憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記

2004 年 06 月

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1周年 (2004-06-01)

1周年

1周年

おかげさまでSimpleは1周年を迎えることになりました。これまで310回ぐらい日記(コラム)を更新しています。よくこんなに書いたもんだ、と自分で驚いてます。このエネルギーはどこから湧いてくるんだ、いったい。

今後も半分は真面目に、半分はふざけて、ぼちぼちテキストを書いていくつもりです。

近況

最近は本業の方が忙しくなってしまいました。毎日更新するのは時間的に厳しいので、週に2回は更新をしない日があると思います。(今でもそうか)

質問募集

そろそろ「プロフィール」を更新したいと思います。古いまま放置してるのもどうかと思うので、1周年を機に書き換えます。

掲示板(独身帝国掲示板)に質問用のスレ(Yasに質問をするスレ)が立っているので、Yasに何か質問をお願いします。なんでも良いです。ネタ、ください。


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妻の作る料理は美味しいのか (2004-06-01)

妻の作る料理は美味しいのか

妻の作る料理には、外では得られないおいしさがあると思われている。

料理は愛情

前回、女性みんなが料理をするのは無駄だから、適宜外部のサービスを利用したらどうか、と書いた。予想通り数人の男性から「手料理が食べたい」という欲望に満ちたご意見をいただいた。

個人的には「料理は愛情」だと思っているので、男性が女性の手料理を食べたがる理由もよく分かる。まずくなければ食べたい。(まずいと食べた後のコメントに困る)

ただ、毎日作る必要はないのではないか。毎日やや手を抜いた料理を食べるより、時々手のこんだ料理を食べたほうが嬉しい。それに毎日食べていたら飽きるではないか。

家庭の味は特別か

世間の夫婦はどう感じているのだろう。「家庭の味」には外では得られないおいしさがある、と考えている夫婦は実に多い。

家庭の味

上に示したデータから、夫婦ともに「家庭の味」に特殊なあじわいを感じていることが分かる。

家庭と外の料理を比較したら、おそらく外の料理の方がおいしい。しかし、「家庭の味」には特別なあじわいがあるのだ、と考えている人が多いし、私もほぼ同意する。おいしいかどうかは別として、外では得られないあじわいがあるものなのだ。(結論としては当たり前すぎるか)

「家庭の味」は特別と思っている人が多い。

Yas的日常

Yasへの質問、まだまだ受付中。掲示板の方にも回答は書き、その後まとめてプロフィールに組み込む予定。

独身帝国(掲示板)」へどうぞ。


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不健康な料理を食べさせられる夫 (2004-06-02)

不健康な料理を食べさせられる夫

夫は不健康な料理を食べさせられている。

もしもお金と時間に余裕があったら

もしもお金や時間に余裕があったなら、妻の作る料理にどのような変化が見られるだろうか。以下に、夫婦の意識調査の結果を示す。

夫婦の意識調査

「お金や時間に余裕のできた時、夕食の支度をどうしたいか」という質問。興味深いのは、約6割強の妻が「安全で健康な食事にする」と答えていることだ。

危険で不健康な食事

「安全で健康な食事にしたい」と考えているということは、裏を返せば今の夕食がそれほど安全ではなく、健康とは言いがたいものだと妻自身が感じているのだろう。極端に言えば、「危険で不健康な食事」を作っているのである。(もちろん、本意ではないだろう)

それなのに夫と言えば能天気に約4割が「いまのままでどおり」と答えている。いままでどおりの妻が作った不健康な食事でいいのだろうか。毎日食べている料理がいかに不健康なものかを、夫は再考したほうがよい。

食事は健康の源である。結婚してしまうと、健康管理すら妻に依存してしまう。自分が生きるか死ぬか、妻次第なのである。これほど恐ろしいことはない。気がつかないうちに、妻に合法的に殺されてしまうのだ。

夫は不健康な料理を食べさせられている。

Yas的日常

プロフィール更新のためのYasへの質問はまだまだ受付中。誰かネタをくれ。(独身帝国掲示板

27 名前: 名もなき独身 投稿日: 2004/06/02(水) 00:11

ミスチルを好きになった原因ってなんですか?

原因って何か悪い病気みたいだ・・・。


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「遊び」の4分類 (2004-06-04)

「遊び」の4分類

「遊び」は4つに分類される。その4つとは、<競争><運><模擬><眩暈>である。

遊びの4分類

社会学の基本的な知識をひとつ紹介したい。

社会学者ロジェ・カイヨワは、「遊び」を4つに分類した。(『遊びと人間』講談社学術文庫 多田道太郎・塚崎幹夫 訳)

簡単に図で示すと、以下のようになる。

遊びの4分類

<競争>・・・Agon(アゴン ギリシア語で試合・競争)の遊び。サッカーやチェスなどの競い合う遊び。

<運>・・・Alea(アレア ラテン語でさいころ・賭け)の遊び。ルーレットやクジに賭ける遊び。

<模擬>・・・Mimicry(ミミクリ 英語で真似・模倣・擬態)の遊び。ママゴトなどのごっこ遊び。誰かを演じる遊び。

<眩暈>・・・Ilinx(イリンクス ギリシア語で渦巻)の遊び。急速な回転や落下運動によって自分の内部に器官の混乱と惑乱の状態を生じさせる遊び。ブランコ、ジェットコースターなど。

「遊び」は以上の4つに分類できる、というのがカイヨワの説である。

たとえばRPGでは

複数の遊びが混在するゲームもある。トランプを使った遊びは<競争>+<運>である。鬼ごっこは<競争>+<模擬>となる。身の回りの遊びがどのような要素を含んでいるのか考えてみると面白い。

たとえばRPG(ロールプレイングゲーム)は、4つの遊びがすべて含まれていると考えられる。プレイヤーはストーリーの中で誰かを演じる(<模擬>)。敵との戦闘は<運>と<競争>である。派手なエフェクトや演出によって感じる快感・気持ちよさは<眩暈>である。RPGは4つの遊びがバランスよく配置されているので、他のジャンルよりも人気があるのである。(もちろん、ゲームの出来次第だが)

「遊び」は4つに分類される。その4つとは、<競争><運><模擬><眩暈>である。

Yas的日常

花火

6月2日は横浜の開港祭だった。(昨日書くの忘れた)

ひさびさに花火を見て、正直、感動した。


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なぜ恋愛が楽しいのか (2004-06-06)

なぜ恋愛が楽しいのか

恋愛行動が楽しいのは遊びの4つの要素がすべて含まれているため。

「遊び」としての恋愛

先日の『「遊び」の4分類』の視点から、恋愛がなぜ楽しいのか考えてみたい。

遊びの4分類

社会学者ロジェ・カイヨワは「遊び」を4つに分類した。<競争><運><眩暈><模擬>である。

楽しい恋愛は、この4つの遊びがすべて含まれていると考えられる。

<競争>・・・恋愛対象となる相手を自分のものにしようとする競争。自分を磨き、相手の気を引く。他の男性や女性よりも魅力的になろうとする競争。恋愛における駆引きなど。

<運>・・・そもそも出会いは「運」によって大きく左右される。相手とうまく恋愛が進行するかは、「運」にもよる。「運」が悪ければデートもうまくいかない。

<模擬>・・・恋愛ごっこの楽しさ。一般に流布している男女の恋愛行動を模倣する楽しさ。ドラマや頭の中にある男女交際のイメージに倣って行動することで楽しさを感じる。

<眩暈>・・・恋愛感情やセックス。「一時的に知覚の安定を破壊し、明瞭であるはずの意識をいわば官能的なパニック状態におとしいれる」(ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』講談社学術文庫 p.357)。

「遊び」として恋愛をとらえると、恋愛の面白さの構造が見えてくる。考えてみて欲しい。<競争>も<運>も<模擬>も<眩暈>もない恋愛が、果たして楽しいだろうか。

恋愛行動が楽しいのは遊びの4つの要素がすべて含まれているため。

Yas的日常

金曜日:深夜まで飲む。

土曜日:渓流釣りに行った。ニジマスウマー。ヤマメウマー。


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結婚生活がつまらなくなる理由 (2004-06-06)

結婚生活がつまらなくなる理由

恋愛には「遊び」の性格があるが、結婚生活にはそれが少ない。そのため、結婚生活はつまらないものとなる。

遊びの定義

「新婚の頃は楽しかったけど、次第に結婚生活も飽きてきた」という話をよく聞く。男性も女性も、結婚生活に飽きを感じている人は少なくない。なぜ結婚生活が飽きるのか、「遊び」の視点から捉えてみることにする。

社会学者のロジェ・カイヨワは、遊びの定義(基本的性格)として次の性質を挙げた。

  1. 自由
  2. 実生活外の虚構
  3. 没利害
  4. 時間的・空間的に分離
  5. 特定のルールの支配

まず、遊びは「自由」であり、行為者の自発的な行動であること。強制されれば遊びは魅力を失う。

「実生活外の虚構」とは、日常生活と対比した場合に、非現実であるという特殊な意識を伴っていることである。

「没利害」は、遊びによって富などを生み出さないこと。遊びは非生産的で時間の無駄だと言う人がいるが、役に立たなくて非生産的だからこそ遊びは面白いのである。

「時間的・空間的に分離」は、あらかじめ決められた明確な空間の時間の範囲内に制限されること。

「特定のルールの支配」は、約束事に従う活動である。遊びにはルールが伴うものもある。

恋愛と結婚生活

「結婚生活がつまらない」とぼやいている人も、恋愛中は楽しんでいたのである。なぜ結婚によってつまらなくなるのだろうか。恋愛と結婚を上にあげた遊びの基本的性格の視点で比較してみよう。

恋愛と結婚の比較

恋愛は自発的で強制されない。デートともなれば日常とは隔離した世界を楽しめる。利害などは無関係であるし、2人で会うときには、時間的・空間的にも分離している。また、社会的慣習によるルールも存在する。恋愛は「遊び」としての性格を色濃く持つのである。

一方で結婚生活はどうだろうか。結婚するとお互いに不自由になる。最初は自発的に結婚を望んでも、時期に行動が制限され、強制されることが多くなる。家族のために働かなければならないし、家事も行わなければならない。強制による行為が多くなるのだ。

そしてまた、結婚生活は実生活そのものであり、非日常でもなんでもない。利害はお互いに対立することもある。仕事や家事を放棄すれば、誰かが損をする。さらに、時間的・空間的にも分離はできない。同じ場所に住むケースがほとんどだからだ。

唯一共通なのが、「ルールによる支配」である。これはむしろ恋愛よりも結婚生活のほうがルールは厳しい。法律よって定められるところのルールに従う必要があるからだ。ただし、ルールが変わればゲームの面白さも変化する。ルールが存在してもそのルールがつまらなければ、その遊びはつまらない。結婚生活でのルールは、果たして楽しいものだろうか?

恋愛中はたしかに楽しいだろう。だがしかし、その後にある結婚生活はつまらないものだ、という覚悟で結婚したいものだ。

恋愛には「遊び」の性格があるが、結婚生活にはそれが少ない。そのため、結婚生活はつまらないものになる。


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運と競争の時代 (2004-06-07)

運と競争の時代

現代は競争だけではなく、運が支配する社会である。

文明への道

人生では運が重要である。運と競争に勝ち抜く強さの両方を持ち合わせている人が、社会の中では成功を収める。

ロジェ・カイヨワは「遊び」を<競争(アゴン)>、<運(アレア)>、<模擬(ミミクリ)>、<眩暈(イリンクス)>に分類した。そして遊びは人類が存在するところには必ず存在するものであり、文化と遊びは相互に依存していると述べた。

原始社会は仮面をつけた祭儀や混沌とした世界が中心で、模擬と眩暈が支配する社会だった。文明化するにつれ、模擬や眩暈は後退し、変わって運と競争が優位に立つという。

運と競争の時代へ

いわゆる文明への道とは、イリンクスとミミクリとの組合わせの優位を少しずつ除去し、代わってアゴン=アレアの対、すなわち競争と運の対を社会関係において上位に置くことであると言ってもよかろう。

(ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』多田道太郎・塚崎道夫訳 講談社学術文庫 p.166)

運と競争の時代

現代が競争の時代であることは言うまでもない。いつのまにか試験によって選別され、社会人ともなればいやおうなく競争に巻き込まれる。

しかしそれ以上に、「運」が今の社会では重要である。

運はまず、遺伝というアレアそのものにつきまとっている。遺伝は、才能と欠点とを不平等に分配するからだ。

(同上 p.189)

生まれてくるときの才能は、自分では選べない。生まれてくる家も選ぶことができない。「家柄とは何人も逃れえない富くじの札のようなもの(同上 p.186)」なのである。

どんなに社会の平等化が進み、競争原理だけが支配しているかのように見えても、最初の出生の運が少しも影響しないことはない。最初の「運」によって、人生はある程度決まってしまう。

もちろん生まれだけではなく、人生のその後においても、運は重要である。女性は誰と結婚するかで人生が変わる。交際が自由化した社会で、運良くいい人と出会えた人が、幸せをつかむ。

カイヨワの言うように、現代は運と競争の時代なのである。いくら争っても、運がなければどうしようもない。

現代は競争だけではなく、運が支配する社会である。

Yas的日常

「NHK爆笑オンエアバトル おぎやはぎ」のビデオを見た。淡々としたツッコミが良い。スピードワゴンのビデオは出ないのか?


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定年まで現役で働くための秘訣 (2004-06-08)

定年まで現役で働くための秘訣

定年まで現役で働くためには、「運」が必要である。

生涯現役のための秘訣

会社の人事部に首を突っ込んで、あれこれと引っ掻き回したことがあった。その時に人事管理や労務管理について本で勉強したのだが、真面目な教科書だっただけに身もフタもないことが書かれていて面白かった。

65歳まで現役でバリバリ働いている人は、以下のような職業生活を送っていたそうだ。(佐藤博樹・藤村博之・八代充史『新しい人事労務管理(新版)』有斐閣アルマ p.162-163)

  1. 若いときに自分を成長させてくれるような仕事にめぐりあった
  2. 早い時期に、仕事上の目標となる先輩や上司をみつけた
  3. ある程度実務を経験した後、仕事全体が見渡せるようなポジションに異動になった
  4. 新しい仕事を任されたときに、関連の資料を読みあさるなど寝食を忘れて勉強した
  5. 仕事を進めていくうえで、常に中長期の目標をもっている

50代を超えても元気に働いている人たちには、上にあげたようなポイントが共通してあるのだ。

運が大事

先日、現代社会は運と競争の時代と書いた。上にあげたもののうち、1〜3までは運である。4と5は競争だろう。

事実、著者も運を強調している節がある。

たしかに、人生には運不運がある。将来にわたって伸びていく可能性の高い仕事に配属される人もあれば、技術的に袋小路に入ってしまっているような仕事を担当する人もいる。どのような職場に配属されるかで、その後の職業人生が決まってしまうのなら、初任配属こそが最も大切だということになる。

(p.164)

もちろん配属された後の働きも大切だ。だが、どこに配属されるかという運もそれ以上に大きなウエイトを占めているのである。

また、目標となるような上司や先輩と出会えるかも、運次第だろう。

ここでも、また、運不運の問題が出てくる。たまたま良い上司や先輩にめぐり会えればいが、そうでない場合もあるのではないか、という反論が聞こえてきそうである。

(p.166)

さらに3番目の「ある程度実務を経験した後、仕事全体が見渡せるポジションに異動になったこと」も、運であろう。

現実には、そのような機会に恵まれない人もいる。全体を見渡せるようなポジションに就きたいと思っても、配属を決めるのは会社であり、個人の自由にならないからである。

(p.168)

というわけで、会社の中で出世をし、定年まで現役で元気に働くには、運が重要なのである。そしてその運を生かして競争に励んだ人が、上に昇っていくのだ。

ちなみに私の会社の社長も、「若い人にこんなこと言うのなんだけど、仕事で一番大事なのは運。いい上司といい仕事にめぐり会うことが大事」と言っていた。一瞬だけ、やる気が失せた。

現代は、運と競争の時代なのである。

定年まで現役で働くためには、「運」が必要である。

Yas的日常

「OH!スーパーミルクチャン オリジナルサウンドトラック ミルクのカラオケオリンピック! みんな!ノリノリのヌレヌレのムレムレで行くダスヨ!」を聴いて笑う。「大統領のやさしさ夢芝居」は癖になりそう。


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絶望の中での光の見つけ方 (2004-06-09)

絶望の中での光の見つけ方

あきらめると絶望の中で光を見つけることができる。

きわめて桜井的な

今現在、とくに絶望を感じているわけではないが、人生には「あきらめ」が肝心である場合も多いと思う。

脚本家の北川悦吏子(『オレンジデイズ』『ビューティフルライフ』)が、Mr.Childrenの桜井に質問をした。「絶望の中での光の見つけ方を教えてください。すごく挫折した時とか、もうダメだと思った時とか、そんな時に、桜井さんを救うのは何でしょうか?」

この質問は『別冊カドカワ 総力特集Mr.Children』に載っている。

桜井は、「あきらめる」と答えていた。

「あきらめる」。語源は【あきらかに見極める】であると聞いた事がある。「あきらめる」事から得るものは意外と多い。今回のアルバムはそうやってできた気がする

アルバム『シフクノオト』は、「あきらめる」事で生まれたのである。

きわめて仏教的な

この「あきらめ」の哲学は、仏教に通じるものがある。世間的には「あきらめる」は「諦める」の意味だが、仏教的には「明らめる」――正しい道理を明らかにする――ことである。

「苦」は思うがままにならないことである。その思うがままにならないことを思うがままにしようとするから、苦しんで絶望するのである。だから、明らかに見極めて、ありのままに受け入れればよい。

諦めて何もしないでいるのが良いというわけではない。思うようになることは行動にうつし、努力すべきだろう。しかし世の中にはどうしようもないことが多い。それなのにがんばりにがんばるのは、不健康である。世の中を見渡し、どうしようもないという事実に気がつくこと――明らかに見極めること――によって、絶望の中で光を見つけ出すことができるのだ。

あきらめると絶望の中で光を見つけることができる。

Yas的日常

絶望?

いえ、とくに絶望しているわけではありません。いたって普通。

幕末の志士

同僚に、「Yasさんってさぁ、幕末の志士って感じだよねぇ〜。絶対に人斬ってるよねぇ〜」と言われる。いい意味なのか悪い意味なのか分からない。


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負け犬女性の増加が少子化の原因 (2004-06-10)

負け犬女性の増加が少子化の原因

少子化が進行しているのは、負け犬女性が増加しているから。

合計特殊出生率低下

2003年の合計特殊出生率(1人の女性が生涯に生む子供の数)が過去最低の1・29に低下する見通しとなった。夫婦2人で子どもを産むわけだから、単純に考えて出生率が2以下だと、人口は将来的に減少する。(人口を維持するために必要な出生率を人口置換水準と言うが、計算が面倒なので省略)

勘違いしやすいのだが、合計特殊出生率が低下しているのは、子どもを産む人数が激減しているからではない。結婚せずに子どもを産まない女性が増えていることが、少子化の原因なのである。最近論争となった「負け犬」(30代子無し独身女性)が増えた結果、少子化が進行したのだ。

完結出生児数

合計特殊出生率の計算には、結婚していない女子高生までもが含まれてしまう。結婚していない負け犬も計算の中に入る。つまり、無配偶者が多くなれば出生率は低下するのだ。

では、実際に結婚した人は、何人の子どもを産んでいるのだろうか。実は70年代から現在まで、ほとんど変化はない。最近では若干減少傾向にあるが、30年前から平均すると2人強の子どもを女性は産んでいた。

完結出生児数(結婚後15年〜19年たった夫婦の平均出生数)の推移を見てみよう。

完結出生児数の推移

グラフが示すとおり、72年から完結出生児数は減っていない。豊かになり子どもへの教育に力を入れるようになったため、子育てのコストが高まった。「子どもが1人じゃさびしい。だけど3人じゃ生活が苦しくなる」と多くの人が考え、多くの夫婦は2人の子どもを産むようになった。これは、現在でも同じである。知人や親戚を見ても、ひとりっ子が増えたようには見受けられない。今でも2人ぐらいは産むのだ。

完結出生児数が2以上あるのにもかかわらず、合計特殊出生率が1.29という低い数字になっているのは、結婚しない女性が増えたためである。負け犬の増加が少子化の原因なのだ。産む子どもの数が減ったわけではない。

少子化が深刻な問題だといわれているが、負け犬の増加も深刻な問題だ。

少子化が進行しているのは、負け犬女性が増加しているから。

念のため断っておくが、私は結婚していない30代以上の子無し女性を「負け犬」とは思っていない。負けているとも思わない。言葉の通りが良く、わかりやすいので「負け犬」という表現を用いた。

Yas的日常

野良猫と2分ばかり見つめあった。


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金では少子化は解決できない (2004-06-13)

金では少子化は解決できない

お金があるからといって、子どもをたくさん産むわけではない。

少子化解決の方法

日本はもっと人口が減ったほうがいいと思っているので、少子化は良い傾向だと思っている。がしかし、少子化が問題だとする立場を取る人も多い。

彼らが異口同音に唱える少子化解決の方法の一つが、育児支援である。育児施設や子どもを持つ家庭への援助金などにより、育児負担が減り、子どもをたくさん産むようになるというロジックだ。

しかし、いくら育児支援をしたところで、劇的に少子傾向が回復するとは思えない。多少の効果はあるが、それほど期待はできない。次のデータを見ていただきたい。年収別による「理想の子ども数」と「産む予定の子ども数」の平均だ。上のほうが貧乏で、下の方がお金持ちである。

年収別理想の子どもと予定の子ども

このデータから、「何人の子どもを産むかは年収とほとんど関係がない」という事実が読み取れる。

周囲の人間を見渡してみよう。金持ちで裕福な家庭は子どもをたくさん産んでいるだろうか?むしろ貧しいDQN家族の方が子どもをたくさん産んでいる。

教育への投資が原因

子育てでの親の希望は次の2つに集約される。

  • なるべく子育ての負担を軽くしたい
  • なるべく子どもには良い教育を受けさせたい(良い子に育てたい)

子どもへの教育への投資は、際限がない。良い教育(塾、おけいこ、私立への進学)をしようとすれば、それだけお金がかかるのである。育児支援としてお金を夫婦に提供しても、子どもを増やそうとはせず、楽になった分は子どもの教育に資源を多く割り当てることになるだろう。

子どもに良い教育を受けさせようとするから、子どもの数が減っていくのである。

育児支援は大切だと思うが、それで少子化が解決するわけではない。支援の必要のない裕福な家庭でさえ、2人強しか子どもを産もうとしていないのだから。

お金があるからといって、子どもをたくさん産むわけではない。

Yas的日常

自己啓発セミナー

横浜駅で自己啓発セミナーの勧誘を受ける。ヒマだったので20分ぐらい冷やかす。

体をスキャン!

横浜のヨドバシカメラで、オムロンの「カラダスキャン」を衝動買い。体重や体組織を計る機械で、基礎代謝、体脂肪率、体年齢、筋肉率などがわかる。筋肉率測定機能にひかれて購入を決断してしまった。

家に帰って筋肉率を測定したら、33.6%と表示された。――良いのか悪いのか分からなかった。


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負け犬女性が増加した理由 (2004-06-14)

負け犬女性が増加した理由

女性の社会進出と結婚の自由化が負け犬を増加させた。

男女が互いに求めるもの

社会構造に変化があっても、男女がお互いに求めるものに変化はない。これが負け犬(30代未婚子無し)女性の増加の一因である。

過去に何度か示したとおり、女性は男性に経済力やそれに関係する能力のある人を求める。体力があったり、頭が良かったり、リーダーシップのある男性を女性は好む。一方で男性は、かわいらしい女性、家庭的で家事育児の能力の高い女性を求める。男性は自分よりも仕事のできる女性を結婚相手としては考えない。

そのため、男性の場合はデキる人は女性からモテて、デキない人はモテない。女性の場合、デキる人は男性からモテない。(山田昌弘『結婚の社会学』丸善ライブラリー 1996)

男性の場合は単純なのだが、女性の場合は複雑なのである。

社会進出が負け犬増加の原因

現在晩婚化が進行しているのは、仕事も出来てそれなりに魅力のある女性と、その逆の魅力のない女性である。

この2つの層が負け犬となってしまう構図を以下に簡単に示す。

負け犬増加の原因

今からおよそ35年前――1970年前後――は、男性が依然として優位な社会であり、社会的地位や経済的な立場は女性よりも優位だった。男性全体が上げ底になっていたのである。そのため男女がお互いに求めるものはマッチしていた。その上結婚することが当たり前だったので、ほとんどの人が結婚していた。

しかし今では女性が高学歴化し、力を身につけてしまった。結果、女性にとって魅力的に見える男性が減ってしまった。社会の構造が変化しているのにも関わらず、魅力の構造は変化していない。これが負け犬増加の原因のひとつである。そして、結婚の自由化は、モテない男女を結婚から遠ざけた。これがもうひとつの理由だ。

階層の高い(仕事が出来て能力の高い)女性は悲惨である。学校や労働市場では勝ち犬なのに、女性としては負け犬として取り扱われる。

ただでさえ数の少ない魅力的な男性にアタックしても、男性はかわいらしくて自分より仕事のできない女性を求めるので、相手にされない。だいたい魅力ある男性は比較的自由に女性を選べるのだから、わざわざ自分の人生を脅かすような能力のある女性を選ばないだろう。

こうして負け犬は増える。

女性の社会進出が負け犬増加の原因。

Yas的日常

スピードワゴン@内村プロデュースを見てたら更新遅れちゃった。


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おっさんスノーボーダー (2004-06-16)

おっさんスノーボーダー

作家、東野圭吾について語る――。

憧れの中年

作家の東野圭吾が好きだ。作品も好きだが、人間としても好きだ。東野みたいな「おっさん」になりたいと思う。(参考:東野圭吾スペシャルインタビュー)

40を超えたおっさんなのに若い。一度生で見たことがあるのだが、その若々しさに失神しそうになった。しかも離婚しているところが素晴らしい。今は独身なのだ。

離婚経験のためか、彼の書く作品の端々からネガティブな結婚観を垣間見ることができる。最近の作品である『殺人の門』や『レイクサイド』を読むと、結婚なんてしたくなくなるだろう。

とくに、連作ミステリ短編集『予知夢』(文芸春秋)の一節が好きだ。物理学者の湯川が、学生結婚に反対する場面の会話が面白い。

「俺が親でも反対する、といってやった」

「なんだ、それ。おまえは意外に古い考えの持ち主なんだな。俺なら、親の反対なんか押し切るぐらいのガッツを出せ、とでもいってやるのに」

「古い新しいの問題じゃない。統計的なことをいってるんだ」

「統計的?」

「早く結婚して後悔している人間と、もっと早く結婚すればよかったと後悔している人間では、どちらのほうが多いかという問題だ」

草薙は若き物理学者の顔をしげしげと眺めた。そういう考えで生きていて人生が楽しいかと訊きたい気分だったが、黙っていた。

たしかに。早く結婚して後悔している人はたくさんいる。反対に、もっと早く結婚してればよかったと後悔している人はほどんどいないだろう。結婚経験者ならではの考え方である。

独身男性は、「早く結婚して後悔する人はたくさんいるが、もっと早く結婚していれば良かったと後悔する人はほとんどいない」という事実を肝に銘じておこう。女性と違って男性はゆっくり選べるのだから。

おっさんスノーボーダー

さらに素敵なのが、東野はスポーツマンであることだ。最近発売されたエッセイ集『ちゃれんじ?』(実業之日本社)は、スポーツの話で埋め尽くされている。40代半ばでスノーボードに魅せられた筆者の日常が書かれている。

40代半ばで独身というと、どこか寂しさを感じてしまう。しかし東野のエッセイを読んで、そんな気分が吹き飛んだ。とにかく楽しそうなのだ。若者に混じってスノーボードに挑戦し、上達していく。素敵だ。

東野圭吾みたいな「おっさん」になりたいものだ。

「もっと早く結婚していれば良かった」と後悔する人はほとんどいない

Yas的日常

無性にソーメンが食べたくなったので200グラムほどゆでて食らう。全然関係ないが、その昔ウチで飼ってた猫は、ソーメンが好きだった。


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かけてはいけない独身税 (2004-06-17)

かけてはいけない独身税

独身は負け犬である。敗者に税金をかけることはできない。

独身税

独身者に税金をかけろ、という話をたまに見かける。ペナルティとしての側面もあるし、「楽しているぶん負担を重くしろ」という既婚者の願いもあるのかもしれない。

個人的には、独身税を納めてもいいと思っている。子を持つ親の負担も減るだろうし、税によって教育が充実すれば、利益は私にも還元される。

しかし、独身税を導入するとかえって結婚する人が減る、と私は考える。

結婚=幸福という幻想

今の日本は、結婚=幸福というイデオロギー(みんながそうだと思い込んでいる信念の体系。社会を維持するための幻想)が支配的である。結婚が幸せであり、結婚していない人は不幸な負け犬というわけだ。

幻想と現実

結婚が幸福だというのは明らかに事実と反するし、独身だからといって不幸ではない。しかし、通念上は結婚は幸せなこととされる。いつまでも独身だと不幸でかわいそうな人と見られる。

それゆえ、独身税はかけられない。幸福な結婚が出来ず、不幸な人生を歩んでいる人に、ペナルティとしての税金はかけられるはずがない。不幸な人からお金を奪って、結婚した幸福な人たちに所得を移転することは、道義に反する。不幸な人がますます不幸になるではないか。

負け犬税

独身税=負け犬税なのである。敗者にムチは打てない。独身税を徴収したいのならば、独身が負け犬ではないということを社会が認めないといけない。でもそれを認めてしまうと、結婚が幸福であるという幻想も同時に崩してしまう。結婚は幸福であり、結婚した人は勝ち犬でなければならないのだ。(正確には勝ち犬だという思い込み)

結婚が幸福ではないと国民全員が気がついてしまったら、うっかり結婚してしまう人がいなくなってしまい、大変なことになる。だから、独身税なんてものはかけられないのだ。独身は「負け犬」ということにしておかなければならない。

独身は負け犬である。敗者に税金をかけることはできない。

追記:家族のある人への税制上の優遇措置について書くの忘れた・・・。また次の機会に。

Yas的日常

『負け犬の遠吠え』をブックオフで探すが見つからず。さんざん「負け犬」と言っておきならが実は未読ナリ。

そんなに面白いの?


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一夫多妻が当たり前だった世界 (2004-06-19)

一夫多妻が当たり前だった世界

20世紀前半まで、世界では一夫多妻の方が主流だった。

一夫一婦制

独身帝国掲示板」に一夫一婦制のスレが立ってたので、関連する話題を。

今の日本は一夫一婦制である。一人の男性は一人の女性としか結婚できない。(かつては愛人を持つことが公認されていたので実質的には一夫多妻だったが)

一夫多妻制だと、資源が不公平に配分される。富を持たない男性は結婚できないので、女性の性的資源を利用できなかったり、子孫を残すことができなくなる。それに対して一夫一婦制は平等である。だれでも一人は配偶者が割り当てられる。そして一人以上の配偶者を持つことはできない。平等なシステムだといえよう。

この一夫一婦制は、人間にとって自然なシステムではない。富や権力を持った男性は通常は複数の女性と関係を持ちたがるからだ。

一夫多妻制が主流だった

文化人類学者のマードックは、世界の849の社会の婚姻システムを調べた。その結果、8割以上の社会で一夫多妻制という婚姻システムをとっていることが明らかになった。

世界の婚姻システム

一妻多夫のシステムをとっている社会はごく少数だが、対照的に一夫多妻の社会は多い。社会の数で比較することに異論はあるが、一夫多妻制が多くの社会で支持されていた事実は注目に値する。おそらく人間の欲望に素直なシステムが一夫多妻制なのだろう。

しかし、一夫多妻制が認められているからといって、実際に男性が多くの女性と結婚できたわけではない。女性の数には限りがある。一夫多妻が実現できたのは、富のある男性だけだった。708の社会で一夫多妻というシステムが存在していたが、男性の20%以上が一夫多妻を実現している社会は、約3分の1にすぎない。多くは一夫一婦だったのである。

社会のシステムとしては、20世紀前半まで一夫多妻が当たり前だった。

20世紀前半まで、世界では一夫多妻の方が主流だった。

Yas的日常

負け犬

ようやく『負け犬の遠吠え』を入手。

阪神巨人

今年の東京ドーム戦、例年以上に審判が巨人びいきではないか?

もっとやって。


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ホモ二人にはさまれる (2004-06-20)

ホモ二人にはさまれる

電車の中には、危険がいっぱいである。

電車のシートの座り方

東横線でホモに苦しめられた。この体験を普段電車に乗らない地方の人たちにも理解してもらうために、図で解説したい。

まず、電車のシートの座り方である。一つのシートは7人がけである。ぴっちりうまく座れるように、色がついている。

図1のように、7人がうまく座れるようにシートがデザインされているのだ。

振り返ればホモがいる

渋谷から横浜方面への電車の中で、私は荷物をもってシートに座っていた。ふと横を見ると、右隣の男がどうもホモっぽい。うわー、ホモだと思って左の方を横目で見たら、そいつもホモっぽかった。(図2)

ホモに接触してしまわないよう、私はちょうど中間あたりに腰をおいていた。

この状態のまま目的の駅まで到着できればよかったのである。だがしかし運命は残酷だ。途中の駅で、新たな客が乗り込んできたのである。(図3)

新たなお客にとってみれば、私は一人で二人分の空間を占有している不届き者である。スペースを空けなければ、この状況では私が極悪人になってしまう。まいった。覚悟を決めてどちらかのホモの方に擦り寄るか――。擦り寄るとしたらどちらのホモの方がよりマシだろうか――。そんなふうに考えていたら、新たな客はどこかに行ってしまった。なんとかこの場はやり過ごせた。

きっと心の中で毒づいていたと思われる。今頃どこかのblogで「東横線で二人分の席を占有する馬鹿」というタイトルで記事を書いているかもしれない。

決着

次の駅で、右隣のホモが降りていった。

もう極悪人にはなりたくない。私はこのチャンスを逃すまいと、今までホモが座っていた場所に移動した。左隣のホモから離れなければ。

――ホモが座っていた場所は、やけに生暖かい感じがした。

電車の中には危険がいっぱいだ。


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読者が求むもの (2004-06-21)

読者が求むもの

読者は限定された範囲内の新しいテキストを求める。

超えてはいけない魔法円

ジャズは常に新しくもあり、かつ不変でなければならない。思想家のアドルノはジャズの流行について、そう考察した。

それはたえず聴き手に変わったものを約束して彼らの注目を惹き、うんざりするような単調さから抜け出さなければならないのに、けっして自分のまわりに描かれた魔法円を超えることができない。言い換えると、それはいつも新鮮であるとともに、いつも同じでなければならない。そのために、さまざまな逸脱もスタンダードと同じように規格化され、現れたかと思うと、同じ瞬間にすぐ引っ込められる。ジャズはあらゆる文化産業と同じように、同時に願望を諦めるためにのみ、願望を実現するのである。

(テオドール・W・アドルノ『プリズメン』ちくま学芸文庫 1996 渡辺祐邦 三原弟平訳)

ジャズに限らず、音楽には新鮮さが求められる。今までとは違う音楽を耳にしたとき、私たちは興奮し感動する。しかしその新しい音楽も、大衆に受け入れられるうちに規格化され、ひとつの型をなしてしまう。大衆に受け入れられるには、その型の中で新しさを構築しなければならない。

どんなミュージシャンにも、そのミュージシャンらしさというものがある。ミスチルならミスチルらしさがある。その「らしさ」の魔法円を超えてしまうと、大衆はそっぽを向いてしまう。大衆の期待を裏切ってしまうのだ。かといって、以前と同じ音楽では満足してくれない。魔法円の中で絶えず違う作品を生み出すことが、大衆に受け入れられる秘訣である。

まとめよう。音楽が大衆に広く長く受け入れられるには、次の2つが必要である。

  • 変わらないこと
  • 新しいこと

この矛盾するような欲求に応えることは難しい。そのため、ひとつのミュージシャンが常に売れ続けるということは、ほぼ不可能である。

テキストサイトの場合

テキストサイト(ブログも含む)も同様に、変わらないことと新しいことが求められる。アクセス数が多いほど、その要求も高い。書き手は限定された範囲内の中で、なおかつ新しいものを供給していかなければならない。いつの間にか出来てしまった魔法円から逸脱した場合、非難されてしまうこともある。

ミスチルの桜井は、『名もなき詩』で「知らぬ間に築いてた 自分らしさの檻の中でもがいているなら 誰だってそう〜」と表現した。せまい意味での「自分らしさの檻」は、アドルノの言うところの魔法円に近い。大衆が期待する曲のイメージと、その「檻」の中での苦悩・もがきが、『名もなき詩』には表現されていると思う。

「知らぬ間に築いてた 自分らしさの檻の中でもがいているなら 誰だってそう〜」その後に、歌詞はこう続く。――僕だってそうなんだ。

読者は限定された範囲内の新しいテキストを求める。

連絡

Simple画像掲示板」を設置しました。どうぞお楽しみください。


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『負け犬の遠吠え』 (2004-06-22)

『負け犬の遠吠え』

『負け犬の遠吠え』を読み終えたので、軽く感想を。

負け犬とは

酒井順子の『負け犬の遠吠え』を読み終える。男の人が読んでもそこそこ面白いと思う。基本はエッセイなので、実証的ではない。その辺を差し引いて読めば手を叩いて笑えるかもしれない。

負け犬とは……狭義には、未婚、子ナシ、三十代以上の女性のことを示します。この中で最も重要視されるのは「現在、結婚していない」という条件ですので、離婚して今は独身という人も、もちろん負け犬。二十代だけどバリバリ負け犬体質とか、結婚経験の無いシングルマザーといった立場の女性も、広義では負け犬に入ります。つまりまあ、いわゆる普通の家庭というものを築いていない人を、負け犬と呼ぶわけです。

(p.7 強調はYasによる)

どんなに仕事が出来ても、結婚して普通の家庭を築いていない人を「負け犬」と呼ぶ。実際に勝っているか負けているかは関係ない。とにかく「負け犬」は「負け犬」。その割り切り方が妙な笑いを誘う。本文中になんども「負け犬」という単語が出てくるので、「負け犬」という言葉が脳に染み付いてしまう。気がつけば頭の中が「負け犬」のことでいっぱいになる。そんな一冊。

パラサイトシングルは許されるのに

しかしどうもこの「負け犬」という言い方はひどい。パラサイトシングルという言葉は新聞に載せられるが、「負け犬」は無理だろう。

「進む晩婚化 -パラサイトシングルの増加が原因-」ならOKだが、「進む晩婚化 -負け犬増加が原因-」だと、非難の集中砲火をあびてしまうに違いない。

酒井の言う「負け犬」は、実際には負けているわけではない。ただ普通といわれる家族を築けなかった女性を「負け犬」とラベリングしているにすぎない。奇妙な言い回しだが、「勝ち犬」よりも「負け犬」の方が勝っている場合もある。

「負け犬」に代わるような絶妙なラベル、ネーミングがあれば良いのだが。

Yas的日常

人間の可能性は無限大

トイレの洗面台の脇に、手を乾燥させるための機械があると思う。手をかざすとセンサがそれを検知し、機械から風がブオッーっと出てきて手を乾かしてくれる。デパートの トイレには必ずあると思う。

その乾燥機をドライヤー代わりに使っている人がいた。髪の毛を乾かしていた。

人間の可能性って無限大だね。

補足

上記のトイレの温風乾燥機の話題について、イギリス在住の読者様から情報をいただいた。なんでもイギリスでは普通にトイレの温風乾燥機で髪の毛を乾かすらしい。乾燥機には「髪の毛を乾かすイラスト」が描かれているそうな。

ということは、私が目撃したのは実は英国紳士――!? どう見ても日本人だったが。イギリス育ちなのだろうか。

「イギリス人はトイレの温風乾燥機で髪の毛を乾かす」(64へぇ)


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負け犬が勝てない理由 (2004-06-23)

負け犬が勝てない理由

現代の日本は家族を基本単位としているため、負け犬は決して勝つことができない。

普通の家庭を築けぬ負け犬

負け犬(30代独身女。子無し)についての議論は不毛だ。「人生は勝ち負けではない」という類の話の腰の骨を折るようなつまらない反論から、「独身だからって不幸というわけじゃないっ!」という感情的な反発まで、反応は様々である。これらのリアクションは間違っていないし正しいとは思う。しかし、論破してはいない。なぜ、負け犬論争が不毛で、ズブズブと負け犬が沈殿していき、いつの間にか論争が消滅してしまうのだろうか。

現代の日本は家族を基本単位としている。家族を持つのがまだまだ普通であり、一生独身というのは少ない。『負け犬の遠吠え』(酒井順子)では、「普通の家族を築いていない人」を負け犬と呼んでいる。

つまりまぁ、いわゆる普通の家庭をというものを築いていない人を、負け犬と呼ぶわけです。

(p.7)

であるならば、「普通の家庭(家族)」とは何か?を明らかにすることで、負け犬の実態や構造も見えてくるだろう。

普通の家庭

結婚し家族を構成することで得られるものを、個人と社会、経済と感情の面から整理してみた。簡単な図を示す。

家族を構成することで得られるもの

家族を構成することで得られるものを、簡単に説明しよう。

  • <労働力再生産>:夫のメンテナンス。子どもを産み、育てて労働市場に提供すること
  • <感情抑制による秩序維持>:性関係を夫婦間の1対1に限定することで秩序を維持できる
  • <愛情/情緒的満足>:異性との親密な関係によって得られる満足。子どもに対する愛情。
  • <生活保障/豊かな生活>:安定した収入の確保(とくに女性)、相対的に高い家事能力によってもたらされる豊かな生活(とくに男性)

いわゆる理想的な家族は、上の4つの領域すべてを満たしている。家族は情緒的なつながりがあり、子どもがいて、夫婦は不倫などはしておらず、お互いに愛し合っている。生活を支えあい、共に豊かな暮らしをしていこうと協力している。

結婚することは、社会的にも個人的にもメリットが存在する(ということになっている)。

負け犬の構造

では負け犬の場合どうだろうか。上にあげた4つの領域すべてにおいて、勝ち犬を上回ることができるだろうか。負け犬の場合、いくつかを満たすことはできても、すべてを満たすことができない。独身状態だと、どれか一つを満たすとそれ以外が満たせない。トレードオフの関係に近いのだ。実はこれが、負け犬論争が不毛に終わる原因である。

たとえ愛を手に入れたとしても

たとえば負け犬に恋人がいて、情緒的な満足が得られていたとしても、それが不倫で秩序を乱している場合も多い。何より、性関係が固定されていないので、社会にとって見れば不安定である。さらに労働力の再生産もしないので、社会にとって得るものはない。また、個人の生活が保障されるわけではない。関係がいつ切れるかわからないし、法的な強制力も無いからである。

愛情以外でも、負け犬状態のままで

  • 労働力再生産
  • 秩序維持
  • 生活保障

を一つだけ満たすことは可能だ。だけど、何かを満たしてしまうと何かを犠牲してしまう。独身のまま子どもを産み育て、生活の保障もあり、感情的にも満たされていて、かつ社会秩序を乱さない。そんなこと負け犬にはほとんど不可能である。

そのため、負け犬は勝ち犬(想像上の理想とされる勝ち犬)を上回ることができない。また、上にあげた4つの領域は、独身状態だとトレードオフの関係になりやすい。それゆえ議論になれば「ああい言えばこう言う、こう言えばああ言う」という終わりのない無限ループにハマってしまう。

負け犬は構造上、勝ち犬を上回ることが出来ない。

Yas的日常

3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!」(チュンソフト・PS2)が気になる・・・。


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少子化と環境問題 (2004-06-26)

少子化と環境問題

地球の環境を考えると、先進国の少子化は望ましいことである。

抜け落ちている視点

少子化が現代の日本では問題とされている。しかし、今から約30年ほど前は、人口の増加の方が問題であった。日本でも、出生数を抑え、人口を減らそうという意識があった。

「日本人口会議」(1974,民間団体により開催)では、将来人口が減少するような態度を国民がとるべきだ、という主張がなされた。「夫婦が産む子どもの数を2人までに制限し、3人以上を認めない」というのが具体的な内容だ。

今から約30年ほど前は、人口を減らすべきだという今とは正反対の主張がなされていたのである。

人口増が環境破壊につながる

人口減の主張の背景には、地球環境問題への関心の高まりがある。人口が増え続けていけば、人間は有限である地球の資源を食いつぶしてしまう。特に先進諸国の人間は必要以上にエネルギーを無駄に消費している。どんな手段をもってしても、資源が有限であるため、世界のすべての人びとが日本人と同じ豊かな生活を送ることは不可能なのだ。発展途上国の工業化が進み、先進国のエネルギー消費量が増大すれば、いずれは大きな環境問題となり、全人類がダメージを受ける。

世界的なエコロジーの視点から見れば、出生増加、特に、先進国においてエネルギーを大量消費する出生増はむしろ否定されるものである。このような意識は、日本の出生に対する関心のなかにはあまり見られない。その意味では現在の少子化の議論は、ナショナリズムの臭いが強い。

(『見えないものを見る力』山田一成 八千代出版 1998)

ひどい言い方になるが、子どもの存在そのものがエネルギーの無駄である。環境問題に関心のある中年女性は少なくないが、自分の子どもが地球にとっては害であることに気がつかない。そういう視点を持ち合わせていないのだろう。三人も子ども産むのは地球にやさしくないのだ。

私は極端なエコロジストではないので、地球のために子どもを産まないなんてことは馬鹿なことだと思う。産む産まないは個人の自由だろう。だが、少子化を語る上で国家から離れた視点も必要ではないかと思う。

地球の環境を考えると、先進国の少子化は望ましいことである。

Yas的日常

サド的日常

飲み会で。「Yasさんってさぁ〜。サドだよねぇ」と言われる。

いや、両方いける。


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猫が集会を開く理由 (2004-06-27)

猫が集会を開く理由

猫が集会を開くのは、顔を見せ合い、なわばり内の結束を高めるためである。

猫って集会で何はなしてんの?

猫って集会で何はなしてんの?」スレが「憂鬱な昨日に猫キック 不安な明日に猫パンチ」(6月24日付)からリンクされ、面白かったので今日は猫の集会について。

猫がなぜ集会を開くのか。それは顔見せのためである。おたがいに顔を見せ合うことで、同じなわばりの中にどんな猫がいるのかを知ることができる。そうすることで、同じなわばり内での仲間同士の無用な戦いを避けることができるし、外敵の侵入を察知することも可能になる。(『ネコは何を思って顔を洗うのか』沼田朗 実業之日本社 p.118〜参照)

小原秀雄(『ネコはなぜ夜中に集会を開くか』花曜社)によると、ネコのなわばりは二重構造になっているという。簡単な図を以下に示す。

ねこのなわばり

中心にあるのが「プライベートエリア」もしくは「ハイムテリトリー」と呼ばれるなわばりである。自宅や巣の周辺であり、他のネコを寄せ付けない強力な領域である。

その外側に直径100メートルほどの「ハンティングエリア」というなわばりがある。このエリアが狩りをする権利のある領域であり、ネコはこのエリアの中でエサを確保する。逆に言うと、ハンティングエリア外の見知らぬネコに対しては、狩りをする権利を与えない。外敵が侵入した場合、猫同士の闘争が起こる。

猫の集会の様子を観察してみると、猫同士集まっていても何も話していることはないという。ただ一箇所に集まって円陣をくんでいるだけという場合がめずらしくないらしい。

つまり、猫は単に顔を見せ合うためだけに集会を開いている。顔を見せ合うことで、同じハンティングエリア内の猫だと知ることができる。集会に来ない猫はエリア外の猫=敵ということになる。こうすることでエリア内の無駄な紛争を減らし、効果的に外からの的の侵入を防ぐことができるのである。

猫が集会を開くのは、顔を見せ合い、なわばり内の結束を高めるためである。

Yas的日常

はじめての救急車

はじめて救急車に乗った。

友人が急性アルコール中毒で倒れて生と死の境界の16歩前を行ったり来たりしていたので、救急車を呼んだ。そして救急病院へ――。


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定期昇給とベースアップの違い (2004-06-29)

定期昇給とベースアップの違い

よく意味もわからずに横文字を使うと、恥ずかしい思いをすることがある。

定期昇給とベースアップ

「今年のベースアップは1万円ちょっとだった〜」なんて会話を外で耳にする。おそらくベースアップ=昇給の意味で使っているのだろう。

ベースアップと昇給を混同してしまう人は少なくない。おそらく会社で説明しないのだろう。

「昇給額=ベースアップの額+定期昇給の額」である。ベースアップと昇給は違う。

定期昇給とベースアップの違い

簡単な図で説明する。定期昇給は、勤続年数に応じて(多くは1年に1回)、給料のテーブルにしたがって賃金が上昇することである。それに対してベースアップは、その給料のテーブルそのものが書き換わり、上方にシフトすることである。

物価の上昇や経済成長に合わせて労働組合がベースアップを訴え、春闘においては「ベア(ベースアップのこと)」が論争の中核となっていた。低成長期の今では、多くのベースアップは期待できない。多くの企業・労組が「ベアゼロ、雇用維持」で合意している。

ここまで読めばわかると思うが、ベアゼロ=昇給額ゼロではない。昇給の額はベースアップの額と定期昇給の額の和である。(図では赤い矢印に相当する。)

意味もなく横文字を使いたがる人がいる。昇給をベースアップと呼んでも、ほとんどの場合困ることはない。そんな細かいことを気にするひとはいないだろう。でも、いざというときに恥ずかしい思いをしないよう、正しい意味も知っておいたほうがいいと思うのだ。

よく意味もわからずに横文字を使うと、恥ずかしい思いをすることがある。

Yas的日常

精神状態がよろしくないので、今日の記事は適当でした。


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最も優れたダイエット (2004-06-30)

最も優れたダイエット

優れたダイエットは、やせないダイエットである。

理想体型の男女差

ここで言うダイエットとは、健康的な体型の女性が不特定多数の男性にモテるためにやせようとするダイエットである。太った人が健康体になるために行うダイエットについては、考慮しない。

女性が理想とする体型と、男性が好む女性の体型には違いがある。女性が理想とする体型は、男性にとってはやせすぎである。多少はふっくらしていたほうが見た目もよく、肌触りも良い。私の上司も、自分の妻がダイエットに成功し、がっかりしていた。

アメリカの場合も日本と同様である。男性は太ってもやせてもいない女性を好むのだが、女性はスリムな体型を望む。多くの女性が「男性はやせた女性を好むものだ」と実際以上に思い込んでしまっているのだ。(『女と男のだましあい』デヴィット・M・バス)

心理学者の調査によらなくても、コンビニに行けば実感できるだろう。女性誌を読んだ後、男性向け成人誌のコーナーに行けばよい。百聞は一見にしかず。

女性と男性では理想とする体型にギャップがある。この点は押さえておきたい。

ダイエットの意味

では懸命にやせ型になろうとするダイエットは無意味なのだろうか。いや、無意味ではない。ダイエットには、「不幸の原因帰属」や「とりあえずの目的」を与えるという機能がある。

心理学者の小倉千加子は、男性は女性に4つのKを求めると述べている。その4つとは、かわいい、家庭的、賢い、軽い(体重が)である(『男性が女性に望む4つの条件 (2003-09-12)』参照)。参照先で4Kについて検証しているが、この「軽い」は小倉がとってつけたものとしか思えない。男性は重い体重の女性を願ってはいないが、軽い女性を特に欲しているわけではない。

この話をある30代の負け犬女性にしたところ、「私にできることは軽いことを目指すこと。ダイエットがんばる」と返された。「かわいい」「家庭的」「賢い」の3つは変えられにくいが、最後の「軽い」は目標として立てやすいし、実現の可能性は高い。自分がモテない理由を体型のせいにすることで、とりあえずの現実から目を背けることができる。モテないのは体重のせいじゃなく他の要因なのだが、努力可能な体重という属性に不幸の原因を帰属させることで救われるのである。

また、ダイエットは目標が具体的に数値化されるため、実にやりがいがある。暇な専業主婦が節約に走るのと同じだ。自分の努力で徐々に体重が減っていく。価値が多様化した社会の中で、体重というわかりやすくて数値化された共通の価値は、信仰の対象となりやすい。ダイエットには、退屈な日常に刺激を与え、ダイエットするものに生きる意味や生きがいを与えるという機能があるのである。

最も優れたダイエット

以上のことを踏まえると、あまりやせないダイエットが優れたダイエットと言えるだろう。劇的にやせて理想の体型となってしまうダイエットは、次の2点において失敗である。

  • 女性の理想体型は男性から好まれない
  • 理想体型になることで生きがいを喪失する。不幸の原因を直視してしまう。

理想の体型になってもモテなかったら、その女性はひどく失望するだろう。モテようとダイエットしているうちがまだ幸福なのである。

最も優れたダイエットは、努力すればちょっとだけ体重が減り、食べたり怠けたりすることですぐに体重が戻るダイエットである。あんまりやせないダイエットが最も良い。理由は次の2つ。

  • やせ型にならないため、男性からモテる
  • 生きる目的を失いにくい。永遠に理想体型にならないため、ダイエットをしながら生き生きと暮らすことができる

女性には、永遠に理想体型にならないダイエットに励んでもらいたいと思う。

あまりやせないダイエットが最も優れたダイエットである。

Yas的日常

金八

PS2の『金八先生』をプレイ。金八の存在がなければただのアドベンチャーゲームではないか?

隠れ金八マニアの私としてはOKだが。(ところで誰か放送室に立て籠もらないのか?)

再起動

とりあえず復活。


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