趣味Web 小説 2006-01-31

少女単体「ロミオとジュリエット」の備忘録

0.前口上

私は「芸術」のわからない人間です。小学校6年間、絵画教室に通い、中高では美術部に在籍しました。高校では文藝部にもハマりました。芸術に、人一倍、興味はあったのです。しかしついに一度も芸術の狂気に触れることもなく、名作・傑作と名高い作品に接しても、俗なレベルで薄っぺらな「感動」をするばかりで、電撃に打たれるような感覚はついぞ味わったことがない。つまらない、小市民に過ぎません。

いま世界の片隅に、「少女単体」という芸術ユニットがあります。中心人物である苅谷文の強烈な個性に依拠したプロジェクトで、現代日本の前衛芸術のひとつの形として、某方面で話題沸騰中だといいます。本日、私は少女単体の第4公演「ロミオとジュリエット」を鑑賞しました。Folio 編集長サイキカツミのもとへ届いた招待状に誘われ、Folio スタッフとして招待客を演じることとなったのです。

この度、「少女単体」は、第4回公演を行うことにまりました。つきましては、Folioスタッフ・ライターの皆様を、ぜひご招待させて頂きたく、ご案内申し上げます。Folioのスタッフ様であれば、どなたでもご招待させて頂きますので、皆様によろしくお伝え頂ければ嬉しく思います。

本来であれば、様々な芸術に造詣の深いサイキあるいはもっと有能なスタッフが参加して、きちんとした劇評を行うべきなのでしょうが、たいへん申し訳ないことに、今回はとうとうサイキが多忙のため不参加となり、恐れ多くも私ひとりが参加することとなってしまいました。以下は、ちっぽけな価値観にとらわれた人間が、少女単体の仕掛けに困惑し、サッパリわからないが故に神聖視してきた「芸術」について、短い時間ながらじっと対峙した体験の記録です。荒れ気味の内容なので、Folio の公式レポートとすることは(少なくともとりあえずは)控えることとし、私ひとりの責任で、ここに公開します。

注:諸事情により○ミ○さんの名を伏せました(2006-02-03)

1.序

「ロミオとジュリエット」とはどのような作品か?

端的にいえば、ドキュメンタリーを演技の集積として捉え、ウソ=創作として再構成するというものです。主な登場人物はジュリエット(苅谷文・少女単体)とロミオ(○ミ○)、ジュリエットの先輩、友人、そして観客。主役二人の出会いから公演当日までの1年間余りの生活をカメラで追い続け、日々の生活を劇場の舞台とする試みであり、必然的に作品の大部分は映像で構成されます。

会場は、小田急小田原線下北沢駅前の北沢タウンホールでした。こじんまりとした場所を想像していただけに、外見からしてたいへん立派なホールに驚かされました。霧雨が降り、肌寒い午後7時に開演。私が見渡したところ、約40人が集まったようでした。男女比は3:1といったところでしょうか。スタッフは男女半々なのに客は男性中心。これは、何となく予想していた通り。

会場はスッキリと片付けられ、中心に何かが置かれていました。その周囲が空き地になっており、空き地の外郭にはテープが張られて、内部には道路のように縦横にテープが走っているのが見えました。椅子は後方に積み上げられており、大半の客は空き地の周囲の床に腰を下ろしていました。私は板張りの床に座る趣味を持っていないので、椅子をひとつとり、後方からスクリーンを眺めることにしました。

会場内の配置

そして静かに、開幕。

2.第1幕

じつは今回も私は例によって道に迷って10分ほど遅刻したので、以下の数行は聞いた話です。

冒頭、スクリーンに浮かび上がったのは粒子の粗い映像。携帯電話のテレビ電話機能で中継されている。場所はすっかり日も落ちて暗くなった住宅街、苅谷文がどこかのアパートの扉の前に立っている。中の男性と苅谷が押し問答をしているが、よく聞こえない。そして、よくわからないまま、途切れる。

用意された映像に切り替わる。第1幕、開幕。

(おそらくこのあたりで私が入場/ただし録音などはしていないので、以下は全て私のあやふやな記憶に基づきます)

2005年春、街頭でジュリエットと口論するロミオの顔アップ(おそらくジュリエット目線の映像で、それゆえジュリエットの姿は画面に映らない)。「もうダメだ、続けられない」とロミオはいう。ジュリエットはロミオをじっと見つめ、マシンガンのように言葉を繰り出す。弱音を吐き続けるロミオ、逃がすまいと食い下がるジュリエット。

場面変わって舞台は2004年12月……苅谷が○ミ○に作品の構想を語る(隠しカメラの映像?)。つらい作業になることを強調する苅谷、いや大丈夫だ、と楽観的な○ミ○。「じゃあ引き受けてくれるんですか?」不安げに訊ねる苅谷に、○ミ○は気安く請け負う。「やった! 絶対無理だと思ったのに!」カメラの前ではしゃぎ、画面外のスタッフ(?)に満面の笑顔を振りまく苅谷。彼女はこうしてジュリエットとなり、○ミ○はロミオとなった。

喫茶店(?)で語り合う二人。ロミオが「おれ所帯持ちなんだ」という。「えっ! 見えな~い」とジュリエット。「もうすぐ子どもが生まれるんだ」「おめでとう~」

再び街頭で口論するロミオとジュリエット。じつはこの第1幕の映像はことこさんが詳細なレポートを公開している2005年5月17日のシークレット・ライブで公開されたものと途中まではほぼ同内容だったと思われますので、以下、引用します。

場面は、どこかの地下鉄の駅。T田くんが、なにやら言っています。いわく、もう辞めたい。それに対して、カメラを回しているらしき苅谷の声で「なんで?逃げるの?」云々。画面切り替わりまして、二人の出会い。また切り替わって、辞める云々でもめる二人。もう帰るからついてくんな!byT田くん 追う苅谷。「逃げるのかー!ばかー!もう知らない!!」また画面切り替わって、二人が初めて共演しようと決めたらしき時の画像。そこでなんとT田くんえらいことを言ってました。

「自分は絶対に逃げない」「(稽古は稽古というよりも9割喧嘩になると思うと言われて)望むところです」「自分も逃げられたことがあるんで、そういうことだけはしません」

なんか、こう、鬼の首をとられちゃいましたーっていう感じたっぷりの編集です。で、また画面切り替わって、やめたい云々の押し問答。

「絶対に逃げないって言ったじゃん!うそつき!」「それは、結婚する時に「末永く幸せにします」って言ってても離婚しちゃうようなもんだろ?」「全然ちがうよ」だらだらだらだら。

そこからまた切り替わって、うまくやっていた頃の二人。幸せそうに寄り添っちゃったりなんかしています。「私のこと、好き?」「そりゃ、好き?って聞かれたらそう答えざるをえないでしょう」ひゃ、ひゃーーー!なにその会話ーーーー!私いま、何みせられてるのーーーーー!!

暗転。口論の場面。そして決裂する交渉、ロミオがジュリエットを捨てたことが語られる。優柔不断で強引さに欠けるロミオは、ジュリエットを拒否しつつも暴力的な行為には訴えることができない。「会わない」という消極的な拒絶の態度と、メールによる意思表明が続く。

3.第2幕

諦めきれないジュリエット、何とか喫茶店にロミオを呼び出すことに成功する。

場面変わってビル地下のライブホールのような空間。机を並べ、折鶴をつくる怪しい人々。2005年5月17日……そう、ことこさんが参加したシークレットライブ会場。ライブの目的は、ジュリエットの前で硬い表情を見せ続けるロミオを笑顔にすること、二人の関係を修復し、再び作品の製作を再開すること。しかし喫茶店での議論は、街頭での口論と同じ展開になり、事態は膠着。「行こうか」と立ち上がるジュリエット。

喫茶店の入り口、出てくる二人。カメラに気付くロミオ、顔が引きつる。ジュリエットとスタッフがロミオの腕をがっしりとつかみ、地下へ通じる階段へ引きずり込んでいく。

観客の前へ引き立てられ、コの字型に並んだ机の真ん中に用意された席へ座らされるロミオ。ジュリエットが寄り添う。そして VTR スタート。喫茶店でのやり取りが全て中継されていたことを、ロミオは知る。観客はみなジュリエットの味方らしく、みな口々にロミオを批判する。再びことこさんのレポートを引用。

映像の内容は若干違っているかもしれませんが、まあ大体こんな感じでした。

「辞めたいと主張するこわばった顔のT田くん」⇔「始めた当初や、うまくいってた頃の明るい顔のT田くん」というコントラストは見事でした。ひでー。すごい見世物みせられてしまった。

つまりは、T田くんは、苅谷に個人的な感情を持ってしまったんでしょうね。そして何かがあって、どこまでが作品なんだか、どこまでがリアルなんだか、全部が虚構だったんだか、信用できなくなった、と。で、それに対して苅谷は言い放つわけですよ。

「カメラがまわっている時の私は常にオンの状態だ」と。「個人的感情なんてどうだっていいんだよ。作品が走り出した以上は、走りきれって言ってるの」

で、もう、完全な平行線。個人的感情だろうがなんだろうが、とにかく辞めたい、もうやってらんない、という意志を曲げないT田くんと、何がなんでも辞めさせないという苅谷と。

で、来ている客にむかって、今までをふまえて、ドタキャンに対してどう思うか、とか一人づつ言わせ始めたりなんだりかんだり。(ドタキャンはいけないと思いマースという意見が数人から出て、どひゃーってひっくり返りそうになりました)

心情的に、T田くんの気持ちはよくわかります。当たり前だーにゃ。

ほいでもって、苅谷の主張は「わかっててやってきてるんだよ」に尽きる。何せ映像の途中に「もー私つらい」「何もかも懺悔したい」とかなんとか、携帯にむかって喋っている映像がある。すっごい下手クソな演技だ。それ絶対に、携帯の話し相手いないだろ?この映像に入れるために一人芝居して自分撮りしたんだろ?という。

苅谷が撮りたかったのは、本当に恋をして敗れる男であり、そのための擬似恋であり、なにもかも最初から計算でしたよーと、そう思わせるためのカット。でも、カメラがまわっていないところでの私は本物よ、とか言ってみたり全部虚構と匂わせてみたり。

なにもかもが仕込みでした。それを受け入れて、乗り越えて、その先にある芝居をしよう!というのが、表向きの主張。そしてそのために、「ここでT田が降りたらこの作品が終われない」という主張を繰り返す。カメラの前で。

観客の批判に抵抗する気力も萎えているロミオ。そしてスタッフがとどめをさす。「少女単体はさ、参加すると決めた時点で、現実と作品の境目がなくなるんだよね。だから参加すると決めた瞬間から、舞台の幕は上がっている。今、あなたがいっているのは、既に開演している舞台の上で、降板したいってごねるのと同じ。大人なら、やることに責任を持つべきでしょう」

シークレットライブは、ついにロミオを笑わせることなく終了した……。

だがカメラは、観客が捌けていく中、ジュリエットに気弱な笑顔を見せたロミオの姿を捉えていた。

暗転。ロミオはシークレットライブの打ち上げに参加、ジュリエットはカメラを止め、ロミオにお酒をおごる。しかし翌日、ロミオはあらためてプロジェクト降板の意思が固いことをメールで伝えてくる。ジュリエットはロミオに何度も電話をかけるが、電源を切られる。カメラに向かって延々と愚痴るジュリエット。ロミオの悪口がポンポン飛び出す。

そして、なんとカメラが喋るのだ。そうそう、ロミオなんて、くだらない男さ、ジュリエットだけでイチから作品を撮り直す方が面白いに決まっている、と。セルフ撮影のように見えて、じつはカメラのファインダーを覗いている人物がいたのだ(少なくともこの場面では)。

ジュリエットを避け続けるロミオ。「あなたが作品を作るのは勝手だけど、自分は協力しない」とメールで突き放す。もはや二人のドラマは、別れがこじれたところから壊れたレコードと化している。「先輩」に相談するジュリエット。優しい先輩はロミオを非難し、ジュリエットを擁護する。

こうして、スタッフや周囲の人々に持ち上げられたジュリエットは、ロミオの排除を決断する。

4.第3幕

2005年10月某日、ヤフーオークションの某ページを開くジュリエット。あれから約半年、ひとりになったジュリエットは全く企画を進展させることができず、あっさりロミオの撮影を再開する。しかし致命的な仲違いをした以上、もはや彼を呼び出すことは不可能だ。そこで目をつけたのが、ロミオが様々なものを出品しているヤフオクだったのである。

ロミオと面識のない「先輩」に協力を頼み、ロミオの出品しているものを全て落札させるジュリエット。その内容は……。

会場の明かりの中心にジュリエットが登場する。

ジュリエットが目をつけたのは、冷蔵庫とベビー服だった。

冷蔵庫は、「引き取り」が可能となっていた。車でロミオの家へ向かう「先輩」。ジュリエットは「先輩」の車に隠れ、カメラを回す。「先輩」と二人で冷蔵庫を運んでくるロミオ。半年ぶりに目の前に姿を現したロミオは、しかし、ジュリエットの気配に気付かないのだった。帰りの車中で、隠れている間、心臓がバクンバクンいっていたと興奮気味に語るジュリエット。

場面変わってジュリエットの部屋の中。冷蔵庫とベビー服にご満悦のジュリエット、ロミオの生活臭とともに暮らせることが嬉しくてたまらない、という演技。

そして、ベビー服に込められたジュリエットの悪意とは……。

5.謎解き

会場が明るくなり、少女単体の苅谷文が語り始める。

「ロミオとジュリエット」は失敗しました、という。本当は、会場にロミオ=○ミ○を連れてきたかったのだという。だが、説得はうまくいかなかった。ついに時間切れで決裂した最後の交渉、それが冒頭のテレビ電話中継だったのだ。

会場の空き地に描かれた幾何学模様は一体、何を意味していたのか? 「これはロミオの家の間取り図です」どよめく会場。

失敗した公演、いやしかし、まだ最後の望みがある。そのためには、会場の皆さんのご協力が必要だ、と訴える苅谷。

○ミ○の家は会場から徒歩15~20分。みんなで家の前まで押しかけて、扉から○ミ○が顔を出し、ジュリエットとロミオが久方ぶりの対面を果たしたところで幕としたい、という。また、冷蔵庫とベビー服を○ミ○の家まで運び、私たちのメッセージを伝えたい、ともいう。

そうして、約40人の大移動が始まったのだった。

6.世田谷区某所

20時10分頃に苅谷が会場を出、観客はその後ろにぞろぞろとついていく。約15分かけて笹塚駅方面へ移動し、冒頭の中継で見た閑静な住宅街の一角に到着する。時刻は20時30分。

住宅街の狭い道沿いながら、駅から近いこともあり、人は1~2人/分、車(タクシーばかり)は0.2台/分くらいのペースで通る。街灯が並び、道は明るいが、あくまでも住宅街の明るさだ。商店街とは比較にならない。スタッフと観客は道の両側に列を作った。警察を呼ばれるようなことは避けよう、ということで、大騒ぎだけはしないことにする。異様な人だかりに、通行人の多くが「一体なんだろう?」と不思議そうにする。第二部の舞台は、そんな場所だった。

玄関先に観客がタウンホールから運んだ冷蔵庫とベビー服を積み上げ、苅谷が呼び鈴を鳴らす。以下は id:texas_aki さんのレポートより引用(一部略)。

チャイムを押すと、細くドアが開き、○ミ○君の奥さんが応対。声しか聞こえなかったがとても普通の、落ち着いた感じの女の人だった。がすぐに扉は閉められる。(二度と開くことはなかった。)

苅谷さんは、○ミ○君宅の詳細な間取りを描いてドアの郵便受けに投函。駄目押しで、コンビニからファックス送信。

ベビー服や冷蔵庫に観客たちが寄せ書きをして玄関前に置く。

最後に平井ケンの「瞳を閉じて」を全員で合唱。ダッシュで撤収。

全員がダッシュで撤収したのは、21時10分だった。約40分間、スタッフと観客は寒空の下で肩を寄せ合っていたことになる。

7.intermission

以下、余談です。でもこっちが「備忘録」としては本題。私が思ったこと、考えたことを中心に。今日はもう遅いので、続きは明日、書きます。(→結局2月2日に公開。悪文の典型というべき無駄に長い駄文)

概要だけ先に書いておきますと、私は当初、全部ネタだと確信していたのです。映像だって、よく考えてみると、ずっと撮影していたという割には、限られた場面しか登場しない。素材が少なすぎるのですね。それをぶつ切りにして、パッチワークのように仕立てているからシーンが水増しされてる。そうか、演技の下手さを逆手にとって、「リアル」な演出をしているのだ、と解釈していたのです。

だから、***という告白もじつは虚構で、会場を屋外に移してもやっぱり苅谷さんが本当に全て責任を取れる範囲内で設計された舞台なのだと安心しきっていたのです。

けれども、レンズが入ればその向こうには観客がいることは自明であって、私たちは否応なく演技するのだ、という苅谷理論を素直に受け取ると、一般人が「現実」と呼んでいるものを、苅谷語で「虚構」と呼んでいるだけのようにも思えてきます。そして今回の公演においても、スタッフは観客を撮影し続けているのでした。ほとんどの観客はレンズの存在が気にならないようでしたが、私は○ミ○さんの家への道すがら、レンズが気になり出しました。

ラスト、苅谷さんと観客たちは、みな現場から逃げ去ります。私は、苅谷さんと逆方向に逃げ、そして現場に戻るのです。そこで私が目にしたものは何か。聞いたものは何か。

しばらく悩んだ挙句、私は苅谷さんの「芸術」に介入しました。ネタにマジレスしたんです。許せないものは許せないと、態度で示した。テレビドラマの中で殺人事件が起きても、私は作者を非難しない。虚構の世界の話だと、割り切っているからです。どうせ、自分には何も手を出せない、向こう側の世界の話だからです。そうして作品と自分自身の実生活とを切断して、アハハ、と楽しんでいるのです。けれど今回、私はそうすることができなかった。

単なるバカ、かもしれないと思います。全然わかっていない客、だったのかもしれない。自分の無才を知りつつ、芸術家の作品を壊して帰ったのは、少なくともその点において罪だと認めます。○ミ○さんの家の前でごそごそやっているときに、パトロールの警官がやってきたときの気分は、忘れられない思い出になりそう。

あんなに斜に構えていたのに、すっかり作品の世界に取り込まれてしまったんだなー、と、帰りの電車の中でぼんやりと考えました。疲れました。

8.道に迷う

時刻を遡って、会場に到着するまでの話から。

私は方向音痴、どこへ行っても道に迷う。下北沢は2度目ですが、前回に続いて今回も散々迷いました。いったんルートに乗ってしまえば、道に迷う方がおかしい、とさえ思えてきます。けれども、迷っているそのときは、自分が何を勘違いしているのか、どうしても理解できないのです。

開演時間の19時、小田急小田原線下北沢駅から「タウンホールはこちら」と書かれている出口から街へ繰り出したはずなのに、私は代沢5丁目でさまよっていました。タウンホールまでは徒歩10分、しかし私は、もう20分も歩いているのでした。いったん駅へ戻り、電信柱の番地案内をひとつずつチェックしていく。「北沢2-19」「北沢2-17」「北沢2-15」これを地図と照らし合わせ、ようやく、自分の現在地を把握しました。木の枝のような四叉路から東通りに入り、直進。無事に京王井の頭線の下を通過。よし、自分の歩いている道を間違いなく把握できているぞ。そのまま小田急線の踏切まで進む。本当は手前で狭い道に入る方が近いのだけれど、大通りを選ばなければ、きっと再び現在地を見失って、もっともっと到着が遅れるに決まっているのです。そして、見えた! 踏み切りです。後はもう簡単で、ホールまではすぐでした。

地図でもひときわ大きな面積を占有している立派な建物、目の前にすると、その威容に驚く。少女単体って、100人も入らないんでしょ? なのに、こんな立派な会場でどうするんだろう? 東口から入る。公演はどこでやっているのだろう? わからない。予定表や掲示板には、少女単体のフライヤーなどはない。あ、フロアマップを発見。えーと、ホールは2階か。階段は……見回すと、あった、ありました。電気、点いてる。ガラスの壁の向こうに、椅子に座っている人の背中が見える。あそこが受付なんだろうな。

階段の壁に、ようやく見つけた少女単体のフライヤー。ホッとしました。ここまできて、「中止です」ではたまらないと思っていました。あるいは「苅谷文はもう帰りました」とかですね。過去の公演の評判から、少女単体は小学生の冗談を具現化するといった類の「前衛」を志向しているのだと認識しています。それも倫理的に実行が抑制されるタイプの妄想に手を出す。それでも観客に何らかのパフォーマンスを見せるという方向性は堅持しているので、単なる中止はないと思いましたけれども、中止のネタ昇華(それもジョークのような方向性の)はありえるかな、などと心配していたのですね。

9.受付

受付スタッフは一人。「チケットはございますか?」「Folio として招待されていまして……」スタッフの方がたくさん並べられた封筒からひとつを選び、中からチケットを取り出す。チケットは何枚も入っていて、Folio の編集者全員分くらいありました。

入場前にご署名を、と促される。何があっても自己責任ですよ、という念書なのだそうな。大学ノートと中性ボールペンのセット。汚い字がずらずら並んでいる。フルネームで書けというのだけれど、どう見ても苗字しか書いてない人いるぞ、これ。まあいいや、と本名を書く。後で徳保隆夫と書いておいた方がよかったのかなあ、と後悔する。だって、Folio を見ても私の本名はどこにもないわけで。招待客を装った偽者みたいじゃないですか。

10.会場内の様子

受付スタッフが扉を開けてくれる。中は、暗い。スピーカー音声。「席は自由です。お好きな場所に座ってください」でも、椅子なんてどこにもないじゃないか。ほとんどみんな、床に直で座っているのでした。背後で扉が閉まる音がする。

ぐるりと中を見回すと、ホールの正面方向に大スクリーン。映っているのは苅谷文に問い詰められる優男風の男性。あっ!

そうか、ことこさんが参加したシークレットライブの完結編なのか、と理解する。そっかー、Tさんって、こんな顔してたんだ……。

しばらくはことこレポートの復習だったので、話はすんなり頭に入ってきました。それだけに、ところどころに埋め込まれた、レポートにない情報が印象に残りました。

11.不思議な観客たち

私は後方に陣取ったので、お客さんの様子も観察することができました。少女単体の客にはひねくれ者が多いと予想していたのですが、むしろ逆でした。大多数がきちんとスクリーンの方を向いていて、居眠りもせず、お喋りに興じることもなく、飲食しながら鑑賞している人もいない。ものすごくマジメなのか、それとも貧乏性で2500円の元を取ろうと必死なのか。

素直な解釈をすれば、彼らは少女単体のファン、あるいは少なくとも少女単体のパフォーマンスに無関心ではいられないファン予備軍とはいえそう。やっぱり、波長の会わない人にとってあの映像は不出来なテレビ番組でしかなく、飽きて眠くなってしまうはず。

映像編が終了し、「いまから○ミ○の家に行こう。行って、もうめちゃくちゃにしちゃおうぜ。責任はオレが取る」と苅谷が宣言した場面へ場面へ時計の針を進めます。

失敗公演を救う窮余の策に、ムッとした顔の観客も少々。この寒い中、何が悲しくて○ミ○さんの家の前まで押しかけねばならないのか、どう考えても面白くなりようがないじゃないか、そう思うのはむしろ当然でしょう。実際、ここで帰ってしまった方もいるそうです。

一方、私は「待ってました!」という気分でした。ヤフオクで落札した商品を会場に並べて見せたのは面白かったけれど、これでおしまいではシークレットライブからほとんど何も事態が進展していないのと同じで、少し物足りなく感じていたのでした。もうちょっと、何かやって見せてほしい、なんて考えていたわけです。

少女単体の公演は適当なことを繰り返しているように見えますが、一見バラバラな中にも一貫している部分があります。それが虚構と現実の曖昧化と、観客の「参加」なんですね。これは演劇の特徴としてよく紹介される、客席と舞台が同じ空気を共有する(=客席の現実と舞台上の虚構が地続きになっている)特徴を活かした手法で、発想としては太古の昔からあるものです。例えば野球場のウェーブとか、ミュージシャンが求める手拍子は、みなさんにも馴染み深いものだと思います。

5月17日のシークレットライブでも観客が舞台の進行上、重要な役割を与えられましたが、大胆な観客の巻き込みは少女単体のパフォーマンスでは規定路線、映画を流してオシマイのわけがない、と期待していたのでした。初参加だけに、あんまりひどいものでなければいいけれど……と、少しだけ不安になってはいたのですが、苅谷が○ミ○を家から引きずり出すための圧力団体として観客を利用する、という提案は存外に穏当で、助かりました。

おかしかったのは、○ミ○さんの家まで冷蔵庫を運ぶ作業がスタッフではなく観客の仕事として割り振られたことでした。本当に立候補する人がいるのか疑問だったのですが、結果的には苅谷さんと目が合ってしまった不幸な数人が、一種の超能力にしてやられたようでした。「何でオレがこんな目に」ってすごくいい笑顔なんだもの、「騙されてますよ」という気も失せるというもの。私はこの不思議な観客たちに関心を持ち、冷蔵庫運搬組に帯同して歩くことにしました。

入り口でスタッフが「いってらっしゃいませー」と声をかけるのがまたおかしい。これもまた少女単体の名物なのだそうですが、今回はスタッフも全員が○ミ○亭前まで行くのだという。彼らが冷蔵庫運搬組をサッサと追い抜いていったことには、苦笑する他ありませんでした。

12.製作日誌の謎

苅谷さんはみなを先導してはるか先へ消えてしまい、長く伸びた列の尻尾を追いかけていく体制。あー、寒い寒い、なんて考えながら、最近の多忙の中ですっかり度忘れしていた重大事実を思い出し、私は愕然としました。

2005年10月28日の「ロミオとジュリエット製作日誌」

「ロミオとジュリエット」をやることになった。少女単体初のカバー(って言わないか?)となる。いつもは自分で台本を書いて上演しているのだが、今回は勝手が違う。人様のものを拝借するのだ。

本来、舞台の裏側は見せない主義なのだが、今回に限っては、奮闘ぶりを晒した方が面白そうなので、公開する。ロミオとジュリエットなら誰もが知っている戯曲だろうし、ストーリー的な部分でのネタバレには繋がらないであろう。それよりも、オイラがどんな風にロミジュリを少女単体バージョンにするのか、というところが、きっと客の知りたい点だと思うのだ。そんなわけで、勝手に要望に応えているつもりでいる。まあ、いつものように勝手に書くので、勝手に読んでね。そして、公演を観に来てね。読んでから来ると、2倍楽しめるよ。

2005年10月29日の製作日誌

なぜ「ロミオとジュリエット」をやることになったのか。いや、別にシェイクスピアに対して、特別な思い入れもリスペクトも何もないんだけど、なんか、名作をやりたい気分になったのだ。

いつもは自分で脚本を書いてるんだけど、これが結構追い詰められてキツい作業なのだ。そして、時間がかかる。その煮詰まり具合が、今まではいい感じに転がってきてたんだけど、今回はもうちょっと、ラフに、舞台自体を楽しんでやりたいという気分だったのだ。少し自分の精神的負担を解消して、その分、楽しみの度数を上げたかった。単純に、舞台を楽しみたい。しばらく舞台から離れていたせいか、そんな気持ちになったのだ。やっぱり、オイラは少女単体が好きだし、ああゆう場にいられることが楽しいのだ。離れてみて、それがつくづくよくわかった。

ロミオとジュリエットは、前々からやりたかった。長い歴史の中で、腐るほどの人間が手を変え、品を変え、その度に新たな方法論を生み出してきた戯曲であるかどうかはよく知らないが、色んな人間にヤリまくられて、使い古しの戯曲であることは確かだ。愛されている戯曲。みんながヤリたがってる。ガバガバでボロボロなのに、まだ頑張る。元気だねぇ。そんな元気な戯曲を、引きこもりのオイラがやる、と。

そうそう、公演日だけど、なんで平日になっちゃったかっていうとね、いや、その日しか劇場が空いてなかったっていうのもあるんだけど、他にも色々と事情があったのですよ。オイラがもっと早く予定組まないのが一番の原因なんだけど、今年はね、結構、色々あって・・・・。少女単体のホームページを見てくれていた方ならわかると思うけど、予定してた公演がつぶれちゃったんだ。「来年の2月にやるよ、制作に1年掛けるよ」って謳ってたアレね。なくなってしまった。ごめん。オイラが一番悔しい思いをしているよ。スゴイものになる予感がしまくっていたから。今でもそう信じている。打ち切りたくなかった。どうにかならないかと、どうにかしようとした。でも、ダメだった。もう、どうしようもなかった。誰も悪くない。原因はすべて私にある。

とにかく、その舞台を来年の一発目にもってくるつもりで今年は動いていたから、急に足止めを食らってしまったわけなのです。それが、予定が組めなくなった一番の原因。

当初の予定がつぶれたからといって、すぐにそれに匹敵するようなものが生まれるわけではないし、どうしようと思ってウロウロしているうちに、少女単体とは別のところで仕事が忙しかったり、1ヶ月間東京から離れたりと、舞台の制作に時間がかけられなくなってしまったのだ。

んなわけで、一旦、少女単体の予定は白紙になった。

だけど、やっぱりここまでブランクが空くと、禁断症状出てきて、「やっぱやりたい!」という気持ちが高まってきて、すぐにでもステージをやりたくなったのだ。時期は、もう秋になっていた。今年中にやるのは無理であろう。なるべく早くやりたかった。もう、熟成させたものは違う気がしたし、これだけ純粋にやりたいという気持ちになっているので、その勢いを大事にしたかった。そして、その勢いに任せた方が断然面白いことは解かっていた。

というわけで、次回公演を来年の1月とムリヤリ決定させる。聖地・WENZが消えてしまったので、劇場を探すのは一苦労だった。今からでは土日はすべて埋まっているとのことで、妥協して、平日に決める。どうしても、1月中にやりたかった。ちょうど1年ぶりの公演になる。お客さんには優しくない日程だが、今のグルーヴが消えてしまう方が、よくない。ノレるうちにノる。波はそうそう来ないものだ。というわけで、みんなもノっかりに来て欲しい。

また少女単体に戻れて、本当に嬉しい。

第1部の映像編を鑑賞しながら、もともと苅谷と○ミ○の間には本当に稽古を必要とする作品があったわけではなく、パーソナルムービー風の日常生活の記録的な映像群を積み重ねていくこと自体が「ロミオとジュリエット」の企画を支える根本のアイデアだったのかな……なんて思っていたわけですけれども、この日記を思い出したら、そんな思いつきはみんな吹っ飛んでしまう。

二人にはたしかに舞台の計画があり、稽古もしようということになっていた。ところが、状況が変化した。実際にそうだったのだと思われてくる。それとも全部、日誌も含めて苅谷のウソなんですかね? いや、疑っても仕方ない。全部、信じます。

よくわからないのは、苅谷さんが10月末の時点で構想していた「ロミオとジュリエット」は、今日の公演「○ミ○と苅谷」だったのか、ということ。製作日誌の熱い言葉と実際の公演の落差は激しい。どうして10月の名作をやりたい気分が5月のシークレットライブの完結編に先祖返りしてつながってしまうのでしょうか。10月ということは、ヤフオクで冷蔵庫とベビー服を落札した時期と合致しますが……。(注:無論、映像中のナレーションを信用すればの話)

そしてもう1点、5月のシークレットライブの時点で、苅谷と○ミ○が作ろうとしていた作品の公演時期は1月だと明言されていたこと。これをどう解釈するか。

2月の公演とは別のもの、と解釈することはもちろん可能。でも、1年以上前から準備するような作品を、1月、2月に連続公演する? しませんよね。では、1月と2月の齟齬は、いずれかがフェイクなのか、あるいは何らかの勘違い。

では5月の時点で、いや、もっといえば2004年12月の時点で2006年1月の公演が予定されていたとしたら? その場合、土日に会場を押えることは可能だったはず。平日の公演になってしまったのは10月に準備を始めたからでしょう。これを簡単に「段取りの悪さ」と説明してよいのでしょうか。あるいは、平日と休日では会場のレンタル料が違っていて、客入りの予想から平日を選択したという可能性もありますね。

製作日誌には、その後も不思議な記述がどんどん出てくるのでした。

2005年12月22日の製作日誌

日記が遅れてしまいましたが、出演者は決定しました。で、今週から稽古開始。いつも一人で色々考えてやってるので、今回は勝手が違う。ちょっとやり辛い。

どうも、役者さん側ってのは、自分がオイラの意図だとか方針だとかを、すべて理解した上で演技しないと気がすまないようなのだが、別にわからなくていいのだ。それを何回言っても、わからないらしい。

2005年12月24日の製作日誌

今日の帰り際、出演者のY君からボソっと言われたひとこと。

「あの、ブログ、読みました。ちょっと傷つきました。」

2005年12月27日の製作日誌

夏以降、オイラは急に少女単体を放り出して、他の仕事に走った。その仕事が面白かったという理由もあるけど、元々、予定していた次回公演がつぶれたということもあって、そのことで深く悩んで、まあ、オイラとしては、そのショックが結構デカかったのだ。オイラ、もう何かを創造できる立場じゃないんじゃないかと。そのことで、すごく悩んで、苦しかった。自分ひとりでやっているので、こんな時に相談する相手もいないし、励まし合いもできんしね、オレのやる気がなくなれば、少女単体はジ・エンドなのだ。

そんな時に、ちょうどタイミングよく(?)別の仕事が入ってきてくれて、そっちに力を入れないといけなくなった。そんな訳で、ちょっとここいらで少女単体を離れてみるのもよかろうと思ったのだ。離れてみて、それでもまたやりたいと思ったら、やればいい。とりあえず今は忘れよう。そう決めてからは、少女単体のことは、本当に何もしなかった。

んでまあ、みなさんご存知の通り、北海道ロケに出させてもらったりだとか、あとは、まだここでは公表できないけど、他にも色々仕事を頂いたりして、そっちを一生懸命やってみた。んで、その仕事が一段落した時、オイラの気持ちは再び少女単体に向いていた。とても自然なことだった。これでいい、と思った。

まあ、そうゆうことも含めて、色々と内容が変更したことなどをスタッフにはまだ何も報告していないのだ。今日まとめて話すことになって、みんなには迷惑をかけてしまう。申し訳ない・・・予定していた公演の打ち切りを決めた事と、また一から新しいものを創るつもりなのだということを、今日話そうと思っている。まあ、みんなのリアクションは「あ、そうですか。で、何やるんすか?」しかないだろーけど、オイラとしては、ここ半年で散々悩んだ末の答えなのだ。

2005年12月28日の製作日誌

全然、忘年会なんてもんじゃなかった。ふつーに打ち合わせをした。オレは珍しく真剣に話をし、みんな真面目にそれを聞いてくれた。なんかちょっと感激して、「オレ、しっかりしなきゃ」って気持ちになった。

2005年12月29日の製作日誌

出演者のみんなに、田舎に帰省したいかどうかと訪ねたところ、全員、「別に」という反応。まあ、この時期に稽古するってんだから、そうゆうもんだと思ってみんな参加してんだろうけど。そんじゃ、コレがなかったら、通常は田舎に帰ってんのかと訊くと、それは五分五分。あーそう。

2005年12月31日の製作日誌

2005年も今日で終わり。今年はたくさんの方々にお世話になり、ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

と、書いたものの、オイラ、「ロミジュリ」が終わるまではオイラは年を越せないのだ。

年末年始はスタジオが休館なので、この間の稽古は、出演者の自宅で行うことになる。部屋で出来ることは限られてくるので、地味なことしかできないんだけど。それでも面白そうだ。ちなみに、オレんちは使わないよ。オレんちは、自宅兼事務所になっているので、稽古向きじゃないのだ。今回は割と生活感のある内容になるので、普通の部屋で稽古した方がムーディーだと思う。色々面白いネタを用意していこう。

……もちろん、「ロミオとジュリエット」製作日誌と銘打たれているからといって、今日の公演の準備だとは限らないのですが、ふつうに読めばそう読めるわけです。そして連日、ものすごいエネルギーを投入して何かを準備していたことがわかる。本当は裏でものすごく頑張っているのに、表向きはそう見せないのが少女単体の流儀なのかもしれませんが、少なからぬ観客は、こうした日記と実際の公演とを見比べて疑問を感じるのではないかと思います。

また、10月末になるべく早くやりたかった。もう、熟成させたものは違う気がしたし、これだけ純粋にやりたいという気持ちになっているので、その勢いを大事にしたかった。と書いているのでアイデアが奔流のように湧き出てきたのかと思ったら、実際に話がまともに動き出すのは12月下旬。このブランクは何?

ともかく結果的に、「ロミオとジュリエット」はシークレットライブの完結編という形で公開され、他の話は何一つ語られない。これはこれで話は一貫しているのですが、周辺情報を突き合わせると、また別のものが、ぼんやりと向こう側に見えてくるような気がするわけです。シークレットライブは全て仕込みネタだったのか、それとも現実を虚構に引きずり込んだものなのか? 幻の2月公演と○ミ○は関係ある? ない? 全然、別の話とも読めるし、ずぶずぶに関係しているようにも読める。

こうした疑問はすべて、果たして今日の公演、ひいては5月のシークレットライブは、いったいどこまで作られた世界だったのか、という私の素朴な疑問に直結しています。いろいろ考えたら、頭の中が少女単体の情報でぐるぐるになって、ぼんやりしてしまいました。

13.観客たちの余裕

他の観客はどう考えているのかと思って数人に意見を訊ねたところ、「すみません、日誌までは読んでないんです」……劇場に来て2500円払うのは面倒じゃないのに製作日誌を読むのは面倒らしい。そりゃそうかもしれないけど、と食い下がると、「それが少女単体のいいところでしょう」だって。さらに「入り口で自己責任って名前も書いたしね」ともいう。いや、あんなものひとつで何でも免罪しちゃっていいわけではないと思うのだけれど、そっか、気にしていないんだ、と納得。

しかし観客はそれでいいとしても、苅谷さんやスタッフにとってはこの状況、逆に不自由かもしれない。今回の公演では、苅谷さんの制約は警察と会場の明け渡し期限という、娯楽活動のテーマにしづらいものだけ。「そんなこと、やっちゃっていいの?」という線を狙っていくパフォーマンスなのに、観客側が「何でもいいよ」「ボクは文ちゃんのすることならオールオッケー」という構えでは、駆け引きが成り立ちません。

さりとて「駆け引きなんて面倒くさいじゃない、用意された舞台で、脱法行為めいたことをみんなでやる(=演技する)楽しみがあれば、それでいいんですよ」というほど割り切っているようにも見えず、何だか釈然としませんでした。

どうもね、ほとんどの観客は、少女単体がどれほど頑張って現実と虚構の境界を曖昧にしようとしても、「所詮、全部ネタでしょ」と高を括っているように思えたんです。だから、目の前で本当にひどいことが行われようとしていても、通常の倫理観をいとも簡単に切断して、「あははー」と楽しんでしまう。

本当に準備に苦労したの? と疑問に思えるような公演でも2500円が高くないとすれば、それはおそらく、このような形で場が設けられなければ一般人が一生、実際には体験できないであろうことに参加できる、そのチケット代だと思えばいいのかな。

これが「ロミオとジュリエット」第2部・街頭編のエンターテインメントの基本構造。いわゆる「愚劣なテレビ番組」の発想ですよね。ただし少女単体は、これを心の離れた元パートナーに対するリアルないたずら、「ネタじゃなくてマジですよ」という装いのもとで実行するわけです。(注:こうした手法自体は新しくないものの、私がその現場に立つのは初めてのことで、それが以下の展開に影響します)

14.レンズ

少女単体の公演では、毎回のように観客席をカメラが捉えています。入り口の念書の本当の狙いはこれなのだろうと思う。ふざけたことに、目線もモザイクもなしに観客を映したシーン満載の DVD が堂々と販売されてしまっているのでした。今回のような、何だかんだいっても演者と観客の関係が比較的明瞭な作品ならともかく、大胆な巻き込み型作品の場合、まさに観客の即興が記録映像の華となっていくわけで、常識的には「冗談じゃない」と怒るところなのでしょう。

私が話をした10数人の過半はリピーターでしたが、4人くらいは初めての参加とのこと。その内のひとりは「勝手にカメラを回すなんて、ありえないですよね」と嬉しそうでした。あー、やっぱり世間のルールを破ってみたいという欲求、脱法的人間の存在自体が救いになるタイプっているんだなー、と感心してしまいました。だって、彼は被害者なんですよ。きっとあんな顔やこんな顔を、後で DVD にしてばら撒かれてしまうのです。なのに嬉しそうなんだもの、おめでたい話ですよね。

そんなことを思っていると、冷蔵庫運搬班を撮影しにスタッフがやってきました。冷蔵庫組ははじりじりと遅れ、どんどん先を行く人々の背中が小さくなっていく。

カメラスタッフの人に「行き先はご存知なんですよね? はぐれたらついていこうと思っているんですけど」と話しかけてみると、「いえ、私も行き先は知らないんですよ」と答えたので「ええ~っ!」と大声を出してしまいました。そんな私を、じっとみつめているレンズ。

今、私はこのレンズに向かって演技をしていたのだろうか……。ふと、心にそんな疑問が浮かびます。途端に歩き方がぎこちなくなる。どうせ DVD に収録されたとしても50人だか100人しか見ないのだし、大勢いる観客のひとりに過ぎない。誰も気にしちゃいない。コンビニの監視カメラと変わらないじゃないか。自分に言い聞かせるための言葉が頭の中をマシンガンの銃弾のように飛び交う。

結局、30秒かそこらで慣れて気抜けしてしまったのですが、レンズの向こうには観客がいる、カメラがあるときの私はいつもオン状態という苅谷さんの発言が、思い出されます。

そして今、私たちは好奇の視線を浴びながら世田谷区の住宅街を歩いています。不躾にこちらを指差してひそひそ話をする人もいます。「いったい何なのかしら?」「お葬式にしちゃ服装が変ね」こちらに聞こえるように話しているのか、地声が大きいだけなのか。もし前者だとすれば、私たちを一種のパレードとみなすことができるように、おばさんたちもまた路上パフォーマーとみなすことができそうです。この「みなすこともできる」という考え方は、重要かもしれない。

私たちは常に無意識に何かを演じていて、レンズは観客を意識させる小道具。レンズがなくても、私たちは演じている……?

ドキュメンタリー作品としての「ロミオとジュリエット」は、素を撮りながら、演技・演出・ウソ(=創作)を見出していくものではなかったか。だがしかし、観客は少女単体の企みを見抜いて「どうせ俺らは安全圏ですから。マジを装ったネタでしょ。そうとしか思えないじゃない」と高を括っているわけです。けれども、私は逆に、それは単なる考え過ぎといわれるかもしれないけれど、次第に不安になっていったのです。

苅谷文の言葉は、全部、本当なのではないか。そして、見たまんまの解釈もまた、正解なのではないか。さっきも日記の内容を思い出して、決めたじゃないか、疑っても仕方ない、ならば信じよう、って。しかしそれは堂々巡りへの入り口に過ぎませんでした。

私の眼力は人並み外れて低級なので当てにはならないけれど、苅谷さんの演技は全部、演技になっていないように見えました。だから、「カメラの前の言葉は全部ウソ」とは、苅谷さんの定義する言葉としての「ウソ」なのであって、一般的には「本当」のことなのかもしれません。

視界の隅に入ったレンズに無意識で反応して大声を上げたこと、明確に意識して足がもつれたこと、これらはほとんど動物レベルの話だから、役者の精神世界を推察する根拠としては低俗すぎるのかもしれないけれど、レンズが世界に干渉して作り上げた映像だという意味で、ドキュメンタリーは「ウソ」なのかもしれない。仮にそうだとすれば、ウソだといいつつウソに見えない映像、ネタを示唆しつつマジの装いを崩さない世田谷の行進は、いずれも……?

15.冷蔵庫を運ぶ理由

わざわざ冷蔵庫を運んで、私たちは何をしようとしているのだろう?

はっきりいってしまえば、○ミ○さんに嫌がらせをしようとしているのです。何故、私たちはそんなことを手伝いたいの? ○ミ○さんの家をめちゃくちゃにしたくなんてないよ、少なくとも私は。苅谷さんが責任を取るからいいんだとか、そういった問題じゃなくて。

ロミオとジュリエットが決別した経緯を描く映像は見ました。もし○ミ○さんがとんでもない悪党で、絶対に許しておけないような人間だったなら、これくらいはやっても……いやいや、それはおかしいな。冷蔵庫を運んで何になるのか。それに気に入らない人間を私刑に処すことの是非は?

苅谷さんの周囲の人間は、なぜか苅谷信者ばっかりみたいだったけれど、ていうか、何で映像の中で苅谷を慰めて○ミ○の悪口をいう登場人物は男ばっかりだったんだ? スタッフは男女半々じゃないか。くそ、まじめにドキュメンタリーの手法で作った映像ならすごく嫌だし、苅谷さんの創作なら、それも嫌だと思った。醜いよ、あれは。その話はまあいいや、今は嫌がらせのこと。

多分、こういうばかげた話に大勢の観客が付き合っているのは、マジなようでネタだと決め付けているから。その決め付けに、どんな根拠があるというのだろう。最初から「真実」を決め打ちして、都合のいい説明を言い訳代わりに考案しているだけでしょう。

私は冷蔵庫班と話をしているだけで冷蔵庫を持っていない(空の段ボール箱は持たされてたけど)のでまだいいですが、初めての参加で2500円ちゃんと払って冷蔵庫を持たされてた人は、顔が泣き笑いになっていました。教祖・苅谷文様の掌の上でもがく、か弱き信者たち。スタッフが前方からやってきて、「苅谷さんから激励の言葉をいただいてきましたよ」なんて報告する。あ、お前、そんなんで喜ぶなよ! あーあ。

伝令はさっさと帰ってしまい、素材を撮り終えたカメラスタッフはとっくの昔に前方彼方へ消えている。後に残されたのは、黙々と冷蔵庫を運ぶ観客数名だけ。道案内くらいいてもいいだろうに、と恨めしく思うが、スタッフ自身が行き先を知らないのだから仕方ない。スタッフも苅谷の姿を見失うわけにはいかないのです。

しばらく1本道が続きましたが、とうとう道が5方向へ分かれる交差点に到達。しんと静まり返っている。寒い。コンビニの明かりだけが暖かい。みんな、どこへ行ったの? 私たちは、途方に暮れました。

こんなに頑張って冷蔵庫を運んで、しかもそれが誰のためにもならない、単なる嫌がらせの道具でしかない。悲しいよ。そしていじめっ子たちの女王様は足の遅い奴隷のことなんかもう忘れているんだ。ひどい公演だ。こんな役を演じたくて、みんな集まったのか。ところが、黒い棺のような冷蔵庫を運んだ内の一人は、以前も別の公演でこの手の無償労働に従事されたのだそう。その体験を語る楽しげな様子には参りました。

けれども、こんな状況に参っているのは私だけで、みんな「道案内も立てない少女単体」の悪口を楽しんでいて、悲壮感がない。やっぱりここでも、本質的に「俺たちは客。こんな見知らぬ街で冷蔵庫と一緒に捨てられたりはしない」と、言葉には出さなくても、そう信じているらしい。前衛芸術がこんなにナメられていていいのか。というか、もし彼らの思っている通りだとすると、冷蔵庫運搬も「楽しいイベント」のひとつに過ぎず、客は「参加ごっこ」を面白がっているだけで、その内実はあくまでも「お客さん」でしかない。

少女単体がいくつかの公演を通じて展開してきた観客参加は、エンターテインメントのためのサービスでしかないのでしょうか。

のんきな観客たちに「お前ら、そうやって余裕かましてるといつか寝首を掻かれるぞ」と憎まれ口を叩きたかったのだけれど、当然のように正しかったのは余裕かましてる観客の方。ノーマークだった路地からスタッフがやってきて「すみませーん、こっちでーす、ほら、あそこが目的地です」と案内してくれ、冷蔵庫組も無事に○ミ○さんの家の前へたどりついたのでした。

16. アパートの前で

アパートの前に到着したのがだいたい20時30分頃。結局、アパートの前で過ごしたのは約40分間なのですが、正直いって、何もしていない時間が大半でした。私を含め社交性の低い人間が多く、友人と連れ立ってきた観客以外は、ただただ寒さに震え続けるばかりでした。

ともかく、まとまらない考えをぐるぐるするには十分な時間があったわけです。

なるほど、他のほぼ全ての観客が確信している通り、これは仕込みなのでしょう、常識的には。5月にシークレットライブがあり、10月に北沢タウンホールを押さえ、ホールから徒歩15分(冷蔵庫は約20分)の位置に○ミ○さんが暮らしている。偶然にしては、でき過ぎています。

5月の決裂からしばらく少女単体が休眠していたのは、他の仕事をしていたからだそうです。これも都合がいい話。他の仕事をする間、ドキュメンタリー風の作品「ロミオとジュリエット」を中断する口実が必要だった、だから仲違いを演じた……。二人の関係が「終ってる」様子をライブ仕立てで演出し、面白い素材を手に入て、参加者の記憶にも都合のよい事実を刻み込んだのでした。無論、観客も阿吽の呼吸で空気を読み、「そういうことにしておく」と聞き置いたのです。

よくよく考えてみれば、2004年の12月から撮影を始めているという割に、素材が少なすぎます。長回しの素材を細かく刻んで並べているから、一見、多くのシーンから構成されているかのようです。しかしそれは見せかけに過ぎない。本当に数ヶ月もの間、まじめに映像を撮り貯めていたはずがない。

……というのが、まあ、常識的な見方なのでしょう。苅谷さんが、面白げなことをやってみよう、お見せしようという、利他的なエンターテナーなのであれば、この線で正解なのでしょう。

けれども、私は、苅谷文さんは「芸術家」なのかもしれないじゃないか、と、そう思う。照れ隠しやカッコつけでなしに、本当に自分のために、あるいは自分の信じる何かのために、活動している人なのだとすれば、この状況の見え方はまるで変わってくると思う。

苅谷さんが少女単体でやりたいことは、自分なりのやり方で大勢の人を喜ばせることではなく、少女単体が客を集めるのは、客なしでは成立しない「芸術」を実現するため。そうだとすれば、苅谷さんは、観客を騙すことを躊躇しないはずです。

これが実話なら間違いなく刈谷は罪に問われるので(○ミ○の実名は無論携帯番号もスクリーンに映し出した)、多分フィクションなんだろね(が、何せ途中で帰ったモンですから分かりやセン)。

これは Jorge さんの感想なのですが、現場をそのまま見せた結果、逆に多分フィクションと錯覚する、という可能性もありますよね。何をやっても「ま、ネタですから」でのほほ~んとしている観客は、もともと「これは虚構の世界」という強い固定観念を持っているので、まじめに作った映像にもどんどん不備を見出し、ますます「やっぱり虚構だね」と精神を弛緩させていく。「現実」って、そんなにリアリティたっぷりのものでしたっけ?

少女単体の公演なんだから、これもありなんだよと無理やり自分を納得させて冷蔵庫を運んだ観客はもちろんのこと、自転車の空気を抜くような小学生レベルの嫌がらせをするために住宅街の一角に集まる大人約40人、しかもみんなお金を払ってそんなことをやっているという、そんな話のどこにリアリティがあるの?

補記

Jorge さんの抗議を全文引用します。

少女単体をレポートしたあるサイトで私のブログ内の発言の一部分が誤解を誘発するような形で恣意的に引用され誠に遺憾である。私は少女単体の今回の出し物中これは「本当」ではないかとずっと思っていた。だからこそ刈谷を先頭に観客が某氏のアパートへと押しかけるためにタウンホールから外に出たときに帰ったのだ。上演されたビデオの内容自体には怒りさえ感じた。ただし、これがフィクションである可能性も否定できずどうすることも出来ないので、私は「行かない」という行動によって自らの立場性を選択したのである。現実であろうとフィクションであろうと、今回の出し物は他人のプライベートを覗き見る悪趣味なものであるばかりでなく、自分とは関係のない他者の人生の破綻(の可能性)を見世物として提示する極めて悪質なものであり、それを見物しようと刈谷の後を嬉々として追っていく行く客たちを見ていると、他者の不幸を窃視することによって快感を得るのかと思い吐き気がしたくらいである。現実であろうとフィクションであろうとに関わらず、そうしたことへの加担を拒否し抵抗する手段として「行かない」という行動を取ったのだ。上記サイトはある雑誌の取材だったらしく最後まで見物したらしいのだが、それは、たとえその場でいくら良心の呵責を感じようが、すでに悪質な出し物に最後まで付き合うという「行為」を選択したことによってすでに他者の人生の破綻を見世物にするという現代の歪みを象徴するイベントに加担したことになるのであり、まさにその「行為」によって罪に問われることにもなるだろう。例えば、日ごろいくらフェミニズム的リベラルな発言をしていても、行動がそれとは異なっていたら、すでにその時点で男性優位主義的イデオロギーに加担していることになるのと同じことである。読者をミスリーディングするような浅薄かつ恣意的な引用は止めて頂きたい。刈谷文を「芸術家」かもしれないと言ったり、「自分の信じる何かのために、活動している人」だと仮定するのだから、手に負えない(招待券をもらっていることを差し引いてもである)。演劇はここまでどうでもいいものとして扱われているのかと思うと、演劇ブログ管理人として落胆せざるを得ない。

以下のような通常とは異なる書き言葉を用いたのは、ブログという小さなメディアに於いてさえも倫理的観点から少女単体の悪質な見世物に真面目に応答すべきではないと考えたからである。紹介記事を書いたのはその酷さを告発するためである。

私は多分フィクションなんだろね。というワンフレーズがほしくて引用したのですが、Jorge さんによれば、これはフェイクで、じつは私は少女単体の今回の出し物中これは「本当」ではないかとずっと思っていたのだという。またこれは私の引用していない部分ですが、まあ、実話にしろ虚構にしろ、どっちでもいーんで途中で帰ったわけだけど。というのも、上演されたビデオの内容自体には怒りさえ感じた。ただし、これがフィクションである可能性も否定できずどうすることも出来ないので、私は「行かない」という行動によって自らの立場性を選択したのが実際のところなのだそうです。

「説明しなきゃわからないのか」と呆れられるかもしれませんが、「フィクションの確信」を持っていた観客が大多数でしたので、素直に字句通り受け取ってしまった次第です。失礼いたしました。抗議文の全文引用により、誤解の危険性は解消されるものと考えます。

なお誤読の指摘以上の部分については同意しかねる部分が多いことを付記します。

17.肉まん

苅谷さんが呼び鈴を鳴らし、「いい加減にしてください」と○ミ○さんの奥さんにいわれて事態は膠着。大騒ぎはしたくない、という苅谷さんの意向もあって、さて困った、と。せっかく運んできた冷蔵庫の話も、まだしていない。○ミ○がちょっとでも顔を出したら、冷蔵庫を見せてお終いにします、みたいなことをいっていたのは、どうなったのだろう。

苅谷さんが、スタッフなのか観客の一人なのかよくわからない女性に、修正ペンと油性マジックを買ってきてくださいと頼みました。そういえば、すぐそばにコンビニがあるのでした。

寒いし、お腹すいたし、話が進まなくなっているし、こうなったらまず食事だな、と思う。

買出しに行った人の後を追うような形で、コンビニへ行きました。肉まんと飲み物を買う。さすがに他の観客が震えてる中、一人あったかいものを食べるのも気がひけたので、肉まんはコンビニの周囲の空き地ですぐに食べてしまう。飲み物だけ持って、戻りました。食欲の問題が片付き、寒さも気にならなくなったので、少し、頭がクリアーになったような気がします。

18.講釈

苅谷さんはもう○ミ○さんを外に出すことは諦めたようで、あとは嫌がらせの工作に励むつもりらしい。冷蔵庫に修正ペンで、ベビー服に油性マジックで寄せ書きをすることを観客に指示。何だかんだで10数人が何かしら書いたように思う。つるつるの冷蔵庫の表面に修正ペンで字を書くのはかなり面倒くさく、毛足の長いふわふわのベビー服に油性マジックで字を書くのも、かなり苦労が必要なようでした。

大半の観客はひたすら手持ち無沙汰で、ぼんやり状況を眺めていました。

やっぱり住宅街の一角に、通行の邪魔にならないよう道の両側に寄って立っているとはいえ、40人くらいの人が集まってアパートの玄関の方を見ている情景は通行人の関心を呼ぶようで、通行人の8割以上は「何だろう?」と不思議そうにしていました。でもやっぱり、何となく怖いのでしょうね。足を止めてジロジロ眺め回してさえ、湧き上がる疑問を解決しないまま、みな立ち去っていきます。

そんな状況を初めて打破したのが、紳士然とした中年のおじさん。

若い女性と寄り添って駅方面から歩いてきたのですが、二人ともこの異様な状況に興味津々。「これ何?」と女性に訊ねられて「わからない」と答えるおじさん。ほとんど止まるくらいに歩みを緩め、名残惜しそうにしながらも、いったんは現場を離脱していきます。そして少しはなれたところで立ち止まり、ちらちらとこちらを見ながら話している。

面倒くさがりの私もさすがに親切心を起こして、私なりの謎解きをしようと思いました。と、おじさんがこちらへ歩いてきたのです。期待してその背中を見ている女性。いやー、やっぱりカッコつけるのも悪いことじゃないね。おじさん、勇気を出したんだ。私もおじさんに歩み寄ります。顔を向けて、目を合わせて軽く笑顔を作る。少し右手を上げる。(思い起こしてみると何だかヘンなのですが、私なりに声を掛けやすい人物を演じたつもり)

「あのー」「どもー、アレが何か? ってことですよね?」「ええ、そうです。何なんですか?」「じつはですね、路上劇、街頭劇のようなものなんです」「ははぁ」「第1部を北沢タウンホールでやりまして」「下北沢の?」「そうです。それで、第2部はここに舞台を移して行うということで、私たち、歩いて移動してきたんですよ」「それはたいへんですね」「ええ。今、そこのアパートの中に役者がいまして、玄関先で公演をやるということになっているのですが、役者が準備ができていないようで、まだ出てこないのです。仕方ないから、観客もこうして寒い中、待っているわけですね」「ところで、路上劇って何ですか?」「う~ん、よくわかりませんが、演劇の舞台を日常生活の中に移すという、前衛的な演出だと思いますね」「あなたは関係者の方ですか?」「いえ、私は招待客です。ただ、集まっている方の大半は、ふつうのお客さんのようです」「ありがとうございました」「いえいえ」

おじさん、後ろを振り返って「……だって」という。いつの間にか、女性が後ろで聞いていたんですね。私はおじさんと同じ方向、つまりアパートの玄関の方を向いて話していたので、全然気付きませんでした。

得心した様子で話をしながら歩み去っていくふたりを眺めながら、少しだけいいことをしたような気分になりました。あと、やっぱりこの演出は、地域住民に要らぬ不安を撒き散らしている点で反社会的だな、とあらためて実感しました。

それにしても、少女単体の「芸術」を勝手に「路上劇、街頭劇」などとカテゴライズし、第3者に講釈してしまってよかったのかなあ。

ともあれ、私は嫌がらせにこれ以上加担するのはお断りだなと思いました。

19.探索

状況の再チェックをすることにしました。

まず、現在地。アパートの壁に古ぼけたプレートが貼られており、世田谷区**1丁目**番地とわかる。地図で確認し、ホールからここまでのルートを確認すると、なるほど間違いない。ここは間違いなく**番地です。

次にアパートの様子をチェック。2階建て、個人住宅がびっしり立ち並ぶ東京らしい狭苦しい住宅街の中に建てられた、2階建ての小さなアパート。○ミ○さんの家は道路側の窓の雨戸が閉じています。上の階の住人は既に帰宅しており、カーテンと磨りガラスの向こうに、時々人影が見られました。下の階の玄関先へ大勢が集まっているので、不思議に思われたことでしょう。

○ミ○さんの家の扉を見ると、「*** works ○ミ○」の表札がつけられていました。その汚れ方は扉の様子と一致しており、昨日今日、取り付けられたものとは思われません。それほど厚い扉ではないだろうに、中からは物音ひとつしませんでした。

アパートの裏もまたアパートで、○ミ○さんの部屋の付近は駐車場となっています。そちらへ回って、裏からアパートの様子を確認することにしました。まず、煌々と明かりが点いていることを確認。ただしこちらも磨りガラスなので、中の様子はわかりませんでした。そして、赤ちゃんの泣き声が聞こえました。部屋は○ミ○さんのところで間違いありません。○ミ○さんの家に赤ちゃんがいるのは、本当のことなんですね。

再び人が集まっている玄関側へ戻り、今度はスタッフに質問。

「動きが止まってしまったようですけど、段取りでは、どうなっているんですか?」「そうですね、少女単体の公演では苅谷が状況を見ながら臨機応変にやっておりますので、私にはわからないんです、すみません」「スタッフの方は、会場まで車でいらしているのですか? それとも電車?」「徒歩です」「えっ、ということは終電関係ないんですか……」「いえ、片付けと施錠をしないで出てきてしまったホールの明け渡し期限が午後10時までなので、それまでには戻ることになると思います」「なるほど、戻るのに15分かかりますから、遅くとも9時半には終ると」「ええ、ただ、もう少し早くなるかと。だから、そろそろだと思います」「ありがとうございました」

時計を見ると、21時を回っていました。

玄関先の様子を見て、私は言葉を失いました。扉には「家内安全」と書きなぐった紙がテープで貼られています。その前にはたくさんのいたずら書きがされた黒い小さな冷蔵庫が置かれ、その上にミカン箱が置かれ、一番上には、たくさんの書き込みで薄汚れた赤いベビー服が掛けられています。今まで、あまり気にしていなかったベビー服、その赤い生地は黒いペンのインクで汚され、ひどく禍々しいものに見えました。

私が連想したのは、赤ちゃんの**でした。いったんイメージが頭に焼き付いてしまえば、段ボール箱も冷蔵庫も、中に**が入っているように見えてきます。ひどい、これはひどいと思う。

全部ネタです、外で何が行われているか、中の○ミ○さんはご存知です。○ミ○さんの奥さんなんて、いません。そういう役の女優がいただけです。赤ちゃんの声はテープレコーダーです。そうかもしれない。けれど、そうじゃないかもしれないじゃないか。そういうこと、気にならないの?

○ミ○さんには奥さんがいて、2004年12月か2005年1月に赤ちゃんが生まれて、今、その子は家の中で泣いている。もうハイハイするようになっているから、人型寝袋のような乳児向けのベビー服は不要になったのでヤフオクに出した。売れた先のことは考えていなかったろうけれど、漠然と、どこかで生まれた可愛い赤ちゃんのために使われているのだろうと、そう思って安心していたんじゃないか。それなのに、可愛い子どもが着ていたベビー服は気持ち悪い女の手に渡り、汚されて玄関先に放置される。

気付くのが明日の朝なら、夜露にぬれて、もっとひどいことになる。しかも冷蔵庫は扉に寄せて置かれている。だから扉は開かない。軽い冷蔵庫だから、力を入れて押せば動くでしょう。ただし玄関先は僅かに斜面となっています。冷蔵庫は倒れるかもしれない。そうなればダンボールは転げ、ベビー服もぼろきれのように放り出されます。(私がそこから連想するものについては、あらためて書きません)

苅谷さんのお話の通りなら、○ミ○さんには一時の過ちがあったのかもしれない。しかし奥さんと赤ちゃんには何の罪もない。それに○ミ○さんに罪があったとして、もう少し良心的な嫌がらせの手段があったとしたって、私たちに何の権利があって、それに加担していいといえるのだろう?

○ミ○さんは、概ね話を承知されていたとする。役者の妻って、こんなことまで耐えなきゃいけないのか。役者の子って、こんな扱いに甘んじなければいけないのか。

けれど、40人くらいの観客は、それでもやっぱり苅谷さんのパフォーマンスに、まだ愛想を尽かしていないし、ここまでの進行に異論もないようです。私がもう少しだけ、我慢すればいい。彼らは私のスタンドプレーを見に来てるわけじゃない。

それに、私は苅谷さんの「芸術」に手を触れてしまうことを、恐れていました。虚構と現実の境界を曖昧にするのが狙いの作品なのに、私が現実説に一方的に加担して、引っ掻き回し、作品を破壊してしまうことを恐れました。

20.破壊

苅谷さんが、「平井堅の『瞳を閉じて』をワンコーラスだけ大声で歌って、ダッシュで逃げます!」という。これで解散なのだそうだ。せーの、で歌い出す。「ひーとみーをとーじてー♪(以下略)」

「逃げろー!!」ダダダダダッ(下北沢方面へ観客ともども走り去る)

……。

私は、みなとは逆の笹塚駅方面へ、トコトコ駆け出す。苅谷さん、スタッフのみなさん、お疲れ様、という気持ちを込めて、いちおう、走るには走りました。

コンビニがあるのは笹塚駅方面です。とりあえずコーヒーを飲み、ゆっくり現場へ戻りました。

誰一人、残っていない。道の彼方まで、見事に誰もいない。さっきまで断続的に現れていた通行人もみんな仕込だったんじゃないかと疑いたくなるくらいに。ついさっきまで、ここに40人くらいの人が集まっていたなんて、誰も思わないでしょう。

○ミ○さんの家の玄関先に置かれた異様なオブジェだけが、少女単体第4回公演の会場がここだったことを、主張していました。閑静な住宅街。静かな夜。どこにでもある、静かな夜。街頭の薄明かりの中、それは静かにうずくまっていました。

何も入っていない冷蔵庫、空の段ボール箱、主が成長して抜け殻になったベビー服。黒、茶、赤の取り合わせ。大の字に広げられ、文字で表面を埋め尽くされた赤い服は、呪文に絡み取られ、祭壇に捧げられた生贄のように見えました。これが、苅谷文の作品なのか。「芸術」なのか。

一歩、二歩、近付きます。すると、かすかに、かすかに聞こえてくる……ああ、赤ちゃんが泣いている。

私は、何をしているのだ?

今、問題は、先ほどまでここで行われていたことが、ネタだったのか、マジだったのか。判断がつかないことでした。

とりあえず、待とう。ネタなら、スタッフがオブジェの回収にくるでしょう。あるいは、○ミ○さんがゴミの片付けをしに現れるのだと思う。21時30分まで、待つことにしよう、と思いました。

けれども、もしこれがマジで、21時30分になる前に奥さんが様子見に顔を出したら、どうなるだろう?

私は私の倫理観において、汚されたベビー服だけは見せたくない、と思いました。そこで私はベビー服を**することにしました。後で戻せるように、まず現在の様子をしっかり頭に叩き込む。よし、大丈夫。

そうして○ミ○さんの家の玄関先でごそごそやっていたとき、とある音が気になって道路に顔をひょいと出すと、自転車でパトロール中の警官が! うわ。慌てて顔を引っ込めたのだけれど、何でそんなことをしたのかわからない。かえって怪しいじゃないか。目の前を通り過ぎていくお巡りさんに、軽く会釈。何だよ、何なんだよ、と心の中に愚痴がどんどん出てくる。

作業を終えて、手持ち無沙汰になりました。スタッフがこのまま現れなかったなら、段ボール箱を**しようと思うので、**を探すことに。左右を見回しながら道をてくてく歩いていくと、それはすぐに見つかりました。近くてよかった、と思う。○ミ○さんの家の玄関近くまで戻って、ぼんやり考えながら時間を潰すことにしました。

ダッシュで解散のようなことを苅谷さんはいっていたけれど、ひょっとしたら、会場までみなで戻って「全部ネタでしたー」とかやっているんじゃあるまいか? ふいに疑心暗鬼に襲われます。いや、もう自分は自分の行動を決めた、いまさら悩んでも仕方ないさ。それに、苅谷さんは過去の公演で、その手の公演の印象を確定するようなことを避けてきていたはず。あのままついていっても、何も解決しなかったろう。

下北沢方面から、観客の一人が歩いてきました。どこまで走ったのか知らないけれど、地図で確認したら、案外ここからホールまでの距離は近い。けっこう時間が経っているので、ホールまで戻って解散したのか……。

彼女は、○ミ○さんの家の玄関前へ歩み寄り、携帯電話を取り出しました。パシャッ!

そして、笹塚駅方面へと歩み去る……。

21時30分になりました。

もうベビー服を元に戻すことはありません。ベビー服は**のままです。私はダンボール箱を**しました。続いて、冷蔵庫を**しました。本当はダンボールのようにしたかったのですが、これは勝手に**できないので仕方ありません。せめてこうしておけば、扉を開けるには支障ないだろう、と。最後に「家内安全」の張り紙を**しました。

こうして、苅谷文さんのオブジェは**された冷蔵庫を残して消え去りました。少女単体の公演が後に残した異様な空間、苅谷文さんの芸術心の発露は、無粋な観客の手によって破壊されてしまったというわけです。所詮、私はつまらない人間さ。ちっぽけな倫理観の方が、芸術より大切なんだ。取り越し苦労の可能性を考えても、こうしないわけにはいかなかったんだ。

テレビドラマの中で殺人事件が起きても、私は作者を非難しない。虚構の世界の話だと、割り切っているからです。どうせ、自分には何も手を出せない、向こう側の世界の話だからです。そうして作品と自分自身の実生活とを切断して、アハハ、と楽しんでいるのです。けれど今回、私はそうすることができなかった。

少女単体が何を目指しているのかは知らない。「これはネタ」という観客側の暗黙の諒解に苅谷さんも乗っかっていて、お互いに明言はしないけれど、ネタをリアルに演じていく、そういう作品なのかもしれない。苅谷文は「苅谷文」を演じ、観客は「観客」を演じる。みんな、わかっていて、私だけが本当に迷ってしまったのかもしれない。

単なるバカ、全然わかっていない客、そういわれても反論はできません。そんな自分の無才を知りつつ、芸術家の作品を壊したのは、少なくともその点において罪だと認めます。

オブジェを解体している間、赤ちゃんは断続的に泣いていて、胸が締め付けられる思いがしました。

帰りの電車はガラガラ。新宿までのたった一駅を、椅子に深く腰掛けて過ごしながら、「すっかり作品の世界に取り込まれてしまったんだなー」と、ぼんやり考えました。どっと疲れが出てきました。

他の方のレポートなど

ネットユーザは約8000万人、mixi 会員は300万人足らず。それなのに、たった約40人の客の中に mixi 会員で日記をちゃんと書いている人が何人も? 少女単体というプロジェクトの偏りが透けて見える感じがします。mixi の会員も、高々300万人で「一般化」とかいってる場合じゃないよね。

本当に芝居じゃなくて嫌がらせをしたんだ、ストーカーの手伝いをさせられたのだと思っている客もいそうとしろうさんはいう。その通りです。私はその可能性を完全に排除することがどうしてもできなかったので、自分にできる範囲で後始末しました。苅谷さんが逃げろといったから逃げちゃった人なんて、みんな「これはネタ」という予想に運命を賭けたのと同じだと思う。

苅谷文さんご自身の感想。

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