趣味Web 小説 2006-03-09

隘路を行く

最近読んで衝撃を受けたのがバブル景気真っ只中の1988年に刊行された「ドルと円―世界経済の新しい構造」(宮崎義一/岩波新書)です。国債依存の財政を改めようとして国鉄と電電公社の民営化をはじめ大胆な施策を推進した中曽根内閣の行政改革について、これこそバブル経済(当時はそのような言葉はなかったが)の原因だと宮崎さんは指摘しています。余ったお金はどこかに回る。民間が土地と株と海外投資の他にお金の使い道を持たないのなら、政府がお金を使うべきだ、と。

民間にお金をいくら渡しても下水道は普及していかない。国立大学並みの授業料の私大がどんどん増えていくわけもない。「慈善事業じゃないんだからさあ。そりゃ、少しくらいは、寄付したっていいけど」というわけ。

以前、bewaad さんから「貯蓄過剰なら政府が使うしかない」という説明を受けたのですが、どうもピンとこなかった。バブルのとき、政府が国債の発行を減らす中、民間は自分で投資先を見つけたじゃないか、と。貯蓄が過剰で困るなんて話、ありうるのか、と思った。資金あればあっただけ融資先を見つけるのが銀行じゃないか。でも、そういう話じゃなかったのですね。つまり、民間で消化可能な適正な投資量というものがあって、それを超えた分は政府が公共の目的で使うべきなんだ。

そう考えてみると、バブルで潤ったのは一部の人間だけだろう、庶民の生活はろくに改善されなかった! という週刊誌的な怒りは、ある意味で、いい線を突いていたのかもしれない。けれども、国民は絶対に国債発行額の増額を認めなかったのだし、土光行革を大歓迎した。自分で自分の首を絞めたんだ。今また量的緩和の解除に続いてゼロ金利からの脱却までもが期待されていて、「銀行は儲け過ぎている」だの「老人の生活を守れ」だのといった声が渦巻いている。

悲しいのは、その「虚妄」をいくら言い立てたって、広く浸透することはない、ということ。バブル景気の真っ只中においてさえ「好調な民間から資金を奪うな!」みたいな考え方が支配的だったから、国債の増額なんて許されなかった。そして青天井の地価に庶民の怒りが炸裂し、鬼平こと日銀の三重野総裁がバブルを崩壊させ、それから数年間、鬱憤晴らしのバブル紳士叩きがずっと続き、とうとう金融危機がやってきて、デフレ時代を招来することになる。

で、「貯蓄過剰なら政府が使うしかない」という教訓は、常識になりました? むしろ、逆。小学生の頃から新聞とニュースが好きで、社会科を得意とし続けた私だって、サッパリわかってなかった。全然、違うことを考えていた。

……と、私はあたかも宮崎さんや bewaad さんの指摘に納得するのが「正解」で、頭のいい人の結論であるかのように書いてきたわけですが、「みんな」をバカ扱いしたって話は先へ進まない。「国債残高がこんなに膨らんでしまったのは財務官僚が無能だからだ!」というコメンテーターに共感する人々とどう向き合っていくのかということを、考えなければならない。とはいえ、考えて結論が出れば世話はない。

エコノミストたちの歪んだ水晶玉―経済学は役立たずか 経済論戦―いまここにある危機の虚像と実像 構造改革論の誤解

結局、野口旭さんのように、自分の信じるところを「いっても無駄だろうなと諦めながらも説き続ける」しかない。最後に残るのは信念だけで、それって相手側と同じじゃないかということなのですが、うん、そういうものなんだと思います。

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