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小説

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2016-07-10

採用活動で「応募者の名前をネット検索」は禁ずべき

1.

私の勤務先(民間の製造業です)では、提出書類と面接「だけ」で合否を判断している。本当は違うかもしれないが、社内教育では、そのように習った。とくに「ネットで名前を検索する」ことは、禁止事項として明確に示された。

ある人物を採用するかどうかは、「仕事に必要な能力」だけを提出書類と面接によって収拾し、公平に判断しなければならない。「家族の犯罪歴が判明した」から落とすとか、そういうことがあってはいけない。「親族が取引先の関係者だとわかった」ので採用する、ということもあってはならない。

面接では限られた時間で能力を見極めなければならないので、質問事項はあらかじめホワイトリスト方式で限定されている。ブラックリスト方式ではない。社内の第三者にも「採用面接が適切に実施されているか」をチェックできるようにするためには、質問事項を揃える必要がある。

なぜAさんを合格させ、Bさんを不合格としたのか。質問と回答の要旨をまとめた面接記録によって、相互比較が可能になっている。非正規のネット検索で、そうした公正さを担保できるわけがない。Aさんにはデータがあり、Bさんにはないならば、比較は不可能だ。

2.

性同一性障害については、「職務に影響する事柄ではない」として、事前には質問していない。内定を出してから事実の申し出を受け、粛々と受入態勢を構築した。

知る必要があることは、「提出書類と面接」によってのみ、知るようにすべきである。非正規の方法で情報収集して合否を出すような非文明的なことを、私達はすべきではないし、社会的にも許すべきではない。「調べたくなるのが人情」だから、私の勤務先では明確に禁止し、社内教育を行って周知徹底した。どこの会社でも、同様にすべきではないか。

非正規の方法で収集した情報の扱いは、非正規であるがゆえに、きちんと体系立てられていないだろう。個々の担当者の恣意的な判断が、各段階で行われてしまうだろう。

私の勤務先は性同一性障害の内定者に対して公正な対応を貫くことができた(と私は思っている)が、もし採用担当者が事前に一人でその事実を知ったなら、受入コストを忖度して個人の裁量の範囲内でマイナス評点を付けてしまった可能性もある。その採用担当者が「障害がネック」と書けばさすがに上司が「なにバカなこといってるんだ?」と気付くが、「コミュニケーション能力が低い」などと偽装されればチェックが働かない。

面接には必ず複数の部署から合計3人以上が出席するが、それは個人の誤った判断を防ぐためである。非正規のネット調査で、そうした体制を構築できるとは思えない。

3.

おおもとの内定ゼロでフリーランスになる件については、「愚かな判断」だと私は思う。なるほど、fut573さんの勤務先のような企業では、「採用されない水準」の方なのだろう。でも、どこにも拾われないような方には見えない。他人にもきちんと内容の伝わる文章を書けるのは、高度な能力のひとつだ。

ただ、目線を下げて就職活動をする場合、そこで視界に入ってくる企業の少なからずは、フリーランスに挑戦して失敗してからでも入ることができる。フリーランスは難しい、むしろ企業での経験や人脈なしには成功しない、と言われても、今は心に響かないのだろう。リスクは承知の上なら、やるだけやって失敗して、それからでもいい。運よく成功したら、とっても素敵だ。

とはいえ、たいていの「就活の苦労」はニセモノだと思う。「こんなに頑張ってもダメだった」という認識に、疑いを持ってもいいのではないか。私も就活に苦労した「つもり」の学生だった。就活を諦めるのは、「正しい努力」をしてからでもいいのではないか……と未練がましく思ったりもする。

2016-05-12

オフィスチェアの座面カバーを探す

1.

布張りの椅子は買わないことにしている。人が触れるものは何でも汚れるというのに、布張りの椅子は掃除も洗濯も難しく、不衛生なように思う。だから人工皮革などの、拭き掃除に対応した椅子を、私は選ぶ。

とはいえ、通気性に欠ける椅子は、長時間の作業には向かない。勤務先の椅子が布張りなのは、まあ当然だろう。

前の椅子は、かれこれ10年ほど使った。職場を異動するとき、椅子も一緒に移ってきた。本社から工場へ所属課が移転したときも、実験機材と一緒に運んだ。買い直そうかという話もあったが、毎回いつの間にか立ち消えになっていた。

素手で触れることのほとんどない背もたれは10年経っても意外にきれいだが、座面はひどかった。私はアトピー持ちなのでワセリンを塗る。湿疹は手のひらにもできるから、手のひらにも塗る。その手で椅子に触れるので、座面に油が移る。その油が埃を捕らえる。掃除機など気休めである。布張りの椅子はの清掃は、中性洗剤を薄めてしみこませたスポンジでポンポンと軽く叩くようにするのが定石だが、これも気休めにしかならぬ。

2.

布張りの座面を取り外して座布団のようにできたら、洗濯できるのに。何度もそう思ったが、できないものはできない。せめて次の椅子は、そういうことができるものにしたいと思ったが、需要がないらしくて、座面を外して洗濯できるオフィスチェアは見つからなかった。ただ、私に椅子の選択権はないので、そもそも無意味な調査ではあったが。

しかし少数ではあれ、布張りの椅子の汚れが気になる人も世間にはいるはずだ。お仲間の皆さんは、いったいどのようにしているのか。

調べてみると、椅子に自分でカバーを付け、カバーを適宜洗濯するというのが、一般的な対応なのだそうだ。いわれてみれば、職場の椅子にカバーを付けている人はいないが、マイカーの座席にカバーを付けている人は、そこそこの割合で見かける。なるほど、と思った。また職場の椅子に薄いクッションを敷いている人も、見かけたことがある。あれも汚れ防止に役立つだろう。

それでも、既に汚れてしまった椅子にカバーをかけてもつまらない感じがして、私は何もしなかった。今にして思えば、汚い椅子に座り続けるより、きれいなカバーをかけて座る方が良かったろう。こんな簡単な道理さえわからなくなるくらい、面倒くさがりな私にとって「やらないでいい理由」の魅力は大きい。私の理性は、かくも軟弱である。

3.

職場の再移転に伴い、椅子が新しくなることが決まった。新本社には、旧社屋のオフィス家具は持ち込まない方針なのだという。当初は「一切の私物持込禁止」や「フリーアドレス」も構想されていたが、結局は固定の机と椅子がもらえることになり、多少の私物持込も許可された。

椅子はやはり布張りである。今度こそ座面にカバーを付けようと思い、職場に隣接する総合スーパーへ向かった。

店内をくまなく歩き、店員さんにも話を聞いたが、椅子のカバーは、自動車用、家庭用ソファ用しかないことがわかった。オフィスチェアの座面にカバーを付けたいという需要は、世間に存在しないらしい。少なくとも、総合スーパーで安価に販売される商品の企画が成立するほどには、需要がないということだろう。

実際、新社屋をざっと歩いた感じ、しっかり調べたわけではないものの、座面に薄いクッションを置いている方が2人いただけで、他はみな裸の椅子をそのまま利用されていた。

私も薄いクッションを置くことは考えたが、私は椅子の上でもぞもぞ身体を動かすタチなので、ただ置くだけのクッションには不安があった。また、新しい椅子は座り心地がよく、よく考えずにクッションを置くと、せっかくの美点を殺してしまうことにもなりかねない。

では、どうするか。

4.

私の結論は、「枕パッド」だった。枕パッドは、大きくて様々な形状のものがある安眠枕に対応した枕カバーのことで、肩幅ほどの厚手の布の裏側に2本のゴムバンドが付いている。

一般的な枕パッドの写真

たいていの枕パッドはフワフワした布地を採用しているが、中には緻密に織られた麻布を用い、なおかつクッション性のほとんどない商品も存在する。枕パッドとしては失敗作のようにも思えるが、私にとっては「よくぞこんな商品を作ってくれました!」と快哉を叫びたい逸品だった。まさにこれぞ私の探し求めていた座面カバーだと思った。

麻布の薄手の枕パッドは、私が行ったお店では最も安価な枕パッドであり、税抜き199円の値札が付いていた。いってしまえば価格最優先で形だけ真似たニセモノであろう。枕パッドの普及を目指す同業者なら、「こんなものが枕パッドだと思われては迷惑だ」というかもしれない。しかしそんな商品が、私のニッチな需要にヒットした。自由市場バンザイ。

オカムラの高い椅子に、199円の枕パッドを装着する。なんかいろいろ台無し感はあるが、座面を汚れるに任せるのは我慢ならないので仕方ない。ま、座ってしまえば見た目のことは意識の外だ。

最初は見た目に違和感もあったが、2日も経てば全く気にならなくなった。大いに満足した。(職場にカメラは持ち込めないので、写真はありません)

5.

一昔前なら、枕パッドくらいのものは自分で作るのが当たり前だったろうと思う。しかし手芸が得意だった母も、既製品の消費者となって久しい。いくら簡単な枕パッドのつくりが簡単だといっても、199円の商品を自分で作るのは、手間に見合わない。買う方がいい。

幼少期、家の中には同じ生地から作られたものがたくさんあった。壁掛け小物収納、鍋敷き、鍋掴み、大小様々な袋……。父が作った簡単な木製家具も、同じニスが塗られて色彩に統一感があった。古い写真を見ると、部屋のたたずまいの格調高さに驚く。しかしそれは、両親の美的センスが優れていたことを意味しない。

いま両親の家には、買ってきた物があふれている。各々バラバラに主張しているようでいて、ぼんやりとした趣味趣向は感じ取ることができるから、「アジア的雑然さの美学」などと適当なことをいいたくもなる。しかしやはり、単に雑然としているだけだろう。

先の日曜日は、「母の日」だった。せっせと小物を作っていた母の背中を思い出す。

2016-05-11

近況

職場が移転したことに伴い、栃木県から埼玉県へ移りました。

2014-04-28

性同一性障害の新入社員

日記ブログ風に書かれた小説として、話半分に読んでください。

1.

新入社員の一人が性同一性障害(MtF)の方で、半月後から研修にやってくるため、事前説明があった。

小さな空き部屋が専用更衣室となり、廊下から直接個室に入る形式の「来客用手洗い」が、この新人さんに開放された。

コストがかかる……といえば、それはそうなのだけれど、男性ばかりの会社に女性社員が初めて入ってきたときと、大きな構図は同じだ。

まあ、女性は男性と同じくらいたくさんいるが、性同一性障害の方は人数が少ない。損得勘定で説明するのは困難だ。率直に、「正義のため」とでも考えておくのがよいと思う。なんのために800人もの社員がいるのか。それは、負担を分かち合うためであろう。

2.

「女性として扱う」なら更衣室と手洗いを専用にする必要はないのでは? という疑問の声もあった。しかし性別適合手術を行っていないことから、「部屋を分けるのが穏当」との判断になったそうだ。

もし立て続けにFtMの方が入社すると、当然MtFの方と更衣室を同じにはできないから、「もう部屋が余ってない」ことが問題となる。が、今回だって「対応が可能だから採用した」のではなく、採用を決めてから「当然やらねばならないこと」として対応策を検討したのであって、先に心配することではない……というのが部長の説明だった。

また、性別適合手術をするかどうかは本人が判断することであって、会社としては状態に追随して必要な措置をとるのみである、ともいう。

私には、いちいち納得のいく話だった。

3.

散会後、ある同僚は「受け入れコストも含めて能力なんじゃないのか?」と口にした。

だが、例えば自分が突然の交通事故で歩けなくなったとしたらどうか。この会社は、バリアフリー化の不十分な箇所について、必要な措置をとるだろう。つまり、彼我の差は、現時点でコストが顕在化しているか否かでしかない。

言葉を変えて説明するならば、累計で1万人を超える社員を雇用してきた大企業としては、そもそも確率的に性同一性障害の人もきておかしくなかった。障害に対応するコストをみなでわかちあうのが文明社会の誇りであり、今回、性同一性障害の方の入社を機に様々な対処を行うのは、「そのとき」がくるまで先延ばしにしてきた問題と向き合っているだけのことである。

概要、こんな話をしたが、なお首を傾げているので、少し視点を変えて説明を試みた。

誰もが障害を背負う可能性がある。そして、障碍者を切り捨てる社会を、私たちは望まない。ならば結局、入社を拒否したところで、障害への対応コストは、何らかの形で(例えば税金などを通じて)支払うことになる。どのみち障害への対応コストは負担するのだとすれば、せめて当人が最も能力を発揮できる場で活躍してもらうことが、全員にとって最善ではないだろうか。

この説明への反応に手応えを感じたので、もう少し続けた。

そもそも私自身、会社に損失しか与えていない。いろいろ研究し、開発してきたが、結局はどれも研究開発のコストを回収できなかった。私の給料など、丸損である。かつて億円単位の大損害を生んだ社員だって、何人もいる。私が積み重ねた損失を思えば、たかが更衣室、たかが専用トイレのコストなど、いかほどのものか。

会社というのは、そもそもが、様々なリスクを承知の上で、大勢で集まって利益を出そうという集団だ。プロジェクトを組み、がんばって、しかし市場の壁に跳ね返されることも多い。だが失敗を恐れて挑戦しなかったら、ジリ貧になって滅びてしまう。

そして人の採用こそ、リスクを承知で行う挑戦の最たるものであろう。入社から退社までのトータルで赤字になる人材も、当然いる。これまでのところ、私もそのコースである。それでも、たゆまぬ挑戦を続けて会社は存続してきた。私たちは、そういう場にいるのだ。

4.

私は、こうしたことを経済的な損得で説明するのは、正しくないと感じている。うまくいえないが、不運な人に手を差し伸べないのは、それ自体が不幸なことだ。自尊心を深く傷つける行為である。

「自分は誰かを救える」などと、おこがましいことは考えていない。しかし自分が「この人を助けても利益がないから助けない」などと判断する人間であっていいはずがない。とはいえ、実際にはそういう判断をすることもあるだろう。だが、「それは当然だ」と胸を張るなら、私の精神は死んだも同じである。

「口ではそういう」ことは、ないとはいえない。いや、実際にあった。でもせめて、それを恥じる心が内になければ、生きる甲斐がない。

5.

雑談で「そもそも完全に能力本位で、男女の区別なく……というなら、いろいろ男女で分けている意味が、よくわからない」なんて話も出た。気持ちの問題として、現実的には、分けるのが「当然」とまで強く主張されるのは理解できるけれども、長期的にはそれも乗り越えていくべき不合理な感情論なのでは、という。

具体的には、男女で更衣室を分けているから、MtFの方のために新しい更衣室が必要になったのであって、「性別で更衣室を分けない社会」だったら、更衣室は1つでいい、みたいな話。くりかえすが、これは雑談として、非現実的な仮定を重ねた話である。

私にはとくに考えがないけれども、映画『スターシップ・トゥルーパーズ』がそのような社会を描いていたことを思い出した。作中世界では男女の区別がなく、1つのシャワールームを男女が同時に利用している。寝室も男女別ではなく、ごたまぜだ。率直な感想を書けば、個人的には、とくに違和感がなかった。私が生きている間に日本がそういう社会になるとは全く思えないが、遠い将来には、そうなっても変ではない。

逆リンクなど

トイレも更衣室も作業服も、男女用はこれまで通り、多目的用をひとつを用意することで諸々解決すると思いました。そのように、グラデーション領域用を用意しておけば、施設選択の問題は解決できているので、全体に対する事前説明はそもそも特別に必要なく、対人関係に付いては、現場の方の人間力に任せればよいではないでしょうか。

社内報では「女性」となっています。つまり性同一性障害について、全体周知はありません。しかし直接に顔を合わせる部署のメンバーには、事前説明が行われています。その理由は、パス度が低い状態で「女性として扱ってほしい」という希望を実現するためには、周囲の理解が必要だからだと思う。また、そうした状況では、「会社の方針を明確に示す」ことも有意義だと思います。

引用した記述は性自認と外見が一致する状態が前提となっています。こちらの状況は、リンク先の新卒時代、変化時代にあたるようですので、方針の策定と説明の意義は大きいと感じます。

2014-03-30

『銀河パトロール ジャコ』と私とKindle

1.

単行本の発売は4月4日に延期されてガッカリしていたのだけれど、『COWA!』『カジカ』『SAND LAND』のKindle版が同時発売されることに! 私が編集部に葉書を送ったから、というわけではないと思うけれど、これは非常に嬉しい。

私も昨年10月には持っていなかったiOS端末を、今は持っている。早速Kindleアプリを入手して、予約注文した。

今すぐ読めるKindle版作品もいくつか購入してみた。液晶がどうのこうのといったって、ウェブの記事は液晶で読んでいるのだし、自宅で読む分にはKindle版でいいかもしれないな、と思う。ただ、右足が左足に躓く(これは比喩ではない)レベルの運動オンチである私は、手に持っているものもよく落とす。外で読むなら紙の本だろう、と思う。

私が携帯電話を目覚まし時計にしか使わない理由はいろいろあるが、「他の人と同じようにつかったら、すぐ落として壊すから」というのもひとつの理由ではある。

2.

4月4日には、鳥山明先生の新作2つが紙で、旧作3つがKindleで発売される。

COWA! (ジャンプコミックスDIGITAL) カジカ (ジャンプコミックスDIGITAL) SAND LAND (ジャンプコミックスDIGITAL)

なんだかんだでプライベートではKindleに手を出してこなかったんだけど、最終的に私の背中を押したのは鳥山明先生だったか……。しかも新作は紙の本なわけで、旧作のKindle版が私にとってのキラーコンテンツだったということになる。意外だ。数年前の自分にいっても信じそうにない話である。

昨年、初めてiOS端末を購入したのは『ドラゴンクエストX』絡みで、考えてみるとこれも鳥山明先生に関連している。

3.

ところで、「ただの道具に過ぎないハードウェアに結構な金額を投じることができるなら、肝心のコンテンツには長期的にもっと大きな金額を投じていいんじゃないか?」という考え方には、意識的でありたい。私にはハードに甘くソフトに辛いバイアスがあり、無意識に任せるとハード偏重の金遣いになってしまう。

ハードウェアに使わない機能がたくさんあってもあまり気にしないのに、積読や積みゲーにばかり罪悪感を覚える、とかね。

で、iOS端末については、既に本体価格を買い切りアプリの総額が上回った。これは意図的なスタートダッシュであり、既に先月あたりからペースがかなり鈍化していたのだが、Kindleの投入で今後の展開が青天井になった感じがする。積読は物理的にスペースを占有することが歯止めになっていたわけで、正直怖い。

2014-03-13

小保方疑惑と卒研の思い出

1.

小保方晴子さんのSTAP細胞についての論文等への疑義に関して、はてブに書いてきたことをまとめておきたい。

私には、小保方さんの研究の内容自体は、よくわからない。ただ、私は工学部出で、1年間卒業研究に取り組んだ。論文の作成について、いろいろ思うところはあって、今回の件ではトラウマ(みたいなもの)を刺激された。以下、ほぼ自分のことだけを書くことにする。

2.

私は論文の作成が好きでない。とにかく面倒くさいのだ。とくに気に食わないのが、理系の論文では「写真で表現できることは写真でも示せ」という要求が強いことだ。

同窓生の卒業研究が「ラジコンヘリコプターの制御」だった。その卒論に、ヘリコプターを飛ばしている様子の写真って、意味ある? 私には、全く無意味としか思えない。ある一瞬の様子を写真に撮ったところで、制御がうまくいっているかどうかなど、わかるわけがない。しかし卒業研究概要集を見ると、A4の1ページしかスペースがないのに、空飛ぶヘリの写真が入っている。

工学系の学士論文は、研究室で何年も続けているテーマの年次報告みたいなものに過ぎない。ヘリを飛ばす様子など、何年前のものでも同じだ。それでも、同窓生は写真を律儀に撮り直していた。今にして思えば、古い写真を出典情報を添えて「イメージ写真」として引用すればよかったのだと思う。ともあれ「ヘリの写真」は、私にとって「論文を書く面倒くささ」の象徴となっている。

自身の研究では、電子顕微鏡やマイクロスコープによる観察写真の撮影が課題となった。

研究の過程では膨大な実験を行うのだが、無能な研究者のやる実験は、無駄の山である。場当たり的に実験の条件を変更してしまったりして、論文を書く段階になってみると、実験結果のほとんどは使えないことが判明する。まあ、それはいい。問題は、論文に採用する実験が、写真と対応しなくなってしまうことだ。

とくに電子顕微鏡というのは、試料の作成からして面倒なものだ。断面観察をするとなれば、試料の作成から観察まで最短2日を要する。大きなものの一部を切り取って試料にする場合はもっと大変で、一週間の成果報告が「写真を撮影した」になってしまったりすることさえあった。

となると、全部を撮影するわけにはいかないし、期末の論文作成の時期になってから慌てて写真を用意するのも無理がある。折々に、機材が空いているのを見て、適当な試料で写真を撮っていくしかない。が、その試料の出自となる実験が破棄されると、写真もパーだ。「また撮るのか……」と心底ゲンナリした。

最終的に卒業論文では、写真は全て参考図扱いとして、本題の実験から切り離した。研究の狙いと理屈を概説する章だけに写真を集め、研究の成果を示す章に写真は1枚も入れなかった。「写真は本題について何も証明していません」という私なりの主張だが、手抜きとの指摘もあった。

手抜きは否定しないが、写真は所詮ひとつの試料の様子を示すに過ぎないわけで、「むしろ写真など意味がない」という気持ちは変わらない。

3.

研究室で10年以上もやっているテーマなんて、本題の部分が学士の1年で片付くわけがない。1年で何か成果が出そうな部分を、まずは探すことになる。

「まずは探す」と書いたが、私の卒論の方向性が決まったのは12月頃であり、4月から11月までの8ヶ月間、ずっと霧の中をさまよっていた。月次報告会で「この辺が気になる」「もっとこのあたりを追求しては」といわれる内容も二転三転していたし、最終的に論文で使わなかった実験の方がずっと多かった。

それでいて、論文を書く段になってから追加で実施すべき実験は数多い。論文の方向性が定まってから自分がどんな実験をしてきたかを表で整理してみると、パラメータをやたら多段階に振っている箇所がある一方、空欄になっている箇所のあまりの多さに天を仰ぐことになる。

思いつくままに実験をしているときは、「あれもこれも」という感覚だが、きちんと全パターンを網羅していこうとすると、実験計画法で最小限の実験量としても、振れるパラメータの種類は相当に絞らねば時間がいくらあっても足りない。最後はてんやわんやである。

「最初からきちんと実験計画を立てるべき」と第三者はいう。成果ゼロに終ってもよければ、計画を立てて淡々と実験を進めるだけでもいいんだろうけど……という思いはあった。

1年近く取り組んで、たった20数ページの論文(実質的にはレポート同然)にしかならない。それがどうにも悔しく、私は卒論の結言を書いた先に、6ページにわたって付記を行った。きれいにまとまったところだけ卒論にしたが、実際には研究に取り組んだが成果が出なかったことがこんなにたくさんあるんだという、論文としてはとくに意味のない、いわば愚痴のようなものだ。卒論には、こういう自由があるのがよい。

愚痴といえば、論文の「緒言」を書くのもつらかった。「この研究がいかに有意義か」を書くわけだが、研究中にそんなことを考える必要は感じなかった。研究のまとめで論文を書く段になってから悩むのは本末転倒である。物事の順番からして、先生が学生に研究テーマを紹介する際に話してくれたらよかったのに。

幸い私の場合は、10年以上続いているテーマだけに、先輩方の論文が残っていた。初期の緒言は無内容な文字の羅列だったが、途中で学士・修士の3年間を投じた先輩がおり、そこで劇的に内容が充実していた。私は先輩の書いた緒言を要約し、今年度のテーマにあわせて少し内容を足して、自分の論文の緒言にした。

先輩方の論文を見ると、参考文献の大半は緒言に関するものだった。私はそれらの参考文献を読まず、先輩の緒言だけ見てまとめたので、参考文献リストはとても貧弱なものとなった。

4.

理系の研究指導は、高度な環境ではまあ、いろいろあるのだろうけれど、私のところでは「写真がほしい」「図を入れろ」が主だった。毎月、指摘は同じである。「わかりました」といって翌月の報告資料に写真と図を入れると、今度は写真と図しか見ていないかのような指摘ばかり降り注ぐ。「バカか……」

小保方さんの論文に欠陥が見つかったのは、まず写真であり、次に研究の意義やら言葉の説明やらをする箇所だった。「ああ、いちばん面倒くさくてかったるい部分だよね」というのが私の感想。

小保方さんのやった画像や文章の無断使用は、もちろん悪い。問題の箇所があまりに多く、もう「ミス」という説明は通りそうにない。ただ、「論文のための作業」への憤りは、かつて私の中にも明確に存在した。小保方疑惑は、私にとって、そのトラウマ(みたいなもの)が刺激される話題だった。

小保方疑惑を見て、「他人事じゃないぞ」と私は思った。それで自分の卒論を読み返してみると、「我ながら、意を払っていたのだ」と気付かされた。それでも、所詮それは最後に体裁を取り繕ったか否かの違いでしかなく、小保方さんと私とを隔てる壁は不明確ではないか、とも思った。

私は最終的に、卒業論文の本論では、頑なに写真を使わなかった。使えば嘘になったからだ。写真は論文で使わないことにした実験の試料を撮影したものだった。「ならば撮り直せ」と指導教官はいったが、私はデータ表の空欄を埋めることに集中し、それでタイムアップとなった。やりたい実験はいくらでもあった。おそらく、もう半年の猶予があっても、積極的に写真を撮影する気になどならなかったろう。

仮に指導教官が「本論の実験結果に絶対に写真を添付しろ。さもなくば研究室としてこの論文を承認しない」と迫ったら、私はどうしただろうか? そこまででなくとも、最後の報告会から論文提出までの1ヶ月余りの間に、顔を合わせるたび「写真は撮ったか?」と問われ続けたら、どうしたろう。(実際には何もいわれなかったし提出された論文についても論評はなかった)

所詮はたった一例の、しかもごく一部分を撮影したに過ぎない写真に、何かを証明する力はない。私は強くそう確信すればこそ、「添えものの写真を撮るためなんかに貴重な時間を割けるか!」と教官に反発した。だがそこには、「たかが写真じゃないか」と、実験と対応しない写真を「実験結果」として論文に貼り付ける軽挙に至る危険性も、潜んでいたと思う。

緒言については、やはり「引用にしたかった」という後悔がある。私の書いた緒言は、先輩の論文の緒言を要約し、そこに僅かな更新情報を付け足したに過ぎないものだった。単に言葉を削ぎ落としただけで、フレーズのひとつひとつは原文のまま。参考文献として先輩の論文を挙げてはいたものの、著作権の問題を解決できていない。「自分なりに咀嚼して書け」が教官の指示だったが、私は失敗したのだ。ならば、最初に「先輩の文章をそのまま使いたい」と申し出た初心に帰るべきだった。だが、そうしなかった。

5.

写真を引用して「イメージ図」とキャプションをつけたり、緒言を他の論文からの引用だけで済ませたり、というのが通用する世の中に、早くなってほしい。私は今でも、そう思っている。

写真や緒言は「自分にとってはどうでもいい」から、もっと他のことに時間を割きたい。だが「世間ではそれらが重視されている」から、「イメージ図」や「丸ごと引用」が許されない。世間が変わらないなら、面倒でも写真を撮影するか、何日もかけて車輪の再発明みたいな文案を練る他ない。しかし理想は、世間の方が変わることだ。

小保方さんの論文に問題があるのはたしかだが、研究の内容自体は本物であってほしいと、私は切望している。写真や緒言の不備から研究の内容の間違いが発見できるのだとすると、私の理想はますます実現から遠ざかる。「写真のない論文はダメ」という風潮は、いっそう強化されるだろう。

ちまちま断面試料を作成し、延々と研磨し、ようやく撮影して……という作業の虚しさは、思い起こすだけで胸が詰まる。断面写真があれば素人にもイメージはしやすかったが、別に写真があろうとなかろうと研究の成果を左右するものではなかった。本質的でないことばかり手間を食う、という印象が強く、私は論文の作成がすっかり嫌になった。

緒言もそうだ。毎年、結局のところほぼ同内容の緒言が書かれてきた。なんでまたイチから書かねばならんの、という疑問は、今も変わらない。堂々と引用だけで済ませてよければ、どんなにいいか。大きな目的と先行研究の検討の上に自分の研究を位置づける作業を抜きにして、現実的かつ新規性に富んだ研究などできるわけもなく……というお題目にはウンザリだ。

現実を見ろ。本気で緒言の重要性をいうなら、教官が学生に研究テーマを選ばせるときに、きちんと説明すべきではないのか。それをサボって、学生をいきなり実験生活の只中に放り込んでいるのは誰なのか。それでいて、最後に論文をまとめる段階になってから「緒言を書け」というのがおかしいのだ。

研究室の指導教官というのは、自分では実験をせず、テーマの決定と進捗管理だけを担当するマネージャーだ。教官は、緒言に書くような事柄が背景にあってテーマを決めているのだろう。ならば緒言は、教官が書くのが自然である。学生の動機など、「単位がほしい」「実験を始めてみたら面白かった」くらいのものだ。頭のいい動機をでっち上げる作業は、教官がやればいい。こっちはそれを読んで「ふーん、そうだったんだ」とでもいわせてもらいたい。

ま、私が再び大学の研究室に戻ることはないだろうし、論文を書くこともないだろう。今後の私の人生に影響するような話題ではない。それでも、かつて私が抱いた怒りは、いまだ消えていなかった。

2014-02-26

次第に通話が減っていく

私は電話をしない。(携帯電話での)メールもしない。そういう人間なので、自分の生活の範囲内においては、LINEに興味がない。「いま世の中でこういうものがウケている」ということについては、多少の関心を持って情報に接してはいるが。

携帯電話の発着信件数推移

2011年1月から2014年2月26日までの、私のプライベートな携帯電話の全通話記録をグラフにすると、こうなる。2011年3月は東日本大震災があったので特別。しかしそれを抜きにしても、数年前の私は、最近と比較すればまだしも携帯電話を使っていた。グラフには右肩下がりの傾向が見て取れる。

私は震災時ですら1ヶ月で9件しか発信していないが、2013年は年間でたった4回しか電話をかけていない。しかも、すべて1月だ。2013年2から2014年1月までの丸1年、1回も電話をかけていなかった。これには正直、自分でも驚いた。Skypeとかもやってないよ。仕事ではよく電話を使っているけれど、それは数えていない。

携帯電話では、メールのやり取りをしていない。自分のアドレスも知らないし、メール機能の操作方法とかもわからない。

私にとって携帯電話は、

といったあたりかな。以前は携帯電話を押入れにしまいこみ、電池切れにも気付かないことがしょっちゅうだった。しかしここ2年ほどは、目覚まし時計として毎朝1回触れている。目覚ましが電池切れで作動しないのでは困るから、基本的に充電は切らさない。また寝ぼけたまま目覚ましを切っても困るから、携帯電話は通勤かばんに入れている。布団から出て、かばんを開けて、ボタンを押さないと、目覚ましを止められない。そういう経緯で携帯電話の定位置がかばんの中になったので、私は初めて携帯電話を携帯している。このところ出張が多いこともあり、出先で時計がわりになって便利だ(私は他に携行型の時計を持っていない)。

なので自分の感覚としては、むしろ「このところ携帯電話が自分にとって身近になっている」つもりだった。だが、通話という切り口で見ると、別の真実が見えてきたことになる。

2014-02-25

私が愛用している目覚まし時計 SEIKO SQ691K

パソコンやらゲーム機やらに内蔵されている時計を別にすると、私が持っている時計は2つ。1つは目覚まし時計。もう1つは砂時計だ。

太陽電池付きの目覚まし時計なら相当長く電池が持つと思って買ったが、そうでもなかった。暗いときでも動くよう太陽電池付きの時計にも補助電池が入っていて、その残量が減ってくると目覚ましが時々鳴らなくなる。最初は電池が切れかかっているとは気付かず、「最近、不安定で困るな」と思って携帯電話のアラーム機能を併用するようになった。

それが、私が携帯電話を携帯するようになったきっかけ。もしすぐに「ああ、電池か」と気付いていたら、私は今でも携帯電話を押入れにしまったままだったかもしれない。いやまあ、別にそれならそれでもよかったんじゃないかと思うんだけど。

私は自分の選んだ目覚まし時計が非常に気に入っているのだが、間もなく生産終了となった。機能自体に特別なところはなかったが、どの機能にどんな形状、配置、押し心地(?)のボタンを配するかといった点が絶妙だった。

頭の大きなボタンに軽く触れるとアラームが止まる。しかしサイドのスライドスイッチを動かさないと、5分後に再びアラーム。このあたりは他の目覚まし時計でも大差ないだろう。この時計が個性的なのは、「あと3分寝る」「あと7分寝る」「予定より少し早く起きることにするけど、とりあえずもう少し寝る」みたいな需要に最適化されていたことだ。

具体的には、「右手で持ったら自然と人差し指と中指がここにくるよな」と思える一等地にシーソー式のソフトなボタンがあって、人差し指で設定時刻を遅らせ、中指で設定時刻を早めるようになっている。これをどう使うか、少し書いてみる。

目覚ましが鳴る。頭をポンと叩いて、まず音を止める。アラームの時刻は、少し早めに設定してある。さて、あと5分寝るなら、そのまま寝入ればいい。自動で5分後にまた鳴る。では3分後なら? 右手を伸ばして時計をつかみ、人差し指でポンポンポンと3回。これでOKだ。

あるいは。目覚ましが鳴らないのに目が覚めた。時刻を見る。少し早すぎる。でもせっかくなので、今朝は予定より6分くらい早く起きようか。そうすれば、朝の内にできることがいくつか増える。右手を伸ばして時計をつかみ、中指でポポポンとタップ。そして寝る。

アラームの時刻設定は、どの目覚まし時計でも簡単にできる。できるが、目で確認せずに二度寝用のアラーム設定をできる時計となると、ほぼ皆無といっていい。「いくつも並んだ同じような形状のボタンにそれぞれ全く別の機能が割り当てられている」みたいな設計の時計が大半ではなかろうか。ただ、そうした設計が低コスト化に有利なのは明らかだ。

私の選んだ時計は生産中止になり、残念な設計の時計の生産は続いている。エンジニアが最適なボタン配置、ボタン形状を考え抜いてぜいたくな設計をしても、その分のコストアップを消費者は許さなかったのだろう。

こちらが後継機で、定価が1000円も下がっている。じつに25%のコストダウン。技術者目線でいうと、これはやっぱりすごいこと。でも一人の消費者としては、SQ691Kの正統後継機がないことが、とてもつらい。まあ目覚まし時計なんて10年とか15年くらい壊れずに動き続けることが多いのだけれど、万一の事態が怖い。

Amazonで買える目覚まし時計(置時計/デジタル)は1000種を超える。これほどたくさんあって、SQ691Kよりいいと思えるものがひとつもないというのも、我ながら驚きだ(1000種全部チェックした自分もよくがんばった)。物との縁も、異なもの味なものである。

2014-02-17

「観光地で英語が通じない」問題

1.

単純な話、英語での案内にせよ、フリーWi-Fiにせよ、クレジットカード対応にせよ、コストに見合う売り上げが見込めるなら、みんなやるに決まっている。実際には持ち出しになるのが確実だから、やらない。当たり前のことだ。

「鶏が先かタマゴが先か」という話ではない。日本国内のほとんどの地域で、最初からこんなのはペイしないことがわかりきっている。もともと無理な話なんだ。

その無理を実現する知恵は、ある。募集型企画旅行すなわちパッケージツアー(パックツアー)だ。

2.

観光客が、いつ、何人くらい来るか算段が立てば、商売が成り立つ。観光客がバラバラに適当に店を選ぶと、需要が拡散してしまい、供給体制を整えても割に合わなくなる。英語でのサービスを求める観光客が、特定のお店を集中して利用することが必要なのだ。

現在でも、外国語のできない日本人は、パックツアーで海外旅行するのが便利である。日本語で観光案内を受けることができ、日本語で買い物できるお店へ案内してもらえる。固まって行動するから日本語のできる案内人を雇うことができ、特定のお店を利用するから、店番が日本語を学ぶのだ。

「英語くらい……」という人は、自分が客の95%超が日本語話者のお店で働くために英語を学ぶ気になるか、考えてみたらいい。あるいは、英語の堪能な人が、そういう場所が「自分の能力を発揮するのにふさわしい職場だ」と感じるかどうか、想像してみたらいい。

成田山新勝寺は空港の街にある大規模観光地なので、外国人観光客が多い。それでも、観光客のほとんどが日本語話者だ。だから、何割かのお店だけが英語のできる店番を置いたり、英語でメニューや商品名を表示している。観光案内所で「英語のできる店を教えてください」と頼むと、そうしたお店を紹介してもらえる。

英語OKのお店が大繁盛し、日本語オンリーのお店が寂れるなら、みな英語を勉強する。ところが、現状ではそうではない。新勝寺の参道ですら、英語OKのお店はボランティア同然である。

観光案内所の存在は、どのパンフレットにも記載されている。あるいは、英語OKのお店はホテルのフロントでも案内してもらえる。でも、そうした情報を利用しない観光客が相当に多い。何も調べず、フラッと立ち寄った店で英語が通じないといって不満に思う観光客は、身勝手だ。「少数派の知恵」を欠いている。

英語OKのお店を調べて積極的に利用する他に、英語OKの店を増やす方法はない。「英語くらい使えるようにすべき」というのは、英語を学ぶ手間に見合うだけの利用頻度なしには成り立たない。

3.

「外国人が大勢訪れたので観光地になった」場所と、「もともと現地人の観光地だった」場所とでは、根本的に違う。東南アジアでも台湾でも、現地の人々の姿しか見えないような「観光地」では、英語が通じないことが珍しくない。

ひとつの国の中でもいろいろな言語の使用者がいて、そのなかだちになる言語の需要がそもそも大きい国とも、全く条件が違う。必要に迫られてこそ学習は進む。たいていの人はお勉強など好きではない。一部の観光客を相手にするくらいしか用途がないのに英語を学ぶなんてのは、困難に決まっている。

また「フリーWi-Fiやクレジットカードが使えないお店は利用しないという人」がほとんどいない場所で、一部の観光客のためだけに対応しろというのは無茶だ。

瑣末でない違いを無視して語っても、実りはないと思う。

4.

英語のできない外国人観光客は、今でもパックツアーで大勢日本へやってきている。主に韓国、そして中国など。だんだん豊かになってきて、英語のできない非エリート層も大勢が海外へ観光旅行に出かけるようになった。行先で自国語が通じるとは思っていないから、パックツアーを利用するわけだ。

しかし英語のできる外国人観光客にとってみれば、「わざわざ不自由なパックツアーを利用してまで、観光旅行の行き先に日本を選ぶ理由はない」だろう。しかし、世界的な経済発展により、いずれ世界中の観光地が「現地の人々のための場所」になっていく。いつまでも観光地で英語が通じると思ったら大間違いだ。

いまは「国際的観光地」の場所も、国内の観光客が圧倒的多数派になれば、「余計なコスト」をかけない方が利益が出るようになる。それで、だんだん英語が通じなくなっていく。

クレジットカードやフリーWi-Fiについては、わからない。

5.

(日本国内の大多数の観光地では)「鶏が先かタマゴが先か」という話ではない、と書いた。外国人観光客が2倍に増えたくらいでは、全くコストに見合わないからだ。5倍、8倍に増えなければならない。それって現実的? 私はノーだと思う。

英語対応、フリーWi-Fi、クレジットカード対応を揃えたら外国人観光客が8倍に増えて儲かるのか? そんなわけがない。いくら「お客様のため」とはいっても、予算の枠内でベストを尽くす他ないのであり、売上がちょっとしか増えないことのために膨大なコストを投入するわけにはいかない。

「どのお店も英語に対応」は理想だが、そんなものは実現しない。無理に実現させようとすれば、誰かが不合理を背負うしかない。なんか「税金でやれ」みたいな人がよくいるのだけれど、投入した税金につりあうだけのメリットは、少なくとも経済的には「ない」。

私としては「恥ずかしくない都市」とやらを実現できたら大満足な人らだけで寄付金を集めて勝手にやってろといいたい。俺の金を使うな。

英語はともかく、フリーWi-Fi、クレジットカード対応あたりは、国内でどれだけ需要が高まるか次第だと思う。ただ、これまでの歩みを振り返るに、少なくとも短期的に爆発的に需要が高まるとは思えないな。

2014-02-16

私は紐靴を買わない

1.

私は紐靴は買わないことにしている。その理由は、手を使わずに履くことができないからだ。

足の甲が高いので、紐靴だとべろが押されて奥に入ってしまう。だから紐靴を履くときはいつも、べろを指でつまんで、奥に入らないように押さえなければいけない。これが面倒で仕方ない。

紐靴でなければ、べろが羽根と一体になっており、私の足の甲に押されたって絶対に奥に入ってしまうことがない。だから、床に靴底をギュっと押し付ければ、摩擦で固定された靴に足先を進めるだけで履くことができる。つま先をトントンとやらなければ入らない靴は、私の感覚では締め付けがキツすぎる。

紐靴においてべろが羽根と分離しているのは構造上当然だ。もし一体になっていたら、紐を締めたときべろにしわができてしまう。紐靴のべろはフリーにせざるをえず、べろが足の甲に押されて動くのはどうしようもない。べろの途中に靴紐を通してストッパーにしても、不完全である。足を入れた後で、ちょっとべろをつまんで引っ張らなければならない。

では紐靴以外ではなぜべろを一体化できているのか? それは、靴のアッパー全体が柔軟な素材でできていて、全体として伸縮することで足にフィットする仕組みだからだ。伸縮の程度には限界があるけれど、「運動靴」がほしいわけではない私にとって、紐靴は無用の長物である。

靴べらは20年くらい使っていない。靴べらが必要なのは、かかとが立派で履きにくい靴だ。私の用途では、立派なかかとは必要ない。だから私は、そうした靴を選ばない。

2.

私の場合、衣料品の選択はどれもこれも、着脱の都合、洗濯の都合、多少の機能性、これまでの生活習慣を変えなくていいこと、新しく何かを覚えなくていいこと、などが主な選択基準となっている。

「スーツに合わせるなら革靴でしょ」という人もいるが、私は革靴は履く人のことをまるで考えていない不合理な靴だと思っているので、就職活動のときも履かなかった。革靴は「靴に足を合わせろ」といわんばかりのカチコチさであり、履く人に歩み寄る姿勢を欠いている。

ピカピカの革靴って、靴にしわができないことが前提となっているわけだが、人間の足は、足裏を柔軟に曲げて衝撃を吸収しながら歩くようにできている。つまりトゥキャップのあたりにしわができるのが自然だ。ところがそれを許さず「トゥスプリングと称してつま先を少し上げておいたから、足裏を靴の形に合わせて硬直させて歩けばいい」というのが革靴であり、その尊大さにはギョッとする。

ピカピカの革靴がカッコイイてのは、靴に人間が振り回されることに疑問を感じない人らだけで後生大事に守っていってもらいたい文化だ。私は参加を辞退することにした。

そもそもスーツ自体が押し付け文化だが、私にとってスーツはメリットのある服だった。スーツなら、ワイシャツさえ換えれば、毎日同じ格好で出勤できる。理由はよくわからないが、毎日同じ私服で肌着だけ換えて出勤するのは「おかしい」らしい。私は「今日の服」を考えるのが憂鬱だし、さりとて社会と無用の摩擦も起こしたくない。スーツは、ちょうどおりあいのつく答えだった。

「おかしい」かどうかを気にするなら「スーツには革靴」も受け入れればよさそうだが、パッと見のデザインが革靴風のカジュアルシューズなら文句あるまい……というのが私の読みだった。実際、私がリクルートスーツを着ないことについては何度か面接で話題になったが、靴については誰も何もいわなかった。

入社後も、私はスーツにカジュアルシューズで通勤している。

3.

私が靴を買い換えるのは、靴底が磨り減ってツルツルになり危険を認識したときか、雨の日に靴底からジワッと水がにじんできたとき。仕事や生活のパターンが変わると靴の寿命も大きく変わり、これまでのところ、最短で3ヶ月、最長で1年余りとなっている。いずれにせよ、私にとって靴は消耗品である。(ところで、少なからぬ革靴が最初から靴底ツルツルなのはなぜなんだ? あんなの危険に決まっている。私の感覚では、あのような靴は売ること自体が犯罪だ)

ワイシャツの場合、袖か襟がすりきれたら買い換えている。形状記憶のを買い、洗濯機で洗って天日干ししている。当初は形状記憶でないワイシャツだったのでアイロンをかけていたが、あまりの面倒くささに「どうせスーツの中に着てるだけなんだからどうでもいいだろ。しかも会社に着いたら作業着に着替えてしまうのだし」とプッツンきて、やめてしまった。

ワイシャツは週1回洗濯すればすむよう、5着用意している。だいたい半年に2枚くらいずつ買って、擦り切れたのを処分している。

靴は1足しか持たない。新しいのを買ったら古いのを捨てる。正確には予備が1足あるが、かれこれ6年ほど靴箱に眠ったままだ。

スーツは春秋用2、冬用2。夏は上着なしで、春秋用の下だけ。最も短寿命のスーツでも9年は着れた。これは私の基準での「着れる」であって、「こんなボロボロになったのをいつまで着てるの?」という感覚の人も多いだろう。いちばん長持ちしているのは父からもらった冬用で、私より年上である。

コートも1着しかもっておらず、これは成人式のときに買ったものだ。ちなみに成人式のときに作ったスーツも現役である。

4.

私は面倒くさがりだから、自己紹介も面倒に感じる。くたびれた服を着ているのは、それ自体が自己紹介として機能するから……という理由もある。

職場では作業着なので出退勤の服装は自由なのだが、あえてスーツで通勤するのも、自己アピールの意味が皆無ではない。「服について考えるのが面倒くさい」のが主な理由だが、マジメでカタい性格を見た目でアピールしておくことに、メリットを感じてもいるのだ。

すりきれて穴が開くまで服を買い換えないのは、つまりは私の服に対する価値判断の明確な表現だ。基本的には、ただそれだけのことでしかない。ただ、それを見た人が勝手にいいように解釈してくれることも多くて、じつは個人的に得をしている面がある。それが損につりあうと思うかどうかは、人によるだろう。

私の場合は、「ボロを着ている人」と見られることで失うものが「私にとってどうでもいいもの」ばかりで、得るものが「私にとって価値あるもの」なので、服をボロになるまで着続けるのが合理的だ。

あと、こういう話をすると、「えっ、そうなの?」という反応の人が意外と多いことにも気付く。「あっ、ホントだ、すりきれてるね」とか。私がボロを着てることに最初から気付いていた人もいれば、いわれるまで気付かなかった人もいる。

私としては、気付いても私に害をなさない人か、気付かないような人と交流していきたい。ちなみに、話を聞くまで気付かなかった人は、ほとんどの場合、気付いても私に害をなさない人だということが経験的にわかっている。なので、しばらく交流のある人にカミングアウトするリスクは、大きくないと考えている。

ともあれ、自分と気の合わない人を自動的に遠ざけることができるのは、自分らしい服装をするメリットといっていいのではないか? 本来は相容れない人と仲良くなってしまうと、後に価値観のズレが表面化して距離を置くことになったとき、つらい。

5.

この記事を書くために、靴を構成する各部分の名称を調べた。

「べろ(タン、舌皮)」についてはすぐわかったが、「羽根」はなかなか見つからず、初稿では「シュー穴が設けられている部分」などと書いていた。まあ、その方がわかりやすかったかもしれないが……。

2014-01-30

長谷川三千子さんの人口減に関する提言について

最初にお断りしておきますが、この記事において「カッコ書き」は引用を意味しません。

1.

ということで、元の記事を探してきました。

2.

私は「わからない」という感想に引っ掛かる性格です。たいていのことは、好意的に話を補っていけば「ひとつの意見としては理解できる」ものであって、賛否とは別に、まずはその地点を目指すべきだと思っています。相手はこちらの話に耳を傾けないとしても、こちらは相手の主張を理解しておきたい。

長谷川さんの主張を私なりに要約すると「子育ては大変だけど、取り組むべき。ただ、育児と仕事の両立は難しいので、育児期には、女性は育児を優先するのがよい」となります。

さて、朝日新聞の記事によれば、長谷川さんは大学で教えながら2人の子どもを育てられたのだという。ただ、ずっとフルタイムだったのか、一時期は子育てを優先して仕事をセーブされていたのか。

仮にずっとフルタイムだったとすれば、「さすがに無理があった。子育てを優先すべきだった」という後悔をこめた話という解釈が、ひとつ成り立ちます。あるいは、「私には両立できたけど、ふつうの方には無理でしょう」という話とも受け取れます。

仮に仕事をセーブされていたとすれば、自分の体験を踏まえた、育児優先の提案ということになります。経歴を見る限り、長谷川さんは概ね順調にキャリアを積まれたわけで、「人生の一時期に仕事より子育てを優先しても大丈夫ですよ、私がその例です」という自負もあるのかもしれません。

つまり、どちらにしても話は通りますから、“自身は埼玉大で教えながら1男1女を育てた”のに、そういうこと言えちゃうことに、私は疑問を感じません。

3.

以下、長谷川さんの主張に対する私の賛否を述べます。

長谷川さんは「出産・育児に適した年齢の女性が、仕事で男性と同じように働くことをよしとする考え方」を批判されています。その理由は、「子育てはたいへんなことだから」です。両立し難いことを両立しようとするから、少子化や晩産化が起きるのだ、というわけです。

同時に、長谷川さんが暗に否定されているのが、「親の育児負担を大幅に減らす」という解決策です。例えば、平日は朝から晩まで子どもを施設に預けて、平日夜と休日のみ子どもと一緒に暮らす……といった家族のあり方は、長谷川さんとしては受け入れられないのだと思います。

そして、これらの主張の背景にあるのが、性別役割分担の無批判な受け入れ、「大人は経済的に自立できているべき」という観念、「昔はできていたことがなぜ今はできないのか」という素朴な疑問です。

と、このように整理した上で、私の意見を述べます。

まず、性別役割分担について。統計から様々な性差が観察されるのは事実ですが、個人差の方が大きいこともまた事実です。ならば、基本的には、男性・女性を主語としない方がベターだろう、と思います。

次に、私は「子育て世帯は経済的に自立しなくてよい」と考えます。長谷川さんが「女性は育児優先、男性は仕事優先」と主張されるのは、「両親がともに育児を優先したら経済的に自立できない」と考えるからでしょう。「それでいい」と考えるなら、「両親ともに育休&時短勤務」で問題ないですよね。

それから、「昔はできていたことがなぜ今はできないのか」というのは私にも疑問なのですが、いっても詮無いことと思って諦めています。私がどう育てられたかを思い起こすに、あるいは現代の大家族の子どもたちの育てられ方などを見るに、人が生まれ育つのに大金は要らないと個人的には思うのだけれど……。

では、育児負担の軽減、とくに保育施設の充実については、どう考えるか。私は、現実的な解決策としては支持しますが、理想的な解決策ではないと思います。

理想は、親子のふれあいの時間をなるべく確保して、仕事の負担を減らすことです。男女問わずみんなが20~30代に仕事量をセーブする社会であれば、育休や時短勤務で不利になることはありません。その分の国内総労働時間の減少は、生涯労働社会の実現と、過剰教育の是正によって補完できると考えています。

また育児期の収入減は、ベーシック・インカムに類する人数比例の収入補助制度によって、かなりの程度まで緩和できるのではないでしょうか。年齢等の条件を問わず人数比例で配られる収入補助は、多人数同居に有利ですから。一人暮らしで月3万円もらってもオマケ程度ですが、4人暮らしで12万円なら大いに助かります。

4.

「仕事を優先しないと生きていけない」から「育児の負担を減らす」というのが喫緊の課題なのはわかりますけど、「仕事と育児の両立」は、理想的にはもっと「仕事を減らす」方に重点を置くべきだと思う。

「家にいる母」に育てられた私としては、小学校を卒業するくらいまでは、親が子どもと多くの時間を一緒にすごせるようにしてほしい、という願いに似た気持ちがあります。休日だけ子どもに構おうとする父親って、私にとって「学校の先生より気持ちの遠く離れた存在」だったんですよね。父としては子どものことを深く思っているつもりだったのでしょうが……。

あとやっぱり、子育てって少しだけなら楽しいけど、いろいろ積み重なっていくと、仕事ほど面白くはないのだと思う。育児は変化が乏しいし、現金収入にならないし、やりがいも実感しにくい。「楽しい」と思える範囲内の育児負担って、かなり小さいのではないか。

問題は、親が楽しいと思えるふれあいの量では、子どもは不満だということ。育児負担の軽減に反対ではないけれど、どうしても歯切れが悪くなるのは、自分が親より子どもの方に共感するからだと思う。

前項では私の理想を書いたけれど、現在の日本の世論や少子化対策の流れからすると、両親がフルタイムで働ける環境が完成したら、だいたい大人はみんな満足してしまって、それ以上のことは実現されない気がする。もちろん、いま人々が求めている施策を実現することには賛成する他ないのだけれど。

5.

長谷川さんの他の著作を読んだら「女性は仕事を辞めて主婦になるべき」とか書いてるのかもしれませんけど、たいていの人は産経の記事ひとつを読んだ印象で語っているわけでしょう。だったら、過剰に悪い方に解釈する理由は全くなくて、長谷川さんご自身の歩みなどと整合的な解釈を採用すればいい。

長谷川さんはご自身が大学でキャリアを重ねた方であり、女性が仕事で活躍すること自体を否定する立場だと考えるのは不自然です。とすれば、長谷川さんは他の人と同様に小保方晴子さんの成功を祝福されるのではないですかね。

なお私は、小保方さんが仮に育児のために仕事量をセーブされ、その結果として偉大な研究がまとまるのが数年遅てもよかったと思う。お相手の方が平凡な人だとしても、平凡な夫だけでなく、偉大な小保方さんも育休をとればいい。

2014-01-29

カネを出している人が納得しているかどうかの問題

1.

リンク先の方は意味が分からないといったのではてブに反論がたくさんきているのだけれど、「俺は納得していないぞ」という人はけっこう多いと思う。

リンク先の記事は、いろいろ思慮深く書かれていると思うが、わりと頭ごなしの反応が目立つ感じがする。じゃあ、というわけでもないが、私はもっとアタマの悪い感じで書いてみようかと思う。

2.

私の場合、納得いかない筆頭は美術館かな。そもそも民営の美術館が多々あるということもあるし、市民と美術の距離を縮める目的なら、もっと費用対効果の高いやり方があるだろうと思っている。

とくに「本物」にこだわるのはバカバカしい感じがする。私のような素人には本物とレプリカの違いがわからない。本物はケースの中にあったり、ロープの向こうだったりして、ますます「あれが本物かどうかなんて自分にとってはどうでもいいな」と感じる。

印刷と原版の違いも、ちょっと離れたらわからないしね。そりゃ油絵なら筆のタッチの凹凸とかあるわけだけど、薄暗い美術館で数メートル先の絵を見るより、高精細印刷の画集の方が筆のタッチはよほど分かりやすかったりする。だけどそもそも、筆のタッチがわかったら何だっていうの?

それから美術館の建物って、どうしてああ無駄に豪華で、他に流用できない建物なんだろう。少子化で空き教室が増えてる小学校とかに、絵画や彫刻のレプリカをざっくばらんに展示でもすれば、それで十分じゃないの。せっかく学校の市民開放日を設定しているわけだし、小学生の作品と並べてピカソを展示したらいい。

3.

negril67 あまり頭の良くない主張。天然記念物も寺社仏閣も一緒だろ。 保護されてこなきゃ残ってないんだぜ?

保護したい人だけで勝手に保護すればいい。私の納めた税金を使わないでほしい。なんで神社仏閣の保護に全員が賛成すると思い込んでいるのか。信徒や、古建築のファンが金を出さないなら、なくなっていいよ。

だいたい議員さんたちはハイソサエティの人々だから、神社仏閣なんてなくなっていいという考え方がわかってない。観光云々という説明もあるが、それなら観光業で利益を得ている人らが金を出せばいい。それでは足りないというなら、神社仏閣を保護して観光を盛り上げても差引マイナスなのではないか。

laislanopira これだと収益の上がらない医療や科学や教育に金を出す意味も分からなくなるで

カネを出している人が納得しているかどうかの問題。科学についてはやり方に異論があるが、医療と教育への公的支援には、私も同意している。だが芸術の保護には不同意。

todo987654321 そもそも芸術や学問がパトロンなしの経営努力で発展したことなんて史上一度でもあるのだろうか。

パトロンが自分のカネで保護するなら文句はない。私の納めた税金を使うなら、私を説得してからにしてほしい、という話だ。

4.

直接民主主義への全面転換は非現実的だろうが、部分的には導入していいと思う。本当に芸術保護に賛同する有権者が過半数なんだろうか。私の居住する市で、膨れ上がっている借金の返済とどっちがいいかで住民投票を実現してほしい。

私がこの件で一部のはてブにカチンときたのは、「直接民主主義なら、あんたら負けるだろう。なに余裕ぶっこいてるんだ? もっと誠心誠意の説明を心がけて、俺を納得させてみろよ」と思ったから。「バカ相手に説明は要らぬ、上から目線で嘲笑しとけばいい」って態度を改める気がないなら、いずれ泣きを見ると思う。

もちろん、実際には私の方が少数派なのかもしれませんが。

2014-01-28

この手の処世術指南は不愉快

この手の主張は肯定し難い。

いや、単なる「炎上を避けるための処世術」としてなら、同意できる。「今回は災難でしたね……」というような共感とともに発せられた言葉なら、話も違ってくる。しかし多くの場合、こうしたことをいいだすのは燃やしている側に親和的な人だから、不愉快だ。

相手の話を聞くのを面倒くさがって、「なるほど。詳しくないんで勉強になりました」という話に押し込めようとしているだけではないか。大勢が誤解して叩いたなら、誤解はもはや誤解ではなく、相手の真意などあってもないのと同じであるという姿勢は、数の暴力に胡坐をかいた人格の圧殺である。

たしかに、ひとたび大勢に誤解されたなら、「真意はこうだ」と説明しても聞く耳など持たれない。自分(たち)の解釈が正しく、当事者の釈明など後付けの嘘っぱちだから無視してよい、とでもいいたげな態度の人があまりにも多いのが現実である。

仮説をひとつ否定しただけで後に続く主張を丸ごと否定するのは論理的とはいえないが、これも世の中では珍しくない。直感的に結論が間違っていると感じた人々は、何かひとつでもケチをつけられるところを探して、それでもって全部を否定しようとする。

知っていることの全てを書くなど不可能なのに、「書いていないことは知らないことだ」と決め付ける輩も後を絶たない。

最初に居丈高に振舞ったのが叩かれている側だとしても、だから叩く側も上から踏みつけるような態度をとっていいという理屈は、受け入れられない。むしろ、ひとたび炎上の構図ができあがったならば、多数派こそ数の暴力や衆を恃んで気が大きくなる自分自身の意識をよく自覚して、よくよく自制に努めるべきだ。

リンク先の事例についていえば、私が読んでも「考えの足りない発言に多くのツッコミが入り、継いだ言葉でますます見識の乏しさをさらけ出した」という話に見える。見えるがしかし、「真意が伝わっていない」のだとすれば、私には、その真意を理解しようと努める用意がある。

「自尊心の損切り」は、ままならない世の中を生き抜くために有効な知恵だろう。だが、炎上の構図に乗っかって面白がっているような人が、敗者の人格を踏みつけにしようとする側の人が、それをいうのは不愉快だ。一緒に涙を流せる人だけが、口にしていいことだと思う。

補記:

相手の主張の前提をひとつ否定しただけで結論までまとめて否定するとか、書いてないことは知らないこととみなすとか、そのあたりは私もよくやるあやまちである。しかし、「だから肯定する」ということにはならない。自分自身の言動を含めて、批判していく。

2014-01-27

「プレイスタイルが健康的なゲーム機」待望

1.

「任天堂がWiiUで失敗したのは明らか」ということで、いろいろ意見が出ている。とりあえず3つリンクしてみた。

私自身はWiiUが大好きなので、市場で受け入れられなかったことが残念でならない。WiiUには今後いつまでソフトの供給が続くのだろう。WiiUが好きでない人は「さっさと見切りをつけて次へ行け」みたいな感じだけど、私はそれでは困る。

ともあれ、私もWiiUの失敗については少し思うところがあるので、この機会に書いておきたい。

2.

コンソールゲームは、ドラクエやマリオから4半世紀を経た今でも、(一般論としては)自己紹介でプラスの印象を形成できる趣味とはなっていない。その理由はいろいろあるんだろうけど、単純には、コンソールゲームで遊んでいる人の姿が「いかにも不健康な感じ」だからだと思う。

将棋指しやハスラーなら、まだしも絵になる。しかしコンソールゲームをプレイしている姿は、猫背で、うつむきがちで、そこから連想されるのは病人だ。つまり、両手でコントローラを持つスタイルでは、ゲームへの悪印象は拭えないのではないかと思う。

みんなが自らゲームをプレイする社会になれば自ずと偏見はなくなる……という説もあったけれど、やたらめったらコンソールゲームを遊ぶようになった私自身が、その反例になっている。やっぱり、黙々と3DSなどで遊んでいる人を見て「不健康な感じがする」のは、全く変わらない。

見た目の印象をどうにかしないとダメなんだ、と思う。

3.

個人的には、WiiUがうまくいかなかったのは、「Wiiが『Wii Sports』と『Wii Fit』で成功した理由」を見誤ったからだと思っている。

『Wii Sports』は、美男美女の笑顔に頼ることなく、ふつうの人がプレイしている様子(ゲーム画面ではなくプレーヤーの姿)が宣伝映像として成り立った。これはすごいことだ。

とくにテニス。Wiiリモコンをテニスラケットの柄に見立てて、ブンブン振る。省力スタイルでの着座プレイも可能だそうだが、多くの方が実際に中腰で立ってプレイしていた。「筋肉痛になった」という話を、私の周りでも耳にした。テレビドラマなどでも、「活動的な少年」が嗜むコンソールゲームとして、よく登場した。

『Wii Fit』は特殊な体重計をコントローラとし、リアルに健康体操をするソフトだ。これも、ふつうの人がプレイしている様子を見て、不健康な感じがしない作品だった。「ああ、これはたしかにやればやるほど健康になりそうですね」と、私もすんなり納得できた。

だから、私にとってWiiの当初のイメージは「プレーヤーを不健康にしないゲーム機」だった。これって、とっても大切なことだったんじゃないか?

4.

両手で持つスタイルでも、DSは売れた。でも『脳トレ』『レイトン』や生活お役立ち系のソフトがたくさん売れたことを考えると、「ゲームをする言い訳がほしかった人」が相当に多かったのではないかと思う。「脳が若返る」とか、「アタマの体操」とか、「便利なんだよ!」とか。

最初はそれでよかったが、問題はその先だ。DSもWiiも、次第に言い訳の困難な「ザ・コンソールゲームな作品」が主流になっていった。『トモダチコレクション』『おいでよ どうぶつの森』などは、「ふつうのゲーム」ではなかったからこそ、「不健康なイメージ」に染まらずにすんだのだろう。

まだWiiの『マリオカート』はよかった。ハンドルを傾けて運転している限りは、「ドライブ」のイメージを借りることができた。しかし一人で『NewスーパーマリオブラザーズWii』をプレイしている姿が絵になったかというと、いささか無理があったと思う。DSの『Newマリオ』は松嶋菜々子さんだから絵が成り立ったんだ。

両手でコントローラを持たせてはいけなかった。またWiiリモコン片手持ちでも、コタツに入ったままダラけた姿勢で遊べるWiiソフトではダメだった。しかし、『Wii Sports』のようにプレーヤーを筋肉痛にするソフトは、他に『JUST DANCE』と『太鼓の達人』くらいしか思い浮かばない。

WiiもDSも、購入してからしばらく経つと「やっぱりこれはゲーム機であり、不健康な機械なんだ」という印象が強まっていったように思う。

そしてWiiUでは、両手持ちスタイルのゲームパッドが同梱され、片手持ちが基本のWiiリモコンは付属しなかった。元の木阿弥だ。

5.

WiiUはPS4やXBOX oneに市場で負けた。しかしそもそも、そっちの土俵に乗ってはいけなかったのだと思う。いや、WiiUはもちろん、PS4などとは別の路線を選択したつもりだったろう。しかし、いち消費者の実感として、WiiUはPS4などと同じカテゴリに入れられている。

「人が健康になる機械」か「人が不健康になる機械」か。WiiUがWiiの成功を踏襲するためには、前者を目指さなければならなかった。あるいは、後者の道を選ぶなら、PS4などと真っ向勝負する必要があった。

スマートフォンはどうなのか。まず、「せめて片手持ち」だと思う。私の周囲でウケている作品は大抵、片手持ちだ。この点さえクリアすれば、「スマホはゲーム機ではなく、電話機だ」という最高の「言い訳」がある。買う理由、電源を入れる理由として、これほど強力なものはそうそうない。

スマホでゲームに興じる人々のリアルな写真」を見ると、その不健康な感じに「うっ」とくるものがある。しかし、「だからスマホはダメ」とまではいかない。それがスマホの強さ、底力だと思う。

以上、とくに根拠なく、思うところをつらつら書いた。

ただ、私自身は両手持ちのコントローラで遊ぶゲームが好き。WiiUで『Wii Sports』のような作品が大成功し、私はドラクエを遊び続ける……というのが、私のムシのいい願い。

2014-01-20

RPGのプレイ日記文化はどこへ?

1.

ブログの更新が途切れ途切れになっている理由はいろいろある。でも、根本的には、「書く手間を乗り越えるだけの熱量がない」ということに尽きると思う。

しばらく前に『備忘録』から『小説』に改題した通り、このブログの内容は虚実ない交ぜだ。しかし大筋では、記事の日付(公開日ではない)の頃に私が関心を持っていたことを題材に、書いてきた。経済に関する本をたくさん読んでいた頃には、経済の話が増えたり、とか。

この2年、もし更新を続けていたら、コンソールゲームの話題が増えていただろうと思う。しかし実際には書かなかった。書きたいテーマの最上位でさえ何も書けないのに、2位以下の話題で更新できるわけもない。

2.

じつは私がゲームについていろいろ書こうとした時期は、過去にもあった。そこでいったん挫折したことが、「書く気がしない」ひとつの要因になっているのかもしれない。

あるいは、昨日の記事に書いたようなことも、私の中では大きい。評論的な記事はブログで扱ったが、ゲームのファンサイト的な記事は、ブログで書く気になれなかった。

個人的に、RPGのプレイ日記というジャンルには興味があった。リプレイ小説とは違う。一見、あらすじを紹介しているだけのように見えて、ちゃんとプレーヤーの視点がそこにある、というようなコンテンツだ。そのゲームを知らない人には、読んでもなんだかよくわからない。とても間口の狭い世界である。

なぜ私がテイルズを選んだのかというと、ドラクエなどには上記リンク先のような素晴らしいプレイ日記が既にあったからだ。テイルズのプレイ日記は、いくつかあるにはあったが、私が読んで満足できるものはなかった。それで勇んで書いてみたわけだが、結果的には「無謀な挑戦だった」と思う。

3.

TwitterやLINEの時代といわれるが、ブログも並列で大いに活用されている。ランキングサイトなどを見ると、大勢が「プレイ日記」を書いていることがわかる。だが、私が求めてやまない昔ながらの読み物コンテンツとしてのプレイ日記が、見つからない。

ブログ時代になって、プレイ日記文化は、ほぼ滅びてしまった。ブログとプレイ日記は相性が悪い。「今日のことを今日のうちに書く」のは、プレイ日記に適したスタイルではないからだ。どちらかといえば、プレイ日記は週末に1週間分まとめて書くようなスタイルが合っている。

プレイ日記は、ふつうの「プレーヤーの日記」とは一線を画すコンテンツだ。目次からして違う。単にブログでカテゴリ指定しただけでは、プレイ日記にならない。そんなのは見た目の話でしかない……とはいえない。。「第1話から読ませよう」としない時点で、プレイ日記にする気がないと思ってだいたい間違いない。

2014年現在、往時のプレイ日記文化を継承しているのは、プレイ動画文化だと思う。実況動画だけでなく、淡々とプレイする動画シリーズも、きちんと追っていくと一貫性が見出せることが多い。他方、生放送の類はたいてい断片をブツ切りで見せるスタイルで、ブログに近い。

2014-01-19

「ゲームは日陰の趣味」という感覚

私が送ったウェブ拍手の添付コメントに反応記事が出た。これをひとつの契機として、添付コメントの内容を増補改訂してひとつの記事にしようと思った。

1.

Wii Uを起動した際にテレビ画面に表示されるのが「わらわら広場」。

「Miiverseで話題になっている投稿が見られる」という機能で、Wii U発売前には「これがマイナーなソフトの宣伝になるんじゃないのか」と思ったものなのですが。

無料ソフト+任天堂の超有名タイトルばっかじゃないか!(中略)

しかもコレ、本当に「Miiverseの投稿が見られる」だけなんですよ。

その投稿へのコメントをしようとしたり、その投稿者のプロフィールを見ようとしたりするとMiiverseを起動しなくてならないという。(中略)

自分は正直「わらわら広場」は廃止しちゃってもイイんじゃないかと思うのですが。(中略)

今のままだとホント誰得なのよという機能ですもの。

わらわら広場は、私得の機能です。

2.

私には「ゲームは日陰の趣味」という感覚があって、ゲーム機を起動すること自体に、なんとなく後ろめたさがあるんです。この時間をもっと別のこと、例えば屋外スポーツとかに使う方がいいんだろうな、「趣味はゲームです」というよりは、せめて「ジョギングです」とかいえる方がいいんだろうな、とか考えてしまう。

携帯電話やスマートフォンの場合、リアル知人とのコミュニケーションに使う道具だし、「みんな」が使っているものだから、これの電源を入れておくのは別に悪いことじゃないぞ、と思えます。実際はずっとゲームにしか使っていないとしてもです。

でもゲーム機は基本的にゲームのための機械ですからね。他のあれこれもできるといったって、やっぱりゲームがメインなのは変わらない。

その点WiiUは、起動するとわらわら広場が出て、大勢が「ゲーム楽しいね」って喋っているのが見えます。あれを見ると、「日陰の趣味でも、楽しいのはいいことだよね。誰かに迷惑をかけているわけでもないし」と、ホッとします。

3.

私はMiiverseを見ていません。Miiverseはゲームパッドでしか閲覧できないので、ゲームパッドを使わずにしまいこみ、Wiiリモコンで遊んでいる私には、単純に縁遠い。それに私は、誰かの発言をわらわら広場でちょっと目にするというくらいの距離感がいいんです。ゲーム好きのコミュニティに入り込みたくはない。

いま私はDQ10に長期ハマり中ですが、Miiverseはもちろん、Twitterのファンコミュニティにもほとんど参加していません。交流はゲーム内にほぼ限定し、外部情報は、公式のプレーヤーサイト、はてなで上がってくる記事、4Gamerのインタビュー記事くらいしか見ない。これは積極的にそうしています。

3DSを持ち歩くのも、私にはハードルが高い。荷物を増やしたくないとったことよりも、「自分がゲームにしか使えない機械を持ち歩く人になる」ことへの抵抗感が大きい。

かつてDQ9のとき少しだけDSを持ち歩いてみたのですが、すれ違いのメッカといわれてた場所へ行ってみたら、会話が全くなくて、みんな画面だけ見て黙々とデータだけ交換していたんです。「あの中の一人にはなりたくない」という感覚がむくむくと膨らみ、少し離れたところを素通りしてしまいました。

自分だって、同じゲームのファン同士で会話がしたくて行ったのではありません。単にデータの交換がしたかったんです。でも、大勢が下を向いてニコリともせずDSを操作しているのを見ると、「この輪に入ってしまったら、自分の中の何かが壊れる」と思わずにはいられませんでした。

4.

誰かに直接、コンソールゲームのファンであることについてネガティブな発言をされた記憶はありません。自分で勝手に、実在するのかもわからない世間の空気を受信して、自縄自縛になっているだけだと思う。でも、全ては無意識の活動であって、ヘンな電波を受信しているアンテナを取り外す方法がわからない。

とりあえずいま、こんな私にとって、わらわら広場はいやしの空間になっているのです。そのおかげで、あくまで私の場合ですけど、WiiUは3DSとかよりもずっと、起動することへの心理的抵抗が低いです。

5.

これ、ゲームの話題だから「Miiverseくらい参加すればいいじゃない」「DQ10のファン同士、Twitterで交流したら楽しいでしょ」という方が多いでしょう。でも、例えば2chだったらどうですか。

私にとって2chというのは、まとめサイト経由でしか接しない(ことにしている)世界です。時々は直接見に行くこともありますけど、それはたいてい「元のスレッドではどんなやりとりだったのか」「特定のスレッドではこういう反応だとして、他のスレッドや板全体の傾向はどうなのか」といったことの確認が目的。

2chコミュニティとは、あえて距離を置いてきました。自らの偏見に屈し、「彼らの作るスレッドは面白いけど、自分はそれを消費するだけの立場を貫こう」としてきたんです。

卑劣な態度だと思う。これでよいとは思わない。しかし私は「2ちゃんねらーになんかなりたくない」という差別感情に打ち勝てずにきました。言葉遊びとかで面白いことしてる方々に、本当はスレッド内で「www」とかで報いたい。でも私はそうしてこなかったし、今後もたぶん、できない。情けないです。

さて、みなさんはどうですか?

2014-01-17

「想定外の誤解」解読……私の回答

言い方は悪いが所得の低そうな人ほど、牛丼チェーン店で店員に「ごちそうさま」と言う(本来不必要なレベルの)礼儀正しさを備えているように思えるのは興味深い

Twitterに書いたら、想定外の反発が押し寄せて困惑した、という話らしい。それで、自分の文章のどこが意図しない解釈の原因となっているのか、知りたいのだという。

誰か僕にもわかるような簡単で合理的な説明を!

既に、はてブにたくさん回答が出ていますが、私も書いてみます。

  1. 低所得者は、高所得者に対し、コンプレックスを持っている。高所得者基準で低所得者の言動にネガティブな評価がなされると、強く反発する。だから、所得と行動を結び付けて論じる場合、低所得者の行動を「標準」「常識」とし、高所得者の行動を「逸脱」「奇妙」とするのが安全。
  2. 理由は不明ながら、「標準」「常識」を「正しい」と考える人が多い。そうである以上、「ごちそうさま」が「標準ではない」と論ずれば、即ち批判として機能する。こちらが批判の意図を持っていなくとも、そう受け取る相手がたくさんいる。
  3. 「本来不必要」という表現は、「本来」のニュアンスから、「ごちそうさま」といわない方が「標準」と解釈される。また、「不必要」という言葉はネガティブなイメージを背負っている。そのため、「ごちそうさま」を小バカにする意図が無かったなら、ネガティブな表現は一切用いず「素敵な」「礼儀正しい」といった言葉を使えば安全だった。
  4. そもそも「ごちそうさま」は「本来いうべき」と思っている人が、たくさんいた。食事には感謝の意を表すべきである。実際に「ごちそうさま」という人は少ないが、それは正しくない状態であり、あくまで「本来はいうべき」なのだ、と。
  5. 少なからぬ人々が、「義務」か「全く自由」か、の二択では考えていない。「義務ではないが、こうした方がいい」という行動規範を持っている。「義務ではないので本来不必要」という主張は、「義務ではないがこうした方がいい」と鋭く対立する。
  6. 「正しい言動にケチをつけてはいけない」という考え方がある。転じて、「ケチをつける人は、その言動について、(仮に世間では正しいとされていても)良いと思っていない」と解釈される。低所得と高所得、どちらがいいかといったら、高所得の方がいいと思う人が多い。「所得が低い」はネガティブな評価である。「所得が低い人ほど礼儀正しい」という発言は、「礼儀正しさ」にケチをつけたことになる。
  7. 「どっちでもいいならわざわざケチをつけるはずがない」という考え方がある。そう考える人々は、「ケチをつける=その言動をやめさせようとしている」と解釈する。「やめろ」といわなくても、「批判」でなくとも、「ケチをつけた」だけで、「やめろといっているのと同じ」と捉える。
  8. 「低所得者ほど礼儀正しいのはなぜか」と考え、「高所得者ほど礼儀知らずなのはなぜか」とは考えなかったのは、高所得者の言動を標準とする思考様式に染まっているから。こうした無意識は、無意識だからこそいっそう強く糾弾される。話者が自身をどちらの側に位置づけているかということに、一部の読み手は敏感。
  9. 「興味深い」という発言には、共感の姿勢がない。ただでさえ高所得者基準で書かれた文章に「興味深い」が付くと、「上から目線」「私たちを観察対象としてしか見ていない人の発言」という印象になる。
  10. 「言葉は悪いが」という表現は、「こいつらが相手なら、ちょっと傷付く言い方をしても大丈夫だ」という敬意の欠如、対象への侮りを示す。言葉が悪いと気付いたなら、良い言葉を選び直すべきだ。あえてそうせず、悪い言葉に傷付く相手を尊重しない姿勢を堂々と宣言したなら、相応の反発が生じるのは当然。

私も「言葉の端々をつかまえて大反発され、閉口した」経験は多いので、困惑は理解できます。

『言い方は悪いが所得の低そうな人ほど、牛丼チェーン店で店員に「ごちそうさま」と言う(本来不必要なレベルの)礼儀正しさを備えているように思えるのは興味深い』

『所得の高そうな人ほど、牛丼チェーン店で店員に「ごちそうさま」といわないように思える』

私が「無用の反発を減らす」ことを最優先にして書き直すなら、こんな感じでしょうか。これはこれで「高所得者批判」と解釈される文章であって、「批判の意図はない」という真意は伝わらないのですが、反発は大幅に減ると思います。

ただ、私の場合は、「しかしどうして自分は、初稿において、大勢の怒りを買う表現を選んだのか?」という疑問が頭を離れませんでした。いろいろ考えたのですが、やっぱりそこには、十分に自覚できていない「自分」が表れていた、と思うようになりました。全部ではない。書き直した文章の方が、本来の意図をよく表せていると思うことは多い。でも、「全てが誤解」ではなかったな、と。

とはいえ、いろいろ考えてはみても、想定外の解釈への困惑とは縁が切れない……。事前に意を尽くすなど無理な話で、反発が出てからでないと気付けない問題は無限にわいてくる。だから、反省しただけ無駄な労力だったという感じもします。

追記:

記事を書いている間にブログが消えてしまった。残念。

その後のTwitterでの展開を見ると、(本来不必要なレベルの)礼儀正しさという価値判断を掲げて戦い続けている様子。「義務ではないので本来不必要」という主張は、「義務ではないがこうした方がいい」と鋭く対立する。と書いた通りで、多くの反発の主要因がここにあるならば、一部の誤解など瑣末な論点に過ぎず、基本的には真正面からのバトルだったことになる。

それはそれでいいのだけれど、そもそものツイートで伝えたかったことは何だったのか。おそらく、「ちょっとした気付き」をツイートしたかっただけなのだろう。ただ、読み手と書き手とでは注目する点が違う。実際に読者が食いついたのは、ツイート内のワンフレーズに現れた価値判断だったわけだ。

2013-12-07

「素早く離す」までがタップ操作です

1.

いろいろ話題のスマホ版『ドラゴンクエストI』を、iPod touch でプレイしてみました。

世間ではバーチャルパッドの操作性に注目が集まっているけれど、私の場合は「タップ操作」というのがわからなくて、これがいちばん困った。いきなりセリフ送りができなくて、ゲームが全く進まない。

適当に画面を乱打していると、ときどき反応があって、どうにか王様のセリフが終ったわけだけど、宝箱も開けられないし、大臣に話しかけることもできないし、何もできないまま時間だけが過ぎていく。誠心誠意、画面をタッチしても、うんともすんともいわない。なんなんだー!

ギューって押しても何も起きない。何度、繰り返してもダメ。画面のどこを押しても反応するってことだったからあちこち押してみたけど、とくに違いがない。「どうなってるんだ?」と。何か設定がおかしいのかと思ったけど、それらしい箇所は見つからず。アプリを立ち上げなおしても変わりなし。参った。

それならネットで調べてみよう。……でも、ダメでした。

2.

30分くらい試行錯誤してようやく、答えにたどりつきました。「短時間、画面に触れて、指がパッと離れたときに反応する」のです。指が離れないとダメ。のんびりしててもダメ。

「私にとってのふつうのペース」で画面を触って指を離しても、タップにはなりませんでした。これはあくまでも私の場合ですけど、「熱いナベのふたにさわってアチッとなる感じ」を意識して、「すぐ指を離すぞ!」という意気込みでやらないと、「タップ操作」にはなりません。

よく考えてみると、「押して反応」だと、一部で操作が重なってしまって不都合があるんですよね。なので、この仕様には納得しました。

だから問題はドラクエの仕様ではなくて……。

3.

マイクロソフトさん、それ、なんの説明にもなってないじゃないですか!

「タップ」って、画面を触ることじゃなかったんですね。「パッと触って、パッと離す」というか、「コツンと指先を当ててバウンドして跳ね返って画面から離れるまでの一連の動作」というか、そういう感じの操作だったんだ。って、そんなん、これ見てわかるの? わかるの? 私はわかりませんでした。

ドラクエでも設定とかメニューとかは、「押す」操作でよかった。復帰時の暗証番号入力だって、ボタンを「押す」ことで反応する。指を離すところまでセットで「タップ操作」だったとしても、これまで気付く機会がなかったのでした。

4.

私がいまいちばん気になってるのは、「指を離すところまでがタップ操作」だとわからなくて困った人って、過去にいなかったのかな?ってこと。ネットで検索しても、「指を離すところまでがタップ操作です」という説明が見つからなかったんです。

スマホ版ドラクエについては、大勢が記事を書き、その何倍もの人がTwitterやはてブでコメントしたわけだけど、「タップ操作ができなくて躓いた」という声はなかったと思う。みんな「タップ操作」がどういうものか、最初から理解できてたの?

「タップ操作」がわかってから他の人の操作をみると、なるほど、汚いものでも触るかのように、いちいち指を引っ込めていますね。私は面倒くさがりなんで、指を置いたら置いたまま。離す必要がなければ離さない。マウスもそうで、手を離す必要がなければ、マウスが右手置き場になってる。

あー、「タップ操作」って、マウスクリックみたいなものか。「クリック長押し」と「クリック」は、たしかに違う。

でもさ、でもさ、マウスのボタンなら脱力すれば勝手に戻るけど、指は脱力したら画面にくっついたままじゃない? みなさんの指は私の指とつくりが違うんですかね?

5.追記

「正解がわかると、正しい解説がすぐに見つかる」ことって、よくあります。これはマーフィーの法則の類ではなくて、「正解がわかると情報の見え方が変わる」のでしょう。

(一回)叩くとかキーボードの打鍵やマウスのクリックに相当といった表現は、まさに私の求めていた情報を指し示していました。しかし「タップ操作」がどんなものかわからないときの私は、これらの表現をキャッチし損ねました。

もし私が「クリック」で検索していたら(実際にはしていない)、「押して素早く離すことこそが、タップとクリックの共通点」と気付いたのでしょうか? たぶん、気付かなかったと思います。

2013-11-18

『価値観の対話場 シンクロン』をご案内します

1.

知人が立ち上げたコミュニティサービスです。

シンクロンは価値観を可視化して議論ができるコミュニケーションサイトです。

(中略)

シンクロンでは、多様な意見を3つの価値観に分類しています。その3つの価値観は、実は誰もが持っているものです。誰もが持っている3つの価値観に、お互いの意見が分類されることで共感できるポイントが見つけやすくなります。

ま、とりあえず見てみてくださいな。

2.

もともとは、サンデル先生の白熱教室から始まったプロジェクトです。(関連:ハーバード白熱教室ノート

サンデル先生は、ザックリと正義を基礎付ける価値観を3つに分類しました。「社会全体の幸福」「個人の自由や権利」「美徳(文化や道徳)」が、それです。この大雑把な分類には「単純すぎる」という批判が付きまといました。しかし実際のところ、サンデル教授の授業に一時的ではあれ魅せられた人々の大半は、教授が授業の導入に用いた思考実験や、学生たちが議論する姿を「面白い」と感じただけであって、3つの正義については既に忘却の彼方でしょう。いや、放送直後でさえ、人々は3つの正義になど関心を持ってはいなかった。

2010年に私が驚いたのは、六本木の講演会場や東大の講堂にまで足を運んだ方々でさえ、単に自説を思うままに述べるばかりだったことでした。ああ、この人たちは、単にいいたいことをいいたいだけだったんだ、とガッカリしました。サンデル教授の講義のダイジェスト番組を見て、何か成長したという感じが全くない。熱心な視聴者がこんな調子なのだとしたら、教育なんて虚しいものだ……。

一生懸命にノートを取り、課題にも取り組んで、その内容をウェブサイトにまとめてきた私は、とてもバカバカしい気持ちになって、半ば興味を失ってしまったのでした。

しかし、私の知人たちは、そうではなかった。3つの正義という思考整理のツールをうまく使ったら、錯綜する議論を整理する役に立つと信じたんですね。初期の構想は2010年には既に出ていて、具体化したのが2011年のこと。明確に動き出したのが2012年。そして2013年、ついに『シンクロン』として世に出ました。

4年越しの、夢の実現なのです。

私はほんの少し関わっただけですが、開発スタッフは手弁当で1万時間以上を投入しました。お客様感覚でいったら、もっとああしろ、こうしろ、みたいなのはあるのかもしれませんが、このサービスを生み出すのに要した情熱は尋常ではありませんでした。その一端に触れた私は、ただただ圧倒されるばかりです。

3.

もともとの問題意識としては、ネット上のあちこちでみられる「不毛な議論」を交通整理したいということだったのですが、よその議論に介入する仕組みなど作りようもない。

結局、自前のコミュニティサイトを立ち上げることになりました。その中での議論を価値観で整理し、不毛な対立に陥ることなく、対話と相互理解を促進する仕組みを模索したい、というのです。

a)

私自身は、最初に構想を聞いたときから、「あまりうまくいく気がしない」とネガティブなことをいっていました。どんなコミュニティサイトを作ったところで、みんないいたいことをいうだけだろう、と。それに対して推進者は、「だから、後から誰かがコメントを評価し、整理するんだ」といった。「誰かって、誰?」という疑問は残るものの、とりあえずは納得しました。

b)

とはいえ、そもそも人が集まるのでしょうか? 『シンクロン』はCGM(Consumer Generated Media)の形態を取りました。CGMはたいてい、「消費99:生産1」のような構造になっています。大勢が見るコンテンツがあって、そこに人が集まると、少しずつコンテンツの製作者も増えていく。

「ネットで話題の記事」には、たくさんのはてブがつく。はてブユーザーがたくさんいるからこそ、はてブには多様なコメントが並ぶ。シンクロンも同じで、ひとつのテーマについて、数十人が意見を書き込むようにならないと、まず「よそでの不毛な議論」をトレースできない。たくさんの意見があって錯綜するから整理が必要になるのであって、特定の価値観に基づく限られた数の書き込みしかないなら、整理などするまでもない。

「人がいないから『シンクロン』が機能しない→機能しないから面白くない→面白くないから人が減る」という悪循環は、どうしても避けなければいけないと思いました。

そこで私が主張したのが「最初は静的なブログでいいんじゃないか?」でした。ブログの書き手が、リアルタイムにネットで大勢が議論している件について、なるべく多くの主張を網羅し、それを3つの正義で整理してみせたらどうか。分類した結果、「これで対立の構造がよくわかった」「大バカじゃなくて、違う価値観からきてる意見、だったのか」という反響が得られたなら、そこで初めてCGMのシステム開発を始めたらいい。

3つの正義で錯綜した議論を腑分けしてみせても、何の反響も得られない可能性があるわけです。対話や理解より、自分の常識や考えを押し通し、異論を粉砕したいという人ばかりなら、大掛かりなシステムを作成したって需要がないに違いありません。膨大なエネルギーの投入が必要なシステム開発に突き進む前に、そういう根本のところを確認すべきではないか?

c)

でも、私の知人らが興味を持っていたのは、人々にツールと場を提供することであり、コンテンツを作成することではなかったのでした。

その後、紆余曲折を経てコンテンツの作成も始めるのですが、「話題の時事ネタをスマートに腑分けして、頭を整理できる情報サイトとして、まずは人気を確立する」という私の提案とは全く違ったものになりました。

ものすごく手間のかかったコンテンツで、私自身は「面白い」と思う。でも、「いま話題になっていること」に喰らいついていくのが、成功の方程式。キャラdeギロンは手間がかかり過ぎて、昨日・今日の話題にリアルタイムに乗っかっていくのは無理だ。とすると、この先に「1日1万PV」が見えてこない。

時代を超えるコンテンツといえば聞こえはいいけれど、実際はそれも、あるとき瞬間風速的に消費されて終わり。小説だってそう。ごくごく一部の例外的な作品を除けば、時を越えて普遍的な魅力があるはずの作品も、パッと売れておしまい。発売から5年後、10年後に発掘され、ヒットしても、20年後には売れていない。

それでも。そう、それでも。ま、私が見損なっていただけで、知人らのコンテンツが大ヒットする未来があるのやもしれず。

4.

ところで、『シンクロン』でウェブ検索すると真空薄膜形成装置メーカー遊戯王カードサプライチェーン管理システムのソフト開発企業よくわからないベンチャー企業などが出てきます。

『シンクロン』でいこう、と決まったとき私もその場にいたのですが、正直こんなにライバルが多いとは思っていませんでした。なぜ、あのときしっかり調べなかったのか……。ネット環境はあったし、サイトのドメインを取れるかどうかまで調べていたのに。

もう何年も『シンクロン』でプロジェクトを進めてきて、愛着もあるから、いまさら変えたくはない。それだけに、最初の一歩が……。何時間も決まらず、疲れていて、「それだ!」となったのが嬉しくて、確認が雑になってしまった。あー。「カタカナでも検索してみよう」の一言を、なぜ思いつかなかったか。

私の人生にはありがちなひとコマ、という感じです。

5.

現在の『シンクロン』が、思い描いた稀有壮大な夢を実現しうるものかというと、いろいろ疑問なしとしない。それでも、「リッチな議論掲示板」として見れば、始まったばかりのサービスとは思えないほど膨大な機能が盛り込まれているのが『シンクロン』です。

最後に、そのあたりを紹介させてください。

a)

『シンクロン』の仕様を決める際、最も熱心に議論されたのが「従来の掲示板が「議論には使いにくい」のはなぜか?」でした。文化とかそういった話も多かったのですが、それをいってもたぶんどうにもならないわけで、まずは機能面で思いつくものはできる限り取り込んでみよう、と。

どれも、じつをいうと私は「またそんな夢みたいなことを……。いうのはタダだけど、実装コストが重すぎて、実現しないだろう」と思っていました。それが全部、現実にいま動いているわけです。

b)

今後の大きな機能拡張として、「クローズドに議論する仕組み」が予定されています。大学の講義や、議論サークルなどでの活用を想定したものです。講義の感想レポートを『シンクロン』に立てたクローズドなスレッドに投稿してもらえば、レポートの内容や傾向を整理してそれを次回の講義に活かすタイプの授業では大いに役立つと思う。

またコメントをする際には定型の「カード」を選択することができるのですが、これも遠い将来にはユーザーが設定できるようになるかもしれない。ここまで完成したら、講義やセミナーの感想レポート収集ツールとしては万全だと思います。講師が事前にスレッドを立て、カードを作成。生徒に「**のカードを使用し、YESとNOの両方のコメントを投稿しなさい。また質問や補足があれば、追加でコメントしても構いません」などと指示を出すわけです。

知人らの「社会を変えたい」という強い願いから生まれた『シンクロン』だけど、前途は多難だと思う。やはり人が集まるのは機能ではなくコンテンツ。2chが人気を保っているのも、掲示板として高機能だからというより、人が多いこと自体がコンテンツの魅力になっているからでしょう。

となると、どちらかというと、広く世間で使われることを目指すより、その高機能さと完成度が武器になる場から、コツコツ浸透させていく方がいいのではないかと愚考するわけです。

c)

というわけで、少なくとも機能面でここまでリッチなのは他にないだろう、と思う『シンクロン』。

もしよかったら、一度ご覧になってください。そして内容に興味を持ってくださったなら、ぜひ対話にも参加していただければと思います。

よろしくお願いします。

2013-11-17

全力でやって、まあ、こんなもの

ちょっとワケあって読み返しているのだけれど、このページ、何十回書き直したっけ……。

コンパクトに、わかりやすく、しかし講義の内容から離れて独自の要約になってしまわないように。

なんかもう、私はハーバード白熱教室ノート以上のウェブサイトは作れない気がする。こんなの、大した内容じゃないよな……とも思うのだけれど、でもやっぱり私としては限界までやったというか。えっ、この程度で限界? はい、そうです。みたいな。

ノートのとり方とかさ、偉そうに講釈してくれるブログやサイトやツイートっていくつもありますよね。「そこまでいうなら、まずあなたのノートを見たい」って思うわけですよ。

白熱教室ノートでいちばん作成がたいへんだったのは、文字量が多い「再検討」や「復習」ではなく、「ノート」のページでした。結局、ページビューを見ると「ノート」がいちばん読まれてますし、私の能力が丸裸にされている感じがする。ハッタリなんか通用しない。「この程度か」って一発でわかる。

カッコつけても仕方ないから、オーソドックスに講義の要点をまとめたつもり。鋭い指摘も気付きもない。そういう「つまらないもの」であるなりに、意義のあるメモとしようと奮闘した。

結果はやっぱり「この程度」だったけど、ま、自分の全力ってこれくらいなんだとわかってよかった。

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