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ダマヤ国際文化会館 文化エッセイ



絵画(作成)
美男子(!?)な僕と不細工(!?)な絵描き
 子供というものは、それも年齢の低い子供であればあるほど、概して楽観的なものだ。自分の可能性は無限と信じ、野球選手だろうが宇宙飛行士だろうが一度決めたらなれるものと信じて疑わない。
 子供は楽観的な生物で、さらに言えば自分に絶対的な自信をもっているものだ。特に幼児は初めて行うことに対して、大人がもつような不安など微塵も見せず、自分は絶対にできるという確固たる自信があるものだ。僕もそうだった。
 話は小学校1年生の図工の時間にさかのぼる。
 どういう訳かきちんと幼稚園を2年間も通ったにも関わらず、それまで写生らしき写生を僕はしたことがなかったのである。よって小学校に入って初めて馬鹿でかい画板と画用紙を持たされ、飼育小屋の前に並ばされたのである。写生課題は「ニワトリをかく」という物だった。
 はじめるまでは意気軒高、「僕は天才的な絵の才能がある」等と妄信して、対象である鶏を見た瞬間、「これをそのまま描けばいいんだろ? 楽勝楽勝」とタカをくくりまくっていた。
 ところが、、、結果はお解りの通り僕は自分の描いた絵を見てビックリした。人間はどんなに創造力を駆使して架空の動物を作ろうとしても、実在の動物からは逃れられないというけれども、確かにあの絵は如何なる動物とも似ていなかった。いや、そもそもあれはまだしも抽象画に近かったと思う。
 根拠のない確信だったにも関わらず、僕は激しく落ち込み、以後図工の時間になっても絵筆を投げる生活が続いた。そのせいだろうが、多分に生来の不器用な手先のせいもくわわり、周りが年と比例して画力をあげるのに対し、僕は十年一日のごとくピカソかダリの出来損ないといった状態。
 それまでは絵が下手なことに泰然としていたが、小学校5年のころに事件が起こって、それは最大の恥辱と変わった。
 と、いうのも小学校5年の1学期終了間際にあった保護者参観の目玉として、似顔絵を描くという課題があった。それも自画像ではなく「男女一組になってお互いの顔を描きましょう」という担任得意の発案。
 散々美術(当時は図工だが)をサボった報いか、僕の相棒は日頃からお世話になった女の子、しかもそれが職業画家の娘ときてはいうこともない。彼女は僕の顔の特徴をすべて描き出し、御丁寧にも美化までしてくれた。同級生どもはこの絵のトリックにも気が付かず「ヤマダは織田裕二に似ていたんだなあ」と馬鹿言い出す始末。
 それに対して僕の描いた絵はまさに幼稚園の園児そのまま、いつもの図工の授業にそうしたように滅茶苦茶の抽象画モドキを書いて「僕の絵は死後に理解されるだろう」とうそぶいてごまかせばよかったものの、下手に相手を考えて本気でうまくかこうと力んだためにでますます空回り。
 結局おそろしく顔の崩れた現実とは似ても似つかぬ「顔面崩壊したブス」が出来た。
 これだけでも相当恥ずかしいのにこの絵を廊下掲示板に張り出すんだわ。僕の名前のところには美男子、彼女の名前のところにはヘチャ。まったく廊下の前を通るたびに申し訳なさと恥ずかしさで死にたくなってきたね。
 結局僕はその後もなんのかんのと小中と美術をやり過ごし、絵をろくに描かずにやりすごしてきた。恐らくもう2度と絵は描かないであろう僕にはしかし、たった1枚だけ自信のある絵がある。
 高校文芸部時代の文芸雑誌「ARCADIA」136号表紙。
 今でも部室のロッカーの片隅に、埃をかぶっているだろう。

付記・この文を書いた後、何をとち狂ったか「ペイント」とかいうウインドウズについてくるソフトを駆使してワケのわからん絵を描いた。云うまでもなく「街」の各所に見られるあれである。あれをみれば大体の酷さは解っていただけると思う。 

絵画(鑑賞)
スケベな村長、美学者の助役
 呆れた話だが、性欲過多な思春期の人間とは、時として獣じみた愚行に出ることがある。今では似非紳士面で生活している僕とてそれは例外ではなく、今考えると若さの至りに顔を赤らめる体験がなくもない。
 ただまあ世の凶悪青少年と違って、痴漢や覗きやレイプをやった訳ではないのでまずはご安心いただきたい。
 何をしたかというととにもかくにもエロ本が見たくて仕方がなかったのだ。否、厳密に言えば女の裸の写真または漫画が見たかったのだけれども、当然の如くそんなものは手にはいらない。
 確かに一時期、悪友とつるんでエロ本の転売という姑息な小遣い稼ぎをしたことはあるが、それだって小5の頃に塾に入った後は全くしていなかったし、営業権は疎遠になった友人がすべて抑えていたので、僕はまったく女性の裸を拝めずにいた。
 本屋で買おうにもお金はなかったし、立ち読みするには僕は気が小さすぎた。
 で、僕はどうしたか。
 図書館に行くのである。そしてまっすぐ美術のコーナーへ行って「写真集」を取るのである。
 そう、浅ましい畜生の僕は古今の名画を見て興奮していたのである。まるでヘンタイであるが、幸いにも当時の僕は興奮しただけであり、その後にどんなことが待っているのかは知らなかった。
 今ではとても信じられないことだが、僕はフランス革命で有名なドラクロアの「自由の女神」なんてのを見て興奮していたのだ。ボッティチェリの「春」や作者は忘れたが「ビーナスの誕生」を見てはあまりの惜しさに怒り狂った。まあその他、色々裸体画はあるもんで、随分と満足させてもらった。
 ただ日本の誇る春画はそのまんまポルノなのだが、どうにも興奮しなかった。ま、即物主義の小学生じゃしょうがないよな。今みたって興奮はしないと思うけどねえ。
 この村の助役であるバラ職人氏は実は文芸よりも美術部の総帥(入学直後に部長を拝命)として有名で、また図書館好きの才人として知られている。当時、僕と彼は全く面識はなかったけれど、片や古の画伯のセンスに興奮し、片や女の裸に狂喜する。
 なんとはなしに、そう考えると面白い。

(この項を読む女性読者よ、当村では現在、ここが一番猥褻な文章である。これ以上は出てこないので、ご安心召された上で、お回りください) 

写真(撮影)
撮影の技術
 写真撮影の技能なんて全くない。
 まあ最近のカメラは進歩著しいから、どんなド下手でもそれなりには撮れるようになった。カメラが趣味の連中はともかく写真をとるのは記録を残す程度という考えの人間にとってはデジタルカメラの隆盛もあいまり、いい時代がきたと言えるだろう。
 思えば僕が子供の頃は使い捨てカメラもプリクラも下手すりゃインスタントカメラもなかったわけで、まさに隔世の感がある。
 カメラという高価な道楽を趣味に持つものは当然貧困地区で知られる小学校ではいなかった。だがブルジョワの勃興甚だしい中学以降は何人かいた。一人女子にとんでもないカリスマがいて、彼女に僕の友人たちが影響を受け、馬鹿高いカメラを振り回し始めたのだ。
 これは結果的には助かった。中高と反主婦連闘争戦線をはってクラスの女子と対立していた僕らは、誰からも写真を取ってもらえなかったからだ。酷い話だが卒業アルバム編集時に、僕らのグループだけ個別に写真を供出するように要請されたくらいである。仲間で勝手に撮ってもいいのだが、そんな洒落者はいないし、修学旅行でカメラ持たせると寝顔ばかり取るような連中である。
 そんな記録を残さないアステカ文明のような僕らに彼らはカメラ小僧の良心とばかりにカメラを首から下げて現れ、フィルム代も構わずバシャバシャと撮影していった。実は彼に写真を撮られたことはあるが、一枚も持っていない。これは不思議な話だ。暗黒科学者よ、このHP見てたら一枚ください。
 大学では写真とは完全に縁遠くなり、僕の写真は証明写真を除いて5枚もないはずだ。旅行&鉄道好きの友人がよくカメラを持っているが、お互い撮るも撮られるもつもりはないようで、かくて有形記録は残らない。
 では僕の家庭はどうかというと、幼少期ならいざ知らず、いまや家族旅行なんて全く行かないので写真など撮る機会もない。幼少期にしたってカメラなんて高価な品を親が触らせてくれるわけもない。
 僕はまったくシャッターを押す必然性のない人生を送ってきたのだ。構図を云々するよりもそもそもちゃんとした押し方を知らないのだ。
 だから僕が写真を撮ると心霊写真がよくできる。
 レンズに指が写ったり、前髪がうつったり、ガラスに写った自分が見えたりとにかくまあ、滅茶苦茶である。今後の人生においてもカメラ好きがまわりにいてくれることを強く望む。
 今更あんな高価な道楽をはじめようとは思わないよ。
 このHPに写真が載ることがあったら、デジカメにはまっている僕の弟子、(つまりバラ職人の孫弟子筋)の久保ちゃんがやってくれるはずである。乞う御期待である。 

写真(被写)
ポーズの遺伝子
 僕は写真写りが大変悪い。
 別に写真嫌いではないのだが、あんまりカメラの類に興味が持てないのは、そういうことがあるからだろう(学校の旅行でもカメラは持っていかない)。まあカメラを向けると逃げ回る、なんてことはないが。
 子供の頃から今に至るまで気に入った写真など数えるほどしかない。
 高校に入ってからはますます写真写りの悪さは酷くなり、写真の上での僕は「ハゲ」「斜視」「顔長」の極めつけ、といった感じである。ああそうそう、それと「ホモっぽい」というのもあげられるな。別に僕は将来はいざ知らず、ハゲでも斜視でもないし、面長ではあるが写真で出てくるような一目見ただけで笑うような顔長ではない。
 これは一体何だろうかね。非常に困った話である。だから僕の前で写真の話はタブーだったような気がするね。今、卒業アルバムを出してみたけど、こりゃひどいや。例えるなら頭のイカれた異常者が人をバラバラにして拘置所にぶち込まれ、ストレスで頭がハゲ(裁判に行くと若ハゲが異常に多い)てしまったような写真がオンパレード。この虚無を見るような目つき、ヤバイぜ。
 以上のような特性があるのだが、あともう一つ僕には写真を撮るとき無意識のうちにやってしまうくせがある。写真を撮るとき右肩を前に出して斜め体勢で撮るのである。この気取ったポーズはどこから出てくるのか、と思っていたが偶然なところから発覚した。
 父親の影響である。
 父は僕以上の写真嫌いで、撮ると顔が本物より2割恐ろしくなり、ヤクザの組長の如き恐怖写真ができあがるのだが、彼もまた右前にして撮るのである。ルーツを聞いてみると「は? そんな癖あったか?」と云われた。彼もまた無意識にやっているのだ。
 おじいさんの写真は僕は見たことがないのだが、もし右前に撮っていれば何となく楽しいものがある。残念ながらおじいさんは先年お亡くなりになったが、親父と僕が一緒に写真撮ったら相当怖い画ができあがると思う。
 片や「おんどりゃ、おのれ筋モンなめとんのか!」と凄みそうな顔。片側は「悪魔の電波が俺に囁いたんだー、てめーをやれってよお」とか絶叫しそうな顔。こりゃ怖いぜ。 

写真(鑑賞)
とりあえず、被写体
 高校生の頃の話。割と親しい文芸部の読者が写真部員だった関係で、文化祭には必ず写真部の発表に寄り、アンケートに答えていた。この書式は例年同じで、まず好きな写真のナンバーを3つ書き、短評を書けというもの。
 読者は3人いたので1人ずつ作品を選ぶのだが、困ったことに何がいいのかさっぱり解らない。いや撮っている対象は解るし、ピンぼけもぶれもないし指だって映っていない。普通に犬やら猫やら人やらを撮った写真なのだが、これを褒めろと云われても困ってしまう。
 これが素人である仲間が撮った写真だと褒めるのは簡単だ。逆光にもならずピンぼけもせずぶれていなければそれ自体が賞賛対象になる。写真ていうのは下手な人は本当に下手だからね。昔いたよ、必ず撮るとぶれてる奴。
 まあ、それはともかく僕には写真というのは基本的に見られればそれ以上の所は解らないのである。そうなると判定基準は被写体が何か、というところに集約され、美しいもの可愛いもの決定的瞬間を捉えているものを選んでしまう。これはしょうがないのである。
 だから3作品はそういう基準で読者の作品を選び、短評欄には文化祭ということもあって「**教室で文芸部サイン会やってまーす、きてねー!」などと書くのだが、よく考えてみれば写真部員がこれを読む頃には文化祭は終わっているのである。
 さて、ここに一人の女性が登場する。
 僕の高校時代の友人ならすぐにピンと来るであろう。そうあの偉大な彼女である。僕は高校時代に「反主婦連闘争」なる不毛な妄想戦を仲間を率いて統括していたのだが、対女子封鎖令(これらはすべて現実に起きたことである)を破って友人連が尊敬(崇拝)していた人である。そんな彼女であるからして、部内でも相当崇拝されていたらしく、僕が後輩にクラスの女子の邪知暴虐を訴えると個人攻撃など誰に対してもしなかったのに関わらず「でも**先輩はそんな人じゃないですよ」と食ってかかられた。
 まあ、そういう彼女の作品は万民から評価は高かった。僕の友人であり自身が数万円のカメラを所持する部員も「やっまだー、このすばらしさがわからんとはなにごとかー」と云っていた。彼に限らず信用する友人知人が云うのだ。
 いや、しかしやっぱり僕には解らなかったね。
 何を映しているか、が解らないのだ。絵で云えば抽象画の領域かな。何かのモニュメントではあるらしいのだが、何の意味があるのかはさっぱり。やはり美学センスがないことを痛感したね。
 で、結論なのだ。彼女の写真には確かに重大なる美的センスがあるのだろう。そしてそれは解る奴には解る。と、しても本当に僕の友人全員が理解していたのか? これにはちょい疑問が残るよ。 

書道(作成)
これが手本だ「昇竜烈破」
 書道の授業というのは今思い返しても本当に訳が分からない。
 僕はそもそも芸術や体育などという画一的に判断するのに無理があるものや先天的要素に負うところが大きい科目の点数化には反対なのだが、それを差し引いてもあの書道の授業は何だったのかという気がする。
 うーん、基本的には誰でも受かるペン字検定の4級を強制的に受けさせられて合格してるけど、あれだって漢字検定みたいな知識問題で稼いだからなあ。もっとも落ちた人もいるからあまり偉そうなことは言えないが。
 まあ芸術の時間は書道に限らずほぼ息抜きの時間みたいなもので、その授業自体は決してつまらないものではなかったけどね。うーん、しかし書道の時間で何かを覚えたとはいいづらい。
 僕の中学は当時は(現在は知らない)日本でも二番目に書道の盛んな学校で顧問からクラスメートの書道部員まで早々たるキャリアの集まりだった。そんな中での書道の授業だから僕らに出来ることは悪ふざけくらいのもの、元々がだらしない僕らのことだから後始末をろくにしなかった報いがきてて筆なんか固まって使い物にならないし、机は体面4人がけで任意の席だったから仲いい奴で集まってワイワイいいながら、同じ字を何度も半紙に書くのみだった。
 もっとも特別書道に関心のない生徒にとってはその思い出が重要なのかもしれないが。先生も「しょーがねーなー」って感じで苦笑していた。その道の第一人者でありながら小沢一郎のような顔の人であった。
 そんな中、一際印象に残るエピソードがある。
 中三の三学期はじめに出た課題は「かきぞめ」だった。文字は任意。
 僕と破天荒な友人Kはそのころ一緒によくはしゃいでいた。勿論、ここでもお題を巡って額をよせあい、結局二人の共通意見で「昇竜烈破」と大書することに決めた。まあ格闘ゲームの必殺技である。そして書き上げた後、なんと彼は「みんな、これが見本だぜぇ」とおどけつつ、傍らにあった温風ヒーターの吸気口に僕の作品だけをぺたっと張り付けたのである。
 それを見た先生は「あれは馬鹿の見本だ」とのたまわれ、後に僕に最低点をおつけになられた。 

書道(鑑賞)
酒による
 僕の高校は書道の腕ではまあ天下に名を聞こえた学校だった。
 そんな学校だから書道の先生もなんだかもの凄いその道の権威たる大先生であった(外面からではとてもそうは見えなかったが)。
 さて僕は高校時代、朝は始業の一時間前に登校して隣のクラスの連中とトランプを切ることを日課にしていた。それこそ飽きもせず、毎日大富豪をやっていた。
 さてそんなある日、教室に見慣れないカレンダーが貼ってあった。書道部の部員が貼ったのだろう。上半分が書道の作品である他は普通のカレンダーだ。いかめしい感じのや中国語らしいもの、念仏のように書き連ねてある物もあれば一体何をかいてあるのかすら解らない物もある。
 まあ、共通しているのは「読めない」ということだ。
 絵画もある程度のレベルに達すると抽象画という、素人にはわけわからん絵を理解し描けるのだが、これは書道も同じらしい。
 パラパラとカレンダーをめくる、と我が高校の先生の雅号が出てきた。
 字を見る、これには絶句した。
 巻物のようなプロお馴染みの半紙に馬鹿でっかく一文字「し」と書かれていた。いや厳密に云えばぶっとく「し」の形の字が一文字だけ書かれていた。
 なんとも形容しがたい面妖な作品だ。
 しかもタイトルがふるっている。
「酒による」
 どうすりゃこれがそういうタイトルになるのかはわからない。ひょっとしたら「先生がこんな字を書いたのは「酒による」ためか」とも思ったが、そんな馬鹿なものを栄えあるカレンダーになどするわけがない。
 まったく訳がわからない。 

音楽(鑑賞・クラシック)
ミス・フルートの舞台裏
 学生にとってクラシックの演奏ほど一般の生徒の眠気を誘う音楽はあるまい。また好きでもない人にとっては学生時代を過ぎればクラシックコンサートなんてものはまあまず聞かないだろう。僕もこの部類だ。
 そもそも高校生なんて意味もなく遅くまで起きているのをステータスにしているような生き物である。ゲリラのごとくスキあらば寝むらんとしている集団に対し、スローリーな曲をかけようものなら「寝てください」と言わんばかりのものである。高校の芸術鑑賞会には数百万以上のギャラが投資されているにも関わらず、これほどまでやる気のない行事はまあないだろう。
 僕の知る限り中高6年間でみんなが起きていたクラシック演奏はただの一度、陽気なイタリア人がやたらとがなるギターショーぐらいだ。このイタリア人、最後に花束を渡しにきた生徒代表の女子にいきなりキスを全校生徒の前で敢行して、みなの度肝を抜いた。
 いくらクラシックの最中に眠るからといっても僕の出た学校は近年では珍しいことに、恐ろしく真面目な学校なので眠り方も礼儀(?)正しくあくまでも静かに眠っているわけで余程のことがなければ照明の関係で壇上の人は気が付かないはずなのだ。
 気が付かないはずなのだ、が、一回だけ演奏者がキレたことがあった。
 これは機材補助をしていた演劇部の先輩から聞いたのだが、芸術鑑賞会史上最もつまらないとされているスウェーデン人女性演奏者による「フルート独奏」のときだった。
 これは僕もつまらなく思っていたし、異例ずくめの出来事だったので覚えていた。
 ちなみにその芸術鑑賞会、前回にやったのがクラシックもどきの「琴と尺八のアンサンブル」という鬼のように退屈な代物だったということもあり、前の下馬評からしてひどいものだった。
 そして結果も裏切らず、ミス・フルートがたった一人でやってきて(なんか世界的な人らしいが、鑑賞会のパンフには必ずそう書かれるものである)、挨拶も自己紹介も前触れもなくぴーひゃら吹いて、突然終わっては袖に消えるという繰り返し、曲名も解説も一切無し。
 オーケストラのようなパワーも重低音もないし、音が甲高くて眠れもしない。ひどい時間だった。規定時間が過ぎて、例によって突然曲がやんで演奏者がいつもの通りにひっこんで、ひっこんだはいいけど戻って来ない。
 普通は教師によるお義理のアンコールや生徒代表のお礼、花束贈呈がある筈なのだがそれもなく、教師のアナウンスが「これで終了します」と。
 これには驚いた。
 そのとき舞台袖にいた先輩の話によると最後の曲を吹き終えると彼女は近くに置いてあった機材やなにかを片っ端から蹴飛ばし「ファック」「ジャップ」と罵りまくり、接待役の教師が薄ら笑いを浮かべて「ベリーナイス、サンキュー」と怪しげな発音で褒めるという異様な自体になったという。
 そのせいかどうかは知らないが翌年から僕が卒業するまで、芸術鑑賞会にはクラシックコンサートは一切行われなかった。 

音楽(鑑賞・ジャズ)
退廃から教養へ
 学校のスクールコンサートで「北村英治オールスター」(だったっけ?)がやってくると聞いたとき、僕は「へえ、ジャズねえ」と思った。
 今でこそ教養の一種としてありがたがられているジャズだが、ジャズ発祥の時から「退廃の音楽」とか「不良の聞く物」とか散々悪徳視されていたのだ。勿論ジャズメンなんてのはろくでなしのいかがわしい職種であり、ジャズ喫茶などは立ち入っただけで停学でも食うようなところだったのである。
 ところが、それが学校に呼ばれるほど体制的になったとはねえ。
 僕の高校はとかく厳しい学校で(別にこの厳しさは嫌いではなかったが)、ギター部の勧誘文句が「今年からフォークギターが解禁になりました」というくらいだった。そういう訳で、まさかジャズを公費で呼ぶとはおもわなんだ。
 そもそも先進的な音楽は当時の有識層から「わるいもの」として指弾されながら、大衆の支持を経て祭り上げられ古典化し、体制になる物である。古くはベートーベンから現代のジャズ、ロック、いずれもそうだった。ロックが既に清潔なイメージになってしまった今、悪いところを引き受けているのはラップである。ラップもそのうち「いいもの」にカテゴライズされるだろう。
 ともあれ、この学校が呼んだジャズバンドは文句なしによかった。僕はそれ以前にジャズを聞いたことがロクになかったので詳しいことは云えないが、まったく 退屈しなかった。聞いたことある曲、ない曲。激しい曲、スローな曲。初めてとは思えないほど楽しめた。血管が傍聴し、血が逆流し、全身が鳥肌だつような音楽の洪水。僕は完全に打ちのめされた。
 概ね僕の友人達も同感で、実にすばらしい行事だったと口々に云い、学校の乙な人選を支持した。

 さて、ここから先は余談である。
 卒業した後、僕はある友人からそのクラスの男子が大学で有名なジャズメンとして君臨しているということを知った。彼とは若干つきあいがあり僕の原稿などを喜んで読んでくれたのだが、当時からそんな腕前があるとは気がつかなかった。
 その後、彼と偶然で会う機会があった。
 18だというのに彼はタバコを吸っていた。別に僕はタバコくらいでは中学生が吸おうと何にも思わないし、いわんや大学生のジャズメンである。こんなものは常識である。清潔なミュージシャンなど虫酸が走る。
 だが、彼は一本のタバコをいつまでも口からはがさず、フィルターが燃えて煙の色が変わるまで吸っていた。
 彼の家は相当富裕にも関わらずここまでバカをやれるとは案外大物になるかも知れないな、と思った。 

音楽(演奏・マーチ)
鼓笛隊の屈辱
 マーチの演奏と云ったって僕にブラスバンドの造詣があるわけでは無論ない。音符の読めない音楽部員なんているわけないでしょ? これから話すのは小学校の鼓笛隊の話である。
 学校の近くに住んでる方なら或いはお解りでしょうけど、9月にはいると、急に学校から訳の分からない合奏が聞こえてくる。運動会のメインイベントであるマーチングバンド演奏の練習である。曲目はアレンジされた校歌や聖者の行進のようなスタンダードナンバー、或いはその時々の流行歌が選ばれる。
 僕は実は結構この軍隊式の「鼓笛隊」或いは「応援団」に憧れていた。
 応援団は場所が不適当なので除外するが、この鼓笛隊は小学校1年の時から憧れて指揮者にはなれずともその幹部然として前方に控え、特別な制服(米米クラブの衣装のような物と思えばよろしい)を着ている彼らに尊敬の念を込めてみたものだ。
 小学校6年生。
 僕の学校は生徒数が少なかったのでそれまで6年生は全員、それまでの十把一絡げのリコーダー隊ではなく、悪くてもピアニカ隊、よければ大太鼓や鉄琴、アコーディオンなどの隊に入れることになっていた。
 事実小学校5年生の時まではそうだった。
 しかるに悲しいかな、7月の音楽の時間、僕は志願した部隊は尽く落とされた。そうして敢えなく6年生43人のうち唯一のリコーダー隊になってしまったのだ。6年生1人ということで隊長格(縦隊を組むリコーダー隊の先頭で1人吹くのがいるのだ)に指名されればまだ良い。しかし慣例により、それは年下がやることになったのだ。
 練習中ではクラスの面々が華美なコスチュームに着替えてやっているのに、僕だけ年下の中に混じっている。
 これを不憫に感じたか、もう一人級友がリコーダー隊に落ちてきた。
 彼は大太鼓という花形にいたのだが、後輩に音楽クラブで大太鼓専門の奴がいてそいつがうまいので交代させられたのだ。丸刈りで武道をこよなく愛する彼は大太鼓向けの体格であったが、繊細さは微塵もなかった。
 僕たち二人は後輩の隊長格の指示も聞かず(後輩も強くはでれない)、好き放題にサボっては先生から怒られていた。
 そんな具合に隊列の転換(散開する歩き方など)や配置すら知らないままの僕らは最後尾につけられ、「演奏しなくてもいいから、前の子の後について歩いてろ」という厳命を受けた。
 当日僕ら二人はやけくそになって、ひたすらリコーダーで「チャルメラ」のテーマを吹き続けていた。 

音楽(演奏・ピアノ)
彼女の物語
 これは僕の近所に住む女の子の物語である。
 彼女は一つ下で小学校一年生の頃、ピアノを買って習い始めた。そのピアノ塾は個人のピアノ教師がやっているものだったが、積極的にリサイタルをやったり選手権に塾生を送り込んだりと大変熱心な塾だった。
 決して彼女の家は金持ちではなかった。しかし、教育熱心な家であり彼女の家からは毎日、ピアノの音が何時間も響いていた。時には母親の怒鳴り声が響いたり、彼女の鳴き声が聞こえることもしばしばだった。
 それでも練習の成果は着実に出てきており、彼女は小学校二年以降予選大会では毎年入選(予選通過)し、審査員からは特別の言葉を貰うようにまでなった。僕も彼女に頼まれて近所の大きなホールで行われる発表会に出向いたが、確かにいつも彼女の名は呼ばれ続けていた。
 彼女の部屋に行くといつもその時の盾やトロフィーが飾られており、地元の情報誌に名前が載ったこともある。一度など東京本選に招かれて大勢の派手に着飾った少女の中で、一人地味なワンピースを着て華麗に弾き続けたこともあった。
 小学校では彼女に太刀打ちできるもおのもなく、小学校四年の頃から合唱団のピアノ演奏を務めた。市内の小学校で四年生がピアノを弾いたのは母校ただ一校であった。
 そんな彼女が突然ピアノをやめたのは小学校五年のことだった。ある日、一際大きい言い争いが聞こえてきて、翌日その話を聞いた。
 いつもヒステリックな彼女の母親が「ピアノではいい大人にはなれません。これからは勉強の時代です」と無理矢理ピアノ教室をやめさせ、私立中学校に入れるべく進学塾に通わせる、というのだ。ピアノは売り払うはずだったのだが、それは家族の反対にあって取り消されたらしい。
 彼女は泣きながらその一部始終を語り、最後に「ピアノはもう辞めるわ」と云った。彼女が全く母親に逆らえないでいることは既によく知っていた。
 その後、彼女は母親の云うとおり勉学に励み、県内で三位に呉する私立中学校に入った。しかしその後致命的に母親と対立し、今はなんてことない短大に通っている。
 彼女の母親は決定的なところで決断を誤ったのだ。
 今でも時々、彼女の部屋からピアノの音が聞こえてくる。
 その音色は悲しくなるくらい下手くそだった。 

演劇
青春ジムノペティー
 今、サティの「ジムノペティー」を聞きながらこの文を書いている。
 TBCのCMで有名になったが、いい曲だ。懐かしい昔を思い出させる。僕は何故かこれを聞くと半年ほどいた高校演劇部の生活を思い出す。あの高校生活で一番充実していた頃を。
 高校1年時、僕は文芸部で先輩と大喧嘩をし、部長として帰り咲くまで演劇部に身を寄せ、亡命政府を樹立していた。
 演劇部は零細な部活で共学校にも関わらず、男子ばかり2年生が4人という編成だった。ここへ我らが文芸亡命者が男ばかり4人集まり、なんとか人数の取れた部活になった。ただし全員男子という昨今の文化部業界にあっては異色ぼ編成だったが。
 僕らは地区大会を目指して毎日、薄暗い体育館の緞帳の裏で練習した。練習といってもまったく覇気もやる気もないいい加減な物で、遊んでばかりいた。先輩は一緒に遊びつつもそれを嘆き「スクールドラマ96」という脚本を書き上げた。ぐーたらな演劇部を舞台に、生徒に舐められている顧問教師が「双子の弟」と称してサングラス片手に現れ生徒をしごきまくるという話だ。最後はネタばれもして、大団円に終わる傑作だった。
 僕ら4人はグータラ生徒の役として一生懸命グータラな演技を訓練した。
 毎日、遅くなるまで練習した。
 そして大会当日、僕らは公休をとって会場へ向かった。
 男子ばかりの演劇部、笑いをとり、感嘆させ、演技も台詞も自己最高新記録をとったと確信した。緊張するはずの舞台で、僕らは大いにリラックスして、楽しんだ。
 結局県大会には出られなかった物の、顧問を演じた先輩は「ナイスキャラ賞」を受賞した。
 最後に演じた、後に全国大会まで行った高校は(衣装にウエディングドレスを着ていた)演劇の末尾にこの「ジムノペティー」をかけた。僕らはライバルであることも忘れて感嘆し、大いに楽しんだ。
 その後、先輩は引退し、僕らもめいめい手を引いた。後輩はバリバリの中学演劇部あがりの生え抜きで、楽しんでやる空気がなかったからだ。
 もう、二度と舞台に立つことはないだろうけど、この「ジムノペティー」を聞けば、僕の魂はあの薄暗い舞台で演じた、あの日々へと還っていくのだ。 

観劇
つまらんギャグも笑いましょう
 演劇部にいると、一つだけ役得というのがあった。
 すなわち「照明操作補助要員」である。これは全校集会の時などに照明器具の操作をすることによって、参加を免除されるという特権である。暑い(寒い)中、校長の長話につきあうこともなく、空調のきいたところで馬鹿話をしたり漫画読んだりすることが出来た。また頭髪検査も免除されると云う特権は非常においしい物だった。
 同様の特権は「音響操作補助要員」というべき放送部員にもあった。
 ともあれ僕はそういうわけで相当の行事はフケており、芸術鑑賞会とてその例外ではなかった。本稿によく出る芸術鑑賞会(またはスクールコンサート)は年に1.2回あるもので、無教養なる僕にして見ればありがたいものだった。ただ予算上の都合か教育的配慮か感動に足るものもあったが、つまらないものもあった。
 前者は「深川ホームレス・バー」、後者は「銀河鉄道の夜」である。
 後者は選定担当教師の「非常につまらない」という下馬評を聞いていたため、当日は劇団の照明担当が作業を行うのだが「照明操作の見学」と称して強引に調整室へ逃げてしまった。元々照明なんてやらないのに、である。
 さて、この銀河鉄道の夜は実につまらなかった。
 筋は知っての通りだったし、何の必然性があってかジョバンニが女で、声は確かによく出ていたが「逆にそれがどうしたの?」といった感じだった。高校生を前にしかし「銀河鉄道」とはねえ。目新しさも感情の盛り上がりもなく、淡々と話は進むのみ。
 僕はさすがに劇団担当者の脇で文庫本を読むわけにもいかず(それに調整室は観客席同様真っ暗になっていた)、眼下のステージを見つめていた。
 と、髭だらけのいかにも演劇人と云った照明屋が「この学校はウケがわりいなあ」と呟いた。ギャグらしきものをジョバンニがいった直後だった。とても面白いとは思えないが、ギャグだと解っただけでも僕の感性は褒められたものなのかもしれない。
 その後も同様のシーンは数回あったが、誰も笑う者はいなかった。
 髭男は段々イライラしてきたのか、軽く足下を蹴った。僕はあまりのしらけぶりに痛々しい物を感じていた。こんな所に来るんじゃなかった、と思ったがそれはもう後の祭りだ。
 カムパネルラの死を知った頃、ついに照明担当が「こ、こいつら寝てんじゃねえか?」と吐き捨てるように云ったときは恐怖に近い物を感じた。

 教訓;つまらなくても劇中のギャグは笑いましょう 

映画
僕の映画史
 初めて映画を見たのは、まだ幼稚園に上がる前の夏だった。
 父親は会社、母親も隣の大きな街への用事で家を留守にせねばならず、そういうときに僕を預ける隣人も運悪く一家揃って旅行に出ていた。幸いにも母の用事とやらが数時間ですむ物だったため、僕はよそ行き(田舎町に住んでいたので、その大きな街に行くときはきれいな服を着せられていた)を着せられて、大きな街の映画館に連れていって貰ったのだ。
 母は「これから楽しい物語が始まるからじっとしていてね」と売店で買ったとおぼしき「シガレットココア」(紙タバコのような包装の白い砂糖菓子で、どこがココア味なのかさっぱり解らない)を一箱くれた。
 演目は東映か何かのアニメ三本立てで「キャプテン翼」があったのは覚えているが、あとは「アンパンマン」だったか「ドラエモン」だか覚えていない。
 映画が終わってロビーに出ると、母が迎えに来てくれた。
 映画の筋なんてさっぱり忘れてしまったが、とても楽しかったことだけはやけに印象に残っている。
 その後、小学校にあがり映画とは全く縁のない生活に入った。僕の住む街に映画館がなく、最寄りの映画館に往復するだけで月の小遣いが飛ぶのだ。中学校に入ってからは何度か友人に誘われて話題作を見に行った。
 ところがその後、僕は愕然たる事実に気がついた。
 クラスの級友と僕の映画の趣味が根本から合わないのだ。
 僕はタランティーノ系の暗黒系アクションが好きなのだが、そういう刺激の強いものは天上人の彼らの気にはあわないらしく、僕の苦手なハリウッド製を競ってみていた。
 散々話にならず、僕は映画は一人で見に行くことに決めた。
 しかし、またここで神経質な僕の気に障る現象があった。
 ポケベルの発信音、長じては携帯の着信音及び喋り小rである。最近は喋る奴も減ってきたが、当時はひどかった。今ではその代わりメールを打つ馬鹿の「緑の小窓」がちらちら見えるので気になって集中できない。
 よって、僕は今やもっぱらビデオ派である。
 最近はミニシアター系も沢山ビデオになっているし、なによりB級の名作を探すという信念上、どうしようもないジャンク映画を見させられることも多々あり、そういうときに失望しないですむ。
 みなさん、映画はやっぱビデオですよ。
 だいたい入館料が高すぎると、思わない? 

将棋
盤上の指揮官より現実の兵卒!?
 昔から直情径行の気がある。
 そのせいか戦略的とか論理的とかそういう言葉に甚だしく弱い。
 ケンカにしてもそれは現れていて、仲間を沢山連れて威圧するかハッタリをかまして戦わずして勝つか彼我の体格差を無視して殴りかかるかのいずれかでちっとも頭を使ってない。元々僕のIQ140は記憶力に使われており、思考には消費されていないのだ。
 つまり将棋などという著しく戦略系要素の強いものは苦手だということだ。こういう人間だから大佐などと号していても、実戦指揮官としては恐ろしく弱いものがあると思う。
 まあただ戦史をみると、ひたすら突撃指令で屍の山を築いて戦は勝ち、軍神になった将もいることだし、一概にも言えないだろう。
 ともあれわが家に将棋盤が来たのは小学校三年のクリスマスの日。近所のガキの間で妙に流行し、それで買った。尤も当時の対戦はお互い駒の移動方法も知らない素人同士、お互いただただ突撃を敢行するのみで勝敗は全く時の運、しかもチェスと違って捕虜を戦場に再投入できるからいつまでたっても終わらない。
 そんな有様で負けそうになってくると疲労と悔しさでエキサイトし、最後は盤面はたいて殴り合う。いつもそうなっていた。
 盤上ではなく、実際の喧嘩の厭戦感が子供たちの間に広がった頃、将棋盤は押入に封印され、次に日の目を見るのは中学校二年のときである。
 この頃、友人が将棋同好会を旗揚げするとやらで当時無所属新人(?)の僕にも声がかかったからだ。さしたる動機もなく義理で参加したのがその始まりで、まあちょこちょこ同輩と対戦していたのだが、これがみなさん強すぎる。
 後に聞くと、必ずしも強くはなくふらっと遊びに来た他の友人達に片っ端から負けるほどの実力だったらしいが、僕はその彼らに一人も勝てない始末。
 なんと歩一つとれずに負けるということもした。
 今回は盤を蹴飛ばして殴り合うわけにもいかず、この同好会が途中で自然に消滅したこともあり、僕の将棋人生はここで終わった。
 ところで将棋を対局だけなら何度もこなした筈なのだが、未だに解らないのは「銀将」の使い方である。まさか一度も使わなかったということはないはずだが、まったく思い出せない。日常生活には支障ないものの、今更調べる気にもならず、内心忸怩たるものがある。 

陶芸
時価五千円のツボ
 陶芸の経験は一度だけ修学旅行の時だ。
 と、いっても半強制の学校の押しつけではない。奇特にも自由時間に班で志願してやったのである。自由行動日には一人五千円を支給されるのだが、二時間の講習会に六千円も費やすあたり、やはり奇特である。
 さて陶芸というのは勝手にロマンかつエロティックな世界を想像していたりするのだが、実際やってみるととんでもない世界だった。
 申し込んだのは京都ではかなり名の知られた大手の陶芸工房だった。ところが大手というのはえてして集金能力に長けていたりするもので、粘土を渡され、簡単に組み方を教えて貰ったらもうそれ以上何もしてくれない。勝手に自分の仕事をするのみである。
 その組み方というのも蛇のように粘土をのばして丸く設置し、それを何重にも組み上げると云うことだから泣けてくる。こんなのいやいや小学校の時にやった図工と変わらないではないか、京都まで来てこんなことをやらされるとは、半分泣けてきた。
 しかもやるのはそこまでで、それ以降は向こうで勝手にやってくれるそうだ。住所を書いた紙と金を払って、僕らは意気消沈して工房を出た。
 二時間で六千円、いい商売をしている。
 旅行から戻って二週間ほどしたとき、小包が届いた。厳重に包装された包みを苦労して開けると、中から底の抜け、粉々になった五千円のツボが出てきた。五千円、五千円かあ。僕は思った。五千円も払ってこんな使いモノにならないガラクタを買ったというわけか。
 おかしくなってきた、寂しく笑って物置にほうりこんだ。
 修学旅行の話題はそれ以後も頻繁に現れたが、あの陶芸工房の思い出は二度と語られることはなかった。 
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