回答に行き着くはずだからである。そんな至極当たり前であることを、無視しているのか考えられないのかは知らないが、論及すらしないから小林よしのり氏に「ポチ保守」と呼ばれているのだ。
絶対量はあってもなくてもよいのではなかろうか。私は、伝統は適当に分解して取捨選択できるものと考えている。本来、それぞれは何らかの有機的なつながりを持っているのだけれども、現実問題としては全体を一気に扱うことは不可能だ。そこで仮に、個々の要素についてあれこれ対処法を決めていくことになる。私は「仮に」と書いたけれども、それ以上のことはできないのだから、実質的にはそれがすべてだ。
そう考えるから私は、「あらゆる伝統的な事象を保守する必要はなく、邪魔なものは捨て、あった方が都合がいいものは残す、という判断は可能だ」という。
戦後の農地解放は日本の農業を破壊しただけでなく、封建時代から続いた日本における(事実上の)身分・階級制度を根底から改革した。1億総中流の世界はこうして作られたわけだが、伝統の放棄と引き換えに貧しい小作民のどれほど多くが救われたことか。男女雇用機会均等法の進展もまた、一方で問題を引き起こしつつも相対的には日本の富を増す一助となった。国民皆保険制度もそうで、かつての日本にはなかった制度であり考え方である。傷病の際、誰もが治療を受ける権利を持っている、というのは日本の伝統的な考え方ではない。治療を受けられない人がいるのは「仕方のないこと」のひとつだった。
上記3例の戦後日本の社会変革はすべて、「自由・平等」といった、小林さんがいうところの人工的な価値観に基づいている。その実際の政策の施行において、日本の伝統が色濃く影響したことはいうまでもないが、主従関係は明らかだろう。現在、日本の社会保障制度の大半は、欧米から輸入された人工的な価値観を主として組み立てられている。現場には日本の伝統が影響しているのだが、それはあくまでも運用レベルの話でしかない。
「国民の生命・財産」を「保守」するというのが保守派ならば、「国民の生命・財産」を支えているものは何かということに必然考えざるを得ず、それは伝統であるという回答に行き着くはずだからである。
というのだけれども、私にはそれが理解できない。よりよい生き方、よりよい財産の扱い方を考える、運用のレベルの話としては伝統が活きてくるのだろうが、「国民の生命・財産」を保守する枠組み自体は人工的価値観に支配されているのが現状ではないのか。
抽象的、総括的な話をしていると、あたかも伝統なるものが明確にその姿を持っているように思われてくるのだが、具体的な各論を考えていくと、結局そこに現れてくるのは人工的価値観ばかりであって、伝統は幽霊か物の怪のように背景に紛れ込んでしまう。あなたのいう当たり前のことは、私にとってはちっとも当たり前ではないので、きちんと説明をいただきたいところである。
それ以上のことはできないのだから、実質的にはそれがすべてだというのは、結局のところ、私が「伝統を重視するという構えに絶対量があると仮定」していると指摘しているのと同義だ。まあ徳保氏はあってもなくてもよいと云っているのだから、どうでもいいのだろうが、私はこだわる。なぜといって、ここに徳保氏の伝統に対する認識の誤りがあると考えるからである。仮定が誤りならば結論も誤りなのだ。
伝統の絶対量は捉えられない(だから絶対量があるともないともいえない)が、伝統はモジュール化されているものと仮にみなすことができて、個別の事象について取捨選択は可能だ、と私はいっているのです。伝統との付き合い方は、all or nothing ではないということ。また、全体をどう評価するか、という観点からの出発を義務付けられてもいないということ。
人間は不完全であるという前提に立つならば、急進的に作り出された産物に対して期待を抱くことはできない。より正確であるためには時間の経過によってなにほどかの秩序が与えられた伝統という精神をよすがにするほかないと考える。
私はそうは考えません。人間は不完全であるという前提に立つならば、急進的に作り出された産物に対して期待を抱くこと
は十分ありえる話ではないのですか。長年にわたる人智の蓄積を軽視して思いつきのアイデアに飛びつくのは、人間がいかにダメかということの証左でしょう。
……とはいうものの、ここで注意すべきは、幸せ・成功といったものは多様性を持っていて、過去を顧みず新しいやり方に飛びついた結果、新しい幸せ・成功に出会うことがしばしばあるということです。つまり、伝統に従っていれば、伝統的な幸せ・成功には都合がよいかもしれないが、それだけが正解ではないわけです。
戦後の日本人は、戦前の価値観の少なからずを捨ててしまいました。その結果、とくに礼節の多くを失いました。そのために悲しい世の中になっているというのは一面の事実でしょう。しかしながら、では戦前の価値観を復活させることを多くの人が望むでしょうか? 現代人は、あれこれ不満ばかりいっているけれども、それでも自分たちは過去のいずれの時代の人々よりも幸せであると思っているのです。その幸せの内実は、かつての幸せとは大きく異なっているでしょう。しかし、それでも幸せには違いないのです。だから、人々は元に戻ろうとしていない。
保守というのは、いくつかの点で、行き過ぎを改めようという勢力だと認識しています。その取捨選択の基準は、「国民の生命・財産を守る」ことです。革新も同じです。ただ、保守と革新では方法論が異なっている。保守は、自由・民主の増進と少々の伝統回帰が正解だといいます。革新は、反戦・平和の推進と伝統破壊が正解だといいます。小林さんの意見は、Kei Kanouさんが代弁されている通りでしょう。
私が書いたのは、この3者が、論理的にひとつの結論に導かれることはありえないという話です。私は、人間は無秩序で刹那的な判断を、あろうことか希望を持って行うものだと考えるので、Kei Kanouさんとは根本的に人間観が異なっていると思う。価値観の違いに根ざす路線対立は、論理で決着しない。共感するかどうか以外に、判断の根拠がない。
何を伝統として残し、何を因襲として排除するのかについても同じである。なぜといって、やはり「人間の不完全性」という前提に立つならば、その場で決定された取捨に疑念を抱かざるを得ないからだ。そうであるならば、取捨選択の基準もまた慣習によって行われるべきである。
既に述べた通り、伝統によって築かれた秩序と離れたところで、人は判断をすることがあります。そしてその判断に、人はしばしば自信を持っているものです。なぜ人間の判断は、そのように不安定な立場で行われるのか? その答えは、「人間の不完全性」に求められるのではありませんか。
そもそも、人間が不完全なら、その人間の歩みもまた不完全であり、したがって伝統も不完全です。どこかに完全なものがあるとすれば、それが伝統の中に存在しない可能性は決して低くない。そう考えることに、私は疑問を感じません。
保守がいっているのは、革新の思いつきのうち、既に失敗が明らかなところは元に戻そうという話です。反伝統の発想を一律に否定しているわけではありません。
あなたのいう当たり前のことは、私にとってはちっとも当たり前ではないので、きちんと説明をいただきたいところである。と徳保氏は云うが、これを論理的思考の問題において当然の帰結と考えるならば、それを「当たり前」と言っても良いのではないですか。
論理的、なんておっしゃるけれども、それはKei Kanouさんの価値観を前提とすればの話。Kei Kanouさんが私の前提を否定したように、私はKei Kanouさんの前提を否定します。
私は、人間は不完全であるという前提に立つならば、急進的に作り出された産物に対して期待を抱くことはできない
とは思いません。「人間の不完全性」という前提に立つならば、その場で決定された取捨に疑念を抱かざるを得ない
とは思いません。私はKei Kanouさんが紹介した「伝統」の辞書的な意味はそれでけっこうだと思いますが、それ故に云々という展開には賛同しません。
論理で対話を進めるためには、論理を構成する価値観の共有が必要です。小林さんと保守と革新は、それぞれ異なる前提を掲げているので、論理で議論にカタがつくはずがないのです。
1+1=2
これがロジックというものだ! ロジックは価値観から開放されているのだ! なんていう人がたまにいる。バカっぽい。
小麦粉を2袋買ってきたとする。その中身をひとつの大きな袋に移しました。では問題です。小麦粉は今、何袋あるでしょうか?
答えは1袋です。
右手にひとつ、粘土を持っています。左手にもひとつ、粘土を持っています。両手の粘土を合わせて、大きな塊にしました。では問題です。粘土は今、何個あるでしょうか?
答えは1個です。
何に注目するのか、それが問題なんです。上記の例では、小麦粉と粘土の質量に注目すれば 1+1=2 は成立しています。けれども、人によって事象の見方は異なります。視点次第では、1+1=1 になってしまう。1+1=2 が成立するのは、その前提となる価値観が共有されている場に限られます。
個数に注目するのが間違いで、質量に注目するのが正しい、という根拠はありません。もう少し正確にいえば、その判断が可能となるのは、何らかの前提となる価値観が共有されている場合に限られます。物事を突き詰めていくと、最終的に共有されている価値観に行き着くだろうというのは誤りで、最終的に価値観が共有されていないことに気づかされるというのが世の中の現実なのではないでしょうか。
加納さんとのやり取りの続き。
どこかに完全なものがあるとすればなどと一言も言っていない。私は伝統は「なにほどかの秩序が与えられ」ていると言っていて、完全だとは言っていない。人間が不完全であるから、少しでも秩序が保てるであろう、過去に秩序を保った智恵(伝統)を参照すべきだと言っているのである。
「どこかに完全なものがあるとすれば」というのは私の言葉。私はどこかでそれを加納さんの言葉と誤解させるような書き方をしていますか? 私がいっているのは、完全なものと比較すれば、伝統も思いつきも五十歩百歩だということです。人間の考えることなんてのは大したことじゃない。だからどっちを選ぶ方が期待が持てる(=正確)かなんてことは、明言できないだろう、といっている。
政治の問題というのは、100点満点のテストについて、平均10点の生徒と平均3点の生徒が議論して正解を求めようとしているようなものなんだ。どちらもいい加減なことをいう。せめてどちらがよりマシ(=正確)なことをいいそうかといったら、それは10点の生徒の方だろうけれども、むしろどちらも間違うことが非常に多いという方が当たっているのではないか。
私は伝統に基づく判断が思い付きよりも常に正確だということはできないと考える。ふとした思いつき、急進的な変化が成功をもたらすことはよくあるという認識だ。それで失敗した例は無数にあるが、過去の経験が判断を誤らせた事例だって数限りない。伝統に基づく判断は、どちらかといえば思い付きよりは正しいことが多いだろうけれども、だから重要な問題は必ず伝統に基づいて判断すべきだというほど信用する気にはなれない。
主題に対する反論(というか再度の立場説明)は以上だけれども、以下、余談を続ける。
言葉の定義の問題で、簡単に「間違っている」というのはどうか。加納さんのいう「保守」と私のいう「保守」では意味が違うというだけのことではないか。私は保守と革新は自由・民主と反戦・人権のバランスをどうとるかという違いでしかないとみなしていて、それは単に私の言葉の定義。加納さんが本当の保守は云々、とおっしゃるなら、それは私のいう保守とは違いますね、というだけこと。
小林さんが保守派知識人をポチ保守と呼ぶのは、単に小林さんの保守の定義に当てはまらないからそう呼んでいるだけだ。ポチ保守は「我こそ保守本流であって、小林さんの立場は単なる蛮勇じゃないのか」という。同じ保守という言葉に、いろいろな立場の人がいろいろな意味を込めているから、「自分の解釈だけを正解と認めろ」というと喧嘩になる。でも、これは単に保守Aと保守Bのように分類できれば済む話でしかないから、あまり意味がないと私は思う。
論理は価値観を持たない。持たないので、正しい手順を踏んで推論を進めた結果が何某かの価値観に照らし合わせて正しいか誤っているかを保証しない。単に前提から導き出される結論が妥当であるかどうかを保証するだけだ。
ロジックが有効となるためには、前提認識の共有が必要だ。前述の粘土の例でいうならば、「この問題は個数(or 質量)を基準として考えます」という約束が必要だということ。その約束がなかったら、1+1 は 1 になったり 2 になったりして答えが定まらない。つまり、そもそも 1+1=2 というロジック自体が、議論の道具として成り立たない。
コンピューターはプログラミングされたとおりに処理を進めるが、その結果が正しいかどうかは人間が自らの価値観(というかなんというか)にしたがって判断する。
2人のプログラマが、共同作業でプログラムを作るとする。一人は 1+1=1 とし、もう一人は 1+1=2 としてプログラムを書く。結果として、このプログラムは何の役にも立たないものになる。
1+1 は 1 なのか 2 なのか、というロジックの定義には、価値観が関与する。ロジックは、いったん定義がすんでしまえば、後は勝手に機能するけれども、ロジックは価値観から開放されていると考えるのは誤りだ。何らかの価値観によって定義されなければ、そもそもロジックは成立しえない。1=1+1=2 だから 1=2 という3段論法に瑕疵はないが、この結論は機能していない。イコールの定義が不定だから、ロジックが破綻しているわけである。
うまいまとめだと思ったので、転載します。
- 800 :鶴仙人 :03/10/05 14:15 ID:n3J1eKT5
今回の議論のテーマは、根本において三つに分けられますね。
- 論理と価値の関係
- 判断の前提を確定することの必要性
- 常識の非当然性
私なりに、徳保の議論の根本をまとめてみましょう。
論理は、社会の実際的な場面では、それ自体では有意義に機能し得ない。論理的判断が実効力をもつためには、何らかの価値観が前提される必要がある。そしてそれは、一方で各国の思想が見境なく輸入され、他方で相対主義的思考が蔓延するという現代日本では、本来、各人によってまことに多種多様であるはずだ。
ここで大事なのは、それを無理矢理統一しようとしないこと。そうではなくて、人が違えば意見が違って当然だ、という立場を出発点にするのである。とはいえ、そういう混沌状態を無条件に是認するわけではない。議論をする以上は、そこに何らかの秩序を与えて、有意義な結論の導出を目指すべきだろう。
そのために必要なことが、「前提となっている価値観の確認」にほかならない。確認の結果、何らかの価値観が共有され得るようであれば、そこを足場として議論を進めて行けばよい。あるいは前提となる価値観が共有されないようであれば、そこから先には、本来なら論理的討議の成立は見込めない。あとはもう、価値観の戦争、ということになるでしょう。その行き着く所は、取っ組み合いの喧嘩ですね。ですから、仮に徳保の状況整理が正しいとすれば、小林さんもあんな不細工な漫画を書く暇があったら、「ポチ保守」面々の邸宅へ花束持参で参上して、炉辺で談笑にふけりつつ、すかさず火掻き棒で殴り倒して来ればいいのです。横着だなあ、彼も。そんなことじゃ超人の国への道のりは程遠いのさ。頑張りたまえ。
- 801 :鶴仙人 :03/10/05 14:20 ID:n3J1eKT5
(価値観、価値観と連呼したが、ここにいう「価値観」とは、必ずしも深刻な意味ではない。徳保の例えに即して言えば、小麦粉の個数と質量のどちらに注目するかということも、価値観の一種である。この場合、双方の価値観が個数に注目するという仕方で共有されたなら、そこを足場として議論を進めて行くわけである。)
>>800の最後の下りは半ば冗談ですからね。最も強力な武器は、言葉です。言葉は無数の人々を救う こともできるし、無数の人々を殺すこともできる。小林さんは、言葉と絵によって ポチ保守の息の根を止めてやろうと息巻いておるようですが、現状を見る限りは まだまだ未熟者だと思いますね。もっとも、「ポチ保守」もよほど無感覚なのだろうけど。してみれば、要するに小林さんは「ポチ保守」なんかと不毛な論戦を張る ことはやめて、知性ある日本男児に向かって自説を説き続けるべきなのでしょう。彼一人でポチ保守を殺すことは不可能だから、仲間を増やすのだ。はてさて、 どうなることやら。
以上は、1と2のまとめ。
- 802 :鶴仙人 :03/10/05 14:27 ID:n3J1eKT5
最後に3を論じましょう。すなわち「常識の非当然性」について。これは徳保自身が、きわめて簡明に説明していますから、それを引くに留めます。
物事を突き詰めていくと、最終的に共有されている価値観に行き着くだろうというのは誤りで、最終的に価値観が共有されていないことに気づかされるというのが世の中の現実なのではないでしょうか。
「そんなことくらい、なぜ説明されなきゃわからないんだ?」という怒りはたいてい、理不尽です。俺世界を一般化し過ぎている。
世の中にはいろいろな思想的立場があり、常識も多様化しています。同じ価値観を共有していない人が世の中にはたくさんいるのだから、説明なしで意図が伝わる方が珍しい現象なのです。
あなたのいう当たり前のことは、私にとってはちっとも当たり前ではないので、きちんと説明をいただきたいところである。
さて、少しは諸兄の参考になりましたでしょうか。
あ、加納さんからレスが……。続き物なんで、ちょっとページを分けようと思います。私自身、整理しないとログを読むのが面倒になってきました。えーと、レスも含めてそれらの作業は次回の更新で。
徳保氏よ、引用は正しく行いなさい。ブロックレベル要素で引用したならば、文中ではインライン要素で、そのまま引用しなさい。
具体的に問題の箇所が指摘されていないので困ったのだけれども、マークアップを少し修正しておいた。でも、略語を確実にabbr要素とする必要がないように、引用の中の引用なんてものを要素として確実に明示する必要があるのかどうか。印刷物では慣習的に一段階までしか引用の深さを明示しないことが多いと思う。まるっきりの孫引きは別として……。ひょっとすると、相手の言葉を自分の解釈で置き換えること自体を批判されているのかもしれないけれど、それは加納さんも(ある程度)なさっていること。
とりあえず、私のどの記述に問題があって、それをどのように修正すべきなのか、ということを具体的に教えていただけるとありがたいです。加納さんが正しいと思う引用の仕方について、私は興味があります。
徳保氏は何故正しいHTMLを書くべきなのか、説明できるのだろうか。
私は、正しいHTMLの記述が利益を生むと考えているので、正しい記法を勧めます。けれども、無秩序な記述、仕様の意図に反する記述にも現に需要があります。段落の表現がp要素だけしかないのでは嫌だとか、そもそも見出しと段落の連鎖からなる構造化された文書の作成に拒否感を抱く方も少なくありません。フィーリングを重視し、考えなしに文字を大きくしたり小さくしたり、改行したり空白を入れたりしたいという需要がある以上、正しいHTMLが世の中の主流になるのはなかなか難しいと思います。
いくらツールが進化したって、見出しじゃないものをh1-6要素にすることをチェックできるわけがなく、HTMLを使う人が何に価値を見出すかということが重要なのだと思います。「場当たり的な文書の装飾をしたい」なんてのは、私から見るとつまらない志向なのですが、逆に相手の方だって私の考えるすっきりと整った文書構造とか、文書構造に基づいた明快で統一されたデザインなど窮屈な制約としか思われないのでしょう。
私は私の価値観において、W3Cの仕様書の目指す方向性を支持していますが、それに反する価値観の持ち主は、レガシーなHTMLで場当たり的に文書を装飾していくことを望むでしょうし、それを正しいことと考えるでしょう。私は正しい記法の利点を繰り返し説明してきましたが、結局それは、私の価値観に共感するものがない人にはさっぱり通じない話でしかなかったでしょう。けれども、それなら私のしていることは無意味かといったらそうでもないのです。何度も話を聞いているうちに転向する方がいらっしゃいます。あるいは単に正しい記法について知識の不足していただけの方もいらっしゃる。価値観の違いに根ざす問題だからといって、端から対話を拒否するのは悲観的に過ぎます。
ただ、私はこう思います。議論の前提となる価値観に差異があるのだから、論理的に一方が勝つということはありえない、と。
補足しておくと、10月7日付の記事は10月7日に書かれたもの。しかし結局、2003のindexを更新した(いちおうこれは目撃証言があるから、たぶん更新したんでしょう)だけで、記事の方はつい最近まで更新していませんでした。まあ日付は参考情報ということで。
以下、引用は全てNotebookより。
ある発言に関して言及する場合、HTML文章では、そこをまずblockquote要素で明示する。そして、その中から個別の文に言及する場合は、q要素を用いる。そうすることによって、厳密に相手の主張を追うことが出来る。徳保氏は、平成15年10月4日の記事において、blockquote要素で特定の私の文章を取り出し、そこからただ自説を展開するだけであった。それでは、私の書いた文章全体、なかんずく2003/10/04(Sat)の記事に関する言及にならない(具体的には私が個々の記事について指摘した「誤読」の内容)と言っているのだ。
なるほど。
で、読み返してみましたが、たしかに私は加納さんの発言全体について言及しようとはしていません。私の意図は第一に自説の補足にあって、加納さんの意見(の一部)への言及という形式は、そのために便利だから採用しているのです。私が自説の補足に当たって印象に残った発言を切り出すのは、それはそれで間違っていないと考えます。
そもそも加納さんが私の発言を批判した内容を読むと、私の意見の本旨とは関係ない部分に対する批判であることに気付く。
「ポチ保守は小林さんを論破できないし、小林さんもポチ保守を論破できない。なぜなら、お互いがの前提が異なるからだ」というのが私の当初の発言の趣旨。お互い、自分の前提に基づけば相手の意見の「論理的誤り」を指摘できるけれども、前提が共有されない限り、その指摘は通じない。たいていの「議論」は論理ではなく前提を争っていて、各々の前提がどれだけ共感を集めたかによって多数決の結果は決まります。
私が「戦争論3」で紹介される3つの立場のうち、いわゆる保守派に賛同すると書いたのは本論に添えられたディテールに過ぎません。加納さんはその部分を抜き出して批判なさったわけです。
しかし、本筋よりも脇筋に気を引かれるの別には悪いことではないでしょう。私の書いた文章全体、なかんずく2003/10/04(Sat)の記事に関する言及にならな
くてもよいのではありませんか。
辞書を引くと、多義語の多いことに気付かされます。「保守」も多義語で、いろいろな事象について用いられる。「本来の意味はこれだ」という説明は有意義だが、だから他の事象についてその言葉を用いてはならないというのは現実的でない。
多義語のひとつひとつの意味について、全部、新しい言葉を作らねばならないとしたら大変なことになる。日本語は誰にも使えない言語になってしまう。保守にもいろいろあっていいのであって、小林さんと産経新聞とはいっていることは違うけれど、どちらも保守と称してよい。
徳保氏はこの論争の趣旨を忘れてはいないか。この論争は、なにが保守の正統であるかを巡るものである。つまり、正統であるものを確認できればよい話で、その立場をとるかとらないかの話ではない。
私は、いわゆる保守派が保守の正統
であるなどと一度も述べていない。加納さんは論争の趣旨をなにが保守の正統であるかを巡るもの
だとおっしゃるが、そのような論争は存在していない。
徳保氏のように保守という言葉を、「守る」という辞書的な解釈だけで済ませようとするならば、徳保氏が最初に定義した
革新だって、国民の生命・財産を守るらしいから、それだって保守派と云える。それならば犬も猫も保守を自称しても構わぬというものだ。
私は(少なくとも最初の発言において)いわゆる保守派
という書き方をしたけれども、産経新聞を保守、朝日を革新に分類することについて、日本の言論状況では概ねコンセンサスが取れています。だからふつうは、「保守という言葉を発祥であるイギリス保守主義に限定した意味で用いていません」という但し書きなしで通用します。コンセンサスの取れていない拡張(例えば「広辞苑」や「現代用語の基礎知識」に採用されていない語義の追加)をするならば、一言断らなければ不都合を招くでしょう。
産経新聞は加納さんのいう正統
な保守主義の主張に賛同していない。それでも産経新聞は保守です。小林さんは産経新聞をポチ保守という新しいジャンルに分類したので、話はわかりやすくなりました。
しかし、ここで2つの問題があります。
私がこの論争で問題としたのは、「ポチ保守」らが保守と名乗る僭称のほどと、それを支持するという徳保さんの思考だ。そこには価値観の問題は出現しないし、あるのはただ、事実の問題だけである。
事実の問題ではない。価値観の問題です。
多義語の、正統でない語義を排除するとデメリットが生じます。加納さんにとってみればつまらないデメリットかもしれませんが、逆に私は語義を正統なものだけに純化するメリットを小さく見積もるので、多義語は多義語のままでよいというのです。
このやりとりを論争とみなしているのは加納さんであって、私ではない。私の認識は「保守をめぐるやりとり」というタイトルによく表れています。連想ゲームのような意見交換も、広義の「やりとり」の範疇でしょう。
ところで、「キモイ」の語源は「気持ち悪い」です。
これには徳保氏も納得するだろう。
って、それはその通りだが、その先はいただけない。これは話の前提をどうとるかという話であって、論理でカタがつく話ではない
というのが本旨なのだが、これに対置される意見は「これは前提に関係なく論理でカタのつく話だ」のはず。
しかし加納さんの問題提起は以下の2項目だという。
- 正統であるものの存在を認めるならば、それに準拠しない者は正統的ではないと言える。
- 引用は公正な慣行によってしなければならないが、無秩序で刹那的な判断を推奨する徳保氏は、正統的且つ慣行的な引用を認めないのか
どう見比べても、私の本旨に対する意見とは思えない。
別に、それでもいいと私は思う。ただ、加納さんが私の本旨に対して反論されているという姿勢だから、それは認識の錯誤だというのです。
正統であるものの存在を認めるならば、それに準拠しない者は正統的ではないと言える。
引用は公正な慣行によってしなければならないが、無秩序で刹那的な判断を推奨する徳保氏は、正統的且つ慣行的な引用を認めないのか
……で、加納さんの問題提起が私の本旨に関係ないことは、上記2項目について私がどんな回答をしたとしても本旨が微動だにしないことからも明らか。
徳保氏にお聞きするが、
その本来の適用範囲とはどこからどこまでなのか、正統なポチ保守とはいかなるものか、現状程度とはどれくらいのものか。
「ポチ保守」は小林さんの定義した言葉だから、本来の適用範囲は小林さんに聞けばわかる。正統なポチ保守とは、小林さんの定義を逸脱しない範囲のポチ保守のことをいう。現状では、小林さんの定義をちゃんと確認しないでポチ保守という言葉を使う人がたくさんいて、だから定義を逸脱した使用例もあるだろうけれども、世の中はそれでも大過なく回っている。
加納さんの疑問は、加納さんが保守とみなさないものを私が保守と呼ぶところに端を発しています。だから私は、「いわゆる保守」を保守と呼ぶ2つの理由を説明したのですが、ご理解いただけませんか。
私は加納さんが私の意見に賛同することを望んでいません。加納さんは正統な保守だけを保守と呼ぶべきだという価値観を持っていらっしゃいますが、私はその価値観の変容を希望しないからです。私は、いかなる価値観の相違によって意見対立が生じているか、その構図を納得していただきたい。
「あなたの考えはわかりましたが、私とは相容れない考えだということもわかりました」というのが私の期待する着地点です。
徳保氏は
価値観と云っているが、実はそうではないのである。それは、徳保氏がついに認めたように、保守には正統があり、本流がある(これが事実。)から、「ポチ保守」が保守を自任したりすることはできず、ならば彼らの立脚点である保守的だという言論も崩れて当然だからだ。
どうしても、加納さんには納得していただけないようなのだけれど。
「正統な保守だけを保守と呼ぶのが当然だ」というのは、加納さんの価値観に立脚した意見です。「〜するのが当然」とは、何らかの価値観に基づく判断であって、少なくとも事実ではない。私は加納さんの価値観に賛同しないから、「正統でない保守も(広義の)保守と呼んでいい」といっている。
事実をいくら積み上げても、「当然」などという判断は生まれない。判断は価値観の介在なくして存在しえない。
「正統な保守だけを保守と呼ぶのが当然だ」という前提(=価値観)を共有できるならば、加納さんのおっしゃる通り、私は論破されています。しかし、私はその前提(=加納さんの提示した当為命題)に同意しません。だから、加納さんの論理は私に通じないのです。そしておそらく、加納さんの前提に私が同意することはありえないでしょう。逆もまた然り。これは話の前提をどうとるかという話であって、論理でカタがつく話ではない
。というわけで、昨日書いた「私の希望」へとつながります。
昨日の更新に少々追記しました。
私は価値観の相違によって意見対立が生じているわけではないと言っているとおっしゃいますが、ならば当為命題を議論の前提にしてはいけません。当為命題は価値判断を伴うのだから。
僕が問題としているのは、あくまで事実の問題として、少なくとも保守とは呼べる代物ではないと言うに過ぎない。というのは誤りです。それは加納さんの価値判断が組み込まれた意見であって、事実ではない。
私の言っていることは事実命題だけだから、当為命題は導き出せていないといいたいのはもちろんですが、事実と価値観の峻別には注意してほしい。
インチキな「保守」を保守と呼ぶことはできない。という発言は事実命題ではない。物理的に可能なことを不可能だというのは、「正統でない保守を保守と呼んではならない」という当為命題が隠れているから。その当為命題を否定すれば、正統でない保守も保守と呼ぶことが可能になる。
徳保さんの主張はことごとく打ち砕かれているとおっしゃる。加納さんの提示した当為命題を真とした場合には、その通りです。しかし私は、その命題を偽と判断しています。
ようするに、加納さんは「タラバガニは蜘蛛と呼べ」とおっしゃっているのでしょう。私は、タラバガニを蟹と呼ぶ現状に配慮して、「タラバガニを今後も蟹と呼び続けてよい」といっているのです。生物学的な分類は蜘蛛で結構ですが、通称は蟹にすべきです。でなければ、八方丸くおさまりません。
「タラバガニが蟹なら、女郎蜘蛛も蟹か?」といった反論はよしてほしい。犬全般を猫の範疇に含める慣習は存在しません。
Notebook 2003/12/15(Mon)で提出されている批判・疑問への回答。
無秩序で刹那的な判断を安易に切り捨てられない、というのが私の意見。一般的な言葉の語義は現状を調査すれば傾向をつかめる(と私は考える)ので、問題の質が違う。
小林さんが保守派知識人をポチ保守と呼ぶのは、単に小林さんの保守の定義に当てはまらないからそう呼んでいるだけとは、呼称問題への付言。「いわゆる保守派」の定義を述べる一方で、
保守Aと保守Bのように分類できれば済む話と書いていることに注意。