知人が『みんなの党』の党員になった。その際の事務局とのやり取りが面白かったので、許可を得て転載。
「たった2000円のカンパ」のつもりで入党を希望します。ただし、3つの質問をさせてください。とくに回答を希望してはいません。無回答なら消極的肯定と判断いたします。でも、「絶対にダメ」なら、今のうちに教えてください。後から文句をいわれたくはないです。
1.年会費を払う以上のことをするつもりは全くない(選挙ポスターを貼る手伝いなどはしたくない)のですが、それでもいいですか?
2.民主党の代表選で1票を投じたいというだけの理由で民主党員になったこともあるのですが、そういう軽い気持ちでもいいですか?
3.将来、人間関係のしがらみなどで、他の党と掛け持ちになってもいいですか?
***様
お世話になります。
みんなの党本部事務局です。
この度は入党手続きを頂きありがとうございました。
お問合せの件ですが、3点とも問題ございません。
今後ともご指導ご鞭撻宜しくお願い致します。
みんなの党本部事務局
これ、もともとは私が「21世紀の日本で“みんな”の党であろうとすれば、かなーり緩くないとダメだよね。入党する際に、確認の質問はしておいた方がいいよ」と話した内容。「ちょっとハードル高め」のつもりが、あっさり。党費を送金すると、すぐ返信がきたそう。
なんていうか、今日、みんなの党を支持したことで、明日の自分を縛りたくない。自由に判断できるのが有権者の特権でしょ。それを手放したくない。そういう人、多いんじゃないだろうか。でも、「企業献金は問題の温床。かといって、税金で政党を養うのもどうかと思う」といったら、個人献金をするしかない。けどなあ……というジレンマがある。
私の勘違いかもしれないけど、私と同世代の30歳前後の層には、「政党」について「よくわかんないけど、怖い」「秘密結社の親戚、みたいな?」というイメージがあると思う。だから、
というのは、ホッとしたというか。あー、こういうのが「ふつう」になっていくなら、「宗教じみた政党以外はみんな資金不足で滅びちゃう未来」は見ずに済むかな、と。もちろん、これだけ敷居が下がってもなお、9割超の有権者にとっては、今後も入党なんて「考えたこともない」って話であり続けるとは思いますが。
さっき調べてみたら、党員の紹介を入党要件にしている自民党も、知人がいなければまず支部に電話してね、ということになってた。以前からそれはそうだったんだろうけど、いまは目立つところにそう書いてある。へー、という感じ。まあ、そうはいっても敷居は高いかな。
民主党の入党案内を見ても、掛け持ちOKとは書いてないな。ダメだとも書いてないけど。問い合わせがあったら答える、という感じなのかな、どこでも。
こちらは主要政党の年会費などのまとめ記事。
みんなの党には一般会員(年会費2,000円)とネット会員(年会費1,000円)があって、一般会員は「希望者にメルマガ配信」なんだけど、ネット会員は「メルマガ配信」となっている。個人的にはこれ、ちょっと面白いと思う。
「充実した学生時代」を過ごすのって、たいへんなんだな。ま、こういうのを読んで劣等感を持っても得することはない。「ご苦労様です」と祭り上げておけばよいと思う……のだが、私なんかでも「先輩として何か一言」なんて話を振られた経験はあって。無碍に断れないから、こんな話をしたと思う。
「留年」のコストを意識すれば、たいていのことがうまく回っていく。「失業」不安が多くの不真面目な人をそこそこちゃんと働く社会人に変身させたり、「中退」を忌避することで高校生活を自分で律していくことが可能になったりするのと同じ。多くの日本人は危機感駆動型なので、自分に上手に負荷をかけるとよい。
「留年したくない」と思えば、自ずと勉強や研究に意識が向く。「試験? ギリギリ通過でOKじゃん」なんて危険を冒す考え方とは、距離を置くことになるだろう。
留年すると、年収1年分などが消え、生涯収入が減る。これが大きい。入社1年目の収入はバカにできない。生活費は留年しなくたって必要になる出費だが、就職すれば住宅手当がつく。さらに「入社が1年早い=出世も1年早い」と仮定すると、定年は決まっているのだから、最も給料が高い1年分の収入が消えることに気付く。年金の支払い免除期間が伸びれば、将来の受取額が減る。現在割引価値で考えても小さな額ではない。
もちろん、収入が減るだけではなく、出費も増えることになる。まず授業料。私大なら80~200万円くらいにはなる。同じ科目なのに教科書の指定が変わって買い直しになったり、といったロスも地味に痛い。一人暮らしなら家賃の負担もある。
その他、就職活動で留年をプラスに転化するのは容易ではない。面接のポイントが少なくともひとつ明確になるという意味では、「対策しやすくなっていい」といえなくもないが。それでも生涯年収の期待値が2%程度は減るかも、という算段は成り立つのではないか。
以上の話を逆に読むと、学歴が利益につながらない世界へ進むなら、大学で時間を無駄にしない方がいい。早く仕事を始めた方が、生涯収入は増えることになる。
ともあれ「留年」は、もしその理由が単なる怠惰だとすれば、相当にコストが高い。しかしその多くが「生涯収入の減少」によるものなので、「ま、いいか」となりやすい。もったいない話だ。人生は長いが、しかし1年は1年だし、500万円は500万円である。
まじめにお勉強してる学生は就職に有利である、という「当たり前」のことが、きちんと書かれている本。個別の採用担当者にはいろいろな考え方があるだろうけれども、傾向としては、遊び呆けていた学生より、まじめに授業に出て、研究に打ち込んでいた学生の方が人気があることは間違いないと思う。
留年のコストを出費の方だけで見積もって「これならトントン」と判断して実行してしまった人は、就職活動の面接で話す予定の言い訳を見直した方がいい。留年を正当化するなら500万円分のコストを説明できているかどうか、「反省してます」なら状況認識の度合は適当かどうか、ぜひ再検討してほしい。
……なんて書いてみても、これを読む人の大半は高校生でも大学生でもないだろうし。ていうか、そもそも「充実した学生生活」なんて、どうせ大半の人には無理な話なんだ。できもしないことを目指して、当たり前のように失敗して、自己嫌悪に陥って。それで人生、楽しい? ハイ、といえる人はご自由に。私は降りる。
留年だって、したっていいんじゃないの。500万円くらいの損、どうってことないよ。現に大勢が留年してるわけでさ。それで人生が終るわけじゃない。だから本当の本当にひとつだけ、敢えていうなら、
これだね。意外と、死んじゃうんだよ。一番、身体が丈夫な時期のはずなのにさ。父の友人は、山で亡くなった。先輩の知人は、酒で亡くなった。祖父の弟は、南方戦線で散った。みんな、死にたくて山に行ったわけでも、酒を飲んだわけでも、出征したわけでもない。それなのに、二十歳前後で命を絶たれた。
誤解を恐れずに書けば、「いま自分は生きている」。何を気をつけてきたわけでもない。運がよかっただけ。そして、馬齢を重ねてさ、「俺がアドバイス? 無理だよ、そんなの」って困った顔をしながら新入生にお説教をする。小さな幸せ、だよね。
あ、ちなみに、【4.】は社員寮自治会主催の新入社員歓迎会に呼ばれたときに私が話してきたことの一部改変バージョン。私にお鉢が回ってくるのはいつも二次会なので、まあこれでいいと思う。立派なことは他の人が散々話してくれているし、1分もスピーチすれば長すぎるくらいでしょ。
3月2日、連立与党の来年度予算案が衆院本会議を通過し、年度内成立が確定した。一般会計総額92.3兆円、税収を国債の発行額が上回る計画。世論はこの予算案を支持しなかった。鳩山由紀夫内閣の支持率はガックリ落ち込み、とうとう不支持率が上回った。
安倍晋三内閣以降、これで4代続けて同じような展開が続いている。最初は一定の期待を集めるものの、半年前後ですっかり人気を失くす。その間、参院選、衆院選が1回ずつあったが、「民意」は政治家に伝わらなかったようだ。
すなふきんさんの疑問は、菅原琢『世論の曲解』を読めば氷解すると思う。
菅原さんは自民党の敗因にフォーカスしており、「有権者がどのような政策を期待しているのか」について歯切れの良い説明をしていない。けれども、求める答えは自民党が支持を失った理由から類推できて、それは即ち「構造改革」と「財政再建」である。
ここでいう「構造改革」とはイメージ語であって、小泉純一郎政権では「不良債権処理」が「構造改革」最大の成功例という説明だった。
また「財政再建」は、「今後10年以内に税収が支出を上回るようにする」というくらいの急戦論を指す。消費税増税に賛成している世論調査で過半数を占める人々が、概ねその支持層に重なりそう。
「青い鳥」は明確だ。財政を緊縮的に運営して、そのために必要な「改革」は何でもやっていくことだ。これには小泉政権の前半という前例がある。国民は新政権を熱狂的に迎えた。だがしかし、不況が深刻化するにつれ、支持率は次第に下がっていった。「青い鳥」政策を愚直に推進しても、未来はない。
小泉政権の後半は、「りそな銀行救済」「テイラー・溝口介入+量的緩和」といった金融政策で景気を持ち直し、支持率の低下を食い止めた。世論はこれらの金融政策に不満顔だったが、結果として生じた「不良債権処理」や、税収の持ち直しによる「プライマリー・バランス黒字化」の計画策定を好感したようだ。
そこそこ高い支持率を保った小泉政権の歩みを振り返るに、国民の期待に応える現実的な政権運営の道筋は明確なように思われる。具体的には、
以上の3項目だ。鳩山政権が「コンクリートから人へ」をテーマに予算編成をするのはよいが、予算の総額を増やさないための努力・工夫がもっと必要だった。財政による景気刺激に色気を出してはいけなかった。
衆議院で、最大野党の自民党は何をしていたのか。与党政治家の不祥事の追及に注力し、ついには審議拒否に至ったわけだ。的が外れている。先の政権党であり、前政権の麻生太郎内閣が財政刺激を志向したので、批判が難しかったのはわかる。しかしここで「自民党は変わった!」と宣言せずに政権奪還が可能だろうか。
予算案の「バラまき」を批判し続けた舛添要一参議院議員が「首相にふさわしい人物」として人気を集め、また政党別支持率でみんなの党の人気が高まったのは当然の話だと思う。とはいえ、有権者は冒険を避ける。新しい政党、小政党が、政策への共感だけで突然に大勢力を形成するとは考えにくい。
財政タカ派の与謝野馨さんが、大きな経済の落ち込みに直面して財政支出による景気刺激を企図した予算を組んだことは記憶に新しい。民主党も選挙前に主張した緊縮財政の逆をやってみせた。有権者が「政策」より「安心感」で投票先を選ぶのは道理だし、実際、みんなの党だっていざとなれば豹変するだろう。
いま「国民に支持される政策」を何が何でもやり抜く力のある政治家は見当たらない。人々の政治への不満は、当面、解消されないのではないか。
私は「有権者の多数派が支持する政策は正しい」とは考えていない。しかし失政ストッパーとして民主主義は必要であり、世論を無視した政治はありえない。小泉政権は、予算自体を減らさず、増税をせず、金融政策を(不十分なりとはいえ)頑張った。無茶をいう世論との付き合い方がうまかった。
少しわからないことがある。マスコミでは政治家の指導力指導力とうるさいが、「指導力」っていったい何なんだろうと最近思う。マスコミがイメージする指導力とはただ単に人気が高い政治家とかそんな感じだが、それがどう指導力と結びつくのかさっぱりわからない。
これは簡単な話。ようするに、いま国民は「政治の世界では国民の求める政策が実現されていない」と認識しているわけ。
マスコミも商売なので、消費者の見解を代弁しようと頑張っていると判断するのが妥当。ネット世論との意識のズレは、読者層、CMの対象層とネットで発言する層のズレによる。ネットで政治・経済に関心を持って発言している人はテレビニュースの視聴者より断然少ないので、ブロゴスフィアの多数意見の方が偏っている。
そういうわけだから、「指導力のある政治家」が「人気のある政治家」なのは当たり前の話だ。にもかかわらず、政治家が「指導力を発揮する」ことが難しいのは、世論の求める政策に賛成しない政治家が多いからだ。
どうして投票で選ばれたはずの政治家の少なからずが、世論を代弁しないのか。それは有権者自身が政策より政党・候補者への信頼感を重視して投票しているからだろう。つまり究極的には、有権者は政策を政治家の専門知に委ねている。だから有権者の怒りは、ある程度、抽象化して理解した方がよいのではないだろうか。
「政治や経済の詳しいことは、自分にはわからない。わからないが、方向性が間違っていないか?」と。端的には、将来への不安が増大するとき、有権者は政治家を批判する。
だいたい、この3つが大きな不安だと思う。まず大抵の政策は財政支出を伴うので、財政不安に結びつく。お金の流れがよく見える政策は、叩かれやすい。少子化対策の必要性は共有されているが、子ども手当てはダメで、仕事と子育ての両立を支援するさまざまな(個別の必要経費がよくわからない)施策が人気を集める。雇用対策も同じで、公共事業はNGで、有給休暇取得の義務化などが支持される。
おそらく、とくに財政支出に関して、政治家の「専門知」と国民の「不安」がぶつかりやすいのだと思う。政治家は、すぐに予算を増やす政策を口にする。それで助かるのは一部の人で、大多数は財政不安を募らせる。定額給付金への反発は、「不要」な給付の利益より、財政悪化の不安が勝った結果だ。それでもみんなが受け取ったのは、「どうせ政治家が浪費するなら自分でつかう方がマシ」と判断したためと考えれば納得がいく。
道路公団の民営化をはじめ、小泉純一郎政権の「官から民へ」が支持されたのは、それが「財政不安を解消する方向の政策」だと国民の目には映ったからだ、と私は考えている。
とはいえ、国民が飛びつく個々の施策を実施すること自体は、あまり意味がないと思う。小泉政権は、りそな救済や量的緩和をはじめ、とくに国民の支持のない政策をいろいろやった。そうして景気が底を脱したら、「不良債権処理を頑張った。エライ」なんて評価された。それは結果として実現できたことなんだけど……という反論はせず、素直に政権が進めてきた「構造改革」の成果として、誇ってみせた。
ともかく国民は、膠着状態や悪い雰囲気を突き抜けて、将来不安を縮減してほしいわけだ。しかし最終的に不安を解消できる政策も、短期的に不安をガツンと増大するのでは、国民の強烈な反発を喰らう。小泉さんは、世論の不安を刺激しない政策を選ぶ眼を持っていた。それで従来型の政策を打ち出す議員と喧嘩になった。
年金の持続可能性を上げる施策にせよ、雇用の確保にせよ、それ自体は誰もが賛成すること。小泉さんは結局、個別具体的な政策において「古い政策論」と戦っていたのではないか。そして国民は小泉さんを支持した。「不安」に支配された時代には、「不安」とうまくつきあう政策が必要とされている。
先月末、チリで大地震があり、1日かけて日本に1m程度の津波が押し寄せるという出来事があった。気象庁が最大3mの津波を予想して太平洋側を中心に各地に津波警報を出した。それで電車が止まったり、イベントが中止になったり、逆に「問題ない」と予定通りにイベントを開催して論議を巻き起こしたりした。
文筆業の坪田知己さんが、twitterで私怨じゃないけど、津波警報を金科玉条に電車を止めるJRはアホじゃないかと思う。危険度と乗客の生活、仕事のバランスを考えるべき。田舎だから許されると思っている野k、東京だと訴えられるよホントに。私のホテル代、返せーーーーーーっ!!
と呟いて、多くの批判を浴びたのだという。
私も九十九式の記事を読んだ段階では「みんながそんなことをいったら、防災も気象予報も成り立たないじゃないか」と素朴に思ったのだけれど、後日に坪田さんが補足された内容を読んで、少し印象は変わった。
JR四国は、高知県に津波警報が出てるので、運休にしたのでしょうが、高知から岡山は太平洋には面してなくて、瀬戸大橋もかなり高いところにあるのですから、津波の影響はないはず。それを止める判断はちょっとやりすぎと思いました。
なるほどね。たしかに瀬戸大橋の橋げたは海面から50m以上の高さの位置にあって、下界が津波に飲み込まれても電車が運行するのに不安はなさそうです。ちなみに高速バスは当然のように通常運行だったのだけれど、満員で乗れなかったのだそう。なんでこれで電車が止まるんだ、おかしいだろ、という気持ちはよくわかる。
もっとも、それでもJRが運行を止めた理由は想像できます。山手線のどこかで「線路への立ち入り」が起きると、環状線だから、一周の反対側でも電車が止まってしまう。
そしてじつは、電車というのは、環状線でなくとも、どこかで止まると、広範囲で麻痺しやすい。とくに田舎暮らしをしたことのある人は経験があるのではないかと思うけれど、電車で2時間弱の距離の場所で発生した問題のために電車が止まることは珍しくない。鉄道会社は限られた線路にたくさんの列車を同時に走らせているので、遠くで電車が止まると、連鎖的にその影響が波及していく。
坪田さんとしては、「瀬戸大橋だけピストン輸送してくれたらそれでよかったのに」ということかもしれないけれど、電車が高いところを走っているのは橋の上だけ。香川側の宇達駅、坂出駅も、岡山側の児島駅も海沿いの低地にある。香川県はたしか大丈夫だったけど、岡山県には警報が出ていたと記憶しているので、JRが運休したのは正しい判断だったと思う。いざというときの柔軟な対応力は、バスと電車ではかなり差がありそうなので。
個人的には、坪田さん叩きを見るのは「つらいな」という感覚がある。あの橋の上を走る電車を見たことがある人なら、「津波警報でアレが止まるの?」という疑問を持つ人がいることは、理解できるんじゃないか。共感や賛同までは求めていない。理解はできるでしょ、と。
私は、理解できた。できたから、怖いな、と思った。きっと私もこういう「間違い」をする。いや、今すぐピッタリの思い出話を引っ張ってくることはできないけれど、私も同じような「間違い」をして、全然、言い分を聞いてもらえないまま一方的に非難されて、悲しい思いをたくさんしてきたはずなんだ。
「たしかに、橋の上を走っている分には、電車は安全でしょうね」と、その一点だけでいいと思う。まず相手の言い分を聞ける人に、私はなりたい。
瀬戸大橋をタクシーで渡ると、いくらくらいになるのだろう。泊まった方が安かったりするのだろうか。
少なくとも80年代までは何かを買うために何かを諦めるということは無かったはずです。新しいものは高いから買えないだけで、いずれ安くなれば買えるしそう安くならなくとも給料の上昇が追いつくはず、でした。(中略)経済は20年前の1.5倍に成長しているはずなのに、なんでボクらはクルマ一台を買うのにためらわなくちゃいけないんだろう。誰かこの質問に答えてくれないだろうか。
先進各国に差をつけられている名目GDP成長率ではなく実質GDPではそれなりに成長していると思うんだが、なのに豊かになった実感が湧かないというのも大きな謎の一つではある。実質で考えるとはどういうことかというと、給料が上がらなくても同時に物価も上がっていないのだから理屈では生活水準は不変のはずということ。しかし、実際の経済心理を観察すると明らかに消費に消極的になり、将来に備えて生活防衛型の生活スタイルにシフトしている人が激増しているように感じる。これはどういうことだろうと改めて思う。
生産性が2倍になって労働時間が半分にならない3つの理由(2010-02-19)にも書いたことだけれども、生産性の上昇の大部分は「量」ではなく「質」の上昇で、しかもその「進歩」は不可逆である、ということなんじゃないかな。
「量」と「質」はちょっとうまく定義できないので、ニュアンスを好意的に汲み取っていただきたい。(……と、ここで「アホか。それじゃ意味ないだろ。こんな駄文、読む価値なし!」と判断された方は、それで結構)
いまインドから車を輸入して、そのまま走らせることが可能なら、タタの激安新車は日本でも大ヒットするのかもしれない(注:当然そのとき車検制度は大幅に簡略化・低コスト化されているはずである)。でも、それは「ありえない」。その安全性の低さなどがすぐに問題視され、こんなのはダメだ、となるだろう。
自動車の安全性向上は日本の消費者が望んだことだ。何度、仮定の話として安全基準を緩和した状態をスタートラインに設定しても、シミュレーションを続けていくと、必ず復活してくる。もっと安全基準を厳しくせよ、人命を軽んじるな、となる。
生活の質ということについて。80年代にはクーラーが普及していなかった。学校の教室にクーラーがきたのは90年代の話。中小企業の(基本的に来客のない)オフィスにクーラーがきっちり普及したのも90年代のことでしょう。21世紀になって、やっと町工場の作業現場などにもクーラーが入るようになってきた。
私の勤務先は大企業ですが、本社併設の屋内現場にクーラーが入ったのは、私が入社した後のこと。冬の暖房はないと死ぬから用意されていたけれど、夏は「耐えろ!」といわれた。夏の暑い日に汗水たらして仕事して、みんなで冷たい麦茶を飲んで休憩したのは、いい思い出。今の新入社員はあの「ああ、夏だなあ!」という体験ができなくてかわいそう……なんて話をしたら、「営業、いきたい?」って睨まれた。すみません。
まあ、金属加工なんて材料の温度管理をしっかりしなきゃ精度が出ないんだし、クーラーのおかげでパラメータ調整の手間が減ってよかった。というか、所詮、もう思い出になっちゃったから「楽しかったな」なんで、「明日から気温32度の現場で3ヶ月働け!」と命じられたら、「ウッ」となる。
パソコンの性能向上について。パソコン市場では、たびたび「売れ線価格」の再調整が行われてきた。しかし「価格性能比の向上が止まった」ことはない。市場は性能に満足していない。
登場した頃のネットブックではリッチな年賀状の作成は厳しかったが、これには消費者の不満が噴出した。結果、昨年発売のネットブックは、どれも基本的に年賀状作成に十分な性能を有していた。「量」の革新は「質」の革新と速度が違う。在庫処分ではなく新規生産で赤字にならない価格を設定すると、年賀状作成に対応するかしないかで価格差は1万円程度にしかならない。これは最新機種の在庫処分価格より高い。だからネットブックの性能は、下がらない。
ネットブックが登場し、ヒットしたことをもって、「パソコンの性能競走は終わった」と評するのは間違いだった。技術の進展によってWindowsXPが快適に動作するネットブックが実現されたから市場が立ち上がったのであって、安くて小さいだけではダメだったのだ。
一般家庭においてパソコンは「家族で共用するもの」だった。そういう価格の商品だった。ネットブックは「真に個人用のパソコン」であり、その性能の向上は、これから本格化するのである。
昨年後半には「ネットブックの大画面化」が進んだ。「えっ!?」という声が聞こえてきそうだが、じつはネットブックはあまりモバイルされていない。「自分の部屋」に置かれることが多いのだという。リビングから個室へ。そもそも大画面ノートは「使うときだけテーブルの上に出して使う」という形で普及しのだった。
いまネットブックの小ささに利便を感じておらず、「安いパソコンは画面が小さいのしかないのか、残念だ」と思っているユーザーがたくさんいる。ようは人々の収入が増えない以上、「個人専用パソコン」の価格には上限がある。その枠内で可能な性能の向上は、全て実現されていく。大画面化も、そのひとつ。
話を整理すると。まず、実質GDPの成長は「質」の向上が大半であって、実質GDPが1.5倍になっても、消費できる「量」は1.5倍にならない。20年前に1台180万円で製造販売できた車を、いま120万円で製造販売することはできず、例えば150万円くらいがギリギリのラインだ、ということ。
しかも、その150万円の車は、市場で全く競争力を持たない。なぜなら、現代の衝突安全性の基準を満たしておらず、燃費が悪く、乗り心地もよくない。減税も補助金も、当然、ない。これらの欠点は、30万円の価格差では正当化できない。とくに安全基準の問題は致命的だ。「安全」の向上は不可逆な「質」の変化である。
かくて、新規に製造された自動車の価格は下がらない。「20年前の性能でいいから、安くしろ」というのは無理な話で、(画期的な技術革新がない限り)そういう商品が日本市場に出てくることはない。
携帯電話、パソコン、インターネット、クーラーの一般家庭への普及は、この20年の間に起きた。一人暮らしの若者にまで、これらの商品やサービスは浸透した。個々の商品の「質」が向上し続け、自動車のように全く価格が下がらない商品が多い中、よくこれだけ新しい消費の対象を増やしてこれたものだと思う。
私たち(あえてこう書く)は、「1.5倍の経済成長」というとき、ついつい「量」が1.5倍になると考えてしまう。「質」の向上、とくに不可逆に生じる「質」の向上は、意識されにくい。
不可逆の「質」の向上というのは、以前より改善されているのに消費者が「これくらい当然」と思っている状態、と考えてほしい。消費者って、「願望」が実現されたら喜ぶけど、「不満」が解消されてもすまし顔。
90年代以降の閉塞感、それは、新しいもの、新しい生活を得るためにそれまで当たり前だったものを諦めなければならない、あるいはどちらを取るかのトレードオフを迫られているためではないか、と思うのです。
60年代の本を読むと、高度成長期にも「生活が苦しくなっている」という人が異様に多かったことに気付きます。どうやら「平均的な人は、年率2%くらいずつ生活水準が向上して、ようやく主観的には生活水準が横ばいと感じられる」らしい。「これくらい当然」の水準が、年率2%で上昇していくといってもいい。
ゆえに、実質2%程度の成長では、「何かを捨てないと新しいものを選択できない」となってしまう。本当は「質」の向上が続いているのに、「それくらい当然」だからカウントしてくれないんですね。実際には「失われた20年」の平均成長率は2%未満なので、「質」を我慢して「量」まで減った、と実感される。
まあ、こういう人の心のバイアスはどうにもならないと思うので、処方箋としては「実質2%超の成長を目指す」しかないんじゃないですか。もっとも、個人へのアドバイスとしては、自分の意識を変える方を勧めますけれども。
個人的には、ピンとこない話。
これは中杜さんの記事とは関係ない話かもしれないけれど、少し。
『クロノ・トリガー』で有名な光田康典さんは、作曲にとどまらず、しばしば音響監督のような仕事もされているらしい。『ソーマブリンガー』の Creator's Voice では「自然なセリフ送りをすると音楽とピッタリ合うように作った」という趣旨の発言をされています。『ワールド・デストラクション』のイベント演出も同様の配慮がされています。
それはそれでよいのですが、問題は、いずれの作品も、セリフ送りの速度に制限が付いているのです。ボタンを押したら1画面分がパッと表示される仕組みだったら、1秒に2~3画面分ずつドンドン読んでいけるのにな……と不便に感じることが多い。速読に対応してくれないわけ。
同様の不満を感じることが多いのが、ボイスつきのゲーム。せっかくボイスがあるのだから、ということで、セリフをパッと送らせてくれない。声優の演技に合わせてタイミングよくボタンを押させたいらしい。演出の意図にプレーヤーを付き合わせたいなら、セリフの自動送り機能を用意してくれたらいいのに、と思う。
『クロノ・トリガー』のサントラには、リメイク版に収録されたイベントムービー専用のアレンジバージョンが、みんな収録されています。編曲は光田さん。映像に合わせて、いちいち作り直したのだそう。光田さんは凝り性というか、何でも自分でやりたがる、ということがよくわかる。
それを歓迎する人も多いのでしょうが、私の感覚だと、そういう「こだわり」が、「製作者の考える理想的なゲーム体験の押し付け」を生んでいるように思える。そういうのって、ゲームと相性が悪いのではないか。シナリオ担当や音楽担当が、自分の理想を実現しようとすると、部分最適は達成してもゲーム体験は悪化するんじゃないか。
ニコニコ動画には、近年の曲の8bitアレンジとか、逆に古い曲のオーケストラアレンジ、あるいは音楽を変更したゲーム動画などがたくさんあります。それらを視聴してみた感想は、ゲーム音楽の要諦は「短時間でループする。しかし数時間も聞く」ということなんだな、と。
音楽的雰囲気だけなら、音楽を作成できるプロの人なら多くの人ができるでしょう。しかしゲームでは雰囲気にあわせて曲をその場に貼り付けるだけでは、不十分なのです。
たとえば、ゲームは多くの場合プレイヤーの進行スピードにあわせる必要があるので、ループをさせます。しかしそれはゲームの長さにあわせて適切な長さで、きわめて自然にしなければいけません。
1分程度でループすれば、よほど特殊なケース以外は合う、というのがド素人の感想。「きわめて自然に」なんていっても、そもそもプレーヤーの操作の方にイレギュラーが多すぎるので、ひとつの理想的なプレイを前提とした音楽というのは、むしろありえない。
『ソーマブリンガー』はアクションRPGなので、フィールドとバトルの切り替えがない。「だからフィールド曲をかなり長くした」という趣旨の発言を光田さんはされてます。でも個人的には、同じアクションRPGでも『聖剣伝説2』などの短時間でループするフィールド曲の方が印象深いし、不満も感じた覚えがない。
DSでリメイクされた『SaGa2』では、原作において容量の制約ゆえ非常に短時間でループしていた曲について、2ループ目をアレンジして2周単位で大ループするよう変更されています。が、プレーヤー的には、さして意義を感じない。新作ゲームに30秒ループの曲があると叩かれたりしますが、私には理由がわからない。
『ドラゴンクエストソード』の作曲について、担当の松前真奈美さんに、すぎやまこういちさんは「曲目を減らして、自然とメロディが記憶に残るように」と助言したという。1ループを適当に短くするのも、同じ理屈で推奨できます。懐かしのゲーム音楽といっても、思い出せるのは1分足らずの主旋律だけ。
ゲーム音楽の要諦は「短時間でループする。しかし数時間も聞く」……それ以上は考えすぎなんじゃないのか。作曲家はフォーマットを守って仕事をして、曲の使い方はディレクターに任せる、というくらいの方が、結果はいいのでは、なんて思う。
骨川家はお金を持っているから金持ちらしい生活をしていたのではなく、常にその状況で出来る限り最上質な生活を営もうとしている人達だったてコトなんですね。だから、たとえお金が無くなってもその中で出来るベストの生活スタイルを作り上げる。その為になら努力は惜しまない。
ちょっと骨川家を見る目が変わったなぁ。
小学館の藤子・F・不二雄 大全集を予約購読しているので、そのうちに原作も読めるのかな? と思っていたのだけれど、これはオリジナル作品なのだそう。これは見たかった。『ドラえもん』といえば少なくとも映画は東映だから、そのうちに公式配信があるかも……と思ったら、いまは東宝なのだそうで。とりあえずは諦めモード。(ちなみにアニメ製作はシンエイ動画)
ときどきこういう、「視聴習慣をつけておけばなあ……」という話題が出てくるのが『ドラえもん』のすごいところ。
「不可解」な描写のあった放送回について、スネ夫が裏山へ行く理由のあるストーリーだった、という説があります。本当かどうかを確かめたいのだけれども……。まあそりゃね、手間を惜しまなければ意外と簡単な話のような気はしますけど。
あるある。
上の話とも関係してると思う。ウェブ日記の話題なんて、書けるものから書けばいい……というのは当たり前の話なんですが、しばらく間があいてネタがたまってくると、自分の中で敷居が高くなっていく。いまさらこの話? みたいな。(ほとんどの)読者は気にしないだろうけれども、書き手のモチベーション的に。
ポリシーを持つのは悪いことではないとしても、「信条に反する」ことを気にして、やったほうがいいことを「できない」のは問題。
半月ほど更新を休んでましたが、いくつか下書きしてたこと、書きたいと思ってたことはあります。別に忙しかったわけじゃないんですよね。なんというか、優先順位の問題。過去の日付を、適当に埋めていくつもり。作家が雑誌や新聞に載せてる「日記」も、実際に書いてるのは締め切り直前だったりするでしょ。その内容を思いついたり考えたりしたのが、その日あたりだったなら、そんなに変な話でもないと思う。
ところで、東映はバンダイと並んで作品のネット配信に積極的な企業のひとつ。それでも最新作の配信には及び腰らしい。新作はレンタルDVDで視聴してほしいらしい。現在、第八巻(29~32話)まで。DVDのレンタル開始日は放送の約4ヵ月後となっており、完結は6月の予定。ネット配信はその後の適当な時期になりそう。
いまフジテレビでは土曜深夜に『24 シーズン7』を放送中。昨年の晩秋に放送が始まった頃の主なスポンサーは、ちょうどその頃にDVDレンタルを開始した『バーン・ノーティス』でした。ところが2月になると、日本テレビで『バーン・ノーティス』が放送開始。『24 シーズン7』のCMは『プリズン・ブレイク ファイナル』のDVDレンタルにチェンジ。
理由はわからないけれども、DVDレンタルの市場規模はネット配信とは桁違い、らしい。『プリズン・ブレイク ファイナル』なんて関東では2月の頭まで地上波で深夜放送されていたはずで、DVDレンタルの需要がそんなにあるというのが不思議。しかしともかく、10万人か20万人かわからないけれども、その程度の人数が1枚300円とか400円でDVDをレンタルしているから、『24 シーズン7』の無料放送が成り立っている。面白いな。
ていうか、深夜ドラマをみんなリアルタイムに視聴しているのかな。録画するのが当たり前になっていたら、DVDレンタルの需要ってどこから出てくるのだろう。
というのは、『24 シーズン7』って、レンタル用のDVDが完結する前に放送が始まっているんだよね。テレビ放送を見て「これは面白い! 続きが気になる!」と思ってレンタル屋さんへ行っても、途中までしかない。結局、放送開始から2ヶ月くらいでDVDは完結したと思うけれど、それだけ待てるならテレビ放送を待っても大差ないんじゃないかなあ。
あるいは。TBSの『LOST シーズン3』の放送が終了したから、半ばお布施のような感じで『LOST シーズン4』のDVDをレンタルしてもいいかな、なんて思っていたんだけど、そのまま次の週からシーズン4の放送が始まった。そんなバカな、と思ったね。アメリカでの本放送では半年の休止期間があったんだよ。
テレビ朝日の「ハリコレ」で放送されてた『ナンバーズ』の場合、テレビでシーズン1が放送されている途中でシーズン2のDVDレンタルがはじまったから、「なるほど」と思ったんだけど。
まあ、『LOST シーズン3』を見てると、シーズン1とシーズン2を視聴したくはなる。ずっと無関心だった『プリズン・ブレイク』も、今ひとつ魅力を感じないファイナルを見てると、評判のよかったシーズン1が気になる。でも、実際にはまだレンタルしてないんだよね。
私みたいに金と暇のある視聴者すら腰が重いのに、よく商売が成り立っているよな……と。
海外ドラマもけっこういろいろ見てきましたが、私の一押しは『Dr.HOUSE』かな。偏屈な名医が患者の病気の正体を突き止めていく。視聴者おいてけぼりの治療法を巡る専門的な議論に、セリフの多くが費やされる。そんなの何が面白いの? まあ、見ればわかりますって。日本市場では製作不可能な作品ではなかろうか。
日本のドラマも面白いですよ。海外ドラマが重厚に見えるのって、単純には画面に影が入り込むからじゃないか。人の顔にバッチリ陰影がつく。日本の職場は蛍光灯でピカピカに照らされているから、顔にも床にも影ができない。日本の素晴らしい労働環境と住環境が、ドラマの画面を薄っぺらくするのだと思う。『西部警察』だと夕日の差し込む部長室がカッコいいけど、あれはリアリティー無視だから成り立つ話であって。
『24』に登場するCTUもFBIも、部屋の端の方が暗く見える。廊下とか、驚きの暗さ。『CSI』や『BONES』を見ていても、あんな暗い部屋で試料観察をするなんて信じられない。登場人物が屋内で会話するシーンで顔アップになると、背景は黒く沈む。息が詰まらないか。
そういえば『相棒』の特命係の部屋って、いつも薄暗いですよね。おかしいのは、鑑識の米沢さんまで暗い部屋にいること。『臨場』でも主人公の職場は窓を光源にして画面に奥行きを出してたっけ。どれもこれも嘘っぱちでしょ。日本の現代ドラマも、だんだんアメリカ作品っぽい絵作りが増えてきたのかな。
日本人からしてみれば、日本より組合が強く労働時間も少なく休暇も多い欧州のような国々の方がよほど改革の余地があるんじゃないか?って素朴に思う。なのにかの地でそうした供給側の改革を喧伝するような気配があまり見られないんだけど、どうしてだろう。長期的成長のための割り当てとしてそうした改革が必要なことはおそらく理解してるだろう。しかし、金融危機後優先されてるのは明らかに需要側の政策だよね。
この話の前提として、日本では景気回復のために「将来の生産性を上げる」供給側の方策が主に議論され、目下の需要不足による失業増やデフレの進行による経済停滞に対して、素直に需要を増やそうとする方策に世論が冷淡だ、という状況認識があります(注:私の理解です/以降、繰り返しません)。
日本経済のマネーは増え続けていますが、その回転がゆっくりになる方が勝っているため、需要が縮小して供給が余り、物価が下がるデフレになっています。だったらもっとマネーを増やす速度を上げたらどうか、というのがひとつの考え方。もうひとつは、人々がお金を貯め込んで使わない理由を解消したらいいんじゃないか、という考え方です。
後者に与する人々は、企業の設備投資や家計の消費が弱気な理由を、「将来、生産力は頭打ちになる。しかし財政再建+少子高齢化への対応で、多大な出費が予想される。よって貯金に励もう」という考え方が蔓延しているため、と考えています。
将来不安こそが問題の根幹。しかし少子高齢化は、今からあらゆる政策を実施し、それが成功しても、人口ピラミッドが正常化するのは100年後の話。財政再建は景気回復なしに実現不可能。とすると、唯一「将来の生産力増大」を確信させる政策こそが、設備投資と消費を促進し、日本経済を需要不足から解放、復活させる役に立つものだ、というわけ。
ではどうして、このような議論が日本でだけ盛り上がっているのか? というのが、すなふきんさんの疑問です。
私の回答は、欧州も東アジアも北米も「将来の生産力増大」を疑う世論がない、いま需要が不足気味だとしても、それはあくまで短期的な要因なので、短期的な視点でなされる需要補給策でよいのである、そういうことなんじゃないですか。
すなふきんさんの記述に寄せて書くと、つまりこういうことです。欧州人はいま、のんびりしている。ということは逆に、将来の成長余地は十分にある。よって将来不安はない。そもそも財政赤字が日本ほど累積していないし、日本より少子高齢化の進展は緩やか。将来不安が原因で投資や消費が冷え込むとは考えにくい。東アジアや北米も、そのあたりは同様です。
逆に日本はというと、「死ぬほど働いているのにこんな給料? 絶望した!」という感じ。欧州よりよっぽどあくせく働いているつもりだからこそ、自分たちが将来、もっと多くを生産できるようになるとは、とても考えられない。それでいて財政と年金の破綻は目前に迫っている(と国民が考えている)。これで投資や消費が活発になるわけがない。厳しい時代を生き抜くため、お金を貯めておきたい、と考えるのは道理です。
私自身は「まずマネー供給を増やすべき」派です。というか、長期的な生産力向上のための施策の必要性は否定しない。大いに進めればいい。けれども、そちらは金融政策以上に様々な意見が飛び交っている状況。政策を具体化するだけでも年単位の時間がかかりそう。
デフレの害、とくに失業は放置できない。優先順位としては、より短期的に効きそうな政策を、やれるところまでやるべき。私は、通貨発行益による国債の償還がよいと思う。「企業の設備投資や家計の消費が増進してデフレが解消されるまで」満期がきた国債を黙々と償還していく。必要な法改正は、やるべき。
日本にとって明白な解決手段は、単に巨額の債務をマネタイズすることだ。これは一石二鳥どころではなく、一石で雁の群れ全部を殺すようなものだ。考えてみると、紙幣の印刷には以下の効果がある。
- 期待インフレ率を高め、実質金利を下げる。
- 円を弱める。
- ドル建て資産を保有し、負債が円建ての金融機関のバランスシートを改善する。
- 日本の純輸出を改善する。
- 日本が将来返済すべき債務の額を減らす。
将来不安を縮小しつつマネー供給を拡大する、一挙両得の方法だと思う。けれども、これはあくまで金融政策として実施するのがポイントながら、「デフレを脱した後に通貨発行益が財源化して大変なインフレに至るのでは?」という懸念の声が強くて実現は難しいらしい。
個人的に、べつやくメソッド自体は、実践したいと思わない。多分、私がやっても、面白くならない。ただ、手書きの円グラフの見た目には心を射抜かれるものがあり、会社の資料に一度でいいから使ってみたいと思っていた。最近、ようやく機会に恵まれて、資料の中休みのページに入れることができた。大満足。
具体的には、別ページの円グラフを手書き風にリメイク→淡色に加工→サイズを拡大→スライドの背景に張り込む、という手順。ふつうにスルーされたわけだが、食いつかれても困るところではある。
「円グラフ作成君」は見事にべつやくれいさんの円グラフを再現できるのだけれど、中心角に合わせて文字配置を整えるのには、かなりの手間がかかる。覚悟はしていたものの、資料の中で一番、図版の作成に時間がかかった……。まあ、この円グラフの部分だけは昼休みに作ったので、誰からも文句は出ないと思うが。
リンク先とはあまり関係ないのだけれど、超有名企業の方のプレゼンでも、パワーポイントの資料のデザインは、たいてい素朴。「office 98」っぽい感じのが意外と多い。別にそれで誰も困らないわけで、じゃあ書店にたくさん売られてる「きれいな資料の作り方」解説本って誰が買っているのかなあ、と。
数年前までは月に1~2回のペースでパワーポイントの資料を作成していて、そうなるとパワポが好きになって、パワポで作る必要のないものまでパワポ任せにしていたりした。「何でもエクセル」というのも同じような感覚なんだろうな、と思う。いまは「何でもワード」です。ソフトウェアの使い分けをしたくない。理由はわからないけど……。
そういえば九十九式オフで「やってみた系のテキストサイトっぽいネタは、全部デイリーポータルZが持っていった」という話を、ちょっとだけしたのを思い出した。
昔、やってみた系のテキストサイトは一大ジャンルをなして人気を集めていたのだけれど、サイトがなかなか続かない。やっぱり更新の負荷が大きなジャンルは、書き手同士のつながりがないと継続が厳しいんじゃないか、と思っていたんです。DPZには、ぜひ続いてほしいと願っています。
(問)中長期的にみたマクロの需給バランスの重要性について話されていますが、デフレの構造要因、そしてそれを克服するために総裁が重要とお考えになっていることを改めて教えて下さい。
(答)やや比喩的に答えると、デフレは経済の体温が低下した状態です。より根源的な問題がデフレというかたちで症状として現れているといえます。従って、その克服のためには、基調的に体温を上げていくための体質改善あるいは治療が必要だと考えています。生産性の向上に地道に取り組むことによって、趨勢的な成長期待を高めていくことが大事だと思っています。将来にわたって所得が増えていくという期待が生まれてきて初めて、本格的に物価が上昇していくと思います。生産性の向上は、現在日本経済が直面している最も大きな問題だと思っています。生産性の向上自体がわが国経済にとって不可欠であるとともに、デフレの克服のために大事な課題であると考えています。
私は「日本銀行は現下のデフレに対し十分な対策を行っていない」と考えていて、過去に幾度も批判的な記事を書いてきたつもりです。大規模かつ継続的な金融緩和によるデフレ脱却を求めている点で、arnさんやすなふきんさんと意見の相違はないと思う。
が、白川方明さんの発言を「嘘」という言い方で単純に否定することには、賛成しません。おそらくそのような否定の仕方をすればするほど、むしろ日銀の主張に共感する人を説得することは困難になっていくでしょう。いや、そんな説得は不要だ、という意見もあります。しかし私は、この壁を乗り越えなければ、リフレは実現できないと思っています。
バブル崩壊後、マネーサプライは増加を続けてきました。デフレ下でも、伸び率が低下しただけで、日本円は増え続けているのです。なぜ日本人や日本の企業は、お金を消費や投資に十分回さず、貯蓄に励むのか? 様々なアンケートから、その答えは「将来に不安があるから」だとわかります。
そして白川さんは、将来不安の根本原因を「未来の収支悪化を予測しているため」と考えています。生産性が上がらなければ収入は横ばい、しかし少子高齢化が進んで老人比率が増大する。政府の借金もいつか返済しなきゃならないだろう。これでは、みんなが貯金に励むのも当然だ、というわけです。
arnさんらは、「いま、日本の生産力には余裕があって、需要さえあれば、もっと収入を増やせる」ことを指摘しています。私も同意します。生産力が余っているから、デフレになってしまう、不況になってしまう、それこそが人々の元気を奪っているんだ。だから、まず需給ギャップを埋めて、デフレを解消しよう、仕事をしたいのに職がない人に仕事を与えよう、そうすればみんな自信を回復するだろう。……しかしながら。
いま生産力に余裕があること自体は、現実問題として、将来不安の解消に役立っていない。それもまた事実ではあるわけでしょう。
あるいは。白川さんは長期的な生産性の上昇を実現する施策の必要性を説いているのであって、現下の生産性がポンと上がる場合について話しているのではない。
つまり何をいいたいのかというと、短期的に供給側ばかりが増強されたら、なるほどデフレギャップは拡大するのだけれども、いま話題になっているような施策は、いずれも10年単位で効いてきそうなもの。だからここで白川さんを「嘘つき」呼ばわりするのは、違うんじゃないか。
たしかに白川さんは、今すぐ実行可能な金融政策を、「副作用」を理由にやらない。目の前にある大量の失業、たいへんな需要不足に対して、いっそうの金融緩和を躊躇するというなら、もっと精緻にその「副作用」の見積もりを示すべきだと思う。いまの説明では納得できない。許せないと思う。
が、しかし、白川さんが将来の成長戦略を云々する動機は、やっぱりわからないわけだし、百歩譲って「無策の言い訳、逃げ口上」だと決め付けるとしても、「逃げ口上だからその内容まで全否定してよい」でしょうか。私は、白川さんの説明にも一理はあると思う。
だからその理屈は認めたうえで、長期的な解決策と同時に、短期的な対処についても、いっそう手を尽くすべきではないですか、と。最近、とある知人にようやくこうして話をきちんと聞いてもらうことに成功したので、ちょっと書いてみました。
繰り返し出てくる、この話題。
生産性が2%/年向上すると、理屈では36年後には現在と同等の材やサービスを半数の労働者で生産でき、その半分は賃金、残りを失業手当に回せます。以後も失業率は漸増しますが生活水準は一定。
主要先進国では年平均2%弱の生産性上昇が続いてる。それに応じて需要をきちんと増やしてきた国では、直近20年で国民1人当たり実質1.5倍程度の経済成長を実現してる。とすれば、もし生活水準を固定すれば、国民の総労働時間は20年前と比較して3割は減らせるはず!?
……といった考え方が現実と整合しない理由は、主に3つあると思う。
「かつての高級リンゴの味は、現在の普及帯のリンゴの味にも及ばない」「鶏卵にサルモネラ菌が付着している確率が、この半世紀で100分の1になった」といった「質」の向上が起きても、私たちが飢えないために食べる必要がある「量」は全く変わらない。
100円ショップなどが物価の岩盤をかなり崩したとはいえ、「量」の革新にはなお壁があり、最低限の生活に必要な費用はあまり下がらない。畜産物や加工食品の品質保証水準の向上には、目覚しいものがありますが、こうした目に見えにくい「質」の改善は意識されず、生産性の上昇を実感できない人が多いのかもしれない。
それからやっぱり、保険診療の水準が現状維持で固定されたとき、海外の医学の進歩が羨ましくなるのは必定。「今後、低コスト化と省力化につながらない医療の進歩は認めない。いま助からない人は、もう諦めなさい」という話に諸手を上げて賛同する人は珍しいと思う。死んでたまるか、ふざけるな、と思うよ、きっと。
定常社会論を形而上的に支持する人は多いけれど、具体的に考えて、それでも賛成するという人は、私の周囲では見かけたことがない。
あらすじ:私ははてなブックマークを日記のネタ帳にしているのだけれども、年に数回、記事にならなかったネタをバッサリ整理しています。もったいない、ネタをそのまま出すのも有意義だよ、という意見をいただくも、私は納得できない。まず面倒くさいし、「よくない」記事を補足説明なしで紹介するのも嫌だ、と。
何か話が變なんだけれども? 徳保さんの「ネタ」連發と、Kirokuroなんかの嫌がらせと、何が同じだと言ふのだらう。
例のネタ出し記事は、ネタ帳から消すことにしたネット上の文章の一部をご紹介します
とある通り、とくに選んで紹介したものです。賛同できない内容の記事も多いけれど、これくらいなら「補足説明なしでリンクできる」と判断した記事だけを残したのです。この選別にはけっこう手間がかかり、「ネタ出し記事は2010年1月版限りにしよう」と思った理由のひとつとなっています。
野嵜さんのレスポンスは全部で8,000字くらいあって、さまざまな問題提起がなされています。大きな論点はひとつだと思うけれど……。じつのところ、私の方にはとくに考えがない。ネタ出しには意義があるといわれても、実際問題、身体が動かない。記事に書いたようなことは、「なぜ身体が動かないのか?」という疑問に対して、思いついたことを書き並べただけで、肝心なところが抜けているかもしれない。
斯うした「社會的影響」を問題にする場合、「惡い影響を及ぼす可能性がある」と云ふ「可能性」を根據に「すべきでない」とする意見は多い。が、徳保さんは、その邊の「理論」の微妙さを解つてゐるので、理性的には何うしやうもないから、「嫌」と云ふ感情的な理由を示してゐるのだと思ふ。
「嫌」といえば、無言で紹介すると「消極的に支持している」と誤解されやすいのも、「よくない」記事をリンクだけで紹介したくない理由のひとつかな。よく読んでいる日記なら、紹介する側の意図を、少なくとも極端な事例では判別できます。でも、たまにしか目にしない日記、初めて見る日記の場合、書き手のふだんの主張を知らないので、どういうつもりでリンクしているのかわからない。
わからなければ無色透明になるかというと、そんなことはないです。私はアクセス解析をちょくちょく見るのですが、個人ニュースサイトとか、ほとんどコメントなしでリンクだけされるでしょう。ふつう、そういうのは消極的支持と考えると思うんですね。無言・タグなしのソーシャルブックマークや、twitterでのURIだけの紹介だってそうです。個別の事情はわからないけれども、平均すれば、不支持や中立より支持に近いとみる。
何でもかんでも「あれはあれ、これはこれ」といったら言葉を操ることもできなくなる。私自身、よくわからない無言でのリンクは消極的であれ支持とみなしており、自分が無言でリンクした場合も同様に見られると想像できます。実際、ただリンクしただけなのに、リンク先と一緒に批判されたことはありますし。
そんなに「誤解が嫌」なら日記なんか公開しなければいい、というのは話を単純化しすぎ。日記の公開には一定の精神的充足が伴う。だから日記は公開したい。けれども、ひどい誤解をされまくったら、そのコストがメリットを上回ってしまう。したがって、誤解を招かないよう配慮しながら日記を書くのがベストなんです。
もちろん、あんまり気にしすぎたら、何も書けなくなる。日記を書く面倒が一線を超えてしまう。そのあたりは試行錯誤ですね。ただ、「よくない」記事をコメントなしでリンクするのは、経験的にNGです。リンクしても(少なくとも私は)面白くないし、賛同していると誤解される確率も高い。いいことがないです。
徳保さんの何時もの記事、いらいらしてゐるやうには全然見えない。「問題」を、パズルを解くやうな感じで、淡々と解いて見せてゐるやうな印象がある。だから「何でこんな問題を採上げてゐるの?」と、私は屡々不思議に思つてゐた。
私にとって印象深いのが、「イライラして書いた」記事なんでしょうね。記事の一覧を眺めてみると、「ふと思いついたことを書き始めたら、何となくいいたいことがまとまった」という、淡々と書き始めてそのまま書き終わった記事の方が、たしかに多い。
個人的な興味関心をいえば、「日銀は許せん」というのが本当に大きいんだけれども、同じことを何度も書くだけにしかならず、その話題で「記事を書く」のは飽き飽きしてます。何回でも同じことを書くのは悪いことじゃない。実際、それで大勢の読者の支持を集めている日記は数多い。でも私は「面倒くさい」「もう飽きた」に負けてしまう。それで、関心の順位が低い話題が記事になることが多い。
結果的に「いつもの話」になっているケースが大半だとしても、とにかく書き上げてしまえば、もう「面倒くさい病」はうるさいことをいいません。あ、記事をブログツールにコピペして、タイトルを考えて投稿するという作業が残っていたか……。ここで挫折することも多い。
私にしてみれば、さうさう問題は簡單に片附かないものであつて、となれば、そもそもの「問題がある」程度の事を言立てるくらゐの事でもしておけば、それで無名の人間の出來る精一杯の事だらうと思つてゐる。そして人は、自分に出來る事を、精一杯やつてゐれば良いのだ。常連さんが解つて呉れればそれは有難い事だし、わからない人が出て來るのは仕方がない。
その通りだなぁ、と思うのだけれど、たぶん行動は伴わない。最近は日銀の話題なんかネタ帳への登録すらしていない。ブックマークレットひとつポンとやるだけなのに。いちばん気になってる話題すら「あー面倒だ、もう知らん」状態。この「やる気のなさ」にあれこれ説明をつけても、あまり意味ないかもしれない。
単純にネタ帳をバサバサ整理するのには「物を壊す楽しさ」があって、それでザクザク消しているのかもしれない。よくわからない。