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文化部棟

僕の部活遍歴

僕の部活履歴書

 このエッセイ館は「部活」を対象に僕の見聞したことについて、書き記している。対象は小学校から大学までを予定しているのだが、どうしても部活という言葉の特性上、中高、特に高校に比重が置かれている。
 僕は保守的な街に生まれ育ったので、小学校の時こそ運動クラブに入っていたが、以後天命を悟り、文化部に入り浸り校内の文化部世界ではちょっとした顔役になるほどのものだった。よって、このエッセイ館は文化部と運動部の2部構成にはなっているが、どうしても文化部に比重が高くなってしまう。

 ではここに参考資料までに僕の部活に関する略歴を簡単に書いておこう。一応、これ以降の文章を読む時に、簡単に理解していると解りやすいだろう。
 部活の歴史は小学校4年生の「クラブ」から始まる。
 保守的な街だったので男は運動の道に進むのが当然とされ、僕も特に何も考えずにソフトボール部(野球部はない)に入った。だが色々と問題があって、この状況に呆れた僕や男子達は翌年サッカークラブに大量移籍する。サッカークラブはその活動的な感じが気に入り5年6年と卒業まで続けた。
 そして僕は私立中学と同高校を出たのだが、まず中学ではここでもまた「男子は運動」という妄言にたぶらかされて弓道部に入り、1ヶ月で挫折。その後は時機を逸した悲しさで入り直すこともままならず帰宅部決め込んでは刑事ドラマの再放送を見ていた。
 ところが将棋同好会再興のための名義貸しを友人に頼まれ、これ幸いと入会。しかし才能がないため、次第に会の中でも別のことをはじめ、結局興味が「ワープロで文章を書くこと」だった為、この時期に出来たPC同好会に移籍する。
 高校ではまず友人の勧めにより文芸部に入部。他にPC同好会も籍を置いたまま活動していた。
 順調に進んでいたが、ある時期、先輩の執拗な批評に堪えかねた同輩と連帯して先輩と対立。文芸部での籍は保持したまま当時人手が足りず勧誘を受けていた演劇部に活動の本拠地を移す。半年ほど演劇の生活を送り、秋の大会終了と同時期に先輩の謝罪声明が出て文芸部に復帰、部長就任。かくして残りの高校全時期を文芸部に費やす。
 大学は文芸サークルに入ろうかと思ったが、余りにも低俗で馬鹿ぶりに嫌気がさして入らず。と、いうより大学全体の馬鹿ぶりは、さしもの僕の想像を越えており結局一切の活動をしないことに。

 僕はこういう部活履歴を経て、今に至ってる。
 何? 訳が解らない? 大丈夫。この先を読み勧めていけば、何がどうなっていたのか、解るはずです。 


文芸部

最高の場所

 僕は高校3年間を通じて常に文芸部の活動を行っていた。1年生の初めに今の助役と大喧嘩をやらかして、同輩を指揮して演劇部に亡命した以外は一貫して文芸部の活動に全高校時代を費やした。
 3年間、殆ど他には何もやらずに本を読み、文章を書き、ファンレターに喜び、読者と語らい、そして部室で部員達と毎日のように馬鹿騒ぎをしていた。
 文芸部室は階段下倉庫(普通の学校ではワックスなどを保管しているところ)が当てられ、コンクリート打ちっ放しの薄暗い、如何にもデカダンスなところであった。光といえば陽光が殆ど入らないので薄暗い蛍光灯があるのみ。湿気は物凄く夏は涼しいが蒸すので快適とは言いがたい、冬は極寒である。
 ところがそんな狭くて暗くて環境の悪い部室に何故だか男ばかりが集まって、毎日いろいろなことをやっていた。日がな馬鹿な話に講じたり、原稿の打合わせをしたり、本を読んだり音楽かけたり、コーヒー飲んだりしていた。
 全員高校生なのにまるで小学生が廃屋を秘密基地にして遊ぶような毎日だった。一般の高校生から見れば随分奇異な集団だろう。僕も含めて一癖も二癖もある奴ばかり集まった部屋だった。共通するのは頭はいいけどモテないこと、そして文芸がみんな好きだった。
 いつも馬鹿なことばかりやって過ごしていたけど、活動は文芸部の歴史を見てもかつてないほど激しく行った。
 何といっても22年間で96冊しか出なかった機関紙を、3年間で70冊も発行したのである。それは確かに公的なコンクールなどには一切出さなかったから、全校集会のステージに部員が立つことは一度もなかったが、それでも積極的に一般生徒に広報をしてファンレターを貰うのも日常だった。

 1996年4月から1999年3月まで。
 僕はずっと文芸部にいた。沢山活動して、沢山の本を作り、沢山の思い出を作った。笑った怒った悲しんで楽しんだ。沢山の友情を作り沢山の喧嘩をした。
 すべていい思い出、二度と帰らない青春の日々。

 僕の人生に二度とあれ以上の思い出はやって来ないだろう。 

パソコン部

人生の岐路

 基本的に中学時代は部活動をしていなかった。浮世の義理や様々の要因から部活に出入していたことはあるが、どうも僕は組織的な行動が苦手なようで、これと云った活動のある部活に入るのは敬遠していた。
 後述するが弓道部には入るも向いてないと1月で止め、将棋同好会はあまりの弱さに閉口して辞めてしまった。
 そういう訳ですっかり部活というものに不信感を抱き「中学では部活はやらない」と決め付けて日々フラフラしていた。だがそんな僕に友人が声をかけてくれた。
 「コンピューター同好会」に入らないかというものだった。
 僕はそんなものを聞いたことなかったから、後に同好会の会長となる友人に訊いてみる。すると彼は「今度4号館(当時はそうは呼ばなかったが)にコンピューターが50台入ったんだよ、それを扱う同好会が作られたんだ。お前も来ない?」と云った。
 やることがないから、面白そうだと入ってみた。
 同好会といっても勉強会や何か、つまり特定活動があるわけではない。コンピューターにしても昼休みと放課後は一般生徒にも開放されていたのだ。同好会会員の特典としては持出厳禁を条件に教室のPCに使えるフロッピーが1枚与えられただけだった。
 まだWINDOWS 95が出る前のパソコンブームがやってくる前夜的な時代だった。学校のパソコンはWINDOWS の使用が禁じられていたというから時代を感じさせる。
 一般部員達は自主的にBASICで自作したゲームなどをやって楽しんでいた。後に件の友人はシュミレーションゲームを作って、売り出すまでの快挙を成し遂げた。この一大巨編の作成には同好会員が随分と関わっており、僕も主役級に登場する。
 ところが僕である。僕は言語関係は全くダメで、PC言語も全く理解できない。そういう訳で早々にプログラムは諦めて、僕はPCルームに来たら必ず雑文を打つようにした。小説かエッセイか解らない。嘘偽りなき雑文である。
 ところがこれが妙に好評を呼んでしまった。
 元々悪筆で手書きで書いても読まれないというだけの理由で一太郎(ver4.3)を使い始めたのだが、FDでいくらでも持ち運べるという特性上、読みたい読者にはいくらでもデータをコピーしてその雑文を読ませてやった。
 噂は噂を呼ぶもので、僕がコンピューターを打っていると、後ろから覗き込んだりするものも増えてきた。一作完成すると、希望者が声をかけてくる始末である。
 僕はちょっとした人気者になり、読者層は個人活動なのに10人を越えた。書いた原稿は残ってる限りで原稿用紙400枚以上で、僕の人生中最長編小説もこの頃書かれた。

 中学卒業直前、この噂を聞きつけたある友人がに僕にこう云った。
「山田、お前高校行ったら文芸部入れよ。 お前なら絶対人気作家になれるって!」

 僕は文芸部に入り、創作の楽しみに目覚めた。そして今ではこのHPを文芸部の先輩だった助役と共に運営している。もし僕がPCの同好会に入らなければ、その後の僕の人生は随分変わったものになっていただろう。
 そしてあなたはこのHPを見ることもなかっただろう。 

演劇部

男だけの世界

 僕は高校の一時期、演劇部に入っていた。この話をしよう。

 演劇部は一般に文化部の花形であり、女性の多い華やかな部活とされている。実際僕の中学は女子ばっかりの部活だったから、高校でもそうだろう。僕はそう思って演劇部を候補から外した。
 ところが事実は僕の勝手な思い込みから大いにそれて、僕を容赦なく巻き込んでいく。
 入部勧誘ポスターなるものがある。これは4月初頭に、新入生にアピールする目的で各部活が一斉に部活勧誘ポスターを学校の許可のもと、様々な箇所に張り出すのである。そしてそれは勿論、指定期日までには剥さなければいけないのである。
 ところが演劇部のポスターはいつまでたっても剥されないのだ。これは妙だと思って掲示許可印を見ると、剥すよう指示された期日の後に改めて掲示許可が出ているのである。これは何だと思ったが当時の僕の身分は新入文芸部員、別に調査追求しなかった。

 高校1年の7月、ところがここで問題が発生する。
 文芸部での第一次編集部戦争勃発である。これは当時の編集長が部員の作品を片っ端からボロクソに誌上批判をし、これに頭にきた僕率いる1年部員が、サボタージュする事件である。
 そんな頃、演劇部と文芸部を掛け持ちしているI先輩から「君たち暇してるなら演劇部を手伝ってよ〜」という打診がきた。聞くと演劇部は2年生ばかり4人しかいないとのこと。期限過ぎのポスターは 部活維持のための特例だったのだ。
 僕らは二つ返事で引き受け、練習会場である体育館のステージ、運動部の流れ玉を防ぐために緞帳を閉め、真っ暗闇のステージ裏に向かった。どうも僕の部活生活は暗い所に縁がある。
 そして、僕の部活生活はとにかく男性に縁があった。文芸部では部員30人中、男子が25人以上だったが、演劇部はこの当時8名いたが、全員男子だった。一般の学校では文芸も演劇も構成は女子が大部分を占めるのが普通である。
 ところが我が校ではこれがまた学園ドラマ(或いは)になりそうな癖の強い男たちが集まってしていたのだ。
 さて、演劇部では雑談主義のサロン的な文芸部とは異なり、部活らしいといえば実に部活らしいところだった。男ばかりのお気楽な小規模らしいほのぼのした雰囲気であったが、大先輩の指示の下、腕立てから腹筋から発声から滑舌から、それは大規模校の質量には勝てないけど、行った。
 放課後はすぐさま緞帳裏直行、日曜も返上で地元の信徒会館舞台を借り切って練習した。毎日、毎週。
 演題は「スクールドラマ’96」、大先輩の原作で男子ばかりのまったりとしたやる気のない演劇部を舞台に、舐められている顧問が「双子の弟」と偽って構内に潜入し、部員を徹底的にしごき立派な演劇部員にするという「コメディー」である。非常に面白い脚本だった。
 大先輩がその舐められた教師(源一郎先生)とその仮の姿である厳格な教師(源二郎先生)を演じ、もう一人の真面目な先輩が唯一真面目な演劇部員を演じ、僕ら文芸の亡命組がだらけた生徒4人を演じた。
 公演は2回、文化祭と秋季演劇大会地区予選に出場した。結果は演劇強豪校が近隣にあるため、上位進出はならなかったが、2枠中第3位と健闘し、源一郎先生はナイスキャラ賞を受賞した。男子校でもないのに男子しかいない演劇部は相当珍しく、(他校は女子が男子役をやるのもざら)非常に関心を集めた。ギャグも男子だけの悲哀と自嘲が多く、これもまた受けた。

 演劇部は文芸部と違って3年引退が当然視されていたため、先輩は僕に部長の地位を譲る気でいたようだが、僕は固辞した。助役が文芸誌上で謝罪を表明、僕は文芸部の部長に就任するための準備を開始した。
 先輩は引退し、新しく女子部員が沢山入ってきた。併設中学からの生抜組、上昇志向の強さと極端な理論主義に僕らは呆れて関心を無くしてしまった。技術派と娯楽派相互の拮抗は文化部では致命的だった。
 僕らは活動の本拠を文芸に移した。
 こうして僕らの演劇ライフは半年ばかりで終わりを告げた。
 そう、たった半年の思い出なのだが、僕はこの演劇生活で色々なことを学んだ。密度のやたら濃いディープで物凄く楽しい、男だけの楽園だった。
 生徒下校時間を破って、夜に8人で帰る。
 僕らはきっと輝いていたに違いない。 

将棋部

日本の未来と僕たちの生き方について

 「将棋同好会が今度出来るんだ」
 中学校2年生の時、こう僕の友人が云った。
 「ついては…」と彼は続ける。頭数をそろえないと同好会結成は出来ない。いや、休眠中の会を復興するのだから許可が下りるのは間違いがないのだが、それには一定以上の加入が必要なのである。幽霊会員でもいいから参加してくれ、こういう話だった。
 当時、僕は帰宅部員。早く家に帰って刑事ドラマの再放送を見るのが日課というとんでもない生活を送っていたが、自分でも部活に入ってないのはやっぱりあるべき学生像から異なるな、と思った。我が郷土は保守的な地盤である。
 そういう訳で、この構想には一枚噛むことにした。
 将棋同好会は文字通り同好の士を十数名集め、かくしてとんとん拍子に復興の運びと相成った。顧問はあくまで名目だけで、何とか先生を引っ張り出し、部室として第三特別教室という何をしているのかわからない教室を確保した。
 晩や駒は会が活動していた古のものが第二教務室(別名職員喫煙室)に転がっていたのでこれを使用した。
 これで既に会の体裁が整って、無事パチリパチリと中学生将軍が日々駒を進める日々が幕を開けたわけだが、困ったことに僕は全く将棋が出来ないのである。勿論ルールなどは小学生の時から知っていたが、非常に弱いのは当時も中学期も変わらず。呆れたことに部員の誰と戦っても負ける。それも相手が優越感にも浸れないほどのボロ負けである。
 言っておくが決して強い会ではない。幼少期に祖父から教わったというだけの男がトップであり、その彼も後にふらりとやってきた運動部員の男に負けている。
 そういうレベルで、あくまで普通の中学生が集まっただけなのだが一勝も出来ない(僕は勝ったことが一度もない)レベルに最後は僕自身頭に来て、盤を向かうのも嫌になってしまった。
 それで僕は何をしたか、笑うなかれワープロの電源を入れたのである。そして「来春に使う、将棋同好会の新入生歓迎ビラを作る」と号してアジ文書(当時そういう言葉は知らなかったが、現在大学で配っているそれと非常によく似ている)を作り始めたのである。
 言い忘れたが当時5月、来春とは気の早いことである。
 それで、その新入生歓迎文書とは「日本の未来と僕たちの生き方について」という冗談のような(冗談なんですが)タイトルの全く将棋同好会とは関係のないエッセイ集で、B5版を1枚として通算23号まで作ったはずである。現存していないのが残念だ。
 僕は1年も将棋同好会にはいなかったので、勿論当然このビラが使われることはなかったが、会員やその他のクラスメートには妙にこのビラが好評で、だからこそ23号も作れたわけだが、これを機に僕は当時新設したばかりの「ワープロソフト使い放題!」のPC同好会に関心と籍を移すのである。

 先日、母校の文化祭に行った。
 第3特別教室は将棋同好会の出店で、机の上に盤がセッティングされ自由に対局してよしとのこと。おそらくは全部盤と駒を出してきたのだろう、広い教室は大盛況だった。 

美術部

ある物語

 これは僕が中学から高校にかけての話である。
 我が母校、私立中高一貫校では制服の他に制帽があった。そう昔の学生や今では一部私立小学生がかぶっている警察官や軍人のでき損ないのような帽子である。
 今やそんなものをかぶっている奴は誰もいない。然り、我が校でも制服とは異なりこの制帽は「任意」だった。つまりかぶらなくともよいのである。とすれば当然誰もかぶらない。購入義務さえないから制帽の存在さえ知らないものもいる。
 さて中学生時代、僕は自転車通学だったのだが、1年の初めからいつも登校中に怪しげな生徒を見かけた。超然たる顔つき、痩せた体系、頭は天才かド馬鹿か判断つきかねる表情、とにかく只者ではなさそうな彼の頭にはまごうことなき制帽がかぶされている。
 僕は随分の変人が我が中学にもいるものだと思った。1年にはいなかったからこれは先輩なのだろうが、仮初にも入学試験を超えて来る中学なのに妙な奴がいるものだ。そう思った。
 僕はこの当時、彼を完全に精薄扱いしていた。信じがたい事だが我が校にも何人かはいたのである。一体どうやってあの入試を勝ち上がってきたのか解らない。これは大学でも云えることだが、何か裏のルートでもあるのだろうか。
 ともあれ彼のことは度々我がクラスでも話題に登っていた。
 僕が当時、彼について知っていたことは…

「奇名にひけを取らぬとんでもない変人であるらしい」
「併設小学校出身で頭はずば抜けていい天才らしい」
「美術部に属し、その技術も将来を嘱望されるほど優秀ならしい」

 これだけの噂が学年を超えて流れていたのだ。僕は彼について別に調査したり聞き取りしたわけではない。自然にここまでの噂が、誰の口からともなく聞こえてきたのだ。
 それで毎日のように制帽男を見ながら、これが天才かね、やっぱ常人ばなれていることは確かだが…僕はそう思った。
 ところで我が中高には当然の如く全校集会で表彰がある。大会等で優秀な成績を収めたものを全校の前で発表するのである。これに彼の名前が頻繁に出てくるのに気がついたのだ。
 美術の大会、学校の成績、いずれも彼の名が呼ばれた。併設小学校出身者が「**ちゃん、すげー」とよく言っていた。純然な尊敬だけでなく軽い揶揄が含まれているような気がしたが、彼は非常によく壇上に登った。
 そして僕が中3の時に彼が高校1年生にして、先輩も沢山いるのに入学と同時に美術部長に就任したことを、これも噂から知った。高校も中学と合同で全校集会があったのだが、相変わらず彼は壇上組だった。全校レベルでも彼の毀誉褒貶は誰もが知る所だった。
 僕は当時、高校で内特進クラスに入れるかどうかの瀬戸際におり「羨ましい奴がいるもんだぜ、チクショー」と随分軽視していた。

 高校1年、文芸部入部。
 先輩方の顔も覚えた5月頃、部室にいきなりあの制帽男がいた。
 「新入部員の山田です」と、おっかなびっくりいうと、かの制帽男はこっちが恐縮するほど丁寧に返礼を返した。やはりあの有名な名前だ。僕はすかさず「ああ、あの有名な先輩ですか。美術部ではございませんでしたっけ?」と聞いた。彼は美術部メインだが掛け持ちしているという。

 これが今の助役との出会いである。
 美術部に普段はいたのであまりあわなかったが、それでも行事の際は毎回必ず来てくれた。普段にもゲリラ的に現れては色々有益なアドバイスをしてくれた。一般生徒のは知らないが、少なくとも文化部業界では彼は人格者の秀才ということで有名人だった。
 僕は彼の絵は手慰み以外は見たことすらないのだが、彼が美術部で今に至るまでの高名を、絵の一枚も残していない(学校に寄付していない)にも関わらず残している。 

吹奏楽部

カッコイイ

 吹奏楽部というのは一般にはブラスバンド部と呼ばれているあれである。恐らく文化部の中では最も金のかかり、諸行事には欠かせない花形の部活である。
 実際そのカッコよさはそれを見た大抵の人が認めるものである。
 そんな部活に僕が誘われていたと聞いたら驚くだろうか? 何せ僕は音楽については殆ど関心のない人間だったのだ。当時から確かにCDは沢山持っていたし、聞くことは人並みに聞いてはいたが、それが音楽の中身となると知識は皆無である。
 具体的には音符が読めない、音感がない、全く楽器が出来ない、手先が異常に不器用、リズム感は皆無、音楽知識なし。これ以上は虚しくなるので書かないが、どう考えても楽器をやるようなくちには見えない。
 ついでに云えば僕は病的な音痴である。おそらくこれを治すのは精神科にかかる必要があるだろう。声楽は楽器演奏には直接は関係ないが音楽に携わる者として、必要不可欠なものが全くないことは事実である。
 その僕が何故誘われたか? これは単に高校1年生にしてブラスバンドの道に高校生活を全投入すると決意し、実際ブラスバンドの名部長としてその生活全てを投資した男と僕が、中学時代に仲良しだったからに過ぎない。毎日のように一緒に帰っていた。
 そして高校ブラスバンドで、当時は同輩の男子部員が一人もいなかったのだ。顔体格に似合わず女性とも打ち解けられそうな趣味の人だったのだが、やはり寂寞の感はあったのかもしれない。
 だが僕は今までの人生から自分に音楽的適性がどうしようもなく欠落していることは解っていたし(まさか音符も読めない素人が、のこのこ来る様なレベルの部活ではなかった)、また女の中に放りこまれたら、大喧嘩をするに決まってることは目に見えていた。
 よって僕は逃げ回り、執拗な彼が諦めるまで、1学期の間はずっと逃げていた。
 やがて彼は諦め、僕は文芸と演劇部の生活に入った。マーチとか軍装って結構好感持っていたので、文化祭や体育祭なんかじゃ結構好感も持っていたし、彼らもやるじゃんとは思っていた。
 だがやはり何といっても彼らのカッコよさを痛感したのは、年末の卒業生送別発表会だった。僕は演劇部校務係としてサイドライトの監視人としてサイドの高いところから見ていたのだが、これには全く感動してしまった。
 絞られた証明の中一糸乱れぬ隊形を維持したまま、勇壮なマーチを奏でる一隊。これは全く大したものだと感嘆した。文化部らしからぬ毎日の激しい練習は伊達ではないなと思った。
 まったく音楽家は羨ましい、全校生徒を一斉に熱狂させるのだ。前後のロックバンドの演奏なんて相手にもならなかった。最強最高の拍手と熱狂、生徒の感情の隆起、これらはすべてそのカッコよさに集中していた。
 日頃はまったく冴えない僕の弟子(大ドラム(?)担当)でさえこの時は全くカッコよく見えた。 

放送部

お隣の友好部

 これもまた高校時代の話である。
 放送部は僕のいた当時は掛け持ちの部員が多く、また僕のいた頃は歴代の部員同士が大抵仲がよく(一つには両者ともオタク趣味のある者が多かったことと併設中学出身者が多かった)文芸部と放送部は最高の友好部だった。
 僕のいた文芸部の友好部は前述の演劇部とPC部があげられるがこの二者が殆ど部員の掛け持ちによりなっていたのだが、放送部はあまり部員が被っていないのにも関わらず仲がよかった。共同で何かするということは野球大会以外なかったが、少なくとも文芸部の側では主な放送部員は全員知っていた。
 ところがこの放送部は文芸部と仲がよかったが、実際の活動方針は文芸部とは全く異なり、まず各種大会に積極的に出ていた。その成績も優秀でしばしば全国レベルの大会にも顔を出し、優秀な成績を収めていた。文化部で常に全校集会の壇上にあがるのは放送部がダントツだった。
 しかしそんな全国的な部活もマスコミが大抵政府官庁に近い首都に集中するように、放送部室も職員室前の小さな放送室があるきりであり、膨大な部員達は体育館の放送調整室に避難したり職員室前の廊下を陣取ったりしていた。事情を知らない生徒には不自然に映ったかもしれない。どこも碌に活動場所を与えられない文化部はこんな感じだった。
 我が高校では放送部の職掌は僕の知ってる限り、番組の制作やアナウンスなどでの大会出場や、全校集会や諸行事などでの音響校務とかビデオによる記録などがあった。
 あまり大声ではいえないが、僕の高校時代の醜態もいくつか公式記録として放送部の奥に眠っているに違いない。なんせカメラ担ぎと仲がよかったので、しばしば彼らが写しにきたからだ。更に云うと、僕自身が発表会などで醜態を晒しまくった経験もある。
 また放送部の特徴は非常に部員仲がいいことで、かつまた思考が成熟していた。バカなことはしてたが無軌道なことはしていない。
 今に至るまで放送部では相互の交流があるという話を聞くと非常に羨ましく感じる。文芸部は流血の文芸部という名の通り喧嘩が常に散発していた。それもデカダンス文芸部の良さの一つと認めるが私的交流のない現況を考えると寂しいものがある。
 部員はとても仲良く、作った作品はいつでも大きな大会へ。OBも関連業務志望者が多いと聞いた。僕の友人もその道に進むといっているのが数名いる。
 ある種、とても健全な部活らしい部活といえよう。
 僕は友好部の部長として、彼らがとても羨ましかった。 

写真部

よい写真とは?

 僕の文芸部時代のファンの子達が写真部にいたため、文化祭には必ず写真部をおとづれるのが常だった。
 2個下の人たちだったので高校1年から彼女が在籍していた2000年まできちんと見ていたし、今年も助役と「全ての展示を見きる」という方針のもと、ちゃんと6年目の感想メモを提出した。
 感想メモというのは展示教室に入室した時に、部員から鉛筆つきで渡される小さな紙片である。中には身分と年齢、気に入った展示写真のナンバーを3つと寸評を書いてくれとある。文化部が何かを発表するときは大抵求めるアンケートである。
 写真部には歴代部員に洋楽ファンがいるのか、毎年何かしら洋楽がかかっていた。ここ2年ばかりはジャミロクワイが流れていて、ファンがいるのだなあと思って嬉しくなった。
 さて、肝心の写真だが、当然のことながら全部白黒である。白黒は見慣れてないから何を見ても芸術作品のように見える。
 もっとも結構沢山撮っていて、展示作品は一人当たり数枚だから厳選され、そんな酷い写真は出さないだろうが、それにしても僕は芸術作品に対峙すると大抵そうなのだが、一体どこがどう凄いのかがわからない。それはマトモに写真一枚撮ることが出来ない僕には真似せよといわれてもそもそも正視に堪えうる写真さえ撮れないのだから彼ら彼女らの技術には尊敬する。
 でも、普通に撮れていれば野卑な俗人たる僕の能力では基本的にそれ以上の優劣は解らないのだ。さらに上級コースの前衛的な写真に至ってはまったく理解不能である。前衛的なものは絵画や彫刻ばかりかと思っていたが、写真もどうやって撮るの? と思うような変な作品が一杯ある。
 だから僕はこの感想メモを渡されたら3つの空欄には3人のファンの作品を1作づつ書くのは当然として、その選定には全て被写体で選んでいる。例えば高校野球の応援の写真で間抜けに口をあけている奴がいたらその作品を選ぶ。可愛らしい猫が丸くなってる写真があったらそれを選ぶ。綺麗な景色の写真があったらそれを選ぶ。
 その人がどんなものを美しいと見たか、それを判断する他、素人には「あなたの気に入った作品」を選ぶ術はない。僕の友人にも、幽霊状態ながら写真部員がいた。彼はIOSを腰にビデオカメラを担いでよく学校行事に現れた。
 学校行事では放送部も新聞部も写真部も各々の機材を引っさげてスクープ映像を狙って駆け回る。何かあるたびに僕は彼ら彼女らを探しては手を振ったものだ。
 高価なカメラを大事そうに抱えながらシャッターをきった人達。僕は見たことないし展示されたこともないが、高校時代の僕がしっかりと写った芸術的な白黒写真も、どこかに眠っているに違いない。 

映画部

クライム・ムービー

 大学の映画研究会に入ろうと目論んであまりのキレた遊び人振りに(部員はスケボーで移動し、全員ピアスが最低3つはつけ、初日からガングロが激しく殴りあってる。話題もバイトやらクラブやら風俗やら昨夜の女の話ばかり)恐怖して逃げた話などは、僕の名誉にかけて書かない。
 しかし、映画部というのは悪が集まる部活なのだろうか? いや我が大学の様相を見てそう即断するわけではない。それをいうなら我が大学のサークルは全て犯罪予備軍である。
 僕は原則サークルの加盟員は信用しないようにしている。幸いに我が交友関係はサークルに入れども大抵異常ともいえる馬鹿さ加減に憤慨して辞めてしまうので、そういう奇特な人間は極めて少数である。
 まあ、それはいいとしてところが極めて真面目で、犯罪一つない我が高校でも映画部は全校でも知らぬ人もないほどの悪名高き部活だったのだ。
 確かに部活が不祥事を起こすことはある。確か空手部が菅野美穂のヌード写真を持ち込んで主将が坊主刑になるという椿事もあったし、部活ではないが個人で喫煙して謹慎という事件もあった。暴力事犯や犯罪行為は殆どなかった。
 ところが犯罪行為でも例外がある、窃盗である。
 映画部がしばしばその手の行為で生徒から白眼視をされていた。これは別に陰湿なレッテル張りではない。実際当人たちが吹聴し、その成果を競い合い、たまに捕まってはそれを半ば誇らしげに噂として吹き流したのだ。
 思うに彼ら万引き集団はクラスメイトに盗品を流していたのだと思う。僕ら内特進クラスとは遠く離れた教室だったので詳細は知らないが、未成年が盗品(例えばNINTENDO64を万引きしたなんて成功談は有名だった)を質屋に持っていくことなんて出来ないし、主な換金方法はそれしかないのだ。勿論大部分は自分の物として普通に使用していたのだろうが。
 そういうことをしていると、やはり残念ながら我が高校でも頻発していた校内窃盗も彼らに疑惑の目が向いてくる。冒険談のよう万引き話に喜ぶ連中も、ここに話が及ぶと発奮してもいられない。
 毎日の様に被害事項(時には下着泥棒が出てくることもあった)が報告されると、流石に彼らがやったとか現場を生徒に見られたとか、色々な噂が流れた。勿論「彼らが自慢げに語り合っていた」という噂は流れていない。
 そんな時、彼らがとんでもない悪事をやらかした。
 クラブハウス小火事件である。これが全く馬鹿げた話で火気厳禁のクラブハウスであろうことか闇鍋パーティーをやり、その火の始末を怠ったというのである。幸い大事には至らなかったが、緊急集会が開かれ、何故か関係ない僕らまでお説教。クラブハウスは長期間閉鎖され、階段下倉庫の文芸部には直接影響ないものの、大部分の部活から恨みを買った。
 可哀想なのは僕の1つ上の代の映画部員。この代は女性1人しかいなかったのだが、本当に真面目に活動をしていたらしい。しかし後輩は万引きをするが小火を出すわ、本当に気の毒な限りだった。僕も色々問題のある先後輩を持ったが、ここまでではなくて本当によかったと思う。 

天文部

WHERE DO YOU GO?

 部活にはそれに相応しい活動場所がある。
 運動部なら問題にならない。我が高校は広かったから例えば野球部なら野球場、サッカー部ならサッカー場、剣道は剣道場、柔道は柔道場。まあ他にも色々あるが、各々毎日練習することが出来た。
 では文化部はどうかといえば確かに問題なく指定できる部もある。放送部は放送室に、演劇部は緞帳裏ステージに、吹奏楽部は音楽室に、といった具合。しかし文芸部や写真部、映画部など別にどこでもいい部活というのも存在する。
 これらはクラブハウスの中の部室を使ったり(クラブハウスは崖の真下にあり、建築基準法違反建築物である公然と建っているのは法の不遡及規定による)、酷い場合は教室を流浪したりしていた。
 さて、ここで天文部である。
 みなさんは我が高校の天文部が一体どこにあると思うだろうか。
正解を云うと高校棟の屋上脇にあるのである。尤も屋上は立入禁止で、校内でも天文部の存在を知らないものは多い。
 確かに屋上の前、つまりは4階建て校舎の5階部分にあり、如何にも天空の星たちを観察するに絶好のロケーションの様に思える。
 ところが、このロケーションは現在、あくまでも気分以外の何者でもないのだ。確かに天文部が文芸部のように階段下倉庫では洒落にもならないが(文芸部の上の階段をどこまでも上ると天文部室につくのである)、別に事実上はそれでも構わないのである。
 と、いうのもこの天文部は、非常に真面目で優秀な気のいい奴が揃っているにも関わらず、夜に部室から星を眺めることが許されていないのだ。
 厳格な進学校である我が高校は、生徒は17時に下校が義務付けられ、17時半には施錠されるのである。18時を超えてしまうと容赦なくセンサーが稼動し、警備会社に捕まりかねない。
 勿論、天文部もこの制裁から逃れる術もなく、星一つ見ることもままならないまま下校を余儀なくされる。機械警備導入前は我が校は天文部のみならず学校に泊まるという不埒な行為が、文芸部でも行われていたと古文書(僕が高校に入学する10年も満たない前)には書いてある。当然天文部も部室に泊まり込んで、屋上に備え付けた望遠鏡片手に本来の活動を行っていたのだろう。
 僕のいた頃は、部員が星を見あうのは年に一度の一泊旅行を学校の長野寮で行うだけだという。とんでもない話である。広大な寺院があるお陰で、地方都市の癖に夜は暗く、星もきちんと見えるはずなのに。

 天文部室には一度入ったことがある。
 十年以上前のテレビと初代ファミコンが印象的である。
 夜は長い。 

ギター部

愛すべきオールディーズ

 僕の出た学校は中高一貫校であったが、部活も中高一貫な部活が少数ながら幾つかあった。大抵は名前は同じでも別個の組織形態であり、野球部のような強豪校(高校)と弱小校(中学)が同居するような場合は、合同はおろか継続組すら皆無という状況であった。
 ちなみに僕のいたところでは文芸部やPC部が中高一貫で、活動場所は違えども中高の関わりが深い部活に演劇部があった。文化部くらいしか事情は知らないのだが、例えば運動部でもバレー部などは中学段階から強く高校選手も中学からの継続組が殆どだった。
 そしてギター部もそういう継続色が強い部活だった。
 僕の知る中学ギター部員は全員高校ギター部に進んでいる。

 中学入学直後に、部活発表会というのがあった。学校側としては清く正しい部活動に生徒がはいることを義務にはしないまでも奨励しており、新入生にどのような部活があるのかを入学直後に各部の部長達に説明させるのである。
 今でも忘れないが中学ギター部は嬉しそうにこう云った。

「今年からフォークギターが解禁されました。是非きて下さい!」

 勿論僕はギターも弾けず、ギター部には関心さえもなかったが、妙にこのフレーズを覚えているのは実に90年代になってフォークがようやく解放されると言うのは滑稽だなという気持ちがあった。
 それまでは一体何を弾いていたのだろう。文芸部の副顧問の若手教師が現役高校生時代ギター部にも(文芸部にも)入っていたのだが、先生は現在クラシック系のオーケストラに参加している。ではクラシックギターは行われていたのだろう。
 そしてギター部の部員や他の先生から聞くとアコースティックも行われてはいたようなのだ。まあそうでもなければ人は殆ど集まらなかっただろう。
 おそらく学校がここまでフォークを禁じたのは多分に思想的理由があるだろう。安保闘争の折りに流行った、反体制の象徴としてのフォーク。おそらく学校はフォーク音楽を媒介に左翼思想の流入を防ぐ気でいたのだろう。
 と、いうのも我が高校は地理的に、体制と左翼がぶつかり合い、死者まで出したような歴史を持つ重大な古戦場。左翼にしてみれば人民に奪還すべき聖地のある場所にあるのである。実際、当時我が高校を除く近隣諸校はいずれも左翼思想にジャックされ、高校生の闘士が地の利を生かして従軍したという話も聞いた。
 我が高校は仏教校である、左翼とは受け入れがたい。学校パンフには「家族、教師、寺院、皇室を崇敬し」とあるくらいである。昔の話を聞くと伝説の剣道老教師が真剣抜いてオルグラーを強圧したなど武勇伝にはことかかない。
 学生が思想を放棄した90年代になってフォークを解放したのはむべなるかなという感じだった。

 エレキは禁止で、これには一部反発もあるようだが、これはこれで当然である。いくら放課後でもあんなうるさいのを弾かれたら、音楽系部活はすべて活動停止、運動文化問わずに部活能率も大いに落ちるだろう。
 今、隣家のキチガイが週末になるたびに弾き散らかしているが、あれは相当迷惑なものである。

 ところで、意外なことに僕とギター部員は仲がよかったのだ。
 それはいつもあって喋ってるという訳ではないが、何かの授業で席が隣り合ったりすると音楽談義に花を咲かせるのが普通だった。ファッションや流行に目ざとい遊び人系のギター部員とダサ系極北の僕が話し合ってるのは奇異な感があるが、実は共通する音楽趣味がオールディーズにあるのだ。
 ギター部員は、勿論最新の曲もチェックしているしプライベートで弾くのは勿論エレキなのではあるが、、好きなのは昔のそれこそプレスリーからジミヘン、ディラン、ボウイ、ヴァンヘイレンなどなどなど。ウッドストックの話を何故か今更することもあった。
 「エアロスミスはポップに堕ちた」とカッコいい彼らとダサい僕が机をバンバン叩いてムカツキがってる姿は不気味だったかもしれない。
 今でもたまに電車や同窓会で彼らに会うと決ってするのは高校の話と音楽の話だ。予想通りみんな遊び人になり、バンドを組織し、各々の夢のために頑張っている。
 愛すべき彼らは本当にちっとも変わらない。 

合唱部

アカペラーズ

 まず云うと、我が高校に合唱部なるものはない。
 ただ、一般の合唱部より遥かに合唱に高校生活を費やした人の話をここに記す。

 過激な母校原理主義者(といっても母校の現役生徒がだらしないとか学校に苦情電話をかけるような真似はしないが)であるところの僕は退屈になるYahoo などの検索エンジンに母校の名前を打って楽しんだりする。100個くらいページが出てくる。
 さて、先日もそれをしたら、新着ページが出てきた。どうも有名人の誕生日を列挙したサイトらしく198×年×月×日生(*才)「○×△□」と女性名があって、その後に(女優・○○高校)などとあった。年齢から察するに、どう考えても現役高校生アイドルという奴らしい。
 我が高校は校則は極めて厳格であるからして恐らく清純アイドルなのだろう。茶髪もパーマも携帯もルーズソックスもピアスも禁止な学校である(ついでにバイトも免許取得も)。その我が校から、よりによってアイドル誕生とは…。
 前に文化祭で母校再訪した折りに、現役部員からそれらしき話は聞いていたが、こっちは芸能界には全く疎い身、未だに「モーニング娘。」(。をつけることは知っている)のメンバーを誰も知らないのは伊達ではない。あんなコロコロ変わるものなど覚えられるか。
 さて、そういう母校発のメジャーアイドルを前にして僕はある人たちを思い出した。「アカペラーズ」である。

 勘違いしてはいけない。別にこれは最近脚光を浴びている「ゴスペラーズ」の書き間違いではない。実際、そう名乗るアカペラ集団が我が高校、僕の2つ上にいたのだ。
 女性4人からなる、その集団は歌がうまいことで有名だった。
 勿論一般人が純粋に感動するというレベルの話であり、その道の人が聞いて満足するのかどうかは知らない。ただ、一般人の集合である我が中高の生徒約千名純粋に感動させたのは事実である。
 文化祭や発表会、そういう表現のイベントがあるたびに彼女らは出動し、生徒たちはそれを注目して殺到し、歌い終われば爆発的な拍手と喝采を浴びるのは常だった。母校の歌姫、という称号は彼女らのためにあった。
 特筆すべきは文化祭にて最優秀団体賞を受賞したことだ。クラスや部活など大きな枠組みを持ってはいない「有志団体」という身分なのに賞を得た。まさしく我が校の生徒が一丸となった評価した証左である。彼女らが歌うところ、常に声援があった。

 そして卒業後、彼女らがスカウトされ、メジャーデビューをしたという噂が駆け巡った。どうやらこれは事実らしい。そして僕らは待った。彼女らの姿がブラウン管に映るのを、彼女らがCDを出すのを、彼女らが音楽雑誌のカバーを飾るのを。
 ところがそういう話は一切聞かなかった。現実は厳しい。
 噂も段々、噂らしい無責任なものが広まりだした。
 酷いものはここには記さないが「ルックスの関係でリーダーの子だけをデビューさせ、他は切り捨てられた」という噂だけは、妙に僕の記憶に残っている。

 あの頃、母校にいた者はみな覚えているアカペラーズ。
 彼女らがどこにいるのかは知らないけど、あの時純粋に感動した一人として素晴らしき人生を歩まれることを祈る。 

社会科研究部

公認盗掘稼業

 おそらく中学の頃の話とは思うが自信がない。
 と、いうのも僕の学校は中学高校と別れているものの別に校舎が違うわけでも交友関係や教師が変わるわけでもなく、要は小学校の6年間と同じように中高6年間が流れていったと思ってくれればいい(まあ入試は形式的にあったし、制服も違ったが)。
 さて、中学高校を横断する僕の友人の中の友人、親友に3Kというグループがあった。彼らとは中学時代に出会って意気投合し、高校では全員文芸部に進み勇名を馳せた。
 まあそういう仲良し3人衆ではあったのだが、僕を除く2人が大の考古学マニアだった関係で僕もよく彼らの趣味に付き合った。彼らの趣味とは何か? 土器収集である。
 これは何かというと僕の住む街は、まあ今でも東京通勤圏の一角として地方都市としてはまあそれなりに栄えているが、縄文弥生の頃も栄えていたようなのだ。時代は下るが古墳時代も相当のものであったようで、市内には古墳がいくつも発見できる。新市街の公園や学校校庭には必ずといっていいほど古墳がある。我が街しか出土してない重文級の土器もあるくらいである。
 で、こういう土地柄、土器の破片や石器も手にはいるのである。
 どうやって?
 皆さんは信じてもらえないだろうが、僕らはまず我が街の南西のハズレに位置する農業用地に勝手に侵入する。勿論農閑期にやるのである。そして畑を下を見ながらうろうろするのである。これだけで縄文弥生の各種土器から石器(矢じり)が見つかるのである。
 嘘だ、と思うだろう。ところが本当なのである。スポットがよければ2時間でビニール袋が裂けるほどの量が手に入る。別に植木鉢の欠片でも何でもない、正真正銘の土器片である。未だに掘り返しもするであろう畑から2000年以上前の遺物が簡単に出てくるのはおかしいと思うのだが、事実出てくるのだから仕方がない。

 さてそんな彼らがある日、僕を誘いにきた。土曜日のことだったと思う。放課後、一回家に帰って着替え、学校の正門に来いというのである。日本史の若い担当教師が社会科研究会復興を兼ね、僕ら日本史フリークを集めて土器探索会を開くというのだ。
 面白いイベントだ。参加することにした。
 指定時刻に正門前につける。見慣れぬ私服姿の友人たち、先生が既に待っていた。それから全員が到着するのを待って出発。自転車にまたがった先生が「家の近くにいいトコ見つけちゃってねえ」と嬉しそうに云う。
 ついたところは郊外、地層の観察に使えそうな崖の上である。
 そこには縦横無尽にロープが張られ「立入禁止 **市教育委員会」と書かれている。先般の実習で知ったのだが我が市では文化財保護は教育委員会の仕事なのだ。
 先生は嬉しそうに、「さあここを掘るんだ」とのたまった。流石に僕らもこういうところは掘ったことはなかったが、先生のお墨付きがあるなら俺らは免罪、と、変に自信を持って掘り出した。
 いや、しかしここは凄かった。確かに役所が自信を持って勧めるだけあって、掘れば掘るだけ出てくる。まるで潮干狩りである。
 僕は土器の規程部を丸々掘り出した。これで大物ゲットの殊勲賞だ。やはり土器の散乱にもパターンがあるのか、ひとつ大物を見つけるとその周囲からも沢山出るらしい。
 都合3時間、跡形もなくなるほど掘りまくると分捕った戦利品、各自ビニール袋一杯分を肩にかけ、あろうことか立ち小便してその場を去った。

 そして、酷いことにこれで終わりなのだ。
 その後も活動を行う触れ込みだったが、ついに何もなかった。
 結局、貴重な文化財保存現場を盗掘して、それで終わり。気味が悪くなって僕は戦利品さえも、いくつかめぼしいものを残して処分してしまった。
 我が街には日本にここだけしか出ない特異な土器が沢山ある。
 それを破壊しなかたことを接に祈る。 

宗教部

仏教高校の宗教パワー

 我が高校は開山1000年以上の仏教寺院が経営する由緒正しき名門校である。
 と、こう書くと知らない人は「それでは学校に宗教行事はあるのですか?」と訊く。この答えは日常行事ではないよ、である。
 まあ校則が異常に厳しいのを宗教の厳格性に帰するとすれば確かに関係しているのかもしれないが。ただしよくVOWなんかで揶揄されるような滅茶苦茶に不合理な校則はなかった。釈尊の中庸の徳を守っているのである。
 それで、宗教関係行事といえば仏教コースはさておくとして一般の生徒からすれば年に1回の宗教講話会である。これは大本山から高僧が来てありがたい話を聞かせてくれる会だったのだが、いつのまにか感動できる映画(それも普通の洋画)上映会になった。眠る生徒が続出したからだろう。
 入学式と卒業式だけは貫主猊下臨席の下で仏歌が斉唱されてステージ奥にある仏像がこの時だけ出てくる。開扉閉扉と特別な儀式がある(献花献灯献香)。あとは御真言という、まあ呪文を唱える。これは義務ではないのだが本校の生徒は雑学の一貫程度のノリで、大抵は覚えている。僕もいえる。
 正月は大寺院は混むのでアルバイト要員として1年生は300人ちかく拉致される。1日は無給で勤労させられ、希望者はその後も指定された14日間を日給5000円で働くことが出来る。バイト厳禁な学校では嬉しい収入である。
 あとは全くイレギュラーに特別行事に参列させられることはあるが、これはないも同じで6年間で1度しかなかったはずである。

 これ以外は特に意識する様な出来事はない。
 それで宗教部だが、これは我が高校で最も地味な部活だった。何をしているのか、人がいるのかどうかも解らないのである。仏教校の癖に宗教が怖いという漠然としたイメージは健在で(秘儀などをなまじ知っているからか?)宗教部は唯一、文芸部より暗い部活としてのイメージが勝るところだった。
 文化祭では宗教部は二度だけ入ったことがある。教室を暗く改造して、如何にも怪しげな空間を現出し、まず日頃の発表があった。そしてその先に年々の趣向を凝らした企画があった。
 1度目に行ったのは小学校6年生受験下見で、おみくじだった。
 どこからかっぱらって来たのか神社などにある振ると太い竹籤が
1本出てくる式の木箱を渡された。カシャカシャ振ると一本の竹籤が出てきた。彫り刻んである数字は65番。
 担当の女の子が65番とかかれた封筒を開けて1枚の紙片を取り出した。これまたどこから持ってきたのか本物のおみくじのような紙と印刷で「大吉」とあった。待ち人だの訴訟だの書かれたその紙は紛れもなき本物だったが、寺社名は当然なかった。
 僕は首をかしげ、「まあいいか」と呟いた。
 彼女は僕の姿を見て「受験生?」と訊いた。おみくじを見ると、「大丈夫、受かるわよ」といった。確かに受かった。幸運色が紫とあり、僕は「紫…大徳、冠位十二階最上級色で仏教の色」と頭の中で答えた。

 2度目はオウム事件が露見する前後の中学校時代であり、この時の企画はジャンケンゲームだった。女の子が云うにはジャンケン1回勝負で勝ったらその子の顔に墨で梵語(仏教の文字ね)を書いていいと、その代わり負けたらこっちがやられるのである。
 僕は女の子の顔に文字が書けるというので妙に興奮し、負けた。彼女は容赦なく僕の額に「オン」と発音される字(卒塔婆の最初に大きく書かれている字)を書き、僕は終日その姿で過ごした。
 ところで凄いのはその女性である。実は終了間際、僕はリベンジせんと宗教部に入ってまた負け、今度は右ほおに書かれたのだが、彼女の顔のは2つしかかかれていなかった。
 世の中にはジャンケンに強い人がいるというが…
 宗教パワーは恐ろしい。 

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