中央広場エッセイ日記更新電信掲示板チャットリンク案内
YMDTスポーツセンター



野球
野球嫌いの憂鬱と復活
 保守的な街に育ったので、外見的には野球少年だった。
 外見的にはというのは「どんなスポーツが好き?」と聞かれれば「野球」と答え、「好きなチームは?」には「巨人」と答え、やりもしないのにバット・グローブ・ボールを常備し、主要選手の所属チームを言えたことをいう。
 実際は野球には関心なかったし機材は伯父から貰ったモノなのだが、「巨人ファン」というのは100%嘘でもない。
 僕がファンだった時期は殆ど藤田監督の時代だったが、読売新聞を朝読む時、初めにスポーツ欄を見て、藤田監督が笑ってるイラストがあれば喜び、泣いているイラストの時は憤慨したものだ。ファミコンでもとりあえず巨人を選択していたから、選手の名前は殆ど言えた(当時はまだ一字変名の時代だった)。
 とはいえ父親につきあってナイターを見た記憶もないし、登下校時にはデザインがいいという理由でライオンズの帽子をかぶっていたくらいだから、ファンといってもタカがしれているだろう。
 だが周囲には、真性の野球少年が沢山いた。
 彼らは真剣に勝負の行方を論じていた。リトルリーグ加入者はクラスの半数を越えた。僕の悪友は地元チームではなく他チームにスカウトされて越境していた。彼は黄色人というより黒人に近い、おそろしく体力のある小学生だった。
 幸い野球やソフトボールは体育になかったが、もしあったなら危機的な状態だったろう。なんせ僕は級友たちが口にする技術論については何も解らなかったからだ。どう打てばどう飛ぶかはもちろん、カーブの投げ方も知らなかった。最低のルールは知っていたが、振り逃げや犠牲フライの要件やボークの条件と結果は今も解らない。
 僕は恐ろしくてバッティングセンターにも行けなかった。保守的な街の固定観念で野球知らずは人非人のような風潮があったのだ。
 そのコンプレックスは、ようやく高校1年生の4月に氷解した。
 第一回「文芸部対放送部、世紀の野球決戦」、僕は文芸部2番セカンドとして参戦した。結果は2打数2安打という自分でも驚くものだったが、僕の心を落ち着かせたのは「なんでもできる」と豪語し、新入部員の僕らを脅した某先輩だった。彼は4番を自ら任じた割に三振を繰り返した。不思議に思い、彼の手つきを見て爆笑した。
 彼は右打ちなのに左手を上にしてバットをもっていたのだ。これでは打てるはずもない。バットの持ち方も知らないくせに4番を打ちたがる彼の感性に大いに呆れた。僕は彼のハッタリを悟り、何年分ものコンプレックスを晴らしたものだった。
 今では母校の高校野球以外、野球には関心ありません。 

サッカー
苦い思い出
 何を隠そう僕はサッカー部の副部長をやったことがある。小学時代のことだが。といっても体力的技術的に選ばれたのではなく、先輩に気に入られていたという「政治的」な理由による。
 だが、中学校ではまったくサッカーと縁を切ってしまった。「部員が怖そう」という理由でサッカー部ははなから考慮外だった。僕の中学は不良中学校ではない。真面目すぎて近隣諸校からのカツアゲの標的たる学校だった。だから、決してサッカー部の彼らが怖い人間だったわけではないのだが、文化系の目には運動部系はたいてい怖く見えるものなのだ。
 しかしサッカー部員というのは、何故あんなにラテン顔をしているのだろう。小中高の卒業アルバムを繰ってみると、何人か必ず彫りが深く色黒のラテン顔がいる。文化系にはまずいない顔立ちだ。彼らこそ「サッカー=モテる」の公式を導くパイオニアで、まあモテる。
 ファンも文芸部のそれとは異なり心身健康が常である。うらやましい。またサッカー界の知識も非常にかっこいい。Jの話も結構だが、セリエやその他海外リーグ、W杯の話をする様は絵になる。

 サッカーフリークは他のスポーツより熱狂的だが、それは僕の嫌いな低得点性と、大いに関係あるだろう。野球やバスケの決勝点を打ったことはあったが、サッカーのそれに比べれば比ではない。
 あの、小学生の頃の日。
 左コーナーキックで浮かんだボールを頭でねじ込んだあの瞬間。
 あの時、確かにエクスタシーを感じていた。何をしていいか解らないほどの興奮。アドレナリンが満ちていくのがはっきりと解った。体が熱く、どうしていいか解らなかった。とにかく気持ちよかった。
 サッカーに熱くなる彼らの気持ちも分かる気がする。

 高校の頃、クラス対抗のスポーツ大会で僕はサッカー補欠要員に送られ、ブーブー文句をいった。すると、あるサッカーフリークから散々怒られてしまった。その時はたかがスポーツ大会になにをいきりたっているのかと思ったが、後に彼がW杯を身にフランスに行ったことを知り、己の不明を恥じた。 

バスケットボール
運痴の必勝法教えます
 高校の体育に野球はないが、バスケットボールはほぼ確実に登場する。チーム線の勝敗でおおよその成績が決まるので、みな必死になる。本稿では運痴のための高校体育バスケ必勝法を伝授しよう。
 ただしこの必勝法には条件がある。進学高校の進学クラス、クラスにバスケ部員が一人もいないこと。

 自慢じゃないが、27人のクラス男子のうち、得点ランキングを数えたら、確実にベスト10には入るだろう。シュートの本数なら5位にまで入ることが出来る。シュートの技術は酷いものだが下手な鉄砲何とやらである。まあ一つ頭脳戦の恐ろしさを語ってみよう。
 方法としてはこうだ。
 試合開始からセンターライン付近をずっとうろうろしている。そして自分のゴール付近で攻防戦が始まったら、絶対に加勢など考えず(運痴が腕ずくでボールを奪取できるわけはない)じっと戦線を見つめるのである。
 相手のシュートが入ってしまえばそれで終わりだが(次の機会を待て)、味方がシュートミスを拾ったら好機、全速力で敵ゴール直前まで走る。味方はノーマークの敵ゴール前にボールを投げる。あとはアメフトよろしく駆けたままそれを拾って、叩き込めばいい。蜘蛛の子を散らすような追撃も無意味である。
 これがすべてだ。
 NG行為はずっとゴール前にいること。すぐにマークがつく。センターライン付近をやる気なさげにプラプラ歩いていればいい。運悪くマークがついたら、彼が忘れるまで、何回か混戦に混じってもいい。
 ただこの方法は先生のウケは悪く、得点の割に成績がつかない。

 さて、何故アタマの優秀なクラスで有効で、バスケ部員がいるとダメなのか。答えはこうだ。優等生は勝負に熱くなりがちで、試合を巨視的に見られない。だからみなボールに殺到する。マーク中もすぐ職場放棄してボールを取りに行ってしまう。しかし本職はいつも全体を見ているからマークの指示にぬかりがなく、必勝法は使えない。
 まあ僕のクラスはバレーこそ学年最強だったが、バスケは最弱。いつも30点以上の差を付けられた。(嗚呼、女子に「惜しかったね」と皮肉とも慰めともとれる言葉をかけられたときの悔しさよ)
 そんなクラスでのハッタリに似た技術だが、進学クラスにいながら誰も姑息な手口に気がつかなかったのは迂闊である。

 ところで、僕は得点すると一回手を叩き、右手の中指と薬指と親指を曲げて奇声を発するのが常だった。こういう行為は著しく人格を落とすのでやらない方がいい。 

ハンドボール
勝っても負けても鼻血を出しても…
 小中学校のうちはキーパーなんてやるもんじゃない。
 僕は常々そう思っていた。高校以上の精神的に成熟した年になればそうでもないが、少年期のキーパーというのは自分のチームが勝てばFWに手柄を持っていかれ、負ければクソミソに罵られるのである。つまり得点者が無条件にヒーローになるので、みなボールに集中してほとんど試合にならない。遠きフィールドにダンゴのような人だかりを眺め、キーパーは一人孤独を感じるのである。
 中学体育のハンドボールでは、どういうわけかいつもキーパーを仰せつかっていた。比較的危険なスポーツで、試合数そのものが少なかったが、その度に憂鬱な気分になったものだ。
 ハンドボールなんてのはまったくいやなスポーツである。コートもゴールもサッカーと比べて狭いから、よくシュートが飛んでくる。ゴール前には一定区域のキーパー以外立入禁止エリアがあるが、空中を通る分には反則にはならない。結果、剛速球が至近距離から飛来するのである。
 ハンドボールは堅いから当たると痛いし、選手そのものが飛んでくるわけで、これにぶつかっても大変痛い。勝っても褒めてはくれず、負けたら文句たらたらである。しかもどっちにしても生傷は絶えないのである。
 僕はドッジボールならそこそこできて、小学生の時など「蛙避けの山田」の異名をとった(いきなり伏せるだけですが)。だがキーパーでは逃げられない。とくにノーマークで突っ込んでくる時など、相手の表情が変わってしまっているので恐怖さえ感じた。
 しかも的が大きいためか、なぜかみなゴールではなくキーパーを狙ってシュートする。ドッジボールの悪しき因習かもしれない。
 顔面に当たったときはひどい。ボールが顔にぶつかり鼻血が吹っ飛ぶ瞬間、空が黒くなり自分の倒れた音が聞こえる。ここで自軍のメンバーは駆け寄って心配してくれるのだが、中に一人この虚を突いてゴールにボールを投げ込む奴がいる。そして自軍と相手方の喧嘩が始まり、僕はグラウンドに倒れたまま。
 もう機会はないだろうが、キーパーなんてやるものではない。 

バレーボール
懐かしのバレー・ストーリー
 このHPがまだ暫定公開期間中の話。当時はなんと家ではネットが出来ず、友人の家でアップしていた。当然、大々的に公開するわけにもいかず、あくまで試用品としてごく少数の知人のHPに公告を打った。更新は月に数度、当然客足も1日5人ペースのわずかな歩みだったが、ありがたいことにいくつかの具体的な感想も頂戴した。ことに高校時代の委員長氏からは「バレーボールがないぞ」との丁重なアドバイスをいただいた。
 まったく迂闊なことに僕はすっかりバレーボールのことを忘れていた。ただただ純然と忘れていたのである。これは怪しからんことだ。
 この項では散々、出身クラスを「進学校の進学クラスなので、運動が苦手だった」と書いた(僕自身はその中でも更にできなかったが)。これは概ね事実である。
 ただ、ここからが重要だが、バレーボールだけは例外だった。
 もし我らのクラスが国家ならば、バレーボールは文句なくその国技となっただろう。どうしたわけか我がクラスには中学以来バレーに磨きをかけている猛者が多く、その腕は間違いなく学年一だった。
 スポーツに要求される体力や筋力はスポーツクラスに遥かに劣っていたはずだ。しかしバレーボールという技術性の高いスポーツにおいては、経験と技術、そして知力が勝利するのだ。

 僕の学校では年に一度、クラス対抗のスポーツ大会が挙行されていた。種目はバレー、バスケ、サッカーである。我らが進学クラスはバレー以外の運動部員がほぼ皆無、運動音痴がひしめいていた。模擬試験の順位と対称的な結果になることは自明だった。
 ここで我がクラスの首脳は一計を案じた。バレー部員を総動員してバレーに勝つ。サッカーは中学経験者と体育の出来るやつを回して勝てはせずとも同点狙い。そしてダメな奴らは残念だが他クラスが力を入れるバスケに放り込んで玉砕させる。一勝一敗一分け作戦というフランスW杯の日本のような戦術だ。
 僕は2年間バスケをやり、最後の一年にサッカーに昇格した(補欠だが)。ともあれ僕らバスケ部隊は並みいるドリームチームと対戦し、果敢なる戦闘の末20−0くらいで負け、早々にバレー見物に行くのが常だった。
 そこでは常に(比較的)背も体格も悪いクラスの5人が、相手の巨漢どもを右往左往させ、容赦なくアタックを叩き込み、煽るようにボールを落とし、小気味よいかけ声で連戦連勝無敗王国の輝きを謳歌していた。
 嗚呼、この誇らしさ。
 オリンピックやW杯になると、にわかにナショナリズムが満ちる。普段は学校の悪口を言っても高校野球では校歌を叫ぶようなものだ。このとき僕らは、先程の悔しさも手伝って、全身全霊で応援した。
 少年漫画でもそうだが、体格に劣る者が巨漢を打ちのめしていくのは気分のいいものだ。僕らは十分に溜飲を下げ、惜しみない声援と拍手を送った。

 これが僕のクラスのバレー・ストーリーだ。 

テニス
運動と衆道の境目
 テニス! それは高貴な者のみに許されるスポーツ。
 テニス! それは優雅でさわやかな動作を求められるスポーツ。
 例え、激しく動き、強烈な技の応酬を伴ったとしても、汝ら美しくなければならぬ。華麗な技と筋肉美を存分に発揮せねばならぬ。その汗は甘露の如く、その姿は戦いの女神アテネのように!
 強く、激しく、美しく!
 スポーツの中の猛き勇者、深窓の貴族。
 ふたつの顔をもつ究極のスポーツ
 テニス!

 ああ、そんなスポーツを貧乏で運痴でダッサダサの連中がしたらどうなるか? それは高校時代の体育、僕の最初で最後のテニス体験が証明してくれる。
 高3、夏。受験勉強が本格化し、目つきを見れば学年の解る季節。
 内申書は高3の1学期まで有効のため影響必至の推薦狙いは勿論、関係ない筈の一般受験も妙に殺気立ってくる。体育も例外ではなくいつもはテレテレ恥をかかない程度にしか力を入れない連中も殺気だって力を入れ始める。
 テニス、まさしくそんな季節のスポーツ。
 人気のある担当の体育教師はこの受験の季節に華を添えるべく「2人1組でトーナメント対戦、勝ち数が多いほど点を与える」という声明を出した。
 2時限の基礎練習の後、試合。
 信じられないほど暑い日だった。30度は軽く超え、時間は5時間目、14時を回る最悪の時間だ。
 チーム分けは任意だった。僕の仲間はどいつもこいつも僕と同レベルで運動はからっきしな奴ばっかりだった。こうなったら次善の策だというわけで一番喧嘩の強いと目されてる(本当はどうだかしらんがね)メンバーと手を組んだ。奴とは小5以来のつきあいでお互いグループ内の変人の双璧といわれるコンビだった。
 そしてチーム登録、対戦発表。
 嗚呼、幸運なことに初戦は同じグループの鼻くそだった。勿論僕らは目くそである。線をたどると勝っても2戦目はクラス唯一のテニス経験者とぶつかるため玉砕必至だったが、初戦は勝てる見込みがあった。
 試合が始まる。面白いことにお互いサービスが入らない。その代わり入ってしまえば相手は打ち返せない。典型的なビギナー戦でむなしさは募る。ただ、たまに強烈な物を打ち返して点が入り、それを決勝打にセットを貰うと云うことがあった。
 コツをつかんだのか、後半はお互いが比較的打ち合い、試合はトントンになっていった。そして最後の回、奇しくも5セット目、同点、最後の一発。僕のサーブだった。
 全員汗にまみれ、息を切らして真っ赤な顔で睨んでいた。相棒はシクったら殺すと云った顔でこっちを見ている。
 打つ、相手に入った。すかさず相手が打つ。相棒のフォロー、「打ち返すな」と祈ったが敵も必死で打ち返す、僕の方へ!
 いや、打ったね。見事にボールは教科書通りの相手の死角へ!
 勝った! 訳も分からず僕と相棒は駆け寄って抱き合っていた。汗くさく頭は、朦朧としていたが、勝者の特権アドレナリンのお陰で気にもならなかった。この時、正直相棒と抱き合いながら快感を感じていた。
 これはスポーツによるもの、と信じたいが、それを見ていた相手方が「ホモ雑誌の表紙を飾れるぜ」といったのは事実である。 

卓球
桂馬の高飛び
 得点の奪い合いは好きではない。具体的には、野球よりキャッチボールの方が好きだ。サッカーより「ワンノー」(ボールを使った蹴鞠みたいなモノ)の方が好きだ。バトミントンでもスマッシュをはたくより、仲間と何度続くかを数えていた方が好きだ。
 卓球も然りである。
 ある程度の経験者が対峙すれば日が暮れても終わらないようなやりとりも、運動下手がやるとラリーが続いていること自体がエキサイティングな出来事なのである。
 だからやるなら社員旅行的温泉卓球的なノリが好きだ。ここで素人相手にスマッシュを決めるような鬼畜は女にはモテるのかもしれないが、俺に云わせれば翌日からいじめの対象である。
 しかし高校3年の頃、とってもそんなことを云ってられない状態が発生した。
 卓球はテニスの弟分みたいな存在である。あるとき、テニスの時の同様2人1組でペアを組み、トーナメント戦で勝ち抜けば勝ち抜くほど体育の得点が上がるというシステムを体育教師は採用した。
 受験前の一時、僕は例によって腕っ節が自慢の友人とタッグを組んだ。それはいいのだが、一つ盲点があった。テニスは両方とも素人だったのだが、彼は卓球は若干の経験があり、しかも体育の点数を前回よりマジに欲しがっていたのだ。金持ちの相棒は早速体育館の備品ラケットではなく、柔毛に覆われた高級品のラケットを買ってきた。漫画みたいな話である。
 そしてその日以後、クラスの風潮も手伝ってか、受験前だというのに昼休みは毎回卓球の修行、放課後も彼が空いているときは何度か市立の卓球場へと通う羽目になった。
 クラスにそんなうまい奴はいないのだが、もう彼は目が据わっちゃっており、スポ根ドラマ流にスマッシュの打ち方や防戦方法を仕込んでくれた。なんせちょっとでもこっちがへまをやると思いっきり打ち返してくるから始末が悪い。よくまあ殴り合いにならなかったもんだと我ながら感心する。
 結果は、やっぱり1組勝ち抜いて、運動の出来るチームに負けた。彼は散々僕のせいにしたが、僕に云わせれば彼のスマッシュミスが多かったような気がする。
 やっぱり僕は楽しんでラリーを続ける方が好きだ。 

剣道
父さんと僕と
 剣道教室に通っていたことがあった。
 小学校二年の時からちょうど二年間、小学生が対象の教室だった。初めの一年間は剣道着を着て構えだけ練習し、それ以降は防具をつけてひっぱたきあいをしていた。
 初めの一年、僕はちびっ子剣士として嬉々として休日を捧げていた。正座や黙祷や礼の作法も気に入っていたし、毎週洗った剣道着の着心地も好きだった。打ち合いこそなかったが竹刀を持って素振りをするのも心に染みた。でもなんといっても一番楽しかったのは、迎えに来てくれる父親と一緒に帰ることだった。
 父は練習の終わる時間になるといつも近くのベンチで煙草を吸っており、帰りは「母さんに内緒だぞ」とジュースやアイスを買ってくれていた。寡黙な父とゆっくり口をきく唯一の時間だった。
 二年目からは事態が変わってきた。それまでとは一転、剣道の時間が苦痛になってきたのだ。まず、トイレが近いのにトイレに行かせてもらえない。顔がかゆくなってもかけない。なにより人にアタマをはたかれることが耐えられなかった。そんな心の乱れが出るのか一年目の作法編ではよく褒められていたのに、二年目は毎日叱られたものだ。
 嫌になるのにさほど時間がかからなかった。
 だめ押しをしたのはこの剣道教室では生徒同士の試合をやるのは年末に一回だけだった。まあ発表会のようなものだ。そこでは腕に覚えのある父兄が初めに模範としてやりあうのが恒例だった。
 僕の父も何故かそこに参加していた。
 発表会では先生には負けたものの他の大人二人を切り捨て、僕を驚喜させた。「あれは僕の父さんだぜ」と仲間に自慢するときのあの誇り!
 ところが僕が戦う番、なんと僕は小学校二年生のチビに負け、同年代の女子にも負けた。一人あたり三回当たるのだが、僕だけ「危ないから」という理由でそこで止められた。
 帰り道、父と一緒に歩いた。僕は泣いていた。あまりの恥ずかしさと屈辱感に昔の武士だったら腹を切っていただろう。昔の武士ではない僕は 「剣道をやめるよ」といった。はじめ、父にこっぴどくおこられるかと思ったが、父はただ短く相づちを打っただけだった。
 後に父から有段者であったことを聞いた。そして元々僕を剣士にしようとかそういう気持ちは更々なかったとも。なら何故剣道などを僕にやらせたのか、その質問には答えなかった。
 寡黙な父とはいつも同じ家にいたにも関わらず、あまり話をした覚えがない。思春期に入ってからはさらにその数は減った。
 それでも、あの日の鮮やかに敵を討った仕草や帰り道、妙に哀しそうな顔をしていたことは決して忘れることはないだろう。そして彼は、僕に剣道をやらせた理由、そして辞めたときの気持ちを決して誰にも話さず、墓場まで持っていくのだろう。 

相撲
ミッション1、まずはマワシを干せ!
 自慢じゃないが、僕は土俵入りができる。
 僕だけではない、僕の高校にいた男子生徒は殆ど全員できる筈である。よしんば出来なかったとしてもそれは忘れてしまっただけである。なんといっても高校3年生の時に体育の授業で全員やらされるからだ。
 我が母校は基本的にはマトモな高校だと思うのだが、時々狂気のような行動をとることがある。これがまさしくそれだ。
 母校の体育教師にはドンというか重鎮というか別格上位の長老教師がいた。彼の祖父が横綱であるというそれだけの理由で今も哀れな高三生は貴重な時間は受験勉強にではなく生涯やらないであろう四股踏みに費やしているのである。
 その重鎮の先生は我らが高校3年生の直前にお亡くなりになられたが、残された教師は先生の遺命を守り、僕らの代にも相撲教育を続けなされた。
 この相撲、というのは生徒にとっては当然ながら嫌悪丸だしの意識で迎えられた。当然のことながら下半身は裸にはならないという前提があっても、だ。何が悲しくていい青年があんな時代錯誤な格好をして押し合いをせねばならんのか、僕は不条理に思った。
 さて、その記念すべき相撲第一回、担当の教師は云った。
「さあ、マワシを干しにいこう!」
 みんな嫌々倉庫に行ったと思ってはいけない、我先にと走って倉庫に飛び込んだのだ。マワシは100個近くあり、新しいものはいいのだがなんせ名門校のため古いものはいつからあるのかも解らない。青カビは生え、全体的に灰色にくすみ黄色い染みなども付いている。かつては全裸の上に着用という狂気の沙汰を採っていたという曰く付きの品だ。一刻も早くきれいなマワシをゲットせねばならない。みんな目が血走っている。
 なんとかマワシをとると体育館前の通路に一斉にマワシをぶちまける。一反木綿のようにマワシはのび、風で飛ばないように二人一組で足を延ばし、2つのマワシに腰掛けた。校舎からは丸見えのロケーションだった。
 よく晴れた、いい気候の日だった。
 みんな勉強してるのに、僕らはこうしてマワシの上に寝そべって、空を見ている。なんとはなしに僕は悲しくなっていた。
 ふと気がつくと校舎の、ある窓から女生徒が軽く手を振っているのが見えた。誰に振っているのかは知らないが、ジャージを着ている連中に校舎を仰いでいる者はいなかった。僕はやけくそな気分になり、大きく名も知らぬ彼女に腕を振ってやった。 

太極拳
太極拳是門外不出的拳法
 密かに僕は太極拳の経験がある。それも優秀である。
 何の根拠があると訊かれれば、大学の科目であると答える。なんと太極拳を履修して「優」の認定を受けたのである。
 そもそも教職課程を履修し、教員免許を得るためにはどんな科目であろうとも体育を取らねばならないのだ。そういう訳で仕方なく体育を取ることにしたのである。
 僕の大学は中堅の大学で、総合大学と銘打ってはいるが一般の認知は専ら各種体育大会の実績やOB選手の活躍に限られている。さらに遊び人には比較的環境のいいと云われる所なので、学生どもは右見ても左見てもチーマー崩れかガタイのいい運動選手ばかり。両者共通するのは勉強嫌い、というわけで体育の科目に殺到するのである。
 かくしてマトモにテニスやらサッカーをとっても単位が取れるとは思わず、敢えて志願したのが太極拳である。
 志願者も定員を超えず、たった5人の個人授業的な講義であった。ちなみにその5人のうち2人は学部でも札付きのパープーだったのである。それと知らずに「キミ、なんで太極拳を選んだん?」と訊いたら、真顔で「姉を倒すため」と答えられ、冷や汗をかいた。
 まあ、当然といえば当然だが、別に殴り合いなどは一切なかった。簡化太極拳という北京大学の開発した実戦の太極拳の型のうちから体操のような動きを集めて作った、体操とダンスのアイノコのような動作である。
 1日3−5個の動作を覚え、合計24の動作をマスターするのである。
 本当は呼吸法などもあるのだが、大学の短い時間では動作だけで精一杯。それでも少人数制の故か、全部完璧に動作をこなすことが出来た。
 中国などでは早朝に公園で人民たちが健康増進に励んでいるそうだ。確かに割と移動するので一般住宅では無理。ただ道路や公園でも一人でやっていると、あの独特の円弧運動から精神に問題のある者と見なされ通報される恐れがないともいいきれない。
 殺人拳も内包するという拳法、太極拳。僕は門外不出の秘伝と称し、せっかく覚えた動作も実践せずに終わっている。 

ローラースケート
快挙! 国道初走行
 小学校低学年の頃、「みんなが持っている」という理由でローラースケートを買って貰った。最近のローラーブレードみたいな靴型のものではなく、靴を履いた上でその靴を車輪に縛り付けるような代物だったんだけれどもね。安全にはメーカーも留意しているのか、ださい黄色のヘルメットやヒジやヒザへのサポーターもついていた。
 こんな重装備が嫌になって殆ど乗らずにお蔵入りになっちゃったんだけれど、ただ一度僕は忘れられない体験ができたことは感謝せねばならない。
 ある休日、母が隣町に行こうと言い出した。古い国道に変わって新しい道が翌日開通するので、まだその新しい道は無人のがら空きだという。スケートの練習にはもってこいだから行こうというのである。勿論僕に断る理由はない。早速車に乗って新しい道まで行くことになった。
 その道路は国道とは名ばかりの細く小さな道に変わって、国道の威容にふさわしい規模を持った高速道路ばりの新道だった。翌日の開通を控えて、重機や工事人夫も全て撤収しており、ただ無人のままの綺麗な道路があった。
 僕は狂喜してこの偶然出来たアスファルトの広場を縦横無尽に走り回った。明日はどうせ建設省かなんかのお偉いさんが「渡り初め」とか云って歩く道、存分に汚してやった。なんせ片道2車線、場所によっては3車線の道路が延々と続くのである。どこを走っても怒られない、車の心配をすることもない。ローラースケートの天国のような所だった。
 途中、疲れて僕は国道の真ん中に寝転んだ。まだアスファルトの匂いのする綺麗な道だった。車道の真ん中で大の字になって空を流れる雲を見た。そしてこう思った。
「明日になったらもう一生ここで寝転ぶことは出来ないだろうな」と。
 事実それ以来、この道は横断するのも危険になった。横断歩道やトンネルがいくつも造られたほどだった。ダンプや大型の車を横目に見ながら、この道縁を歩くたび、あの日を思い出して嬉しくなる。 

スケートボード
子供には解らないこと
 スケボーって何であんなワルっぽい人たちばかりがやるのかね。
 ヒップホップムーブメントの必需品だから、という模範解答が出ないこともないんだけど、あんな駅前とかでやっているストリートキッズたちにそういうことが解るのかなあ。都会ならグラフィティーアートみたいな文字を壁などにスプレーしているけど、田舎のボーダーとかって服装はそれ系な癖にスプレー持たせると未だに「初代爆龍會特攻隊長参上、喧嘩上等夜露死苦」だからね。こりゃなんなのか、と思う。
 まあ、ヒップホップムーブメントが日本に入ってきたのは落書き等から散見するに90年代初期から半ばにかけてだと思うけど、スケボーのブームはもうちょっと先、80年代中盤だと思う。根拠としては情けないが、あの高橋名人はオタク野郎の癖にゲーム上でスケボーに乗ってたでしょ?
 それに僕自身、この頃スケボーを持っていたのだ(貰い物だけど)。
 周囲にもスケボーを持っている子供は何人かいたが、その全てのスケボーの裏面がドクロやら蛇やらサソリやら鮫やらのおどろおどろしい絵だったので、スケボーという遊技が背徳的な遊具であることは解った。
 だがこのスケボーというスポーツ、徹底的に非実用的に出来ている代物で、熟練すれば別だろうが、足で思いっきりこいでもボードの上に乗ったらすぐに止まってしまう。またこいで乗る、止まる。全然面白くない、走った方が早い。
 今、駅前でやってるストリートキッズを観察すると、ジャンプしたりボードを一回転させたり、やはりどうでもいい技術を披露しあっているが、小学生の身ではそんなことは出来ないし、スケボーでそんなことをするとは想像すらつかなかった。
 結局、僕らのスケボーはまたがって坂道を転がり落ちるのを楽しむ「ミニ・ジェットコースター」と化した。これはそこそこ面白かったのだが、やがては飽きてしまい結局スケボーもお蔵入りとなった。 

徒競走
POWER OF LOVE?
 こういうHPを作っていると僕の人格が「運動音痴のオタク野郎」にみられるらしい。確かに運動は殆ど出来ないが、実は徒競走は平均的文化系高校生と比べれば早い。ちなみに文化系高校生とは体育会系高校生との対義語で、理数系高校生との対義語ではない。
 なんといっても50メートル走は自己ベスト6秒7である。
 自慢にならないが文芸部最速であり、この健脚でクラブ対抗リレーを優勝に導いたのである。この点、長距離が学年最鈍というのが不思議だが、おそらく心肺が弱いのだろう。
 僕はだからスポーツテストでははっきり二極化した成績を取るのが常だった。50メートル走と走り幅跳びと反復横飛びはかなり出来たが、長距離走と懸垂とハンドボール投げなどなどは惨憺たる出来だった。コンピューター分析では平均値ではCからDなのだが、最低基準線を切っている(驚いたことに男子のみならず女子の最低基準線を切っている科目まであるのだ)科目が相当数あるためいつもE判定で「日頃から体力増進につとめましょう」と云われていた。
 まったく大きなお世話である。
 さて、スポーツテストでは当然のことながら男女ごちゃ混ぜである。
 日頃は「女なんて関係ねー」と我道を行っている僕とその友人も奇妙に張り切ったりしているからおもしろい。僕はなるべき出来ない科目は隠れるように済ませ、50メートルのときはちゃんと周囲の視線をチェックしたものだった。それでさっきの自己新記録を出したときのこと。
 号令があって走り始める。と、沿道の脇にいた女の子が僕の方をみて「凄いじゃん」といった。ほんの一瞬の呟きだったが、ちゃんと僕はキャッチした。さて、そこからが凄かったね。
 それまで2位につけていたのが、一人ぬいちゃたから。
 後に聞くと、彼女は血走った目つきでものすごい動作で走る僕の光景が凄いといったらしいのだが、豚もおだてりゃ木に登るもんである。それでも、高校2年のスポーツテストには公式記録として残っているはずである。 

マラソン
裏切り者はいつかは裏切る
 例えば中間や期末試験当日の朝に「勉強やってなーい」とかほざく奴を信用してはいけないように、マラソンの授業の時に「俺、遅いから一緒に走ろうぜ」などという奴はすべて信用してはならない。
 どういうわけか、短距離ではクラスでも有数の早さだったのに、長距離ではクラスでも最も遅かった。サボっているわけではない。本当に走れないのだ。いつもは僕より遥かに運痴で、内心小馬鹿にしていた連中に追い抜いかれるのは屈辱だったし、周回差を付けていくときに気を利かせたつもりか「ガンバレ」とか云うのを聞くと追いかけて絞め殺したい衝動に駆られる。勿論バテているので追いかけられもしないが。
 スポーツテストの長距離走が何メートルかは忘れたが、クラスの早いのが5分で平均が6分の長距離走で8分を記録したことがある。体育の授業では女子にも抜かされたことがある(偶然同コースを走っていたのだ)。
 こんな情けない僕であるが、過日の栄光という奴はあって、小学校の頃は確かに早かったのだ。頭の悪い小学校だから当然体は鍛えている。その学校のマラソン大会で150余名の中で1年の時は16位、2年で6位、3年で15位になったのだ。今でも探せば10位入賞の賞状が出てくるはずだ。
 こんなに遅くなったのは小5の時だろうか? 何故かマラソンの最中に我慢というものがまったく出来なくなったのだ。頭は先に進もうとするのだけれども、体が全く云うことを聞かない。ちょうど転校したので過日の栄光を知る者がないことを幸いに僕は短距離専門のレッテルを己に貼り、一切の長距離関係を拒絶するようにした。
 一番最初に話した裏切り云々に戻るが、高校のクラスで殆どパーフェクトに運動の出来ない奴がいた。比較的運動の出来ないクラスのさらに出来ない集団のもっとも出来ない彼。サディスティックな体育教師はよく彼を練習台にして笑いを買っていたものだ。
 その彼が、これまたマラソンでは「自分の下を見つけた!」とばかりに昔日の恨みをカマしに来るのだ。
 「一緒に走ろう」とかなんとか約束をする。そうしてはじめの一週くらいは一緒なのだが、あとは無惨にも置いていく。どんなに先に行っても彼はビリ2なのだが、彼の文句がふるっている。

「山田と一緒に走っていると遅くて逆に疲れるんだよね」

 殊長距離走で馬鹿にされ慣れている僕は多少老獪になっており、ここで襲撃はせず、後日他の種目に変わったときに努めて彼のミスを笑うようにした。
 すると彼はとんでもない復讐に出た。
 一流大学に入って散々こっちを馬鹿にしだしたのである。高校の時は何かと便宜を図った俺に「五流大学の馬鹿野郎」呼ばわりだからね。君子でもないくせに豹変するもんである。
 まったく裏切り者はいつか裏切る。芽のうちに手を切るべきだよな。 

リレー
戦士に休息はない
 どういう訳か運動は出来ないくせに短距離走だけは早かった。
 50メートル走なら高校3年間で7秒代になったことはないはずだ。最高で6秒7だったような気がする。まあ遅くはないでしょう? クラスでも結構、早いほうだと云われていた。何度も云うが進学クラスの中では、であり学校的には遅い方だったが。
 そういう人間が体育祭になると苦労する。リレー要員としてよく駆り出されていた。忘れもしない高校2年生の時の体育祭、僕は4つの短距離走やリレーに引っぱり出された。1日殆ど駆け足ずくめである。
 まずしょっぱなからクラス対抗リレーがあった。これはあまりのクレイジーさに翌年から廃止されたのだが、リレーのくせに10人以上が一斉に走るのだ。相棒探しが実に大変だった。続いて学年種目が、なんでこんなものをという位の横暴な科目でクラスから50メートル/100/200/400/1600メートル走の担当を選び、走らせるという無茶苦茶な種目だった。そして次は色別リレーの予選、続いて部名を挙げるクラブ対抗リレーがある。
 この他に2つほど、全員参加の科目もいくつかあり、この時ほどきつい体育祭はなかった。僕は昼食を食べる気が起きず、逆にトイレで吐いてしまったくらいだ。高校で吐いたのはこの時だけである。
 ともあれ最終種目の色別リレーの時は「殺すなら殺して下さい」という感じだった。そんな体調で県内屈指の陸上部の主力選手と張り合わせようとするから嫌になる。しかもそういう時に限ってこの種目で勝敗が決まるような状態で、前の選手がデッドヒートを繰り広げながらやってきたりする。
 無様に抜かれようものなら、クラスからは白眼視で済むだろうが、同じ白組の他クラスからは半殺しの目に遭うだろう。いや、イノシシにおっかけられた気分だ。バトンはエンジン点火の鍵みたいなもんで、前に来ているのは右足か左足かも解らない状態。
 幸い僕の後ろにピッタリくっついたのは陸上ではなく野球部(この部も強いんだ)だったが、丸刈りの巨漢がすぐ後ろで「うううううううう」とか「おおおおおおおお」とか吠えているのが聞こえる。不気味この上ない。
 多分、あの瞬間が人生最速だと思うんだけど、とにかく僕は本気で走った。
 「逃げる文芸部員」とその様子を見ていた後輩は後にそう語っていたが僕の目は血走り、とにかく必死で「逃げて」いた。昔、エヴァンゲリオンオタクの後輩が「逃げちゃダメだ」とかなんとか憑かれたように叫んでいたが、逃げるのも満更悪くない。
 火事場の馬鹿力と云うが、それを発揮したのだろう。
 次の走者にバトンを譲る直前、僕は確かに一人、抜いた。 

走り幅跳び
MAKE ME MIRACLE
 ありそうもないことが起きるというのは素敵なものだ。
 例えば短距離走が人より少しだけ早いだけの人が、体育で学年一の成績を取ってしまう。そんなことが偶然にも僕の身にふりかかってきた。
 なんか自慢めく記述が多いので補足するが、僕は原則運痴である。サッカーのリフティングは五回もできない。バスケのフリースローは5回に1回はいればいい方。バレーのサーブに至っては入ったことがない。なわとびは後ろあやが出来ないし、ハンドボール投げは10メートル飛んだことがない(ただこれは全く不思議なことである。直後の球ひろいの番になると20メートル先から投げ返すから)。
 さて、走り幅跳びである。
 カール・ルイスが走り幅跳びでもメダルを乱獲しているように、短距離走者は往々にして走り幅跳びの選手でもある。
 高校一年生の時に走り幅跳びの授業があった。
 先生ははじめる前に「いいか、スコアの高い順に学年の全教室にランキングを貼り出すからな」と云った。それに対し、我がクラスの雰囲気は冷めていた。全国大会に出るような陸上部や競合で知られる諸運動部員を擁する他クラスがかっさらっていくのに決まっているのだ。
 士気は低調だったが、それでも計測ははじまった。
 僕の記録は5メートル10センチ。小学校の時は3メートルに行くか行かないかだったので「たいしたもんだ」としか思わなかった。計測の体育委員が「ヤマダ、一番だぜ」と表を見ながら云ったときはまったく意外だった。
 ところがさらに意外なことに翌日、先生の約束通り表が貼られ、そこに僕の名前が1位として出ていたのだ。まさに驚天動地、僕は見た瞬間「はア!?」と間抜けな声を挙げた。
 計測当日、幅跳びをしたのは我がクラスとA組だけだった。だから2クラスの結果しか出ていなかったが、紛れもなく暫定一位として学年中に公表されたのだ。これは非常に参った。部活の同期からも冷やかされたし、クラスの仲間からも好意的にひっぱたかれた。
 まあ当然のことながらその後、他のクラスが幅跳びを経験するごとにランクは下がり、最後には15位まで落ちた。
 それでも相当嬉しかったのだろう。文芸部機関誌の「新入部員紹介」の欄には「幅跳び5M10C、学年15位」とある。 

踏み台昇降
偶然にも僕は超人になった
 踏み台昇降と聞いてピンと来る人は、学生かまだ学生の頃を覚えている人だ。
 解らない人に説明すると、「踏み台昇降」というのは1年に1度、小中高を問わずに行われる「スポーツテスト」なるものに必ず含まれる種目で、心肺の回復力を測定するのが目的である。
 測定方法はというと1段分の段差を用意し、右足なら右足から段を上り次に右足から段を降りる。これを一定のリズムで数分続ける。もちろん目的はバテさせることである。バテさせておいて昇降運動終了後、すぐに脈をはかる。そしてそのまま安静にさせて1分後、またはかる。また1分後。計3回測らせてその合計値や差違やともかくよくわからない方程式を作って結果を出すのである。
 懸垂や幅跳びならその場で結果が分かるし、それがいいのか悪いのか解るが、この種目だけはさっぱり解らない。小学校の頃は脈は先生が測り、記入され、しかるべき結果が出されていた。ところが中学校1年生の時、困ったことに脈は自分で測ることになった。
 それまで、自分の脈なんて測ったこともないし、測りたくもない。
 ただでさえ過密スケジュールでの体力測定に体が参っていて、その上踏み台の乗降でバテているのに脈どころではない。第一どこにあるかも解らない。「計測せよ」との声は聞こえるが、解らないので仕方がない。
 適当な数字をでっち上げて書いた。
 その後、結果が返ってきてビックリした。なんと踏み台昇降の結果が「同年偏差値80」となっているのだ。
 これだけならこのズルを胸に秘すだけでかすかな罪悪感だけですむが、なんと学年のベスト3を廊下に掲示しだしたのだ。当然超人ヤマダの名は学年1位として2位3位を突き放して君臨している。二人は運動部の猛者である。
 確かに僕はズルをしたが、数字をあげてやろうなどと云う気はなく(第一、計測の原理を知らないのだ!)適当にすませればいいやくらいの気持ちだったのである。
 その後、この件に関しては誰からも何も云われなかったが、廊下を歩く度に掲示を破りたい衝動に駆られた。
 翌年だけ脈の測定は二人一組に変わった。 

スキー
スピードフォビアの告白
 スキーは好きーではない。
 …のっけから寒い話題をかましたが、場所が場所だけに許して(懲りてない)
 気を取り直して書くと、スキーは2回したことがある。
 中2のスキー教室という半強制行事と大学1年末に仲間と行ったスキー旅行である。
 僕は別にスキーは嫌いでもないが好きでもない、ただ寒いところが苦手なのでよほどの誘いでもない限り大枚はたいてまで行かないだろう。その意味では将来行くことがあるかどうか。
 現在の腕前はボーゲンなら普通の斜面ならまず転ばずに降りられる程度だ。2回しか体験がない人間がこのレベルというのはどういうものなのか分からないけど、僕にとってはこれは血のにじむような努力の果てに手に入れた栄冠である。
 話は中2のスキー教室にさかのぼるが、殆ど慰安旅行の色彩が強いとはいえ、教室と銘打つからには技能教室の体裁は整えられていた。同じレベルの生徒を10人くらい集めて班をつくり、そこに委託したインストラクターをつけるのである。当然僕は初心者クラスに配属された。
 僕の学校は僕にとっては分不相応にも金持ちの子弟の集まる学校だったが、初心者はまあ結構いた。
 しかしここで僕は大劣等生になったのである。運動神経は決して極端に悪いほうではなかったが、しかし劣等生だった。従来、僕はスピードが嫌いで自転車なども不必要にブレーキをかける傾向がある。故に人よりはるかに遅い。
 まあ要はスピードに臆病なだけの話ではあるが。
 スキー教室では当然ながら問題児だった。スケジュールに支障が出る程転ぶ、リフトの柱にぶつかる、崖から落ちる、遭難する、リフトから落ちる、リフトを止める、止まらなくなって教官をマジキレさせる等等等。まったく生きてるのが不思議なくらいだが、それでも一応は最終日にようやくボーゲンだけなら人並みに滑れるようになった。
 そういう訳で苦闘の歴史をもつ僕は2度目の大学旅行の時には初心者の友人を尻目に滑れたんだけど、あのスノーボーダーの量には吃驚したね。中学のときは数少なかったのに、今や逆にスキー族が数えるほどだからね。座り込むボーダーが危なくて安全運転を心掛けたが、何度ボーダーに激突したか。
 とりあえず今でもスピード恐怖症は健在です。 

スケート
スポ根一日体験
 寒いところは好きではないのでウインタースポーツなどはやる気も起きない。ただ例外は「友人に誘われたとき」だ。こういうライフスタイルをしていると容赦なく「暇人」のレッテルを押されるのであるが、基本的に誘いがあった時は私事は排除して応じるようにしている。これは忙しいことが偉いことという規範意識に対するアンチテーゼだが、まあこれはどうでもいい。
 ともあれスケートは誘われたので腹をくくってやることにした。場所は友人宅付近のデパート屋上である。レーンは人工施設なので諸経費が馬鹿のようにかかった。まあ、スキーよりは遥かに廉価だが。
 六人くらいで行ったのだが、驚いたのはスケート未経験者が僕ともう一人しかいなかったことだ。なまじオボッチャマ高校などに入ってしまったため、変に上層教育を受けたお子さまばかりが御学友だったのだ。
 ともあれ妙な靴を四苦八苦の末に履いた。靴の歯がこんなに薄い物とは思わなかった。もしうっかりころんでこんな物で踏まれたらスキー板で踏まれる比じゃないぞと思った。小指を詰めて生きられるほど当方タフじゃない。友人に手を取られてバージン山田は初めて氷を踏む。と、次の瞬間すっこける。
 サーッとマイブーツを履いたおっさんが軽快に滑っていく。
 書き忘れたが高校の入試日に行ったので、時は平日、空いていた。
 友人達がグルグル回っている間、僕ともう一人はリハビリ患者の如くバーを片手におずおず歩いて(滑って?)いた。時折コツを教えてくれるが頭のいい連中はえてして教育下手である。僕はあまりの情けなさに一輪車をマスターしようとご近所の壁につかまりながらおずおず進んでいたことを思い出す。
 何度も手を離して進み、何度も転び、起きあがってまたバーをつかんだ。段々手を離して進める距離が増えてきた。一輪車は目標の町内一周に三ヶ月もかかったが、スケートはなんとか二時間の練習でで内を一周することが出来た。
「才能あるじゃん?」
 仲間は口々にいった。僕は頭をかいて「まだまださ」といったが、内心ではかなりの達成感に満足していた。その後食べたラーメンのおいしかったこと!
 家に帰ってアキレス腱のところを見てみたら靴擦れのせいか血が流れていた。血を流すほどの練習なんて記憶にある限り初めてだった。スポ根なんて馬鹿にしていたが結構そのときの汗は心地いいものがあった。
 寒かったけど、熱かった思い出。
 今でもコツは忘れていない。 

水泳
I HATE "ROAD"
 日本のスポーツに関する考え方は嫌いだ。
 いわゆる精神主義という奴だ。ま、文化系の生き物ならみんな嫌いじゃない。端的に言えば高野連の思想、高校球児の丸坊主や不祥事の連帯責任だ。他にも練習偏重や過度の理想主義なんかがそれに当たる。
 殺し合いが洗練されて剣道という格式高い、「武士道」という精神性が加味されたストイックな「思想」に変化したように、こういうスポーツに思想行動をつけくわえる考え方、非常に抵抗がある。
 今回はその話をしよう。
 幼稚園から小学校の最初の一年間、水泳教室に通っていた。
 幼い頃に水泳をやらせれば丈夫になると云う嘘っぱちを親が信じたせいだ。実際は病弱な身には負荷になるばかりでよく車の中で熱を出したモノだった。まったくロクな思い出がない。
 全部で8級の等級があり、練習は週に2回。最終週が試験の日でこれに合格すれば次の級に進めるという話。
 8級はビート板、7級は背泳ぎ、6級はクロールだった。
 それ以後は知らない。辞めたからだ。
 さてその顛末なのだが、他人の3倍という期間を経て(才能の問題もあるが風邪ひいてよく休んだのも事実である)やっと6級まで来た。ここまで1年である。そしてさらにクロールだけで1年間。幼稚園の頃からいるにも関わらず小学校から始めたクラスの仲間にも追い抜かれる始末。
 クロールのドツボにハマって1年、昔なじみのK(なんとこいつは入って半年で6級に来ていた)と同じ級になりよく遊んでいた。
 そしてその月の試験、全員がクロールを終えてプールサイドに集まった。
 合否と先生の講評があるのだ。半年くらい前から初めに呼ばれるのは最古参であった僕だ。
「山田君」先生が云う「キミも随分長く頑張った、もう殆ど完璧だ」  別に嬉しくなかった。やっと、という感じだった。ところが先生の言はこれで終わらなかった。
「しかし」僕は顔をあげた「キミはどうもお喋りが多いようだ。もう1ヶ月、ここでおとなしくプールのマナーを学ぶように」
 完全に僕はキレた(当時はそんな言葉はないが)。ここで立ち上がると先生をクソミソに罵って、母親の待つ保護者待合場まで走って逃げた。僕は技術を学びに来たのであって精神修行をしに来たのではないのだ。逃げる僕のあとをKが追った。
 僕は当然即刻退会した。後に知ったが、その試験で合格していたKも一緒に辞めてしまった。何でそんなことをしたのか、小学校も卒業間際に聞いたことがある。「なんでだろうね」とKも不思議がっていた。
 精神主義なんてのはアメとムチの方便に過ぎない。こういうのは体育教師や教習所の教官に顕著に見られるが、そう言う精神主義を強調する輩は決まって無知蒙昧、無教養の大馬鹿野郎と相場が決まっている。
 とにかく水泳ならぬ「水泳道」、僕は嫌いだ。 

騎馬戦
戦争の快楽
 体育祭で一番好きなのは騎馬戦だ。
 我が校の騎馬戦は帽子を取るなんて生やさしいモノではなく、上半身は裸で騎手を引きずりおろすという本格的なもの。あらゆるものに臆病になって手をつないだまま徒競走をやらせるような馬鹿な風潮が美談とかたられる中、このプリミティブな競技は非常に楽しみで、事実楽しかった。
 まあ危険な競技には違いがないので、「戦場」には先生方が審判員と称してたくさん点在していたし、事前に体育委員に配布されていたクラス掲示用の小冊子には禁じ手が事細かに列挙されていた。
 この禁じ手というのが偏執的なまでに微細にまで入り及んでおり殴る蹴るは勿論、首締めやひっかきなどは序の口、噛みつきや目潰しなどちょっと普通はやらないことが書かれていた。まあ、後者はやらないが、それ以外は実戦ではやっていたように思う。
 僕は比較的騎馬の役が多かったように思う。ローレル指数は理想数をはじいていたのだが、これは現代では肥満と見なされるのだ。嘆かわしいことである。
 ともあれ騎馬戦ではやはり圧倒的に反則技が入り乱れていた。さすがに後輩が先輩を直接殴るなんてことはなかったが、同年代ではなまじ知った顔のため、騎手は何でもあり、騎馬は支える騎手もほっておいてとにかく罵声をきわめて蹴りあっていた。とても進学校の「貴公子を育成する」高校とは思えない有様だった。
 当然、エキサイトして落馬の後に殴り合いということもあった。先生が飛んで止めた。
 しかし相手を潰したときの快感、生還したときの快感はやはりすごいものがある。戦争に勝利したとき、それは最高潮に達する。ランナーズハイとはこういうものかと思わせる陶酔感がある。騎馬戦でこれだから実際の合戦ではいかばかりの快楽が得られただろうか。 

二人三脚
一秋の汗フェチ体験
 まずはじめに断っておくと、ここで云う話は二人三脚とは似て非なるもので、小学校5年生の学年種目、「パン2でデート」というものである。ま、説明をすると、保護者の手作りの馬鹿でかいパンツに二人が入り(足の所に一人ずつ入る)あとは二人三脚よろしく肩組み合って走るというものである。
 この種目の面白いところはデートという所からわかるとおり男女一組なのである。
 僕の相棒は幼稚園時代からの幼なじみの子だった。
 勉強はまあまあだが運動能力といい体格といい、遥かに僕を凌駕している子だった。どういう因縁か僕は彼女と組むことになり、「なんでよりによって、こいつとなんだよー」とお互いに嘆きあっていた。
 ところが読者諸兄、小学校5年生という年を考えていただきたい。
 思春期の始まりである。幼なじみとはいえ、段々変に意識して疎遠になり、昔みたいな馬鹿は出来なくなる時代。
 こういう敏感なプラトニックな時代にこういう競技は刺激が強すぎますよ。
 練習では僕は妙に意識してドキドキし放し、当然の事ことながら他のクラスメートにはぬかれっぱなし。彼女からは散々「ったくあんたのせいでみんなに迷惑かけてるのよ」と叱られた。僕は反発できず「申し訳ありません」と殊勝に謝り、彼女を驚愕させた。
 当日、残暑厳しい午後。
 僕らはお互い汗まみれの体をぴっちりくっつけてグラウンドにでた。練習では汗などろくにかかなかったので、僕はすっかり彼女に狼狽してしまい。頭は混乱し、「もうどうにでもして」的な空白期になってしまったのだ。
 しかも体を密着させていたから、場所が場所にしっかり当たる。
 あろうことに、僕は興奮してしまったのだ。
 これで走れるか、走れるわけがない。だから僕は彼女に引きずられるように走って、なんとか抜かれず(変な意味ではないぞ)に任務をこなせた。正直、離れたくなかった。恋心を感じたことはないのにこれは妙なことだと思った。
 最近、彼女を地元の電車で見かけた。ケバい今風のメイクをした彼女は彼氏らしき男としきりに甘えていた。
 今、手元に一様の写真がある。ぶかぶかのパンツに両足を突っ込んだ僕は、恍惚とした表情で、彼女にぴったり寄り添っている。他人の汗が大嫌いになったのはいつからだろう。今では考えられないような過去の事実が、写真には封じ込められている。 

お天気レース
良心の呟きか群集心理
 お天気レースとは最近の教育界における悪平等主義が生んだ奇形な運動会の種目である。
 簡単に説明するとまずスタートし、30メートルも進むとたくさんカードが落ちている。カードには「晴れ」「曇り」「雨」とありこの中から1枚を取る。80メートルくらいの地点で先生が待っており、大体が到着した時点でやはり3枚のうちから1枚を掲げるのである。
 これが即ち通過できるカードで、同じカードをとった幸運な児童はそのままゴールが出来、違った人は拾った地点まで取りに戻るのである。
 つまり勝敗は完全な運であり、足が遅くても優勝可能なのである。
 小学校6年生、僕は児童会長だった。
 児童会長というのはいろいろな特典があるもので、運動会では本部役員席でふんぞり返っていられるというのがそれである。また接待と称して来賓と話しながら茶菓子をつまむというのもある。
 僕は校長と戦況について語りあっていた。
 と、校長は「お天気リレーに出るんだね? 先生が札をあげるから好きなのを云いなさい。出してあげるから」と教育者らしからぬことを言った。ここで無下に断るのも悪いと思った僕は「晴れをお願いします」といった。
 そして肝心の種目へと話しは移る。
 一斉にスタート、僕は3番手につけた。1番の男は俊足で知られており相当先へと走っていた。彼はカードを取る「曇」を。そして2番手も曇をとると、あとは群集心理の恐ろしさというやつで全員が曇りを取った。
 何故か僕も曇りを取った。
 横一線に並んで、校長が各自のカードをちらと見た。(この種目の特徴という奴で、足の遅そうな子供の札を上げるつもりだろう)そして僕のカードを見ると、小さな声で「なんだ」といった。そして「曇」のカードをあげた。一斉に通過して、ゴールに走る。
 僕は4位だった。
 あまり後悔はしていない。ただ先生にはすまなかったな、とひそかに思っている。 

ドッジボール
校庭の戦場
 もう生涯やることはないだろうが、エキサイティングなスポーツはやっぱりドッジボールにとどめをさす。色々亜流のスポーツはあるが、なんといってももっとも単純な元祖のアレには勝てない。
 元祖のアレとは元外野三人制、当たったら外野送りでその外野がぶつければ復活あり、ヘッド無効、ダブルダウンありといたルールのそれである。これは本当に燃えたね。体育のみならず休み時間もやってたもん。僕はこれ以外にはないよ。そこまでハマったのは。
 相変わらずいいかっこしいの僕はたいてい女子をかばってボールをとろうとしてぶつけられるという情けないパターンが多かったけど、外野からカーブをかけたボールで遠距離の標的を打ち倒したときなど自分で自分に惚れちゃうね。
 うーん、当てられたときは無念という感じがするけど、とった時も当てた時もボールをまわされて逃げ惑うときもそこにはやはり興奮と快感がある。何か戦争に近いのかな? 結構陣形なんかの要素もあるし、横目投げや外野まわしなんて心理戦の要素もあるしね。なにより敵にボールをぶつけると云うのは、とりもなおさず狙撃して打ち倒すようなものだし、自分が打たれるにせよその弾道は見えているのだ。
 戦争、という視点で見ればたとえば味方が倒れていき、自分ひとりになっても逃げ惑ってるなんてのはそれはそれでかっこいいし、片っ端から打ち倒して撃墜王になるのもそれはそれでいい。ぶつけられて死ぬのも女という一般市民を守って死ぬと考えれば下手な人間にもチャンスはある。
 こういう攻撃的な遊び、怪我やいじめの問題もあって学校から姿を消しつつあるようだがこの戦争という概念さえを禁じられた社会。ドッジボールという花形の戦場はどうかいつまでも残してほしい。 

YMDTスポーツセンター 運動エッセイ

"SPORT CENTER"

中央広場エッセイ日記更新電信掲示板チャットリンク案内