憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記

2003 年 12 月

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女性の「御主人様」の存在可能性 (2003-12-01)

女性の「御主人様」の存在可能性

女性のほとんどは、セックスを「征服欲をみたすもの」と考えてはいない。

SM診断

SM診断」というものを知ったので、さっそくやってみた。診断結果は、次のとおり。

あなたは本物の「マゾヒスト」でございます

あなたはご自分が「マゾヒスト」という事に気づいておりますね。一日も早くあなたが信頼できる「御主人様」をみつけだし調教をしていただき、あなた全てをコントロールしていただき「御主人様」の理想的な「奴隷」として奉仕しあなた自身の心を癒しましょう。

詳細:マゾヒスト度・88%

結果は、マゾヒスト度88パーセントだった。これについて、否定はしない。

サディズム傾向のある友人(独身男性)にやってもらったら、サディスト度83パーセントという結果になった。意外と的中するのかもしれない。

御主人様の存在確率

『一日も早くあなたが信頼できる「御主人様」をみつけだし』という診断結果を得た以上、御主人様足りえる人間がどの程度存在するのか、気になるだろう。

NHKが行った全国調査(この日記では毎度おなじみだが)によると、セックスを「征服欲をみたすもの」と考えている人は、比較的男性に多く、女性には少ないということがわかっている。

20代の男性・女性の回答結果をグラフにした。質問内容は、「あなたにとってセックスとはどういうものですか。(複数回答可)」というもの。

男性に多い「征服欲」

回答項目には、他にも「愛情表現」「ふれあい」などがあったが、ここでは省略した。グラフを見てみると、男性に多いのが、

  • 快楽
  • ストレス解消
  • 征服欲をみたすもの

の3つだった。

「征服欲」がサディズム傾向と完全に一致するわけではないが、重なる部分も多いと思う。男性は、やはり攻撃的なのであろう。女性の場合、「セックスは征服欲をみたすもの」と考えている人は、ほとんど存在しない。

したがって、マゾヒスト男性は、「御主人様」を見つけ出すことが確率的に困難である。逆に、マゾヒスト女性は、男性に比べると、「御主人様」を見つけ出すのは容易である。

マゾヒスト男性は、「御主人様」を見つけ出すことが、確率的に困難である。


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宗教の欠点と哲学と (2003-12-02)

宗教の欠点と哲学と

宗教は、教義に他の宗教との共存条件を示すことが難しい。これが宗教の欠点である。

ひとつにならなくていいよ

あいからわず、Mr.Childrenの『掌』を聴いている。なんといっても歌詞が好きだ。

昨今の緊迫した情勢のせいか、歌詞の次の部分が、反戦歌に聴こえる。

認め合うことができるから

ひとつにならなくていいよ

価値観も 理念も 宗教もさ

(Mr.Children『掌』)

「お互いそれぞれ違った存在で、お互いひとつにならなくても、お互いを認め合えばそれでよい」というのが、歌詞の主旨である。

個人のレベルでは、他者に危害を加えない限り、お互いに認め合えれば、それでよいと思う。しかし、宗教による国家や集団同士の対立は、お互いに認められない事が多い。

宗教が戦争の一因

人間が戦争をする理由は数多くある。その理由のひとつが「宗教」である。人々を救うはずの宗教が、人々を争いに駆り立て、人を殺している。

実際には世界には宗教がらみの戦争が多い。ユーゴスラビアでもパラスチナでも、インドの国内での騒動でも、人殺しは宗教がらみである。

「宗教さえなければ平和な暮らしができるのになあ」という嘆きの声が世界中から聞こえてくるような気がする。

宗教者はいつも「平和」を唱えているが、実際に宗教が世界に生み出しているものは、戦争であり、殺害なのである。

(加藤尚武『現代を読み解く倫理学』丸善ライブラリー 1996 p.79)

もともと資源の乏しい社会で、さらに宗教が異なれば、争いが起きるのも必然といえる。阪神タイガースの信者と読売ジャイアンツの信者のように、お互い対立するしかない。

せめて、宗教が共存条件を示しているなら、少しは戦争も減るだろう。しかし、現実には、自分のところの神様は「絶対」だし、他の宗教を認める人は、信仰心が薄いということになる。

平和や共存といった思想・哲学は、「宗教」と近いようで、実は遠い。西田幾多郎の、次の言葉を思い出す。

哲学と宗教は余りに近いので、仲々一つになれないのだ

宗教の欠点は、他の宗教との共存条件を示しにくいことである。


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霊の存在を認めない仏教徒 (2003-12-03)

霊の存在を認めない仏教徒

宗派にもよるが、仏教では、霊の存在を認めてはいない。

日本の宗教

昨日に引き続き、宗教の話題を。

日本の宗教事情は複雑である。ある調査では、信仰心をもっている日本人は、30パーセント程度しか存在しないそうだ。しかし、文化庁の調査によると、さまざまな宗教の信者数の合計は、2億1千万人を超すそうだ。1億2千万人しかいない日本に、2億人以上の信者がいるのである。これは、各宗教団体が、信者数を水増しして報告しているためである。「嘘をつかず、正直に生きなさい」と説く宗教団体も、自分の教団の信者数は、水増ししているのだろう。

また、日本人にとってはなじみの深い仏教も、誤解されることが多い。

  • 霊の存在
  • 霊によるたたり、呪い

など、テレビ番組のネタになるものは、仏教では否定的である。多くは、霊の存在を否定しているし、たたりなんてものは考えられないのである。(そもそも霊が存在しないのだから、たたることもできない)

「霊」について、仏教徒の見解

立命館大学の安斎育郎は、さまざまな宗派の仏教徒に対して、「霊」の存在についてのアンケート調査を行った。(詳しくは、『霊はあるか』講談社ブルーバックス 2002 p60〜)

「霊について、どのように説いているか」という質問に対し、

  • 「霊は実体を持った存在」
  • 「霊は人々の観念としては存在するが、実体を伴った存在ではない」

という肯定的な回答が得られた一方で、

  • 「霊は存在しない」
  • 「一切認めていない」
  • 「宗派としては霊の説き方を規定しないない」

という否定的な回答が多かった。

霊の存在に対する見解は、宗派によって、大きく異なっていた。また、同じ宗派でも、統一見解が存在しないため、僧侶によって回答が異なることもある。

日本の仏教における霊概念の現状を概括すれば、仏教界全体としては「混乱の極みにある」と言える。

(安斎育郎『霊はあるか 科学の視点から』 講談社ブルーバックス 2002 p.73,74)

このような混乱状態を、批判しているわけではない。平和で世俗化した社会の特徴とも言えるだろう。しかし、その混乱に乗じて、適当に教義をつぎはぎし、大きな事件を起こしたカルト教団があったことを、忘れてはならない。

宗派にもよるが、仏教では、霊の存在を認めてはいない。

(追記:『くまりんが見てた!』の12月3日の記事、「仏教に霊はない」で、この日の日記が引用されています。詳しい解説が参考になります。とくに織田無道ファン必見。)


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水子霊のトリック (2003-12-04)

水子霊のトリック

霊能力者が、病気や不幸を「水子」のせいにするのは、確率的に的中しやすいからである。

インチキ霊能力者

ドラマ『トリック』が面白い。前シリーズも、劇場版も見ている。売れないマジシャンの山田(貧乳)と、学者の上田(童貞)のコンビが、インチキ霊能力者の悪事やトリックを暴いていく物語だ。

インチキ霊能力者は、現代の日本に数多く存在する。霊感商法などで、大きな利益を上げている。ほとんどインチキなのだが、人々はインチキに気がつかず、なんでもない壺や御札に大金を払ってしまう。

典型的なのは、

  • 「家族に不幸が多いのは、水子のたたり」
  • 「病気になったのは、水子が成仏していないから」
  • というもの。(水子とは、流産したり中絶したりして、この世に産まれて来れなかった子どものことである。)

    自称霊能力者に、「あなたの肩には水子の霊がとりついています」と言われて、それが的中してしまうと、本人は驚いてしまう。「どうしてわかったのですか!」と驚嘆し、ついインチキ霊能力者を信じてしまう。

    しかし、これにはトリックがある。

    お前のやっていることは、全部まるっとすりっとお見通しだ

    NHKが数年前に行った全国調査の結果を見てみよう。(『データブックNHK日本人の性行動・性意識』2002 NHK出版)

    50代、60代の半数が中絶経験あり

    妊娠経験のある人に、「中絶したことがありますか。」という質問した結果、50代、60代の女性の半数が、1回以上中絶していることがわかったのである。

    50代以上の女性は、老後のための貯蓄も豊富で、詐欺師にしてみれば、良いカモである。彼女たちを狙わない手はない。そして、彼女たちに「水子の霊がとりついています」と言えば、かなりの確率で的中してしまうのである。霊能力など不要である。確率の問題だ。仮に的中しなくても、「姉妹や親戚の方で心当たりはありませんか?」と言えば、ほぼ間違いなくヒットしてしまうだろう。これが、インチキ霊能力者のトリックである。霊能力なんてなくてもかまわないのだ。

    的中してしまうと、「すごい!この方はなんでもお見通しだ!」と、ついうっかりインチキ霊能力者を信じてしまう。そして、ダンナに内緒で、老後の貯蓄をインチキ霊能力者にささげてしまう。

    科学的思考能力を失った専業主婦は、とくにカモにされやすい。占いや風水といった非科学的なものを愛好する人は、注意したほうが良い。

    中絶経験者が多いため、インチキ霊能力者のトリックにひっかかりやすい。


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    結婚と学歴の関係 (2003-12-05)

    結婚と学歴の関係

    女性は、自分と同じかそれ以上の学歴の男性と結婚する。

    クリスマスまで間に合う

    いつものようにasahi.comをのぞいてみたら、「クリスマスまでに見つかる! 理想の人」という宣伝文句のバナーが目に入った。べつにクリスマスに間に合うよう駆け込みで相手を見つけなくても良いと思うのだが。

    好奇心で、その結婚相談所のサイトにアクセスしてみた。男性会員のプロフィールの一部が公開されていた。そこには、年齢、年収、学歴が表示されていた。

    配偶者選択時(結婚相手を選ぶとき)には、「人柄」「性格」を重視する人が多い。「学歴」を重視する人は、ほんの数%しかいない。しかし、結婚相談所の会員プロフィールには、必ず学歴が書かれているし、入会を申し込むときは、学歴を記入するようになっているはずだ。本屋でもらった入会案内書には、「学歴」「年収」を書く場所があった。

    「学歴」を気にする人は少ない。しかしそれでも「学歴」は必ず書かなくてはいけない。

    同類婚の法則と上方婚願望

    同じ社会的地位(学歴・職業)の人同士が結婚することを、社会学では「同類婚」と呼ぶ。そして、社会の中で、統計的に「同類婚」の傾向が見られることを、「同類婚の法則」という。

    同類婚の法則:女性は自分と同じかそれ以上の学歴の男性と結婚する

    上の表は、学歴による同類婚指数である。夫と妻の学歴で、同類婚指数を求めた。もし、結婚が学歴と無関係ならば、数値は1になる。1より大きくなればなるほど、学歴による結びつきが強いことを意味する。

    データを見てみると、どの学歴の妻も、同じ学歴の夫と結婚している傾向が強い。とくに中卒は強い。大卒・大学院卒の女性も、同じ学歴の男性と結婚している人が多い。

    また、女性は上方婚(結婚によって社会階層・地位が向上する結婚)願望が強い。玉の輿とまでは言わないが、自分よりも高い学歴の男性と結婚する傾向が見られる。表で赤マルで囲った部分が、上方婚である。

    統計データを見ると、次のような傾向がわかる。

    • 同じ学歴の人同士が結婚する
    • 女性は自分より上の学歴の人と結婚する
    • 男性は自分より下の学歴の人と結婚する

    本人は気にしていなくても、結果的には学歴と結婚の間には関係が出来てしまう。したがって、結婚相談をビジネスとして考えた場合、学歴の情報は必要になる。

    星座や血液型よりも

    占いを信じ、血液型や星座によって相手との相性や恋人探しをしてしまう女性も多い。しかし、統計的に見てみれば、星座よりも、社会的地位である学歴の方が、結びつきは強いのである。恋愛中の本人が、いかに運命的なものを感じようと、運命の赤い糸を信じようと、マクロな視点で見れば、そんなものは存在しないに等しい。しいて言えば、「学歴こそが赤い糸」であり、それを裏付けるデータも存在するということだ。

    学歴主義を批判するわけではないし、そもそも結婚時に学歴を重視する人はあまりいない。しかし、本人たちは意識しなくても、結果として学歴と結婚に強い関係が出来てしまう。そのことが、面白い。

    女性は、自分と同じかそれ以上の学歴の男性と結婚する。


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    夫婦が出会うきっかけの場所 (2003-12-06)

    夫婦が出会うきっかけ

    夫婦の約1/3が、職場で出会っている。

    結婚と学歴が関連する理由

    昨日の日記「結婚と学歴の関係」では、女性は自分と同じかそれ以上の学歴の人と結婚する、と書いた。しかし、なぜ学歴と結婚が関連してしまうのか、その理由や原因までは触れなかった。フォローの意味もこめて、今日は結婚と学歴が関連する理由について、書くことにする。

    結婚と学歴が関係してしまう理由は、思いつくところでは、次の4つ。

    1. 出会いの場所は、職場や学校が多いから(環境的理由1)
    2. 同じ趣味を持つ人は、自分と学歴が近い(環境的理由2)
    3. 女性から見て魅力的に映る男性は、自分よりも高学歴(感情的理由)
    4. 夫に経済的基盤を求めるため、女性は自分より低い学歴の人と結婚しない(経済的理由)

    4は、過去に同様のことを述べたことがある。2と3は話が長くなるので、また別の機会に。今回は、1の理由について、証拠となるデータを提示したい。

    1/3が職場での出会い

    国立社会保障・人口問題研究所が行った第12回出生動向基本調査(2002年)のデータを見てみると、約1/3の夫婦が「職場や仕事で」出会っている。

    出会いのきっかけ。32.6パーセントが職場での出会い。

    「職場や仕事で」が、32.6%。「友人・兄弟姉妹を通じて」が29.7%。「学校で」が9.8%、となっている。

    学校で出会ったのならば、ほとんどが同じ学歴だろう。職場や仕事での出会いも、職場のレベルによって構成員の学歴は異なるので、職場での結婚は、学歴が同じになる可能性が高い。

    出会いの場に、同じ学歴の人が集まるため、同じ学歴同士の組み合わせが出来てしまう。大正時代の人は、恋愛結婚にたいして不信感を抱いていた。当時は見合い結婚が主流で、家柄を重視していた。もし恋愛結婚が広まり、人々が自由恋愛の果てに結婚してしまったら、社会の秩序が乱れてしまう。そう心配していた。しかし、見合い結婚が少数派となった現代でも、同じような身分の人と恋愛結婚するので、心配していたように社会秩序が乱れることはないのだ。

    大正時代の人が考えていたのは、完全に開かれた自由な恋愛であり、現代の日本で行われているのは、結婚を前提とした、ある意味不自由な恋愛ということにもなる。

    同じ学歴の人と結婚する人が多いのは、職場や学校での出会いが多いため。


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    終身結婚の崩壊 -ありふれた離婚- (2003-12-07)

    終身結婚の崩壊

    離婚はありふれている。結婚するときには、離婚も念頭におくべきである。

    本屋とクリスマスソング

    街なかの本屋でも、クリスマスソングが流れていた。本屋はクリスマスセールとは無縁だと思うのだが。本をプレゼントする人がいるのだろうか。欲しい本だったら、プレゼントされてうれしいが。

    なにはともあれ、12月はクリスマスの時期なので、今月は主に恋愛や結婚について書いていこうと思う。たぶん、みんな浮ついているだろうから。

    1分49秒

    厚生労働省の人口動態統計(平成14年)によると、結婚と離婚の平均発生間隔は、次のようになるという。

    • 42秒に1組の割合で、カップルが結婚している
    • 1分49秒に1組の割合で、夫婦が離婚している

    ちなみに、32秒に1人の割合で、人が死んでいる。

    結婚が42秒で、離婚が1分49秒。単純な計算だと、3組に1組が離婚する。どのカップルも、自分たちは離婚しないと思って結婚しているのだが、現実には多くの夫婦が離婚している。

    多くの夫婦が離婚しているが、なかには離婚できずに家庭内離婚状態の夫婦も存在する。結婚したカップルのうち、半分ぐらいは崩壊するか、あるいは崩壊したまま家族を維持しているのではないだろうか。

    離婚保険という可能性

    降水確率が30パーセント程度だと、私は折りたたみ傘を持って出かける。雨が降ってくるリスクを回避するためである。離婚の場合も同様に、離婚した場合のことを考えて、あらかじめ保険をかけておきたい。(追記:各個人が30パーセントの確率で離婚する、と言っているわけではない。[2003/12/8])

    社会学者の山田昌弘は、「離婚保険」という保険商品を提案している。

    世の中には現行の保険商品ではカバーできないリスクがまだまだある。その最たるものが「離婚」なのだ。夫婦が嫌いあっていて離婚したいのだけれど、稼ぎのある配偶者と別れて生活水準が落ちるのはいや。または配偶者に慰謝料を払うゆとりがなくて離婚できない。そうした家庭内離婚状態の夫婦がたくさん生まれている。自家用車を買うと必ず強制保険に加入させられるように、結婚時に離婚保険に入るというシステムができないだろうか。そうすれば、不幸せなまま一生を過ごさざるをえない夫婦の再出発のチャンスが広がるに違いない。

    (山田昌弘『家族のリストラクチュアリング』新曜社 1999 p.56)

    離婚保険ができれば、人は安心して結婚できるので、晩婚化に歯止めがかかり、結婚する人も増えるかもしれない。それが少子化対策にもなるだろう。しかし、山田自身、「離婚保険」は実現困難だと述べている。理由は、

    • 結婚しようとしているカップルが、離婚時の生活費を心配することは、ほとんどない。
    • 偽装結婚、偽装離婚に対処しきれない
    • 保険会社が、新婚カップルに、「離婚保険」の商品を勧めにくい

    などである。ドラマのネタ(『世にも奇妙な物語』など)にはなりそうだが、現実には難しい商品だろう。

    したがって、私たち自身で離婚のリスクを回避する策を立てなければならない。離婚保険が商品として存在しない以上、自分自身でリスク回避するしかない。離婚がありふれたイベントとなった以上、それを無視するのはあまりにも楽観的すぎる。離婚する可能性もありえるとした上で、結婚すべきだ。離婚した場合の人生設計を立て、不幸な人生を歩まないよう、努力しなくてはならない。

    離婚はありふれている。結婚時には、離婚も考慮しておくべき。


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    結婚と自殺の関係 (2003-12-08)

    結婚と自殺の関係

    「あなたなしでは生きていけない」は、一般に女性のセリフだが、実際に自殺する女性は、男性よりもはるかに少ない。

    クリスマスイルミネーション

    街を歩いていると、電飾が施された民家を見かける。もう世間はクリスマス一色なのか。そろそろケーキの予約でもしようか。

    さて、クリスマスにあわせてプロポーズを考えている人もいるかと思うので、今日は「結婚と自殺」の関係について書いてみることにする。

    結婚していると自殺しにくい

    未婚(独身者)と有配偶者(既婚者)を比較すると、未婚の人のほうが自殺しやすい。未婚で孤独ゆえに自殺するのか、それとも自殺しやすい性格だから結婚できないのか。いずれにせよ、結婚しているほうが、自殺はしにくい。

    結婚と自殺の関係。死別は自殺の誘因

    厚生省の自殺死亡統計によると、20〜29歳までの男女では、未婚者の方が自殺死亡率が高い。年代に変わりなく、全体的に結婚しているほうが自殺率は低い。

    また、すべての場合において、男性は女性よりも自殺率が高い。

    • 男性はストレスをため込みやすい
    • 女性は意外と図太い
    • 女性の自殺の方法が甘い

    などが理由としては挙げられる。

    あなたなしでは生きていけない

    もっと注目したいのが、「死別」「離別」による自殺率の高さである。20〜29歳の夫婦といえば、まだ愛情が冷めていない夫婦である。死別によるショックは相当なものだろう。自殺統計にも、はっきりと表れている。

    そしてさらに着目したいのが、男性の「死別」による自殺率の高さである。妻に先立たれた男性は、自殺に走りやすい。女性よりも圧倒的に男性の方が自殺してしまう。

    「あなたなしでは生きてはいけない」は、女性側のセリフだろう。しかし、女性は夫が死んでも、男性よりは圧倒的に生き延びているのだ。実際に「あなたなしでは生きていけない」を実行しているのは、男性側なのである。

    考えられる理由は、

    • 死亡保険金がおりて妻はウハウハ
    • 未亡人は、周りの人からケアされやすい
    • 男性の方が、ひたむきに妻を愛していた

    ぐらいだろうか。

    男性へのケア、周囲の人の心配りによって、自殺率を下げたいものだ。そして、女性はもっと男性を愛しても良いのではないだろうか。

    配偶者に先立たれた若い男性は、女性よりも圧倒的に自殺しやすい。


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    恋愛の6要素 -クリスマスの場合は- (2003-12-09)

    恋愛の6要素 -クリスマスの場合は-

    クリスマスにおける恋愛の主な要素は、「安定感満足要素」、「社会的地位達成要素」、「激情ゲーム要素」の3つである。

    戦場と聖なるイベントと

    イラクへの自衛隊派遣問題で世間が大騒ぎしている中、クリスマスや恋愛について書いてもいいものだろうか、と自問自答する。

    たしかに、イラク問題は重要だが、そんなことに無関心な若いカップルや、結婚相手探しに翻弄している人は、目の前の恋愛の方が大事だろう。良くも悪くも、東京がテロのターゲットになろうと、まだまだ平和な証拠である。(自衛隊問題は根深いので、本当は「恋愛」どころじゃないのだが・・・)

    恋愛の6つの要素

    世の中に恋愛論は数多い。その中で私が興味深いと感じたものを紹介したい。

    大阪経済大学の伊田弘行によれば、現在の日本では、恋愛はおおよそ6つの要素で構成されると言う。

    1. 広義の知的関係要素(価値観合致側面、おもしろ側面、人間的成長側面)
    2. 性的欲求合致要素
    3. 安定感満足要素(なじみ側面、孤独感回避、安らぎ側面、家族的きずな側面)
    4. 社会的地位達成要素
    5. 生活便利要素
    6. 激情ゲーム要素(恋愛神話内面化側面)

    以上、6つである。それぞれを簡単に説明する。

    1の「知的関係要素」は、話が合うなどの言語によるコミュニケーションによる部分。2の「性的欲求合致要素」は、相手が自分の好みかどうか、性的に興奮できるかどうか。3の「安定感満足要素」は、安らいだり、孤独を感じなくてすむこと。4の「社会的地位達成要素」は、相手と一緒になることで自分の社会的な評価が高まること。5の「生活便利要素」は、経済的に得をしたり、プレゼントをもらったり、車で送ってもらえたりすること。6の「激情ゲーム要素」は、ロマンチックな映画のような恋愛、物語の恋愛を実現すること。

    これら6要素はすべて幻想と言える。各人が成長し生活するなかで内面化した価値の体系であるが、人類共通の普遍的・絶対的価値ではないためである。これらのどれかが「本能」や「自然」である訳ではない。人それぞれである。そのあり方に「正しいもの」がある訳ではない。

    (中略)

    恋愛とはこれらの6要素を点数化したときの総合得点が高いときに発動する男女一体化幻想のことである。人によって、この要素のどこに重い比重をかけるかは異なる。人によって「恋愛」と言ってもその内容は異なるのである。

    (伊田弘行『シングル単位の恋愛・家族論』世界思想社 1998 p.161-162)

    おそらく、要素の重み付けや優先順位の違いが、カップルの間で「恋愛観」の違いになり、不和となるのだろう。「恋愛ってそーゆーものじゃないと思う」と自分の「要素の重みづけ」を相手に押し付ける人がいる。恋愛は幻想なのだから、人によってその内容は異なって当然なのだが、それがわからないようだ。

    クリスマスの場合

    クリスマスは、若いカップルにとっては一大イベントである。キリストに感謝するわけでもなく、恋愛の一つのイベントとして消費している。

    では、恋愛行動としてのクリスマスは、恋愛のどの要素に該当するのか。次の3つが、該当すると考える。

    • 安定感満足要素(孤独感回避)
    • 社会的地位達成要素
    • 激情ゲーム要素(恋愛神話内面化側面)

    クリスマスの日に一人でいるのが寂しくて、つい誰かを求めてしまう(安定感満足要素)。

    一般には、恋人はいないよりはいたほうが良いとされる。クリスマスの日に恋人と一緒に過ごすということで、人間の社会的な価値が保障される(社会的地位達成要素)。

    クリスマスという非日常的な場面で、ドラマや映画の物語を模倣し、自分自身が抱いている「恋愛物語」を達成させ、より激情する(激情ゲーム要素)。

    クリスマスに恋人と何かをしようとする人は、この3つの要素を満たそうとしているのだ。そしてその要素の比重は、人によって異なる。

    (非難しているわけではない。どんどんやってもらいたい)

    クリスマスにおける恋愛の主な要素は、「安定感満足要素」、「社会的地位達成要素」、「激情ゲーム要素」の3つ。


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    恋愛のメリット式 (2003-12-10)

    恋愛のメリット式

    恋愛関係を選択することで失うものもある。

    恋愛のコスト

    昨日の続き。再び、伊田弘行の『シングル単位の恋愛・家族論』の恋愛論を紹介したい。

    伊田は、恋愛にはマイナスの面・コストもあるという。恋愛のコストをまとめると、次の4つになる。

    1. つき合う時間によって、代わりのことができなくなるコスト
    2. 他の人との性的享受喪失、嫉妬、被干渉、裏切りなどのコスト
    3. 役割(尽くす役割、守る役割)による制約度
    4. その他、縛られるすべてのコスト

    4で「その他すべてのコスト」としているので、あまりうまくまとまっているとは言えないが、普段私たちが感じている「常識」を定式化しようとした試みは、評価して良いと思う。

    順に見ていくと、1は時間の問題。つきあえば、貴重な時間を失ってしまう。デートや電話、メールなどに時間がかかってしまえば、ほかの事はできなくなってしまう。

    2は、他の人とセックスできなくなったり、相手に「裏切られ」てしまって深く傷つく危険性があるというマイナス面。

    3は、強制されてしまう役割である。男性が食事をおごったり、女性は下手でも料理をしなくてはいけないような役割が期待されてしまうというマイナス面である。

    もっとも基本的なコストでもある金銭が、1〜4のどれに該当するのかわからないのが、この「恋愛のコスト」の難点だろうか。

    恋愛のメリット度

    恋愛のメリット式は、「恋愛の要素÷恋愛のコスト」である。恋愛の要素は昨日書いたとおり。恋愛の要素は、次の6つになる。

    1. 広義の知的関係要素(価値観合致側面、おもしろ側面、人間的成長側面)
    2. 性的欲求合致要素
    3. 安定感満足要素(なじみ側面、孤独感回避、安らぎ側面、家族的きずな側面)
    4. 社会的地位達成要素
    5. 生活便利要素
    6. 激情ゲーム要素(恋愛神話内面化側面)

    この要素をコストで割ったものが、恋愛のメリット度になる、と伊田は言っている。

    いくら先の六点の総合点が高くとも、これらのマイナスの要素が大きくなると、そのプラスは帳消しになる。過度に干渉されたり、めちゃくちゃ時間やお金をとられて生活していけなくなると、いくら好きな人でもいやになることがあるというようなものである。

    (伊田弘行『シングル単位の恋愛・家族論』世界思想者 1998 p.162)

    恋愛はメリットでするものではない?

    「恋愛はメリットとかコストで計れるものじゃない」という反論がある。私も、現実には、メリットやコストを意識することはあまりない。だが、それは認識の問題であって、コストやマイナス面があることを否定するものではない。

    恋愛中、とくに激情ゲーム要素が高いときは、相対的に見てコストは小さいので、無視できてしまう。だから人は「コスト」や「メリット」なんてものを気にしていないだけだ。相対的に小さいから無視しているだけで、実際には時間も金もかかるし、他のさまざまなコストやマイナス面もあるのだ。

    最初は喜んで買い物につきあったりメールや電話をしていたが、徐々に愛情が冷めていくにつれて、相対的にコストが大きくなり、本人はコストを意識するようになる。「時間の無駄」「金の無駄」と考えるようになって、破局への道を歩むことになる。

    もし関係を長続きさせていならば、相手に負担(コスト)をかけすぎないよう、気をつけるべきである。当人の状態によって、コストの自覚も変わるのだから。

    恋愛によって失うものも多い。その事実を認識すべきだ。

    Yas的日常

    会社で風邪をうつされる。前の席の人が風邪を引いているのに、マスクもつけずにセキを連発。後ろの席の人も同じだった。風邪引きにはさまれ、ウィルスにやられた。熱っぽい。


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    戦場での命の優先順位 (2003-12-11)

    戦場での命の優先順位

    戦場において、軍医は、重傷者よりも軽傷者を優先的に治療しなければならない場合がある。

    デスマーチ突入か

    来年は忙しくなるかもしれない。現在作業を進めているプロジェクトが、混乱の様相を呈してきた。このままでは、デスマーチ(死の行進)に突入するかもしれない。

    そこでひさしぶりに『デスマーチ』というソフトウェア工学の名著を読み返してみた。今のプロジェクトにも当てはまることが書かれていて、不安感が煽られる。

    その本によれば、プロジェクトには「リスク管理」と「トリアージ(triage)」が必要で、この2つがしっかりしていないプロジェクトは、デスマーチに陥りやすいという。「リスク管理」はよく聞くが、「トリアージ」は耳慣れない言葉だ。辞書的な意味は、「戦争・災害などの特殊な状況下で、負傷者の治療優先順位を選択すること」である。つまり、ソフトウェア開発という資源が限られた状況で、何を切りすてて、何が必要なのかが選択できているのかが重要なのだ。あれもこれも必要で、ソフトに組み込まなければならない、というのでは、プロジェクトは破綻しやすい。

    重傷者よりも軽傷者を優先

    トリアージを、もう少し深く掘り下げてみたい。

    アメリカの公式な軍医学ハンドブック(1958年)によると、治療の優先順位は次のとおり。

    1. すぐに軍務にもどせる軽傷者
    2. 早急に蘇生措置あるいは外科手術を必要とする重傷者
    3. 「回復の見込みがない重傷者」あるいは到着時に死亡している者

    重傷者よりも軽傷者を優先することが、私たちの日常と異なる。

    適切な場所と時間に「最大多数のための最大の幸福」と定義される軍医学の目標にしたがって、軍医は生存の見込みがある者のみの治療に力をつくすべきである。

    軽傷者を真っ先に治療するのは、快復後、戦闘配置につくことができるからだろう。命は大事だが、戦争に負けてしまっては意味がない。また、国の戦闘力が落ちれば、相手に攻撃されたときに反撃できない。その結果、犠牲者を多くだしてしまう可能性がある。したがって、軽傷者から優先的に治療していくことは、国の利益を考えれば、善い行いなのである。

    たとえば、「ちょっとだけ壊れたザク」と「大破したザク」が運ばれてきたとしよう。自分が指揮官だったら、どちらを先に修理するよう命じるだろうか。戦略的には、まずはちょっとだけ壊れたザクを修理して、戦闘配置につけるようにするのがベターだろう。人間とて兵力にすぎないのだから、軽傷者から治して、戦闘体制を整えるのだ。

    現在のトリアージがどうなっているかはわからないが、1958年の段階では、このルールが適用されていた。

    日本の自衛隊では、どのような優先順位になっているのか、わからない。調べ切れなかった。「状況を見て判断する」というルールしかなかったら、シャレにならない。

    戦争時には、重傷者より軽傷者を先に治療する場合がある。


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    もし10人のエイズ患者に特効薬が1つだけだったら (2003-12-12)

    もし10人のエイズ患者に特効薬が1つだけだったら

    「10人のエイズ患者がいて特効薬が1つしかなかった場合、誰に渡すべきか」という倫理的な問題がある。これを、平等・公平に解決する方法は、「誰にも渡さない」ことである。

    救急医療のトリアージ

    昨日の日記で、トリアージ(負傷者治療の優先順位)について触れたところ、「ちりんの部屋:最北医学生の日常」のちりんさんから、救急患者のトリアージについてメールをいただいた。

    病院のスタッフの数に対して、救急患者の数が多いときの優先順位は、次のようになる。

    • 手を尽くしても助けられない人には何もしない
    • 放っておくと死ぬけれども、すぐ手を尽くせば助かる人をまず最初に
    • 放っておくとよくないが、とりあえず少しは待てる人を次に
    • 放っておいても死なない人は後回し

    日常生活の中で私たちが意識することはないが、医学界ではトリアージはメジャーらしい。阪神大震災のときも、負傷者治療の場面では、トリアージが行われていたという。

    もし10人のエイズ患者に特効薬が1つだけだったら

    資源が限られていて、全員に配分ができないときも、優先順位をつけて配分しなければならないだろう。災害・戦争時には、薬が不足したり、医者という人的資源が不足したりする。

    しかし、誰に配分するのが正しくて善いことなのかが決められないケースもある。たとえば、「10人のエイズ患者に対して、特効薬が1つだけしかなかった場合、誰に渡すべきか」という問題がある。誰に配るのか、どういう方法で配るのが良いのだろうか。

    • 多数決で決める
    • くじ引きで決める
    • もっとも社会に貢献する人に与える
    • 誰にも渡さない。(もしくは10等分して全員死ぬ)

    などの方法が考えられる。

    「多数決」の場合、たとえば中国人9人、日本人1人だった場合、日本人は間違いなく選ばれないだろう。逆に、中国人1人、日本人9人だったら、中国人は間違いなく選ばれない。少数派にとって不利になってしまうので、多数決で決めるのも、問題がある。

    「くじ引き」はどうか。一見すると平等に思える。しかし、たとえば1人の男性が連続強姦事件の犯人で、残り9人が強姦の被害女性だったらどうだろう。もし強姦魔の男性が当たりくじを引いた場合、犯罪者が生き残り、被害者が死んでしまう。また、たとえば9人が死刑が確定している死刑囚で、残り1人が未来ある少年だった場合、くじ引きで決めるのが良い方法だろうか。

    「もっとも社会に貢献する人に与える」方法は、社会全体の利益を考えると、良い方法だと思う。10人の中に天才外科医がいれば、その1人を救うことで、その外科医は多くの人間を助けることができる。しかし、社会的貢献度を誰が判断するのか、また出来たとしても、社会に貢献できない人間は死んでも良いのか、という問題が残る。

    平等という恐ろしさ

    誰に特効薬を渡すのか、という問題で、もっとも平等な解決方法は、「誰にも渡さないこと」あるいは「10等分して渡し、全員が死ぬ」という方法である。誰も助からないので、平等だ。これ以上の平等はない。

    私はこの平等主義を支持しないが、実際にこれと似たような判断が行われたことがある。阪神大震災の時、ある避難所に支援物資が届いた。しかし、避難所に避難している人数よりも、支援物資の数が少なかった。全員に配れるだけの物資が無かったのである。その時、避難所のリーダーは、「全員に配れないなら平等じゃないから」という理由で、物資を返してしまった。

    かたくなに平等思想を重視したのか、避難所でのよけいなトラブルを避けたかったのか、詳しいことはわからない。しかし、避難している人のなかには、救援物資を必要としていた人もいただろう。それを平等じゃないからといって配分しないことは、良いことなのだろうか。

    「平等」というものを疑ってみることも、必要だと思う。

    資源が限られているときは、「誰にも配分しない」のが平等になってしまう。


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    なぜクリスマスに独りだと寂しいのか (2003-12-13)

    なぜクリスマスに独りだと寂しいのか

    クリスマスに独りで寂しいと感じるのは、他人の集団と比較しているからである。

    横浜で

    横浜でクリスマスのための買い物。市営地下鉄では、車両の全席が「優先席」になっていて、若者が座りにくくなっていた。

    それはさておき、横浜もすっかりクリスマスムードだった。プレゼント用商品の売り出しに必死だ。とくに贈る相手もいないので、私にはあんまり関係ない。来年のための参考にとどめておくとする。

    なぜ不満を感じるのか

    クリスマスのときに「孤独」だと、寂しい感じがする。仕事で忙しいなら、まだ救いがあるが、これが週末だったり休日だったりすると悲惨だ。幸い、今年は平日でよかった。

    ところで、なぜクリスマスに独りだと、寂しいと感じるのだろうか。

    「人の不幸は蜜の味」という言葉がある。これは事実だと思う。芸能人のスキャンダルなど、不幸を伝えるニュースは、大衆に満足感を与える。だから週刊誌が売れる。

    これは裏を返せば、「他人の幸せは自分にとって苦い」ということを意味する。冬のボーナスで、100万円もらったとしよう。100万円のボーナスで、あなたは喜んだ。ところが同僚に話を聞いてみると、他のみんなは200万円のボーナスをもらっていて、100万円はあなただけだった。普通の人なら、不満を抱くだろう。

    逆に、100万円のボーナスをもらって、まあこんなもんかな、と思っていたとしよう。同僚に話を聞いてみたら、みんな20万円しかボーナスをもらっていなかった。100万円もらっているのは、あなただけだった。普通の人なら、この支給額に満足するだろう。

    つまり、客観的に自分が何を得ているのかではなく、他人と比較することで、満足・不満足が決まるということである。

    相対的剥奪

    「人が自分の置かれている状況を、客観的基準ではなく、他の人との比較においてマイナスであると感じている状態」を、相対的剥奪(relative deprivation)と言う。

    人は自らの行動や態度を決定するさいに、その指針となる係留点を必要とする。この係留点が、とりわけ評価の基準点となる場合、人はその基準点として採用する個人や集団と自己とを比較することによって、満足を覚えたり、不満を抱いたりする。

    (『命題コレクション 社会学』「準拠集団と相対的不満」)

    つまり、恋人のいない女性が、クリスマスに寂しいと感じる理由は、

    • 恋人がいなくて寂しい
    • 周りの人には恋人がいるのに自分には恋人がいないという状況が寂しい

    のどちらかか、もしくは両方である。

    人は、他人との比較の中で、生きているのだ。

    人は同じ状態でも、他人と比較することで、幸せになったり不幸になったりする。


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    消費税は年金の財源となりえるか (2003-12-14)

    消費税は年金の財源となりえるか

    消費税を払っても、その消費税がお店の利益になっている事が多い。

    年金・自衛隊・クリスマス

    みなとみらいで買い物をしたのだが、周りがカップルばっかりで鬱になった。世の中クリスマスだといって浮かれてばかりではいられない。

    • イラク自衛隊派遣
    • 年金
    • クリスマス
    • 広末妊娠

    など、話題には事欠かない。

    消費税の問題点

    討論番組などでは、「年金の抜本的改革」が叫ばれている。抜本的改革のひとつの案は、年金の財源を消費税によってまかなうというもの。消費税であれば、年金未納者の問題が解決する。現在、自営業者やフリーターのなかには、年金を納めていない人が多い。消費税で年金保険料を納めるようになれば、逃れることはできないので、年金未納者の問題は解決する、という主張だ。

    理屈で言えば、たしかに「消費税」を年金財源とするのは、悪くない案だ。しかし、消費税を納めていない事業者も多いのである。今度の消費税改正で改善されるが、改善によって増える消費税の税収は、6200億円になるという。私たちは商品を買うときに消費税を払っているのだが、6200億円以上もの消費税が、国の収入とならず、事業主の利益になっていたのだ。

    益税という未納

    事業者の手元に残る、消費者から預かった消費税のことを、「益税」と言う。事業者の手元に残るということは、事業者の利益になるということだ。

    制度によって、年間課税売上3千万円以下の事業者は消費税納税が免除される。これにより「益税」が発生する。事業者は国に税金を納めなくても良いが、客からはしっかり消費税を取っている。そのため、消費税のぶんだけ、店の利益になっていた。

    今度の改正で、免税対象が3000万円以下から1000万円以下に引き下げられることになる。ようやくまともになったと言うべきだろう。今までが甘すぎたのだ。

    免税点引き下げで新たに約137万社が課税業者となり、簡易課税制度の上限引き下げで、適用除外となる企業も約56万社にのぼるとみられ、財務省はこの改正で年6300億円の増収と試算する。裏返せば少なくともそれだけの益税があったということだ。

    (『投資Web』「検証・税制改正 負担の行方【3】消費税、来年度から軌道修正」)

    消費税で年金はまだ早い

    消費税制度もまだまだ問題が多く、税金を回収しきれない。年金財源を消費税にしたからといって、年金未納者の問題が解決するわけではない。今度は新たに消費税未納事業者の問題が出てくるだけだ。

    消費税を年金の財源とするならば、まず消費税のシステムを固めないといけない。

    消費税を年金財源とするのは、時期尚早である。


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    「クリスマス中止のお知らせ」 (2003-12-15)

    「クリスマス中止のお知らせ」:事実否定と価値否定

    人は悔しさを感じたとき、その悔しさを解消するために、事実を否定するか、価値を否定する。

    クリスマス中止

    なぜクリスマスに独りだと寂しいのか」へ『カトゆー家断絶』他からリンクが張られ、アクセスが一時急増した。また、クリスマスに関連して「重要:クリスマス中止のお知らせ」という画像ファイルへのリンクを張っているサイトもいくつかあった。文章と画像が面白い。

    ****重要****

    「クリスマス中止のお知らせ」

    2003年12月25日に開催予定のクリスマスは諸事情により中止となりました。本決定により、クリスマスイブも中止になります。中止、ならびに本告知が遅れたことにつきまして、楽しみにしておられた方々、及び関係者各位には謹んでお詫び申し上げます。

    サンタが死んでしまって、クリスマスが中止になったようだ。

    事実否定と価値否定

    悔しさを感じた場合、人は

    • その事実を否定する(事実否定)
    • その価値を否定する(価値否定)

    のどちらかを行う。心の中で自分に言い聞かせる場合もあるし、言葉で相手に言い聞かせることもある。

    事実否定

    たとえば、ある勝負事(ゲーム)をして、あなたが負けてしまったとしよう。負けて、ものすごく屈辱感を味わっている。人間の心は弱いので、事実を否定する。

    • 自分の調子が悪かった。運が悪すぎた。(実力なら上で、本当なら自分の勝ちだ)
    • 自分は本気で勝負していなかった。(本当なら自分の勝ちだ)
    • ルールに問題があるし、相手もズルをしている。(正しく勝負したのなら、本当は私が勝っている)

    このように、勝負に負けた事実を否定する。本当ならば勝っていた、とすることで、心が安定する。

    価値否定

    もうひとつの否定の対象が、価値である。さっきの例の場合だと、勝負の勝ち負けの勝ちを否定してしまうことだ。

    • 大切なのは勝ち負けじゃない。(勝負そのものの価値を否定)
    • 参加することに意義がある。(勝負そのものの価値を否定)
    • 負けることが何だというのだ。(負けることの価値を否定)

    ごく普通に考えれば、負けるよりも勝つほうが良い。しかし、人は悔しさを感じたとき、その価値そのものを否定することで、精神の安定を図ろうとする。

    人は誰しも自分をごまかす

    「クリスマス」というイベントで感じる屈辱感を解消するために、悔しさを感じている人は事実を否定したり、価値を否定したりする。「クリスマス中止」と言ってみたりするのも、一つの典型だろう。

    こうした「自分自身の誤魔化し」は、人間なら誰しもやっていることだ。意識的にやる場合もあるし、気がつかないうちにこの思考パターンが身についてしまっている人もいる。

    仕事で失敗したとき、受験で落ちてしまったとき、失恋したとき、通信販売で買った商品が思っていたより使えなかったとき、回転寿司で取ろうと思っていた寿司が隣の客に取られてしまったとき・・・。

    人の心は弱く、社会でのイベントは残酷だ。だから人は、その残酷さを否定しなければ、生きていけない。大人になるということは、自分をうまく誤魔化せるようになるということだ。子どもは「事実否定」や「価値否定」がうまく出来ない。だから泣き出してしまう。

    自分が悔しさを誤魔化したときに、自分が事実と価値のどちらを否定したのか、考えてみると面白い。どこか冷めた視線で、自分を見つめることができるかもしれない。

    人は悔しさを感じたとき、事実を否定するか、価値を否定する。


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    ベッド上での騙しあい (2003-12-16)

    ベッド上での騙しあい

    男女がひとつになっても、お互いを騙していることが少なくない。

    てのひら

    回転寿司で寿司を食べてたら、BGMにミスチルの『掌』(てのひら)が流れてきた。気分が鬱になる。

    『掌』をネタにして、日記をいくつか書こうと思っていたのだが、なかなか書くチャンスがなかった。旬の歌じゃなくなってしまうので、今のうちに書きたいことは書いておきたい。

    だけどひとつになりたくて

    解り合えたふりしたって

    僕らは違った個体で

    だけどひとつになりたくて

    暗闇で もがいて もがいている

    (Mr.Children『掌』)

    解り合えたふりをしていても、自分たちは違った個人だ。だけどひとつになりたいんだ。という歌詞である。

    ひとつになりたい(=セックスしたい、理解し合いたい)という気持ちは、ほとんどの人にある欲望だろう。だが、ひとつになっても(=セックスしても)、理解し合えたわけではなく、むしろ相手を騙していることも多いのである。

    女性の6割が男性を騙す

    興味深いNHKの全国調査の結果がある。セックスの経験者に対し、「今までに絶頂感(射精やオーガズム)に達したふりをしたことがありますか?」という質問を行ったところ、20代、30代女性の約6割が「はい」と答えたのである。なんと、6割もの女性が、相手の男性を騙した経験があるのだ。

    女性の6割がオーガズムに達したふりをしたことがある。

    男性は、「はい」と答えた人が少ない。身体の構造上の問題(騙すことが難しい)だろうか。「はい」と答えた人は、「途中で面倒になったから、射精したふりをした」のだと考えられる。

    注目したいのが、女性の「はい」と答えた人の割合の多さだろう。20、30代では約6割である。世慣れたフェイクなのか、相手へのおもいやりなのか。NHKの調査では、理由までは質問していなかったので、詳しいことはわからない。

    考えられる一つの理由は、「セックスは気持ち良くなければならない」という規範意識や幻想の影響だろう。

    19世紀が「恋愛幻想」を育てたとすれば、20世紀は「セックス幻想」を育てた。セックスというものがものすごい快楽であり、ひとはすべからくその営みをすべきであり、恋人同士は体が結びつくことによって一体となる、という幻想である。

    しかし、セックスというのは小説や映画や、ましてポルノグラフィーに描かれるような物凄い快楽では必ずしもないのだ。まあ、自分にとっては最高の快楽だと言うひともいるかもしれないが、誰にとってもそうだというわけではない。男にとっては重労働だし、女にとっては必ずしも快楽が得られない、ということは『モア・リポート』などで明らかにされている。

    それは男が下手だからとか思いやりがないからだとか説く本がたくさん出ているけれど、何もセックスが快楽でなければならない理由などない。

    (小谷野敦『恋愛の超克』角川書店 2000 p.69)

    小谷野が指摘するように、「何もセックスが快楽でなければならない理由などない」のだ。しかし、調査結果を見てみると、「セックスは快楽でなければならない」と思っている女性が多いようだ。

    解り合いたくて、ひとつになりたくて、男と女がひとつになったとしても、それでもやっぱり「解り合えたふり」をしているだけなのだ。

    女性の多くは、ベッドの上で、男性を騙している。


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    欲しがるから手に入んなくて途方に暮れる (2003-12-17)

    欲しがるから手に入んなくて途方に暮れる

    社会が豊かになって欲しいものがたくさんできたがゆえに、手に入らなくて絶望する。

    欲しがるから途方に暮れる

    昨日ミスチルの『掌』について書いた。聴き返すと、やっぱり良い曲だな、と思う。そんなわけで、今日も『掌』について。(この歌からはいくつもネタが拾えそう)

    夢見てるから儚くて

    探すから見つからなくて

    欲しがるから手に入んなくて

    途方に暮れる

    (Mr.Children『掌』)

    現代の日本人の多くが、欲しいものが手に入らなくて途方に暮れた経験があると思う。途方に暮れた末に自殺にまでいたってしまうこともあるだろう。

    資本制では、人びとは物を欲して消費しなければ、社会は発展しない。それゆえ社会は、人びとに対して、欲望を喚起させる。クリスマスもひとつの例だろう。クリスマスというイベントは、大きな経済効果をもたらす。サンタからの最大の贈り物は、実は消費活動を通して、貨幣を循環させることだと思う。もちろん、本人はそんなことは意識していなかっただろうけど。

    豊かになると自殺が増える

    経済的に苦しくなると、人は自殺しやすくなる。これは容易に想像がつく。しかし、逆に経済発展を遂げた社会で、人びとが豊かになったのに、自殺が増えるということもある。このことを明らかにしたのが、デュルケムの『自殺論』である。

    デュルケムは、統計的に見て、経済発展を遂げた社会で自殺が増加していることに着目した。常識的に考えれば、豊かになれば自殺は減ると考えられる。しかし、現実はそうではない。そこでデュルケムは、豊かになったために人びとの欲望が高まるが、手段が限定されていてその欲求が満たされないため、自殺してしまう、と考察した。つまり、多くの人が「欲しがるから手に入んなくて途方に暮れる」状態になってしまったのだ。

    手のとどかない目的を追い求めるならば、人は果てるところのない不満の状態をもって罰せられる。

    (中略)

    みちたりた状態に永久に到達しえず、またほの見える理想にも近づくことができないとき、未来はいったい過去以上のなにを人に与えることができようか。

    (デュルケム『自殺論』中公文庫 p.303)

    そしてデュルケムは、「貧困が自殺を抑止する」と結論づけている。

    欲しがらなくてはいけない時代

    現代日本は、何かと「欲しがらなくてはいけない」時代だ。車や家などの商品から、愛情や夢といった抽象的で無限の欲望をかきたてるものまで、あらゆるものが「素晴らしいもの」で、手に入れることが素晴らしい人生なんだ、という価値観が広く流通している。愛や夢を否定できる人が、今の日本にどれだけいるだろうか。

    これはもちろん資本制にとって都合の良い信念である。こうした考えが人びとの間にあるからこそ、経済発展が期待できる。

    しかし、欲望がいくら刺激されても、手段は限られているし、達成できない欲望も多い。それでも社会は自らの発展と維持のため、人びとに欲望や願望の達成を強制する。それゆえ、慢性的に多くの人が、「欲しがるから手に入んなくて途方に暮れる」状態に陥ってしまう。

    豊かな日本のなかで、人びとは途方に暮れながら、社会を動かし続けている。

    豊かになると、人びとは「欲しがるから手に入んなくて途方に暮れる」状態に陥る。


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    専業主婦が引き上げる年金保険料率 (2003-12-18)

    専業主婦が引き上げる年金保険料率

    専業主婦が年金保険料を納めないため、年金保険料率は高くなる。

    年金改革

    厚生年金の保険料率の上限は、18・35%に落ち着いた。ここ数日は、小数点以下の激しい攻防が繰り広げられ、ニュースでも大きくとりあげられた。

    保険料の未納者や免除されている人が多く、年金の問題のひとつとなっている。

    • 第1号被保険者のうち、300万人以上が未納者
    • 専業主婦(第3号被保険者)が1000万人以上いて、保険料を払っていない。

    この2つが、大きな問題だろう。

    そして専業主婦に多いのが、自分の夫が自分の保険料を納めている、という勘違いだ。専業主婦(第3号被保険者)の保険料は、独身男性や共働きの女性なども負担している。自分が多くの人間に依存した存在だという自覚すらない専業主婦が、少なくない。

    年で数万円は専業主婦のために

    独身男性サラリーマンは、専業主婦のぶんまで、保険料を負担している。ではいったいどの程度保険料を負担しているのだろうか。

    駒村康平の『年金はどうなる -家族と雇用が変わる時代』(岩波書店 2003 p.138)によると、3号保険者(専業主婦)に保険料負担を求めた場合、厚生年金の保険料は、現時点での計算で、1.1%低下する。これは『厚生年金・国民年金数理リポート』によって算出された数字である。そして将来、2015年には、1.5%の低下になるという。

    専業主婦が保険料を払った場合、支払い義務のある被保険者の負担が、1.1%の低下する。裏を返せば、独身男性会社員は、専業主婦のぶん、1.1%余計に保険料を納めているということだ。

    保険料は会社と折半だから、単純に年収の1.1%にはならない。しかし、折半ということを考慮しても、年に数万円程度、独身男性は専業主婦のために保険料を多く支払っているのである。この負担は、専業主婦の夫も、独身男性も、共働きの女性も同じ。年収によって変わるだけで、基本的に負担率は同じである。年間数万円という金額は、決して安いとは思えない。

    そして、専業主婦の夫も負担率で言えば独身男性と同じなので、夫は年間数万円しか妻のぶんの保険料を払っていない。「夫が妻のぶんまで保険料を払っている」なんて考えは、とんでもないのである。まったく足りていないのだ。

    保険料を納めるべきか

    心情的に、不公平感をなくすため、専業主婦にも保険料を負担して欲しい。だが、社会保障の原則からいって、支払い能力のない人間に社会保障費を負担させることは、難しいようだ。

    せめて、専業主婦は、自分の置かれている状況というものを理解して欲しい。

    専業主婦が、年金保険料率を引き上げている。


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    なぜ年金制度が存在するのか (2003-12-19)

    なぜ年金制度が存在するのか

    年金制度は、万が一うっかり長生きしてしまうリスクを回避するための制度である。

    平均で考えてはいけない

    年金の抜本改革が叫ばれている。専業主婦(第3号被保険者)など、問題は山積みである。だが、抜本改革以前の問題があると思う。それは、国民の年金に対する認識である。

    「年金は損か得か」とか、「払った分が帰ってくるか来ないか」という話題がよくなされる。だが、損するか得するかは、本人の死亡時期次第である。

    人口動態調査(平成14年)の死亡統計を見てみよう。

    平成14年年齢階級別死亡数

    縦軸が死亡者数で、年齢階級別に死亡者数を表した。赤い線が平均寿命だと思って欲しい。

    まず、確実に損をする人は、年金給付前に死亡する人である。データを見ればわかるとおり、多くの人が年金給付前に死んでいる。年金保険料を払うだけ払って、もらう前に死んだので、本人はお金を受け取っていない。年金制度の立場から見れば、この人はもっとも社会に貢献した人である。

    今度は、平均寿命を超えたところの死亡者数を見てみる。90歳以上で死亡している人も、かなり多いことがわかるだろう。長いあいだ年金給付を受け、そして死んだ人だ。この人たちは、年金がなければ、ここまで長生きは出来なかっただろう。30年もの間、貯金をくずすだけで生きていくのは、相当難しい。年金制度の立場から見れば、これらの人は、もっとも迷惑な存在である。負担が大きすぎる。(あくまで制度から見た場合)

    私たちは、平均寿命を元に、損だとか得だとかを考えがちだ。政策を立てる上では、数理上、平均寿命で計算する必要がある。だが、当事者である私たちは、平均寿命の年に死ぬわけではなく、現実にはもっと手前で死んだり、思ったよりも長生きしてしまったりするものなのだ。

    平均で考えてはいけない。

    長生きするリスク

    老後の生活保障が難しいのは、「人は自分が何歳で死ぬのかわからない」からである。自分が何歳で死ぬのかわかっていれば、若いときに貯蓄しておけば済む話である(インフレや資産運用のリスクは、ここでは考えない)。

    しかし、人間は突然に死んでしまったり、なかなか死ななかったりする。年金はこの「長生きしてしまうリスク」を回避するシステムなのである。「年金なんて損するだけだよ。郵便貯金でもしておいたほうがいいよ」と言っている人は、万が一長生きしてしまったらどうするのだろう。運悪く、100歳まで生きてしまうかもしれない。定年後の40年間もの生活保障を、貯金だけでまかなえるのだろうか。

    年金は、みんなで少しずつ負担することで、万が一長生きしてしまうリスクを回避する制度であって、決して豊かな老後を保障するものではない。

    社会保障の意味

    年金を損得論だけで考えていると、不信感や不満感が高まり、流言が飛び交い、制度そのものが破綻する可能性がある。年金の意義をまず再認識すべきだろう。

    幅広い市民福祉の時代である。社会保障には「損も得もない」ということ、誰にもふりかかる可能性のある生活リスクを、皆で連帯して解決する仕組だという原則を確認すべきだ。

    「損得論」だけで議論すると、結局は展望のない不毛な対立に帰着し、不満だけがのこって皆が生活不安におびえる結果になる。要するに皆が損をする。

    (岡本祐三『高齢者医療と福祉』岩波書店 1996 p.223-224)

    年金制度は、長生きしてしまうリスクを回避するためのシステムである。


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    推薦:『年金はどうなる』 (2003-12-20)

    推薦:『年金はどうなる』

    駒村康平の『年金はどうなる』は、年金についてわかりやすく解説した良書である。

    専業主婦の問題をどう解決するか

    2日前に、専業主婦(第3号被保険者)の年金保険料の問題について書いた。そこで『年金はどうなる』(岩波書店 2003)を引用したが、誤解してしまった方もいるので、この本への誤解を解いておきたい。

    駒村康平の『年金はどうなる 家族と雇用が変わる時代』は、中立的な立場から年金問題をやさしく詳しく解説した良書だと思っている。つい先日発売になったばかりで、情報も新しい。年金に関心のある人にオススメしたい一冊だ。

    駒村氏は中立的な立場で述べていて、決して専業主婦批判をしているわけではない。私は独身男性の視点から、ひとつの側面をとらえただけである。

    p.140以降で、年金検討会が提示した3号制度の見直し案について、解説がされている。年金検討会は、6つの見直し案を示した。

    • 賃金分割を行い専業主婦に定率負担を求める
    • 専業主婦に定額負担を求める
    • 専業主婦の定額負担を夫の所得から天引きする
    • 専業主婦世帯に割り増し保険料を求める
    • 高所得者に、保険料の追加負担を求める
    • 3号被保険者を、育児・介護期間中の被扶養配偶者に限るという仕組みを取り入れる。

    さまざまな案があり、どの案も根拠があるものだ。しかし、

    どの案も、それぞれメリット、デメリットがある。

    と、駒村氏は述べ、それぞれの案の長所と欠点を解説している。詳細は本を直接読んでいただきたい。ここでは、専業主婦問題を解決するような「特効薬」は存在しない、ということを理解してもらえれば良いと思っている。

    新聞の投書

    ある新聞の投稿に年金に関する読者の意見が載っていた。おおよそ以下のような内容であった。

    「私たちは、自営業の夫婦で、二人で月2万6600円もの保険料をがんばって支払っている。それなのに、サラリーマンの妻は保険料を支払わず、年金をもらえる。私たちが払った保険料がサラリーマンの妻のために使われるなど許せない。もう国民年金は払わない」というものだった。

    この本を読んでいただければ、この投書には誤解があることを理解いただけるであろう。

    (p.243 あとがきより)

    ニュースなどでは、将来の「お金」がどうなるかという点にばかり注目していて、社会保障や社会保険の意味は、あまり触れない。ニュースの「街頭インタビュー」では、必ずといっていいほど、「払っても損するんでしょ?」なんていう街の人の発言を放送し、大衆の不安感を煽っている。

    報道側の情報に流されてしまわない知識は、身につけておいて損はない。そのための1冊としては、駒村氏の『年金はどうなる』をオススメしたい。とくに、問題とされる人びと(専業主婦や確信犯で納めていない人)に、ぜひ読んでもらいたい。年金の仕組みや問題がすっきりするので、決して悪い気持ちにはならないと思う。

    駒村康平の『年金はどうなる』は、専業主婦に読んでもらいたい良書である。


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    「わかりやすい説明」の危険性 (2003-12-21)

    「わかりやすい説明」の危険性

    わかりやすい説明が、正しいことを述べているとは限らない。

    わかりやすい文章を

    オタクが社会に適応するための技術を研究されている「汎用適応技術研究」から、この日記へリンクが張られた(管理者様からメールを頂いている)。そのサイトの日記には、肯定的な文脈で、「わかりやすく見やすいので、ある種の危険があり、読者や注意深く読むならば面白い考察がある」と紹介されている。

    「ある種の危険」とは、読み手が私の考えをそのまま受け取ってしまったり、他の視点での考えを持たないことである。

    この危険性は、私も自覚している。このサイトの文章は、普段とは違った視点で物事をとらえ、短い文章量でわかりやすく書くようにしている。いつも達成できているわけではなく、あくまで目標である。

    わかりやすく、短い文章にするためには、

    • 主題を絞り込む
    • ある特定の立場の視点で論じる(たとえば独身男性)
    • 専門用語を使わない

    などの工夫が必要だろう。頭の中で考えたことを、そのまま文章にしてしまったら、ただ難解でまとまりのない文章になってしまい、読者は内容を理解する前に、文章を読んでくれない。

    しかし、上に上げた工夫をするには、どうしても情報や結論に至るプロセスなどを削らなくてはいけない。全部書いていたらキリがなく、読者も期待していない。わかりやすく書いてしまったため、基本的な情報が欠落し、結論だけが読者には読まれる。その結論も、ある特定の立場に立った場合の結論でしかなく、私もそれは自覚しているのに、読者は私が述べた結論が私の考えのすべてだ、と誤解してしまう危険性がある。

    わかりやすければ良いのか

    自分で自分の首を絞めるようだが、「わかりやすい文章」というのは必ずしも良いとは限らない。わかりやすくなっている分、どこかで情報が落ちていたり、ある立場を無視したりしているのだ。

    たとえ述べていることが間違っていたとしても、「わかりやすい文章」ならば、うっかり騙されてしまうこともある。タチが悪い。

    東京大学社会科学研究所助教授の玄田有史は、「わかりやすいこと」イコール「正しいこと」ではない、と述べている。

    複雑な社会を一刀両断に解説する経済本に読者の支持が集まっている。それにしても、経済や社会についての論議が、どうしてこれほど「わかりやすさ」を求めるものばかりになってしまったのだろうか。

    もちろん、理解してもらおうと、わかりやすく説明することを最初から破棄しているものは論外である。しかし、「わかりやすいこと」イコール「正しいこと」ではない。「わかりやすくありさえばすればいい」といった、誤った危険な傾向が、強まりありつつあるように感じるのは、少数ではないはずだ。

    (玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社 2001 p.18)

    たとえば「年金」や「自衛隊のイラク派遣」などの問題は、なかなかわかりやすく論じることが難しい。年金について何度か書いたが、簡単には論じきれないものがたくさんあって、とても私の力では手に負えない。

    簡単なことを、わざと難しく述べるのは、実は簡単だ。しかし、難しいことを簡単に言うのは難しく、そして誤解を生む危険性がある。書き手と読み手、どちらも気をつけなければならない。

    「わかりやすいこと」イコール「正しいこと」ではない。


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    大きな平和のための小さな戦争 (2003-12-22)

    大きな平和のための小さな戦争

    「未来の子どもを戦争から守れ!」とイラクへの自衛隊派遣に反対する人がいる。しかし、未来の平和のために、戦争をしなければならない場合もある。

    派遣反対運動

    ニュースで、イラクへの自衛隊派遣反対のデモを見た。「平和憲法を守れ」とか、「憲法違反」とか、「過去の過ちを繰り返すな」とか、さまざまな垂れ幕やプラカードを持って、道路を練り歩いていた。

    そのデモ行進のなかで、いかにもヒマそうな専業主婦が、「未来の子どもを戦争から守れ!」という垂れ幕をかかげていた。いかにも専業主婦らしい主張だ。子どものことで頭がいっぱいなんだろう。悪いことではないし、心情としては理解できる。

    だが、イラクへの自衛隊派遣に反対することで、本当に未来の子どもの安全が確保できるのだろうか。むしろ自衛隊を送り込んだ方が、長期的に見れば、日本が安全な状態に保たれるということもありええる。

    ふたつの平和

    「平和」を私たちは良いものとして教えられてきたが、平和とは何か、については教えられない。おおざっぱに言って、平和は次の2つにわけられる。

    • (A)一切の戦争がない状態。すべての戦争を否定する立場。
    • (B)小さな争いはあっても、最も多くの国民が、他国の脅威から安全であること。

    日本国憲法は、(A)の立場に近い。(B)の立場は、世界でみればスタンダードな考えだろう。日本も憲法9条の解釈を拡大させることで、(B)に近づこうとしている。

    (A)は、どんな理由があろうとも、「戦争」というのはいけないもので、やってはいけない、という思想だ。しかし、一切の戦争放棄する代わりに、他国からの侵略をゆるしてしまうリスクをともなう。「平和」と叫ぶだけでは「平和」はない。また、他国からの侵略を防ぐために、過剰な軍事力を持たねばならない。

    (B)は、わかりやすく言えば、「大きな平和のための小さな戦争」が許される「平和」だ。多少の犠牲は伴うが、国民の安全を最大化することが狙いだ。現実的な平和主義だと思うが、「大きな平和のため」という大義名分で戦争を起こし、それが大きな戦争に繋がってしまう危険性がある。

    未来の子どものために

    「未来の子どもを戦争から守れ」と平和を訴える主婦は、はたして(A)と(B)どちらの平和を願っているのだろうか。そんな深く考えずに、平和平和と叫んでいるだけだと思う。

    (A)も(B)も、どちらも正しく、そして危険性もある。自衛隊や9条が論争になるのは、このためである。どちらも思想としては間違っていないし、将来の危険の予測は、専門家によって異なる。意見がまとまるわけがない。

    それでも安全を守るために、不確実な未来を予測しつつ、政策をうたなければならないのだ。

    もっとも恐ろしい人は、意味もよくわからずに「平和」を唱えることしかできない人だ。

    戦争は平和の手段でもあり、戦争放棄によって戦火に焼かれることもある。

    (補足:今回の自衛隊派遣を、私は強く支持しているわけではない。また、「平和」や「安全」だけでは、戦争はとらえきれない。)


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    クリスマスという洗脳と企業戦略 (2003-12-23)

    クリスマスという洗脳と企業戦略

    某カフェにて

    クリスマスは、若い世代の人にとって、大きなイベントである。なぜクリスマスが必要なのだろうか。(写真と本文とに関係はありません)

    メディアのあおり

    クリスマスは、企業にとってみれば商売になるイベントである。クリスマスというイベントが社会で必要とされる理由のひとつは、企業がクリスマスによって利益を得ることができるからである。

    80年代以降、各種のメディアは、ある程度の年齢になったら恋人がいるのが当たり前だという、山田昌弘の表現を借りれば、「あおり」を盛んに行った。この「あおり」の中で、恋愛は個人的なものではなく政治的なものになりつつある、と言わねばならない。

    (中略)

    80年代以降の「恋愛へのあおり」は、明らかに「恋愛景気」を当て込んだ企業戦略なのである。

    (小谷野敦『恋愛の超克』角川書店 2000 p.64)

    「クリスマスのあおり」も、80年代以降、各種メディアが盛んに行った。ヒットしたクリスマスソングは、格好の手段だった。私たちは、それらの戦略に乗せられてしまっている。

    クリスマスというイベントで、企業は多くの利益を得ることができる。こうした政治的理由が、クリスマスが必要となる理由の一つである。

    物語の共有

    価値観が多様化した、と言われる。しかし、こと「恋愛」については、皆がその価値を認めている。恋愛は誰にでも出来て、恋愛のない人生はどこか寂しいものだ、という思想を、否定する人はほとんどいない。共有できる価値や物事がなくなって、紅白歌合戦の視聴率は下がっても、「恋愛」はそれに反動するかのように、国民の間に広く普及しつつある。その結果、恋愛結婚が増加し、今ではほとんどが恋愛結婚になってしまった。

    クリスマスという物語が、企業戦略によって社会の側から庶民に押しつけられる。私たちは煽られて、クリスマスは恋人と過ごすものなんだ、と思ってしまう。

    この価値を否定して、「クリスマスは平日です」とか「私は仏教徒です」と反論しても、「恋愛」という思想が国民の間に広まっているため、周りの人間は認めてくれない。「負け犬の遠吠え」としか受け取ってくれない。北朝鮮で金正日を否定するようなものである。あるいはオウム真理教内部で、麻原を否定するようなものである。「将軍様の偉大さを理解していないのだ」「尊師の素晴らしさがわからない愚かな人間だ」と思われてしまうようなものだ。「結局、ひとりで寂しいんでしょ?」の一言で終了である。洗脳とは恐ろしいものだ。

    恋愛とは物語に沿った行動である。

    それぞれが好き勝手に自分の「幻想/物語」に酔っているのだ

    (伊田弘行『シングル単位の恋愛・家族論』世界思想社 1998 p.155)

    人間には物語が必要で、それぞれが好き勝手に物語を抱いている。社会にも物語が必要で、その物語を人びとに押し付けたり共有させたりすることで、社会が維持される。

    クリスマスとは、恋愛という思想を共有させるために必要なイベントなのである。私たちは、その思想・物語に酔わなくてはならない。このイベントを否定することは、戦前の日本で天皇を否定したり、北朝鮮で金正日を否定するようなものなのである。

    クリスマスは社会にとって必要なイベントであり、クリスマスを否定しても周りの人間はまともに取り扱ってくれない。私たちは、洗脳されているとも言えるだろう。

    日本人の多くが「恋愛教」の信者になっている現代で、クリスマスを否定することは、難しい。麻原の空中浮揚をインチキだと教えてあげても、信者は信仰をやめない。洗脳の解除は困難なのだ。

    クリスマスは、洗脳の恐ろしさを体感できるイベントである。


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    独身男性のクリスマスイブ (2003-12-24)

    独身男性のクリスマスイブ

    世の中には、たとえそれが嘘だとわかっていても、信じているふりをしなければならないことがある。

    クリスマスイブ

    クリスマスイブなので、ケーキとワインを買った。洋菓子店でケーキを買おうと思ってたけど、独身でひとりで食べるのに、わざわざケーキ屋で買う必要もないだろう。独身男性らしく、セブン・イレブンのクリスマスケーキを買った。弁当買っている気分になった。いろんな意味で、痛い。

    ケーキとワイン

    こんな日でもないと、ロウソクに火は灯さないだろう。真っ暗な中で、ロウソクの明かりを眺めるのも、悪いものではない。

    信じているふり

    昨日、クリスマスに踊らされている人は洗脳されている、という主旨の日記を書いた。一部で誤解されているようなので、補足しておきたい。

    私は何も、「洗脳から覚めよ」とか「目を覚ませ」とか、「踊らされるのはやめよう」なんてことを主張するつもりはない。洗脳のない社会はない。「自由」とか「平和」とか「愛」といった思想ですら、洗脳でしかない。

    哲学者の永井均が書いた『子どものための哲学対話』(講談社)から、猫のベネトレのセリフを引用しよう。

    世の中のいろんなことにはね、公式の答えというものが用意されているんだ。世の中をこのままちゃんと維持していくためには、どうしてもみんなにそう信じてもらわなくちゃこまるってことなんだよ。そういうものを、すこしも疑わずに信じられる人のほうが、うまく、楽しく生きていけるんだけどね。

    (中略)

    世の中そのものが持っている公式の答え、世の中が成り立つためにどうしても必要な公式の答えは、受け入れなくちゃならないんだ。すくなくとも、受け入れたふりをしなくちゃならないんだ。

    (永井均『子どものための哲学対話』講談社 1997 p.35,36)

    いくら否定しても、みんながそれを信仰しているならば、自分もそれを信じなければならない。少なくとも、信じているふりをしなければならない。うまく生きていくためには、そうするしかない。

    クリスマスも、私は否定しない。肯定するか、もしくは肯定しているふりをする。排除されずに生き延びるには、そうするしかない。

    北朝鮮で金正日の行動や発言に疑問を抱いても、否定する人はいないだろう。疑問に思っても肯定するか、肯定しているふりをするかのどちらかしか道はない。

    世の中を維持するための「洗脳」や「信仰」は、受け入れるか受け入れたふりをするしかない。


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    捨てることの難しさ (2003-12-25)

    捨てることの難しさ

    大掃除中。たまったものを捨てるのは、難しい。

    クリスマスも終わり

    クリスマス期間中、アクセスが微増。やっぱりここを読んでいる人は、独り身が多いのか。

    ショックだったのは、いつも更新を楽しみにしているサイトが、クリスマス・イブの日に更新しなかったことだ。裏切られた気分だ。(勝手にそう思い込んでいただけなのだが)

    嬉々としてケーキの写真をアップした、自分が痛い。

    大掃除中

    今、部屋の大掃除をしている。クリスマスどころではないのだ。不要なものを捨てまくっている。

    物を捨てる行為は、難しい。何を捨てて何を残すのか、その選別が難しいのだ。選別における過ちは、次の2つ。

    • 必要なものを捨ててしまうミス
    • 不要なものをとっておいてしまうミス

    本や仕事の資料もそうだろう。うっかり必要なものを捨ててしまうミスを犯したくないため、ついつい不要な資料までため込んでしまう。そして資料の山ができ、重要な情報がどこにあるのかわからなくなる。

    自分の中では、「1年ぐらい参照しなかったものは、95パーセントの確率で、これからも参照しない。2年以上参照しなかったものは、99パーセントの確率で、これからも参照しない。」という基準を設けている。

    ゴミ捨て戦争の勃発

    「必要なもの」と「不要なもの」の境界線を引くことができない。このことが問題を複雑にしている。

    私は一人暮らしなので、自分が「必要」と判断したものはとっておくし、「不要」だと思ったものは捨ててしまう。しかし、ここに同居人がいたらどうだろうか。明らかに無駄で場所をとっているとしか思えない大量のマンガ本とか、絶対に見ることはないビデオテープの山とか、そういうものを「必要」と判断する人が同居人だった場合、事態は深刻だ。「必要」と「不要」の判断が異なる人が、限られた空間内に同居しているのだ。土地(空間)をめぐって、戦争が起きる。

    この季節、日本のあちこちで、紛争が起こっている。

    認め合えればいいさ

    価値観も宗教もさ

    (Mr.Children『掌』)

    互いに「必要なもの」を認め合っても、家は狭いのだ。「捨てる・捨てない」という争いは、必然的に起こってしまう。「認め合えればいい」は、資源が豊富な場合の話である。この場合は家が広いことが条件である。

    物を捨てることはいろいろと難しい。


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    人気のテキストサイトを作る方法 (2003-12-26)

    人気のテキストサイトを作る方法

    人気のあるテキストサイトには、「社会性」「知性」「性(萌え)」「笑い」の4つの要素が含まれている。

    アクセス数を増やす方法

    今年一年を振り返ってみると、このサイトのアクセス数増加が、私にとっては大きな出来事だった。書いている内容のわりにはアクセス数が多いと思う。晒されて笑いものになっているのだろう。それならそれで良いと思う。

    アクセス数を増やすには、人気のサイトから学ぶところが多い。ReadMe!JAPANという読み物のランキングサイトを見てみると、人気のあるサイトには、いくつかの特徴があることがわかる。

    人気のテキストサイトには、次の4つの要素が1つ以上含まれている。

    • 社会性
    • 知性
    • 性(萌え)
    • 笑い

    あなたがよく訪問するサイトに、この4つのうちどれが含まれているか考えてみると、面白いと思う。

    ただの日記じゃつまらない

    平凡な人間の平凡な日記はつまらないし、アクセス数も増えないだろう。月並みな『人妻日記』というタイトルでは、あまり興味を引かない。上に挙げた要素をひとつひとつ見ていきながら、どうすれば面白い日記になるのかを考えてみたい。

    まず、「社会性」である。そのテキストがどれだけ社会的な内容を含んでいるか、という意味である。有名人が書いたテキストなら、それだけで「社会性」がある。普通の人が書くならば、内容を「社会性」のあるものにしなければならない。

    「社会性」を持たせるためには、ニュースなどの時事ネタをあつかったり、

    • ダイエット
    • お金儲け
    • 結婚
    • 恋愛

    といった、多くの人が関心をよせる事を話題にすれば良い。

    『人妻日記』に「社会性」を付加すると、たとえば『人妻ダイエット日記』というタイトルに変えられる。これで、ダイエットに関心を持つ女性が、アクセスしてくれる。

    次に、「性(萌え)」の要素を考えてみたい。これは、セックスのことである。広い意味では「萌えキャラ」「萌え猫」なども含む。「萌え」や「セックス」を扱ったサイトに人気があつまるのは、多くの人が認めるところだろう。

    先ほどの『人妻ダイエット日記』に、セックスの要素を付け加えると、『人妻オナニーダイエット日記』に変わる。これで、ぐんとアクセス数が増えるはずだ。

    今度は「知性」である。これは、「へぇ〜」とか「なるほど」と思えるような、知的刺激のことである。ニュースへのコメントや、読んでためになる情報を、人は多く求める。人には知識欲があるので、それを満たしてやればよい。

    さっきの『人妻オナニーダイエット日記』に「知性」の要素を付け加えてみよう。適当に難しそうな言葉をはめこんで、『人妻の科学的オナニーダイエット日記 -方法論と実践-』とでもすれば、人気はずっと増すだろう。もちろんテキストの内容も充実させねばならないが。

    最後に「笑い」について。要するに、ネタのことだ。とにかく面白ければ内容の真偽はともかく、流布してしまうのがネットの世界。「笑える」文章なんて、そうそう書けるものではないが、もし笑いのセンスのある人なら、挑戦してみるべきだろう。

    『人妻の科学的オナニーダイエット日記 -方法論と実践-』というタイトルの前に、『爆笑!』とか、『不思議の国の』とか適当な文字をつけて、面白そうな雰囲気のタイトルにすれば、アクセスは増えるはずだ。

    アクセス数がすべてではない

    念のために最後に書き加えておくが、アクセス数がすべてだとは思っていない。一つの要素にしぼって、ひたすら「萌え」を極めるのもよいし、一切を排除して個人的な事だけを書くのも自由だろう。

    アクセス数が増えても、『人妻の科学的〜』なんてサイトを運営して、夫に見つかったら、元も子もない。人格が疑われて、離婚してしまうかもしれない。

    人気テキストサイトには、「社会性」「知性」「性(萌え)」「笑い」のうち、1つ以上の要素が含まれている。


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    雑記:酔ってます (2003-12-27)

    雑記:酔ってます

    酔っているので、今日は雑記。

    仕事納め

    午後から出社し、掃除と残務整理。その後、納会が行われ、プロジェクトのメンバと飲みにいく。

    ある中年女性の話題になり、「いやー40超えたら女じゃないですよ。別な生物ですよ」という爆弾発言が、課長から発せられた。(私が言ったわけではない)

    女性はたいてい40代になると結婚をあきらめるし、周囲もそれを期待しなくなる。既婚女性も、それほど色気をつかわなくなるだろう。そのため、女性らしさが激減し、別な生き物へと変化してしまうのではないだろうか。(課長の発言の根拠を考えたまでである。女性が別の生物に変身してしまうとは、私は思っていない。)

    そんな話題で、今年の仕事の幕は閉じた

    酔い

    酔うとあんまり物事を考えなくなるので、気分が良い。酒には弱いが、飲みに誘われたらあまり断らない。

    そんなわけで、興味のある方は飲みに誘ってください。もう寝る。


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    女性は40歳で変わる (2003-12-28)

    女性は40歳で変わる

    女性は40歳を超えると、結婚をあきらめる。

    40で別な生き物に

    昨日酔った勢いで、「女性は40超えたら別な生き物」という40歳の上司(既婚)の発言を日記に書いてしまった。フォローや考察がまったくなかったので、今日はその補足をしたい。

    ガラスの天井

    女性が結婚願望を抱くのは、40歳までである。40には見えない壁(ガラスの天井)があるのである。

    小倉千加子(愛知淑徳大学教授)の平成9年度厚生科学研究「女性の未婚率上昇に関連する意識についての調査研究」によると、未婚女性には、次のような実態が見受けられる。

    • 結婚における「ガラスの天井」は40歳にある。この上には結婚願望は存在しない(40歳を過ぎると,生活の変化は,もう面倒くさい。)。
    • 25歳以下は30歳までに,30歳を過ぎると35歳までに,35歳を過ぎると40歳までにはと,結婚目標年齢は3段階の節目で先延ばしされていくが,40歳から先はない。したがって結婚は出産可能年齢を強く意識したライフコース上のイベントであることが分かる。

    40歳になると、子どもを産むのが困難になる。生活の変化も面倒になる。「もういいや」と考えて、結婚願望を持たなくなってしまう。これは、既婚女性にも一部当てはまるだろう。離婚が多くなった現代では、今の夫と離婚して別の男性と結婚したい、と思う場合、子どもが産める・産めないは大きな違いである。

    出産可能性と結婚願望の消滅により、40歳で女性が別な生物と男性から見なされることもあるのである。

    社会から結婚を期待されなくなる

    統計データで、結婚願望が消滅しているかどうか、確認してみたい。国立社会保障・人口問題研究所の第12回出生動向基本調査(2002年)を調べてみた。

    未婚女性に対し、結婚の意思を質問したところ、「いずれ結婚するつもり」と答えた(つまり結婚願望のある)人は、次のような割合だった。

    • 20歳〜24歳:90.9%
    • 25歳〜29歳:87.7%
    • 30歳〜34歳:85.1%
    • 35歳〜39歳:76.8%

    年齢が高くなるにつれて、結婚願望は弱くなる。そして、残念ながら、40歳以上のデータは存在しない。40歳以上の女性は、調査の対象外なのである。調査するだけ無駄、ということなのだろう。1992年までは、35歳〜39歳までの女性も、調査対象外だった。数年後に行われるであろう、次回の調査では、40歳以上の女性も対象にして欲しい。

    公的機関の社会調査で、調査の対象外となっているということは、社会から結婚を期待されていないことを意味するだろう。30歳を超えると、周囲から「結婚」するよう、耳が痛くなるほど言われると思うが、心配しなくても、40過ぎれば周りが静かになる。周りの人がその話題に触れなくなる。仮に結婚したとしても、それは普通の結婚とは違う結婚と見なされるだろう。

    すぐれた洞察

    女性によって、40とは大きな意味を持つ数字だ。40を境界にして、自分と社会からの期待も変わる。私の上司は、すぐれた洞察と観察力によって、「女性は40になると別な生き物になる」と看破したのだろう。

    (しかし、それを口に出して発言するのは、上司としてどうかと思う。セクハラだ。)

    女性は40で結婚をあきらめる。社会も女性に結婚を期待しなくなる。


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    女性は年越しそば (2003-12-29)

    女性は年越しそば

    女性は年越しそばである。31を過ぎると売れ残る。

    クリスマスケーキ説

    昨日、女性の年齢(「40を超えると別な生物になる」)について書いた。年末なので、ついでにもうひとつ女性の年齢に関する話題を。

    女性の年齢について有名なのが、「女性=クリスマスケーキ」という説である。クリスマスケーキは24日に一番よく売れて、25日になると売れ残って安売りされる。女性も、24歳で一番良く売れて(男性に買われる=結婚する)、25歳になると売れ残る(結婚できなくなる、安い結婚しか残らなくなる)。

    しかし、このクリスマスケーキ説は、20年前なら成り立っていたが、今ではもう通用しない。国立社会保障・人口問題研究所の第12回出生動向基本調査(2002)によると、恋愛結婚でも、女性の平均初婚年齢は26.5歳となっている。女性が25歳で売れ残ったり、半額に値引きされたりすることは、今ではもうない。

    クリスマスケーキから年越しそばへ

    新たに、「女性=年越しそば」というのが、最近ではよく見られる傾向である。年越しそばは、31を過ぎると、売れなくなる。価値が激減する。年越しそばと称して売り出している商品は、年が明けてからは半額で売り出されるだろう。

    現在、女性の初婚年齢が上昇している。ニュースでも「晩婚化」という言葉は、頻繁に耳にするだろう。第12回出生動向基本調査(2002)では、見合い結婚の女性の平均初婚年齢は、30.4歳となっている。また、見合い結婚の場合の平均交際期間は、1.1年である。このデータから、女性は見合い結婚市場の中で、31歳直前にもっとも多く取引されている、という事実がわかる。31を超えると、見合いの取引も不利になるのだ。

    つまり、女性は今や「クリスマスケーキ」ではなく、「年越しそば」なのである。

    年越しそばを食べながら

    この説は、私の完全なオリジナルではない。小倉千加子(愛知淑徳大学教授)が、対談の中で、次のように述べている。

    「(女性の場合)今、結婚するのが三十一歳ぐらいでも、もう全然遅く感じないんですよね。ですから、ついこの間まで「女の人はクリスマスケーキや」とか、よく言ってたなと思う。今は「女の人は晦日蕎麦(みそかそば)」ですよ。

    (『ザ・フェミニズム』筑摩書房 2002 p.32)

    大晦日も、直前である。年越しそばを食べながら、しみじみと自分の結婚について考えてみるのも面白いのではないだろうか。

    ちなみに男性の平均初婚年齢は、恋愛結婚が28.0歳、見合い結婚が34.3歳である。

    女性は年越しそばである。


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    子どもを産みたがる男女 (2003-12-30)

    子どもを産みたがる男女

    「結婚するつもりだが子どもは欲しくない」と考える人は、少ない。

    収束しない話題

    キッチンと書斎の床につやだしワックスをかけて、大掃除も終了。明日はのんびりしよう。

    一方で、この日記は年末に向けて収束しそうにない。結婚の話題を書き出すと、芋ズル式に問題が出てきて、なかなか綺麗にまとまってくれない。書ききれなかったぶんは、来年なんとかしよう。

    希望の子どもの数

    結婚と出産は深く結びついている。今の日本では、子どもを抜きに結婚を語れない。とくに女性は、子どもを産むことが出来る年齢までに結婚したいだろう。男性には、それがない。

    国立社会保障・人口問題研究所の出生動向調査(2002)のデータを見てみると、次のことがわかる。

    • 結婚願望を持つ男女のほとんどは、子どもを1人以上希望している
    • 一生結婚するつもりがなくても、女性は1/3以上が、1人以上子どもを希望している。

    下のグラフが、調査結果である。

    結婚意思と希望子ども数

    「いずれ結婚するつもり」と考えている男女で、「希望子ども数」が0人、つまり子どもは欲しくないと考える人は、少ない。「子どもが欲しくない」人は、男性で4.9%、女性で6.4%の割合だった。

    また、「一生結婚するつもりはない」と考えている人の多くは、子どもを欲しがっていない。男女とも6割以上が、子どもを欲していない。しかし、逆に3割以上は、子どもを欲しがっている。

    ひとりでは産めないのに

    興味深いのが、結婚の意志がないのに、子どもを欲しがっている人が少なくない点だ。現代の日本では、結婚せずに子どもを産むことは、非難の対象とされる。ゆえに、妊娠したら、

    • できちゃった結婚
    • 人工妊娠中絶

    の2つの選択肢しか存在しない。

    困難や非難を承知の上でも、女性ならば適当な男性の子どもを産んで、シングルマザーとなることも可能だろう。ごく少数だが、自発的なシングルマザーは存在する。

    しかし、男性は、結婚せずに自分の子どもを産み育てることが可能だろうか。どうしてもパートナーが必要になる。よって、「一生結婚するつもりはないけど子どもは欲しい」と願っている男性は、欲求を満たすことができない。

    さまざまな事情で「一生結婚するつもりはない」と答えているか、もともとが無茶な願望なのか、それはわからない。子どもが欲しければ結婚したほうが良いと思うのだが。結婚できないから、「一生結婚するつもりはない」と答えているのだろうか。

    ちなみに、私は、自分の子どもは欲しくはない。結婚の意志は、まだ決めていない。若い段階で「一生結婚するつもりはない」と決めてしまうこともないだろう。

    結婚願望はあるけど子どもは欲しくない、という人は少ない。結婚するつもりはないけど子どもは欲しい、という人は、男女とも3割以上存在する。


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    さよなら2003年 (2003-12-31)

    さよなら2003年

    今日は雑記をうだうだと。

    • 年越しソバを食べる
    • 2004年の目標
    • 2003年の反省 -Yahoo!Japanに登録されない-
    • ご挨拶

    の4つ。

    ソバ屋でカツ丼を食べる男

    年越しソバを食べるために、商店街のソバ屋に出向いた。手打ちのソバで有名で、お店にはちょっとした行列が出来ていた。

    私は「天ぷらそば」(1200円)を頼んだ。年越しソバぐらい、少しは贅沢したい。

    みんな年越しソバを食べたくてお店まで来てるんだろうな、と思って周りを見わたしてみた。すると、なんと、隣に座っていた男が、カツ丼(800円)を食べているではないか。なにゆえ大晦日にソバ屋まできてカツ丼を食べねばならないのか。さてはカツ丼マニアか?

    周囲の状況に臆せず、自分の信念(大晦日であれ、カツ丼を食べる)を貫き通す姿勢は、男の中の男と言えよう。

    でも、お店の人は迷惑していたんじゃないのか?

    2004年の目標

    そんなカツ丼マニアの話はどうでもよい。

    今年も残りあと数時間である。来年の目標というものを考えてみたい。

    よく上司から、「来年の目標は何だ?」と聞かれる。「決めてません」とは答えにくい。そんなときは、「とにかく1日1日、全力で仕事にとりくみたい」と答えてお茶を濁すことにしている。

    これは巨人の選手のインタビューの答えと同じだ。巨人の選手は、ヒーローインタビューやその他で、何を質問されても、「とにかく1戦1戦、全力で戦って勝つことが目標です。応援よろしく」としか答えない。「今月は絶好調ですね?」「防御率がチームナンバー1ですね」「バッティングする上で、4番という打順はどう考えていますか?」などなど、いろんな質問がプレイヤーになされる。いちいち真面目に答えていたら、神経がもたない。細かいところをマスコミに突っ込まれたりする。

    このような面倒な質問に対して、有効な手段は、思考を停止し、当たり前のことをさも立派な目標であるかのように答えることである。「1戦1戦全力で戦う」のは、当たり前のことである。「1日1日、全力で仕事にとりくむ」のも、言われてみれば当然のことである。

    このような適当な受け答え(「受け流し」とも言う)が出来ないと、社会というのは必要以上に負担がかかってしまうものだ。適当に日々を暮らしていけるだけの術を、もっと身につけたいものだ。(これが2004年の目標か?)

    今年の反省

    今年、達成できなかった目標がある。それは、Yahoo!Japanにこのサイトが登録されることだった。半年間チャレンジし続け、何度も登録申請(正確には自己推薦)したのだが、まるで相手にされない。

    Yahoo!Japanは、ある程度の質が高いサイトや、テーマがはっきりしているサイトが登録されやすい。魅力のないサイトや、需要のないサイトは、登録されない。登録されるかされないかは、審査員(Yahooサーファーという)がチェックし、判断する。

    アクセス解析を見てみると、Yahooサーファーが訪問した記録すらない。つまり、はじめから眼中にないのである。オンラインエッセイや日記なんてありふれているから、よっぽどじゃないとチェックしないのだろう。

    さらに、このサイトのコラム(日記)は、テーマがはっきりしていない。結婚・恋愛・政治・倫理・社会・ゲーム・文化、などなど、テーマは多彩である。悪く言えば節操がない。これでは、読むほうも大変だろう。どんなサイトなのか、一言では表現しにくい。

    テーマを1つに絞ればよいのだろう。しかし、それでは書くほうもつまらない。仕事でやっているわけではないのだ。日記は、その日の思考結果のごく一部を出力したものである。テーマを限定するわけにはいかない。このままの内容、方向性で、なんとかYahoo!Japanに登録されたい。

    来年も、Yahoo!Japanとの戦いは続く・・・。

    ご挨拶

    ここからは「ですます調」で。

    今年一年、ありがとうございました。わざわざここまで読んでくださって、ありがとうございます。アクセス数は、更新意欲をかきたててくれます。

    そして、自分のサイト・ブログ上で、私のサイトへリンクを張ったり、感想や批判を書いてくださった皆様、ありがとうございました。良い刺激になります。新しい発見にも繋がりました。

    また、メッセージやメールを送ってくださった方々。批判や中傷メールもあったのですが、応援メールや感想のメールは、大きな励みになりました。メールの一つ一つが、このサイトの文章のどこかに反映されていると思います。

    来年、更新が続くかどうかは未定です。書きたいことがなくなれば、自然に消滅すると思います。今は全然書き足りていないので、あと3ヶ月ぐらいは更新が続きそうです。

    そんな感じで、今後ともよろしくお願いします。2004年、皆様にとって良い年でありますように。

    君に幸あれ

    きっと明日は晴れ

    本心で言えるなら良いですね

    (Mr.Children「タイムマシーンに乗って」)


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