趣味Web 小説 2005-02-27

価値相対主義と損得勘定とでは階層が異なる

私の主張の根幹は、事実から当為は導かれません。事実と当為の間をつなぐのは価値観であって、価値観は多様でありますから、事実の否定から当然に当為を否定することは不可能です。の部分。つまり、小林よしのりさんの主張を否定するに際して、枝葉の具体的事例を潰しても、「論破」したことにはならない、と。結論として小林さんの意見に賛成するかどうかは、まったくそれとは別問題。どんな理由でもって否定するのか、その道筋の是非を問うているのです。

価値観は多様 であることを前提にすると、全ては相対的にしか捉えられない。 私はこの立場に反対します。 というよりも相対的に考えるなら、小林よしのりさんの反米保守には賛成出来ないはずです。 軍事力ではるかにアメリカが勝っている。 これを敵に回すことは、デメリットの方が大きい。

価値相対主義を勘違いされてませんか?

「損得で考える=価値相対主義」ではありません。例えていえば、「死んでも守るべき価値観がある」と「死んだら何にもならない」という意見について、絶対的な優劣はつけられない、という考え方が価値相対主義です。そして(一例を挙げるならば)「生きること」を至上の価値観と規定し、すべての価値観を「いきること」を基準とする序列の中に位置づけるのが価値絶対主義。

小林さんは、多分、価値絶対主義なのだろうと思います。その点で、私とは決定的に立場が異なります。私は「公」を基準とした価値判断をしてもしなくてもいいと思っています。どっちが絶対に正しいということも無い、と。私は私の価値観にしたがって判断しますが、それは私の話。

私自身の選択は本筋と関係ないので、以下は余談ですけれども。

小林さんの意見はよく勘違いされていますが、現状そのままにアメリカに反旗を翻せとは主張していません(最近の意見は知りませんが3年くらい前はそんなことはいってなかった)。今どうするかという政策論では、対米追従が正解になるということは認めています。批判しているのは「アメリカの主張が正しい」から「アメリカ側につく」という意見。「本来ならアメリカに対抗すべきだが、現状では力及ばないので、亡国の道を避けるためにやむなくアメリカ側につく他ない、将来は正しいと思うことを正しいと主張できるようになるために、力を蓄える必要がある」……大筋、こういうことだったと思う。

産経新聞は大量破壊兵器が見つからなくてもフセイン政権の圧制を終らせたイラク戦争は正しかったと社説に書く。曽野綾子さんは同紙上でこうした主張を批判していて、私は曽野さんの意見に賛成。ただ、政策論では対米追従しか手がないとなると、首相がアメリカの正義を支持するのも理解できます。「アメリカの主張はおかしいが、国を守るためには他に手がないので、イラクへ行ってください」と自衛隊員や外務省職員にいうのは残酷だと思うので。

追記(2005-02-27)

現在蔓延しつつある価値相対主義の考え方を延長していけば、価値観というのは個人の数だけあることになり、個人の数だけある価値観というものは何ら社会に共有されるところの無い、社会にとって無意味なものになってしまう。そこには社会と個人を結びつけるものがなくなってしまい、やがて社会は解体してしまう。

そのような各個人に細分化されたバラバラの価値観の上に、1つの社会が構成され秩序が維持されるという考え方は、全く論理的整合性を欠いているにもかかわらず、その矛盾を巧妙に隠すことに成功した、ある種の狂信である。

わかってないなあ、と思う。1つの社会が構成され秩序が維持されることに興味がないから、個人を基準にしているのです。結局、世の中は多数派が動かす。個々人がバラバラの価値観を有していても、個々の問題について対処策のバリエーションは限られていて、多数派と少数派が自動的に成立します。そして、多数派の意見が通っていく。

数は力なり、少数派に決定的な対抗策はありません。せいぜい、多数派が今、この問題において多数派であるに過ぎず、別の問題については少数派に回る可能性があるのだよ、という「現実」を指摘するくらいのことしかできないでしょう。とはいえ、世の中には多数派体質の人がじつに多い。彼らはほとんどのケースで多数派の側に立つ。だから、自分の判断はいつだって常識的なんだと勘違いする。こうなると悲惨で、自分が少数派になる(=非常識とされる)ことがあるなんて思いもしないから、苛烈な糾弾をはじめます。

とにかく、秩序は何も心配しないでも勝手に発生します。人間の思考に限界がある以上、まず間違いなくそうなるといってもいい。だから社会は解体しません。少なくとも1年2年という単位で解体することはないはずです。こうして高をくくった上で、私は「秩序の維持なんて知ったことか」というわけです。ガッチリと秩序が構成される必要は全然ない。結果的に多数派によって秩序が作られるが、少数派は常に存在してうるさく異論を唱える、というくらいでよいのではないかと。

追記 その2(2005-02-27)

基本的な立場は明確にされた方が良い。 革新なら革新として主張するように心掛ける方が まだましです。 自分の思想を隠して ── 客観者を装って他人の思想を批判することは勧められません。 それから小林さんの主張を価値観であるとするのは、小林さんに失礼です。 個人の評価判断ではなく、普遍性のある正しい主張だと考えているから小林さんは反論される。 そうでなければ、人のことなど知ったことではないで済むはずです。

失礼であれ何であれ、私は価値絶対主義を支持しないので、小林さんの主張は小林さん個人の価値観に基づくものだという他ない。また、「個人のことに他人が口を挿むべきでない」というのもひとつの考え方に過ぎず、これも私は賛同しません。価値観の布教は人間の権利だと思っています。言論の自由ってやつ。

そして基本的な立場ですが、何度も書いている通り、私はふらふらしているので、これが基本だといえるのは価値相対主義くらいしかありません。なぜそうなのかといえば、私はどうしても考えがよく変るからです。一貫したくたって、できないんだから仕方ない。考えが日々変っているのに、過去の言動に縛られていては今日を生きにくい。昨日思った通りに昨日を生き、今日思った通りに今日を生き、明日思った通りに明日を生きる。私にはそういった生き方しかできない。

価値観は「評価」ですから通常は相対的です。 したがって経済活動(損得)と同じ範疇です。

これはおかしい。だって、経済活動なら「損」の道は選ばない絶対則があるでしょう。これに対して価値観の「評価」では、「損」を選ぶことも許されますから。「利益」を何一つ説明できなくても、確実な「損」を直感優先で選ぶ「評価」は可能だし、それはよくあることではありませんか? 損得を基準にする、というのは価値観のひとつに過ぎないから、経済活動は価値相対主義とはレイヤーが違うと書いたのです。

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