憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記

2004 年 01 月

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謹賀新年 (2004-01-01)

New Year

あけましておめでとうございます。

今年こそはきっとあなたに

たくさんのいいことがありますように

今年こそはきっと世界に

たくさんのいいことがありますように

更新予定

数日間、更新できません。4日か5日から更新を再開予定です。


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もう少しだけまともな世界へ (2004-01-04)

「問題」はなくならない

この世の中から、「問題」が無くなることはない。

更新再開

更新再開。大晦日は太った二人の殴り合いを見て、正月は若手のお笑い番組ばかり見て過ごした。十分、休養できた。

2004年も、社会問題や個人的問題などについて、その日考えたことを書いていきたいと思う。

世の中から問題は消えない

社会には、様々な問題が存在する。そして、問題が無くなることはない。だから、日記のネタに困ることはない。

社会に「問題」が常に存在する理由は、次の3つ。

  • 人間による問題解決が、次の問題を生み出すから
  • 社会にとって「問題」が必要だから
  • 個人にとって「問題」に価値があるから
問題解決が問題を生む

まず、問題を解決することが、新しい問題を生み出すことがある。たとえば、子どもに「ゆとり」を持たせようと「ゆとり教育」を推進した結果、たしかに「ゆとり」は増えて、自由時間は増えたが、今度は学力の低下が新しい問題として発生してしまった。

もし、学力を向上させようと、「能力別学級編成」を取り入れたら、今度は「差別」の問題が浮上してくるだろう。

このような例は挙げたらきりがない。ほとんどの「問題」は、解決によって新しい問題を生む、と考えてよい。

問題が必要とされる社会

また、ある社会にとっては、「問題」が必要とされる場合もある。社会に「問題」があることで、その社会が維持できる。だから、社会を維持するためには、自分たちで「問題」を見つけ出さなくてはいけない。報道機関が代表的な例である。これまで「問題」として注目されなかった事柄を、次々と「問題」として人びとに訴えていかなければならない。「問題」が無くなってしまっては困るのである。

医療業界も似たような構造を持っている。「健康」によって最も損をするのは、医療業界である。人びとの不健康を「問題」とし、健康へと駆り立てることで、利益を上げている。

個人が必要とする「問題」

さらに、各個人が「問題」に対して価値をおき、「問題」を求めることで、新しい「問題」が発見される場合もある。

私の会社では、「問題発見能力」「危機意識」「問題意識」という能力や意識が、仕事の評価対象になっている。こうなると、社員は、特別問題がなくても、会社の中に存在する「問題」を掘り出して、上層部に訴えるだろう。

日本でも、「問題」を見つけることに社会的な価値が付与される場合もある。「問題」を発見する能力が社会的能力やステータスのアピールになるので、能力のある人は「問題」を次々に掘り起こすだろう。そしてネット上で、発言をする人もいる。

もう少しだけまともな世界へ

以上のように、人間がいる限りは、この世界から問題が消えることはない。しかし、だからといって、問題の解決を放棄したり、あきらめたりするべきではない。たとえ問題だらけでも、よりましな世界を目指すべきだろう。

2004年、「もう少しだけまともな世界」になると良いな、と思う。

この世の中から、「問題」が無くなることはない。


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やさしい人が増えても幸せな未来はこない (2004-01-05)

やさしい人が増えても幸せな未来はこない

世界が「やさしい人」だらけになって、もっとも得をするのは、悪人である。

みんながみんなにやさしくなれたら

大晦日の紅白の終盤で、SMAPの香取が、「みんながみんなにやさしくなれたら幸せな未来がやってくると思います」とメッセージを発していた。「世界にひとつだけの花」を歌う前のことだった。

香取が考えたわけではないし、発言は芸能活動の一環である。香取を批判するつもりはない。ここでは、純粋に、「みんながみんなにやさしくなれたら幸せな未来がやってくる」という思想に、異をとなえてみたい。

悪人にとって都合のよい世界

「みんなにやさしい」気持ちを持つ善人が増えるとしよう。善人は思いやりの気持ちがあるので、人を助けることが大好きである。そうすると、他人を利用したり搾取したりする悪人にとって、たいへん都合の良い世界になる。詐欺師や犯罪者は、相手がやさしければやさしいほど、仕事がやりやすい。

やさしい心を持った人が増えれば増えるほど、それを利用する悪人が得をするのである。

ここにひとり、善人でも悪人でもない、中途半端な子どもがいるとしよう。子どもは、「善人」と「悪人」を見て、どちらが得をしているかを考える。得をしているのは「悪人」なので、その子どもは「悪人」になろうとするだろう。今度は「悪人」が増えて、「善人」が減る。「善人」が減ってしまえば、「悪人」も利益が少なくなるので、「悪人」も減る。

このようにして、「善人」と「悪人」の均衡が保たれる。「みんながみんなにやさしい世界」というものは、昔から人びとがあこがれている。でも、現実にはそうはならないのだ。

「力」が必要

善人がバカを見て、悪人が得をするような世界は許せない。悪人が善人を利用しないように、悪い行動には制裁を加えて、行動を抑止すれば良い、と考える人も多い。実際の社会でも、犯罪抑止のために、犯罪者には制裁を加えている。

悪人を増やさないようにするには、悪人に対して制裁を加えなければならない。つまり、「力」というものが必要になる。「暴力」でもって、制裁しなければならない。

「みんながやさしい世界」を目指したとしても、その「やさしい世界」を実現するためには、どうしても「力」や「暴力」が必要になる。「みんながやさしい世界」は、「暴力」や「戦争」のない世界を目指したはずである。しかし、その「やさしい世界」を目指すがゆえに、「力」による一方的な制裁が必要になってしまうのである。

もし制裁を加えなければ、最初に書いたとおり、悪人はやさしい善人を利用するだろう。

かくして、「やさしさ」で世界は幸福にはならない。

世界が「やさしい人」だらけになって、もっとも得をするのは、悪人である。


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結婚と恋愛は別 (2004-01-06)

結婚と恋愛は別

結婚と恋愛は別々のものである。戦後、恋愛と結婚が強く結びつくようになった。

素朴な疑問

知らない人から、「恋愛と結婚って別ですか?」という質問を受けた。こうした質問は、大歓迎である。他の人も関心をもっているテーマだと、サイト上で答えやすい。日ごろから疑問に思っていることがある方は、メールを私に送信すると、面白いかもしれない。

恋愛結婚イデオロギー

恋愛結婚というのはイデオロギーである。多くの人が思い込んでいる体系化した信念や思想である。現代の日本では恋愛結婚が当たり前を通り越して、規範となっている。

社会学者の山田昌弘によれば、恋愛と結婚が結びついた恋愛結婚イデオロギーは、18世紀から19世紀にかけて、西欧のブルジョワ社会に誕生した。(山田昌弘『近代家族のゆくえ』(新曜社 1994 p.127,128 以下、山田)

日本で「恋愛結婚」という思想が登場したのは、大正時代と言われる。当時はまだ庶民の間には普及していなかったが、戦後になり急速に普及し、今では「結婚」と「恋愛」は強く結びついている。

そして、恋愛結婚イデオロギーの特徴は、次の3つ。(山田、p.130)

  • 恋愛の基準がきわめてクリア(「結婚したいかどうか」)になる
  • 恋愛は、結婚へのプロセスとして位置づけられる
  • すべて結婚は恋愛結婚であるべきことが社会的通念になる

結婚を考えていない恋愛は「遊び」「セックスフレンド」とみなされ、不真面目な行為だと見なされる。恋愛が続けばその先には当たり前のように「結婚」が待ち受けていて、「恋愛感情」のない結婚は、社会的に許されない。

「ぜんぜん好きじゃない男と結婚する女性」は、許されない。「不幸な結婚」「不本意な結婚」「本当の結婚じゃない」と見られてしまう。

また、見合い結婚をしたカップルに、「恋愛じゃないんですねー」と言うと、「きっかけは見合いだったけど、ちゃんと恋愛して結婚しました!」と怒る場合がある。べつに結婚に恋愛感情は不要なのだが、今の日本では、それが許されていない。

「恋愛結婚」は、私たちは当たり前のように受け入れているが、歴史的に見れば恋愛結婚の方が珍しい。恋愛結婚は、ひとつの思想にすぎない。

恋愛と結婚が分離していた時代

日本でもヨーロッパでも、恋愛と結婚が分離していた時代があった。人びとは結婚後に、結婚相手とは別な人と、自由に恋愛をしていた。出会い系サイトで男を漁ってばかりいるヒマな専業主婦のように。

当時(18−9世紀)のヨーロッパの上流階層は、結婚は財産維持のために政略が絡んだ取り決め婚であることが多く、結婚に当人の自由意志が入ることは少なかった。その代わり、自由な恋愛は、結婚外で営まれていた。

一方、庶民階層では、少年時代から男女の接触が盛んで、結婚に至らない男女交際が頻繁に営まれていた。双方とも、自発的な恋愛のコミュニケーションを享受していたのである。

(山田、p.131)

「昔の人は、好きでもない人と結婚させられて可哀想」と考える人も少なくないが、そもそも恋愛結婚という思想がなかったので、不幸と見なされることはなかった。結婚後に、他の人と自由に恋愛していたのである。中世ヨーロッパには、「結婚前の貞操、結婚後の性的自由」という諺があったそうだ(山田、p.125)。

不自由な恋愛社会

現代の日本は、恋愛と結婚が結合しているので、ある意味不幸である。適齢期にだけ、結婚相手(=恋愛の相手)を探さなくてはならない。そして、結婚後は恋愛が不適切とされる。自分のパートナー以外に恋愛感情を持つことは、人の道に反する行為とされる。

本来、結婚と恋愛とは別々のものである。感情は自然と湧き上がってしまうもので、それをガマンしていると、無理が出てくる。現代の日本の特徴は、次の2つである。

  • 結婚前は恋愛結婚至上主義。
  • 結婚後はパートナー以外と恋愛(不倫)。結婚維持は子どものため。

どうせ不倫するのなら、はじめから恋愛結婚などしないほうが、お互いにとって幸せだと思うのだが。

恋愛と結婚は別である。恋愛結婚は人類にとって普遍ではなく、むしろ珍しい現象である。


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妻だけでは満たされない夫 (2004-01-07)

妻だけでは満たされない夫

結婚した後でも、パートナー以外とセックス願望を持つ人は多い。

生涯恋愛社会

妻に次のような兆候が現れたら、妻が不倫している可能性が高い。

  • 最近、人生が楽しそうだ
  • おしゃれに気を使うようになった
  • 生活にメリハリができて、いきいきしている。

恋愛中の女性の、典型だろう。こうなると、人生は楽しい。また、化粧品や服装にコストをかけるようになるため、経済効果も大きい。自分を磨くため、パートに精を出すことだろう。

なにも女性に限ったことではない。男性も、恋愛をすると元気になる。老人ホームの中に綺麗な女性がいると、それだけでおじいちゃんは元気になる。

経済アナリストの森永卓郎は、結婚しても恋愛ができる「生涯恋愛社会」を提唱している。どこまで本気かわからない。半分は冗談だと思う。しかし、もし、結婚した後も恋愛ができるのであれば、その経済効果は大きい。不況を脱出する鍵は、不倫にあるというのも、一理ある。(参考:「「需要が飽和しない第三の分野:恋愛(2)――恋愛市場の大きさ」)

男性の半数が妻だけでは満足しない

しかし、いくら結婚後の恋愛が自由になったとしても、人びとの間に願望がなければ、意味がない。結婚した後に、他の人と恋愛してセックスしろ、と強制するわけにはいかないだろう。

具体的に、不倫願望(結婚後に、妻や夫以外の人とセックスしたい願望)がどの程度あるのか、統計データを見てみたい。NHK出版の『NHK日本人の性行動・性意識』に、不倫願望のデータがある。

不倫願望グラフ

質問は既婚者だけではなく、未婚者にも行われている。未婚の童貞や処女にも質問しているので、注意したい。

「結婚してから、妻または夫以外とセックスをする」ことについてどう思うか、が質問だ。その結果、30代男性では、12%が「してみたい」、26%が「どちらかといえばしてみたい」、14%が「実際にしたことがある」と回答した。男性の約半数が、他の女性とのセックス願望を持っているのだ。

また、女性は「したくない」と拒否している人が多い。積極的に「してみたい」と回答しているのは、盛んな30代女性でも、わずか4%にすぎない。

データを見る限り、他の人とも恋愛・セックスしたいと思っている人は多い。彼らは、不満をかかえながら、パートナーとセックスするしかない。生涯恋愛社会になれば、ある程度は願望が満たされると思う。

結婚した後でも、パートナー以外とセックス願望を持つ人は多い。


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愛と性と結婚の一致 (2004-01-08)

愛と性と結婚の一致

高度成長期以降の日本では、恋愛とセックスと結婚が結合した、三位一体の思想が支配的となった。

恋愛とセックスは別

昨日の日記に対して、恋愛とセックスを混同している、との指摘があった。わかってはいたのだが、話を簡単にするために、あえてひとつにしてしまった。現代の日本では、恋愛とセックスは比較的強く結びついており、まったく恋愛感情のないセックスは非難される。もともと、恋愛とセックスは別々のもので、べつに愛情は必要ないのだが、現代では、それは異常や逸脱と見なされてしまう。

もともとは恋愛とセックスと結婚はそれぞれ別々のものなのだが、今ではそれが結びついて、三位一体となっているのだ。

三位一体という信仰

恋愛可能な男女が出会い、恋愛をし、恋愛の後に結婚をしてセックスをするのが理想とされる。もっとも、「初夜」という言葉はすでに死語だろう。婚前性交は、今ではめずらしくない。

性関係も、愛情や結婚に従属するものとなり、フランドランがいう「愛と結婚と性の一致」が理想とされる。結婚は愛情に基づき、愛情は結婚で完成する。SEXには愛情が必要で、結婚を前提としなければならない。このような意識が浸透してくる。

(山田昌弘『近代家族のゆくえ』新曜社 1994 p.131)

近代的恋愛が日本でも普及するにつれて、恋愛とセックスと結婚は結びついた。60年代以降の日本人は、ほとんどがこの意識を持っているだろう。

複雑な関係

恋愛とセックスと結婚の一致を、図で説明したい。

愛と性と結婚の一致

1から6まで、順に説明する。

「恋愛には結婚できることが必要」とされている。恋愛するのに年の差を気にするのは、このためである。また、二人の人を同時に好きになってしまって悩むのも、その恋愛が結婚に結びつかないからである。今の日本では、二人と結婚できない。同姓愛が非難されるのも、結婚に結びつかないからである。

次の「結婚するには恋愛が必要」は、現在、もっとも勢力の強い思想である。恋愛結婚が増加し、見合い結婚の人は後ろめたさを感じている。

「SEXするには恋愛が必要」はどうだろう。これは言い換えれば、「愛のないセックスはいけない」ということである。まずまず普及している価値観だと思う。実際には恋愛感情などなくてもセックスはできるし、十分快感なのだが、たぶんそれを言ったら、周りの人からは白い目で見られる。

「恋愛にはSEXできることが必要」は、SEXの対象外は恋愛の対象として不適切ということである。アイドルやアニメキャラに恋愛感情を抱いても、それは恋愛とは見なされない。

「SEXするには結婚することが必要」は、最近では崩壊の方向に進んでいる。以前は、婚約した恋人とセックスして、その後別れたら、慰謝料を請求された。今では結婚前でも比較的自由にセックスできるだろう。

最後は、「結婚しているならばSEXしなければならない」という思想だ。結婚相手以外とはセックスしてはいけないという意味でもある。そして、結婚相手とだけセックスするのが正しいとする考えのことである。そのため、「セックスレス夫婦」が問題となる。べつにセックスしなければならないルールはないのだが、社会の側は問題と見なす。

良くもなければ悪くもない

恋愛と結婚とセックスの一致は、良くも無ければ悪くも無い、ひとつの思想である。ただし、今の日本ではこの思想が支配的で、みんなが当たり前のように思い込んでいる。したがって、この信仰に同調するか、少なくとも同調しているフリをしなければならない。北朝鮮で生まれたら、金正日に疑問を抱いても、崇拝しているフリをしなければならない。

また、恋愛と結婚が結びついているのは、良い面もあるし、悪い面もある。アメリカでは恋愛と結婚の結合度が強いので、離婚率が高い。「結婚に恋愛が必要」を裏返せば、「恋愛感情がなくなったら、結婚生活を維持するべきではない」ということである。日本では、この考えはまだ主流ではない。

時代とともに、恋愛とセックスと結婚の結合強度は、変化する。今と、これからの未来がどうなるのかを考えながら、自分の足元を見て暮らしたいものだ。

今の日本では、もともとは別々だった「恋愛」と「セックス」と「結婚」が結合している。


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索漠たる性交 (2004-01-09)

索漠たる性交

コミュニケーションのない性交は、さびしいものである。

「愛のないセックスはいけない」という社会規範

昨日の日記(「恋愛」と「セックス」は別々のもの)に対して、何人かからツッコミが入った。「愛情のないセックスは、気持ちよくない」「恋愛しなければセックスしたいと思わない」という意見をいただいた。

感情や快感は人それぞれだ。昨日問題にしたのは、社会規範として、「恋愛」と「セックス」が結びついている、という話だ。

たとえば、小学校の女性の先生がいるとしよう。20代後半で、そろそろ結婚しても不思議ではない年齢である。彼女が、男性と一緒にラブホテルから出てきたところ、ばったりと児童の父兄に出くわしてしまった。このときに、次のように答えた場合、どのような反応が得られるだろうか。

  • (A)「この人は私の恋人です」
  • (B)「この人はセックスフレンドです」

(A)の、「この人は私の恋人です」と答えた場合、「年頃だし、結婚も考えているんだろう。セックスするのもかまわない」と、多くの父兄は思うだろう。ところが、(B)の「セックスフレンドです」と答えた場合は、反応はまるで違うだろう。「なんてふしだらな!聖職者にあるまじき行為!そんな教師に子どもをまかせてはおけない」と非難する人が少なくないと思う。

やっていることは同じだが、「恋愛」と結びついているか否かで、周囲の反応は異なる。昨日、「周りから白い目で見られる」と書いたのは、そういう意味である。社会規範として、許してくれない。

親愛性のない性交は楽しくない

社会規範として、恋愛はセックスと結びついているだけである。それでも「恋愛しなければセックスはしてはいけない。愛のないセックスは気持ちよくない」と主張する人もいる。これには反論しないし、私はそれを否定しない。愛のないセックスも気持ちよいし、愛のあるセックスも、違う気持ちよさがある。

親愛性や親密性、性交において、まったく不必要ではないと思う(あえて「恋愛感情」とは言わない)。嫌いな人や、言葉の通じない人(韓国人・中国人など)とは、肉体が日本人と同じでも、セックスしたいとはあまり思わない。

小谷野敦が、『恋愛の超克』で、面白いことを書いている。

仮に「売春はしてもいいが、その間売り手は決して口を利いてはいけない」という法律ができ、それが厳重に守られたとしたら、どうだろう。売春婦は、終始無言である。「いらっしゃいませ」すら言わない。ただ黙々と、セックスなりフェラチオなりをする。「また来て下さいね」とも言わない。おそらく客は索漠たる気分になって、売春も準売春も自然消滅するだろう。きっと二万円くらい財布から出して、「頼むから口利いてくれよお」と泣きつく男も現れるだろう。

(小谷野敦『恋愛の超克』(角川書店 2000 p.161)

無言でもかまわない、という男性もいるかもしれないが、私は嫌だ。コミュニケーションのまったくない作業のようなセックスは、気持ちよいかもしれないけど、精神的な満足感が得られないだろう。親密さのないセックスは、楽しくはないと思う。

快楽とコミュニケーション

NHKが、「あなたにとってセックスとはなんですか?(いくつでも○を)」という質問を行った。(『NHK日本人の性行動・性意識』)

30代男性では、57%が「ふれあい(コミュニケーション)」、53%が「快楽」と答えた。同じく30代の女性では、62%が「ふれあい(コミュニケーション)」、20%が「快楽」と答えた。(他にも、「安らぎ」「ストレス解消」「征服欲を満たすため」という回答項目があった)

男性は、快楽とコミュニケーションがセックスであり、女性は快楽よりもコミュニケーションがセックスなのだろう。

コミュニケーションのない性交は、さびしいものである。


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禁止語のススメ (2004-01-10)

禁止語のススメ

物事を考えるときには、ある言葉の使用を禁止してみるとよい。

活字離れは国をダメにするのか

読者様から、「活字離れは国をダメにするか」という疑問・質問がきていたが、他の話題があって書けずにいた。明日から数日間、「活字離れ」を話題にしたい。

禁止語のすすめ

東京大学教授の苅谷剛彦が、『知的複眼思考法』(講談社 2002p.243-246)で、「禁止語」を勧めている。禁止語とは、ある概念を表す言葉を使用禁止にすることである。苅谷は、「生きる力」「報道の自由」「個性」などを例としてあげて、「こうしたキーワードは、容易にマジックワード(魔法のことば)に変わる。つまり、魔法の呪文のように、人々の考えを止めてしまう魔力をもっている」と述べている。

こうした言葉には、「なんとなくわかったつもり」になる効果がある。「活字離れ」も同様だ。概念や言葉だけが独り歩きして、もともとの問題がなんだったのか、わからなくなる。

物事を考えるときには、禁止語を設定し、その言葉を別の言葉に置き換えてみると、それだけで別な視点から考えることができる。

「活字離れ」の使用禁止

ここで、「活字離れは日本をダメにする」の「活字離れ」という言葉を使用禁止にしてみたい。何人かが集まって、議論したとする。「活字離れ」という言葉が使えないと、どういうことが起こるのか。

  • (A)「最近の人は小説を読まなくなった。これは日本をダメにする」(小説離れ)
  • (B)「最近の人は本を読まないので、教養が身についていない。これは日本をダメにする」(読書離れ。教養の没落)
  • (C)「最近の人はテレビや漫画ばかりみている。これは日本をダメにする」(他の文化の発展による、活字文化の相対的価値低下)
  • (D)「最近の人はテレビのニュースばかりで、新聞を読まなくなった。これは日本をダメにする」(政治・社会への無関心)

おそらく、このように、同じ「活字離れ」の問題について議論しようとしたのに、お互いに違う事柄を問題にしてしまうのではないだろうか。こうしてみると、さて、「活字離れ」とはいったい何のことをさしていたのだろうか、という疑問がわいてくる。

禁止後を設定し、「活字離れ」という言葉を使わないことで、問題の本質が見えてくる場合がある。、問題が何なのかをはっきりさせないまま、「活字離れは国をダメにするのか」と考えたら、得られる結論もはっきりしないものとなるだろう。

言い換えによる手間

しかし、禁止語の設定は、面倒である。わざわざ別の言葉に言い換えたりしなければならないからだ。

別のことばでいい換えると、まどろっこしさを感じることもあるだろう。実は、まどろっこしいと感じた分が、そのキーワードを使うことで、考えずにすんでいる部分を示しているのである。これらの概念(注:「個性」や「生きる力」といった抽象的な言葉)が重要でないといいたいのではない。むしろその重要さをわかって使うために、概念の厳密な使い方に注意する、そのための方法として、「禁止語=他のことばでのいい換え」という方法があるのだ。

(苅谷剛彦『知的複眼思考法』講談社 2002 p.246)

考えることについて、人間は2つの能力を持っていると思う。

  • 物事を考える能力
  • 物事を考えずにすます能力

世の中には情報があふれ、世界はとても複雑だ。複雑性を縮減するために、「概念」や「意味」がある。情報を一般化・抽象化させ、物事を単純にできる能力は、「考えずにすます能力=思考を止める能力」でもある。だから、考えずにすますことは、一概に悪いとは言えない。

でも、暮らしている中で、自分で気がつかないまま「考えずにすましていること」は多い。ときには、今まで考えずにすませていたことを、深く掘り下げて考えてみることも必要である。

そのために、私も、「禁止語」をすすめたい。

ある言葉の使用を禁止してみると、新たな発見が得られる。


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活字回帰が国をダメにする (2004-01-11)

活字回帰が国をダメにする

「活字離れが国をダメにする」という考えが、国をダメにする。

知識人の嘆き

ここでの「活字離れ」とは、知識人や教養人が

  • 中身の無いくだらない本ばかり氾濫して
  • 最近の人は本を読まなくなった

と主張することを意味する。文芸出版社を悩ます「小説離れ」は、ここでは考えない。

そして、知識人の一部は、彼らが言う「活字離れ」が、国をダメにする、と嘆いている。

悪書の氾濫

近所の本屋では、ジュニアノベルスやライトノベルスが売れている。ランキングでも上位を占めている。また芸能人関係の本も売れているようだ。こうした状況を、「まともな本を読まず、くだらない本ばかり増えている」と、教養人は嘆く。

戦前や戦後間もない頃は、文章を書いて表現できることは、ひとつの特権だった。一部の人間にしか出来ないことだった。最近ではその敷居が低くなった。そのため、全体としてみれば、本の質は低下した。

教養人は、また、「大学生が勉強しなくなった」とも言う。だがこれは、「大学教育が大衆化して、勉強しない人も大学生になれるようになった」のである。熱心な人は、今でもよく勉強していると思う。しかし、以前よりは分母が大きいので、全体としては低下しているのだ。

本も同じである。全体的に見れば、教養人が言うような本の質は低下していると言えよう。

活字という権威の危険

さて、活字離れを問題視しているということは、裏をかえせば活字に触れることが良いことだ・活字は良いものだ、という意識があるということだ。これは、危険な考え方である。

「嘘を嘘と見抜けない人には、掲示板の利用は難しい」

(2ちゃんねる管理人ひろゆきの言葉)

掲示板に限らず、ネットの利用には、嘘を見抜く能力が必要だろう。今の小学校のインターネット教育だと、「インターネットには誤った情報がある」ということを、児童に教えているようだ。これは正しい。しかし、「本には誤った情報がある」とは教えない。少なくとも私は教えられてない。「本を読みましょう」「本を読むと心が豊かになります」「本と友達になろう」と言われたことは多いが、「本を疑え」とは、一度も言われたことはない。

実際には、間違いだらけの本や、確信犯でいい加減なことを書いている本もある。通俗心理学・育児書など、内容は間違っているけど読み手にとって心地良い本が、本屋には並んでいる。そして、そういう本が、売れている。

学校の先生ですら、騙されている。私が通っていた中学校の数学教師は、授業中に、「火星には宇宙人がいるのだが、NASAが情報操作をしている」と真面目に語っていた。

また最近では、小学校の女性教師が、道徳の授業で、誤った本の内容を児童に教えてしまった例がある。江本勝の『水は答えを知っている』などを読んで、内容を疑わずに信じてしまった。水に「ありがとう」と声をかけると、綺麗な結晶が出来る、と本気で信じて、しかもそれを児童に教えて満足していた。

読書の仕方を教えるべき教師がこのありさまある。まるでなってない。

専業主婦の中にも、おかしな育児書を読んで実践してしまったり、自分の心にとって都合の良い育児書を選んできて、よく判断もせずに育児を行ったりするケースもある。

「嘘を嘘と見抜けない人には、本の利用は難しい」のだが、それを意識する人は、あまりいない。

権威だけが残っている

活字は、全体としてみれば質は低下している。しかし、「本を読むことは良いことだ」「読書は素晴らしいこと」「本に書いてあることは正しい」と思っている人は、少なくない。まだ活字には権威が残っている。その権威が低下していることを、教養人は嘆いているのだろう。

上に書いたとおり、出版点数が増えたため、本は大衆化している。すぐれたことばかり書いてあるわけではない。トンデモない内容は、むしろテレビより多いのではないだろうか。テレビのUFO特番は、作るほうも娯楽としてヤラセでやっている。しかし、本の場合は著者が本気で書いている。

整理すると、今は、「質が低下しているのに、活字の価値や権威を否定せず、むしろ活字への回帰を訴えている」という状態である。こんな状態で、仮に活字への回帰が起こってしまったら、恐ろしいことになる。大衆は、自分たちにとって聞こえの良い本ばかり読んで、それを批判せずに信じてしまう。ネットならば、「嘘を嘘と見抜く」こともあるかもしれない。ネタとして処理することもあるし、議論が起こって、真偽が判断されることもある。でも、本の嘘を見抜ける人は、あまりいない。正確に言うと、嘘を見抜こうとしない。嘘が書いてある可能性すら考えない。

単純に「活字離れ」を批判しているだけではいけない。その批判は、逆に、「活字さえ読んでいれば大丈夫。活字には正しいことが書いてある」という間違った考えを、世間に広めてしまう可能性がある。

だから、「活字離れは国をダメにする」という批判こそが、国をダメにするかもしれないのだ。

必要なのは、「書を捨てる」ことでもなく、「本と友達になる」ことでもない。本と一歩距離をおいて、本と付き合うことだ。その方法を教えるのは親や教師なのだが、残念ながら、それを教えるだけの能力はないだろう。

嘘を嘘と見抜ける人じゃないと、ネットの利用は難しい。活字だってもう同じレベルだ。

  • 「活字離れが国をダメにする」という考えが、国をダメにする。
  • 必要なのは、活字と一歩距離をおくこと。

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自由な読書のすすめ (2004-01-12)

自由な読書のすすめ

本は義務や強制されて読むのではなく、自由奔放に読むのが良いと思う。

読書離れ

昨日に引き続き、「活字離れ」を話題にしたい。今日は、「活字離れ」のうち、「読書離れ」や「小説離れ」について。

小説などの本を読まなくなって、出版社が経営の危機にあるという。また、生徒が小説を読まないと嘆く国語の先生も少なくない。

読書離れや小説離れは文化的衰退をまねく、と教育界は嘆く。出版社は何でもいいから本が売れてくれ、と願っている。これが現状だろう。

奔放な読書を

ダニエル・ペナックという人が、『奔放な読書』という本を書いた。読書離れ、読書嫌いは、なにも日本に限ったことではない。フランスでも若者が本を読まなくなって、読書離れが社会問題になっているという。

著者は、なぜ若者が本を読まないのか考えた。本を読む人は楽しんで読むけど、読まない人はまったく読まない。これは、本を読む楽しさを知らないからではないか。本を読め、と押し付けられるから、本が嫌いになって、ますます本の楽しさを知らなくなる。

この悪循環を断ち切るために、ダニエル・ペナックは、読者の権利十ヵ条というものを考え出した。読者の権利は、次のとおり。

  1. 読まない権利
  2. 飛ばし読みする権利
  3. 最後まで読まない権利
  4. 読み返す権利
  5. 手当たり次第何でも読む権利
  6. ボヴァリズム(小説に書いてあることに染まりやすい病気)の権利
  7. どこで読んでもいい権利
  8. あちこち拾い読みする権利
  9. 声を出して読む権利
  10. 黙っている権利

第一条に「読まない権利」を掲げているところが、面白い。読まなくていいし、適当に拾い読みしてもいいし、最後まで読まなくてもいい。読む本は何でもかまわない。つまらない箇所は飛ばしてしまえばいいのだ。

日本の学校の教師の教えとは、まるで正反対である。日本では、教師から本を与えられ、それを最後まで読まされ、挙句の果てには感想まで書かされたりする。(しかもその感想も、「時間の無駄だった」という正直な感想を書くことは許されない)

これでは、読書が嫌いになっても不思議じゃない。日本の国語の教師は、「奔放な読書」というものを認めてはどうだろうか。ちなみに、ダニエルは、高校の先生である。

インターネットのような読書

私が最初にこの「読者の権利」を知ったとき、これはまるでインターネットみたいだ、と思った。人はWebブラウザで、自由奔放に、自分の好きなように振舞う。

  • アクセスしない権利
  • 飛ばし読みする権利
  • 最後まで読まない権利
  • 手当たり次第何でもアクセスする権利

などの権利が、私たちには与えられている。(あまりにも当たり前のことなので、権利だとは思わない。)

Webの世界の楽しさは、こうした奔放さの中にあるのだろう。

面白いページがあるなら、それにアクセスしないのは、勿体ないことだ。本も同様で、面白い本があるなら、読まないのは勿体ない。インターネットと同じように、もっと自由奔放に本を読んで良いと思う。(ただし、昨日書いたことだが、情報からは一歩距離を置くことが必要だろう。)

本は義務や強制されて読むのではなく、自由奔放に読むのが良いと思う。


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なぜ「活字を疑え」と教えないのか (2004-01-13)

なぜ「活字を疑え」と教えないのか

学校で「活字を疑え」「新聞や本には嘘が書いてある」と教えないのは、教育が国家にとって危機となる可能性があるからである。

書いてあることを鵜呑みにしない

活字回帰が国をダメにする」(2004/1/11)が、あちこちからリンクされた。多くの人が、自分なりの意見を強く持っているようだ。

書いてあることをそのまま鵜呑みにしなことは、大事だと思っている。本に限らず、新聞もそうである。偏向報道や特定の政治的思想が記事の背景にあることを、意識して読まなくてはいけない。

これは、知っている人にとっては当たり前のことである。でも読み方を知らない人にとっては、まったく知らないことである。知らないならば、教育が必要である。しかし、義務教育の中で新聞の批判的な読み方を教えることは、まずない。なぜ、一方で「活字離れ」を憂いながら、本や新聞の読み方を教えないのだろうか。

読書能力向上は、国家の危機

教育は、国家にとって諸刃の剣である。国民を教育したことによって、国民が知恵をつけ、革命が起こり、国家が転覆させられることも、歴史上少なくなかった。本来は国家の繁栄と維持のために教育を施す。しかし、その教育が逆に国家を滅ぼしてしまうのである。

しかしながら、読み書き能力の普及から生じるのは、国家にとって好都合なことばかりではない。

(中略)

ひとたび読み書きの能力を手に入れた民衆は、しだいに国家をこえた人間の権利や正義にめざめ、政治意識を尖鋭化させることによって、しばしば国家と対決するにいたる。もちろん、民衆は知的能力をそのように活用するものときまっているわけではないが、国家を維持強化するための戦略である学校教育制度が、逆に国家に敵対する勢力を育てあげていく潜在的可能性をはらんでいることは、多くの歴史的事実によって証明できるであろう。

(森下伸也+君塚大学+宮本孝二『パラドックスの社会学』新曜社 1998 p.217)

読書能力を向上させるのならば、義務教育で、本や新聞の主張を鵜呑みにしないことを教えなければならない。自分で考えて、内容を理解・批判する。そのような「考える力」は大切だ。しかし、学校ではそれを教えない。ネットの情報に嘘があることを教えても、本や新聞に偏向があることを、教えない。

その理由は、国民の読書能力が向上し、国民が賢くなってしまっては、国家が困るからである。新聞の書いてあることぐらいはそのまま受け取ってもわらないと、統制がきかない。大衆は、文字を読んで理解するだけの能力があればよいのだ。

新聞社も、「新聞を読まない社会人の問題」を記事にしても、「複数の新聞社の新聞を比較しながら批判的に読む社会人」は記事にしない。複数の新聞社の新聞を読んでもらっては、新聞社が困るのである。スポーツ新聞をのぞいて、一家で新聞を2つ以上とるようになれば、新聞社の売り上げは増える。でも、新聞社はそんな宣伝はしない。世論を操作することが難しくなってしまうからである。

義務教育の中のジレンマ

義務教育での、読書能力教育は、とても難しい。あまりに「読み手」の能力を向上させても、国家としては危機となる。逆に、国民にまったく読書能力がない場合、新聞を読んで理解することすらできず、民主国家の危機となる。

良く言えばバランスをとりながら、悪く言えば中途半端に、国家は国民に読書能力向上の教育を施す。それゆえ、「活字を疑え」とか「批判的に読め」とは教えずに、ただ「新聞を読もう」「本を読もう」と教えるのである。

まともな能力のある社会科教師や国語教師は、この板ばさみに苦しんでいるのではないだろうか。

  • 教育は国家にとって諸刃の剣
  • それゆえ、読書能力は抑制される

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成人式の祭り化 (2004-01-14)

成人式の祭り化

現代の日本では、「子ども」と「大人」の世界の境界が曖昧である。そのため、「成人式」は儀式にならず、「祭り」と化す。

時事ネタに反応してしまう

話題に乗り遅れているが、成人式に暴れる若者が、問題視されている。今日は成人式について書いてみたい。

(昨日に続いて「活字離れ」、とくに新聞について書くつもりだったが、つい時事ネタに反応したくなった。)

世界の境界にある儀式

成人式の「式」とは、もちろん儀式のことである。この場合の儀式は、何を意味するのか。

民俗学者のアルノルト・ファン・ヘネップは、「通過儀礼(rite of passage)」という儀式的なパターンを、世界の中に見出した。通過儀礼は、ある世界から別の世界への移動の際に行われる儀礼である。

通過儀礼の構造

結婚式、葬式、入学式、卒業式、入隊式、果ては修学旅行の出発式まで、社会には通過儀礼があふれている。どれもこれも、ある世界から別の世界への移動の際に行われる。世界とは空間に限らず、本人の社会的地位(本人にとっての世界のあり方)も意味する。

成人式も、通過儀礼のひとつと考えられる。通過儀礼としての成人式とは、「子ども」から「大人」への地位の転換であり、本人にとって、世界のあり方を変える境界なのである。

子どもと大人の曖昧な境界

日本では、子どもと大人の境界が曖昧である。20歳になって出来ることといえば、酒・タバコだろう。そして選挙権が与えられる。しかし、酒やタバコは、ふつうは20歳より前に経験するものだと思うし、選挙権を与えられても、選挙が無ければ世界の変化を意識することもない。そもそも政治に興味が無い。(ちなみに、私は、20歳より前に酒を飲んだことがある。しかし、タバコはまだ一度も吸ったことがない。)

そのいっぽうで、18歳になると、さまざまな権利が与えられる。車の免許を取得する権利、アダルトビデオを見る権利、結婚する権利などが、社会から与えられる。私は、20歳になったときよりも、18歳になったときの方が、大人になったという実感があった。「ADULTONLY」と書いてあっても、もう18歳を超えれば関係ないのである。18歳になった時の方が、世界が変わったという実感が、私にはあった。

20歳になって、いくら大人が「これからは大人としての・・・」と新成人に述べたとしても、彼らにはその実感がわかないのである。彼らにとっての世界は、これまでと何も変わらないのだから。

祭り公認か、境界を作るか

成人式の前後で、世界が変わるわけではない。そのため、儀式としては機能しにくい。今、行われている成人の日のイベントは、退屈な日常のスキマを埋めるイベント、つまり、「祭り」なのである。

彼らは、「成人祭り」の日に騒ぎ、日常を忘れる。クラッカーを鳴らし、酒を飲み騒ぐ。テレビで報道された映像を見ても、その光景は「儀式」というより「祭り」と言うほうが相応しい。

そして成人のイベントの後には、また何事もなかったかのように、退屈な仕事や退屈な学校生活に、戻っていくのだろう。まさに「祭り」そのものである。

「成人式の祭り化」を肯定し、成人の日のイベントを、すべて祭りにしてしまうのも、一つの方法だろう。もしくは、子どもと大人の境界をはっきりさせ、成人式に通過儀礼としての役目を果たさせるか。このどちらかの対策をうつべきだと思う。

中途半端な今の状態は、新成人にとっても息苦しい。

子どもと大人の境界が曖昧なので、「成人式の祭り化」が進行する。


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統計という嘘 (2004-01-15)

統計という嘘

新聞やテレビには、統計データがあふれている。そして、統計は嘘をつくことがある。

3つの嘘

「活字離れ」に関連した話題を。新聞やテレビとうまく付き合うには、情報の誤りに気をつけなくてはならない。新聞は、意図的に嘘をつく場合もあるし、うっかり誤ってしまうこともある。

イギリスの政治家、ディズレーリは、次のように言ったという。

「嘘には3種類ある。嘘、みえすいた嘘、そして統計だ」

新聞には、様々な社会調査のデータが記事にされる。憲法改正の是非から、経済、教育、健康にいたるまで、多くの統計データが扱われている。しかし、これらの統計データは、ときに読者を騙す。意図的に騙す場合もあるし、書いているほうが勘違いしている場合もある。

お米は長寿の秘訣?

騙されてしまいやすい例をあげてみたい。次のテキストのどこが怪しいのか、余裕のある人は考えてみて欲しい。

「『お米が長生きの秘訣』 日本お米協会の調査によると、朝食にご飯を食べる人は、パンを食べる人よりも平均で3歳寿命が長い、ということがあきらかになった。ご飯は栄養が豊富で・・・」

この文章のような事実はないが、同じようなニュースは、毎日のように見かける。さて、この記事のどこが怪しいのか。

答えは、ご飯以外の要因が健康に影響を与えている可能性を否定していない、である。たとえば、「みそ汁」が長生きさせているのかもしれない。朝食にご飯を食べるなら、みそ汁を飲む人も多いだろう。

朝食にご飯を食べている人が長生きしていたとしても、ご飯が直接影響を与えているとは限らない。隠れた変数として、「みそ汁」があるかもしれない。背後に隠れている事実に注意して、新聞記事を読まなくてはならないのだ。

キレる子供・成績の良い子供

「キレる子供にしないための食事」というのも、典型的な統計の嘘だろう。たしかにデータで見れば、ジャンクフードばかり食べている子供の方が、非行に走りやすい。でもそれは、食事が影響を与えているわけではなく、家庭の環境やしつけが影響しているのだろう。家庭環境がよければ、ジャンクフードばかり食べさせることはしない。食事を改善しても、本質的な部分で間違っていれば、効果がないだろう。

おかずが多いほど子供の成績が良い

また、夕方の6時から放送されている専業主婦向けのニュースで、驚くべき統計の嘘を見たことがある。そこでニュースとなっていたのは、「食事の時のおかずの数が多いほど、子供の学校の成績が良い」というものだった。そして、「おかずの量を増やして、子供の成績アップにつなげよう」と結んでいた。いくら専業主婦向けとはいえ、このニュースはひどい。

一般に、年収の高い家庭の子供ほど、学校の成績は良い。かけている教育費が違うのである。家庭の環境も良いだろう。そして、裕福な家庭は食事も裕福で、おかずの数も多いのである。だから、「おかずの数が多い家庭ほど、子供の成績が良い」のである。「おかず」が子供に影響を与えているわけではないのだ。

おかずの数は多いほうが良いだろう。でも、増やしたからといって、成績があがるわけではない。成績を上げたければ、もっと別なところに力を入れなければならない。

「おかず」と「成績」の関係を知った専業主婦は、テレビのインタビューで、「これから節約しておかずの数を増やすようにします」と言っていたが、たぶん子供の成績は上がっていないだろう。教育費を減らして、おかずを増やしたら、たぶん成績は下がる。

データとの付き合い方

こうした統計の嘘は、枚挙にいとまがない。健康食品やダイエット食品を売りつけるためには、専業主婦を統計で騙すのが手っ取り早い。

被害が専業主婦だけならば何の問題もないのだが、その夫や子供にまで被害が及ぶのは問題だ。

新聞やテレビとうまく付き合い、騙されないようにするには、統計の読み方を知らなければならない。

統計という嘘がある。


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感想文の意味 (2004-01-16)

感想文の意味

読書感想文では、読者は感想を書いてはならない。読書感想文を書けと命令した人が満足するような文章を書かなくてはいけない。

読書感想文が嫌い

読書感想文を書くのが嫌いだった、という人は少なくない。好きなのは優等生の女子の一部ではないだろうか。なぜそんなにもつまらない小説に同調できるのか、わからなかったが、おそらく人種が違うのだろう。

以前、私の会社で、経営幹部から本をプレゼントされたことがある。本を読んで、感想文を書け、と命令された。読んではみたが、あまりぱっとしない内容で、批判すべき点はたくさんあった。しかし、感想文では、「感銘を受けた」「まさしく著者の主張するとおりである」などと、心にも無いことを書いた。会社員ならわかるだろう。そう書かざるをえないのである。

正直に書いてはいけない

感想文は小学生の頃から書かされると思う。このとき、正直に感想を書いてはいけない。小谷野敦も中学校のときに、正直な読書感想文を書いて、教師に怒られたことがあるらしい。

教科書には太宰治の『走れメロス』が載っていたりして、これを読んだ私は、まことにけったいな話で、わざわざ友達を呼び出して身代わりにするくらいなら、最初から妹の結婚式を済ませてから王宮へ暴れこめよなあ、と思い、そのとおりを感想文にしたら、教師から、君は理解ができてないねえ、といわれた。

(小谷野敦『バカのための読書術』筑摩書房 2001 p.149)

私にも似たような経験がある。「つまらない」「共感できない」という言葉は、読書感想文ではタブーである。とくに小学校では、「感情豊かな」人が求められるので、それに応じた感想をかかなくてはならない。

これではまるで感情を操作するための教育に本が利用されているだけである。教師は満足するかもしれないが、本を嫌いになってしまう人も多いのではないか。

読み手を意識すること

感想文に限らず、多くの文章は、人に読まれることを前提にしている。だから読書感想文も、教師に読まれることを前提に、感想を書かなければならない。教師が満足するような感想を書かねばならないのだ。

「そんな小細工しなくていい」と思う人もいるだろう。でも、読み手を意識して、その期待に応えるテクニックは、生涯役に立つのである。現に、このサイトで文章を書く上で、役に立っている。仕事でも有益である。だから、読み手を意識することは、決して悪いことではないのだ。

だがしかし、その教育を読書感想文でやらなくてもいいと思う。論説を要約させたり、作文を書かせる中で、読み手を意識させればよい。読書感想文を書き、それが読まれるということを前提にして、本を読みたくないのだ。

読書によって味わう感動まで、誰かに強制されたくない。

読書感想文では、読者は感想を書いてはならない。


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本のよいところ (2004-01-17)

本のよいところ

本の良いところは、表現の自由さにある。

やっぱり本が好き

「活字離れ」に関連した話題ばかり書いていて、「本を疑え」なんて書いたりしたが、私は本が好きである。テレビや新聞にはない、表現の自由さが、本にはある。

たとえばテレビや新聞だと、「専業主婦はゴミ」とは言えないし、書けないだろう。本当のことでも、テレビはそれを伝えられない。ところが本だと、比較的真面目な本に、「専業主婦は国家のお荷物」「専業主婦に未来は無い」と書かれている。テレビでこんな発言をしたら、退屈な専業主婦から苦情がくるから、とてもじゃないけど言えない。新聞もしかり。

テレビや新聞は、受動的なメディアである。情報を一方的に与えられるだけだ。しかし、本はこちらからアクセスし、様々な情報を取得することができる。社会的にタブーとされることも、知ることができる。だから、私は本が好きだ。

テレビで語れないこと

テレビでは、スポンサー批判はタブーである。だが、スポンサーとはあまり関係がないNHKでも、テレビでは語れないことがある。そのひとつが「性」についてである。

NHKは、日本人の性行動を調査し、ドキュメンタリー番組を作成しようとした。しかし、公共の電波という壁が立ちはだかり、自由に「性」に関する番組が作れなかった。

調査の大きな部分を占めた「性行為」をめぐるデータの分析は今後の課題となり、データそのものを紹介することすらできなかった。

「性を描くことの苦手なテレビの壁」は、またしても大きかったのかもしれない。

(『データブック NHK日本人の性行動・性意識』2002 )

結局NHKは、「妊娠中絶」「女性の性的被害」「10代の性経験」「セックスレス」の4つのテーマについて、ドキュメンタリー番組を作成した。NHKらしい選択だろう。「セックスレス」について取り扱ったのは、NHKにしては冒険だったかもしれない。

しかし、たとえば、「40代〜60代男性の4人に1人は、童貞喪失を買春で経験している」というデータは、たぶんテレビでは放送できない。このデータはネタではなく、NHKが後に出版した本の中に、しっかりと掲載されている。

テレビでは発言できないことも、本では表現できる。テレビでは、あまりに不自由だ。

新聞で語れないこと

新聞も、スポンサー批判を書くことはできない。それ以外にも、社会的に語ることがタブーとされていることは、テレビと同じにように、沈黙するかぼかして表現するしかない。

タブーのひとつは、「社会階層」である。日本は階層がないか、タテマエ中流社会である。階層の話題は書くことができない。

晩婚化や失業の問題など、本来は社会階層抜きでは語れないものである。女性であれば、高卒フリーターと大卒キャリアウーマンでは、結婚しない・できない理由は違うはず。でも、新聞ではそうした記述は差別的とされるようだ。

社会学者の山田昌弘は、新聞社から記事の削除を求められたことが何度かあったと書いている。

専業主婦志向・キャリア志向を問わず、同居する父親の収入の高い女性と、自分の収入の低い男性が、結婚難に陥りやすいという構造ができあがる。この事実は、誰でも知っており、調査統計からも明らかなのにもかかわらず、官公庁や新聞は、絶対に公に取り上げない。

ある役人から、この事実を公表すると首が飛ぶと言われたことがある。私も、報告書や雑誌に書くときに、この部分の削除を求められたことは一回や二回ではない。

階層と結婚の関係を論じることがタブーとされていることが、結果的に、少子化、未婚化に関する公式的議論をピントはずれなものにしている。

(山田昌弘『家族というリスク』勁草書房 2002 p.81,82)

「アメリカ政府はUFOの存在を隠している!!」みたいなトンデモ本っぽい雰囲気が感じられる記述だが、ここは信じるとしよう。他の学者も、同じような事を他の本で書いている。

公的と私的の間

テレビや新聞は、公的なものである。そのため、発言には制限がかかる。いっぽうインターネットは、私的な部分が多い。公的な雰囲気がない。制限はほとんどなく、自由である。そのぶん、情報が洗練されていない。

本は、公的でもないし、私的でもない。ある程度不自由はあるものの、とくべつ表現に困るほどではない。情報もネットと比較すれば、まだ洗練されている。

本のこのバランスの良さと自由さが、私は好きだ。

本の良いところは、表現の自由さにある。


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童貞喪失の相手 (2004-01-19)

童貞喪失の相手

40代〜60代男性の4人に1人が、風俗施設の人を相手に童貞を喪失していた。

はじめての相手

昨日、「40代〜60代男性の4人に1人が、売春婦を相手に童貞喪失を経験している」と書いた。詳細を知りたいという人がいたので、今日はその補足を。

『データブック NHK日本人の性行動・性意識』(2002)のp.225のデータから、グラフを作成した。質問は、今までにセックスしたことがある人に対して、「初めてのセックスの相手は、当時、あなたとどういう関係にありましたか。(1つにだけ○を)」というもの。なお、調査は99年末に行われたものである。

はじめてのセックスの相手

注目したいのは、次の点。

  • 40代で26%、50代で24%、60代で25%の男性が、風俗施設の人で童貞を喪失。(だいたい4人に1人の割合)
  • 若い世代では、恋人が初めての相手である場合が多い
  • 年齢が高くなるにつれて、妻が初めての相手、という人が多い

同じ童貞喪失経験でも、世代によって相手が大きく異なるのである。

なぜ風俗施設の人なのか

中高年世代の男性の4人に1人が、売春婦相手に童貞を喪失している。私の感覚だと、ややこの割合は高いと思う。10%ぐらいが、社会としては適切ではないだろうか。

ではなぜ、決して少なくない人が、売春婦を相手にセックスをしたのか。

  • セックスと結婚が強く結びついていたため
  • 恋愛(愛情)とセックスがそれほど強く結びついていなかったため

の2つの理由が大きい。(参考:「愛と性と結婚の一致(2004年1月8日)

まだ性の解放が進んでない頃は、結婚せずにセックスすることは、社会通念上ゆるされなかった。もし女性とセックスして、その人と結婚しなかったら、それは裏切りだった。

しかし、結婚できる年齢に達する前に、性欲は湧き上がる。これを処理するためには、風俗施設を利用するしかない。セックスは結婚が前提であったため、友人や、そこそこ親しい女性ともセックスできなかったのである。

また、なかなか結婚の機会に恵まれなかった人もいるだろう。そうした人は、もてあました性欲を処理するために、風俗施設を利用し、初めてのセックスを経験した。

セックスに恋愛感情が必要なかった、というのも理由としては大きい。一部の知識人には、セックスに恋愛感情が必要、と思われていたが、一般大衆すべてには普及していなかった。

現代ではこの思想が逆転し、

  • 結婚しなくてもセックスしてよい
  • 愛情があればセックスしてよい(愛情がなければセックスしてはいけない)

という思想や価値観が主流になった。そのため、20代では、ほとんどの人が恋人と初めての経験をするようになったのである。

性の乱れとは

中高年の男性の多くが、風俗施設で童貞喪失したことを、非難したりはしない。今の時代の状況から見れば、おかしいことなのかもしれないが、当時の社会では、ごく普通のことだったのだろう。

しかし、中高年世代が現代社会を見て、「最近の若い人の性が乱れている」と言っているのは、いったい何を指して言っているのだろう。買春していた人たちが、いったい何を言っているのだろうか。

私たちは、「性の乱れ」という言葉を耳にすると、それが現代の病理であるかのように錯覚してしまう。しかし、40年前も、ある意味では「性の乱れ」が見られるのだ。決して健全だった、とは言えないだろう。

  • そもそも「健全な性」とは何か
  • 「健全な性」が可能だった社会が歴史上あったのか

この2点を考えずに、「性の乱れ」を容易に語ることなどできないのだが。

40代〜60代男性の4人に1人が、風俗施設の人を相手に童貞を喪失していた。


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派遣労働者はフリーターか? (2004-01-19)

派遣労働者はフリーターか?

フリーターを定義することは難しい。

就職できない人の末路

「就職できなくて、フリーターになってしまう。ああ、早く結婚して専業主婦になりたい」という愚かな女子大生のグチを聞くことが、たまにある。専業主婦も問題なのだが、フリーターも問題である。

自称フリーターの方からメールをいただいた。せっかくだから、これからしばらく、フリーターについて何か書いてみようと思う。(たぶん、面白い話にはならないと思う。)

フリーターの語源

「フリーター」という言葉は、『フロム・エー』のリクルート社が作った言葉である。フリー(自由を意味する英語)と、アルバイター(労働者男性形のドイツ語)をあわせたものだ。そのため、英語でのつづりは存在しない。

就職氷河期以前に、この言葉は作られた。就職先はいくらでもあるが、あえて自由な生き方や夢を追いかけるアルバイト労働者を意味していた。

フリーターの定義

現在では、学校を卒業しても、正社員としてではなく、アルバイトやパートの仕事をしている人々を指すのが、一般的な意味である。

しかし、アルバイトだけではなく、派遣労働者や無職の人もフリーターに含める場合もある。内閣府の国民生活白書(平成15年)のフリーターの定義(p.77)を引用する。

15〜34歳の若年(ただし、学生と主婦を除く)のうち、パート・アルバイト(派遣等を含む)及び働く意志のある無職の人。

よく意味がわからない定義である。簡単に言い換えれば、「働く意志はあるが正社員として就業していない人」がフリーターということになる。ずいぶんフリーターを拡大解釈していると思う。

派遣労働者はフリーターか?

私は派遣で働く人を、フリーターだと認識していない。だがあえて、正社員かフリーターかのどちらかに分類せよ、と言われたら、フリーターに分類するしかない。

派遣労働者は、一時的な労働者である。テンプスタッフという派遣会社の会社名そのものである。テンプ(temp=テンポラリ、一時的)な、スタッフという意味だろう。

一方でフリーターの労働者としての特徴はどうだろうか。これも、一時的な労働者という意味合いが強い。

客観的に見れば、フリーターは、「安価で使い捨て可能な単純労働力」に他ならない。

(山田昌弘『家族というリスク』勁草書房 2002 p.112)

ここ山田が言うフリーターは、派遣を含んでいない。派遣は人にもよるが、それほど安価ではない。

派遣とアルバイトで共通するのは、「一時的な労働者」という点である。だからといって派遣もフリーターに含めるのは無理があるような気がする。何かフリーターに代わるような、別な言葉はないだろうか。

フリーターについて論じる時には、必ずフリーターを定義しなければならない。派遣を含めるのかそうでないかで、実態は大きく変わってしまう。フリーターの定義は困難だ。

フリーターの定義は難しい。ときに派遣もフリーターとして分析する。


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変化を抱擁せよ (2004-01-20)

変化を抱擁せよ

フリーターの増加そのものも問題だが、それよりも、フリーターの増加に対処しきれない社会や人々の方が問題である。

変化を抱擁せよ

私には、特定の強い信念がない。座右の銘もない。社会は変動し、自分の周囲も変化する。そんな時に特定の信念や座右の銘に縛られて、自分の行動を制限してしまうのが怖いからだ。

あえてひとつ挙げるとすれば、私の信念は、「変化を抱擁せよ(EmbraceChange)」である。ソフトウェア開発の方法論の一つである、「XP(エクストリーム・プログラミング)」のキャッチフレーズだ。私はXPの信奉者ではないが、この言葉は、ソフトウェア開発だけでなく、ビジネスや人生についても適用できる。

ソフトウェアのすべてのものは変化する。要求は変化する。設計は変化する。ビジネスは変化する。テクノロジは変化する。チームは変化する。チームのメンバは変化する。

変化自体は問題ではない。変化は起こりうるものだ。問題は変化が起きたときに対処できないことだ。

(ケント・ベック『XPエクストリーム・プログラミング入門』 ピアソン・エデュケーション p.28)

ソフト開発に携わった人なら、誰でも仕様変更を経験したことがあると思う。ソフトウェアは生き物である。要求の変化は当たり前のように起こる。そして、それに対処しなければならない。

社会も同じである。将来は不確実で変動が激しい、ということだけは確実である。必ず変化してしまうものなのだ。変化を嘆いてもはじまらない。

変化に対抗するのではない。変化を抱擁し、受け入れて、変化に対処していかなくてはならない。

フリーターの増加の問題

フリーターの増加が社会問題とされているが、問題とは何のことだろうか。

  • フリーターの増加という変化
  • フリーターの増加という変化に対処できない社会・人々

の2つが考えられる。この2つは分けて考えるべきだ。

フリーターの増加そのものにも問題はある。だけど、それよりも、フリーターの増加に適応しきれていない社会や人々の方が問題だと思う。

フリーターの増加は、社会(労働需要)の側の要因が大きい(国民生活白書 平成15年p.84)。企業から見れば、仕事の内容の変化に応じて、一時的なスタッフであるフリーターを使いたがるのは当然である。かつてのように、正社員として雇用し、定年まで面倒を見ていたら、ビジネスにならないのだ。これからも、フリーターの数は減ることはないだろう。

このような変化を抱擁せずに、「最近の若者はダメ」と思い込んだり、「どうしても正社員として働かなくては」と正社員にしがみついている人が少なくない。

社会は変化するものだ。「変化を抱擁」し、生きていかなくてはならない。嘆くだけでは、さらに社会が悪化するだけだ。

フリーターの増加に対処しきれない社会や人々が問題である。


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フリーターと正社員の収入差 (2004-01-21)

フリーターと正社員の収入差

フリーターは正社員と比べて低収入であり、年齢が上昇しても収入は増えない。

フリーターと給料

フリーター特集第3回。今回は収入について、データを提示してみる。

フリーターが感じている不安や不満に、

  • 給料が安い
  • 給料が増えない

というものがある。もっともだと思う。親の世代が「フリーターはダメだ。ちゃんとした正社員として就職しなさい」と説教するのも、給料が理由の1つである。

フリーターと正社員の年収差

現実に、フリーターと正社員の間には、大きな年収差がある。次のデータが示すように、フリーターの多くは年収300万円以下である。

正社員とフリーターの年収差

15歳〜34歳までが対象である。パート・アルバイトは、正社員以外と考えていい。

データを見ると、正社員の半数以上が年収300万円以上である。それに対し、パート・アルバイトは、年収300万円以下がほとんどである。正社員とそれ以外では、年収の差が大きいのだ。

経済アナリスト森永卓郎の、『年収300万円時代を生き抜く経済学』がベストセラーになったが、年収300万円にも満たない人は、どうすればよいのだろうか。(それぞれ、自分自身で考えるしかない。)

上がらない給料

今の給料が安いのはわかった。では将来、フリーターの給料は上がるのだろうか。正社員との格差は広がるのだろか。

正社員とそれ以外の賃金カーブ

賃金構造のデータを見る限り、正社員以外は年齢が上昇しても賃金は横這いである。それに対して、正社員は年齢とともに賃金が増加する。

一般に、年をとるにつれて、必要なお金は増加する。しかし、フリーターでは給料が増えないため、生活が困難になっていく。

若い頃は正社員との差も少なく、必要な金も少ない。だからフリーターでも生活していける。しかし、30を超えると差が広がり、結婚して子どもが出来ればお金も必要になる。フリーターでは正直苦しいのである。

現在のフリーターが同じ賃金カーブを描くわけではない。だが、大きな収入の増加は見込めないだろう。

フリーターと正社員では、収入面で大きな格差があることは否定できない。

フリーターは正社員と比べて低収入であり、年齢が上昇しても収入は増えない。


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正社員とフリーターの満足度 (2004-01-22)

正社員とフリーターの満足度

フリーター特集第4回。

正社員とパート・アルバイトの満足度は、ほぼ同じである。

ほぼ同じ満足度

正社員には正社員のメリットがあり、フリーターにはフリーターのメリットがある。フリーターにも大きなメリットがあり、魅力的な働き方である事は否定できない。

正社員とパート・アルバイト(正社員以外)の満足度を比較したデータを見てみたい。

正社員とパート・アルバイトの満足度

表中の数値は、「あなたは各項目に対し、現在の職場について満足していますか。あなたの考え方に近いものをお答えください。」という問に対し、「満足している」、「どちらかといえば満足している」と回答した人の割合の合計(%)である。

パート・アルバイトの満足

パート・アルバイトが正社員よりも特に満足しているのは、

  • 労働時間の長さ
  • 仕事と生活の両立のしやすさ
  • 拘束度
  • 休日の多さ

である。これらは充実した人生をおくるのに重要な要素だ。正社員が求めているものである。正社員は拘束され、残業も多く、生活が仕事に汚染されている。

一方で、正社員が満足している点は、

  • 現在の職場での働き方
  • 昇進の機会
  • 能力開発や教育訓練の機会

である。仕事人間以外には、あまり魅力的とはいえないだろう。

また、「適切公正な能力評価」については、パート・アルバイトよりも満足していない。これも興味深い。

満ち足りた人生

正社員であれ、フリーターであれ、満ち足りた人生をおくることは難しい。仕事に関しての満足度は、会社員もそれ以外も、たいして変わらないのだ。

人間は比較の中で生きている。30万円の月給をもらっても、周りの自分と同じレベルの人間がが50万円もらっていたら不満だし、逆に周りが20万円だけしかもらっていなかったら、満足してしまう。

「賃金」の満足度は、正社員もパート・アルバイトも大した差はない。正社員は正社員同士で比較をし、パート・アルバイトは彼らの社会の中で比較している。だから、賃金については、それほど満足度に差は出ない。満足とは、その程度のものだ。

もしも正社員として働いていて、長時間労働や長時間の拘束、そして休日の少なさなどが不満だったら、正社員以外の道を考えるのも良いと思う。

正社員だからといって満足はしていない。フリーターのメリットも大きい。


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正社員とフリーターの労働時間 (2004-01-23)

正社員とフリーターの労働時間

全体としては、正社員の数が減り、フリーターの数は増えた。だが、長時間働く正社員の数は、増加している。

長時間労働の正社員

私が以前勤めていた会社は、週60時間以上の長時間労働は当たり前、休日出勤はデフォルトで、残業代も出なかった。正社員だったが、時給に換算すると、フリーターよりも給料は安かった。

同じような体験のある正社員は、少なくないはずだ。世の中にはとんでもない企業が多い。

こうした正社員の長時間労働は、最近は特に顕著である。会社は正社員の雇用を抑えている。その抑えた分を、入社してきた社員に押しつけている。そのため、一人あたりの労働時間は増加する。

正社員とパート・アルバイトの週当たりの労働時間を見てみよう。数字は人数(万人)で、労働時間ごとに、95年と01年でどれだけ人数が変化しているかを意味している。

正社員とパート・アルバイトの労働時間

これは、若年層に限ったデータである。全体では、正社員が129万人減少し、パート・アルバイトが170万人の増加となっている。次の点に注目したい。

  • 適度な労働時間の正社員が極端に減少(40〜50時間労働の正社員が127万人減少)
  • 過労死認定レベルの長時間労働正社員が増加(60時間以上働いている正社員が49万人増加)
  • 適度な労働時間のパート・アルバイトが急増

週60時間以上働いている正社員の増加は、特筆すべき点だ。フリーターの増加ばかり叫ばれているが、その背後には長時間働かされている若い正社員の存在があるのだ。フリーターのことばかり着目していてはいけない。

週60時間以上の労働が続けば、過労死へと繋がる可能性がある。厚生労働省の過労死認定基準では、発症前2〜6カ月間に月平均80時間以上の残業が認められれば、「業務と発症の関連性は強い」と判断される。週60時間以上働いていれば、残業も80時間を越えるだろう。フリーターの増加も問題だが、その一方で過労死ボーダーライン上をさまよう若い正社員が増加していることを、もっと問題にすべきではないのか。

広がる格差

経済学者の玄田有史も、長時間労働の若者が増えていることを指摘している。

おそらく90年代後半以後、大企業では、課長以下、若手社員が残業に残業を重ねるという状況が多くの職場で常態化しつつあるのだろう。せっかく大学に進んで有名な大企業に就職しても、多少高いくらいの給料では割りに合わないと感じられるほど、長い時間働いている若者がそこにいる。

(玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』中央公論新社 2001 p.136)

長時間労働が増えているのは正社員であり、パート・アルバイトは適度な時間で仕事をしているケースがほとんどである。

たとえ正社員と入社しても、長時間労働が待っているかもしれない。ちょっと高いぐらいの給料じゃ、割りに合わないかもしれない。しかも正社員だと、なかなか会社を辞められない。辞められないから、長時間労働を引き受けざるをえない。断われないことを知っているから、経営者も正社員に残業を押し付ける。

正社員は、自分の時間というものが会社によって支配されてしまう存在なのだ。正社員も、悲しい存在だ。

長時間働く若い正社員の数は、増加している。


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高校生は本当に理数科目に弱いのか? (2004-01-24)

高校生は本当に理数科目に弱いのか?

ニュース「高校生、理数系弱く勉強意欲乏しく 学力テスト結果」についてコメントを。いい加減なデータ分析を公表する文部科学省に疑問。

高校3年生生学力テスト結果

文部科学省は23日、全国の高校3年生約10万5000人を対象に、02年11月に実施した学力テストの結果を発表した。数学と理科では文科省側が期待した正答率を大幅に下回り、とくに数学では30問中1問しか上回らなかった。国語と英語は期待した程度の成績で、理数系教科が苦手な傾向がはっきりした。

高校生、理数系弱く勉強意欲乏しく(asahi.com)

最近では理科系離れも進行していて、数学ができない大学生も多いという。今回の調査結果は、それを裏付けることになったのだろうか。

  • 文科省の期待値が妥当なものだったのか
  • 進学(文系・理系)と就職を分けなくてもよいのか

この2点が、まず疑問である。

期待値は検証することはできないので、ここでは保留とする。

最大の疑問は、高校3年生と一口にいっても、学校によっていろんなタイプの高校生が存在することだ。文系の大学に進学する人、理系の大学に進学する人、就職する人・・。

数学や理科のテスト結果が悪かった、と記事では伝えている。しかし、実施したテストは、1年生で習うものだった。実施された科目は、数学Iや生物IBなのだ。

文系の大学に進学する人や、就職を考えている人は、3年の時に数学なんて勉強しないだろう。そもそも数学が苦手だから文系を選んでいる人だっているのだ。それをひとまとめにしてテストをして、「理数系の結果が悪かった」という結果が出るのは、当然の事だと思う。

ちなみに、文系や理系に関係のない英語は、ほぼ文部科学省の期待値どおりだったという。理系・文系の区別もなしに「理数が弱い」と判断してしまうのは、短絡的だと思う。(実際には理数科目は学力の低下が進んでいると思う。ただ、文部科学省のデータからは判断できない、という意味である。)

記事を読み進めると、文部科学省のコメントがあった。

テスト対象者の8割を占めた進学希望者は文系、理系の選択を終えていたとみられるほか、就職希望者も2割いた。文科省は、こうした点が「どう影響しているかはわからない」としている。

「どう影響しているかはわからない」って、いったい何を調べようとしていたのだろうか。受験者の進路のデータもあるはずだから、それを元に分析すればよいと思うのだが。公表するのに何か不都合があるのか、それとも「理数離れ」を煽りたいのか。疑問である。

話はそれるが、朝日新聞の記事には、「朝食をきちんと食べる子どもほどテストの結果が良い」とあった。朝ご飯が直接成績に影響を与えているわけではないので、ご注意を。

いい加減なデータ分析を公表する文部科学省に疑問。


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理想の生活 (2004-01-26)

理想の生活

酒の席でネタになる、ちょっとした話を。「理想の生活」と「最悪の生活」について。

理想の生活

友人から、「理想の生活」と「最悪の生活」というジョークを教えてもらった。ありがちな話なので、有名なのかもしれない。

理想の生活とは、「アメリカの家に住み、日本人の妻とフランス人の愛人を持ち、中国人のコックとイギリス人の執事を雇うこと」だそうだ。なるほど。

広くてゆとりあるアメリカの住宅に住み、日本人の妻を優秀な家政婦として働かせ、フランス人の女性と恋愛を楽しみつつ、食事は中国人が料理する本格中華。そして、仕事をきっちりこなしてくれるイギリス人の執事がいれば、たしかに「理想の生活」である。この生活に猫でも加われば、もう天国だ。こんな生活してみたい。

最悪の生活

反対に、最悪の生活というものある。それは、「日本の家に住み、アメリカ人の妻を持ち、イギリス人のコックと中国人の執事を雇うこと」だそうだ。これもうなずける。

日本の場合、地方だとあまり気にならないが、都会の住宅事情は決して良いとはいえない。そんな狭い家に、自己主張と要求ばかりするアメリカ人の妻と一緒に生活するなんて、考えただけでも憂鬱になる。また、料理をするのがイギリス人だったら、きっと料理はまずいだろう。イギリスの料理のまずさは有名だ。そのうえ中国人の執事までいたら、パニックになる。中国人に執事が務まるとは思えない。こんな生活したくない。

理想の生活は、「アメリカの家に住み、日本人の妻とフランス人の愛人を持ち、中国人のコックとイギリス人の執事を雇うこと」


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フリーターの10年後の希望と予定 (2004-01-26)

フリーターの10年後の希望と予定

フリーターの男性は10年後は中小企業の正社員になると予定している。フリーターの女性は、結婚して男性に生活を支えてもらう予定である。

なぜフリーターか?

またフリーターの話。質問されたので答えるが、なぜフリーターに関心があるのかというと、自分が失業したときの受け皿として、アルバイトや派遣の仕事があると、とても心強いからである。どんなスタイルであれ、仕事がなければ食べていけない。フリーターの労働市場は、セーフティネットとしての役割が期待できる。

もしくは、自由に働くフリーターたちに、ある種の憧れがあるのかもしれない。会社員として働くと、どうしても組織の息苦しさというものが出てくる。そのしがらみの中で光を見出すのが面白いところでもあるけど、たまには自由になってみたいと思うのだ。

だから、私がフリーターに向けるまなざしは、一般的な視点とは違うと思う。

フリーターの希望と予定

さて、そんな自由なフリーターが、10年後の自分というものをどのように考えているのだろうか。社会学者の山田昌弘が、フリーターの10年後の希望と予定を調査した。

フリーターの10年後の予定と希望

まずフリーター男性をみてみる。「希望」は、

  • プロとして独立
  • 公務員
  • 中小企業の正社員

が多い。それに対して、「予定」は

  • 中小企業の正社員

がダントツである。約半数が、中小企業の正社員を予定している。現実的であり真面目でもある。(ただし、「予定」と実際になれるかどうかは別の話である。)

逃げとしての「結婚」

男性に対して女性は、あきらかに逃げ場所として「結婚」を考えている。「希望」として多いのが、

  • 配偶者に生活を支えてもらい自分のペースで仕事
  • 仕事はしていない(専業主婦)
  • プロとして独立

であり、「予定」として多いのが、これまた

  • 配偶者に生活を支えてもらい自分のペースで仕事
  • 仕事はしていない(専業主婦)

なのである。半数以上が、結婚して生活を支えてもらおうと考えている。専業主婦に成り下がるのもどうかと思うが、それは本人の自由だろう。いまいましい話だが、ギャンブル好きなら仕方がない。ハイリスクな道を選ぶのも良いと思う。

結婚の障害にならない

フリーターの希望と予定では、男女差があることがわかった。それは、現実として結婚すれば男性の収入で家計が支えられ、女性は夫に依存して働かないか、もしくは働いても家計を補助する程度、という実態があるからである。そのため、

  • フリーターの男性と結婚する女性はめったに現れない
  • 女性フリーター(未婚)の場合は、結婚して夫に生活を支えてもらう期待がもてる。(結婚できるかどうかは別の話)

というのが、現実である。(山田 p.127)

少なくとも、現在では、女性はフリーターであることが、結婚の障害にはならない。この現実は、男女のフリーターの意識や将来設計に相当な違いを及ぼすはずである。

(山田 p.127)

結婚という最後の切り札があるから、女性はフリーターでいやすい。収入のある男性と結婚の予定がある女性フリーターを、誰も責めない。逆に、結婚の予定のある男性フリーターを、周りの人は「ちゃんとした職に就きなさい」と説教するだろう。

フリーターの問題を掘り下げていっても、結局は、女性にとっては「結婚できるかどうか」が問題なのだ。

魅力ある女性なら、フリーターでもかまわないというのが、現実である。

男性フリーターの予定は中小企業の正社員。女性フリーターは結婚。実現可能かどうかは別の話。


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30歳でフリーターを卒業できるのか (2004-01-27)

30歳でフリーターを卒業できるのか

30歳以上になると、フリーターの数はぐっと減る。しかし、30代前半でもフリーターをやっている人は多い。

30歳という節目

女性、とくに未婚女性にとっては、30歳という年齢は大きな節目だ。30を超えると、結婚市場での価値が下がりだす。結婚をあせるあまり、激安な男と結婚してしまう場合もある。男性は、30歳を超えても、女性よりは結婚をあせらない。男性にとって30歳とは、「仕事」の節目なのである。

よく言われるのが、転職するなら30歳まで、というもの。最近ではこれが35ぐらいまで上昇しているが、未経験の業種で30歳を超えていると、企業側も採用しにくい。今の日本では、基本的に転職は30歳まで、だと思う。

フリーターも同じように、30歳までには正社員になりたい、と考えている人が少なくない。昨日書いたように、男性は将来的には中小企業の正社員になるつもりの人が多い。就職するなら、やはり30歳を前にしておきたいだろう。女性も結婚して男性に依存するつもりだから、30歳という年齢は大きな節目になる。

30代で少ないフリーター

年齢層ごとのフリーターの数を、昔と今で比較してみよう。(ここで言うフリーターは、派遣や働く意志のある無職も含んでいる)

30歳で卒業?

このグラフから、次のことがわかる。

  • (a) 30歳以上では、20代と比べてフリーターの数は少ない
  • (b) 30歳以上でも、絶対的なフリーター数は多い
  • (c) フリーターの高年齢化
  • (d) 全体的にフリーター数が急増

(a)30歳を超えると、今も昔もグラフが急降下している。30歳を節目にして、フリーターを辞めている人が多いのだろう。この減少の理由は、

  • 正社員として就職した
  • 結婚して働く必要がなくなった(専業主婦化)

などが考えられる。30歳で多くの人が正社員となったわけではない。

(b)30〜34歳という働き盛りの年代でも、フリーターの絶対数は多い。2001年には、30〜34歳のフリーターが80万人もいたのである。今なら、もっと増えているのではないだろうか。この数が多い理由は、

  • 正社員として就職できない
  • 結婚するつもりだったが適切な相手がいない。もしくは相手にされない。(晩婚化)

という2つの理由が大きい。

(c)フリーターの高年齢化にも注目したい。98年の段階では、20〜24歳までが、もっともフリーターの多い世代だった。グラフの頂点が、20〜24歳だった。しかし それが2001年になって、頂点が25〜29歳になった。フリーターの高齢化が進行している。

あいまいな不安を抱えながら

現在25〜29歳の男性フリーターは、仕事が見つからないことに焦りを感じている人が多いのではないだろうか。女性の場合、仕事が見つからないのではなく、適当な結婚相手(専業主婦として養ってくれるだけの男性)が見つからないことに、あせりを感じる人が多いと思う。

30歳という年齢は、男性にとっても女性にとっても、大きな意味を持つ。フリーターを卒業する人、フリーターのままの人。岐路に立つ30直前のフリーターは、あいまいな不安を抱えていると思われる。

30代前半でも、正社員になれず、結婚もできず、フリーターをやっている人は多い。


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なくならない残業 (2004-01-28)

なくならない残業

残業がなくならないのは、仕事の量にあわせて労働者を追加採用するよりも、今いる従業員に残業させたほうが安上がりだから。

残業モード

先週から忙しくなって、残業の毎日。さらに家に仕事を持ち帰っている。家でやった仕事には、賃金が支払われない。かなりやる気が下がるのだが、仕方がない。

そんなわけで、気分転換もかねて、適当に更新したい。

なくならない残業

日本人は残業が多いと言われる。アメリカ人が日本にやってきて、パチンコ屋をのぞいたときに、「オー、コレガアノ、ザンギョーデスネ?」と言ったとか。

残業時間が多い理由は、

  • 終身雇用が前提なので、仕事の変化による雇用調整弁としての残業に頼るしかない。
  • 残業割増率が他の国と比べて安い。

の2点が大きい。

仕事の量には浮き沈みがあり、時期によって増えたり、景気変動によって増減がある。仕事の量に応じて、人を採用したり、クビにしたりできれば良いが、日本は今でも基本的には終身雇用で、簡単に人をクビにできない。そのため、どうしても残業による調整が必要になる。

また、日本では残業割増率が25%と、他の国と比べて低い。サービス残業もあるので、使用者としては都合がよい。仕事が増えても、新たに人を採用する必要はない。今いる人間に、激安賃金もしくはタダ働きさせれば良いのだ。残業させたほうが安上がりなのである。

古いデータで申し訳ないが、昭和61年の『労働白書』では、1000人以上の大企業では、残業割増率を74.4%にしないと、ペナルティとしての残業割増の効果はないそうだ。

経営者にとってペナルティがないため、安上がりな労働力として、従業員に残業をさせるのである。労働者を安く使おうとするために、正社員の残業時間が増加し、フリーターも増加するのである。

残業がなくならないのは、残業させたほうが安上がりだから。


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生命保険と年金 (2004-01-29)

生命保険と年金

年金には生命保険としての機能もある。

生命保険加入の前に

とある女性(既婚。専業主婦ではない)から、「生命保険に入りたいが、たくさんあってどれがいいのかわからない。かといってセールスレディの勧めるがままにはなりたくない。よくわからずに不必要な保険に加入してしまわないよう、国で保障してくれればよいのに」という話を聞いた。

たしかに生命保険は、商品がたくさんあって、簡単ではない。セールスレディは不安感をあおり、生涯保障のためと保険加入を勧める。必要以上の保険に加入している人も多いと思う。

「国で保障してくれればよいのに」と考えるのも自然だと思う。その方が楽だし、つぶれてしまう可能性のある保険会社よりは、ある面では安心だ。

年金でカバー

知らない人が意外に多いのだが、年金は生命保険としての機能ももっている。夫が死亡してしまった場合、生活保障のために遺族年金が妻に給付され続ける。

年金は、

  • 老齢年金
  • 障害年金
  • 遺族年金

の3つで構成されている。日常的な会話の中で「年金」と言った場合は、老齢年金を指す。しかしそれ以外も、障害年金や遺族年金があることも理解していたほうが良い。

長生きするというリスク、障害というリスク、扶養すべき家族を残したまま亡くなるというリスクが現実になった場合に、給付を受ける権利が生じるのである。

年金は、さまざまなリスクに対する保険機能を持っている。老齢年金だけがよく注目されるが、そのほかの給付も、いざというときは重要な役割を果たしている。

(駒村康平『年金はどうなる』岩波書店 p.31)

たとえば自営業者で国民年金に加入していた場合、加入期間にかかわらず、1年間で約79万円が給付され、子どもの数に応じて加算される。サラリーマンが加入している厚生年金の場合、遺族厚生年金が給付される。亡くなった人に生計を維持されていた遺族に支給され、2000年では受給者は261万人、平均受給額は月に約9万円となっている。(納めていた金額、つまり報酬に応じてもらえる金額も違う)

詳しくは説明しきれないので、もっと詳しく知りたい人は、「遺族年金」で検索してみるのがよいと思う。

生命保険を選ぶときには

ごく当たり前の結論になってしまうのだが、生命保険に加入するときは、自分が加入している年金について調べなければならない。自営業者とサラリーマンでは、同じ年金ではない。

必要以上の保険金をかけて家計を圧迫させることはないし、夫が死んだときに必要以上に妻を楽にさせる必要はない。生命保険会社は年金制度の不備を指摘して、自分のところの商品(生命保険・個人年金)を勧める。頭からそれを信じずに、今加入している年金の仕組みを理解する方が先決だ。(もうすでに生命保険には加入している、と考えたほうが、理解しやすいかもしれない)

年金は、生命保険の機能も持つ。


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説得力のあるプレゼン (2004-01-31)

説得力のあるプレゼン

てっとりばやく説得力のあるプレゼンテーションをしたいならば、権威あるテキストを適切な場所で引用するとよい。

経営者へのプレゼン

会社の経営陣へのプレゼンを行った。私の勤めている会社は、500人程度の規模で、内部にごたごたした問題を抱えている。欠点のない人間は存在しないし、欠点のない社会も存在しない。どんな会社にも欠点や問題はある。その会社が今抱えている問題点の指摘と改善案のプレゼンを、経営陣数名に対して行った。

経営陣という権力のある人たちに、自分の考えを述べることは、正直プレッシャーがかかる。重圧感は、一人の経営者=1万アクセスぐらいだろうか。(アクセス数も、それなりにプレッシャはかかる。)

説得力を持たせるには

プレゼンでの主張のスタイルは、いつも日記で書いているものと同じである。問題点の指摘、それに対する考察、具体的なデータの提示、適切な引用。毎日日記を書いているおかげで、プレゼン能力が向上したと思う。

日記でもプレゼンでも同じだが、手っ取り早く説得力を持たせるには、権威あるテキストを引用してしまうことだと思う。実際にプレゼンでは、京都大学助教授の論文とか、総務省のデータを引用すると、相手の納得の度合いがまるで違う。同じ事を自分が主張しても、あまり説得力はない。

アインシュタインや毛沢東など、権威者の名前をもちだし、その述べた言葉を、適切な場所で引用すると、説得の効果が高まる。同じ意味内容を、自分のことばで語るよりも、人の心にはいりやすい。私たちの心は、権威をもつものからの暗示を受けいれやすい。また、だれが何を述べたかを知ることは、私たちの知識欲を満足させられることにもなる。

(安本美典『説得の文章術』宝島社 1999 p,30)

引用は効果が高いと、今日のプレゼンをやってみて、改めて実感した。たとえお偉いさんでも、権威には弱い。プレゼンにスパイスを与えて、効果を高めるには、何でもいいから適当な文章を引用してしまうのが良いのかもしれない。

そのためには、日ごろから本を読んで、いろんな引き出しを作っておくほうが良いだろう。本自体に権威があるので、ネットのWebページの文章の引用よりは、はるかに効果的である。

(今日はかなり酔った状態で更新しているので、あちこちおかしい部分があるかもしれませんが、許してください)

プレゼンにおいても、本からの引用は説得力を高める。


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熟年離婚増加の理由 (2004-01-31)

熟年離婚増加の理由

熟年離婚増加の理由の一つは、子育てや養育から解放された後に20年も人生が残っているからである。

年金分割

ニュースで、年金分割が話題になっていた。今の制度だと、離婚した場合に、妻は年金の面で不利になる。厚生年金の報酬比例部分は夫に対して支給されるので、離婚した妻は少ない年金でやりくりするしかない。ところが来年になって年金分割の制度ができれば、妻と夫で年金の受給権が半々になる。離婚するなら今はまだガマンして、来年になってから離婚した方がお得、というわけだ。

若い世代の人ならば年金なんて気にせずに離婚できるが、60歳直前で熟年離婚を考えている人は、真剣に離婚のタイミングを考えねばならないだろう。

熟年離婚が増える理由

離婚数そのものが増加しているが、若年層と熟年層の増加が著しい。熟年離婚が増加している理由は、子どもの心配から解放された後に、20年も人生が残っているからである。第2の人生を歩むことができるのだ。

厚生労働省人口問題研究所の出産力調査によると、1970年に結婚した人は、結婚して4.5年後に末子を産み、その後、養育期として27.2年間を過ごす。末子が結婚し、親としての役割を果たした後、19.6年後に夫が死ぬ。

その40年前のデータだと、末子が結婚してから夫が死ぬまでは、わずか4.6年しかない。

  • 医療技術の発達による長寿化
  • 産む子どもの数が減ったことによる出産期・養育期の短期化

などの理由で、約20年間の妻にしてみれば退屈な時期が発生してしまう。5年しか余生がなかったら、このまま死を迎えようと思うけど、20年もあれば、第2の人生を歩みたいと思う人も多いだろう。

子はかすがいの有効期限

「子はかすがい」という言葉がある。子どもは夫婦をつなぎとめる役割があり、それは否定しない。だが、昔は子どもだけで夫婦の一生をつなぎとめておくことができたが、今は期限付きである。親としての役割を果たした後の20年間は、子どもは「かすがい」として機能しない。「かすがい」機能には、有効期限があるのである。生涯にわたって夫婦をつなぎとめるものではない。

近頃の夫婦の会話が子どもの話題しかない、という夫婦は、老後はどうするのだろうか。

よく考えてみれば、定年を過ぎた夫は、粗大ゴミである。妻にしてみれば、手のかかる子どもみたいな存在である。会社には定年があるが、家事には定年がない。正直、一人暮らしの方が気楽だが、年金は必要だ。そのためには夫に生きていてもらわなければならない。だから、離婚したくてもなかなか離婚できない。

年金制度が変われば、離婚が増えるかもしれない。夫も、離婚した時に備えて、ある程度一人で暮らせるだけのスキルを身につけておくべきではないだろうか。

熟年離婚増加の理由の一つは、親の役割から解放された後に20年も人生が残っているからである。

Yas的休日

ご近所探偵TOMOE

自宅でマターリとDVDを見て過ごす。『ご近所探偵TOMOE』が想像以上に面白かった。『トリック』の堤幸彦監督、『なぎら☆ツイスター〜』の戸梶圭太が原作の、ちょっとHでミステリータッチなコメディドラマ。もともとはWOWOWで放送されたドラマだ。

地上波では放送できないダークなネタは、WOWOWならでは。小学生が老婆に「年金いくらもらってんだよー」と言いながら暴行するシーンと、凶暴化した犬が小学生を襲うシーンは秀逸。

人には絶対に見られたくない「恥ずかしいゴミ」を巡るドタバタも笑えるし、「恥ずかしいゴミ」の正体も、必ずや見る人を裏切るものだろう。オチが読める人はいないと思われる。

堤作品や、戸梶の小説が好きな人にはオススメ。


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