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出生
ありがちな出生秘話
 ありがちな話というのはありがちな実体験が積み重ねられて出来るものである。よってこれから語る僕の出生秘話(?)はありがちな話ゆえに「ネタじゃないか?」という感想を惹起する可能性がある。
 しかし僕は「これは実話である」と云っておく。僕の生まれた時の話なので僕が直接見聞した訳ではないが、親の名誉を守るのも子の大事な努めである。

 さて1980年の雷雨の日、僕は地元の産婦人科で生まれた。
 最近では子供が生まれるとき、夫は妻の脇で手を握ったり、酷いのになるとビデオで撮ったりするらしいのだが、僕の父親のような昔ながらの硬骨漢は当然そんなことはしない。そんな軟弱な真似が出来るかとばかりにいつものように会社に行っていたのだ。
 なんて薄情な父親、と思うのならばそれは人情の機微を弁えない若者の思想であって、あるカップルにはそのカップルなりの優しさと愛情表明方法があるのだ。
 父はその日の夕方、乳児と初めて対面した。
 保育器の中に入って泣いている赤ん坊を見ると父は開口一番、「なんだこりゃあ、きたねえ顔のガキだなあ」とぬかしやがった。別に僕は出生に なんらやましいところはない。「出来ちゃった婚」の子供ではないし、存在するだけで疎まれるようなことは何一つ無い。
 おそらく赤ん坊は誰でもみな猿のような顔であると知らなかったのだろう。CMなんかに出てくるような生後3ヶ月くらいの赤ん坊を想定して、出生直後の僕と対面していたのならショックだろう。

 ところが、ここで問題はこじれるのだ。
 なんと父が「きたねえ顔」といった子は僕ではなく、隣のベッドの夫婦の子供だったのだ。赤ん坊の顔など似たようなものである。
 僕の騒々しい個性的な人生に相応しい幕開けだった。
 生まれたばかりの僕の枕元で父親同志が殴り合ったという話は聞かないが、可能性はあっただろう。
 それはそれで楽しそうな光景ではあるが。 

お宮参り
素直な母、硬骨な父
 おそらく僕が生まれて初めて撮られた写真が今、手元にある。それはお宮参りでの写真だ。
 産後どれくらいで退院できるのか知らないが、場所は良く解る。病院から近い神社だ。ローカルな神社ではあるが、地元市町村では割と広範囲に知られた伝統あるところだ。七五三もここで済ませたのだが、なんとなく思い入れのあるところだ。
 ともあれ写真には思いっきり80年代パーマの母と伯母、そして何故か写真を撮るときは礼服系のスーツを着ている父が写っている。写真を撮ったのは伯父だと推定される。
 僕は母の腕の中で眠っている。赤い顔をして、多分眠っている。表情はちょっと信じられないほど穏やかで、「寝ているときもガンとばしている」と称される今との落差に呆然とさせられる。だが、当然のことだが今の僕の面影など微塵もない。一言居士の父親が「きたねえ顔だ」と述べた通り、顔だけ述べれば人間と云うより宇宙人に近い。
 母と伯母は本当に嬉しそうにニッコリと微笑んでおり、放っておくとピースサインでもしかねない勢いだ。
 それに対して父の方は仏頂面をしている。といっても「男は人前で笑うべきではない」とかいってる人なので、内心では嫡男が出来て嬉しかったのだろう。僕の名前は親父からの一字拝領である。世継の誕生に頬が不自然に垂れている。
 素直な母親、頑固な父親。
 この両親の愛情を受けて、僕は20年間生きてきた。
 期待に添える自信は全くないが、ここまで社会問題や危険が山積する中、兎にも角にもマトモに生きてこれたのはまさしく両親の養育の賜だと思う。
 もし僕に子供が出来たらお宮参りに写真を撮ってやろう。
 母は相変わらずニコニコ顔で、父は相変わらず苦虫を噛み潰した顔で、それぞれの孫に愛情をかけるだろう。 

七五三
ハレの日の贅沢
 またしても1枚の写真が手元にある。
 七五三の写真だ。
 僕は生意気にもブレザーに半ズボンという妙な出で立ちで、千歳飴の袋をぶら下げたりしている。写真は街のスタジオで撮ったのが一枚、他はお宮参りで行ったローカルでは有名な神社である。
 七五三というのは案外知られていないのだが、男児が行うのは五才の時だけである。七才と三才は女児がやるのである。
 もうこの時の記憶は僕にもある。
 五才の秋の日、僕は朝早くからブレザーを着せられた後、まずは写真屋に行って家族で写真を撮った。撮影用の小道具で千歳飴の袋を持たせられたのだが、中が空で悲しかった。そう表明したら店のオバサンが本物をくれて嬉しかった。
 続いて神社で参拝、ちゃんと神主さんにお払いして貰ったからね。写真といいお払いといい、我が家ではあんまり縁のない話である。別段我が家は「よその子がやるならうちも」という方針ではないから(この血脈は僕にも流れていて、未だに携帯電話を持ってない)これは日本古来のしきたりを大事にする親父の強い要請があったのだろう。
 神社の露店でお好み焼きを食べて、僕の七五三は終わった。
 ところで不思議なのはこのブレザーである。
 僕の記憶が正しければ、この服を着たことはこの時しかない。僕には兄弟はいないし、親戚からの使い回しとも思えない。小学校の入学式だって来ていない。
 貸衣装だったのかなあとデパートで「イタリア製子供用ブレザー・三万円」なんて表示を横目に思う。
 贅沢を許さない我が家のハレの日の贅沢でした。 

ひもとき
下敷きの思い出
 どうもこういう習慣が一般に膾炙しているのかイマイチ自信がないのだが、少なくとも僕が幼少期を過ごした自治体には小学校に入る直前の子供に市主催の「ひもとき」という行事があった。
 確か日取りは入学式の1週間も前の出来事ではないと思う。
 で、この「ひもとき」式では何をやるか。これがどうも入学式とやることが変わらないのである。お偉いさんが入れ替わり立ち代りやってきて有権者たるPTAに向けて一席ぶって帰っていく。その繰り返しだった。
 僕は子供心に「学校とはなんとつまらないところか」と思って、暗澹たる気持ちに強烈に陥った覚えがある。
 今、成長してこの「ひもとき」の意義を考えてもお偉いさんのアピール以外には考えられない。と、いうのもこの「ひもとき」は僕が通うべき学校ではなく、わずか200メートルほどの隣にある別の小学校で近隣3校の連合で行われたのだ。
 入学式は市内一斉に行われるのでお偉いさんは顔見世興行が出来ない。そこでこんな行事でもでっち上げたのだろう。両親に聞いたが、確かにここではオリエンテーション的なことは一切なかったという。僕も入学初日に鬼のような教師に仕込まれたが、それ以前になにか教わった覚えはない。
 もうこの行事など15年以上前の話で、いい加減忘却のかなたに飛んでもいいのものだが、あるモノが僕に忘れさせてくれないのである。
 それは記念下敷き。ぺらぺらの白いセルロイドに「祝ひもとき・**市」と金文字で書かれただけの素っ気ない代物。なくしモノの多さで知られる僕が15年以上文房具品を持っていられるのは、やはりこの行事に思うところがあるのだろう。 

入学式
体育館に仏像
 これも仏縁という奴かどうか、ともあれ中高大と仏教系の学校に僕は進んできた。大学はともかく、中高の影響で呪文(?)も一応唱えられるし、仏歌という宗教歌も歌うことが出来る。
 ただまあそれらは入学式や卒業式のときに何度か練習させられるくらいで、日常生活は普通の高校生のそれだった。まあ仮にも宗教学校だから長髪染髪装身具ミニスカート携帯ポケベルバイクバイトは禁止で本当に純朴な高校生活だったが。
 ともあれ、そういう僕の母校たる中学高校は体育館のステージ裏に巨大な仏像が安置されていた。勿論、普段は厳重に見えないように閉められており、御開帳は入学式と卒業式と宗教講話会の年に3回だった。
 僕はさすがにはじめてみたときは体育館に巨大な(5メートルはあるインド風にカラフルな彩色を施された立像だった)仏像がおったっていたので吃驚したが、仏教校であるのは知っていたし、それが気に入って入学したので、唸る以外は何も出来なかった。
 さてここで大学入学である。
 大学も仏教校だったから入学式には当然仏像が出てきます。ただこっちは本当に小さな木彫りの坐像でしたけどね。ところが周りはたかだかあれで大騒ぎするんだよね。
 大学生の節操のなさは既に周知だけれど、成人式の蛮行と大学の入学式は確かに似たようなもんです。鳴り止まないケータイに私語、いやはや大学という仮にも最高学府とは思えぬところです。
 そんなところへ仏像が出てきたから会場は殆どパニック。若干耳の悪い僕でさえ耳を塞ぎたくなるような怒号と爆笑。エクスタシーに達してそうな奇声を発する奴も出る始末。
 僕は付和雷同して喚く仲間やその他新入生をみて思ったね。
「そんな驚くことかよ」 

卒業式
涙くんさよなら
 はい、こんにちは。
 やめようやめようと思いつつも卒業式では必ず涙くむ山田です。いや、そんな感極まったように号泣したりはしませんよ。ただ気がつく奴には気がつかれるという話であってね、顔や素行に似合わずカワイイもんです。
 昔からねえ「別れ」には異常に弱いんだよなあ。
 理由なんて知らないけど、NHKの「みんなの歌」でやってる「ありがとうさようなら」を聞いただけで泣いちゃうような人格だから、昔からそうだったんだろうなあ。
 あ、別に式の雰囲気で泣くわけじゃないよ。
 だって殆ど級友が同じ学校に行く幼稚園の卒園式と中学校の卒業式は泣くどころかゲラゲラ笑っていたからね。逆に転校の時は泣いてたし、今でも長く逢えない友達と会って別れるときなぞ泣きこそしないがとても寂しく感じることがあるよ。
 こういう弱っちいメンタルって凄い恥ずかしいし、自分でも相当みっともないとは思うんだけど、でもこのテの感情って理性で制御するのには限界があるんだよな。
 私、今流行のクールガイ(漫画に出てくるクールガイって単なる頭のイカれた冷酷漢にしか見えないけれど??)にはなれません。そのためにモテなくても結構だよーんだ。
 だから「別れ」に極端に弱い身としては、家族や友人が死んだらどうなっちゃうんでしょうという危惧はあるわけ。特に先に死ぬであろう親なんかはね。子供のときから内心怯えることはあったよ。
 さて、話を卒業に戻そう。
 僕はちなみに大学の卒業式は泣く予定は一切ない。
 寧ろ今からすぐにでも卒業したいくらい。学位と教職免許状に社会教育主事任用証をくれればすぐにでも消えてなくなりますよ。僕は高らかに笑って「ザマーミロ」と鼻歌歌いつつ、卒業していきますよ。
 大学は何にもしてくれないし、期待してもいけない。
 就職だって、自力で決めなきゃ、ね。 

成人式
魔窟
 僕が成人式を迎えたのは2001年1月8日、つまりクラッカー事件などで大荒れに荒れた年である。僕の市では昨年が狂気の代で、僕の代は元々おとなしい代だったので、特に事件はなかった。
 昨年は実行委員をやっている先輩がいたので伺ったのだが、やれステージに上がろうとするわ、市長を呼び捨てにするわ、勝手に歌を歌いだすわ、マイクをぶんどるは、一昔前のチンピラのような(いや、事実チンピラなのだが)狼藉をしたらしい。
 そう、狼藉で思い出したが、何故、チンピラ諸兄は全員揃って、和服を着てくるのだろう。羽織袴と着たらまず間違いなくその筋の御方、である。クラッカー事件などの放映フィルムに映ってた「彼ら」も和服だったし、全国的な兆候だったのかもしれない。
 さて騒動の予感される今年だったが、特にそんな騒動はなかった。
 私語は激しく、携帯は鳴り止まなかったけど。これは仕方ない。
 僕は中学高校と私立なので、地元に友達がいなく(何、小学校? 馬鹿云っちゃいけません。みんなヤクザやそれに類した人相風体になっちゃったよ。出会ったら何云われるか解らない)市内の友人とも約束しなかったから出会えずに(現地で逢えると思ったんだけど…逢えないんだな意外に)一人ポツンと座っていた。
 いや、恐ろしかったね。
 大学に入ったとき、金髪・ガングロが当たり前な環境に恐れおののいたものだが、成人式の会場は輪をかけて酷い。中高の友人もそうだが、真面目系は寧ろ敬遠派が多いみたいね。いるのは過半数は変なのばかり。特に、僕の育った地区は…座席を逃げ回る等という醜態を晒すのはこれが人生最後であろう。

 ところで、同じ年の8月。僕は社会教育実習で市役所の生涯学習課という所にお世話になっていました。成人式を所管するのもここです。成人式の騒音対策、幹部に聞いたんですが、市役所も考えているんです。
 まず開会と同時に音を封じる目的で先手を打って和太鼓の合奏を10分行う、これで携帯謎は切らざるを得なくします。ステージにあがるバカを排除するために、巨大な花瓶を多数配置します。更にボディーガード代わりの屈強な職員を適所に配置。恩師を最前列に配置するなど、考えられています。

 さて、成人式終了後、会場ロビーで「成人祝賀立食パーティー」なるものがあったのですが、これが困りました。テーブルは「地区単位」なんです。私立中あがりは行くところがないんですよ。ここで僕はようやく中学上がりと合流できましたね。みんな行くところないんですよ。
 地元は大体おっかないお兄さんが仕切ってるしね。特に僕の生まれ育った街は輪をかけて危険なのが多いんです。テーブルには彼らの仲間の姿しかなく、そのテーブルも特別会場に隔離されてましたからね。

 成人式…それはヤクザや妊婦の集う魔窟。
 僕の心の成人式は当日7時より挙行された高校時代の同窓会。
 会費7000円の立食パーティーでしょうか。
 本物の成人式のいいところなんて千円分の図書カードがもらえたくらいでしょうか。 

就職活動
どうでもいい
 就職活動については本格化する今秋以降、一施設を設けて論じたいが、今は就職活動直前期における就職観について後の備忘録程度に書いておきたい。
 僕はかなり悪いレベルの大学に属している。心優しい周囲の友人は「そんなことはない」とお慰みの言葉をかけてくれるし、大学の同級生は「我が大学は一流である」とほざいてくれちゃってますが、僕にはとてもそうは思えません。
 就職率は惨憺たるモノでね。どうしてこんなに低いのかと思っていたら、偶然今日読んだ週刊誌に書いてありましたよ。

「****の大学生はもはや就職活動をしないのがメインです」

 ははあ、なんで就職ガイダンスのたびにフリーターの害について懇々と説いているのかこれで解った。なんか青木が原とか東尋坊には自殺を思いとどまらせる看板が乱立しているというが、我が大学のフリーターを諦めさせる配布プリントも似た感じである。
 「両親の顔を思い浮かべてください」だってサ。

 僕はまず大学のやることなんて、期待しない。この大学に入ったことは百万も恨んだし、転学も退学も出来なかった自分の情けなさには百万回唾棄したいものだ。
 おそらく僕は就職活動はしないだろう。
 別に週刊誌の記事を読んだからではない。元々ああいう面倒臭いことは嫌いなのだ。金もかかるし、労力も必要だ。その割には将来の展望が全く開けてきそうにない。支社採用、バイトあがリ、政界縁故(我が大学は地方自治体の議員・長の子息が最も来てることで知られる。要はバカな二世です)、運動部入社、全部ひっくるめてあのレベルでしょ?
 僕は現在奨学金生活で、卒業したら月2万円なりを返納しないといけない。あとは社会保険と健康保険か…。とにかくそんな高給を取る必要もないしね。
 高校の頃はかなり上昇志向だけど、もうそんな気もないね。
 大学では頑張りすぎた、出たら少しは楽しても文句はいわれまい。
 もう薄々感づいているかもしれないが、僕の人生はある意味大学に入学した日に終わっている。そうでもなければ……こんな伝記にも似たサイトは組まないのに違いない。 

入社式
偽善/マザコン/研修
 入社式と銘打ったが、大体入社式ってイベント自体、一定以上のレベルがなけりゃやらないよね。就職できれば御の字、普通の人はフリーターという、寧ろ学士号が邪魔になるような所では縁のない話だ。大体職場をぐるりと歩かされて頭を下げてりゃそれで終わりだろうな。
 ところでその入社式であるが、これまた不愉快な所だろうな。別に負け惜しみとかじゃなくてさ。
 大体想像できる話として社長が「この不景気の中、我が社の命運はまさに諸君の双肩にあり」みたいな嘘臭い話を並び立てて、最も学歴の高い奴が「我が社の社員になれたことを生涯の誇りに思い、命をかけて全力投球をいたします」とか云うんでしょう?
 それで最後には万歳三唱か勝どき上げちゃって、イヤだなあ。
 就職活動は嘘八百を並べないと通らないところであるからして、その歴戦を通過してきた勇士はこれくらい朝飯前かもしれんが、僕はこういうのは耐えがたい。

 耐えがたいといえば、最近のマザコンぶりはこういうところにも侵食していて、嘘か誠か解らぬ週刊誌の言い分だけど、最近は就職活動中(わが子の生涯をおもんじて会社説明会もマジ面下げて参加するらしい)のみならず入社式にも参加したがる親がいるってね。
 大学の入試にもいたよ。会場を出るところでカメラ持った父兄が一杯いるの。「○○ちゃ〜ん」とか呼んじゃって、流石に女の方が親を引き連れる率は高かったけど、男も親を越させてるんだよな。はじめは芸能人が受験したのかと思ったぞ。

 とにかく入社式なんてろくなもんじゃない。更にイヤなのは研修という奴だ。これは中小企業になればなるほど酷いらしいね。もう殆ど人格改造セミナーらしいよ。先日中小企業向けの経営コンサルタントの人と話す機会があったけど、無茶苦茶な研修が正しい等と信じている社長、多いらしいね。特に若いときに苦労した系。
 駅前の合唱とかその類から、少年院で実践されている徹底討論や何故か野外サバイバル。小中高とやった軍隊行進から、社長の帰依している新興宗教や思想団体の特訓講座まで。げに恐ろしきはトチ狂った中小企業のワンマン社長とのこと。

 入社式と研修を乗り越えてもまだ会社にいられるようだったら、長続きするでしょう。僕もこういうところは当世人らしく転職には全く抵抗を感じていません。 

結婚式
僕には出来ない
 結婚、結婚、結婚。
 僕の幼馴染みの女の子は「お嫁さんになる」のが夢だった。今の文を僕は過去形にしたがひょっとしたら彼女は今でも現在進行形でそう思っているかもしれない。と、いうのも少なくとも僕の知っている彼女は小学校6年生までそう云い続けていたからだ。その後のことはしらない、僕は違う中学校に行ったから。
 僕はかねがねその話を聞きながら「ケッ、馬鹿なこといってら」と鼻で笑っていた。ひねた嫌なガキだったのである、僕は。尤も、僕がこう思うようになたのは婦人団体の意見(女性を家庭から解放せよ! 良妻賢母を目指させるマインドコントロールを撤廃!)に同調していたわけではなく(そこまでひねていなかった)恋愛そのものに懐疑的だったからだ。
 別に我が家の両親に離婚危機や重篤な喧嘩があったことなど知らないが、僕は子供の頃から人々が金科玉条の如く崇め奉る「恋愛」なるものに徹底的に懐疑を持っており、その発展たる結婚においては「人生の墓場」と信奉している。
 年を長じて幾つかの恋愛を経験してからもその思いは決して消えなかった。なるほど女性を愛する気持ちがどんなであるかは解っていた。しかるにそれを愛という抽象概念に置き換えて絶対神聖真理視する物の見方には嫌悪感を覚えた。
 中学高校にいたって、その靄がかかった怒りは何故か女子に転嫁され、二次性徴の特性も手伝ってクラスの女子を蛇蠍の如く嫌い、中高6年間同級生の女子とは口を利かず男子ばかり12人の集団とばかりクラスでは相手にするという異常な青春時代を過ごすことになる。
 さて、現在であるがそんな馬鹿なことはしなくなったが、恋愛という観念はますます解らなくなるばかり。人並みの恋愛は出来るがそれを愛以外の要素が加わるとしても何十年も連れ添うなどとても信じられない。
 僕はおそらく結婚はしないであろう。もししたとしても離婚することはまず間違いない。子供の頃からそう云うビジョンは何となく意識していた。別に問題のある家庭ではなかったが…或いは両親に対する漠然とした敵意(反抗期にありがちな)が、僕をして夫婦に嫌悪的な感情を与えるのかもしれない。

 短期的な恋愛とセックス、これは信じられる。
 しかし結婚という長期的持続恋愛はとても僕には不可能だ。
 幸福そうな夫婦を見ればほほえましく思うが、その反面老夫婦にさえも嫉妬を感じるのは秘密である。

(で、僕の最も嫌いな映画は「フィフス・エレメント」である。) 

新婚旅行
最高の国はどこだ?
 新婚旅行。
 前項で「結婚なんてやらないぜ〜!」とのたまったが、それではこの項が埋まらない。仮に結婚し、しかも従順貞淑な天然記念物に恵まれたと仮定して、新婚旅行の話をしよう。
 元来、僕は出不精であり(これは中学の頃から周囲には云っていたのだが、今使うと引きこもりと間違えられるらしい。剣呑剣呑)旅行も外からの誘いや強制行事でもなければ決してしない。万事面倒ごとは嫌いである。
 そういう訳だが新婚旅行となればしなければならない。
 こういう場合は自分の希望を箇条書きにしてみると、おのずと道は見えてくる。

1.日本語が通じやすい。
2.治安と衛生がいい。
3.寒くない。
4.共産圏ではない。
5.反日国家ではない。

 以上の用件に当てはまる諸地域は、
a.ハワイ
b.台湾 であろう。
 両方とも条件5にちょっと怪しいかなという感じもする。しかし私は究極の全条件に当てはまる国家を今発見した。
 「日本国」の最南に位置する島、「沖縄県」である。
 俺は修学旅行の高校生かと突っ込まれそうだが、北海道と沖縄は日本じゃないと俗にいうじゃないですか、あそこなら条件は満たしやすい。今度はちょっと条件4が怪しいが。
 そういう訳で私は沖縄に行きます。未来の伴侶よ、すまぬ。

追伸
 そういや結婚を控えた(らしい)、知人に「結婚したら新婚旅行はどこに行きたいっすか?」と訊いたら「エジプトかなあ、なんかリーガルドラッグとかやってみたいじゃん」とのたまわれた。
 夫婦で新婚トリップ? 末永くお幸せに…… 

出産
見に行かないよ
 最近は何ですか。
 女性が強くなったのか男が弱くなったのか、出産に旦那が付添うのは当たり前、なかにはビデオにまで我が子の出産を録画する人がいるらしいじゃないですか。好事家のエロビデオじゃあるまいし、そんなことをするのは変態の所業だと思っていたら、先日そう話をした時に録画者がいまして、偉く怒られ反省しています。
 とはいっても例の愛の抽象論じゃないけど、どうしても僕は出産のシーンが美しいとは思えません。僕が見たのはテレビでやってる動物レベルですけどね。
 それが崇高な行為で愛の発露と、まあそういって言えないことはありませんがね。僕は御免蒙りたいですね。それにやっぱり妻の手を握ったらボケーっとしていることは許されないんで、「ガンバレガンバレ」とでも予定調和な猿芝居をしなくちゃいけない。
 元々、僕は自分の子どもが欲しいなどと思ったことはないんですが、危急の際にはあり得るわけでそう云うわけには対策を考えなければいけません。
 大体、愛というのは抽象的に語られているのに、時としてやけに具現化して規律されるもので、「出産の時は立ち会うもの」が愛でいつもどおり会社で仕事をするのが非愛などよく言えたもんです。
ましてやビデオに撮るのが聖なる行為など到底思えません。
 大体そう云うビデオはどうやって利用するんですか?
 日頃から見て楽しむようなものじゃないし、よく彼らが口にするように「この子が二十歳になったら見せてあげます」なんて見せられる子供こそ嫌なもんでしょう。幸い僕の家族は健全な思想を持ち出産に限らずビデオなんて持ったこともない家なんですが、仮に僕が出産シーンを撮られていたとして、二十歳に見せられたって困るばかりです。なんと反応していいか解らない。
 余程の変態以外は母親の股間など見たがる奴はいないでしょう。いくらそこから生まれたのが真実でも。それにカワイイと称される赤ん坊だって初めの顔はみんな猿なんです。直後は気持ち悪い赤い塊。それをまた美しいとか思ってもいないことを云うセンチ馬鹿がいるんです。
 僕はドキドキしながら仕事も上の空で妻の身と子供の事を案じているのも立派な愛情だと思う。そして産院を蹴破って我が子の顔を見て「猿だ」と呟くのも愛情だ…と思う。
 そうでもなければ親父が可哀想過ぎるというものだ。
 僕もそういう風に子供の誕生日を迎えたいもんです。その日には当日の朝刊夕刊買い占めるのは忘れません。 

還暦

老害人にはなりたくない

 昔の中国人も面白いことを考えたものだと思う。還暦というのは暦に年の名が60あるんですがそれが一回りしたということを祝う儀式であろ。当然これは60歳の誕生日に行うわけだ。
 日本では赤いちゃんちゃんこを着る奴、といえば解るだろうか。
 昔の人間は「人生50年」であり60まで生きれば大した長生きですな、と評されることになる。70まで生きれば「古来稀なリ」と言わしめるぐらいだから、その凄さは解るだろう。
 今の日本では60歳といっても別段長生きしたとは言われない。なんせ平均寿命があと20歳生きよと指し示すぐらいだ。お年寄りとは呼ばれるかもしれないが、お年寄りの中では若い方だ。なにせ年金だって今基本は65歳なくらいだ。60ぐらいならまだ働けるとみなされているのである。
 しかるに日本の定年は55〜60くらいである。大学教授という特殊な輩は70歳にもなって訳の解らぬ念仏を唱えてよしとしているが、やはり物事の第一線に立てるのはそのくらいの年齢が限界ではなかろうか。
 これは直感で云うのだが、これからの高齢化社会。ますますこの年代の老人の労働力は必要とされるが、しかし社会のトップをいつまでも老人に握らせておくのはぞっとしない。経験は非常に大事なことだが、それに傾斜過ぎるのが如何に危険なことかは歴史が証明している。
 僕は60が前線での最後の年だと思う。無論その後も出来ることはあるし、仕事だってつければやるが第一線には立ちたくない。それはやりすぎで、組織の新陳代謝を悪化させ、碌なことにはならないだろう。60で余生が生きれる世の中ならばそうしたいと思っている。
 権力のバトンタッチは難しいものである。だから強制的な定年制度は存在する。仮に定年がない身分になったとしても60で他人に自分の席を譲れるか、かつて高校時代に権力移殖を失敗した身としてはなかなか難しい問題であることを実感しつつ、老害を晒す身にだけは、くれぐれもなりたくないと思う。 

退職

あの先生、だあれ?

 これは中学に入ってからずっと思うのだが教師の定年って寂しいと思う。僕は私立の中高にいたので教師というのは殆ど流動せず、新任教師が入ってくるか定年教師が出て行くかしかなかった。
 3月にだから教師が辞めるとなったら、大抵は老教師が去るのが普通だった(非常勤の芸術3科はよくやめた)。
 これがとてつもなく気の毒なのだ。
 教師は大抵20代で奉職し、確か60歳の年まで努め続ける。人に寄って違うが30年以上、ひとつの職場に勤めるのである。それだけの期間同じ所に勤め上げれば、学校に思い出もあるだろうし、生徒時代からこの学校にいるものにとってみれば、人生上の大事件なのである。
 胸も熱くなり、感極まり、泣き出す教師も少なくない。
 僕もそういう姿を見て感動せずにはいられない。
 しかるに僕も含めて、彼の人生史上極めて重大なスピーチを聞く大多数の生徒にとっては「あの人誰?」なのである。それもその筈で、定年間際の教師には学級担任は勿論、授業さえ殆ど与えないのである。では何をしているかというと学校運営幹部として活動するのである。
 だから多数の生徒にしてみれば、たかだか3年しかいない学校。あの人誰、になってもおかしくない。教師は100人以上我が高校にいる。6年間も在学した僕でさえも顔と名前が即座に一致しない先生はいる。
 別れの席で同僚教師は謹聴しているのに、生徒は全く無関心。
 これは少々ひどいと思う。云うまでもないがその場にかつて教師として最も活動した頃の無数の生徒はいないのである。その会場に入ることさえ許されない。
 これは少々気の毒だと思う。映画でみるようなOB交えての送別会など存在しないのだ。情が昂ぶって生徒の顔も見えてないのならそれでもいい。だが実際は生徒にとっては知らないおじさんが説教をしているとしか解釈できないのである。
 本当、これは見ていて痛々しい光景だった。

 そしてまた馬鹿な新聞部下写真がフラッシュたきまくる。
 「やったー、先生泣いてるとこ撮っちゃった!」

 頼むから死んでくれ、そう思った。 

金婚式

大学入試より偉いこと

 我が高校には「合格体験記」というものがあった。これは有名な大学に合格した生徒を捕まえて「どのような勉強をしたか」「受験に向けての心構えは」「行った予備校は?」「使った参考書は?」ということを書かせまくる冊子である。
 僕は文芸部員として全校生徒が必ず読むこの雑誌に書かせてもらおうと半ばそれを目標に受験勉強し、根回しなども欠かさなかったのだが、現役合格したのにも関わらず書かせてもらえなかった。
 クラスで最も程度の低い大学ではやむをえない。ちなみ僕の周りでは早慶上智制覇者が書いている。嫌な自慢ばかりだったな。

 ま、それはいいとしてここに一人の先輩が登場する。
 東大に行くとほぼ全ての教師から嘱望されていた希代の天才かつ変人で、実際それだけの頭はあったのだが文芸部に関わったばかりに志望大を落とさざるをえなくされてしまった男である。
 この人は国立大に現役合格し、無事書かせてもらった。僕は彼のい越した、つまり最後の合格体験記ということで本気になって読んでいた。
 彼は変人らしく(僕の周りが書く合格体験記はみな他のと比べて浮いている)自分の惨憺たる模試の結果を公表したり、面接討論でのいい加減な判定を暴露したりしていた。だがもっとも苛烈だったのはその締めのところだった。
 彼は書いた、大意を要約する。

「先日、祖父母が金婚式を迎えた。
 祖父は一言「今も愛している」といった。
 50年か、僕は溜息をついた。
 本当にすごい人はこういう人のことを云うのだと思った。
 受験なんて長くても三年間だもの、何とかなるさ」

 僕はこれを読んで、非常に救われる思いがした。当時、僕は唯一の予備校に行かなかった者として、進学校(就職は年間数名程度)なのに就職扱いをされていたのだ。偏差値60はあるぞと抗弁しても我がクラスで60程度は劣等生なのだ。
 それはともかく50年間同じ人と連れ添う。僕には不可能だ。
 確かにそれは東大合格と比すべき難問かもしれない。いや恋愛の持続には解法も正解もありはしない。50年の生活そのものが試験問題なのだ。
 長期的な恋愛を全く信じない僕。基本的に女性のやることは信じていない僕。そもそも結婚だけは絶対にしたくない僕。金婚式など絶対に行うことはないだろうが、金婚式に至ったすべての人を僕は心より尊敬したい。 

遺言

遺言状は必要だと思う

 一般に「法学部最強の実学」とされる相続法の講義を受けていると案外いろいろなことを知れる。まだ僕は法学士の卵なのでこれを読んで行動し、それで被害を受けても責任とれないが、遺言状というのは簡単に作れるのだ。
 遺言には3種類、「自筆証書」「公正証書」「秘密証書」遺言があるが、トラブルになりにくい故に煩雑な後2者は別として、自筆証書の遺言なら今すぐにでも作れる。15歳以上であることは絶対条件。
 極々簡単にいえば紙に「自分」が「手書き」で遺言内容と日付と署名を書き、押印すればOK。ついでに変更削除はそれを附記して訂正箇所ともども押印しなければいけないけど。
 まあ、そんなこんなで出来る。

 で、僕なんですがまだ遺言書は作ってない。それは普通の大学生が遺言状作ってるのは不気味なものがあるし、現に僕の家族の如きは何度説明しても遺言と遺書の区別がつかず、うっかり書くと精神病院に閉じ込めかねない。
 そういう事情もあるが、今のところ僕には一切財産がなく、僕の死後は任意に家族が処分してくれて問題ないからだ。貯金は非常に申し訳ないことに日本育英会の貸与額が圧倒的に貯金額を超過しており、いくらあっても持ってかれ、それどころか家族に遺産負担がつくのだ(日本育英会は本人死亡の場合は遺族に貸与額を減額または免除してくれるらしいが、保証人である事実は変わらない)。
 よって僕には遺言を作る「極私的」な権利はない。
 けれどももし就職して収入を得るようなことがあったらそれこそいの一番につくろうと思う。 

恐怖

 大抵の子供がそうであるように、僕も猛烈に死が怖かった時期があった。死んだらどこへ行くのか、そこはどんな世界なのか。誰もが思うこの幼き頃の疑問に最初に答えてくれた宗教がその人の宗教なんだろうな、と思う。
 小学校1年の頃、僕は特に死が恐かった。これは一つには病弱で月に一度は扁桃炎で40度以上の熱を出して人事不正に陥っていたこと。そしてもう一つは今の出来事と大いに関係があるのが居場所のない状態を極端に恐れていたことだ。
 事実この当時は友達らしい友達がいなかった。月の半分は学校にいなかったのだ。おまけに担任は典型的脳筋族で、扁桃炎を気合で治せとか言って寒中走らせたりもする。
 オマケに家族も家族でそういう非合理な精神主義を信じており、行きたくもない水泳教室に通わせたりもする。結果、僕は月の半分は生きるか死ぬかの瀬戸際を彷徨っていたのだ。身近にありながら先のわからない社会。これは恐怖だった。
 現実もこの頃は全然楽しくなかったが、死ぬのは絶対嫌だった。これは親の語る死後の世界が、まあ当然のことながら恐ろしい地獄の話ばかりで、ここより酷い世界に行ってたまるかと怯えていたのだ。
 だから当時は外に出れば車に怯え、先生が殴る時には頭に当たらないように避けてはまた殴られ、刃物や炎、犬などは極力避けて、まあ殆ど精神病理のような様相を呈していた。
 そういえばこの頃、僕はノストラダムスを信じていた。

 いつも死ぬことに怯えていた時代、それが終ったのはまさしく扁桃腺を摘出した手術であった。とんでもない体験で実際子供心に何度も死ぬと思ったが(実際はこの手術ではまず死なない)、まあこれを機会に元気になった。以後40度突破するような熱は15年間で2度しかない。
 今では死後の世界についてふと考えた時、僕は僕なりの価値観で解決している。それが何かということは残念ながらここでは書くことが出来ないのだが。 

葬式
 中学2年の頃、学級副委員長をやっていた。
 そしてその就任1月後、おそらく5月だったと記憶しているが、ともあれ日曜日の夕方、担任から電話があった。受話器からの声は重く響き、僕は初め何か悪いことでもしたのかと思った。
 先生はあくまでゆっくりと僕に云った。
「今日、T先生がお亡くなりになられた」
 T先生、僕はすかさず一人の若い先生の顔を思い浮かべた。到底死にそうにない体力派の先生(確か強豪である野球部のコーチだ)だっただけに僕は本当にビックリした。
 僕のショックに先生も理解したのか、
「明日葬式があるのだがお前も委員長と一緒に出てもらう。
 別に特別なことはしなくていいが、他の生徒には言いふらすなよ」
 これが指示だった。電話を切って後、僕はしばらく呆然としていた。授業を受けたことはなかったが、その元気そうな姿はとても病気を患っているようには見えなかった。口止めをしたということは死因は事故かな? まさか事件? 自殺? 
 僕はその晩寝付かれなかった。
 翌朝登校すると誰が云ったのか既にその噂で持ちきりだった。
 臨時の全校集会で校長が経過の説明をすると黙祷があり、T先生が担任だった3年生の全学年と各クラスの委員長と副委員長が葬式に向かうことになった。移動方法はバスである。
 僕は2−Aの副委員長だったので3−Aのバスに便乗させて貰ううことになった。

 ところが、僕は一生この光景を忘れることはないだろう。
 3−AはそのT先生が担任だったクラスなのである。
 バスの中に鮨詰めになっていた男女40余名が全員泣いていた。センチメンタルな文学系少女だけではない。その場にいた全員が、涙を流して先生の死を悼んでいた。委員長の第一声は「こいつァ、 スゲェ」だった。確かに壮観な風景だった。
 バスの中は嗚咽に満ちていた。僕は補助席に座ったが、両脇とも泣き止まずパニくったのか、ずっとうわごとのような言葉を隣のクラスメートとしていた。
 何故か僕はT先生を偉大だと思うと共に嫉妬を感じた。
 いい先生であることは知っていたが、まさか全員を泣かせるほどの大きさを持った先生が我が校にいることすら信じられなかった。
僕は文庫本(三毛猫ホームズの運動会、だったと思う)を読むわけにも行かず、神妙な顔でバスに乗っていた。
 斎場についても生徒の悲しみは引かず、ますます酷くなった。
 他のクラスもさすがに数は少ないが、泣いている生徒はたくさんいた。教科担当という形でも関わっていたのだ。僕らは蚊帳の外でなんだか自分がここにいるべきでないような気がした。
 なんといっても面識が殆どないのだ。町の斎場で死者を見たときの環境以上にはならなかった。

 生徒が行うのは焼香のみ、7列に並んで前に進み、終ったら両脇の通路から去るのである。僕らはここでも雑談さえ出来ずパニックに陥った先輩方の間で佇むより他になかった。
 百人以上が並んでいるので当然斎場よりも長い行列ができる。
 と一人の男が「順番に並んでください」と厳粛な声で誘導している。その男の顔を見て僕はビックリした。T先生そっくりなのである。随分奇妙な偶然はあるもんだと思った。斎場の職員だろうがしかしまた随分そっくりな、と周りの様子を見たが生徒は変わらず悲嘆にくれるばかりである。
 僕は狐につままれながらも最前列に進んで、焼香を三度行うと、手を合わせて先生の冥福を祈った。そして目をあけて祭壇をみる。
 と、ここでまたまたビックリした。
 祭壇の上にある写真が僕のイメージした若い先生ではなく、校内でよくみた老教師なのである。僕は大いに度肝を抜かれ、もう少しで声をあげる所だった。
 あとで知ったが、僕がT先生だとばかり思っていた若い先生は、O先生といいやはり3年生の担任だった。僕はまったく祭壇の前に立ってもなお、勘違いしていたのだ。勿論、あの誘導していたのがO先生であるのは言うまでもない。

 帰りのバスは静かだった。みんな眠っていたのだ。
 嗚咽も殆ど聞こえなくなり、隣に座っていた女子は妙に幸せそうな顔で目を瞑っていた。
 「先生、羨ましいねえ」僕は思った。
 「僕も死んだらこうありたいよ」
 無理だろうがとは思ったが、僕は斎場からの帰りのバスで、こんなにも素晴らしい先生と初めてあったのが葬式というのはあんまりだ。生きている間に授業の一つでも受けたかった、と心底思った。
 今でも定期的に墓参りは行われているらしい。
 僕が教師になっても、こうはなれないだろう。

 教育学に詳しい助役が範とする教師である。 

火葬

死者を死者たらしめんとするもの

 幼稚園の頃、お化けより何より恐かったのは骸骨であった。
 とにかく骸骨が恐かった。
 幼稚園の保健室の前に骨格標本の写真があるだけでそこを避けて歩き、どうしても通る時は反対側を向いて歩いた。母の付き添いで美容室に行った時、なんかの本で骸骨が出てきて強硬に陥り、小学校3年生の頃まで床屋にいけなかったくらいである。他にもアニメや本の挿絵で骸骨が出てくると、それがどんなに戯画化されてても拒否反応を起こした。
 そんな僕が始めて人骨を見たのは中学3年生の時に、祖母が逝去した時である。優しい人だった。よく遊びに行っていた。しばらくは立ち直れないほどだった。
 中3当時は勿論骸骨に対しては別段恐怖は感じず、骨格模型の前も別にわざわざ注視はしないが、問題なく通っていたし骸骨の写真を見ても飛び退いたりはしなくなった。まあ普通の感性を持った人になったわけだ。
 それでも祖母の亡骸を棺に入れて、棺に釘を打ち火葬場へ向かう時は非常に強い悲しみを感じた。火葬場で最後の別れをする時が、恐らく一番悲しかった。おかしな話だが職員が炉に棺を納め、一礼して封印した時、「本当にこれで死んだ」と思った。無論その前も死んでいることは解っていたのだが。
 焼きあがるのには2時間ばかりかかるのだそうだ。確実を期す為の長丁場だそうな。待合室では茶菓子が出た。とても悲しみで食べられないだろうというのは経験したことない人の考えであり、案外食べられるものである。僕は急激に悲しみから立ち直った。
 母が僕を中庭に連れ出した。
 高い高い煙突からは煙が立ち昇っていた。
「母さんがお空に帰っていくのよ」
 まるで幼児に云うように母は僕に云ったが違和感は感じなかった。また母の顔はあくまで穏やかで、その顔に悲しみや嘆きは感じられなかった。
 そして一言「あなたもわたしを見送るのよ」と云った。

 職員に呼ばれて壷に納めに云った。それを見たとき、僕ははじめ何が何だか解らなかった。骨であるのは解るがそれが祖母とは感じなかったし、恐怖も勿論感じなかった。職員が指さす骨を知らない親族の人と(田舎の人間関係は複雑なのだ)箸でつまんで陶磁器の壷に収めた。
 カラン、と鳴った。
 墓に、祖父の隣に骨壷を安置して、葬儀は終った。
 僕は火葬場から先、一度も泣かなかった。僕だけじゃなく、誰も、そう誰も泣かなかった。あれほど通夜で葬儀でたくさんの人が祖母の徳を慕って嘆き哀しんでいたのに。

 僕は火葬には抵抗感がある。
 例え死んだとはいえ、その人を焼くのには子供の頃から抵抗感を感じ続けている。でもあの体験を通して「死者を死なせるために」言い換えれば「死者の魂を死者の体から死者を慕う者の心へと移動するために」必要なものだと思った。
 死者は火に焼かれることで解放され、ここで実体を失い人々の心にかつて生きていた死者として記憶される。まだ生理的な嫌悪感は消えないが、すくなくとも骸骨を見て恐怖を感じることは、以降はなくなった。 

追悼忌

いつ神になるか

 例えば誰もいない湖に古木が裂けて倒れこむ時、そのバシャンという音に意味はあるのか? 昔何かの本で読んだことがある。誰も知覚しない世界の出来事。
 バタフライ効果という言葉がある。北京ではばたいた蝶の微風がフロリダで大暴風雨を巻き起こす原因になるかもしれない。世の中は常に複雑にからみすぎた因果の糸と不確定要素の中にある。そのことは置いておいても、無人の南太平洋に降り注ぐ雨の音や砂漠で小さな砂山が崩れることが、何か世の中に影響するのだろうか。

 例えば今まで生きてきた人を列挙することは絶対に出来ない。
 けれどもだからと云って、かつて生き死んだものの人生が無意味であるということにはならない。そんなに不遜なことをいう権利は何人にも認められていない。
 陳腐な台詞だが「その人を覚えている限り、その人は死なない。君の心の中で生き続ける」という言葉があるが、それはある程度は真実だと思う。その姿を確認しあうために人はその人の死後もその死を悼んで集まるのだ。話題は勿論「あの人」のことだ。
 僕が死んだら、葬儀には僕の知る人々が集まるに違いない。僕をよく思うにせよ逆にせよ、集まって話をするだろう。僕の交友関係からしてそれほど多数とも思えないが、追悼儀式には親族や友人が何人か集まって僕を悼むだろう。
 でも時が過ぎて、僕を直接知るものが誰一人いなくなったら?
 そう、この時に僕の魂はアイデンティティーを失い、集合に帰るのだ。僕が云ってるんではない。火の鳥なんかで書かれている通り、この考えは日本に深く根付いている考え方である。日本神道は先祖崇拝でこの漠然とした「先祖」「祖霊」がまさにこれだと思う。
 まあ明治天皇や西郷隆盛、東郷平八郎みたいにアイデンティティーを保持したまま神になることもあるけど、市井の市民は知る者がいなくなったときに神としての仲間入りを果たすものだと思う。
 そう考えると然程死も恐ろしいものではなくなるだろう。 

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