憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記

2004 年 04 月

過去の日記一覧へ戻る pastdiary.html


モテない者はますますモテない -男女交際におけるマタイ効果- (2004-04-01)

モテない者はますますモテない -男女交際におけるマタイ効果-

モテる者とモテない者の二極化が進行している。

異性交際の二極化

彼女と一緒に婚姻届を出してきた。ついに結婚である。彼女がどうしても自分の誕生日に、と言い張って聞かないので、平日の今日になった。

・・・という話をエイプリル・フールのネタとして書こうと思ったのだが、空しくなったのでやめることにした。

今日と明日は男女交際の二極化について。モテる者はますますモテて、モテない者はますますモテなくなる。この現実を明らかにしたい。

国立社会保障・人口問題研究所の「第12回出生動向基本調査」では、未婚者の異性との交際の二極化が報告されている。

異性交際の二極化

異性との交際を持たない男性が、2002年では半数を超えている。女性の友人と交際がある男性も、1987年よりも減少している。女性では、親密な関係にある男性と交際している人がやや増加傾向にある。

男性の半数が異性と交際していないのは意外である。モテる人はモテるが、モテない人はさっぱりモテないのだ。

男女交際におけるマタイ効果

「モテる者はますますモテるが、モテない者はいっそうモテない」。これを「男女交際におけるマタイ効果」と名づけたい。マタイ効果(Mattheweffect)とは、社会学者のマートンが提唱した、学会の報酬体系の特質と階層分化の功罪にかかわる概念である。新約聖書マタイ伝の「持てる者は与えられてますます富み、持たざる者は奪い取られてますます貧しくなる」を援用したものだ。

グラフで示したようなモテる者とモテない者が二極化してしまう現象を、「男女交際におけるマタイ効果」と呼びたい。そして、なぜこうした現象が起こるのかを、明日考えてみたい。(つづく)

モテる者とモテない者の二極化が進行している。

Yas的日常

風邪でダウン。会社を休む。

ひとり暮らしなので、食料の買出しは自分でいかなければならない。昼間、専業主婦の吹き溜まりであるスーパーに出向く。

煮込みうどんを作って食す。うまい。


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

モテない者はますますモテない -男女交際におけるマタイ効果- その2 (2004-04-02)

モテない者はますますモテない -男女交際におけるマタイ効果- その2

男女の出会いが増えると、モテない者はますますモテなくなる。

マタイ効果の原因

昨日のつづき。モテる者とモテない者の二極化が進行しているが、その原因について考えてみたい。

人間には魅力の差というものがある。アイドルなみに可愛い女の子もいれば、どう見ても有害としか思えない容姿の女の子もいる。これは動かしがたい事実である。もしも出会いのチャンスが少なければ、顔がまずい人とでも交際するしかないが、出会いが多くなれば、魅力的な人を選ぼうとしてしまう。

これは、社会学者、山田昌弘の説である。山田は、「男女交際の増加が、恋愛対象外の人(つまりモテない人)を増加させた」と述べている。(『結婚の社会学』1996, p.132〜)

女性の社会進出などによって、日常的に接触する身近な異性が量的に増える。仕事や用事などで異性と話したり、一緒に行動したりする機会が増える。そして、恋愛と結婚の分離によって、気軽につきあうことが可能になる。中学、高校時代から、男女とも異性の評価の目にさらされる事態になる。

すると、「好かれる人」、つまり、「もてる人」は、どうしても一部の人に集中してしまう。すると、その対極に、「もてない人」――恋愛対象外の人――が出現するのである。

(山田昌弘『結婚の社会学』 p.132)

モテる人は集中する

たくさんの異性と接していれば、それだけ異性に対する評価・判断も厳しくなり、恋愛対象外の人は増えてしまう。また、魅力の基準がひとつで、男女の出会いが多くなれば、それだけモテない人は多くなる。

魅力の基準がひとつであり、自由に相手を好きになれるとしたら、このような状況が起こるだろう。

小学校の頃を思い出してみると、たいていモテる人というのは人気が集中していた。クラスに何人かは魅力的な人がいて、クラスの男子(女子)からモテていた。反対に、モテない人はさっぱりモテていなかった。出会いが開かれていればいるほど、モテない人というのは自然に発生してしまうものなのだ。

出会い系サイトがいくら盛況を極めても、モテない人はやっぱりモテず、モテる人だけがさらにモテるのである(マタイ効果)。男女の出会いが増えれば増えるほど、モテない人はますますモテない。

もっとも出会い系サイトは「恋人としての出会い」ではなく、単にセックスの相手を探す場所でしかないのだが。

男女の出会いが増えると、モテない者はますますモテなくなる。

Yas的日常

セ・リーグ開幕。巨人阪神戦を見る。結果については何も言いますまい。


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

「ばかやろう」と叫ぶ祭りとエイプリルフールの存在理由 (2004-04-04)

「ばかやろう」と叫ぶ祭りとエイプリルフールの存在理由

エイプリルフールに代表される、一時的に社会の秩序・価値を否定するイベントは、社会の秩序・価値を維持するために存在する。

エイプリルフールの後に

エイプリルフールは面白いイベントだ。日常的にはウソはタブーとされるが、この日に限っては積極的にウソをつかねばならない。こうした価値の転倒については文化人類学が得意とするテーマだろう。

日本にも、エイプリルフールと同じような価値が転倒したお祭りがある。アメリカの文化人類学の教科書にも載っているその祭りは、「あくたいまつり」という。栃木県足利市には、大晦日の夜、最勝寺への参道で行きかう人々がお互いに「ばかやろう」と大声で悪態をつく祭りがあるらしい。(栃木イベント情報

大晦日の夜は「ばかやろう」とののしりあい、元旦を迎えるとそれが180度転回して、「おめでとう」と挨拶する。

日常で抑圧されている言葉を大晦日に発することで、ストレスを解消しようとする意図があるのだろう。

さまざまな価値転倒

日本の「あくたいまつり」以外にも、他の文化では同じように価値が反転してしまう祭りがある。ハロウィンが有名な例だ。土地柄にもよるが、ハロウィンでは悪の象徴としての仮面を子どもがかぶり、普段は禁止されている夜間の外出をし、お菓子を求めて他人の家の人を脅迫する。

こうした日常をひっくり返すイベントによって、日常性と非日常性の対立、善と悪との対立が明確になるのである。儀礼的な反乱は、日常的な世界を壊しはしない。ある期間だけタブーを犯させることにより、タブーが明確になり、秩序が維持される。

エイプリルフールは、たまたま発生したイベントではない。同じ構造を持つイベントは、様々な文化の中に見受けられる。4月1日だけウソが許されるということは、それ以外の日はウソを言ってはいけないということを意味している。秩序を維持するためのルールは、コインの裏表みたいなもので、あえて「裏側」を一時的に見せることで「表側」を意識させられるのだ。

「ウソをついてはいけない」というルールと、「4月1日だけはウソをついていい」というルールは、同じものである。そして、後者のエイプリルフールの制度の方が、普段ウソをつかずにガマンしている欲求不満を解消できる点で、前者の抑制よりも効果が高い。

つまり、エイプリルフールの「4月1日にウソをついてもいい」というイベントは、「ウソをついてはいけない」という社会のルールを人々に了解させ、その仕組みを維持するためにあるのである。

エイプリルフールに代表される、一時的に社会の秩序・価値を否定するイベントは、社会の秩序・価値を維持するために存在する。

Yas的日常

土曜日は市ヶ谷で昼間から花見。日曜日も多少酔いが残る。

Googleで「プログラマ 結婚」で検索すると、このサイトがトップに表示されることが判明。「プログラマ 童貞」「プログラマ セックス」も同様。ちなみに「プログラマ」だけで検索した場合、5番目ぐらいに表示された。出世したなー。


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

好きな音楽を表明できぬ歯がゆさ (2004-04-06)

好きな音楽を表明できぬ歯がゆさ

我々は、他人との違いを表す記号として、音楽を消費するのである。

好きなものを好きと言いにくい

3年ぐらい前からミスチルが好きなのだが、正直言って「ミスチルが好き」と公言しにくい。恥ずかしいのだ。人気のあるバンドの曲を聴いていることで、「素人が」と思われるのが嫌である。吉野家で「つゆだく」を注文すると「素人が」と思われるのと一緒だ。

音楽は趣味として広く浸透しているぶん、人は他人との違いを見せつけようとするため、人とは違った音楽を聴きたがる。かつて2ちゃんねるで「彼女とドライブするときに持っていくCD」が話題になったが、ミスチルは速攻で「痛い」というレスがつき、そのほかのメジャーな人たちの歌も否定された。結局最後に残ったのは、マイナーな洋楽と邦楽である。そんなわけのわからないバンドの曲を聴いて楽しいのか、と思うが、音楽にははそのような「通」ぶりたがる性質がある。

音楽は、それ自体が「良い」という理由で聴くというものでもない。我々は、他人との違いを表す記号として、音楽を消費するのである。

なぜその音楽を聴くか

思想家ジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』の中に、次のような一文がある。

人びとはけっしてモノ自体を(その使用価値において)消費することはない。――理想的な準拠としてとらえられた自己の集団への所属を示すために、あるいはより高い地位の集団をめざして自己の集団から抜け出すために、人びとは自分を他者と区別する記号として(最も広い意味での)モノを常に操作している。

(ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司、塚原史訳)

人がある音楽を消費したり、あるいは特定の音楽の好き嫌いを表明することは、自分と他者とを区別することの記号でもある。人は他者と比較し、優越的な差を求める。

マイナーな音楽を聴いたり、批評し、絶賛したりすることは、「自分は人とは違うんだ」という記号でもある。たまたまマイナーな音楽が好きで、結果的に「自分は人とは違う」ということをアピールしている場合もあると思う。しかし逆に「自分は人とは違う」ことを証明するために、マイナーな音楽を聴くことも多いのだ。

ミスチルは、メジャーなバンドである。大衆的であるため、「他人とは違う」とアピールしにくい。だからファンの心理は難しい。「通」ぶりたいけど自分の好きなバンドがメジャーなのだ。それゆえファンの中には、大ヒットした有名な曲を否定する場合が多い。ミスチルで最もヒットしたのは「tomorrow neverknows」なのだが、これを好きだと公言するファンは少ない。「ミスチルは好きだけどミーハーな大衆と一緒にしてほしくない」という心理の表れでもある。他者との差異を求めるために、ファンはメジャーな曲を好きだとは言わないのだ。こうした心理は他のバンドのファンの間でもよく見受けられる。

なんの恥ずかしさも感じずに、自分の好きなものを好きと言えればよいのだが、それが出来るのはよほど出来た人間か、鈍感な人間だろう。

我々は、他人との違いを表す記号として、音楽を消費するのである。

Yas的日常

ミスチルのニューアルバム『シフクノオト』を新星堂で購入。初回特典としてDVDつき。

家についてPCを立ち上げたら、amazonから「『シフクノオト』を発送いたしました」のメールが届いていた。amazonの予約をキャンセルするのを忘れていた。アルバムを2枚買ってしまうことに・・・。2枚目の『シフクノオト』は明日到着予定。


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

アルバム『シフクノオト』をプレゼントします (2004-04-07)

アルバム『シフクノオト』をプレゼントします

日ごろの感謝をこめて、Mr.Childrenのニューアルバム『シフクノオト』(サイン付き)を読者様にプレゼントいたします。

「HERO」「掌」「くるみ」「Any」などのシングル曲が収録されたMr.Childrenのニューアルバムが諸事情により2枚あるので、1枚を読者様にプレゼントしようと思います。限定版ですので、特典のDVDがついています。サイン付きですが、サインは私のサインです。苦情・返品は一切受け付けておりません。

なお、送料は私の方で負担いたします。(海外の方や専業主婦には送料を負担していただきます。)

希望される方は、

  • 性別
  • 年齢
  • 職業
  • このサイトの感想
  • 自身のサイト、Blog等のURL(ある方のみ)
  • メールの内容(とくにこのサイトの感想について)の公開の可・不可

を本文に記入の上、私宛にメールを送信してください。件名は「シフクノオトプレゼント係」でお願いいたします。

抽選を行い、1名の方にCDをプレゼントいたします。

締め切りは4月10日(土曜日)とさせていただきます。発送は日曜日か月曜日になりますので、到着はそれ以降となります。

ご応募お待ちしております。おそらく5通は応募があると思います。

「好きな音楽を表明できぬ歯がゆさ」への反響

先日の「好きな音楽を表明できぬ歯がゆさ」は、意外に反響があった。

カトゆー家断絶」さんは、ミスチルでは「幸せのカテゴリー」と「雨のち晴れ」が好きらしい。私も「幸せのカテゴリー」は大好きである。親近感がわいた。

Dropkick.txt」さんの2004年4月7日のテキストは印象的。

もし(有り得ないけど)テクノが日本で一番のメジャー音楽で、J-POPがマイナーな音楽だったら、俺はどっちを聞いていただろうか

その他、音楽ニュースサイト「音楽聴こうよ!」さんや、いつもお世話になっているニュースサイト「セパレイトウェイズ」さんで紹介された。感謝。

Yas的日常

サインを練習した。


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

女性のセックス経験人数 (2004-04-08)

女性のセックス経験人数

過半数の女性が、1人〜3人の男性としかセックスしたことがない。

悩める愚かな専業主婦

「今の主人としかセックスしたことがない・・・。本当の喜びを知りたい」などと悩む専業主婦が少なくない。「本当の」なんてものはどこにもありはしないのだが、思考力の低下した専業主婦は、女性週刊誌等を読んで真剣に悩むらしい。セックスの経験人数の平均が3.6人なんてデータと、1人しか経験のない自分を比較し、女としての自分に疑問を抱いてしまう。

本当に不細工で男性に相手にされない場合もあるが、世の中の女性の多くは、それほど多くの経験があるわけではない。NHKの調査を見てみよう。

女性のセックス経験人数

上のグラフは、セックス未経験者をのぞいた、女性の年代別セックス経験人数割合である。実は一番多いのが、「1人としかセックスしたことがない」という女性なのである。盛んな30代でも、1人〜3人としかセックスしたことがないという人が過半数を超えている。

しかし、平均をとってみると、30代では約3.6人が平均セックス経験人数になる。これは、極端に経験人数が多い人(50人以上など)が、平均を押し上げてしまうからである。

平均3.6人だからといって、それが普通を意味しているわけではない。平均は普通でもなく、標準的でもない。平均でしかないのだ。

というわけで、経験人数が1人とか2人というのは、いたって普通だと思う。意外とみんな平凡な人生を歩んでいるものだ。

過半数の女性が、1人〜3人の男性としかセックスしたことがない。

Yas的日常

『シフクノオト』プレゼント企画、現在応募は12通。


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

男性のセックス経験人数 (2004-04-09)

男性のセックス経験人数

男性のセックス経験人数は、女性よりも多い傾向にある。その理由の1つは、風俗施設を利用する男性が少なくないからである。

男性のセックス経験人数

昨日は女性のセックス経験人数について書いた。男性について触れなかったのは、男性の場合は女性とは事情が違うからである。

まず、データを見てみよう。

男性のセックス経験人数

男性の場合、平均的には女性よりも経験人数が多い。そして、30代男性の2割強が、7人以上の比較的多数の女性と経験があるのである。(7人以上というカテゴリのなかには、100人以上というツワモノも含まれることに注意されたい。)

40代を見てみると、1人としか経験がない人は約1割しかいない。4割強の40代男性が、5人以上とセックスの経験がある。

風俗施設経験データ

男性の経験人数が多い理由の1つは、風俗施設(ソープランドなど)の存在にある。風俗施設の経験についてのデータを見てみたい。

男性の風俗経験

データは、過去1年の風俗施設利用についての質問の結果である。(生まれてから今までの風俗経験は質問していないので、データが存在しない。)

20代・30代男性の場合、2割強が過去1年間に風俗施設を利用している。このため、男性のセックス経験人数が増えてしまう。地方と繁華街のある都会では、利用率も違うと思うが、風俗施設が(数値の上での)男性の経験人数に影響を与えているのは確実である。

男性のセックス経験人数は、平均的には女性よりも多い。その理由の1つは、風俗施設を利用する男性が少なくないからである。

Yas的日常

ミスチルの『シフクノオト』プレゼント企画、現在応募総数は20通ぐらい。

「シフク」は

  • 至福
  • 私服

の2つの意味があるそうな。

良いことがあってこその笑顔じゃなくて

笑顔でいりゃ 良い事あると思えたら

それが良い事の 序章です

(Mr.Children/「PADDLE」)


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

当選者決定 (2004-04-11)

当選者決定

抽選を行いました

「シフクノオトプレゼント」には、約30通の応募がありました。ありがとうございました。

日曜日の早朝にクジ引きで抽選を行い、当選者にはメールを送信いたしました。当選のメールが届いていない人は、残念な結果ということになります。

このサイトの感想

良かったのは、ふだん読んでいるだけの人の感想を知ることができたこと。自分では失敗したと思っていた過去の日記でも「面白い」と思っていた人がいた、ということを知ることが出来ただけでも、私にとっては意味がありました。

寄せられた感想の一部を紹介してみます。

「最近、専業主婦に対する攻撃が増えてませんか? 面白いので、もっとどんどんやって下さい(笑)」(22歳 男性)

「ぜひ世の中の専業主婦を啓蒙していって下さい。専業主婦は、接客していて仕事しにくいなあと思うことが多いので、もし結婚しても専業主婦にはならない予定です。」(25歳 女性)

「私たちが常識として『知っているつもり』になっている事実認識を 毎回見事にひっくり返してくれる」(23歳 男性)

「僕が気付かないような視点で論じられており、僕自身とても勉強になります。」(21歳 男性)

「自分がテキストを書く際には、どうしても主観的になりがちなんですが、貴方の文章はすごく客観的というか、科学的な説得力がありますね。」(19歳 男性)

「専業主婦への偏見と嫌悪の徹底っぷりが もはや微笑ましい・・・っていうかたまに大爆笑。」(26歳 女性)

「現在私は米国で大学生をしているのですが、こちらの大学での論文の書き方とYasさんの日記の書き方が似ているので、留学してたことある方なのかなあとか勝手に想像をめぐらせてました。日記の理路整然とした感じがすごく気に入ってます。」(絶対専業主婦にはなりたくない24歳 女性)

「過激な趣旨で、鵜呑みにするとまずい文だけれども、説得力があるため、反論を考えるのが大変です。」(23歳 男性)

「いつもニヤりとさせられる切り口が痛快で、なるほどなるほど、とうなずきながら読んでいます。」(30歳 男性)

「サイトチェックをする→翌日会社で話題にする→頭おかしいといわれる。そんなサイト」(24歳 男性)

「統計データを多用した文章にとても好感」(23歳 女性)

「私の日々の不満・不平・愚痴・苦悩・疑問・疑念もろもろを代弁してもらっ てるかのような文章に、すっきりすると同時に、それらが文章として表現されるため、それらを再認識してしまい、ミシミシと凹む。」(29歳 男性)

「これからも専業主婦叩きを期待しています。」(35歳 男性)

「社会学的視点が常にいいところをついていたりするので、参考にさせてもらったりしています。また、反論する余地がないほどずばっとスパット斬る物言いと、裏付けるデータがすごいです。」(22歳 女性)

「最近のテーマ『くたばれ!専業主婦!』については、たかが家族の一体系から生まれた存在にそんなに目くじら立てなくても、と思ったりもします。が、世の識者の『専業主婦があたりまえ』という認識での発言を聞くと、イライラする人種なので楽しんで読ませていただいています。」(24歳 男性)

「多少辛辣で厳しい見方ではあるものの、いつも自分のみている世界と違って、とても参考になっています。」(18歳 男性)

「第3者のデーターを引用して自説を展開しているので正しいと勘違いしそうになりますね。」(33歳 男性)

「私は専業主婦を経験したことがありませんが、『主婦業は大変だ』という決まり文句は言い訳と思います。今の時点では。」(24歳 女性)

「『好きな音楽を表明できぬ歯がゆさ』も面白かったです。確かに、『Tomorrow never knows』とか『花』などは好きといいづらいなあと感じます。」(19歳 男性)

「『はっ』と気が付かされることがあるサイトだと思ってます。ひょっとすると気が付いているのに、気にしないようにしていることを考えさせられる。」(25歳 男性)

「あまり議論に深入りせず、熱くならず、淡々ととりあえず一つの結論を出していくという手法は、現実的でクールで『こういうのもありだな』と思っていました。」(年齢不詳 女性)

「当然すぎて熟考しない事を改めて掘り返してある日記を読んでいると、なんだか私のかわりに私の考えを整理してくれているような、そんな妙な気分になります。」(18歳 男性)

「『好きな音楽を表明できぬ』理由には、メジャーだからといって中身が知られているわけではない、ということもあるのではないかと思います。たとえばCHAGE&ASKAですが、私の世代でも『チャゲアス』という名前は誰もが知っています。私も子供の頃から名前だけは知っていました。ところがチャゲアスの曲をいくつ知っているか、ということになるとファン以外はせいぜいSAY YES、YAH YAHYAHの2曲が限界で、『たった2曲しか知らないアーティスト』ということになってしまいます。しかしやはりチャゲアス自体は超メジャーなわけです。そのためそんなアーティストが話題に上っても、『聞いたこと無いけど、どんな音楽なの?』とも『それいいよね。あの曲とかこの曲とか好きだよ』とも会話が成立しません。『ああそれね。うん、わりといいよね』といったところでしょうか。名前は知っていても曲は知らない。そのギャップが与えるイメージの影響で、より一層、『好きな音楽を表明できない』事態に陥っていくのではないかと思います。」(16歳 男性)

「中学生という立場にいる自分から見ても、『全くその通り』と共感できるテキストがいくつもあり、今では毎日の更新を楽しみに待っている大勢の中の一人となりました。」(14歳 男性)

「日常では中々口にしづらいことをズバズバと、非常に強力なロジックで言ってのける。又、適切な引用が説得力を否応なく増していると感じています。」(25歳 男性)

以上、感想でした。ちなみに専業主婦からの応募はナシ。怖気づいたか。ちなみに最年少は14歳。将来が楽しみ。

長文の感想も多く、とてもありがたかったです。今後の参考にさせていただきます。ありがとうございました。


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

裸エプロンの起源 (2004-04-12)

裸エプロンの起源

裸エプロンは、もともとは女性のファッションだった。

男のロマン

裸エプロン――それは男のロマン。Googleで「裸エプロン」をキーワードに検索をすると、かなりの数がHitする。私自身は別に裸エプロンには興味がないのだが、結婚して倦怠期が訪れたら、ちょっとした刺激を求めて裸エプロンにチャレンジするかもしれない。それが離婚への第一歩だとしても。

裸エプロンを知らない男性はいないと思うが、念のために説明しておきたい。裸エプロンとは、女性が裸の上にエプロンを見につけることでる。普通は裸エプロン状態で性的な行いをする。普段よりも興奮する男性が少なくない。

しかし、なぜ裸の上に身に着けるのがエプロンなのか、現代の大きな謎のひとつとなっている。

裸エプロンの起源

日本での裸エプロンの起源は、約30年前にさかのぼる。雑誌『女性自身』の1973年5月5日号に、裸エプロンの女性が登場していた。

ファッション特集「ノーブラ主義」バンザイ

左側の女性が、裸の上にエプロンをまとっている。これは、『ファッション特集「ノーブラ主義」バンザイ』と銘打たれた特集である。エロ特集ではない。

もしもこの時代に裸エプロンがすでに男のロマンであり、性の対象となっていたのならば、ファッション特集で裸エプロンの女性は登場しないだろう。また、73年以前は、まだまだエプロンの普及率が低く、割ぽう着が多かったと思われる。エプロンが普及し、女性が活発になりはじめた時代に、裸エプロンは女性の解放を示唆するファッションとして、雑誌に登場したのである。しかし意図とは逆に、裸エプロンは男性の性のロマンとなってしまった。

写真の裸エプロンの女性の笑顔が痛々しいと思う。裸エプロンには、悲しい歴史があったのだ。

裸エプロンは、もともとは女性のファッションだった。


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

話して面白いサイトでアクセス増 (2004-04-13)

話して面白いサイトでアクセス増

<話して面白い>サイトを作れば、アクセス数は増える。

裸エプロンの余波

昨日の「裸エプロンの起源」が各所でリンクを張られた。結果、当サイトのアクセスが増加。普段よりも7000ぐらいアクセスが多いだろうか。

ニュースサイトやブログの普及のおかげで、こうしたちょっとしたネタへのリンクが多く、それがこのサイトのアクセス増につながっている。

あくまで印象だが、ひとつの記事にアクセスした人のうち、数パーセントの人が再びこのサイトを訪問してくれているようだ。

「記事がニュースサイト、ブログで紹介される」→「アクセス増」→「人が多く集まるようになる」→「注目されやすくなる」→「記事がニュースサイト、ブログで紹介される」という循環で固定客が増え、1日のアクセス数は増える。

アクセス数を増やす上で大切なのは、ニュースサイトやブログで取り上げられることなのだ。

話して面白いサイトを

では、リンクされるためにはどのようなコンテンツを用意すればいいのだろうか。抽象的だが、<話題にして面白い>サイトであれば、外部からリンクされる。

元カプコン専務取締役の岡本吉起が何かの雑誌で語っていたことなのだが、面白いゲームには次の3つの要素があるという。

  • やって面白い
  • 見て面白い
  • 話して面白い

面白いゲームには、手で触れて遊ぶ面白さ以外にも、見る面白さやゲームの内容について友達と話す面白さがある。たしかに、友人とゲームの話をすると、ゲームそれ自身よりも面白い場合がある。とくに『風来のシレン』に代表される『不思議のダンジョン』シリーズは、つい誰かに不幸自慢をしたくなるような、<話して面白い>ゲームだと思う。

コンテンツが自己完結して、そこだけに面白さのエッセンスがつまっているのではなく、コンテンツは不完全でも<話して面白い>ものであれば、それは面白いのである。

幸いにして、ニュースサイトやブログの流行している。ブログ作成者は、誰かに何かをしゃべりたくて仕方がないのだ。つい誰かに話したくなるようなコンテンツを作成すれば、ブログ作成者は自分の意思で喜んで記事にするだろう。そして、記事になればリンクが張られ、アクセスも増加する。

<話して面白い>サイトを作れば、アクセスが増えるのである。

<話して面白い>サイトを作れば、アクセス数は増える。

Yas的日常

専業主夫ドラマ『アットホーム・ダッド』(フジ系 22:00〜)でも見ようか。

(追記)「主婦は究極の総合職」ですか。ほほう。

CD到着

ミスチルCDプレゼントの当選者に、無事CDが届いた模様。(「十倍ヘロドトス」さん)


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

専業主婦には作れぬ料理 (2004-04-14)

専業主婦には作れぬ料理

「裸エプロン」フィーバーが続いているので、今日は手を抜いて適当に書く。

無国籍料理居酒屋

最近お気に入りの近所の居酒屋が危険だ。料理が美味しい。

今日は夕食も兼ねて、仕事帰りにひとりでその居酒屋に立ち寄った。肉豆腐を注文したのだが、これが実に美味い。専業主婦の作る料理の256倍おいしい。じゃこ入りのチャーハンを頼んだら、これもまた美味であった。結婚して専業主婦に寄生されている男性は、今ごろ自宅でまずい冷や飯を食わされているのだろう。そう考えると、つくづく独身男性でよかったと思う。

専業主婦は所詮素人である。中には料理が得意な人もいるが、たいていは平凡な料理人でしかない。プロのつくったものにはかなわないのだ。(なかには人並み以下の能力しかない専業主婦もいる)

<低コストでそれなりの料理を作るのが専業主婦の能力>と主張する専業主婦がいる。しかし、専業主婦の存在そのものが高コストなのである。専業主婦がいなければ、安い料理を食べることもないのだが。


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

牛丼を美味しいと感じる人は階層が低い (2004-04-16)

牛丼を美味しいと感じる人は階層が低い

吉野家などの牛丼を美味しいと感じてしまう人は、低階層の人に多い。

人気の福田官房長官

福田官房長官の人気が上昇しているようだ。政府のスポークスマンとしてすっかり定着し、記者団との冷静な応戦も好感度が高い。

最近では、日本人3人が人質として拘束された時の福田官房長官の記者への対応は見事で、評価も高かった。報道された部分を見る限りでは、私もそう思う。

福田官房長官の発言で私がもっとも好きだったのは、BSE問題で吉野家の牛丼が危機に陥ったときの発言だ。

福田官房長官「(牛丼が)なくなってさびしい。かつてやっかいになったことがありますよ」

記者(よく食べていたのか?)

福田官房長官「よくってわけじゃないけどね。試しにたべたことありますよ。フッ・・・」

試しに食べたのだが、きっとまずいと感じたのだろう。さすがである。

食べ物の好みと社会階層

社会学者ブルデューは、著書『ディスタンクシオン』において、食べ物の好みと社会階層の関係について論じている。食べ物の嗜好は子ども時代に無意識に身についてしまい、自分の意思によって変えられるものではない。そのため、食べ物の好みが超えられない階層間の壁を意味してしまう。

ブルデューは、魚のような繊細な食物が好きな人は階層が高く、ソーセージのような脂分の多い食べ物が好きな人は階層が低い、と述べている。

食べ物の好みは自分では選択できない。また、誤魔化すこともできない。いくら身分を高く装っても、おいしいと感じてしまう気持ちは否定できない。

福田官房長官は牛丼を試しに食べてみて、「まずい」という感情を否定できなかったのだ。牛丼という階層の低い庶民が食べるものなんて、口に合わないのだ。さすが福田官房長官である。育ちが良いのだ。

ちなみに、私は牛丼が好きだ。松屋の牛めしよりも、やはり吉野家の牛丼である。この微妙な違いにこだわるのも、階層の低さを意味しているのだろう。福田官房長官なら、「どちらもまずい」の一言で終了だ。

私が大出世したとしても、牛丼をおいしいと思ってしまうだろう。生まれと育ちの悪さは、一生ついてまわるものなのだ。

吉野家などの牛丼を美味しいと感じてしまう人は、低階層の人に多い。

Yas的日常

雑誌『anan』をついうっかり購入。表紙はMr.Childrenの桜井である。あまりのカッコよさに全国の婦女子が悶絶するだろう。専業主婦の方もこの機会にぜひ。

映画『アップルシード』が面白そう。(CM見た)


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

なぜネコは新聞を広げると乗りにくるのか (2004-04-17)

なぜネコは新聞を広げると乗りにくるのか

ネコが広げた新聞の上に乗ってくるのは、ネコにとっては主人がヒマな状態に見えるため。

ネコの不可解な行動

ネコには不可解な行動が多い。その不可解さがカワイイと思う。

『ネコは何を思って顔を洗うのか』(沼田朗 実業之日本社)に、「なぜネコは新聞を広げると乗りにくるのか」という節がある。そういえばネコは新聞の上に乗りたがる。

その昔実家で飼っていた愛猫のヨハン・リーベルト(仮名)も、私が新聞を読んでいると、その上に乗ってしまうことがよくあった。新聞を読むことができなくなり、仕方がないからヨハンとじゃれあうのである。

いったいなぜネコは新聞の上に乗るのだろうか。

主人の視線の先に

著者は、「ネコは読もうとした新聞の上に乗る。しかも、隅ではなく、必ずわざわざ視線の先にくる」という経験的事実から、猫は新聞の上が好きなのではなく主人に甘えたいのだ、と推理する。

新聞を読んでいる主人が、ネコにはヒマな状態に見えるらしい。ヒマだから、近寄っていっても怒られない。だから私達が新聞を読んでいるとネコが寄ってきて新聞の上に乗ってしまうのである。

私たちが新聞を床に広げて読む時というのは、必ず精神的にも時間的にも余裕のある、くつろいだ気分の時に限るからだ。気ぜわしく読む場合は、たいがいは手に持ったままパラパラめくっていくもの。つまりは、ひざの上に乗っても怒られないタイミングを見極めるよりははるかにカンタン、というわけで、新聞を広げている主人は、ネコにとっては「遊んでくれて当然」なヒマな状態と映っているわけだ。

(p.166)

赤ん坊も同じ

ネコと同じように、赤ん坊もよく新聞の上に乗りたがる。専業主婦の多くが体験したのではないだろうか。赤ん坊も「専業主婦ってヒマなんだろ」と思っているのである。ごくまれに「専業主婦には新聞など不要」という鋭い観察眼と洞察力を持つスーパー天才児がいるかもしれないが、たいていは「専業主婦はヒマだろう」と考えて、新聞の上に乗るのである。

ネコが広げた新聞の上に乗ってくるのは、ネコにとっては主人がヒマな状態に見えるため。

Yas的日常

てんや

学芸大学駅前の「てんや」で天ぷら定食を頼んだら、天丼が出てきた。アルバイトのおばさんは、どうやらまだ研修中らしい。二日前まで専業主婦だったのだろうか。

クラシック音楽が流れるカフェ

コーヒーでも飲もうと思い、「クラシック音楽が流れるカフェ」という看板を出しているお店に入った。クラシック音楽は流れてなかった。無音だった。


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

100万アクセス超 (2004-04-18)

100万アクセス超

4月18日、21:26の段階でのアクセス数が999205。もうすぐ100万を超えます。心境は複雑です。頭に思い浮かぶ言葉が多すぎて、うまくまとまりません。ひとまず自分に「お疲れ様」と言いたい。

トンネルを抜けると

次のトンネルの入り口で

果てしない闇も 永遠の光も

ないって近頃は思う

(Mr.Children/『天頂バス』)

次のトンネルに入る前に、3日ほど休みたいと思います。

追伸

お祝いのメールありがとうございます。返信は厳しい状態です。


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

インターネットと象徴的不死 (2004-04-22)

インターネットと象徴的不死

ブログやホームページは、作成者の生命の象徴である。そして、永遠に残るものかもしれない。

死んだらココはどうなるのか

自分が死んでしまったらどうなるのだろう? ブログやホームページの作成者は、一度は考えたことがあるのではないだろうか。更新されることなく、自分の死を伝えることもできず、ページだけは残り続けてしまう。

想像してみると不思議な感覚だ。自分は死んでいるのに、ページだけが残っていて、そこに人が集まってしまう。もしも自分が書いたテキストや絵が、インターネットという世界のどこかにずっと残っているならば、それは、自分の分身が生き続けていることに近いのではないだろうか。

象徴的不死

精神医学者のリフトンの「象徴的不死」という概念を用いて考えてみたい。人間の命は有限だが、人はその有限性を超えた何かにつながることで、永遠の命を獲得しようとする。自分の肉体は滅びてしまうが、何かに永遠の命をたくして、それを自分の生命の象徴とする。これを「象徴的不死」という。肉体は死んでも、象徴としては不死ということだ。

「象徴的不死」には5つのモードがある。

  1. 生物学的モード(子孫繁栄など)
  2. 神学的モード(いわゆる宗教。魂は死なない)
  3. 創造的モード(業績や名誉、作品などを残す)
  4. 自然的モード(自然と一体化する。自分を自然の一部とする)
  5. 超経験的超越モード(神秘体験による生死の超越。悟りなど)

人は象徴としての永遠の命を求めるため、子どもをつくり(生物学的モード)、ときにあの世や来世を夢想し(神学的モード)、名誉や業績を欲する(創造的モード)。また、「死ねば自然に返る」と考えたり(自然的モード)、オカルトに走って生と死を超越しようとすることもある(超経験的超越モード)。

創造的モードとしての機能

インターネットで公開されているブログやホームページは、創造的モードの機能を果たしてしまう。作成者が死んでも、そのページは残ってしまう。どの時点まで保存されるのかは状況次第だが、少なくともしばらくの間は、本人の死んだ後も本人の象徴として生きつづけてしまう。

作成者がそれを望む場合もあるだろうし、望まない場合もあるだろう。内容によっては削除される場合もあるし、保管されて残る場合もあるだろう。半永久に保存され、まさに「象徴的不死」が実現することもあると思う。

私の場合、自分が死んでも、どこかに自分の書いた情報が残っていて欲しいと思っている。自分が生きていた証をどこかに打ち付けたい、というと大げさだが、なんとなくただ死んでいくのがもったいないと思ってしまうのだ。

ブログやホームページは、作成者の生命の象徴である。そして、永遠に残るものかもしれない。

Yas的日常

結局、オフ会に参加してくださる専業主婦はいませんでした。


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

夫と妻のおこづかい (2004-04-24)

夫と妻のおこづかい

平均では、専業主婦の月のおこづかいは激安である。

家計の状況

忌まわしき専業主婦の棲みつく家庭と、共働き家庭とでは、家計の状況にどのような違いがあるのだろうか。

若年層(20〜34歳)に限定したデータだが、興味深いものがあるので、それを見てみたい。以下の表に、「正社員の夫の世帯の家計の状況」を示す。

正社員の夫の世帯の家計の状況

繰り返しになるが、20〜34歳のデータであることに注意したい。「妻パート世帯」は妻がパート・アルバイトに出ている世帯で、「専業主婦世帯」は妻が無職である世帯である。

「自由に使えるお金」はおこづかいと考えてもよいと思うが、定義がやや曖昧である。世帯間での相対的な比較には使えるが、自分自身の毎月のおこづかいとの比較は難しいと思う。

このデータから、次のような事が読み取れる。

  • 共働き世帯は、お金には比較的自由
  • 専業主婦世帯は、お金には比較的不自由
  • 専業主婦は、自由に使えるお金がもっとも少ない
  • 妻パート世帯は夫の収入が少ない(家計補助のために妻が働きに出ている)

このデータをみると、共働きがもっともお金に恵まれているようである。そして専業主婦世帯が、もっともお金に不自由している。

激安生活の専業主婦

データは平均にすぎないが、専業主婦世帯はお金には不自由している。これから結婚を考えている女性は、うっかり収入の低い男性と結婚し、専業主婦になってしまうと、このような安い生活が待っているということを肝に銘じておいて欲しい。専業主婦になるなら、そこそこの男性ではなく、経済力のある男性でなければならない。(しかしそのような経済力のある男性は、徳のあるすばらしい女性と結婚するだろう)

それにしても専業主婦世帯のおこづかい(自由に使えるお金)は少ない。妻が1万円、夫も2万円強である。同僚に聞いてみると、月のおこづかいは3万円が平均だった。専業主婦を抱え込んでしまったため、不幸にも月のおこづかいが少ないのである。

これから結婚する男性は専業主婦に寄生されないよう注意してほしい。苦しい生活が好きというなら、話は別だが。

平均では、専業主婦の月のおこづかいは激安である。


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

夫と妻の生活満足度 (2004-04-25)

夫と妻の生活満足度

専業主婦は生活満足度が比較的高い。

生活満足度

専業主婦世帯の専業主婦が最も生活満足度は高い。男性の場合、生活満足度が比較的高いのは、共働き世帯の夫である。

専業主婦は生活満足度が高い

専業主婦の生活満足の高さは注目に値する。さすが家で寝ているだけある。家計の収入はそれほど高くないのに、生活に大満足している。おまけに年金も納めない。専業主婦に税金でもかけたらどうか。楽しているぶん、苦労している人に救いの手を差しべてもいいと思う。

男性の場合、共働きの方が生活満足度は高い。家に専業主婦が棲息していたら何かと不満だろう。妻が働いている方が、収入も格段に多く夫は満足である。

男性は「共働き」、女性は「専業主婦」が狙い目だ。(だから晩婚化が進行するのだが)

専業主婦は生活満足度が比較的高い。

Yas的日常

突然、遠い親類の家にお祝い金を持っていくことになった。しかし、手持ちのお札の中に新札がない。(地域にもよると思うが、お祝いだと新札の方が無難である)

ヒマな専業主婦じゃないんだから、平日の昼間にわざわざ銀行まで行って両替なんてしている時間はない。仕方ないから手持ちの1万円札にアイロンをかけてみた。しかし、何もおこらなかった。

専業主婦の存在を前提とした慣習ほど、腹立たしいものはない。


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

オタクの何がいけないのか (2004-04-27)

オタクの何がいけないのか

オタクが非難されるのは、その行為が悪いからではない。

真剣10代しゃべり場

数日前に放送されたNHKのTV番組「真剣10代しゃべり場」が話題だ。その日のテーマは「オタクの何がいけないの?」。オタク青年の叫びだ。番組は少しだけ見ただけなので、番組に登場した青年については特に言及しない。一般論として、「オタクの何がいけないの?」という問いに答えてみたい。

(この「オタクの何がいけないの?」については、「それゆけ!!だよもん星」さんにまとめがあるので、参照されたい)

異常と正常のはざま

社会はその社会に適した人間を求める。そこから外れたものは逸脱者として社会から制裁を受ける。オタクも逸脱者の一つのかたちであり、社会から制裁をうける。教室でいじめられたり、2ちゃんねるで叩かれたり、テレビで病理的な人間として取り扱われたり、有形無形の制裁が、オタクに対して向けられる。

社会学者のデュルケムが、『社会分業論』の中で次のように述べている。

ある行為は社会によって排斥されるからこそ、社会的に悪なのだとしか云いようがない。……われわれは、それを犯罪だから非難するのではなくて、われわれがそれを非難するから犯罪なのである。

ある行為が「悪」だとされるのは、それが社会にとって好ましくないものと判断されたからである。オタクは個々の行為だけから定義される存在ではない。社会の側の「正常」の判断基準次第で、人はオタクにもなるし、非オタクにもなる。

「悪」である理由は個人の側ではなく、社会の側にも存在するのだ。だから、「オタクの何がいけないの?」という問いに対して、個人の性向や趣向ばかりに注目しても、答えはなかなか出てこない。

オタクの潜在的逆機能

逸脱行動が社会に対して与えるメリットとして大きいのが、「何が正しくて何が異常なのかを境界に立つ人に知らしめる」効果だろう。私達は、何が正しい行為なのかを教えられなくても、オタクが非難されている場面を見れば、オタクというものが間違ったものなのだと気がつく。そして結果的に社会にとって都合の良い行動をするようになる。

このようにオタクの存在は社会にとってメリットがある。オタク、非オタクの境界にいる人は、オタク批判に同調することで、非オタク側へと流れる。

また、「まだまだあの程度ではオタクじゃない」と主張し、デブオタやさらにひどいオタクを批判するオタクもいる。オタクがさらにひどいオタクを非難することで、自分達はまだ正常なんだと認識する。(なぜデブでメガネのオタクがあんなにも非難されるのか、考えてみて欲しい)

このように、正常と異常を切り分けるために、正常と主張するものは異常と見なされるものを非難する。非難することで自分達の正当性・正常性を証明できるのだ。だから、オタクのような逸脱者は、常に存在しなければならない。そうでなければ一般の人びとは自分が正常な人間なのかそうでないのかが分からなくなってしまう。

社会の中の一般の人は、自分達が正常であると証明するために、オタクを非難するのである。そして、非難するからそれが異常な行動になってしまう。

再びデュルケムの『社会分業論』を引用したい。

ある行為は社会によって排斥されるからこそ、社会的に悪なのだとしか云いようがない。……われわれは、それを犯罪だから非難するのではなくて、われわれがそれを非難するから犯罪なのである。

オタクの行動が異常だから、オタクを非難しているわけではないのだ。

オタクが非難されるのは、オタクの行為が悪いからではない。

Yas的日常

ウィルスメールが200通ぐらい届く。いつもは100通ぐらい。普通のメールが埋もれてしまいそうで怖い。


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

妻のパンツを洗う権利 (2004-04-29)

妻のパンツを洗う権利

夫はパンツを洗う権利を妻に奪われている。妻は下着を管理することで性器を管理する。

夫が妻のパンツを洗って干すということ

夫が妻のパンツを洗って干すことを嫌がる人は多い。共働きで家事を分担してやっている人たちでも、妻のパンツは妻自身が洗って干すケースが少なくない。

洗濯機がキレイに洗っているのだから、別に汚いわけではない。だが、女性にとっては自分の下着が男性に洗濯されて干されるのは嫌らしい。

専業主夫が主人公のTVドラマ『アットホーム・ダッド』(TBS系)でも、夫が妻の下着を洗って干す場面があり、妻は「下着だけは洗ってほしくない」と嫌がっていた。そして夫はなぜ嫌がるのか理解できない。

夫は、妻のパンツを洗う権利を奪われているのだ。

性器管理としての下着管理

『スカートの下の劇場』(河出書房新社1989)で、上野千鶴子が、「主婦は家族全員の下着=性器を支配する」と述べている。この考えは興味深い。主婦は洗濯をすることで、家族全員のパンツを観察することになる。パンツが(いろんな意味で)汚れていれば、主婦はそれに気がついてしまう。新しいパンツを娘が買えば、「これは見たことがない!」と気がつき、パンツ次第では娘を小一時間問い詰めるかもしれない。

特に女性の下着は、セックスアピールの要素が強い(と、女性自身は思い込んでいる)。下着の延長線上には性器があり、性器の延長線上には異性がある。主婦は下着を管理することで、その先にある「性器」や「異性」をも掌握してしまうのだ。

この「下着管理=性器管理」の視点で考えると、女性が男性に下着を洗われてしまうことを嫌がる理由もわかる。女性の下着を洗う権利が男性に奪われてしまうことは、性器管理が男性側に移ってしまうことを意味する。女性にとっての下着がセックスアピールの役目を果たす以上、その役目を最大限に発揮するためには、男性に管理する権限を与えてはいけない。男性側にパンツを自由に操作されてしまうことは、自分の性的アピールすらも管理されてしまうことになる。

だから、女性は自分の下着を男性に洗濯されたくはないのだ。自分の女性性の管理領域まで、踏み込まれたくはない。

男性にはこうした考えがない。パンツはセックスアピールでもなんでもない。だから誰が洗っても一緒である。女性に勝負パンツはあるけど、男性には勝負パンツがない。

妻は自分の下着は自分で洗いたがる。

Yas的日常

第3回ビール党党大会にひっそりと参加。(「俺様キングダム」)

隊長もきんたまさん(「きんたま空間」)もブログの内容からは想像もできないような、いい人だった。やっぱりネットの印象と実物は違う。きんたまさんからは、「40代だと思ってた」と言われた。ネットの印象と実物は違うのだよ。

ビール党の集まりなのだが、ビールよりもジン系のお酒が好きなので、ジントニックを注文。「喧嘩を売ってんのか」と問い詰められる。その後の詳細は、よく覚えていない。


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る

「萌え」感情が理解されない理由 (2004-04-30)

「萌え」感情が理解されない理由

感情は文化的意味であり、社会的に構成される。そのため、「萌え」の文化に接触していない人には、「萌え」感情は理解されない。

「萌える」の意味

まだ市民権は得ていないが、「萌える」という言葉が広く流通している。NHKの「しゃべり場」のオタク特集でも、「萌える」という言葉がカットされずに放送されていた。

しかしこの「萌え」という言葉が理解できない人が多い。この点について興味深い記事があった。『「萌え・萌え」「十人十萌え」の不思議語』(asahi.com MYTOWN東京)。記事中「(萌えるとは)かわいさが心の琴線に触れて胸ときめくことかな。でも、定義できない。十人十萌えだから」というインタビューの発言がある。

「定義できない」「十人十萌え」という捉え方が面白い。「恋愛」感情を定義しようとしても不可能で、答えも「十人十色」であることと構造は同じである。

感情とは何か

感情社会学(sociology of emotion)的には、感情とは「社会的に構成され、感覚によって与えられた文化的意味」である(構成説)。

「恋愛」感情を例にしてみよう。「恋愛」感情は異性への性的興奮を主とした感覚の文化的な意味づけである。相手を認識し、性的に興奮し、心拍数や血圧が上昇する。この感覚への文化的意味が、「恋愛」感情である。実際はもっと複雑な感覚だが、文化的な意味づけがなければ、「恋愛」感情というものは存在しない。これが重要なポイントである。

それゆえ、日本でも近代化する以前には、「恋愛」感情は存在しなかった。「色」という言葉はあったが、「恋愛」はない。西洋から「恋愛」という概念が輸入されて、文学作品などを通じて恋愛文化が広まったからこそ、私達は「恋愛」感情を理解することができる。「恋愛」という言葉や概念がなければ、性的に興奮しても、それを「恋愛」だと認識できないのだ。

「萌える」という言葉の意味が理解できないのも、このためである。「萌える」文化に接触していない人々にとって、「萌える」という概念がなんなのかわからない。日常的に「萌える」と同じ感覚を味わっていても、それを「萌える」とは感じないのである。

「恋愛」感情も十人十色で、「萌え」感情も十人十色である。だが、「恋愛」については、私達の文化に溶け込んでいる。しかし、「萌え」感情については、ネットの一部や秋葉原を中心とした文化でしか、通用しない。「萌え」感情が理解される(正確には理解したつもりになる)には、テレビなどで「萌える」という言葉をもっと多用する必要があるだろう。萌え文化への接触が、萌え感情を一般的なものに変えるのだ。

感情は文化的意味であり、社会的に構成される。そのため、「萌え」の文化に接触していない人には、「萌え」感情は理解されない。

Yas的日常

今日はSimpleオフ会。残念ながら専業主婦は参加せず。では、逝ってきます。


▲このページの最初へ|日記一覧に戻るトップページに戻る
simple65536@yahoo.co.jp

(C) Yas すべてのページがリンクフリーです。連絡は一切不要です。引用も連絡不要です。