憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記

2003 年 09 月

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人生は理屈である (2003-09-01)

人生は理屈である

人生は理屈

人生は理屈である。理屈以外の何ものでもない。

正しいものの見方

「そ、それは理屈だ」

「しかし、正しいものの見方だ」

(「機動戦士ガンダムIII・めぐりあい宇宙」アムロとシャアのセリフより)

私の好きな言葉のひとつだ。私のProfileにも書いてある。

最近、メールなどで、「人生は理屈じゃない」とか「理屈ばかりではいけない」というアドバイスをいただくことがある。そういったメールは、とてもありがたい。自分とは違ったものの考え方を知るのは、ためになる。

しかし、人生は理屈である。理屈以外の何ものでもない。

だいたい、言語にして相手に伝えようとした時点で、たいていは理屈になっている。

「人生は理屈ではない」

この文章自体が、「理屈」だ。(AはBでないという命題)

人生は理屈じゃないと主張するのは、

  • 気休め
  • 理屈が分からない

のどちらかだろう。

「人生は理屈じゃない」という風潮は強い。しかし考えることをやめてはいけない。安直な思考停止は、気休めにしかならない。

反主知主義に対抗せよ!

野村一夫が、『社会学の作法・初級編』で、反主知主義の態度を批判している。反主知主義とは、次のような居直りのことである。

  • 「それでどうなんだ」
  • 「そんなことを知ってどうすんの?」
  • 「何の役に立つの?」
  • 「差別して何が悪い」

ファシズムやマッカーシズム支えたのは反主知主義である。理性的判断の停止への誘惑はたえず存在する。

知ることを軽く見てはいけない。反主知主義的風潮に抵抗しよう。お手軽な結論に走るのはやめよう。

(『社会学の作法・初級編』野村一夫 文化書房博文社 1995)

あえて言おう

「人生は理屈だ」とハッキリ言える人は少ない。そういう人はあまり好かれないからだろう。(私も現実世界ではそのようなことはほとんど口にしない)

もし、誰かに「それは理屈だ」と言われたら、「しかし、正しいものの見方だ」と言うつもりなのだが。

残念なことは、シャアのモノマネが出来ないことだ。

人生は理屈である。


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ゆとり教育で親が死ぬ (2003-09-03)

ゆとり教育で親が死ぬ

ゆとり教育は失敗する

ゆとり教育は失敗する。親にゆとりがなくなり、基礎学力のない子どもが作られる。

夏休みも終わって

通勤途中に、朝顔を持って登校する小学生を見かけた。夏休みも終わって、家で育てた朝顔を学校へ持っていくんだろう。どうやらまだ「朝顔の観察日記」なる習慣は、残っているらしい。

今と昔では、教育の内容も変わっている。自分と同じことをやっていると知ると、安心する。

ゆとり教育の弊害

Webに、注目したい日記があった。公立小学校で十分な教育をさせてないから、子どもを塾に通わせた。勉強以外にもさせてやりたいことがあったのだが・・・。という内容。ちょっとだけ引用させていただきたい。

塾に行って初めて、”勉強ってこういうことか”と思ったと息子が言うのを聞いて、暗澹たる思いになった。

「ひるあんどんの隠れ家 うだうだ帳 」(ゆとり教育から避難する 2003年09月01日 00時35分06秒)

「勉強ってこういうことか」と思うほど、今の教育は「勉強」らしくないのか。これがゆとり教育の結果なのか?

ゆとり教育は、文部省(当時)の役人である寺脇氏が、

  • みんなが百点を取れるように
  • 子どもがいじめや非行や自殺に走ったりすることがないように

と言って、権力をふりかざし、教育内容を簡単にしてしまったことにはじまる。

勉強の重圧と子どものいじめ、自殺、非行とのあいだにもなんら論理的な関係はありません。文科省は、「ゆとり教育」の理念をあらわす標語の選択に窮して、「生きる力」などという無意味な抽象語を掲げてきましたが、噴飯ものですね。

たかが教育官僚に、「生きる力」などという大それたものをひとに植えつける能力があるのか。

(『頭はよくならない』小浜逸郎 洋泉社 2003 p236)

すでにアメリカで失敗したゆとり教育

アメリカのカリフォルニア州で、日本と同じような「ゆとり教育」が行われ、惨憺たる結果を残している。カリフォルニア州の小学4年生の算数の成績は、全米の平均以下、最下層の部類になってしまった。(苅谷剛彦『教育改革の幻想』ちくま新書 p167)

暗記中心の教育ではなく、創造力を伸ばすために楽しい学校を作った結果、成績が急落してしまったのだった。

アメリカから学ぶべき点は多いのだが。

階層化日本と不平等再生産

ふたたび、さっきの日記を引用したい。

貧乏人と、お金はあっても教育に無関心な親の元に生まれた子供は救われない。

(「うだうだ帳」、同上)

現に、お金があり、教育に関心のある親は、子どもを私立に通わせている。以前「朝まで生テレビ」で、「文部科学省の役人達は、みんな、自分の子どもを私立に通わせてるじゃないか」と言って批判していたのを思い出す。(誰が言っていたのかは忘れてしまった)

現実を知っている親は、公立ではなく、私立に通わせるのだ。

しかし、低成長のこの時代、親も湯水のごとく金を稼げるわけではない。子どもの教育にある程度関心がある「中流」の家庭がいちばん苦しい。

金にゆとりのある上流家庭ならば、たやすく私立に通わせられる。

下流家庭なら、もともと教育に関心がないから、公立で十分。

中流家庭は、厳しい家計から、教育費を捻出するしかない。

考えてみよう。

誰のゆとりがなくなったのか?

ゆとり教育は失敗する。そして親から「ゆとり」が奪われる。


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子どもに見捨てられるリスク (2003-09-03)

子どもに見捨てられるリスク

親の面倒を見ない子ども

子どもが年老いた親の面倒を見るとは限らない。老人も経済的自立が必要である。

読者様からのメール

今日は読者様からのメールへの回答を。結婚しないことへの反対意見をいただいた。

自分が年老いたとき、誰に面倒を見てもらうのですか?

家族を作って、家族で支えあっていくのが良いと思います。

このような意見を持つ人は多い。支え合って生きていくという理念は素晴らしい。問題は実現可能かどうか。

結婚しないわけではない

まず断っておきたいのが、私は何もこのサイトで、「一生結婚しない」と主張しているわけではない。むしろそんな考えには否定的だ。

  • 絶対に結婚してシアワセになるんだっ!
  • 絶対に結婚なんてしないぞっ!

という対立する二つの意見は、本質的に同じである。何事にも狂信するのは良くないと思う。よく考え、変化に柔軟に対応していきたいものだ。

私は今のところは結婚するつもりはない。しかし、もし明日、松浦亜弥に「結婚してください」と言われたら、結婚するだろう。そんなもんだ。

日本の子は親の面倒を見たがらない

興味深いデータがある。98年に行われた、第6回世界青年意識調査の結果だ。「年老いた親の扶養」についての国家間の比較で、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた人の割合(パーセント)は、以下の通り。

どんなことをしても親を養う
アメリカ 66.0
イギリス 50.0
フランス 56.8
韓国 44.3
フィリピン 69.7
タイ 77.0
ブラジル 71.8
日本 25.4

すばらしきかな、日本の親子の絆。「たとえ貧しくても、育ててくれた親を一生懸命に介護します」と考える青少年の数は、日本では少ないのだ。

この表を見た上で、もう一度考えてみよう。

「年老いたとき、誰に面倒を見てもらうのですか?」と。

子どもに介護の期待はできない

立派な人間に育て、経済力や道徳心あふれる立派な人間に育てれば、将来、面倒を見てくれるだろう。直接的ではなくても、経済力があれば、施設への入居も困難ではない。

しかし、昨日の日記で書いたとおり、「ゆとり教育」の弊害で、教育費は高騰してしまっている。子どもへの投資金額は、増えるばかりである。

結局のところ、老後の問題は、お金が解決するのだ。

  • 子どもに高い教育費をかけ、子どもに面倒をみてもらう
  • 子どもを作らず、お金を貯め、介護サービスに頼った生活を送る。

この2つの選択が考えられる。

前者はリスクが高いが、子ども次第では充実した老後を送れる。子ども次第で、老後は悲惨なものになる。30過ぎても無職でパラサイトされ、子どもに年金を吸い尽くされることは避けたい。そういう人は、現実にたくさんいる。

後者はリスクが低く、細々とした老後を送る。どっちが好みかは人それぞれだ。

教育費の高騰に加え、住宅ローンも抱え込んでしまうと、自分の老後の貯蓄なんてほとんど残らなくなってしまう。これからの時代、「子ども+自分の老後+住宅」のすべてを満足のいく形で得るのは難しい。

自分にとって何が大事かを考え、経済的に自立した暮らしを送りたい。

子どもが親の面倒を見てくれると考えてはいけない。老後も経済的な自立が求められる。


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早朝覚醒は鬱病のはじまり (2003-09-04)

早朝覚醒は鬱病のはじまり

うつ病のはじまり

早朝に目が覚める(早朝覚醒)は、うつ病の典型的な症状である。

目が覚めてしまう

二週間ぐらい前から、毎朝5時すぎに目が覚めてしまう。目覚ましの設定は6時半である。本来なら起床する時間ではない。

眠りにつくときは、あっさり眠れる。しかし、朝になると、突然ガバっと目が覚めてしまうのだ。最初の頃は得した気分だったが、毎日続くと気持ち悪い。

起きて、とりあえずPCを立ち上げ、「2ちゃんねる」に行ってみる。早朝だと空いている。簡単に2ゲットできて嬉しい。(喜んでどうする)

友人にメールの返事を書く。「なんでそんな時間に起きている?」と返事がまた返ってくる。おじいちゃんかおばちゃんになった気分だ。

早朝覚醒はうつ病の症状か

朝早く目が覚めてしまうのは、うつ病のサインだと何かの本で読んだ記憶があった。さっそく書斎の本棚を探した。

こうした早朝に目が覚める(早朝覚醒)はうつ病の初期に起きる典型的な症状です。普通の睡眠障害は寝付きが悪く、なかなか眠れないものですが、うつ病の睡眠障害の場合は、比較的スーッと寝入ってしまいます。

しかし、床につく時間によって変わってきますが、午後十時や十一時には寝たのに、早い人では深夜0時頃、遅い人でも早朝の四時や五時には目が覚めてしまいます。

(『別冊宝島453 メンタルケアで楽になる』宝島社 1999 p35)

まるで自分に向けて言われているような気がした。症状が酷似している。

朝早く目が覚めてしまうから、会社で眠くなる。眠いからコーヒーで誤魔化す。そんな今日この頃。

医者からもらっていた薬を飲んでいないのが原因かもしれない。たびたび心臓が痛くなることがあったので、一ヶ月ほど前に、医者に診てもらったのだ。ストレスが原因らしく、精神安定作用のある漢方薬を処方されていた。

これを飲んでいなかった。

反省し、今日はちゃんと飲んだ。

うつ病を疑うか

特に気分が憂鬱というわけではない。いたってニュートラルだ。(他の一般の人と比べたわけではない。いつもの自分と同じというレベル。)

うつ病の自覚がなくても、身体に危険信号として症状が出ることがある。食欲がなくなったり、性欲が減退したりすることもあるらしい。。

もし、こうした早朝覚醒が一週間でも続くようでしたら、うつ病ではないかと疑ってみるといいでしょう。

(同上)

「疑ってみるといいでしょう」と言われてもね(苦笑)。

少し憂鬱な気分がちょうど良いと思うが、身体に症状が出るのは困ったものだ。そもそも「うつ病」と「正常」の境界はどこにある?

早朝覚醒は、うつ病の典型的な症状である。


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男は天下国家を語る。女は下世話しか語らない。 (2003-09-05)

男は天下国家を語る。女は下世話しか語らない。

男は天下国家を語る。

男は天下国家(てんかこっか)を語るが、女は下世話(げせわ)しか語らない。

男と女の違い

岡田斗司夫の『フロン』(海拓舎 2001)を読んでいる。彼は、自分のテレビ出演の経験から、次の事を知った。

  • 男は天下国家しか語らない。(日本人は〜、経済は〜、歴史的に見て〜、企業とはかくあるべき〜)
  • 女は下世話しか語らない。(ダンナは〜、最近息子が〜、隣の奥さんは〜、恋愛って〜)

仕事をしている男性と、家庭の中にいることの多い女性との違いだろう。Webの日記を読んでも、岡田の指摘している事は、当てはまると思う。

政治・経済・哲学・倫理・科学・仕事などは、たいてい男性が書いている。

(男性が女性よりも優れている、という意味ではない。念のため)

ワイドショーという主婦向け番組で

岡田がコメンテーターとしてワイドショーに出演していた時の感想だ。

(ワイドショーでの話は)現実から一歩も離れないのです。

たとえば家庭問題を話すときでも、家庭観の変遷といった歴史的なものの見方、各国ごとの家庭観の違い、といった世界的なものの見方を導入してみると、いままで当たり前と思っていたことも当たり前でないと気がつきます。

そうすることで、初めて問題を再検討したり、価値観を再構築することが可能になるのです。

が、そういう理性的な議論が一切ありません。

良い、悪い。好き、嫌い。

これしかないのです。

(『フロン』 p18)

男性は論理的に物事を語る人が比較的多い。しかし女性で論理的な人は、あまりいない。(後天的なものだと思う)

女性が天下国家を語ると、非論理的で滅茶苦茶である。イラク戦争の時がそうだった。

逆に男性が下世話を論理的に話すと、なんでそんなことをわざわざ理屈っぽく語っているんだ? と思われてしまう。 これは私のことだ。

たとえば結婚について論理的に考えること

読者様からいただくメールで、どうも違和感を感じていたのが、この部分だった。女性の方からメールをもらうこともある。しかし、どうも話がずれているのだ。私は、自分のことはとりあえず棚に上げておいて、一般論として下世話を論理的に語っている。

女性からは、結婚とかを理屈っぽく言わなくても・・・と言われる。男性からは、もっと真面目な事(政治、社会批判)を書いた方が良いのではないか・・・と言われてしまう。

結婚や離婚といった下世話な話を、論理的に考えていくのも、面白いと思うのだが。 ダメだろうか?

アクセス数を見ると、一部の人には支持されているようなので、しばらくは今の方針を続けようと考えている。

身近な下世話を理屈っぽく。

9月はこれに決定。(独身男性応援のスタンスは変わらず。)

男は論理的に天下国家を語る。女は非論理的な下世話しか語らない。


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結婚相談所はボッタクリ (2003-09-06)

結婚相談所はボッタクリ

結婚相談所に相談すると、莫大な費用がかかる。そして相手は見つからない。

青木雄二氏が死去 「ナニワ金融道」の作者

本屋に出かけた。青木雄二氏の本が平積みされていた。青木氏の死亡のニュースは知っていた。「ナニワ金融道」を読んだことはないが、絵は知っている。今度マンガ喫茶に行ったら、読んでみよう。

そして、彼の最後の作品だと思われる、「ゼニの恋愛学 だまされたらあかん」を買ってみた。

結婚相談所 「人生で最大の決断ですから」

この本は、風俗や水商売の金にまつわる裏話である。興味を引いたのが、「結婚相談所」のページだった。

各相談所の年会費をざっと調べてみますと、1年でだいたい20万〜30万円というのが相場になっております。(中略)

入会と同時にこれの2倍、つまり2年の長期契約を結ばされます。

「ご結婚は人生で最大の決断ですから、いろんな女性と会ってじっくり決めていただかないと・・・」(中略)

しかも、仮に1回目のお見合いで運良く相手が決まっても、契約してしまったらその人は2年間、会費を払い続けなければならない(中略)。

2年契約だから、最初に入会するときに、50万円ぐらいかかるのだ。決して安い金額じゃあないだろう。さらに結婚相手が見つかったときに、成功報酬として数十万円を要求する相談所もあるという。ひとりの結婚相手を見つけるのに100万円ほどの金が必要なのだ。

そして結婚相手は見つからない

青木氏自身、結婚相談所に入会した経験を持つ。入会したものの、結婚相手は見つからなかったそうだ。

実際問題、結婚相談所に相談しても相手が見つかる確率は低い。10%程度である。(私の日記「どうせもてないし結婚相手介サービスにでも入会してみるか (2003-07-14)」を参照)

高い金を払わされたあげく、相手も見つからない。これじゃあ何のための相談所なのかわからない。そのお金で女の子にプレゼントでも贈った方が良いのではないだろうか。(まずその相手がいないことが問題なのか・・・)

結婚相手相談所への入会には費用がかかる。そして相手が見つかる可能性は低い。よく考えて入会しよう。


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「座頭市」 北野武は死の本能に溢れている (2003-09-07)

「座頭市」 北野武は死の本能に溢れている

ビートたけし・北野武はタナトスに溢れている。

座頭市を新宿で観た

新宿の映画館で、『座頭市』を観た。監督は北野武で、ベネチア映画祭監督賞を受賞したことは、各メディアで報道されているとおり。

話題の作品だからなのか、映画館には長蛇の列が出来ていた。私と連れは、開館一時間ほど前から並ぶことになった。それでも行列の真ん中ぐらいだった。並んだけど観ることが出来なかった人もいると思われる。

エンターテイメント色が強い

面白い映画だった。生ぬるいTVの時代劇しか観たことがない人にオススメする。バッサリ人を切っていくのが快感。随所に挿入されている笑いのネタも良い味出してる。

もっと芸術性の高い映画だと思っていたのだが、いい意味で裏切られた。

客層は幅広く、若いカップルも多かった。それなりに満足していたようだ。

タナトス(死の本能)にあふれている

北野監督作品は、暴力的で人が死ぬ作品が多い。死と向き合うことで生きる意味を模索するような作品もある。

小浜逸郎と佐藤幹夫の対談で、「北野はタナトスに溢れている」という意見に両者が納得している。

佐藤 それでいま小浜さんがビートたけしの映画にはタナトスが現れていると言われたのですが、まったく同感です。一作一作の肌ざわりは異なっているとはいえ、破綻とか破滅ということが、何か冒頭から強く予感させられる、といった印象をもちます。

(『中年男に恋はできるか』小浜逸郎+佐藤幹夫 洋泉社 2000 p36)

ちなみに、「タナトス(Thanatos)」とは、フロイトが最終的に仮定するにいたった二大本能の一つ。死の本能(death instinct)とも言われる。もう一つの本能は、生の本能、エロス(Eros)であり、タナトスとは対立する。

(エロ本やエロビデオの「エロ」とは別物である。念のため。)

この二人の意見には同意する。『座頭市』でも冒頭から破滅的な雰囲気を漂わせていた。

しかし、ひとつだけ違和感のある場面がある。それは、ラストのタップダンスである。日本の祭りをタップダンスでリミックスした、あの印象的なラストは、死の本能ではなく、生の本能を感じさせるものである。

あの場面には、主人公は登場していない。ビートたけし扮する主人公が去ったあとの町に、生きる喜びが溢れていることを意味している。

読売新聞のインタビューで、北野は次のように答えている。

(市は)エイリアンだと思ってるから。基本的には一番の悪は座頭市(主人公。北野武)であるって。あいつさえ来なければ何もなかったっていうのはある。

座頭市=ビートたけしは、ひとりで「死」を背負っているのではないだろうか。


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世の中金だ。 (2003-09-08)

世の中金だ。

世の中は金である。人生にはお金が重要である。

青木雄二ふたたび

先日亡くなられた、青木雄二氏の本を読んでいる。「世の中ゼニや」「男と女の間にあるのはゼニだけや」なんてことが堂々と書かれている。おおむね同意する。

「男と女にはカネよりもっと大事なものがあるんや」と言っている人。本気で思っているのなら勘違いであります。それは「銭」のない人間が「そうあって欲しい」と信じたいだけのことのことになります。

そんなきれいごとは迷信に過ぎません。人が人を好きになるというのは、つきつめれば「プレゼントをくれる」「食事をご馳走してくれる」といった「銭を持っているから」ということなのです。

(『ゼニの恋愛学』青木雄二 2003 p3)

反対意見があると思う。「世の中お金じゃないんだよ」と。

「世の中お金じゃない」は本当か

「世の中お金じゃない」は本当か? ウソである。

資本主義のシステムに組み込まれている以上、お金から逃げることはできない。たとえ自分がホームレスになったとしても、ホームレスを駆除するためのお金が税金でまかなわれている。

住民税を払い、年金を払い、NHKの受信料を払っている。毎日食べるご飯も、お金があるから食べられるのだ。

「お金じゃ買えないものがある」と言っても

「お金じゃ買えないものがある。だから世の中はお金じゃないんだ」と主張する人がいる。お金では買えないものがあるかもしれないが、ほとんどのものはお金で買えてしまう。だから世の中はお金なのだ。

重要なのは違いを考えること

「世の中お金だ」「いや、世の中お金じゃない」という議論は、水掛け論になりがちだ。酒の席でこんな議論が始まると、不毛な議論が続いてしまう。

「世の中お金で買えるものがほとんどで、お金じゃ買えないものもある」というのが、スタンダードな解答だろう。

なに当たり前の結論にたどり着いているんだ?と思った方もいるだろう。ここからである。

重要なことは、世の中には、

  • お金で買えるもの
  • お金じゃ買えないもの

の2つのものがあり、では2つの違いはいったいなんだろうか、と考えることである。

交換可能か不可能か

簡単に言うと、お金で買えるか買えないかの違いは、「交換可能か不可能か」の違いである。

お金で買えるものは、交換可能である。そもそも交換するための媒介物としてお金がある。お金で食べ物が買える。服も買える。家も買える。企業は人を買う(雇う)。私は雇われていて、交換可能である。悲しいが事実だ。

お金で買えないものは、交換することができない。交換することが出来ないもので、代表的なのは、アイデンティティだろう。

自分が誰で、どう認識しているか。この自己認識は、交換することは出来ない。たとえあなたが昭和天皇のアイデンティティが欲しかったとして、いくら大金を積んだとしても、あなたはあなたである。

「自分は昭和天皇だ」と思い込むのはかまわないが、頭のおかしい人間だと思われるだろう。

男と女は交換可能か

ふたたび青木氏の言葉に戻ろう。

「男と女の間にあるのはゼニだけや」

配偶者や恋人は交換可能なものだろうか。正直に書くと、交換可能な人が少なからずいると思う。条件さえあえば、もっと他の人と交換したいと思う人がいる。

でももし、配偶者や恋人、またはその間に存在するものが、交換不可能であるならば・・・。と考えたくなるのが人間だ。

私たちは、その交換不可能なものを何と呼んでいるだろうか?

世の中は金である。しかし交換不可能なものは金では買えない。


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独身男性よ! 結婚したら浮気をしてはいけない! (2003-09-09)

結婚したら浮気をしてはいけない

結婚したら浮気をしてはいけない。万が一浮気が発覚した場合、妻から一方的に離婚され慰謝料を請求される可能性がある。

東野圭吾『殺人の門』

東野圭吾の『殺人の門』(角川書店)を読み終えた。これから作品の内容に触れる。未読でこれから読むのを楽しみにしている人は、今日の日記は読まない方が良いと思う。

この作品は、主人公の中でくすぶり続ける殺意と、流転する人生を描いた小説である。

物語の中心ではないが、注目したい箇所があった。それは、主人公の人生が「結婚」によって地獄に転落したという事実だ。

基本的に真面目な青年である主人公は、堅実な家具会社に勤めていながらも、悪女とうっかり(じつは策略なのだが)結婚してしまう。

悪女の妻は元風俗嬢の友人と共謀する。元風俗嬢の友人に、夫である主人公を誘惑させる。そして元風俗嬢と主人公は、たった1回だけセックスしまうのだ。

離婚条件

現行の民法では、「配偶者に不貞な行為があったとき」は、離婚請求の訴訟を起こすことができる。(民法770条第1項)

配偶者が自分以外と1回でもセックス(か、もしくはそれに準ずる行為)をすれば、慰謝料と財産分与と子どもの養育費を求める請求を起こすことができる。

『殺人の門』の主人公は、まんまと策略にはまり、妻から離婚を求められる。慰謝料を毎月10万円支払うことになった。さらに、妻がカードで莫大な借金を抱えていて、その借金を主人公に押しつけてしまったのだ。

なんとも切ない話である。

あなたも妻に大金をふんだくられる

だいたい、魔女系の女性が現れて、本気で誘惑された場合に、フラフラと最後の一線を越えてしまわない自信のある男性がこの世に何人いるというのであろうか。

現行の民法があるかぎり、妻と悪女が結託すれば、夫を陥れて大金をふんだくるというのは、何の造作もないことなのである。

(『悪女と紳士の経済学』森永卓郎 日経ビジネス人文庫 2001 p28)

よっぽど忍耐力のある男性でなければ、誘惑を断ることは出来ないだろう。『殺人の門』のように、夫婦の関係が倦怠期ならば、まず確実に誘惑にひっかかる。

離婚しても慰謝料なんて踏み倒してしまえ。と考える男性もいる。そんな男性への対策として、法律が改正される予定だ。慰謝料が給料から天引きされ、元妻に支払われるようになる。これでは踏み倒すことは出来ない。

独身男性よ、楽しんでおくなら今のうちだ。結婚してしまったら、妻以外との性交は、高いリスクをともなう。

独身男性よ。結婚したら浮気をしてはいけない。莫大な慰謝料を支払うハメになる。


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『トリビアの泉』は唐沢俊一『一行知識の世界』のパクリか? (2003-09-10)

『トリビアの泉』は唐沢俊一『一行知識の世界』のパクリか?

フジTV『トリビアの泉』のルーツは、唐沢俊一の『トンデモ一行知識の世界』である。

パクリだと思った

『トリビアの泉』を最初に見たのは、まだ番組が深夜に放送されている頃だった。

見た瞬間、唐沢俊一の『トンデモ一行知識の世界』(大和書房 1998)のパクリだと感じた。この本では、さまざまな「何の役にも立たない知識」を紹介している。

本の中から、例をいくつか挙げてみる。

  • ジャイアント馬場の足は本当は15文しかない。
  • 「君が代」には2番がある。
  • モンゴルでは羊を食欲のほかに性欲の解消にも使っていた。

このように、『トリビアの泉』とそっくりである。

実はスーパーバイザーだった

テレビだからパクることなんていくらでもあるだろう、と思っていた。しかし、実はパクりではなかった。唐沢自身が、『トリビアの泉』のスーパーバイザーとして、番組制作に関与していたのである。

『トリビアの泉』の企画者は、唐沢の本を読んで番組の発想を得たのかも知れない。いずれにせよ『トリビアの泉』のルーツは、唐沢俊一の『トンデモ一行知識の世界』と言えるだろう。

無駄な知識は面白い

私は毎週『トリビアの泉』を見ているわけではない。たまに見るぐらいだ。1時間番組の割には情報量が少ないので、敬遠している。

しかし、雑学や役に立たない無駄な知識は面白い。

アイザック・アシモフ博士は、次のように言っている。

人間は、無用な知識の数が増えることで快感を感じることができる、唯一の動物である。

人間の知識欲は、果てしなく深い。

フジTV『トリビアの泉』のルーツは、唐沢俊一の『トンデモ一行知識の世界』である。


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阪神ファンのマナーは日本一悪い! (2003-09-11)

阪神ファンのマナーは日本一悪い!

阪神ファンのマナーは日本一悪い。お国柄、野球の特性、そして高い失業率が原因である。

優勝目前の阪神

阪神の優勝が目前だ。どうやら今週末にでも、ナゴヤドームでの胴上げになりそうだ。

コラムニストの勝谷誠彦が、朝のニュース番組で、「私は阪神が大好きだ。でも阪神ファンは大嫌いだ。あいつらのマナーは日本一悪い。私なんか甲子園で阪神ファンに囲まれて殴られたことがあった。ヤクザと一緒ですよ」と言っていたことがあった。

朝から過激である。司会者も顔が引きつっていた。「チームも日本一、ファンのマナーも日本一になるといいですね」とフォローしていた。さすがプロ。

暴挙の数々

阪神ファンの暴動には、星野監督も腹を立てている。「甲子園で胴上げしない」と発言したことは有名だ。

フライのボールを捕ろうとした選手に向かってメガホンを投げつけた。また、風船飛ばしが規則で禁じられているのにも関わらず、某球場で平気で風船を飛ばした。阪神ファンの非人間的な行動は、枚挙にいとまがないのだ。阪神フーリガンという言葉をこの前はじめて聞いた。一部の熱狂的なファンは、阪神フーリガンと呼べるだろう。

優勝すれば、熱狂的なファンが道頓堀に飛び込むに違いない。他にやることがないのか。

なぜ阪神ファンはマナーが悪いのか

どうして阪神ファンはマナーが悪いのだろうか。理由を考えてみた。

  • 大阪の土地柄、お国柄
  • 野球が庶民的、下級階層のスポーツだから
  • 大阪、近畿地方の失業率が高く、失うものが何もないから
お国柄

お国柄というのは、言うまでもない。

庶民向けスポーツ

野球は、庶民のスポーツである。テレビさえあれば誰でも観戦できる。ゴルフや乗馬と違い、大衆向けと言える。イギリスにおいて、サッカーファンのフーリガンが存在して、ラグビーファンのフーリガンが存在しない理由は、サッカーが下級階層のスポーツであるのに対し、ラグビーが上流階級のスポーツだからである。(これはイギリスの場合である。)

下級階層の人は暴力的で、何をするかわかったものではない。

高い失業率

さらに、大阪の失業率の高さにも注目したい。大阪の失業率は、2003年の前半で、8.4%である。全国平均の5.5%に対して、約3%も高い。近畿地方全体では7%の失業率である。

完全失業者にもなれない、働く気力のない無職の人も含めれば、成人男性のうち10人に1人は無職状態だろう。彼らには失うものなど何もないのだ。警察に捕まったところで一向に構わない。企業に勤めるサラリーマンには出来ないことが、彼らには出来るのだ。

お国柄+大衆向け伝統的スポーツ+高失業率の3つの条件が重なり、阪神フーリガンが生まれている。

18年ぶりの祭に酔いしれるのも良いだろう。しかし、阪神ファンは、周囲の迷惑や現実も直視しなくてはいけない。

(補足:読者様から、「失業率が高く、失うものが何もないから」というよりも、「自営業者が多い」ことが原因ではないか。との指摘を受けた。その通りかもしれない。私は自営業者の事をまったく考慮していなかった。反省せねば。自営業であれば、少しぐらい暴れても責任はないし、捕まってもさほどダメージはない。むしろ周囲から英雄扱いされるかもしれない。)

阪神ファンのマナーは日本一悪い。お国柄、野球の大衆性、高失業率の3つが原因である。


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男性が女性に望む4つの条件 (2003-09-12)

男性が女性に望む4つの条件

男性は結婚相手の女性に4つのKを望んでいる。

4K

男性が結婚相手として望む女性の条件とは何だろうか。愛知淑徳大学教授の小倉千加子は、4つのKを条件にあげている。男性は一般的に4Kの女性を望むと言う。4Kとは、次の4つである。

  • かわいい
  • 家庭的
  • 賢い
  • 軽い(体重が)

最後の「軽い(体重が)」は、無理矢理オチをつけたのではないだろうか。つい疑いたくなる。

多くの男性は、この4つにおおむね肯定的なのではないだろうか。

統計データによる検証

男性は本当に4Kの女性を求めているのだろうか。統計データを元に検証してみる。

湯沢雍彦の『図説 家族問題の現在』(NHKブックス 1995)のp.87に、「男性からみた結婚相手に希望する条件」というデータがある。下の表に、そのデータを示す。これは経済企画庁の「国民生活白書」(1992)によるデータだ。

順位 条件
性格が合う 74.8
家事が出来る 39.9
家庭を第一に考える 35.7
自分にない性格をもっている 30.1
共通の趣味を持っている 24.5
自分を束縛しない 24.5
容姿 22.4
金銭感覚が似ている 11.2
収入の安定 4.2
10 学歴 2.8
11 資産 2.8

10年前のデータで古いが、これを元に検証してみる。

「かわいい」

「かわいい」は、もちろん「容姿」の事である。また、性格にも可愛らしさがあるから、男らしさと対立する「自分にない性格をもっている」とは、可愛らしさの事だと解釈することもできる。(少し苦しいか)

家庭的

「家事ができる」「家庭を第一に考える」が第2位、第3位に入っている。男性は女性に「家庭的」であることを求めている。これは間違いなさそうだ。

賢い

「賢い」はどうだろう。「学歴」を望んでいる男性はほとんどいない。男性が求める賢さとは、家計を預かる立場としての賢さ(金銭感覚)や、共通の趣味を理解できる賢さだろう。

性格が合って共通の趣味を持ち、そこそこ理解力のある女性を望んでいるのだ。

軽い(体重が)

体重は、第7位の「容姿」に含まれるだろう。もっとも、軽いからといって容姿が良いとは限らない。しかし重い人は、たいてい容姿は良くない。

4Kは本当か

統計データを見る限り、男性は4Kを求める傾向にあると考えられる。とくに「家庭的」な女性を求めている。

そしてやっぱり、「軽い」は、オチをつけているとしか思えない。「軽い」は「かわいい」に含まれるのだ。

男性は結婚相手に4Kを求める。4Kとは「かわいい」「家庭的」「賢い」「軽い」である。


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女性が男性に望む結婚の条件は、3C。 (2003-09-13)

女性が男性に望む条件

女性、とくにバブル期に青春時代を過ごした女性が男性に望む結婚の条件は、3つのCである。

3C

昨日は男性が女性に望む条件(4K)を書いたので、今日は女性が男性に望む条件を。独身男性にとってはこっちの方が重要な情報だろう。

今日も、小倉千加子の説である。彼女は医学博士で、心理学に詳しい。彼女の調査によると、女性が男性に望む結婚条件は3Cになる。

Comfortable(快適な)
今の生活水準を落とさない、十分な収入。高収入。
Communicative(理解しあえる、通じ合える)
価値観やライフスタイルが一緒。
Cooperative(協力的)
家事や育児に協力的。進んで家事をしてくれる。

かつては「3高」(高学歴、高収入、高身長)と言われたが、高学歴と高収入は、Comfortableに統合された。高身長は消滅した。家事をしてくれて、価値観が同じ人を求めている。

結婚できない女性に多い願望

3Cは、結婚したいのに結婚できない女性に多い条件だ。なぜ晩婚化が進むのか。結婚できない女性が増えたからである。どうして結婚できないのか。要求水準が高すぎるからである。

3Cの条件を満たす男性が、どれだけいるだろうか。「十分な収入」とは、結婚できない女性の間では、500万〜700万ぐらいだと言う。(『日経ウーマン』調査)

30歳前後で700万円を稼ぐ男性は、仕事で忙しいのだ。熱心に働くビジネスマンは、残業も多い。自分を磨くための勉強もしている。そこへ「価値観が一緒」「家事をしてくれる」なんて条件が加わってしまう。3つの条件を満たす男性はなかなかいない。

いつか素敵な男性が現れて・・・なんて考えているうちに、気がつけば40歳になってしまう。

でも、妥協して結婚はしたくない。自分より先に結婚していった友人たちに、「妥協したのね」と思われたくない。

30代の独身女性は、ありえもしない妄想と目の前の現実との間で、苦しんでいるようだ。

20代女性は考えが違う

小倉によると、今の10代後半〜20代前半の女性は、それほど要求水準が高くないらしい。「がんばったって意味ないし」と考える世代なのだ。3Cよりも「癒し」が大事なようだ。

楽をしたがる独身女性

30代の独身女性は、楽をしたがっている。自分を幸せにしてくれる男性を待つばかり。夫に経済的に依存し、そのうえ家事まで押しつけようとしている。

独身男性よ! 3Cの期待にこたえることはない。脳の回路がバブル期のままの女性なんて、必要ないのだ。

30代の結婚できない女性が男性に望む結婚の条件は、3Cである。無茶な条件である。


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オンリーユー・フォーエバー症候群の終焉 (2003-09-14)

オンリーユー・フォーエバー症候群の終焉

「一人の人をずっと愛し続ける」という恋愛様式は、根拠のない幻想である。

二股、三股

喫茶店で本を読みながら、アイスコーヒーを飲んでいた。隣の席に座っていた女の子たちが、しゃべっている。

その女の子は、男3人と同時進行で恋愛をしているらしい。特に誰か一人にこだわることもなく、ずっと交際を続けるつもりもないようだ。(盗み聞きしていたわけではない)

「ひとりの人をずっと愛し続ける」ことが正しい恋愛ではないと思う。結婚していなければ、複数の異性と同時に恋愛しても構わない。

オンリーユー・フォーエバー症候群

心配しないで
君だけを 見ている

もしも 君が 泣きたい位に
傷つき 肩を落とす時には
誰よりも素敵な 笑顏を
探しに行こう
全てのことを 受け止めて行きたい
ずっと二人で

(Mr.Children 『抱きしめたい』)

オンリーユー・フォーエバー症候群とは、

  • 一人の人を
  • ずっと愛し続ける

ことが当たり前で、正しい恋愛だと考えてしまうこと。引用したMr.Childrenの歌みたいな恋愛のことだ。

「オンリーユー・フォーエバー症候群」は、森永卓郎が『<非婚>のすすめ』(講談社現代新書 1997)で述べている。

オンリーユー・フォーエバーという思想が日本で生まれた理由は、次の2つ。

  • 日本がキリスト教文化を勘違いして輸入したため
  • 終身結婚が高度経済成長期には都合の良い制度だったため

戦後、「オンリーユー・フォーエバー」を唄う曲が増加し、恋愛ドラマも増加した。それがオンリーユー・フォーエバーを定着させることになった。

60年代〜90年代前半までの間に、オンリーユー・フォーエバー幻想が、人々の間に広まったのだった。

オンリーユー・フォーエバーイデオロギー

症候群と言ってしまうと、病的な印象を受けてしまう。よく考えてみれば、たしかに病的ではある。

ずっと愛し続けるのは妄想的だ。一人の人、あなただけを愛しているというのも、神経症的である。

しかし、オンリーユー・フォーエバーが標準的なスタイルであるという考えは、多くの人に共有されている。「症候群」よりも「イデオロギー」という言葉が相応しいだろう。(イデオロギーには色んな意味がある。ここでは、みんなが正しいと思い込んでいる信念の体系、の意味)

オンリーユー・フォーエバー教

イデオロギーという言葉で理解しにくい人は、宗教におきかえてみると分かりやすいかもしれない。

ひとりの人をずっと愛し続けることが正しい恋愛であることの根拠を、誰か示せるだろうか。オンリーユー・フォーエバーの根拠は、どこにもない。根拠はない。しかし、ある一定の人に共有されている幻想である。宗教と同じである。

「天皇は現人神であり、日本が英米と戦争しても、神風が吹いてきっと勝つ」

こんな思想は、今ではとても考えられない。しかし戦中の人々は、信じていた人も多かった。それと同じである。

何を信じるかは自由

日本では、宗教や思想は自由である。オンリーユー・フォーエバー教の信者になるのも自由である。

しかし、いったん洗脳(良く言えば内面化)されてしまうと、その思考の呪縛から逃れることは難しい。男性には少ないが、女性の中には完全に洗脳されている人がいる。

べつに複数の人と同時に愛することもできるし、ずっと愛することよりも一時的に愛する方が自然なことだと思うのだが。

オンリーユー・フォーエバー原則も、それをなくしたほうが国民がより豊かな生活を享受できることに一部の国民が気づきはじめたという事情のほかに、経済の面からも今後崩壊が進んでいくことは確実だと考えられる。

(森永卓郎『<非婚>のすすめ』講談社現代新書 1997 p92)

「一人の人をずっと愛し続ける」という恋愛様式は、根拠のない幻想である。戦後、多くの人に共有化され、今なお狂信的に信仰している人がいる。


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戦前の日本は一夫多妻制だった (2003-09-15)

戦前の日本は一夫多妻制だった

戦前の日本は実質的な一夫多妻制で、比較的自由な恋愛が行われていた。

オンリーユー・フォーエバー症候群の反響

昨日の「オンリーユー・フォーエバー症候群」について、何人かの読者様から反応があった。予想していたよりも支持されてしまった。ちょっと意外。オンリーユー・フォーエバー教の信者から反論のメールが来て欲しかったのだが。

それはさておき、メールやメッセージの中で、「昔の日本ではどうだったのか」という質問があったので、今日はその質問に回答してみる。

戦前の日本

恋愛観や結婚観は、戦前と戦後では異なる。これは新憲法、新民法による影響が多い。今現在私たちが抱いているイメージは、戦後に形成されたものにすぎない。では、戦前はどうだったのだろうか。

社会学者、山田昌弘の『家族というリスク』(勁草書房 2001)の「恋愛自由化の代償」の冒頭部分(p181〜)をまとめてみよう。戦前の恋愛や結婚について、山田が次のように述べている。

  • 恋愛と結婚は比較的分離していた。
  • 結婚は一種の経済制度であり、上流階級の結婚は家柄や財産に基づいていた。
  • 男女交際は、経済とは別のところで営まれていた。
  • 上流階級の男性は、結婚外で恋愛(セックスを含む)をする自由があった。
  • 配偶者以外と活発な恋愛をし、いわゆる「妾」を持つ人も多かった。
  • 戦前までの日本は、実質的な一夫多妻制だった。
  • 庶民の間では、比較的自由な男女交際が可能で、「夜這い」や「若者宿」などで性愛関係が営まれていた。

戦前までは、自由な恋愛が行われていた。しかし戦中期には、恋愛やセックスが国家によって統制されるようになった。総力戦のため、兵力としての人間が必要だったため、産めよ増やせよの号令のもと、家族をつくり子どもをたくさん産むことが奨励されたのだった。

「恋愛」と「結婚」の結合

重要なのは、戦前は「恋愛」と「結婚」が分離していた点である。戦後この二つは結合してしまった。これを山田は「恋愛結婚イデオロギー」と呼ぶ。

  • 結婚するには恋愛感情が必要
  • 結婚を考えない恋愛は遊びであり不真面目である
  • 恋愛したら結婚するのが当然だ

と考える思想、イデオロギーのことである。このイデオロギーは今も私たちに深く根付いている。「別に何とも思ってないけど、経済的にメリットがあるから、あの人と結婚するわ」なんて発言する人は、まちがいなく非難される。反動として、大量の「お見合い結婚」コンプレックスを抱く人が増えてしまった。「出会いは見合いだったけど、そのあとちゃんと恋愛して結婚したんだもんっ!」と訴える人もいる。(Web上でそんな日記がありますね?)

明治時代から、一部のインテリの間では真面目な恋愛が行われてはいましたが、戦前には、大多数の人にとっては結婚と恋愛とは別物で、夫婦は愛情の単位であるとは、まったく考えられていなかったのです。

(山田昌弘『家族というリスク』 p183 )

恋愛と結婚が別だからといって、とくに不幸だなんて考えもしなかったし、恋愛は恋愛で別に行っていたのである。

不倫の正当化にはならない

昨日も一部で誤解を受けたが、私は不倫を推奨するわけでも、正当化しているわけでもない。結婚しているならば、他の異性と性的交渉をもってはいけない。その根拠は、民法で「貞操の義務」が定められているからである。そのぶん、結婚するとさまざな権利が得られるのである。結婚は制度である。恋愛とは違い、法律でルールが定められている。その規則を破るなら、制裁を加えねばならない。

恋愛と結婚が別だと考えたとしても、現行の民法に同意して婚姻届に判を押している以上、民法に定められたとおり行動すべきである。

嫌ならば結婚しないか、民法で定められた手続きにのっとって離婚した上で、他の人と恋愛すべきだろう。結婚しているだけで、法律上さまざまな権利、メリットがある。権利ばかり享受し義務を果たさないのでは、話にならない。

不倫している人は、結婚に対する認識が甘いのではないだろうか?

戦前の日本は実質的な一夫多妻制で、結婚とは別なところで自由な恋愛をしていた。


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阪神優勝の謎:勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし (2003-09-16)

阪神優勝の謎:勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」(元阪神タイガース監督 野村克也の言葉)

現実から逃げる男

最近の「憂鬱な〜日記」は、日記になっていない、という指摘を各方面から受ける。阪神優勝が目前にせまり、ついつい関係のない話題ばかり書いてしまった。現実逃避である。

現実から逃げるため、優勝が決まった月曜日も、新宿のマンガ喫茶で永井豪の『デビルマン』を読んでいた。やはり歴史に残る大傑作であった。

道頓堀ダイブ

ニュースでは、道頓堀ダイブの模様をしつこいぐらいに伝えている。報道によると5000人以上の人が道頓堀川に飛び込んだらしい。せいぜい100人単位の人数かと想像していたが。阪神ファンは恐ろしい。

そのまま道頓堀川の底で眠っていてくれ。一人ぐらい阪神の星となるのも良いだろう。

勝ちに不思議の勝ちあり

阪神の優勝で思い出すのが、元監督の野村克也氏の名言である。

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」

なんと含蓄の深い言葉だろうか。私は野村監督の愛想のない顔とサービス精神の欠如は好きではない。しかし、確率で采配をする頭脳的な野球は、野球の面白さを広げたと思う。彼の戦術や采配は好きである。

全国6000万人の巨人ファンは、どうして今年の巨人が優勝できなかったのか、理解しているだろう。松井の離脱、相次ぐ故障者、中継ぎ抑えの崩壊・・・。

いっぽうで、阪神の優勝は理解に苦しむ。謎である。どうしてあの阪神が優勝できたのか。どうして金本は広島時代よりも生き生きとプレイしているのか。伊良部がどうしてあんなに落ち着いているのか。不思議だ。

負けには理由がある。しかし、勝ちには不思議なことがある。棚からボタモチが落ちてくるように、ひょんなことがきっかけでいつのまにか勝ってしまうことがある。

野球とは、人生とは、まったくもって不思議なものである。

(今日は、思いっきり悔しがってみました)

勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし


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月30万円:不倫における時間と空間のコスト (2003-09-17)

月30万円:不倫における時間と空間のコスト

男側からすると、不倫には月30万円のコストがかかる。30万円は、時間と空間を買うためのコストである。

不倫には金がかかる

巨人が12年ぶりの9連敗。今日は勝てるだろうか。野球中継を何気なくつけていたが、21時で放送が終わってしまった。消化試合なので放送延長もないのだろう。

今日も現実逃避は続く。

さて。読者様から「不倫にはお金がかかる。お金持ちにしかできない」というメールをいただいた。今日はこれを題材にしてみる。

月30万円のコスト

今も昔も、富を多く持っている人が多くの異性と交流することが出来た。妾をもってこそ一人前だったのである。妾が多いほど、富の象徴でもあった。

秦の始皇帝は、3000人もの妾を囲っていたそうだ。富や権力次第なのである。

『ザ・アール』2001年5月号の上野千鶴子(社会学者)と奥谷禮子(元スチュワーデス)の対談を引用させてもらう。少し長い。

奥谷 よくいうのは、ちゃんとした不倫をやろうと思ったら最低月30万円のコストがかかる。

上野 ちゃんとした?(笑)

奥谷 というか、ある程度ハッピー度合いの高い、相手に不満を与えない不倫をやろうと思ったら、男側からすると30万円の不倫コストがかかる。

上野 30万円の使途は何ですか?

奥谷 シティホテルで食事して、タクシーで送り迎えして。

上野 なるほど、女にお手当の支給はしないが、時間と空間を買うためのコストですね。支出先は違うけど、コストは変わらないと。

元スチュワーデスは経済感覚が違うな、と痛感。最低30万円かけないと、ちゃんとした不倫ができないらしい。彼女にしてみれば、私たち一般庶民の不倫は、ちゃんとした不倫ではないのだろう。

上野は社会学者らしく次のようにフォローしている。

すべての階層にA級、B級、C級グルメがありますから。(中略)フトコロ具合に応じた不倫があるんです。

私たちは、身分相応の不倫をするしかないのである。「お金がないから不倫ができない」のではなく、身分相応な相手を探さないから不倫ができないのである。

(もちろん、不倫はいけない。不倫を推奨しているわけではない。不倫が出来ない原因がお金にあるのかどうかを検証しているだけである。念のため。)

支出先は違うがコストは同じ

それよりも注目したいのが、上野の次の発言である。

「なるほど、女にお手当の支給はしないが、時間と空間を買うためのコストですね。支出先は違うけど、コストは変わらないと。」

「女にお手当の支給」とは、女性に対してお金を支払うこと。援助交際や売春行為と考えられる。つまり、たとえ不倫(恋愛)をしたとしても、かかるコストは援助交際した場合と同じということである。不倫は直接お金を払っていないだけで、時間と空間を買っている。

お金で女性を買うことは、今の世の中では非難される。しかし、デートにかかるコスト(時間や空間を含む)などを考慮にいれると、直接お金を払っても、あまり差はないだろう。

男性は女性を間接的に買っているのである。(非難される事ではない)

男側からすると、不倫には月30万円のコストがかかる。30万円は、時間と空間を買うためのコストである。


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猫とネズミと大地震予知と (2003-09-18)

猫とネズミと大地震予知と

大地震の前に猫やネズミやナマズが暴れたとしても、大地震を予知していたことの証明にはならない。

9月21日±2に南関東大地震

会社からの帰り道で野良猫を良く見かける。そして私は時々その猫を追いかける。逃げる猫、逃げない猫。猫もいろいろだ。もちろん虐めているわけではなく、かわいがっているのである。ただし猫の目にどう映っているかはわからない。

そして今日も、猫は相変わらずだった。

ところで、ここ数日以内に南関東大地震が起こるウワサがある。これは、ある地震予測研究家が発表したことに端を発するらしい。詳しいことは知らないが、それほど高い確率で的中できるとは思えない。月並みだが、地震が起きたときにいつでも非難できるよう準備をしておいたり、地震に備えて保険に入ったり、マンションの購入を見あわせたりすることが大切だろう。

動物は地震を予知するか

一方で地震の話になると必ず話題になるのが、動物による地震予知である。一説によると、動物には不思議な能力があり地震の数日前に異常な行動をとったりするらしい。

私は今のところは、動物の異常行動と地震との関連づけは、人間の錯覚だと思っている。動物の予知は不思議であり魅力的だ。しかし、地震が起きなくても動物は以上に見える行動をするし、異常な行動をしたとしても地震が起きないことがいくらでもある。地震と異動行動の関係を人間がどのように観察しているのか。そのことを猫が暴れたことを例にして考えてみると、

  • A.猫が暴れて、その後地震が起きた。
  • B.猫が暴れて、その後地震は起きなかった。
  • C.猫が暴れず、その後地震が起きた。
  • D.猫が暴れず、地震も何も起きなかった。

の4つのパターンが考えられる。人間の観察による記憶だと、Aのパターンがもっとも記憶に残りやすいだろう。その他は何気ない日常として忘れ去られる。たまたま猫が暴れていて、その後に地震が起きたために、Aの記憶だけが強く印象に残ってしまうのだろう。

だいたい猫なんて日本にたくさんいるのである。確率的にいって、数百匹以上の猫が地震の前に異常な行動をしているだろう。たまたま体調を壊していた可能性があるからだ。もっと単純に、発情していただけかもしれない。その行動を、人間が勝手に地震と結びつけているだけなのかもしれないのだ。

科学的な見方を

子どもの理科離れが叫ばれて久しい。もっと科学を重視してもらいたい。科学的というのは、一般にあり得ないと信じられているもの(幽霊、超能力など)を頭から否定することではない。それこそ非科学的だ。そしてもちろん、地震の前に動物が暴れていたからといって、短絡的に地震と結びつけてしまうのも非科学的だ。

物事を科学的に考える力が、現代人には欠けていると思う。

動物の敏感な能力によって、人間や計測機器が関知できない微妙な地震流や電磁波の変化を感知している可能性までは否定できません。しかし地震の前に暴れた動物がいるという事例だけでは、動物に予知能力があるかどうかはわからないのです。そして、本当に必要な反証事例(地震前に暴れなかった例、暴れても地震がなかった例)は、ほとんど注意を引きません。そもそも、日本では有感地震のない日の方が珍しいことも忘れてはならないでしょう。

(菊池聡『超常現象をなぜ信じるのか』講談社ブルーバックス 1998 p134)

今日も明日も、どこかで動物は暴れている。

大地震の前に猫やネズミやナマズが暴れたとしても、大地震を予知していたことの証明にはならない。


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女性の半数が「結婚しなくても幸せ」 (2003-09-19)

女性の半数が「結婚しなくても幸せ」

結婚する必要がないと考える人が少なくない。結婚する必要性が少ないのは事実である。

読売新聞社の調査結果

読売新聞に興味深い記事があった。(URL:http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20030919it05.htm)読売新聞社の調査で、次のような結果が得られたそうだ。

  • 「女性は結婚しなくても、十分に幸せな人生をおくることができる」と思っている人は52%、「そうは思わない」と答えた人は42%。
  • 「男性は結婚し、家庭をもって、初めて一人前だ」と思っている人は45%。「そうは思わない」と答えた人は53%。
  • 「一般的に言って、人は結婚した方がよい」という人は54%
  • 「必ずしも結婚する必要はない」が45%
  • 「結婚する必要はない」という人は、20歳代で68%。未婚の男女とも69%。

年代別、既婚・未婚、男女による回答の違いを比較したいが、これだけのデータしか公開されていない。「結婚する必要はない」と答えている既婚者の割合も、貴重なデータではあるのだが。未婚者回答と既婚者の回答を比較すべきである。都合の良いデータだけを並べ立てているように見受けられが、とりあえず今日はこのデータを話題にする。

女性は結婚しなくても十分に幸せ

幸せ・不幸せという曖昧な言葉が好きではない。しかし女性の多くがこの表現を好んでいる。「女の幸せ」とはよく聞く表現だが、「男の幸せ」とはあまり聞かない。

それはさておき、調査によると、結婚と幸せが無関係であると気がついている人が多くなっている。よい時代になってきた。「結婚しなければ幸せじゃない」なんて偏った考えは捨てた方が良いと思う。

今のこの世界を幸せと感じているならば、結婚しても幸せだろう。不幸に感じている人は、結婚しても不幸であると思う。

結婚する必要はない

結婚する積極的な理由はない。これが私の考えである。もちろん、結婚によって得られるものも多い。しかし、それは結婚以外でも得られるのである。「精神的な安らぎを得られる」ことを結婚の理由にあげる人が多いが、私にしてみれば結婚よりも猫でも飼った方が遙かに心が安らぐ。溺愛し、徹底的に可愛がる。死んでしまったらどうしよう、と飼ってもいないうちから心配してしまう。

結婚とセックスの分離が大きい

「結婚する必要がない」と考える人が多くなったのは、セックスと結婚が分離したことが大きいと私は考えている。

戦後、まだ「初夜」という言葉がリアルだったころは、結婚しないでセックスすることは許されていなかった。セックスをし、その後婚約解消することはタブーだった。慰謝料を請求されることがあったらしい。「処女」に価値があったので、キズものにした男は責任をとる必要があったのだ。

それゆえ、セックスしたいから結婚した、という人が多かったのである。「男は結婚して家庭を持ってこそ一人前」なんて偉そうに言っているおじさんをたまに見かけるが、家庭とかそんなことではなく、単にセックスしたいから結婚しただけである。

アダルトビデオもなく、エロ本も貴重だった。アダルトサイトなんて夢のまた夢である。想像もしていなかっただろう。また、昭和31年には売春防止法が公布され、性風俗産業の取り締まりも強化されてしまった。そのため、性欲は溜まる一方だったのである。

この性欲を吐き出したい! という思いで結婚したのが本心だろう。「セックスしたいから結婚したんじゃないんですか?」と世の中年男性に問いたい。もちろん、そういった理由で結婚したとしても、悪いことでも恥ずべき事でもない。社会にコントロールされた結果である。

結婚する必要がないと考える人が少なくない。結婚する必要性が少ないのは事実である。


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インチキ科学と地震予測 (2003-09-20)

インチキ科学と地震予測

世の中には科学を装った疑似科学、インチキ科学が多い。ときに疑似科学は人々を誤った方向に導く。

言った通りに地震が起きた

「21日±2の間に南関東大地震が起こる」という地震予測がある、と二日前の日記に書いた。そして今日のお昼頃、震度4の地震が関東地方を襲った。

揺れは大きく、本棚が前後に揺れていた。本棚が倒れないよう手で押さえた。揺れがおさまり、2ちゃんねるの地震板にアクセスしてみると、サーバとコネクションを張ることができなかった。変わりにニュース速報に行ってみると、予想通り盛り上がっていた。祭りである。地震キター!である。

偶然なのか予測どおりなのか

たしかに地震は起きた。しかし、予想していた日とはズレていたし、震源地も違うだろう。詳しく検討していないが、偶然である可能性が高いと思う。

地震予測をした串田氏のコメントを待つことにしたい。

疑似科学というインチキ

ネットで調べてみると、今回の地震予測には否定的な意見が多い。真面目な研究者は迷惑しているという意見もある。一見科学的な理論で人々を騙す、いわゆる「疑似科学」だと主張する人もいる。私は串田氏の地震予測について詳しく調べていないので、インチキなのかそうでないのかの判断はしていない。

今回の地震予測とは無関係に、インチキ科学、疑似科学は世に流通している。日本に限らず、アメリカでもそうだ。日本では、水に向かって「ありがとう」と声をかけると、凍らせた時の結晶が美しくなるという疑似科学の本が売れたことがあった。つい最近のことである。疑似科学は、本人に悪気がないことが多い。ゆえに、救いようがない。

一人で勝手に信じている分には構わない。でも真面目な研究者が迷惑する場合もあるし、社会全体に弊害がでることもある。

ドイツ国民がよい科学とわるい科学(疑似科学のこと)を区別する訓練をもっとよくうけていたら、ナチスの人類学者の気狂いじみた人種理論にあんなにやすやすとのみこまれることはなかったのではなかろうか?

(M・ガードナー『奇妙な論理I だまされやすさの研究』現代教養文庫 1989)

西洋の魔女狩りしかり。オウム真理教に走った若者しかり。

世の中には科学を装ったインチキ科学、疑似科学が多い。ときに疑似科学は人々を誤った方向に導く。


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たったひとつの女性の不自由 (2003-09-21)

たったひとつの女性の不自由

現代の日本の女性は自由を手に入れた。しかし、「結婚をせずに子どもを産むこと」は社会通念上、許されていない。

結婚が必要になるとき

台風接近中。気温も急降下。寒いので鍋焼きうどんを作って食べた。コーヒーもアイスコーヒーではなく、コーヒーメーカーで煎れる。美味い。

さて、二日前の日記の補足を。結婚とセックスが分離したため、現代では結婚の必要性が以前よりも少なくなっている、と書いた。でもやっぱり結婚って必要じゃないか?と考える人は多い。なぜ結婚が必要なのか。

それは、子どもを産むには結婚しなければならないという規範が強いからである。結婚せずに子どもを産むこと、とくに未婚の母に対する世間の風当たりは強い。

規範と言うよりも、あたりまえの事として内面化されているのかもしれない。たとえば、未婚のカップルの間に子どもができたとしよう。頭にうかぶ選択肢は、次の二つである。

  • 中絶する
  • できちゃった結婚をする

「子どもは産むけど結婚しない」という選択肢もありえるのだが、今の日本で男がそんなことを言ったら、非難の嵐だろう。

非嫡出子率は約1%

結婚していない女性が産んだ子ども(非嫡出子)の割合は、日本では約1%である。スウェーデンでは約50%。アメリカやフランスでは20%を越している。(85年)

先進国の中で、日本だけが約1%と低い水準になっている。未婚の母が少ないのは、日本の特徴である。

昔の日本の非嫡出子率は9%

明治時代から大正時代にかけて、非嫡出子率は約9%であった。非嫡出子率が低下したのは戦後である。それまでは、結婚せずに子どもを産むことが少なくなかったのである。

これは、妾の子どもや夜這いによって生まれた子どもが多かったためだと思う。

たったひとつの不自由

ニュース番組(朝日ニュースター、「ニュースの深層」)で、人口問題に詳しい鈴木りえこが、「日本の女性は自由を手に入れた。しかし、結婚せずに子どもを産むことだけは、まだ許されていない」と言っていた。

結婚はしたくないけど子どもだけは欲しい、と願う女性は少なからず存在する。また男性に場合も、子どもが欲しいならば結婚するしかない。

子どもが欲しくないならば必ずしも結婚は必要ではない。他の条件によるだろう。だが子どもが欲しいなら、結婚はほぼ確実に必要である。

結婚しなければ子どもを産んではいけない。たったひとつの不自由である。


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ダメ教師はクビにしろ (2003-09-22)

ダメ教師はクビにしろ

公立学校で学級崩壊が進むのは、公教育に教師や児童に対して制裁を加えるシステムがないからである。

進行する学級崩壊

テレビ朝日の『ニッポンが危ない”爆笑問題&日本国民のセンセイ教えて下さい』を見た。話題は、教育・医療・政治の3つ。

興味を引いたのが、小学校の学級崩壊である。教室では授業中に生徒が走り回ったり、携帯電話に出たり、居眠りをしたりしているらしい。

  • 親の躾がなっていない
  • 教師がダメになった

という原因が毎度のごとく述べられる。原因は両方だろう。どちらかといえば親の躾が原因だと思うが。小学校や中学校の教師にそれほど多くを期待してはいけない。私見だが、教師希望でもないかぎり、優秀な人は小学校や中学校の教師にはならない。

体罰は100年以上前から禁止されていた

法律上では100年以上前から、一貫して体罰は禁止されている。よく、「昔は生徒を殴れたけど、今は体罰は出来ないから・・・」と言う人がいるが、昔も体罰は禁止されていた。1879年(明治12年)の教育令で、体罰は禁じられている。以降、戦中もずっと禁止され、戦後の学校教育法でも体罰は禁じられている。必要があるならば、体罰以外の懲戒を加えることは出来る。

ちなみに、児童を廊下に立たせる行為もダメである。児童には授業を受ける権利があり、それを剥奪することは言語道断である。

昔の教師は、法律に反していることを承知したうえで、生徒を殴っていた。極悪人である。学校という檻の中で、暴力が当然のごとく行使されていた。今はPTAなどの監視が厳しく、体罰が出来にくい。素晴らしいことである。私が子どもの頃も、教師は平気で生徒を殴る、蹴る、壁にたたきつける、脅迫するなどなど、人間とは思えない行為が横行していた。

たしかに、口で教えるよりも、殴る蹴るの暴行を加えた方が手っ取り早い。しかし、たかだか一教師に、物事を判断して生徒に制裁を加える能力や権限があるとは思えない。体罰を加えた教師はすべてクビにして欲しい。

負の制裁のない社会

一方で、倫理や法律的に問題がある「体罰」が、学校という社会と統制していたことも事実だと思う。今までは暴力という力で押さえつけることができた。今はそれができない。生徒に対して負の制裁がなにもないのである。犯罪に対して罰のない社会のようなものである。

また、公共教育では教師に対しても制裁がない。指導能力に問題のある教師をクビにすることは出来ない(ある程度クビに出来るようになるみたいだが)。

じつは私立と公立の違いはここにある。私立であるならば、能力に問題のある教師は当然クビだ。指導してもどうしようもない生徒は退学させることもできる。こうした「負の制裁」があれば、制裁を受けないように人は行動する。子供時代、体罰を恐れて権力に屈していた、今の大人達のように。

この制裁は、「体罰」に変わって機能しているのである。私立には「体罰」に変わる「負の制裁」を与えるシステムが存在する。しかし公立には何もない。これでは社会が崩壊しても不思議ではない。

もちろん私立と公立では、親の教育熱心さや躾の厳しさが違うだろう。しかし公立に「負の制裁」を与えるシステムが存在しないことの方が、より問題である。お金のない人は、公立に通わざるを得ないのだ。

ダメ教師や問題生徒をクビにする「負の制裁」がないことが、学級崩壊を進行させている。


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日本の戦後は安かった 強姦殺人地獄 (2003-09-23)

日本の戦後は安かった 強姦殺人地獄

戦後の日本は、現代よりも強姦や殺人などの少年犯罪が多発していた。日本は強姦地獄だった。

ベイビー、日本の戦後は安かった

戸梶圭太の『CHEAP TRIBE ベイビー、日本の戦後は安かった』(文藝春秋)を読み終えた。昭和の底辺を生きた男の一生を描いた作品である。

『バトルロワイアル』が健全な青春小説に思えてしまうほど、この小説はダーティである。独身男性にしかお勧めできない。ひどい日本の戦後のありさまと、犯罪まみれになりながら生き抜いた激安人間の行動には、何度も笑った。

(きさま、女を手に入れといて、今度はエレキまで手に入れようって魂胆か! 俺なんかそのどっちもまだなんだぞ、この野郎、殺すぞ、さらさらした髪全部引っこ抜いて、丸めてケツの穴に突っ込むぞ!)

底辺を生きる人間を知ることで、少しだけ生きる希望や勇気が得られた気がする。でも間違っても小学生には読ませてはいけない本である。

実際、日本の戦後は安かった

事実、戦後の日本は立派なものではなかった。とくに少年犯罪はひどかった。

1960年の少年犯罪の検挙数は、殺人438件、強姦4407件である。そして1998年の場合は、殺人が117件、強姦480件である。(警察庁生活安全局少年課の統計による)

「急増する少年犯罪」とメディアは煽っているが、実際は逆で、少年犯罪は減っているのである。とくに強姦の数は目を見はるものがある。1960年は、1998年と比べて10倍の検挙数である。しかも現代よりも強姦の被害を訴えることは困難だったと思う。なんせ処女性に価値があったから、強姦されたなんて言ったら嫁のもらい手がなくなってしまう。

戦後の日本は、強姦地獄だったのである。

不透明な動機

最近の犯罪は、動機が不透明と言われる。昔は強姦みたいに動機がハッキリしている犯罪が多かったから、現代の少年犯罪の動機が理解しにくいのである。動機が分かりやすければ良いというものでもない。

テレビゲームやマンガの影響

テレビゲームやマンガの影響で、少年犯罪が増えたのだろうか。必ずしもそうとはいえない。テレビゲームもなく、自然の中で遊び回ることしかできなかった時代の方が、強姦や殺人事件が多かったのである。野山を駆け回り、その野山で強姦していたんだろう。自然すぎる。

自然が良いとは限らない。テレビゲームやマンガで、適度にエネルギーを放出させることは、犯罪抑止に効果があると思う。

戦後の日本は、強姦や殺人などの少年犯罪が多発していた。日本は強姦地獄だった。


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資格/学歴は不要か? (2003-09-24)

資格/学歴は不要か?

資格を持つことは、企業に対して「自分が利益をもたらす人間である確率が高い」ということをアピールすることになる。

目指せ・・・テクニカルエンジニア(ネットワーク)

秋期情報処理試験まで残り一ヶ月を切っている。今回私は「テクニカルエンジニア(ネットワーク)」を受験する。高度区分の試験で難易度は高く、合格率は7%程度だ。去年チャレンジして落ちている。

今年こそ合格したいが、いまひとつ勉強する気が起きない。合格したときの見返りが大きければやる気も起きるが、勉強にかけるコストぶんの見返りはない。

せいぜい、年2回のお祭り気分を味わえるのが見返りだろうか。日常に刺激を与えてくれる祭りである。合格発表の時は、某掲示板で祭りが開催される。

認定資格の意味

情報処理資格は、免許資格ではない。医者や弁護士と違い、プログラマに免許はいらない。情報処理関連の資格は、ほとんどが己の実力を証明するだけの資格である。

資格不要論をとなえる人も多い。まるで学歴無用論を主張する人のように。実際、学歴と資格は似ている部分もあると思う。

学歴はなぜ有効なのか

一般に企業は学歴の高い人を採用したがる。大企業では高学歴の人間が多い。仕事の内容にも夜が、中卒よりも大卒をとりたがるだろう。

ではなぜ高学歴の人間を採用したがるのだろうか。そう疑問に思った経済学者がいた。(名前を忘れてしまいました。すみません。たしかアメリカ人)

彼によると、比較的高い学歴を持っているということは、次の3つの要素をもつ人材を意味する。

・少なくとも馬鹿ではない。
ある一定の試験にはパスしているので、まあ馬鹿ではない。
・要領が良い
試験勉強をうまくこなしている。効率的な勉強の仕方を身につけている。
・世間の価値観に同調的で、反抗的でない
世間の風潮に逆らわない人間なので、企業としては扱いやすい。

学歴が高ければ、これら3つの要素を持っている。経営者なら欲しがる人材だろう。もの覚えも良いので、教育コストもかからない。

見落としがちなのが、3番目の要素だろう。企業の多くは、扱いやすくて従順な人間を求めている。いくら能力が高くても、革新的な人材ばかりでは会社は機能しない。

資格は有効なのか

情報処理(初級シスアド、基本情報処理技術者、ソフトウェア開発技術者・・)の資格保有者も、上で挙げた要素を持つ。

しかし、学歴と違う点は、採用する側が資格の知識を持っていない場合が多いことだ。コンピュータ関連企業の中でも、資格について正しく理解している企業はそう多くはない。不当に低く評価されたり、高く評価されたりしている。自分を売り込む材料にはなるが、本人が思っているほど評価されていないことが往々にしてある。

これから受験を考えている人は、たとえその資格をとったとしても、世間から正当に評価されるとは限らない、むしろ不当に低く評価される可能性が高いということを覚えておいた方がよいと思う。

一般的に資格を持つことは、企業に対して「自分が利益をもたらす人間である確率が高い」ということをアピールすることになる。


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運動会の社会学 -運動会の見世物化- (2003-09-25)

運動会の社会学

日本の運動会は、軍国主義を起源とし、戦後「祭り」としての運動会にシフトした。現代ではショーや見世物としての要素が強くなっている。

変わりゆく運動会

運動会シーズンである。とくに娘もいないし、ロリコン向けのビデオ撮影にも今のところ興味がないので、自分にはあまり関係がない。

しかし、いろんな日記を読んでいると、現代の小学校の運動会が自分の時代のものとは変わってきている事がわかって、面白い。

  • 男女を平等にするためか、100m走を男女一緒に走らせる。結果、男子ばかりが1着になる。
  • 親がいなかったり、家族が応援に来てくれない児童がいるため、お昼は全員が教室で給食を食べる。
  • 運動会なのに、ダンスのBGMが「世界にひとつだけの花」

「ナンバーワンにならなくてもいい〜」なんて歌が流れたら、戦意を喪失してしまうだろう。運動会で競争しなくてどうするんだろう。「ひとりひとり違う花をもつ その花を咲かせるためだけに一生懸命になればいい」という歌をBGMに集団でダンスを踊るのは、ひどく矛盾しているような気がするが、そこまで深い意味はないんだろう。

学習指導要綱

学習指導要綱では、運動会は、「心身の健全な発達や健康の保持増進などについての理解を深め、安全な行動や規律ある集団行動の体得、運動に親しむ態度の育成、責任感や連帯感の涵養、体力の向上などに資するような活動を行うこと」とされているらしい。

これを読むと、立派なイベントに思えてしまう。

毎度思うが、文部科学省や教育委員会の文章は、実態とかけ離れている。こんなことでは現場の教師も混乱して、どんな運動会にすれば良いのか悩むと思う。

日本の運動会の特徴

さて、日本の運動会の特徴は、次の通りである。

  • 全員強制参加
  • 軍隊意識による団体重視
  • 家族でお弁当を食べる
  • 休日開催される
  • 大勢の観客の存在

他の国では全員強制参加ではなく、希望者のみの参加だったり、全員参加だけど種目が選べたりする。全員が同じ種目に強制参加させられるのは、日本の特徴である。

また、団体・集団意識が強いのも特徴的である。北朝鮮のマスゲームほどではないが、歌に合わせて踊るのは、どの小学校の運動会でも見受けられるだろう。アメリカの運動会には組体操やダンスがない。

家族でお弁当を食べる習慣も、他の国にはあまりない。タイの運動会では家族でお弁当を食べるそうだが、運動会自体がお祭りみたいなものらしい。

もっとも、これらの特徴は、現在では大きな揺らぎを見せている。冒頭に書いた通り、運動会も様変わりしているのだ。

祭りから見世物へ

日本の運動会は、戦前は戦意高揚に利用されていた。戦後になり、「祭り」としての要素が強くなったと思う。休日に家族でお弁当を食べ、大勢の観客が競技を見る。地域の住民が集まる、ハレの日だったのだ。

現在は「祭り」から「ショー」、「見世物」にシフトしている。父親はビデオカメラを買い、熱心に娘の姿を撮影する。競技そのものも、優劣をつけることはしない。勝った負けたではなく、走っている姿を見て喜ぶのである。ダンスも、集団としてのまとまりよりも、自分の子どもがどんな風に踊っているかが重要なのではないだろうか。

運動会は、見世物・ショーになった。


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Webの文章は読まれない。スキャンされる。 (2003-09-26)

Webの文章は読まれない

パソコンのモニタ上に表示されるWebのテキストは、読者には読まれない。読者はスキャンし、文字を拾うのである。

拾い読みされる

画面上のテキストは,読まれるというより,skimmingされるものだ。

(Horton et al,1996) http://yin-yan.edisc.jp/review/より孫引き

skimmingとは、ここでは、ナナメ読み・拾い読み・速読という意味だ。

また、ヤコブ・ニールセン氏も、「How Users Read on the Web」の中で、「読者は読まない。一語一語読むようなことはせず、彼らはスキャンするのである」と断言している。

私も拾い読みしている

私も、Webの文章は拾い読みである。さっと読んでみて、おもしろそうだったらじっくり読む。最初からじっくり読んでいくようなことはしない。

モニタに表示された文章は読みにくい。目になじまないのだ。Web上で発表されている小説も読みにくい。長編小説だったら、まず間違いなく読まないだろう。

拾い読みしやすいページを

そこで、読者がスキャン・拾い読みしやすいページが好ましいと考えられる。

  • スタイルシートで行間を空ける
  • 文章にタイトル・見出しをつける
  • 文章の冒頭に要約や結論が書いてある

この3つを備えたページにするだけでも、ずいぶん拾い読みしやすくなるだろう。

(拾い読みする・されることの是非はここでは考えない)

簡単にアクセスアップする3つの方法

ヤコブ・ニールセン氏は先ほどの論文で、スキャンされやすい文章にするとアクセスが増加すると述べている。スキャンしやすい文章にするためには、次のようなページを作るべきだと彼は言う。

  • 重要なキーワードは強調する
  • 適切な副題をつける
  • 箇条書きを使う
  • ひとつの段落・項にはひとつのアイデア
  • 文章の量を半分、それ以下にする

私もこれに同感である。簡潔ですっきりした構造の文章は読みやすく、拾い読みもしやすい。私もこれを守りたいが、なかなか難しい。とくに文章の量は短くしにくい。

Webのテキストは、読者には読まれない。読者はスキャンするのである。


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専業主婦も年金を払え! (2003-09-27)

専業主婦も年金を払え!

意外と知らない独身男性が多いが、多くの独身男性は専業主婦の分まで年金を負担しているのである。

専業主婦はタダで年金をもらえる

厚生労働省ホームページ上で、社会保障審議会年金部会による「年金制度改正に関する意見」(平成15年9月12日)が公表されている。何かと物議をかもしている年金についての改革案だ。

意外に知らない人が多いが、サラリーマンの妻で、無職や収入の低い人(第3号被保険者)、いわゆる専業主婦は、年金を払っていない。そして払っていなくても65歳になれば、年金を受け取ることができる。20歳前に結婚して専業主婦になれば、ビタ一文年金を払わなくても、老後には年金を受け取れるのが、現在の法律である。

ちなみに自営業の夫の妻には適用されない。共働きの妻は、きっちり年金を納めねばならない。独身男性・女性はもちろん毎月の給料から天引きされている。

断言してもいいが、不平等である。

夫が年金を払っているという勘違い

たまに「私の夫が、私の分まで年金(社会保険料)を納めている」と勘違いしている主婦がいる。これは部分的にしか正解ではない。夫をはじめ、サラリーマンの独身男性や共働きの女性も、専業主婦のぶんの年金を負担しているのである。

給与明細を見てみよう。決して安くない金額が毎月引かれている。その分のいくらかは、家でのんびりしている専業主婦の分なのである。

年金を納めなくてもよい専業主婦(第3号被保険者)は、なんと1100万人も存在する。これは大きな問題である。働いているサラリーマンは、高齢者を支えるだけではなく、みのもんたのお昼の番組を家で見ている主婦のぶんまで負担しなくてはいけない。

「家事をしているから」は理由にならない

よく「家事・育児という仕事をしている」という反論がある。しかし平等という点から見た場合、この反論は的はずれである。

共働きの女性は家事や育児をしないのだろうか? 独身男性は家事をしないのだろうか? 洗濯しないのか? 料理をしないのか? 自営業者の妻は家事をしないのか?

会社のお昼休みに、掃除をしているおばちゃんを見かける。このおばちゃんは、「なんで私が働いていない専業主婦のぶんまで年金を払ってやらなきゃあかんねん」と思っているに違いない。(関西弁まちがってるかも)

将来は縮小していく方向

これほどまでに不平等な制度である。批判も多く、将来的には縮小されるだろう。

本部会の議論では、(略)少なくとも就業形態の多様化等の状況を踏まえ、基本的には短時間労働者への厚生年金の適用拡大等により、第3号被保険者を縮小していく方向性については一致した。

(「年金制度改正に関する意見」社会保障審議会年金部会)

まずはパートタイマーの労働者から年金を納めるようになるようだ。そんな回りくどいことをせずに、全員から取れば良いのである。

多くの独身男性は、働いていない専業主婦のぶんまで、年金を払っている。


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日本の童貞 (2003-09-28)

日本の童貞

1920年代、知識階級の人々には、「童貞」はカッコいいもの、守るべきものと思われていた。

童貞にとって冬の時代

「童貞」は馬鹿にされる。某巨大匿名掲示板では、

  • 無職
  • 童貞
  • ひきこもり
  • オタク

などが、よく非難される。(例:>1 は童貞。)

理由はいろいろ考えられるが、とにかく現代は、

  • 童貞は忌むべきもの
  • 童貞は早めに捨てるもの
  • ある程度の年齢になっても童貞なのはおかしい

という考えが一般的だと思う。

童貞=美徳の時代

渋谷知美の『日本の童貞』(文春新書)を読んでいる。面白い。戦前から現代までの、日本社会の童貞観の変遷について調査、論じたものである。

童貞がみずから童貞性を賛美し、「愛する新妻にボクの童貞をささげるんだ!」と息まいていた時代があったといったら、意外に思うだろうか。

(p9)

彼女によると、童貞を美徳とする考えが1920年代の知識人の間には存在したらしい。

現在の男性たちは、童貞を賛美するなんて考えられないだろう。「全国童貞連合」という組織があるが、童貞を賛美しているわけではない。彼らは童貞を捨てるべく努力をしている。

照子さん、僕は童貞ではないのですよ

小谷野敦も、『性と愛の日本語講座』(ちくま新書 2003)の139ページで、「わずかな期間、男の貞操も大切だという考えが、知識階級の間にはあった」と述べている。小谷野は菊池寛の小説、『受難華』(1926)を引用している。新婚の夫が妻に告白するシーンである。

「照子さん、僕は童貞ではないのですよ。」

照子は、胸に釘を打たれるような衝撃を受けた。

この夫は、童貞じゃなくてすまん、と妻にゆるしを求めている。現代から見れば、違和感のあるセリフだと思う。

1920年代の知識人の間では、相手に処女を求めるならば、自分も潔癖な童貞でなくてはならないと考えられていた。ある意味で進んだ男女平等思想だったと思う。

1920年代、一部の知識階級の間では、童貞は美徳とされていた。


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原監督の苦悩 (2003-09-30)

原監督の苦悩

プロ野球の監督は、勝負師であると同時に、エンターテイナーでなければならない。とくに巨人は視聴率が重要である。

原監督は伝説の監督になるか?

9月29日の段階で、巨人は2位ヤクルトとゲーム差が0.5である。うまくいけば、巨人は2位でシーズンを終えることになる。そうなると、原監督は、1年目に日本一、2年目にはリーグ2位という成績で辞任することになる。この成績でダメという烙印を押されるならば、どんな監督でもダメ監督になってしまうだろう。

原監督にはあと2年は続けて欲しかった。

監督の役割

一般にプロ野球の監督にあたえられた役割とは、次の3つである。

  • 試合に勝ち、優勝すること
  • 選手を育て、チームを強くすること
  • 人々を喜ばせ、興行的に成功させること

最初の2つは当然だろう。巨人軍にとってポイントとなるが、三番目の役割である。巨人の場合、他の球団と比較して、視聴率が重要なのである。

なんせ読売グループの一団体であるわけだ。日本テレビは野球中継を、視聴率が稼げるドル箱としている。

今年は巨人戦の視聴率が一桁を記録してしまった。読売としては、おかんむりである。

視聴率か勝利か

視聴率も高く、なおかつ勝負に勝てれば最高である。しかし、両者がトレードオフの関係にあり、こちらを取ればあちらが立たない、という場合もある。

原監督は、ペタジーニと清原の起用について悩んだに違いない。人気はないが、三冠王をとれるだけの実力のあるペタジーニ。人気はあるが、足に爆弾をかかえ、まともに走ることのできない清原。(私は清原が好きである。非難しているわけではない)

視聴率の事を考えれば、清原を使う。勝負にこだわるならペタジーニを使う。勝ちを狙うなら、清原を代打専用にし、ペタジーニにファーストあたりを守らせるだろう。

しかし、原監督は両方の選手を使った。松井のいなくなった後、人気のある選手といえば清原ぐらいしかいないのである。(日本テレビは必死に高橋をプッシュしていたが、裏を返せば、わざわざアピールしなければならないほど、他にスター選手がいないということである)

ペタジーニは、戦力的にも使いたい選手だし、なによりフロント側が大金を積んで獲得した選手である。使わないわけにはいかない。

守備が下手な選手が守った結果、投手陣にも影響が出てたと思う。守備に応じてボールの配球を変えるからだ。それが投手陣の崩壊をまねき、優勝を逃す一因にもなった。

監督のむずかしさ

あらためて、プロ野球の監督のむずかしさについて考えさせられた。あくまでもビジネスで野球をやっている以上、一般の企業にも見られるような管理職の苦悩があるのだ。

勝ちにこだわるだけの野球はつまらない、しかし、視聴率にこだわる野球ももっとつまらない。来年の、堀内新監督の野球に期待したい。(視聴率は大丈夫か?)

巨人の監督の役割は、優勝することと、視聴率のとれる野球をすること。


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完全なセキュリティ対策など存在しない (2003-09-30)

完全なセキュリティ対策など存在しない

インターネット社会において、「これで万全」と言えるようなセキュリティ対策は存在しない。

部長は責任をとって会社を辞めるか

昼休みの時間に、テクニカルエンジニア(ネットワーク)試験の勉強をしている。論述式の問題が面白い。たとえば、「A社の営業部のPCがウィルスに感染していることが発覚した。セキュリティ上の観点から、営業部の問題点と解決策を述べよ」といった問題である。

一般企業のセキュリティ対策が難しい理由は、

  • セキュリティへ対策への予算が少ない
  • 経営陣の危機意識が低い

の2点が大きいと思う。セキュリティ対策には予算がかかり、運用コストも安くはないのである。企業の顧客情報流出事件が後を絶たないが、いまだに意識の低い経営陣が多いと思う。

ちなみにさっきの問題の解答で、ある意味もっともエレガントなものは、「営業部の部長が原因。解決法は部長をクビにすること」である。部長は部下にばかり責任を押しつけてないで、原監督を見習うべきである。「責任はすべて私にある」という男気のある部長はどこかにいないものか。(私の会社の部長がダメと言っているわけではありません・・・)

利便性か安全性か

コストと並んで重要なのが、利便性である。あまりにガチガチなセキュリティ対策を行ってしまうと、仕事に影響が出てしまう。

たとえばノートPCやカメラ付き携帯電話の持ち込みなどが典型的な例である。会社によっては、カメラ付きの携帯電話を室内に持ち込んではならないという規則がある。簡単に写真がとれて、そのままメールに添付して送信できてしまうので、情報漏洩の点からみると、とても危ない。ノートPCも同様で、社内の情報を外部に持ち出すことがかんたんに出来てしまう。

しかし、携帯電話やノートPCを使えないのは、不便でしかたがないだろう。社員からも苦情がでる。

住基ネットのセキュリティ

なにかと世間で話題になっている「住基ネット」も、安全性を犠牲にし、利便性を高めているのである。回線上のセキュリティは暗号化によって確保されているが、末端のPCへの対策が甘いと思う。職員にでもなって、PCをいじれる立場になれば、ある程度の情報は盗むことができるだろう。

もっとも、公務員という安定した職を失うリスクを背負ってまで、情報を盗むことはしないと思うが。

安全性を少しでも高めるしかない

コストや利便性をはかりにかけた上で、我々はセキュリティ対策をしていかなければならない。少し長くなるが、『インターネットセキュリティ入門』(佐々木良一 岩波新書 1999 p203)から、引用しよう。

セキュリティ対策は、これで完全かと言われると完全であるとは答えられない。これで十分かと言われれば、分からないとしか答えられない。しかし、私たちは完全とは言えなくても、セキュリティ、対策コスト、使いやすさ等を考慮しつつ、最善だと思う手を打ち続けるしかない。

不利な条件なもとでいろいろな手を打ち続けるしかないという点では日々の暮らしもインターネット社会も同じである。そしていろいろな手を打っておけば、確実に安全性は高まるのである。

安全性は高めることしかできない。人生において、これから絶対にアクシデントが起きないという保証は、誰にもできない。少しでも安全に、そしてアクシデントが起きても、それに耐えられるように設計していくしかないのである。

完全なセキュリティ対策など存在しない。100%の安全はない。


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