ひとが歌い、酔いしれる中、彼女はひとり……ただひとり。
ひざまずき、自分の手と手を合わせていのるのです。
こころを無に。 彼女はいつもいのりをささげるのです。
聖なる場所で、聖なる気持ちで。
そんな彼女は今日も、いのりをささげています。
あなたの町にもあるでしょう。ただひとつ、ひとが懺悔をできる場所。
それは人々に教会と呼ばれ、そこにはシスターと呼ばれる女性がいます。
シスターは世間の俗事に一切関与せず、ただ一身に神々に心と身体を捧げます。
いきとしいけるもの、全て神の子。
彼女達はいつも神に感謝の心を忘れません。
その中でも、特に熱心な女性がいました。
彼女は町に夜の帳が下りても、いつまでもいつまでもひざまずき、いのりをささげます。
その日も、彼女は手を合わせていたのです。
ある時、キィ……という音を立てて扉が開きました。
誰かが入ってきたのでしょう。教会はすべての者の出入りを許可しています。
ひとりいのりを捧げていたシスターはゆっくり立ち上がり、振り向きました。
「どうかなされましたか」
入ってきたのは15くらいのまだ若い少女でした。短く切った髪がよく似合う、可愛い娘でした。
ただ、着ているものは貧相で、体もところどころ茶色く汚れていました。
少女は虚空をぼう……と見つめ、扉を開けた姿勢のまま動きません。
「……どうかなされたのですか?」
シスターがもう一度声をかけても少女はしばらく反応を示しませんでした。
やがて、口をギュッとかみ締めたかと思うと、床に崩れ落ちました。
汚れた手で顔を覆います。
泣いているのでしょう。かすかですが嗚咽が聞こえてきます。
シスターは慌てて駆け寄りました。そしていたわるように、優しく声をかけました。
「何か、あったのですね。大丈夫です。いくらでも話してください。まずは奥に入りましょう。立てますか?」
少女はコクンとうなずくと顔を覆ったまま立ち上がりました。
シスターは少女が歩き出したのを確認してから、夜の冷たい風が流れてくる扉をゆっくり閉めました。
教会の奥の大部屋に彼女を案内してから、シスターは急いでホットミルクを用意します。
あと、汚れた体を拭くためのお湯とタオルも。
「どうぞ、よろしかったら」
シスターは用意したものを彼女に差し出します。
しかし彼女はまだ泣き足りないのか、顔を覆うのをやめません。
そんな彼女にシスターは微笑み、椅子に腰掛けさせました。自分も同じように他の椅子に腰掛けます。
「泣きたいだけ、泣いてよいのです。感情を抑えるととても辛いですから」
シスターの声に反応したのか、彼女はさらに嗚咽を強くしました。少女の黒ずんだ手から汚れがついてしまった涙が少しずつ垂れてきます。
シスターは少女にタオルを渡した後、彼女が泣き終わるまで窓の外を見ていました。
綺麗に磨かれた教会の窓。教会にいる全てのシスター達が毎日拭くためでしょう。汚れが見つかりません。
昼の光はもうない、真っ暗な空。月はもうすぐ満月と言ったところでしょうか。
町にはちらほら家に灯があふれています。
夜の道を歩く人々。仕事帰りの男達でしょうか。どうやら酔っ払って大声をあげているようですが、窓で仕切られてここまでは届きません。
ただここには少女の嗚咽があふれているばかりでした。
一体、少女の身に何があったというのでしょうか。
少女はいつしか嗚咽をやめ、身体を震わせるのをやめました。
今までずっとうつむいていた顔を上げます。本来愛らしい造りのはずの顔が、涙で汚れています。
彼女は口を小さく開けて放心状態のようでした。
シスターはお湯で顔を拭いてあげました。茶色の汚れが消え、肌色の柔らかい皮膚が見えてきます。
「どうかなさいましたか。よろしければお話ください」
少女はパクパク……と口を動かし、そこから息がもれます。
自分で声にならないと気づいたのか、彼女はもう一度口を開けました。
「……い……き……るの、かな」
「いき……る?」
「私……何故生まれたのかな、こんなところに」
シスターはそれを聞いて、うつむきながらまばたきを数回しました。
キュッと目を閉じてから、少し手を動かします。
「あなたが……ここに生まれたというのは、すべて……神の思し召しなのです。神々が私達に尊い命を与えてくださったのです……」
少女はでも、と返します。
「命が、尊いことなんて思えない。だって生きてるのって拷問のようだわ……!!神様なんていないわ。いるとしても、きっとその神様は不公平なんだわ」
少女は前髪を掻き揚げます。
「私……何もかもいや……人はとても冷たい。痛い。気持ちが悪イの。
死にたいと何度モ思ったわ。でも死ねないの。首を切っテモ、高いトコろから飛び降りても死ねないの!!
助けて!いヤぁあああ…………」
彼女は少し狂ったようにそう言うとまた泣き崩れました。
手で覆った顔からひく、ひくと嗚咽が聞こえてきます。
シスターはそれをじっと見ていました。
手元の十字架をぎゅっと握り締めます。それはシスターの首元でキラキラと輝いていました。
「人間っていやね」
少女は続けます。
「……信じられない」
かすれがちな声。
「みんな、自分が大事なのよ……人のことなんてどうでもいいの」
シスターはゆっくりと少女に近寄り、彼女の服を軽くめくり身体を見ました。太腿の辺りに爪で引っかかれたような傷があり、腕の付け根は今しがたまで血が流れていたような痕があります。
首元と肩口には赤く丸いアザが点々と。
シスターはそれだけで、彼女に起こっただいたいの事はわかりました。
服を戻したあと、少女の頬を両手で包み込みます。少女は顔を上げました。
「今は、何も考えなくてよいです。しばらくこのままで」
少女の、まだ張りがいいやわらかい肌。それはまるで世の闇を知るのには早すぎたのでしょう。
少しずつ知っていくはずだった彼女。今では死という絶望への道しか選択できない。
少女は、シスターを見つめながら言いました。
「……前に、戻りたい」
「前……?」
「私は……ちょっと前まで幸せだった。そのころに戻りたい……」
口を開けて、呼吸を忘れたように嘆きます。
「時は戻すことはできませんが……人はいくらでも立ち直ることができます」
シスターは微笑みました。
「神様が人間にくださるこの尊い命。ひとは卑しいです。私も。あなたも。
私のような者などには、神々の気持ちなどわかりませんが……私はこう思います」
シスターは一旦言葉を切って、
「神様は、ひとに更正する機会をおあたえになったと」
少女は驚いた風にシスターを見つめました。
桃色の薄唇をキュっと結び、何かを言いたそうにします。
シスターは続けました。
「ひとは生きている間に、いろんな辛いことを経験します。でも、それも神様の思し召しなのです。ひとは苦しんで苦しんで、罪を償うのです。そして神々に懺悔します」
シスターは微笑みました。
「あなたも……そう。死ぬなんて思わないで。いつか報われる時が来ます」
少女はまた涙を流し始めました。ただし嗚咽はせず。
少女はぎこちなく微笑みました。それは少しあどけなさを含んだ表情で。
シスターが見た中で、一番綺麗な表情でした。
少女はガタガタと口を震わせ、言い始めました。
「……ひくっ。もっ、戻れるのかなぁ……あたしっもっ……今まで辛い事ばかりだけど……」
シスターは彼女の手をそっと握りました。
「大丈夫です。神様は無慈悲ではありません。あなたが懺悔すればするほど、幸福をお与えになります」
少女は泣き始めました。でももうそれは、悲しいから泣くのではなく、きっと……
きっと少しだけ安心したのでしょう。
シスターは肩を震わせる彼女を優しく抱きしめました。
『いつか報われる時があるから』
……それを糧に、人生を生きています……
「ねぇシスター、私あなたみたいな女性になりたいの」
少女は一通り泣いた後、帰り際シスターにそう言いました。
「私の……ように?」
「そう、シスターのように」
シスターは驚きます。まさか私のようになりたいなんて、と。
驚きながらも、シスターはとりあえず教会のドアを開けました。
まだ位置の低い太陽がこちらを照らしています。
夜遅くに少女を外に放り出すのは心配でしたので、夜の明けるのを待ったのです。
寒さはまだ少し残っていました。
「私、シスターのおかげで気が楽になったの。だからシスター、私ここで働いてもいいかな」
少女は純粋そうな顔で笑いました。もうそこには悲しさはあまり残っていないように見えました。
「……よろしいですよ。シスターは神々に仕える気持ちさえあれば誰にでもなれます」
「ありがとうシスター」
少女は最後にシスターの手にそっと触れ、そして扉から出て行きました。
バタン、という音が教会に響きます。
シスターはそれをほほえましく見守りました。
私は……ひとりのひとを少しだけ救うことができたのですね……救うと言っても、少しなのだけれど……
そう、感じてひとりで嬉しくなりました。
明日も誰かひとり、救えればいい……そう、心に決めて。
扉から身を翻し、またいのりを捧げようとしたときでした。背を向けた扉が開く音がしました。
また誰が来られたのかしら、と振り向こうとすると先にがしっと何者かに肩をつかまれます。
シスターが驚いて振り向くと、そこには長髪の男性がいました。
彼女とは身長差がかなりあるその男。彼女ははっと手で口を覆いました。
「あなたは……っむぐ……」
男はシスターを抱き寄せて荒っぽく口付けをしました。それは愛する者にするような仕草ではなく、ねじふせたようでした。
苦しそうにした彼女から唇を離し、ニヤリと微笑みます。
「其れで、罪を償ったつもりか」
シスターは表情を崩しました。歯と歯をガチリとあわせます。
彼女の耳元で、男は声を荒げてささやきました。
「お前は、いくらやっても私の言いなりなのだよ」
彼女が顔を振るわせるのを楽しむように、男は笑います。
「神様なんて、いるもんか。いるとしても人間共が追い出しちまったんだね」
男は一通り笑った後、強引に彼女の腕をひっぱりました。
ひっかくような荒っぽさに、シスターは顔をしかめました。
男は閉まってしまった扉をもう一度開け、外へと歩き出します。
「今日も、付き合ってもらおうか」
男がそうつぶやくのをシスターは震える体で聞いていました。
腰には、男の手。彼女がいくら抗おうとしても、それは動きそうにありません。
彼女を壊すように、強く掴みます。
口には先ほど男に口付けされた生ぬるい感覚がまだ残っています。
あぁ……私は……もう。
シスターはうつむきました。
泣いてはなりません。
もう、泣くような涙もありません。
『いつか報われる時がくるから』
そう信じて、シスターは今日もいのりをささげています。