中央広場エッセイ日記更新電信掲示板リンク案内



東京ディズニーランド [千葉県/1994年(中学2年)]
夢なきガキの汚れた夢
 今は当村の中央広場も変わってしまったが、昔は中央広場といえばエッセイを収納している五大街への移動用だった。第一次広場の改定で中央広場にフレームがつけられてからも、しばらくはフレームには五大街へ行くリンクがついていた。
 そんな時助役から「にゃごろう村はTDLに似ているね」と云われた。初めは何のことか解らなかったが、訊いてみると入場ゲートから入ると中央に広場があり、そこから幾つかのエリアに向かい、そのエリア内の施設に入っていくという構造が似ているというのだ。
 なるほど、と思う。
 ところが僕はちっともTDLには関心がないのだ。

 僕は世の中のおおよそのことには関心がないが(特に娯楽関係)、TDLも従来殆ど関心がなかった。家族も御同様と見えて千葉県民の癖に僕は小学校5年生の時までいたことがなかった。
 TDLは日本国民の聖地のような場所であり、地方圏では行ったか行かないかでその人のグレードが知れるというが(修学旅行で行くというのはまさしく成人儀礼といえるだろう)、千葉県民となると行くのは当然、何回行ったかでグレードが知れるのだ。イスラム教のメッカ巡礼と併せて考えると面白い。
 小学校も年が低い頃では行ったことない奴もいたが年があがるに連れてTDLヴァージンは減り、小学校中学年になると行ったことないのが恥のように囁かれるようになった。
 僕のクラスでは好事家の家では休みになるたびに行き、小学校の5年生当時では4〜5回が普通、10回以上も珍しくなく、最高は23回という猛者がいた。当然クラスで未経験者は僕だけとなり周囲からは珍しがられ、ディズニーフリーク(将来の夢にTDLで働くとか明言してる奴ら)からは人非人扱いされた。
 僕は昔から頑固なので「関心ないものは関心ない」と突っぱねていたが、家人が未経験者である恥辱に耐えられなくなったらしく、親に強硬に迫り、かくて入場料が安くなり、学校の休みな千葉県民の日に家族旅行として行くことになった。
 僕は病的なクソ真面目なので、ディズニーの夢の押し売りっぽい姿勢が堪えがたいほど高圧的に感じられ、「客がなんで店屋のいうこと聞かなけりゃいけないのだ」と怒っていた。こういう小学生も珍しい。
 これは今でも健在でディズニー関係の観光本を見ると、やたらと「○○すべきだ」「××な気持ちで」という直接間接を問わずに、 こっちに何かを強要する文章が目立つ。僕はこれが大変気にいらず、気にいらなければ行かなければいいので行ってない。
 当時は栄えていたものが今とは違うが、僕はジェットコースター系の乗物が一切ダメなので(なんであんな気持ちが悪くなるものを好きで乗るのやら)、「カリブの海賊」や「ジャングルツアーズ」や ポンポン汽船に乗って行く島が好きだった。あんまりおおっぴらに騒がれるような施設でもない。
 そうそうあと好きなのはゲームセンター。10円玉で白黒のニュースみたいなのが見えるところがある。あそこはよい。多分一番好きだ。
 斯様に夢のない人間なのでお土産も家人がぬいぐるみをお求めになるのに対し、僕はカリブの海賊が持っている火薬銃を買ったのみ。ああいう夢の国にいって始終ふくれっ面をしているガキというのも嫌なものだが、性分なので仕方がない。
 以後、TDLは中学3年の時につきあいで男子8人という馬鹿げた集団で行ったっきりである。この時の記憶はほとんどない。使捨カメラをなくしたことくらいである。

 今度関連施設としてディズニーシーが出来たが、僕は相変わらず、関心がない。渋谷駅頭で「バイト7500人募集」という時はその規模に吃驚したが。
 先日高校同窓会の折に旧家の道楽息子が行ったと喚いてた。
「やまだ〜、あそこは半端じゃないぜ。特にバーがあってだな、
 あそこは凄いぜ。どんな女でも絶対に落ちる、落ちるぜ。
 女を連れ込むならともかくあそこに絶対決定だ。
 金はかかるが下手なプレゼントよりよっぽどいい」
 やたら鼻息荒く彼は演説していたが、それを聞いて僕は思った。

「俺もやたら汚れた夢を持つようになったもんだ」 

幕張メッセ [千葉県/1991年(小学5年)]
夜の近未来都市
 我が家の人間は総じて出不精である。ひきこもりではないと青山学院方面に向かっていっておく。
 ま、ともあれ家にいるのが一番という我が家であり一年に一度の旅行と2回の外食以外は一切家族行動はしないはずだった。
 しかし母親がYという教育評論家の信者で、その教育評論家が当時新刊の著書で「子供には珍しい物を見せるべき」なる趣旨のことを書いたことにすっかり発奮してしまった。
 あとは狂信者特有の瞬速で、当時出来たばかりの幕張メッセで 堂々行われていた「食と緑の博覧会」へと行くことになった。
 父の運転する自動車で巨大駐車場に乗り付ける。近未来な感のある街を通り抜けてメッセに入る。ところがこれが出不精の悲しい話でこういう所に入ったはいいけど何をしていいのかトンとわからないのである。
 結局展示を見てまわるという馬鹿馬鹿しいことをやって、2時間後にはすっかり飽き、帰ることになってしまった。ところがここで問題が発生した。父親がいないのである。
 集団行動が苦手なのか、または極度の方向音痴なのかはっきりとした理由は解らないがよく迷子になる父親である。母は余りの退屈さに元々キレていたので、これを機会に頭が吹っ飛び、悪態をつきながらぐるぐる会場を歩き始めた。
 定点観測の概念は全くないのである。
 しかも場内アナウンスは論外である。そんなことをするくらいなら、文字通り死んだほうがましというのが誇高い母親の言い分である。実際僕も閉店後のデパートで保護された経験も…
 まあ、あの広い会場の中、僕と母がぐるぐる回っても同じくうろつきまわってる父親とバッタリ逢えるはずもなく、3時間ばかりもグルグル回り続けた。母親は非科学的努力主義者で、とにかく努力すれば報われると信じる口で、田舎には比較的こういう思想の者が多い。
 僕は記憶しているが18時まで歩き回った。もう最後の方はヘトヘトで立っているのもつらい状態。母親は僕がへたり込むたびに罵声を浴びせていた。そうすれば父親が現れるかのように。
 結局、僕はメッセから遥か離れた駐車場まで連れていかれて、車で待機を命じられた。
 日は暮れ、もう博覧会も終ったのか客が三々五々、吐き出されていく。段々駐車場の車も少なくなり、ついに街が真っ暗になった。
 待ちくたびれて眠りそうになた時、ようやく母が車のドアを叩いた。時刻にして21時、普段は寝ている時間である。母曰くもう一度メッセの周りを一周して帰ろうというのである。そして警察に捜索願を出すと、この人は捜索願が好きなのである。
 たかが迷子にと思ったのだが僕はついていった。夜の幕張メッセ、誰もいなかった。近未来な無人都市。新しい全天候型歩道橋に、動かないエスカレーター、通過したら作動した。
 メッセ本体に近づくと何人か人がいた。非日常なる服に身を包んだコンパニオンの集団。スーツ姿のリーマンやOL、作業員等いずれもスタッフが通りすがった。
 母は夜間警備員詰所で警備員に説明し、そして暗く無人の近未来施設を一周した。
 そして車に乗って家に帰った。帰宅時刻は23時だった。

 結局、父は僕らが帰宅した時、既に家にいた。はぐれたとわかったと同時に電車に乗って帰ってきたというのだ。メッセを出たのがなんと僕らが探し始めた13時。いくら探してもいないはずだ。
 僕は母親の怒鳴り声を聞きながら布団に入った。
 早速今日歩いた夜の都会の夢を見た。真っ暗な街灯が冴える街をいつまでも歩き続けた。悪夢だった。

 以後一度もメッセにはいっていない。 

マザー牧場 [千葉県/1992年(小学6年)]
動物たちとの楽しいふれあい
 学校の旅行というのは面白い。
 いや、あれは旅行じゃなくて校外学習という建前なのだが、そんなものはどうでもいい。あれは生徒相互の親睦を更に深めるレジャーである。
 大体そうでもなければ旅行なんぞいくものか。
 僕は学校挙行の校外学習を休んだことは一度もないのだが、それはいつだって仲間がいたからで、旅行前日に知人のいないクラスに編入されて「じゃ、行って来い」といわれたら絶対に行かない。
 これは旅先で仲間を作るとか云った旅好きの醍醐味とはまた別の話である。お互い知り尽くしてるから楽しめる旅である。

 このマザー牧場への旅行は全く裏切らない旅行であった。バスでしょうもないレクリエーションをバカバカやって、牧場内とはいっても動物なんて殆ど見ない。ただただ緑の草の上で、ドッジボールやったり歩き回ったり、そんなことばかり。
 だが、それが楽しいのである。
 こんな(多分に予算の都合上による)旅行とはいえないことでもクラス内では旅行になってしまうのである。僕はマザー牧場で何をしたかといえば、仲間としょ〜もない遊びをしたことしか覚えてない。正直動物と触れ合ったことは昼食の時しかない。
 弁当持参だったのだが、うちの母親は牧場行くのに当時僕がまだ食えた種類の肉をすべて弁当に詰めやがった。当時食えた肉とは、ウインナーやソーセージ、チキンナゲットやハム・ベーコン、極めつけはハンバーグだが、これらがすべててんこもり。
 牛馬鶏羊を前にしてこういうものを食わせるとは乙な親だ。
 小学生に弁当を持たせると、年に数度の特性という奴から、何故か必ずといっていいほどおかずの交換があるのだが、僕は全種類のおかずを仲間と交換した。
 動物の前でその肉を食らうほど、僕の心は厳しくないからだ。 

鴨川シーワールド [千葉県/1988年(小学2年)]
冷めたイルカショー
 中央からは殆ど無視されてはいるが、千葉県の南部にだって色々とテーマパークがあることを忘れてはいけない。僕は南総三大施設と勝手に呼んでいるが「鴨川シーワールド」「行川アイランド」「勝浦海中公園」の3つである。
 尤もフラミンゴやらペリカンで有名な「行川アイランド」は、既にこの不況の中、閉鎖されてしまった。あの莫大な名物フラミンゴはどこに行ってしまったのか知らないが、どこかで懸命に生きていて欲しいものである。
 さてさて私のいた近隣の教育関係者は余程この鴨川シーワールドが好きならしく、僕は幼少期になんと4回も行った。幼稚園年長の遠足と小学校1年の校外学習、そして同年の地区子供会の夏季旅行である。あとの一回は翌年の家族旅行。
 シーワールドというからには、まあ水族館である。鴨川は冬でさえ暖かき南房総の黒潮暖流の海に面し、立地条件はそういう意味ではよい。ただ千葉にも関わらず距離の問題から東京からは殆ど認知されていない上、希望のアクアラインが採算より遥かに少ない通行量だったので、相変わらずマイナーな施設なのである。
 何分あまりに幼少の頃の話なので、ここでの話は4回も行ったのに行ったということ以外は覚えていない。強烈に印象に残っているのはここの名物であるイルカのショーと、かつて世界記録を誇っていた長寿マンボウの剥製の記憶くらいである。
 面白いのはイルカショーの写真であるのだが、さすがに短期間で何度も行くとやっていることが飽きてくるのか、ショーを一心不乱に凝視する級友を横目に、僕は鼻くそをほじったり(不覚な写真だ)横の仲間にちょっかい出したり、一人だけカメラ目線でVサインを出したりしている。
 この写真を見るたび、我ながら冷めたガキだったと思い返す。 

東京タワー [東京都/2000年(大学2年)]
東京で一番好きな場所
 一般に東京タワーは田舎者のメッカと都会人は嘲笑している。僕にいわせればコギャルの聖地たる渋谷109近辺や、春と秋の修学旅行シーズンの原宿の方がよほど田舎者が集結している気がするのだが、僕自身も田舎者なので詳報は避ける。
 猫と馬鹿は高い所を好むというが、実際僕は高いところが好きでこの東京タワーは21年の人生、3回も登っている。家族の旅行でいったのはただの1回であり、あとは全て自発的に行ったのだから僕としてはよほど気に入った場所なのだろう。
 これは何故かと訊かれてもうまく説明するのは難しいが、ここはいくらいても飽きない。生来の出不精ゆえ、一人で行くことはないのだがいつも相棒がしびれをきらして文句を云うまで、飽きもせず四方を眺めている。
 田舎者だから都会の空気に憧れているのかもしれない。無機質としばしば批判されるビル群にしても季節・時間・天気によって現す顔は全然違う。そしてそれらの表情は追加料金を払って行く、一般の展望台の更に上にある特別展望台の方がよく解る。
 皇居やお台場、空港に新宿ビル群、天気がよければ富士山も。ここに立てば一望できる。いつ行っても何かが変わっていて違う姿を見せてくれる。
 高校の時に昼から夜まで飽きもせずにいたことがある。どういう気象の悪戯か、空が紫色になりそれが段々薄れて焼けるような橙色になっていくのを見届けたことがある。日が暮れればそれは夜景に変わり、視界一面の夜灯とネオンに柄にもなくロマンチックな気分になったりもした。
 夜、タワーを後にして都バスで都営地下鉄の大門まで行く。
 駅頭に立って振り返る時、大きなタワーがライトアップされて、闇に赤く映えている。
 この時僕は、美しい夜景以上にこのタワーは美しいなあと思うのである。大抵の女性はデートで東京タワーに行くとなると、田舎生まれの人非人と付き合ったかのような感想を漏らすらしいが、僕は未だかつてそういう女性に逢わなかったのはまさしく僥倖となすところである。
 あ〜、また行きたいな〜。 

上野動物園 [東京都/2000年(大学2年)]
日常の中の非日常
 上野動物園は何度行ったか覚えていない。
 幼稚園の旅行、小学校の校外学習、家族旅行と高校以前に3回というのは確実なのだが、大学入学後は非常にしばしば行った。
 僕は動物に関して特に感情を持っていない、別に好きでもないし嫌いでもない。ただ動物園の雰囲気は嫌いではない。そもそも上野界隈を散歩するのが僕の数少ない東京でのプレイスポットであり、陽気のいい日はしばしば無目的に上野公園を彷徨ったりしている。
 たまにそれで気が向いたときなど、それこそ冷やかしの気分で、700円也を払って動物園に行くこともある。
 ただ行く時は必ず平日の昼であり、混雑している休日などは絶対に行かない。活気のある動物園もそれはそれでいいものだが、僕は無軌道な子供と一人身のときはカップルが嫌いなのだ。
 天候としては、からっと晴れた適度に暑い日がアフリカやアジアを連想させていい。ただ余りに暑かったり湿気ていたり寒かったりすると動物が堕落してしまい、見ていてもちっとも面白くないからここらへんは注意が必要である。
 これは一緒に行った人間は必ずいうのだが、僕が動物の前で彼らを凝視する時の顔は、しばしば非常に重々しい難しいことを考えているような顔をするらしいのだ。女性と行く時など必ず「一体何を考えてのよ」と突っ込まれる。
 別に僕は彼女と手に手を取り合って「かわゆ〜い」とか叫ぶ趣味もないが、さりとて哲学的なことを考えているわけでもない。
 大抵いつも考えることは動物の顔を見て「これは友人の誰それに似ておるなあ」とか「これはまた馬鹿面だ」などと考えてもいる。
 難しいことを考えているとしたら「こいつの目に、俺はどう映っているのだろうか」とか「野生とこことどちらが快適か、僕だとしたならどちらを選ぶか」なんてしょうがないことばかりである。
 一度同行の女性にこの感想を云ったら、思いっきり軽蔑された。以後、この手の感想は正直に云わないようにしている。
 ともあれ動物園は楽しいところである。少々臭いのは難点だが、例えそれが捕らえられた非自然極まるところでも、珍しい物が見られるというのはいいことである。日常世界で見られる非日常極まる光景、あなたもどうですか?
(近日、当村では動物園を建設する予定。乞う御期待) 

浅草花やしき [東京都/2000年(大学2年)]
貧乏な僕のデートスポット
 浅草花やしきは貧乏人の味方である。最近は少々金を取るようになったが、他の諸施設と比べると段違いに安い。その分施設も段違いにしょぼいし、しばしばメンテナンスと称して施設がクローズドされてしまうのが剣呑だが。
 例え彼女といれども遠慮なく牛丼屋で夕飯を食う貧乏人の僕としては東京デートスポットとしてはありがたい限りである。予定調和じゃなくて実際こういう思想の持主とあう女性というのは少ない。
 さて前にここに来たのは1年程前のことである。浅草寺の仲見世通りを突っ切って、参拝の後に本道を左折する。そうすればもう、そこは花やしきである。今じゃ一般の金のかかった高級遊園地ではお目にかかりづらい遊具が僕らを向かいいれてくれる。
 幸運にも前に行ったときは見知らぬカップルが「もう帰るから使って下さい」と換金不可な100円券(ここでは遊具ごとに指定された何枚かの100円券を渡して乗るのだ)を合計8枚もくれた。一人では絶対に貰えなかっただろう。
 僕が好きなのは笑ってしまうが「ビックリハウス」である。余り他所では見ないね。椅子が固定されていて、家の外壁がぐるぐると回り、自分たちが回っているかのような坂区を起こさせる機械だ。云ってみれば非常にしょぼい子供だましの乗り物だがこれが好きなのだ。
 また観覧車ではないのだが、それに似たゴンドラのような乗り物にのり、空高くあげてくれる遊具も好きだ。高い所が好きなのであるが下町を眺望できてとても気持ちがいい。
 かの有名な「古くいつ壊れるかわからない」という意味で恐ろしいジェットコースターも好きだ。空いている時なら一日中乗れることでも知られる。僕はジェットコースターのような恐怖心を煽る乗り物は嫌いなのだが、彼女連れの時は常々諸事において大言荘言している手前、みっともない姿は見せられない。
 しかるにここは、ここでも実はかなり怖いのだが、他の遊園地に比べると遥かに怖くなくて、表面上はクールでいられるので良い。のろけさせていただくと片手を一緒につないで乗っても、離さずにいられた程の余裕である(ただしあとで「強く握りすぎだ」と批判されたことは秘密である)。
 ちなみにこのジェットコースター、民家の脇をすれ違うという風評で有名で、事実初めて行ったときは本当に民家の脇を通っているように思っていたが、あれはセットである。

 殆ど金がかからず殆ど並ばず楽しめる、花やしきというところはいいところだ。遊園地業界はどこも厳しいらしが、何としてでもここは生き残って欲しい。 

後楽園遊園地 [東京都/1990年(小学4年)]
遊園地初体験
 はじめて所謂遊園地に行ったのは小学校4年生の時の話だ。勿論その場所はここ後楽園遊園地だ。ちょっと普通の読者の皆さんには信じがたいだろうけれども、10歳になるまで僕は遊園地なるものに入ったことがなかったのだ。これもすべてYという教育評論家のせいである。
 さて、どういう宗旨替えで母が僕を遊園地に連れて行ったのかというと誠に単純で讀賣新聞の年間契約の見返りに入場券を送りつけてきたのである。僕は元々社会の出来事に関心がないので、遊園地と聞いても小学生のくせに行きたがらなかったのだが、まああの母が行くというなら物は経験という程度の気分だった。
 母はたかだか遊園地に行くのにも舞い上がってしまい、この時の狂態は今でも覚えているのだが、学校遠足の装備を僕に命じた。すなわち小学校の体操服に紅白帽子をかぶり、リュックをしょって水筒を肩からぶら下げていたのだ。
 10歳とはいえ、よくこんな馬鹿な命令に服したものだ。

 さて、今ならすっかりお馴染み水道橋の駅を越えて、すぐ目の前が後楽園遊園地である。僕は初めて見る球場の方に目を奪われた。当時はまだ巨人を私淑する少年だったのだ(体を動かすのはとても嫌いだったけど)。
 さて、何事も第一印象が肝心という訳で、僕はこの後楽園遊園地という初の遊園地体験で以下のような結論を導き出した。

・ 高い所は面白い
・ 水平に早く動くものは面白い
・ 垂直に早く動くものはつまらない

 これを極めて具体的に云うと、「観覧車が好き」「カートが好き」  「ジェットコースターが嫌い」ということなのだが、このスタンスは実に今でも変わらない。
 そして「嫌いなことはしない」という僕の人生原則に従えば大抵の遊園地は半日で終ってしまうのだ。あまり人気のあるような所には行かないから。そういえば恐怖系はもともとが関心ないし、メルヘン系は性に合わないから。
 で、何がいいたいかというと遊園地そのものは全然楽しくないということ。楽しいのは仲間や彼女と行くから楽しいのである。これは他にも色々なところでいえるが、僕はこの日初めて行った遊園地というところには、断り難い仲間から誘われない限り行ったことがない。 

ナムコワンダーエッグ [東京都/1997年(高校2年)]
帰ってくるぞと勇ましく〜
 高校の友人たちと唯一行った遊園地が、ナムコワンダーエッグ、である。ゲーム好きだった友人連らしいチョイスだ。
 と、いうのも名前から解る通りゲームソフト大手のナムコが経営するテーマパークで、当然のことながら遊園地というより巨大機械を大量投入したゲームセンターと云った趣が強い(ただ勿論1日券を買って乗りまわるという形式は遊園地のそれである)。
 高校2年生の男たち8人(くらいと思う)で、こういうゲームのテーマパークに行くというのも非モテなオタクっぽくて今考えると少々眉をひそめるところだが、なんせ当時は絶好調の高校生。世の中に怖いものなんかねー、と怪気炎を挙げていたのだ。とにかく、ここは滅茶苦茶に楽しみまくった。
 今でもこの旅行は行き先ははっきり覚えている。
 朝、駅前のマックで腹ごしらえをして突入。

・レーザー砲を撃って宇宙艦隊をぶっ潰すゲームでA判定を出した
・トロッコで光線銃を打つゲームでも僕はA判定を出した。
 (上2つのゲームは実際自分の体が移動するのだ)
・スターオーディションで友人が一次試験を突破した
 (僕は三回やったがかすりもしなかった)
・お化け屋敷もどきでは、結局少女を見つけられなかった
・相性占いでは僕は友人(男)と腕を組んでやった。相性最低
 (3年後、彼は僕の彼女を奪って逐電した)
・縄跳びのイベントでは無事仲間で十二回とび、バッジを貰った。
・ミニカートレースで僕は一位だった(しんじられねー)
・併設のゲーセンで8人かかりで「クイズ子育て マイエンジェル」をやり、クリアーする。子育てに関しては僕が全部決定したが、結局はオタク女になってしまった
・光線銃を使ったサバイバルゲームでは係員をキレさせた。

 いや〜、とにかくあの頃を思い出すと、泣けてきます。あの頃は本当に楽しかったなあ。何をしても彼らとなら楽しかった。一緒に帰り道に夜の街を見て、僕はまたみんなでここに来れたらいいなと思ってました。
 と、こ、ろ、が、また来ちゃったんですね。
 高校卒業後、この駅に。
 大学の講義がここでもあったんです。よって1年のときは水曜になるたびにこの駅を降りることになったんです。そしてその度に、かつての仲間を思い出して、しょんぼりしたものでした。 

西武遊園地 [東京都/1995年(中学3年)]
1万円クライシス
 人間、慣れないことはするものではない。
 我が家の教育方針はまず「子供は現金を持つなかれ」だったから僕は小遣いというものをまったく貰えず、収入といったらお年玉を月割りした1月3000円と金欠時に親戚回りをして頂戴した下賜金、親からもらえるのは勉学の必要経費だけだった。
 そんなようだから支出の方もドケチで、高校生にして生活の単位が10円というから笑わせる。コンビニで普通に駄菓子の単品買いをしていたのだ。いくら田舎とはいえ暢気なことである。
 本もCDも中古買い。ゲーセンやカラオケ、ボーリング等の娯楽産業は手を出すことが出来ず、まあ傍からみればつまらぬ高校生活と見えるでしょうね。本人は文芸活動という、金のかからないことばかりやっていたのでそんな意識はありませんでしたが。

 さて話を西武遊園地に戻しましょう。
 仲間内の集団行事というのは不義理は避けたいものです。しかも友人の親のコネで料金格安で入れると来ればいう事がありません。僕はまず月3000円を全投資し、母親を騙して2000円を供出させ、あとは親戚に頭を下げて5000円仕入れました。
 計1万円、これだけあれば大丈夫です。
 僕は意気軒昂と仲間と駅で待ち合わせて遊園地に行きました。

 ところが、僕は見事にこのお金を無くしてしまうんですね。
 僕は1万円札を持ったことなど人生で数える程しかありませんが、悲しい貧乏人の性か前世からの宿怨か、1万円札を持つと何故だか大抵なくすんです。5回くらいなくしてるでしょうか。もう殆ど万札紛失業界ではプロ級の腕前としか云いようがありません。
 最近では、1万円を蛇蠍のように忌避して銀行では9000円+1000円とわざわざ分けて引きおろすくらいです。
 最近では大学2年の4月に、実習費として1万円札を持ってた時になくしましたね。今年はまだやってませんが、そろそろ起こる筈です。
 とにかく僕はこの時もう半べそでしたが、仲間に悟られるわけには行きません。何度もトイレでバックをかき回すわけですが、当然出てきません。
 まあ1日チケットはちゃんと持っていたから、遊ぶこと自体には問題がなかったんですが、こういう気分だとやはり全然楽しくありませんね。昼食は友人の残飯を食い、無料のまずい水で喉を潤いゲーセンではただただ傍観組。ただ僕の貧乏はあまねく勇名でしたから誰も気がつかないんですね。
 ただ帰りの電車賃は困りました。
 これは友人に頼み込んで3000円の借款を負いました。返済には翌月分のお年玉月割をつかいましたが、この月は友人との行事は全部キャンセル、最低の1月でした。

 西武遊園地の思い出はそういう事件があったので、まったく何をしたか覚えていません。ただお金を無くしたショックと残飯のピザを食った情けない思い出、返済方法の金策を考えながら乗った帰りの電車のことははっきり覚えています。

 3000円? 今だったら酒宴1回分だね。
 故に僕は教育評論家の物言いや本は信じないんです。 

東武動物公園 [埼玉県/1993年(小学6年)]
卒業旅行
 卒業旅行、という言葉がある。
 僕はこの名の付いた行事は1回しか出たことがない。即ち小学校の卒業旅行だ。中学校はみんな併設の高校に進んだから卒業なんてあってなきが如しだし、高校は進学高校の特進クラスなのでとてもそんな雰囲気ではなかった(国立後期が卒業式後にあったし浪人生や下宿組などみんな忙しかった)。
 で、この小学校の卒業旅行。なんと僕は2人でいったのだ。
 しかも相手は男と来ればその前途の暗さは想像できよう。

 彼は6年間を通じて僕の兄貴分だった男で、僕とはおよそ正反対の男だった。即ち体力派で行動力がとにかくあった。対人がとてもよく女好きで社会正義など完全にバカにしている。
 昔は万引きの片棒やゲーセンメダルの密売など、如何わしいことをしたものだ。
 最後にあったのは高校2年のとき、彼は黒い顔に白い髪で首からゴールドネックレスをさげていた。ジャケットのインナーは裸で「高校辞めちったよ」と喚いていた。

 さてともあれ当時の彼が唯一頭脳で長じているのが鉄道関係で僕はただ何も考えずに彼の後についていけばそれでよかった。
 実は僕は当日までどこに行くか知らなかったのだ。
 東武動物公園とは銘打っているが、僕がいったときは動物はどこにいるのかさっぱり解らず、ただただ遊園地としての大型遊具しか散見できなかった。そう、ここは僕にとっては未だに遊園地としての認知しかない。
 ともあれ卒業旅行といって僕らがここでやったことはまったくデートと寸分変わりなかった。今考えても、よく男2人で遊園地に来る気になったものだ。
 笑ってしまうのは、僕らは観覧車にも乗ったし手漕ぎのボートにも乗ったのだ(勿論櫂を取るのは彼のほうだ)。正直頭が痛い。
 しかしこれを以てして僕らをホモだなどといってはいけない。ここでの最高の思い出は、なんとナンパ体験なのである。勿論やったのは彼のほうで「新しい友達でも探しに行こうじゃないか」といって、近隣の中学生らしい女の子2人組に声をかけて、なんと同道させてしまったのだ。繰り返すが小学校6年生のことである。
 今でも大学近辺や繁華街でしばしば見られるナンパだが、ナンパ師の腕というのは大したものだ。さすがどこかから仕入れた無修正のポルノ雑誌を常備していただけはある。
 ところが僕である。僕は女子となど喋っていても面白くなく特にバカと喋ると終日嫌気がするというから始末が悪い。この女が中学生とも思えぬつまらない奴で、芸能人だかテレビの話をよく振ってくる。僕にはさっぱり解らない。不機嫌な気分になり、女とも殆ど話さない。
 とすると相手は2人とも彼の方をむくようになっちゃって、2人乗りのループコースターではジャンケンに負けて僕の隣に来た女子などは本当に嫌そうな顔をしていた。車内では一言も口を効かなかったのはいうまでもない。
 その後も女とは話さず、敵意を込めたシカトをしていると天罰も下るもので、彼は卒業旅行というのに僕のことを完全にシカトして女二人とどこかに消えてしまったのである。

 僕は困ったよ、帰れないじゃん。
 ああいう不実な友人はどうでもいいのだが、なんせ僕は当時一人で電車に乗ったなんてことは数回。ましてや乗り換えなんてやったことがないのである。
 まあ、結論からいえば駅員からメモを貰って必死に電車の路線図を睨みながら帰りましたよ。徒労と浪費しか感じない、まあ前例がないほど酷い旅行だったね。
 彼がこの沈み行く太陽の下で何をやらかしたかは、その後5年間まったく逢わなかったことから聞けずじまいだったが彼の現在の生活パターンからすれば想像できる話である。 

日光江戸村 [栃木県/1991年(小学5年)]
昔の情緒
 マニアというほどではないが、歴史は好きだ。
 そういうわけで小学校5年生のときに、家族の日光旅行の一環としていったこの日光江戸村はとてもいい思い出として残っている。滞在したのは午後だけだったが(鬼怒川ライン下りをする予定なのだが前日の大雨による増水のため、臨時休航となったのだ)とても印象深く残っている。
 そもそも僕はTDLの如く、「さあ、みんなで子供の頃に戻ってメルヘンの世界であそびましょ〜」などという戯言に真顔で接するほど酔狂でも世俗的でもないが、こういう全体を江戸情緒に仕立て上げて当時の感覚を味わいましょうという感覚は嫌いではない。
 ネズミや鵞鳥のぬいぐるみが闊歩していたところで、阿呆らしさ以外の何の感興もないが、侍や街娘が歩いているとなれば、これはまた興が沸くというから変に真面目な人間である。
 アトラクションも真面目なもので、我が家は「大名手形」という4つの施設に入れるチケットを買ったのだが、その施設も真面目なところばかりで、順に以下の4つを回った。

1.小伝馬町牢屋敷
2.忍者活劇
3.お芝居(一心太助モノ)
4.3D映画「大阪城炎上」

 まあ我が家がどんな家族かが解るようなセレクトですな。
 いきなり小伝馬町牢屋敷。一家揃ってサディストの我が家らしい施設です。これは江戸時代の刑罰史を人形や映画の形で紹介した所で勉強になりました。取調べの描写から始まって、軽い順から刑罰を紹介していく。刺青刑とか初めて知った刑罰も多いですね。
 僕は子供の頃から処刑シーンに興奮する危ない性格なので、ドキドキしながら見ていきましたね。この時仕入れた知識は今でも記憶に残っています。

 忍者活劇は1時間並んで見た、まあ飛んだり跳ねたりのお芝居でした。聞くと最も人気のあるアトラクションらしいのですが、僕はなんかあまり興を持ちませんでした。テレビをつければ特撮戦士がよくやってることですからね。

 その点、よかったのはお芝居でしたね。この村に沢山いる劇団員風の中でも特に選ばれた連中がやってるんですかねえ。魚屋の一心太助がそっくりな将軍の替え玉をやるという話なんですけど、笑いあり活劇ありの大したお芝居でした。
 あまり演劇鑑賞なんてやらない僕ですが、これには正直感動しましたね。ここはもう一度見てみたいお芝居です。なんせおひねりに母が百円玉を認めたくらいですから。

 ところが問題は最後の3D映画館です。
 なんか薄暗い眼鏡をかけて映画のスクリーンを見ると飛び出して見れるというよくあるアレなんですが。僕はこれをやると必ず頭痛に見舞われるんですね。だから見たくなかったんですが、閉園間近でチケットはあと1回分あるというから無理に入らされました。
 僕は努めて見まいとしていたんですが、やはり映画だから場内は暗いし、眼鏡をしないで画面を見るとそれこそ酔っ払ってしまうので、仕方なく見てみるんですね。するともうストーリーにハマって抜けられない。
 大阪城落城間際に千姫を救出すべく忍者部隊が潜入するという史実とは全然違う映画なんですがね。面白かったですね。

 ただ一歩表を出たら悲惨でした。
 瞼が重くズキズキいっているし、側頭部やこめかみなども熱く脈を打っている。頭はとにかくしくしく痛むし、それに呼応するかのように吐き気が止まらない。
 トイレの中で思いっきり吐いて、帰りの道中は車の中で寝込んでましたね。

 そんな悪い思い出があってもなお日光江戸村、またいってみたいですね。有料施設に入らなくても情緒だけで楽しめるところとはそうないはずです。
 大道芸やいきなり街角で人斬りが始まったり、江戸の庶民の家の再現(夫婦喧嘩がテープで聞こえてくる)などタダで見られる所が多いのもいい感じです。 

常磐ハワイアンセンター [福島県/1984年(4歳)]
ダンスは嫌い
 常磐ハワイアンセンターという施設が福島にあることは、皆さん御存知だろうか? 今は名前が変わったらしいのでよく知らないのだが。
 前述の日光江戸村が江戸時代の町の情緒などを味わう趣向ならばこちらは日本にいながらにしてハワイにいる気分を味わおうというまあケチな趣向である。それでも敷地を暖房で熱帯を感じるほどに気温を上げて、ライトで強烈な日差しなども再現してるというから手の凝った話である。
 僕は4歳にして家族旅行でこの地に来た。
 よって記憶も今となっては殆ど残っていないのだが、誤って服を着たままプールに落ちたこととハワイの原住民が住むようなセットに勝手に入り込んで、褐色の肌のおねーさまがたに怒られたことは覚えている。
 そしてフラダンスショーである。
 本場ではコダック社の提供で「コダック・フラ・ショー」というものが有名だがここでもダンサーを雇って、フラダンスのショーをやっているのだ。如何にも田舎の温泉宿にありそうな見世物だ。
 で、そのダンス中に「お子様も一緒に踊りましょう、プレゼントにレイを差し上げます」というアナウンスが入った。早速子供たちがバラバラ出てきて、踊りの列に加わる。そうなると母親も遅れをとらじとばかりにカメラ片手に僕に行け行けという。
 ところが、僕は絶対に踊りたくないと思っていたのだ。第一にあんなに妙な手つきで腰をくねらせるなど「恥ずかしい」と思ったからだ。いや異文化差別ではなく幼少の僕の自然な発想である。
 花の首飾りには憧れるところがあったが、それにしたってみんなの見ている前であんなことをしなければならないとは激しく羞恥心を覚えた。もっとも当時は羞恥心も恥ずかしいという気分もなく、ただ漠然とした、しかし強烈な嫌悪感だけを感じていたのだ。
 母は怒り狂い僕の頭をぶん殴った。僕はそれでも頭を抱えて必死に嫌がった。そんな攻防戦をやっているうちにフラダンスは終ってしまい、子供たちがめいめいレイを得意げに首にかけて泣いている僕を不思議そうな目で見て行った。
 僕は二重に恥ずかしい思いに襲われた。
 「ア〜ロ〜ハ、オェ〜」
 間延びしたメロディーは、今でもいい思い出ではない。 

太秦映画村 [京都府/1995年(中学3年)]
映画村来訪談
 中学の修学旅行は京都・奈良へ行った。
 関東にある私立の学校なのでそれ自体は別に珍しくもない。だが特筆すべきは全行程自由行動ということである。学校が感知するのは集合場所(解散場所)の東京駅から京都までの往復と宿舎全般の統括だけ。
 勿論計画書は提出するし、先生が重要な観光地点に立っていて定時連絡はしなければならないが、非常によい旅行ではあった。僕の同班の友人の如きはこの旅行で京都にはまり、大学生活を当地で送っているくらいである。僕自身も貧乏なのでいけないが、機会があればまたいってみたい場所である。

 さて、太秦映画村。
 後に聞くと班単位の自由旅行、この有名な場所をセレクトしたのは我が班だけだったらしい。京都修学旅行のメッカとして学生服の一団に常々占領されていた映画村もナウなヤングには受けない。
 左様、僕らの集団は非常に愛すべき温厚な好漢たちで、頭もよく向学心高く非常に愉快で気持ちのいい友人たちなのだが、流行などまったく関心がない。だからしばしばネクラヤオタクと同一視され故に素晴らしい連中なのに大半の女性からは嫌われてる。悲しいことではある。
 さて、そんな僕らの映画村である。
 僕はこの班で記録レポート担当要員で、このHPエッセイのような1枚を物にしているのだが、これから引用しつつ話を進める。

 映画村に入り、まず入ったのは200円の映画。
 これが面白いもので「プラネタリウムのように視界全部が白幕で覆われ、椅子も寝転ぶかのように傾いている」、つまりは歯医者の診療椅子に座って、視界を満たす画面を見てると思って下さればよい。
 で、映画であるが画面はただグランドキャニオンの上空を飛んでいるのである。どうやって撮影したか知らないが、急上昇や急降下ループしたり視界は色々と移り変わる。そう、まるで実際自分が跳んでいるかのような錯覚を与える趣向なのである。
 実際、岩にぶつかりそうな時は体が動いてしまったし水際を飛ぶ時は本当に濡れたような気がした。

 次に印象に残ったのは「3D映画館」である。そう僕が必ず頭痛を起こすあれである。結果から言えば頭痛は起こらなかった。全く幸運としか言いようがない。
 ストーリーは思い出すのも馬鹿馬鹿しい代物で、要は忍者が反乱軍をぶっ倒す代物で、初めの予告編でクライマックスが出てくるから酷いものだ。本編はいきなりキセルを加えた棟梁が「音なし、影なし、匂いなし」とのたまう。僕は何かのコマーシャルと思った。
 展開もぶっ飛んでいて、「ピンぼけがやたら多いし、なぎなたをブーメラン代わりにするし、手榴弾挙げるし、頚動脈をスライスするし凄い話でした」と書いてある。

 で、肝心の旅行記は残り1ページを使って、延々とゲームセンターで「Mrプロレス」という地元では決してやらないゲームをしたことについて触れている。よく学校に提出したもんだ。
 要するに力比べゲームで、レベルを最強に設定し、8人かかりで腕を反転させて帰ってきただけという話なんですがね。そういえば友人がここでスト0をやってゴーキを出したと喜んでいたのが印象的だ。彼もいまや東大生である(友人に二人いる)。

 さて、肝心の時代劇のシーンであるが水戸黄門を見た。そして、映画村でやっている芝居も見た(女剣士がGパンを履いていた)。しかし何にも感慨がなかった。時代劇好きがいなかったのだ。なら何で来たのかといわれそうだが…楽しかったですよ。
 僕はかつての仲間といればいつだって楽しいんですが。 

ハウステンボス [長崎県/1997年(高校2年)]
くだらない
 高校の修学旅行では九州を回った。
 はっきりいってこの旅行は失敗だった。知的で温和な友人がいたからそれでも楽しかったのであり、そうでもなければ13万円也も払って行くような旅行では断じてない。飯と宿は高校生に不釣合いなほどよかったが、それにしたってあの旅行は…。
 と、いっても僕は九州人士や風土を馬鹿にしている訳ではない。悪いのは学校と旅行会社と観光地(ホテルや観光名所、土産屋)の、鉄三角形である。学校が旅行問題で業者と癒着していることは周知の通りだが、母校原理主義の僕でもこれは腹が立った。
 旅行会社やそことつながる地元業者を喜ばせるためには自由行動というのは邪魔以外の何者でもなく、結局この旅行は常に団体行動でバスガイドのダサい旗の下、制服で粛々と歩く、阿呆らしさこの上もない行列と化していた。

 まあこういう話はいずれ他のエッセイで書くとして、ハウステンボスも修学旅行のメッカというだけあって、つまらなかった。一体ここは修学旅行だけで食いつないでいるのだろうか?
 色々遊園地業界も経営がやばい季節であるが、ここは一体どうなのだろう? ともかく最低だった。特定団体の名前は出して批判するなといわれているから詳細は出さないが、僕は人生でここほどつまらない遊園地をめぐらされ、かつ金を分捕られたことはない。
 ひとつだけ例を挙げよう。
 修学旅行セットという昼飯がある。千円である。
 僕は「ピラフセット」を頼んだのだが吃驚した。飯一粒取ると皿が見えるのである。よくあんな露骨に薄く配置できたものだ。更に云うとセットといいつつあとはジュースがついているだけ。
 まったく人をバカにしている。こんあ下らない所に1日を当てる学校はどうかしている。
 入場料がいくらか知らないが3000円でも380人来れば50万円を越える。修学旅行というのはまったくいい収入源でありこういう所に有無なくいれられる修学旅行生こそいい面の皮である。
 最近は修学旅行欠席者も多くなっていると聞くが、こんな阿呆らしい旅行、集団ボイコットして仲間で旅行に行った方がよほど有効に金を使って楽しめると僕は思う。

PS  現在母校の修学旅行はオーストラリアである
PPS ところが今年に限ってテロ事件の影響で中止らしい
    また九州? 気の毒な限りである。 
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