帝國會
グリコ森永事件 |
禁じられたコーラの風景
初めて社会を意識したのはいつかなんて忘れてしまった。
ただ中でも特に毒菓子をばらまくという事件に当時4歳の息子を抱える母親はいたく恐怖を覚えたらしく、今の感覚で言えば洗脳するかのように「落ちている物を食べちゃだめよ」と連呼していた。また一緒に散歩などをするときは極力食品の類を避けて歩き、空き箱が捨ててあってもそれを避けるように歩いていた。
さてその同時期に(一連の中にあったかどうかは忘れたが)青酸コーラ事件というのがあった。これを聞くとさらに激情してしまったのか、コーラを目の仇にし始め、以後家庭からコーラを消してしまった。
友達の家(といっても隣とか向かいだが)に行くとたまに出てくるコーラの味を覚えていた僕だったが、この兵糧責めにはいたく憤慨し、また母親の「悪い人が毒をまいているから」という説明に義憤を感じ、「ウルトラマン(或いはダイナマンなど)は何をしているのだろうか。早く悪人を退治しちゃえ!」と感じもした。これがまさしく僕の悪を憎む気持ちの原体験である。
そんな折り、母親との散歩の途中、何があったかは知る由もないが、母親が電話ボックスを使うようがあった。一緒に電話ボックスに入ったのだが、何と足下に開けてある赤いコーラの缶があったのだ。覗くと中も豊富にあるらしい。母親は電話に夢中で気がついていない。
いや、この葛藤は今でも覚えている。
コーラ片手にどきどきしたなんてことはこのときだけだろう。これは毒かもしれない、でも20面相がこんな街まで来るのかな? 飲めばおいしいんだよな、ああでも怒られるのはいやだから。
欲望は母親に負けた、怒った母親の顔のイメージに! 僕は足下に缶を戻して何気ない顔で待った。母親は最後まで缶には気がつかなかった。
結局、犯人は捕まらず、我が家のコーラ禁令は解かれることはなかった。と、いっても流石に毒が怖い云々の理由ではなくて、「コーラは体に悪い」という俗説を信じてのことだったようだが。
それと、僕が床に落とした物を(家の中でも)決して食べないのはこのときのしつけの影響である。 ▲
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筑波科学博覧会開催 |
♪コスモ星丸〜
筑波の科学博覧会に関しては非常に楽しい思い出がある。
と、いっても僕がそこに行ったわけではない。博覧会と称するものはかつて幕張メッセで行われた「花と緑の博覧会」に行ったことがあるぐらいで、関心もなければ行ったこともない。そもそも人混みが苦手なのだ。
さて、そんな僕がこの科博に非常にいい思い出があるとはどういうことか。
実は我が家からは何の酔狂か父親が行っているのである。
そして、もちろん僕にとってお土産がいい思い出なのである。
元来、僕の父は謹厳実直の固まりのようないわゆる「昔の親父」な男であり、お土産などどう贔屓目に見ても到底似合う男ではなかった。そんな親父がああいう博覧会に行くのも驚きだが、またお土産に選んだ物がビックリした。
「コスモ星丸」である。
コスモ星丸とはこの博覧会のマスコットキャラクターで、形を簡潔に言えば青い土星(ワッカがついている)にバイキンマンの角が生えたような代物で、いくら当時とはいえ最先端の科学技術を紹介する博覧会のマスコットとしては上出来なデザインとはいえない。
まあこれだけならセンスの悪い父親を恨んで終わりなのだが、そこは科学の展示場、それだけでは終わらない。この「コスモ星丸」には台座がついていて、電池式ながら動くのである。しかも、テーブルの上で走らせても「絶対に落ちない」のである。
これは不思議である。トットットと直進して落ちそうになるとくるっとスムーズに反転してまた進むのである。勿論、センサーなどついているわけでもなし、未だに原理は解らない。
かりそめにも(文系にせよ)大学生が解らないもの、幼児に解るわけはない。魔法かと思ってビックリする。それを見ていつになくヘラヘラと笑う親父の得意そうな姿! 今でも折に触れ思い出す。 ▲
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日航機墜落事件 |
事故の恐怖、ガチョウの恐怖
まあ、当然のことながらあんまり小さいときの記憶は殆どない。
殆どない中にもしかし、強烈に覚えている断片記憶はあるものだ。
この日航機墜落事件は家族旅行の旅先で知った。
子供の頃行った旅行は殆ど覚えていないが、このサファリパーク旅行は幼き僕の心に徹底的に恐怖心を植え付けた旅行として勝手に記憶している。このお陰で僕はヤギやシマウマやガチョウ(特にガチョウ!)の顔を正面から見るのがトラウマになってしまった。先日、上野動物園に行く機会があったがやはり怖かった。
ともあれ、旅行当時僕はずっと泣きっぱなしで、母親から離れられなくなってしまった。女湯まで一緒に入ったくらいだからその恐怖も解るだろう。この時5歳だが何にも云われなかった。
さて風呂から上がってテレビをつけると御巣鷹山。
両親が突然仰天した声を上げた。それでなんとなくとんでもないことが起きたことが解った。後にこの事件のルポなどを読むと、暑さのあまり遺体の腐敗が進んで大変だったというが、この暑さは今でもよく覚えている。
それでテレビには泣き崩れる遺族がたくさん映し出されている。当時のマスコミは配慮なんて言葉を知らないから、扇情的な報道を繰り返し遺族に無遠慮な質問を連発していた。遺族を泣き喚かせることが目的だから遺族も遠慮なく泣き、それを大々的に放映する。
両親は旅行中だというのにじっと特番を見続けていた。
僕もガチョウの恐怖を忘れて、バラバラになった飛行機に恐怖を感じはじめていた。と、そのとき仲居さんが料理を運んできた。本当は食堂で食べるところを番組に夢中になって行き忘れたのだ。
仲居さんは「ほんに恐ろしい事故がおきましたなあ」とのんびり云って食器を備え付け始めた。
その顔を見て僕はビックリし、恐怖に震えた。
中年を過ぎた仲居さんの顔が、ガチョウそっくりだったのだ。
堰を切ったように僕は泣き叫んだ(と、家族は云う)。これは悪夢となってしばらく見続けたくらいの恐怖だった。ただ幸か不幸かその時、テレビが黒焦げの死体らしき物を映したのだ。慌てて母がテレビを切った。
「ほんに子供さんには刺激が強すぎまんなあ」
とかなんとかガチョウは云ってオホホと笑った。
ここから先は覚えていない。気を失ったからだ。
皆は「事件のショックに気を失うとは感受性が強いのか臆病なのか」という。あれくらいで気を失うほど僕は脆弱ではないが、敢えて反論はしない。
ガチョウの顔したオバサンが怖かった、なんて口が裂けてもいえないからね。 ▲
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昭和天皇崩御 |
天皇の病と母の頭痛と僕のすり傷
しばしば昭和帝の崩御はアメリカでのケネディ大統領暗殺事件と比較される。どちらも国民の心に深い影響を与え、国民は大抵その日、自分が何をしたかを覚えている、というのだ。
昭和64年、1月7日。
僕はこの日のこと、そしてそれを知ったときのことをはっきりと覚えている。
別に我が家では七草粥を食べるような習慣もなく冬休みも終わりに近づいていることから、なんとなく気怠い憂鬱を感じながら宿題のチェックなんかをしていた。
この日の朝、風邪を引いたのか母親が2階の部屋からは出てこず餅を焼いて朝飯にした。今ではとても信じられないことだが、子供の頃は休みでも8時には起き、ちゃんと食事までしていたのだ。
それから数時間は適当に炬燵の中に入って借り置きの児童書を読んでいた。途中で父親が(当日は土曜日である)「母さん風邪だってさ」といって起きてきたので、納得してその場は過ごした。だが、さすがに正午頃心配になって、母の部屋に行った。
母曰く、どうにも熱も鼻もないが頭痛がするとのこと。
そして風邪薬を買ってきてくれと云う、僕は断る。何故かと云えば薬局まで最短でも片道30分は悠にかかり、当日は覚えている人も多いと思うが極寒の日。それに母親は僕が熱を出しても決して薬などのませてくれないのだ。
それを告げたところ、いや怒ったね。
病人とは思えない力で僕をポカポカと殴りつけ、「こんな薄情な子はいない」と嘆いて殴り「何でこんな子になってしまったか」と自らを呪い「こんな子供は病気の時に放置して殺してしまえばよかった」と恐ろしいことをいい、逃げても追いかけてきて「愛のムチだ」と口癖を叫んで拳を振り下ろす。
別に当時近所の家庭や学校がそうだったように親や教師が暴力をふるうことは別に珍しくもなんともないが、さすがにこの日は度が越えていた。今であれば児童相談所が介入してくるだろう。
暴れ疲れたのか母は「情けない情けない」と布団に籠もってしまったので、半ベソの僕は階下に降りて何とはなしにテレビをつけた。
と、画面に映るのは菊の花飾りの山山山。
「あ、死んじゃったんだ」
これが初感想である。病状が進んでいることは知っていたが、まるで死ぬとは思わなかった。別に天皇を神とは思ってもいないが、一つにはマスコミは常に楽観的に報じ、ニュアンスの汲めない子供は字義通りに希望を持てる大したことない病気だと思っていたのだ。
母を除く家族に天皇崩御をはなす、すると誰が伝えたのか母が降りてきて、また撲たれる。結局僕は寒風の中、薬を買いに云った。そしてもし母親が天皇だったら僕がわざわざ寒い中薬を買いに行くことも、撲たれることもなかっただろうな、と思った。
薬局で「薬をください」と云って母の書いたメモを出したら、店主は頭痛薬の書かれたメモを読む前に子供マキロンを出してきた。よっぽどひどい顔をしていたんだろうな、と今でも不覚に思う。 ▲
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湾岸戦争 |
あの時、確かに僕は敗戦した
子供の頃、テレビの話題が苦痛だった。
我が家はどういう訳か睡眠時間が厳格に制限されていて、小学3年生の頃まで8時に就寝しなければ半殺しの目にあうというとんでもない家訓があった。テレビも1日1時間でもし8時以降にチャンネルをまわそうものなら例え冬に雪が降っても外に追い出して鍵をかけてしまうという過酷な家だった。
そんな家でテレビを見るのは不可能である。他の話題、たとえばファミコンなら友人の家、ビックリマンシールなら宿題代行業の報酬としてせしめたダブりのシールを駆使するなどある程度代用できた。しかし、テレビは!
テレビの話題の度に薄ら笑いを浮かべるのみの生活に飽き飽きしていた頃、湾岸戦争は起きた。
毎晩放送されるお祭り騒ぎのテレビニュースはまるでオリンピックのような興奮を僕に与えてくれた。端的に言えば戦争というファミコンめいた事件は実に「カッコよくて面白い」ものとして映っていた。また御丁寧にもミサイルにカメラがついていたり、赤外線センサーで夜間爆撃の様子が見えたり子供心を刺激する映画のような戦争だった。
僕はこの戦争を完全に娯楽として楽しんでいた。学校でもその手の話題で持ちきりで、僕はこの話題に関しては常に最先端の位置にいた。別に戦争マニアだったわけではない。父親の隣に座って「政治教育」の名のもとに解説付きで6時から11時くらいまで毎日親父とテレビを見ていたのだ。
まったくこの時ほど毎日が得意だったことはなかった。調子に乗ってイスラエルの参戦について予告したり、日本にミサイルが降ってくるので防災ずきんの手入れをしとけなどとデタラメを言って女の子を泣かせて喜んだりもしていた。
しかしその天下も湾岸戦争終結より早く終わってしまった。
その理由は担任が日教組系のガリガリの左翼教師であったという点である。
否、当時はそんな言葉は知らない。ただ毎日テレビを見ていて、あまりに非現実的な平和主義者が世の中にいることは知っていたし担任教師の反戦教育があまりにもヒスなことから、この人もそうだなとは思っていた。
ことの端緒は反戦授業の後の作文の授業であった。
教師は「戦争はなくしてほしいです」とか「水鳥さんがかわいそう」とか、「話し合いで解決を」という内容を期待していたのだろうが、ふたを開けると大半が好戦的な内容、しかも妙に大人びた意見がついており(テレビ解説者とか軍事評論家の受け売りである)あまつさえいくつかの作文には「やまだくんが****といっていましたが」という文字が散見される。
嗚呼、戦後民主主義の空気をまんべんなく受け、おそらく全共闘時代の由緒正しき系譜を引くであろうこの女教師の胸に宿った憤怒の日はいかばかりか。翌日2時間ぶっ続けて自習にしてしまいこんこんと「やまだくんのかんがえ」を批判し罵倒した挙げ句、クラス全員に反省文を書かせ、以後クラスで戦争の話は禁止された。
程なく戦争も終わってしまった。教師は「テレビではアメリカが正義のように言っているが」と戦争(米帝の)愚かさを説いていた。
中学生になった頃、文革時代に紅衛兵のやった糾弾会の模様を活字で読む機会があった。それを一読して、ふとあの頃を思い出した。確かあのとき、教師は僕を前に立たせた。
左翼筋は「言論の自由」を叫ぶのにどうして「反動的」なる言論の存在を認めないのだろう。不思議でならない。 ▲
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貴りえ破局 |
ハイリターン、ハイリスク
こんなことが政治ニュースの中に入るのかどうかは解らないのだが、今日テレビをつけるとどこの局でも反町なんたらと松嶋なんたらの結婚記者会見についての話題で持ちきりになっている。
芸能人の結婚なんて僕にはどうでもいいことなのだが、政局混迷の中、ニュースの時間を割いてまで記者会見を放送するというのだから大変なことである。
これで思い出すのは92年秋の貴りえ婚約報道と破局である。
約10年の間にたくさんの芸能人が婚約し結婚していったが、終日記者会見についてテレビが野別幕なしに論究し、特番を組んでまで記者会見を流すのはこの2組くらいだろう。
芸能界的には格上と思われるキムタク×静香の時でさえここまではやらなかったような気がする。勿論、江口×酒井のときも布袋×今井のときも。
貴りえの時は小学校6年の時だったが、当時はNHKの「ひらり」のお陰で相撲ブームが隆盛しており、りえも激やせその他の「すったもんだ」前であり、両者とも今より遥かにステータスが高かった。また、この時期は思春期に頭をつっこんだ年頃、恋愛話には特に敏感で男子の相当数はあの「サンタフェ」を何らかの形で一度は拝んでおり下世話な関心が先行していた。
ある評論家を以てして「民間のロイヤルカップル」と揶揄されたこのフィーバーにクラスメートは感化され、朝から話題はそればっかりで落ち着かず、3時の記者会見の為になんと早退する者さえ出る始末だった。
僕はそういう話があることは知っていたが、それが当日だとは知らず、ただシニカルな表情でクラスをニコニコと眺めていただけだった。まあ、どうでもいいことではあったのだ。そして婚約は破局となり、どうでもいい一事件へと化した。以後の二人の移ろいはみなさんの方がよく知っているだろう。
僕はこの欄のエッセイを書くときに小中高の卒業アルバムの巻末を参照したのだが、そこにはっきり「貴りえ破局」と書いてあるのだ。これには驚いた。先の評論家ではないのだが「たかだか一民間人の結婚」ではあるが「マスコミという公器」を使うと、時の政権の変遷と同じようにある種の史書には載ってしまうのだ。
散々煽ったリスクというべきか、バブルも膨れればはじけたときが痛い。
りえ側の後の激やせなどを考えるとこの一件、なかなか象徴的なものがある。
反町&松嶋、どうか末永くお幸せに![敬称略] ▲
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地下鉄サリン事件 |
地下鉄通学で解ったこと
地下鉄でサリンがばら撒かれた日、僕はまったく普通に生活していた。当時中学生だったが、別段事件の情報が耳に入ることもなく(教師は職員室のテレビで事件いついて知っていただろうが)普段通りの普通の生活を送っていた。
そして家に帰って初めて事件の詳細を知った。テレビは終日特別番組を組み、地下鉄の映像が繰り返し流れた。僕はへえと思った。だが、いまいちリアリティーのわかない出来事だと思った。勿論、毒ガスを撒いた無差別テロ攻撃だし、許すことの出来ない暴挙だ。
この段階で既にオウムが犯人と報道機関が連呼し、僕も認識していたかは覚えていないが、その後のオウム問題などを思い返してもどうもこの事件のインパクトが薄く感じられるのだ。
何故かと考えるとどうも答えはひとつしかない。
地理関係がまったくわからないのだ。
僕の住んでいる街は東京通勤圏に属する地方都市である。現在僕が東京の大学に通学しているように東京は身近な街である(僕自身は大学まで片道3時間かかるが、23区内に入るのだったら1時間もかからない)。しかし当時の僕は、今もそうだが極度の出不精であり、中学高校を通じて単独で東京に出たのは一度もなく、来る時はいつも友人連れで彼に任せるのが常だった。
だから新宿とか霞ヶ関とかお茶の水とか地名としては知っているが、位置関係はさっぱりわかなかった。どんな特徴のあるどんな街かさえわからなかった。上野には幼少期に母に連れられて行ったがそこと仲間がよく話す秋葉原が徒歩でいける距離ということも知らなかったし、高校のときに山手線ゲームで真顔で「八王子」とか「馬喰町」とか答えていたのだ。
更に致命的なのは中学生の当時、実は地下鉄に乗ったことが一度もなかったのだ。つまり地下鉄がどう云う所で通勤のサラリーマンがどれくらいいるのかなど想像不可能なのだ。
なんとなく薄暗いところでとんでもないことをやらかしたらしいということぐらいしか、僕には理解しなかった。
勘違いしてはいけないが、僕はニュースを見ないほうではない。寧ろ一般の同年代に比べてニュースなどは(スポーツ・芸能関係は一切除く)よく見ているほうだし、時事の知識もあると思う。だがリアルタイムで、僕はこの事件と接していたにも関わらず、まるで僕の理解は大昔の虐殺の事件を追うような、そんな希薄な読み物の一貫としてのような感情しか抱けなかった。
これが改まったのは大学に入ってからである。遠距離通学をしていればいくら出不精でも自然と色々な街を歩き、色々な路線を使うようになる。どの街がどんな特色を持ちどこに位置しているのか、地下鉄の何線はどのような都市を結び、どのような街を走っているのか肌で解った。地下鉄で、今は毎日通学している。
千代田線、日比谷線、丸の内線。別に意図したわけではないが、すべての事件駅を通過した。そしてまさしくここで一般人が死に、何百の怪我人を後遺症で苦しめた現場であると知った時に、僕の心にやっとリアリティーと事件の怒りを肌で感じた。
痛みに鈍感と思われるかもしれない。自分でもこの内面の告白に驚きをもっているが、これはまごうことなき事実である。 |
阪神大震災 |
僕のPTSD
これはまったく本当の話なのだが、阪神大震災が起きるまで、僕は地震が楽しくて仕方がなかった。これは幼少期の心に思った稚拙な感情なのでどうか御寛恕願いたいが、退屈な日常(僕は幼少の頃から世捨て人のような感情を持っていた)を一瞬で変える、地面が揺れるという型破りな事件を、殊に退屈な授業の折などに待望していたこともある。
いや、これは陰気な中学生が夢想するような世界破滅願望などとは違い、より悪質にも純粋に「地面が揺れるのが楽しい」等という呆れた感情が主成分だったのだ。
また地震があればいつもは威張りくさってる担任が右往左往し、授業がぶっ潰れて避難になるかもしれない。そのことは千葉県東方沖地震で震度4を体験したときに知っていた。だから自宅で地震があるとその揺れを楽しみつつも「なんでこれが学校で起きなかったのか」と悔しがったものだ。
ちなみに僕は前述の地震の時にクラスの全員が防災頭巾かぶって机の下に隠れたのに、一人ニヤニヤして逃げも隠れもせず、クラスを睥睨してたという前科がある(後で死ぬほど怒られた)。
さてこんな暢気な感情を抱いていたのも、地震がそもそも本質的に物を壊し、人を死に至らしめる恐ろしい物であると知らなかったからである。誠に無知とは罪である。
阪神大震災の朝、僕は母親の「大阪が大変だよ」という声で起こされた。元々大学に入る前まで、僕は母親に起こされていたのだ。その枕詞がこれだったから酷い。僕は事の重大さに気がつかず、寝ぼけ眼で階下に下りてテレビを見た。
コンビニに物が散乱しているのが見えた。
学校に行ったがやはり関西の地震については話題になっていたがまさかあんな大惨事になっているとは思わなかった。ブラウン管にうつるのはまさに非日常だった。瓦礫、救援物資、警察消防自衛隊
に避難民、救援物資、すべてが僕の想像を越えた出来事だった。
そして日々刻々と増え続ける犠牲者。その数値は留まることすら知らぬように増え、初めは500人程度がどんどん増えていった。事件から数日後、早くも児童のPTSDの問題が囁かれた頃、僕も地震について恐怖を感じていることに気がついた。
以後、グラッと来ただけでも僕の脳裏にはすぐあのショッキングな映像が掠める。そして我が身に降りかかることを想像した後に、心底「早くやめ」と祈るのだった。
阪神大震災については直接当事者から話を聞いたことは一度しかない。大阪人の子と付き合った時も決して話してはくれなかった。ただ、僕の文芸部の先輩が当時大阪に住んでいて、面白い話をしてくれた。
先輩が朝起きて、窓をあけると外の景色がフラットになっていたという。つまりは全部瓦礫の山、先輩はこの世の終わりなのかと大いに焦ってテレビをつけて出来事の一部始終を知り、外に出てみた。
と、自分の家だけが唯一無事で被害といえば愛用の大型バイクが転倒しているだけだったと言う。結局見舞金や何やかやの収入で、更に高価なバイクを買ったそうだが、僕はその船乗りを業種にしている先輩の震度6でも起きない豪胆さに度肝を抜かれ、引きつった笑みで「それは凄いですね」と感想を言うことしか出来なかった。
関東大震災が起こったら、昔地震を楽しんだ罰で、真っ先に僕が殺されるだろう。 |
O−157食中毒 |
文化祭の敵
小学校六年生の頃、友人に連れられて高校の文化祭なるものにいった。後に僕が進学することになった高校だが、その時はそんなこと夢にも思わず友人のつきあいで、という受動的な理由だった。
そこで何が驚いたといって中庭で生徒が露店を開き、お好み焼きなどの食品を売り、またそれが安くておいしかったことだ。他の一般展示の所も回ったが活気という点ではとても食品販売の場所には及ばなかった。
僕は激しく驚いて「高校に入ったらこういうことがやりたいなあ」と思った。中学に進んで、さすがに中学の文化祭では食品は認められていなかったが、文化祭実行委員会を二年間努めた。その高校の文化祭にも毎年行ったが、相変わらず食品街は栄えていて、僕を羨ましがらせた。
高校に進学し、当然の如く文化祭実行委員に就任したが、この年食品は認められることはなかった。
O−157の大流行である。
衛生観念万全の食品企業でさえ中毒者を出す始末、いわんや素人学生をや。と、いうわけで間が悪く入学したその年から食品の禁止令が出た。ちなみにこの病原菌の被害を一番受けたのは大阪の堺市であるが、ここの市長がOBでマスコミから叩かれまくったことも過剰反応の一因かもしれない。
この決定に対し、クラスにはやはり僕の他にも「高校に来たなら食品を」と考えていたものも多く失望の声で迎えられたが、連日の被害報道の前に沈黙してしまった。
この禁止令で生徒の大勢は学校の方針に反発し、クラス出場辞退が相次いだ。出場率は半分以下、特に高校は三割程度で当日の校舎は惨憺たるものだった。
学校側もこれでは志望者が減ると危惧したのか、翌年は補助金を出すなどの融和策を実施したが、食品は解禁されなかった。O−157の話題はふれられなくなったのに、である。代案としてマクドナルドなどが出張販売をした。
尤もこの頃は僕も多少大人になり、責任を負うのは学校であることなど相手の事情も解るようになってきたが、本心は食品を扱ってほしかった。
三年次、僕は古株の文化祭実行委員として企画幹部になった。その頃は禁止三年目だから全面解禁とはいかなくても、受験学年の条件付き解禁か調理部の特例解禁でも出来ないか考えていた。とりあえず生徒会の要請で生徒総会で全校の前で演説し、有力の先生に妥協案を提出しロビー活動を行った。
これは僕自身の野望もあるにはあったが、受験勉強で時間がとれず事前準備のいらない食品関係を行いたいというクラスの意志もあった。
結果は生徒は前年と同様禁止、ただ出展企業は増やすというものだった。
ところがこの規制を逆手に取ったクラスが存在した。
それは僕の隣のクラスで、二年生の時の融和策の一つ「ものを売って収益を得てもよい」という規則を逆手にとってカップラーメンを売り出したのである。勿論、未開封を売ってお湯は任意で提供するというのである。
かつては栄え、今はがらがらの中庭にたくさんの席を配置し、マクドナルドと拮抗したのだ。これには教員からも一切苦情が来なかった。
これを企画した実行委員は法学部に進んだと聞いた。
きっとさぞかし優秀な法学士になるに違いない。
付記 O-157の話は聞かなくなったが、解禁は今なお遠い
注記 O-157の被害は毎年出ています ▲
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酒鬼薔薇事件 |
3 YEARS IN SAKAKIBARA
高校時代にいた文芸部という部活はどうも精神的に不安定な人が多かった。 まあ「文学」というアブナい方面を管轄している部活だけにナイーブすぎてテンパっちゃっている、ちょっと問題のある人が集まるのは自然のことだった。毎年のように全校の耳目を集める事件を起こし、メンバーもクラスで異質と思われ、居場所のない人が集まっていた。休み時間すら教室にいられないのだ。
さすがに電波系とか前世少女、使いモノにならないほど被害妄想の強いのはいなかったが、やはりどこか現実から遊離している趣味を持つ者が多かったのは否めないだろう。
三年間、僕はこの部で貴重な体験をした。
「酒鬼薔薇事件」の第一報を聞いたのはその部室のことだった。僕は部室で同期の編集幹部と次回の発行について詰めの会議をしていた。脇では問題児のグループが話をしている。
曰く「首を切って」「校門の上」「小学校」
断片的な単語から僕は嫌悪感に舌打ちをした。彼らの十八番である美少女を縛って犯すアニメゲームかホラービデオの話と思ったからだ。しかし話は段々いつもとは違う方向に進んできた。「今日は午後から来たんだけどワイドショーではさ」 ん、ワイドショー? 僕は矢も楯もたまらず飛び出した。
「おい、おまえら何の話をしてんだ?」
「え? いや神戸の事件ですよ。生首を学校の門に置いた」
フィクションの話だと思っていただけに、それが現実に起きてしまったことをきいて背筋に冷たいモノが走った。事件を聞いてこんな感触に襲われたのは初めてである。
その後、部室はこの話題、一色に染まった。元々そういうのが好きな奴らの集まりである。当時はまだ犯人は「ゴミ袋を車に積んだ三十代の男」と目されていたが、編集幹部の云った「ああいう偏執的な奴の仕業だろうな」という予言が当たるに至ってさらに加熱した。
犯人が十四歳であるということを知って部室は異常に沸騰した。
酒鬼薔薇は顔なき神となり声明文は教典となった。部室にはバモイドオキ神の模写が張られた。元々この部活には反体制の気風があり、バックナンバーを読むと湾岸戦争ではイラク支持、オウム擁護という感じであり、当然酒鬼薔薇も崇めるまでに支持されていった。
彼らは口々に教師のクラスメートの呪詛を口にし、アニメや同人誌の話は殆どしなくなった。これはこれである種の恐怖がそこにあった。彼らは確かに心酔していた。何者も信じなかった彼らが、顔も本名も知らない現人神に帰依していた。
僕はこの事件を他のクラスメートとは異なる側面で見ていた。
彼のような人間はどこにでもいる。ただ気がつかないだけだ、と。ちょっとしたボタンの掛け違いが、そのような人間を生み出させる。クラスの話題ではそれは絵空事のゲームや漫画のような事件として語られていた。
実際の出来事として、部員が不祥事を起こすまでそれほど時間はかからなかった。 ▲
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W杯フランス大会 |
WHY DON'T YOU WATCH A TV?
ワールドカップの喧噪は、今思い出してもなかなか懐かしいものがある。
当時は受験生になり立てで殊に僕は予備校に行ってなかった分、成績の落ち込みが顕著に成り始め、気分はかなり憂鬱だった。周囲は、進学校進学クラスなら当然のように、ほぼ全員予備校に行っていたため、名物講師の論評や講義のことになり、自然話題も少なく成りつつある頃だった。
そんな頃、ワールドカップの話題は数少ない雑談としてなかなか機能していたように思う。同じクラスの運動系のグループは黒板の後ろに対戦の表を書いたり、予想スコアなんぞを書き込んだりしていた。
別段僕も僕の周囲にもサッカーに格別関心のある物はいなかったが、まあ社会的な話題で「カズの去就」やら「岡田監督の采配」とかを勝手無責任に論じていたし、テレビもちゃんとチェックしていた。思えば僕がプロスポーツをぶっ続けで1試合見るのはこの頃が最初で最後だろう。
元々決勝リーグまでいけるとは当然論として思わなかったが、ジャマイカ戦は結構内心期待していたりもした。だから結果が出たときは片手に持っていた缶チューハイを握りつぶし「街に繰り出したろか」と思ったぐらいだ。にわかフーリガンである。
ところでそのジャマイカ戦を見に我がクラスからは一人あのチケット問題も物ともせず、パリに行ってしまった級友がいた。彼のサッカー好きは成る程有名であり、顔も何となくラテン系の面影をしていたがまさか本当に行くとは思わなかった。
彼が帰国後、初めて教室に来た時の光景は今でも忘れられない。
我が友人の一人が声高々に「おかえり。どうだった?」と叫んだ。
すると彼は返して曰く。
「おまえはテレビを見ねえのか!?」
この一言には案外、一連の騒動の核心をついていると思う。
僕はこの光景を実は今でも夢によく見る。 ▲
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和歌山カレー事件 |
毒入りカレーを食べ、僕は回復した
件の毒カレーのテレビ報道には、他の凶悪事件にはない嫌悪感を覚えた。
毎回毎回大アップで出てくるカレー鍋の映像だ。汚れ、乾燥により所々が 固形化した鍋の映像は毒で汚染されたというイメージもあいまり、非常に汚い物のように見えたのだ。はっきり云えば汲み取り式のトイレを連想させた。
だから事件報道で毎回あの鍋が映し出される度にブラウン管から目を背けていたし、以後はあれほど好きだったカレーが食べられなくなった。理由は毒云々の嫌悪感よりもあの映像のインパクトの方が大きかった。子供の発想ではないが、カレーは排泄物のそれに似ている、と直接突きつけられた体験だった。毒入り=汚いという図式がそう連想させたのだろう。
そんな折り近所で祭りがあるというのでひやかしに行くことにした。
この祭は近所のコミュニティーが町興しのためにやっている神様のない祭で、色々な地区や企業の共済会などの団体が大通りを二日借り切って露店を並べるのである。利益が目的ではないから、非常に安く良心的であり、また終日盛り上がる祭典である。
以前、O−157騒動の時、学校側はいち早く文化祭の食品販売を自粛したことを実行委員として目前で見ているため、大方今回の祭も模倣犯が出ないとも断言できない以上、また客足も鈍るだろうから寂しいものがあるだろう。そう思って行った。
ところが、祭りは例年通り行われていた。
客は構わず料理にかぶりついており、カレーも含めあらゆる食品が販売され、そこには事件の暗雲を吹き飛ばすかのような明るさに満ちていた。
カレー屋の前で僕は足を止めた。
そこには「今、話題の商品です」というキャッチコピーが書かれていた。よく服屋などで見るあれである。その下には小さく「メンバー全員試食済み」と書かれていた。
僕は苦笑して、その例年より五十円引きのカレーを買って食べた。
この毒のあるユーモアが込められたカレーを食べ、僕のカレー断ちの日々は終わりを告げた。 ▲
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