憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記

2004 年 07 月

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女性がダイエットをする理由 その1 (2004-07-02)

女性がダイエットをする理由 その1

女性がダイエットをするのは、自分より上層の人間の姿をマネようとしているからである。

ファッションとダイエット

ダイエットとファッションは似ている。どちらも他人の視線を意識する。他人に良く思われたい、かわいいと思われたいから、身体をシェイプアップし着飾るのである。

私は常々、ファッションとは模倣だと思っている。テレビや雑誌や自分の周りの人たちのファッションを見て、自分もその特徴や要素を模倣するのである。まるっと誰かと同じ服を着ることは少ないが、ほとんどの人は普通に服を着ると何かの模倣にしかならない。必ずどこかで見たようなファッションになってしまう。

模倣の法則

この点を考察した古典的な理論として、フランスの社会学者タルドの『模倣の法則』が有名である。タルドは「社会は模倣(imitation)である」と主張し、社会結合の原理を模倣に求めた。

タルドはいくつかの模倣の法則を挙げている。そのうちの一つが「模倣は上層より下層に移る」というものである。

模倣の法則

人々は、社会の中で自分よりも上の人を模倣する。逆はほとんどない。一般庶民がセレブの行動やファッションを模倣することはあるが、セレブが一般庶民の行動を模倣することはない。模倣は上層から下層に流れていく。(何が上層で何が下層なのかは、人によって異なる。これが人々のファッションの差異につながるわけだが、詳細については割愛する)。

人々は自分より下の人間を模倣しない。自分より上の人間を模倣する。

ダイエットは模倣過程である

またタルドは「モデル(模倣の対象)の影響はモデルとの距離に反比例する」とも述べている。ここでの距離とは物理的な距離ではなく、社会的な距離である。近接していればしているほど、モデルの影響は受けやすい。逆に離れていれば影響は弱い。

一切のメディアが存在しないムラ社会で、しかも女性が全員太っていれば、その女性はダイエットをしようとは思わない。やせた人がいて、そのやせている人が自分よりも上でなければ、やせようとは思わないのである。

社会的距離が近いメディア――雑誌やテレビなどで、スリムな女性の姿が大量に宣伝されている。ファッションモデルや芸能人として高い地位にいる女性は、間違いなく自分よりも上の人間である。このような模倣対象となる情報が女性の周囲には近接して存在するために、女性のほとんどはダイエットをするのである。(ほとんどの女性にダイエット経験がある)

女性のダイエットは、自分より上層の人間への模倣過程である。

Yas的日常

マターリ週末

ひさびさに金曜日の夜を家で過ごす。まったりとネット。

エアコン導入

新たにもう一つエアコンを購入。書斎に設置した。暑くてかなわん。


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ダイエットという病気 (2004-07-05)

ダイエットという病気

オタクな人間とダイエットする人間は、適応に失敗している点で共通している。

ダイエットしようと考えた人は病気

「一度でもダイエットをしたことのあるあなた、いままさにダイエット中のあなた、ダイエットをしなくてはいけないかな、と一回でも考えた事のあるあなた、あなたは病気です」という煽り文句で有名なのが、中島梓の『コミュニケーション不全症候群』(ちくま文庫)である。

オタクと「ダイエットする女性」というまったく正反対のもののように見える存在が、実は同一の構造を成しているという著者の主張は、興味深い。

コミュニケーション能力に乏しく、趣味という自分の小宇宙に閉じこもってしまい、社会に適応できないオタク。対して、ダイエットをする人は一見すると適応的である。男性や女性から受け入れられようとダイエットしているわけだから、特に問題はないように思われる。しかし、必要以上にダイエットに励みすぎ、過剰な適応を女性に求めているのが、現代である。そしてごく普通の女性もダイエットしてしまう。

オタクもダイエットをする女性にも、適応の失敗が観察できる。適応の失敗とは次の2つ。

  • 適応不足(例:オタク)
  • 過剰適応(例:ダイエット、美容に燃える女性)

おタクは社会のなかに自分の居場所を見出す可能性を捨てて、自分の内宇宙にそれを構築した人間であると私はいった。ダイエットをせずにいられない少女たちは、社会が与えてくれるあまりにもせまいすきまに自分をあてはめようとして身をけずりつづける人間である。

(『コミュニケーション不全症候群』中島梓 ちくま文庫 p.157)

社会から呈示される女性の基準は、あまりにも厳しい。無理なほどに適応しようとするため、苦しむ女性もいる。しかしそれでもダイエットは流行している。やせなければ社会から阻害されてしまう。やせたところで何かがあるわけではないのだが、とにかくやせなければならないのだ。

それでもダイエットはしたほうが良い

誤解を招かないよう断っておくが、私はダイエット推進派である。どんどんダイエットしたらよいと思う。ダイエット行動は人畜無害で基本的に他人に迷惑をかけることもない。無意味な人生にも意味を感じることができるだろう。ダイエット産業、美容産業の発展で、経済は潤う。たとえ強迫的であれ、人々は社会的な運動を止めてはならない。まったく同じ理由で、私はオタクを否定しない。

社会から示されるモデルへ近づきすぎるのがダイエット行動であり、離れすぎるのがオタクである。どちらも社会・個人にとって多少のリスクはあるものの、全体としてみれば必要なものだ。

ただ、とりつかれたようにダイエットや美容やファッションに駆り立てられ、焦りすら感じたときは、自分が過剰に適応し何かの型にはまろうとしているのではないかと内省することも必要ではないかと思う。

オタクな人間とダイエットする人間は、適応に失敗している点で共通している。

Yas的日常

近況

土曜日:新宿の居酒屋「かあさん」で飲んで騒ぐ。料理の心は母心。

日曜日:軽めの人身事故を目撃する。しかしDQNだったので見てみぬフリをする。

月曜日:微妙にウェストが膨らんできたような気がするのでダイエットでもしようかと思った。


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白紙投票の価値は (2004-07-07)

白紙投票の価値は

白紙で投票することは無意味ではない。

白紙で投票するとき

参議院選挙も近いので、政治の話をひとつ。

その昔、政治学の講義をしていた先生に「支持する政党がなく、考えに考え抜いた結果どの政党を選んでも一緒だという結論が出た場合、選挙でどの政党に一票を投じればよいのでしょうか」という質問をしたことがある。現実的には様々な条件を考慮して、もっともマシな政党に投票すると思う。でもそれでも判断がつかなかったり、どの政党も駄目だと思うときがあるかもしれない。そんなときはどうすればいいのか。

「政治学でご飯食べてる人間がこんなこと言ってはまずいんだけど――」と前置きし、次のように答えた。「白紙で投票するのが良いですよ。白紙は白紙としてカウントされますので、政治的な主張として受け止められます。もしも白紙投票が多ければ、政治そのものや次回の選挙に影響が出るでしょう。――実は私も白紙で投票したことがあります」

たしかに選挙の結果をよく調べてみると、無効票はしっかりカウントされ、投票数に対する無効票の割合なども計算されているようだ。結果も公開される。その時の選挙結果には影響がない(議席数に影響を与えることはできない)が、投票の結果は社会に影響を与える。もしも白紙もふくめて無効票が前回よりも5%増という結果になったらどうなるか、を考えてみると良い。

政治的無関心

白紙投票は政治への無関心さや政治への絶望のアピールである。

政治学者のH・D・ラスウェルは、政治的無関心を3つに分類した。

  1. 脱政治的態度
  2. 無政治的態度
  3. 反政治的態度

(1)脱政治的態度とは、自分の期待が満たされずに政治に幻滅してしまい、政治に関心を示さなくなる態度である。(2)無政治的態度とは、政治は自分とは関係ないと考える態度である。この態度をとる人は政治的な知識に乏しい。最後の(3)反政治的態度は、政治そのものを否定する態度である。この態度をとる人は、投票にすら行かないだろう。

選挙で投票しないのは、無政治的態度や反政治的態度の表れである。それに対して白紙で投票するのは脱政治的態度と捉えることができる。白紙は幻滅や無関心さのアピールなのだ。ホントは政治に関心はあるけど今の政治には無関心という人は、白紙で投票したほうがいい。投票することで幻滅している脱政治的態度の人が多いのか、政治は自分とは関係のないと考える無政治的態度の人が多いのかがわかるのだ。

白紙投票によって、自分の政治に対する無関心さを社会に訴えることができる。これが白紙投票の意味である。

そして選挙戦では無党派層がカギをにぎる。どの政党も支持しない人、政治的無関心層を自分の政党に票を投じさせることが選挙では重要だ。それゆえ各政党は白紙投票率を気にせざるをえない。白紙で投票したからといって、そのままゴミ箱に直行し、まったく意味をなさないということはないのだ。

白紙投票によって、政治への無関心さを社会に訴えることができる。

ちなみに私は白紙で投票するつもりはない。

Yas的日常

食パン

通勤途中、食パンをかじりながら走って通勤している外国人を見かけた。走りながら食パン食べている人を見たのは生まれて初めて。

猫、踏む

夜、コンタクトをはずした状態で道を歩いていたら、足元に白いゴミ袋らしきものが見えた。気にせずにゴミ袋を踏んだら、なんと猫だった。すまぬ。猫を踏んだのは生まれて初めて。

初めてづくしのYas的日常。


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選挙予測で選挙結果は変わらない (2004-07-07)

選挙予測で選挙結果は変わらない

アナウンスメント効果は、実際に存在が実証されたわけではない。

選挙予測は当たっても外れても非難される。

アナウンスメント効果とは

民主、自民を上回る勢い 比例第1党は確実、参院選」のような選挙予測記事そのものが選挙結果に影響を与えると言われている。これをアナウンスメント効果(通称アナウンス効果)と呼ぶ。某所でこのアナウンス効果が話題になっていたので、今日はこのアナウンスメント効果について書くことにする。

アナウンスメント効果の辞書的な意味は、「選挙時のマス・メディアの予測報道や情勢報道によって、候補者の当落や政党の議席の増減が左右される(といわれる)現象」(『社会学小事典(新版)』有斐閣)である。

ある候補者に投票しようと考えていた人が、選挙予測で勝利確実の報道を見て、投票に行かなくなったり、別の候補者に投票してしまうことがある。選挙予測は投票行動に影響を与えると考えられる。

アナウンスメント効果は次の2つに分けられる。

  1. バンドワゴン効果
  2. アンダードッグ効果

(1)バンドワゴン効果は、音楽隊の行進がどんどん取り巻きを増やしていくように、優勢な政党や候補者に支持者が集まる現象である。ある意見が大多数の人に支持されているというそれだけの理由で、その意見を受け入れて支持してしまう傾向が人間にはある。これには社会的是認という隠れた報酬があるからである。少数意見の支持よりも、大多数の意見への支持の方が、周囲からは肯定的に受けとめられる。今回の参議院議員選挙では、自民党か民主党へのバンドワゴン効果が大きかったと選挙後に分析される可能性が高い。(前回の衆議院選挙も同様だが)

(2)アンダードッグ効果は、劣勢の候補者や政党に味方して投票する現象である。日本語で言えば、負け犬効果だ。とくに支持はしていないけど野党の議席を増やしたほうが良いと考えて、劣勢の政党に投票することもあるだろう。「自民党苦戦」の報道によって、あまり積極的でなかった静かな自民党支持者が投票に行ってしまうこともある。これにより予測では負けるはずの政党が、最終的に逆転してしまうことがあると思う。

選挙予測によるアナウンスメント効果には、ある政党にとってプラスの効果とマイナスの効果があるということは重要である。

本当にアナウンスメント効果があるのか

こうしたアナウンスメント効果は昔から言われ続けてきたことである。しかし、実証的に確認されたことはない。裏づけようとした人はたくさんいるが、期待した結果は得られていないようだ。特定の候補者や政党にバンドワゴン効果とアンダードッグ効果が分散する可能性を示す実証もあるが、明白な当落や議席の増減への影響は、確認されていない。

実際にアナウンスメント効果があり、選挙結果に影響を与えてしまうと考える人は多い。そしてマスコミを批判する。マスコミは選挙予測が外れた場合、もちろん非難される。しかし、的中した場合も非難される。マスコミの予測報道が投票結果に影響を与えた=意図的にリードしたのではないか、と批判される。天気予報のように単純じゃないところが難しい。

アナウンスメント効果で選挙結果が変わるかどうか、今のところはわからない。マスコミも意図的に選挙結果を操作することは難しいと思う。

アナウンスメント効果は、実際に存在が実証されたわけではない。

選挙予測は当たっても外れても非難される。

Yas的日常

明日、東京ドームの巨人・横浜戦を観にいきます。巨人ファンのYas的には楽しみ。

でも席は三塁側(横浜サイド)の内野席・・・。


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竹中平蔵と東京ドーム -Yas的休日- (2004-07-09)

竹中平蔵と東京ドーム -Yas的休日-

Yas的休日の記録。単なる日記。

アンタには選挙権がありませんから!

久々にただの日記を書いてみたいと思う。

有給使って仕事を1日休んだ。35度近い気温の中、新宿に買い物に出かける。

石原と竹中

新宿東口広場で、今回の選挙に立候補している竹中平蔵と石原伸晃国土交通大臣が演説をしていた。演説の内容については面倒なので書かないが、民主党への批判が少なかったことが意外だった。

ただ立って聞いていただけなのだが、なぜか握手を求められてしまった。とくに握手したいわけではないのだが、差し出された手をパシっとなぎ払うことも出来まい。仕方なく握手した。不思議なことに、握手をすると親近感がわく。こういう地道な行動も大事なのだろう。

聴衆はさほど多くなく、大きな混乱にはなっていなかった。ホームレスの人が聴衆の中に何人も紛れ込んでいたのは新宿ならではだろう。ホームレスの人々は、竹中や自民党を支持していたようだ。

――でも、ホームレスの人に言いたい。

アンタには、選挙権ありませんからっ! 残念っ!

高橋のホームランに酔う

夕方から水道橋に向かい、東京ドームへ。巨人横浜戦を観戦するためだ。

席は3塁側(横浜サイド)なのだが、横浜ベンチの近くで前から3番目の席だったので、眺めはよかった。

東京ドーム

信頼できる筋からの情報によると、はっきりとYasだとわかるぐらいテレビに映っていたらしい。ビデオにとっておけばよかったか。(←田舎者である)

巨人ファンのYasとしては、試合の内容には大満足だった。高橋由伸の超特大ホームランを見ることができて幸せだった。寿命が1.5日ほど短くなってもかまわないと思った。とても気持ちのよい、快感が全身を駆け巡るようなホームランだった。

一緒にいた野球を知らない友達が、巨人のローズを見て、「あ、クロマティってまだいたんだ」と大声で叫んだときは困ったが、トータルでは大満足の内容。ビールも美味しく、後半はかなり酔っていた。

またチケットが手に入ったらぜひ行きたい。

家に帰って適当に日記を更新。もう寝る。


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選挙は国民を政治から排除する (2004-07-10)

選挙は国民を政治から排除する

選挙によって国民は政治に参加していることになっているが、現実には選挙によって政治から排除されている。

投票だけが政治参加ではない

明日、7月11日は参議院議員選挙である。選挙の話題もちらほらと耳にする。その中に、「私たちは投票を通じてしか政治に参加できない。だから選挙に行く」というものがあった。この意見は、たまに見かける。選挙に行き、一票を投じるのは結構なことだが、投票を通じてしか政治に参加できないというのは誤りである。

政治に影響を与える過程には、選挙以外にも、市民運動に参加したり、利益集団の中で活動を行うことが挙げられる。ネットで自分の政治的主張を述べるのもひとつの方法だ。アクセス数が多ければ、それだけ影響力も大きいだろう。

選挙はもっとも気軽にできる政治参加というだけである。選挙だけが政治参加なのではない。

投票は権威を与える

政治とは、「希少な資源を権威的に配分すること」である。これはイーストンの有名な政治の定義(authoritativeallocation of value)だ。たとえば今の日本では、年金は「希少な資源」にあたる。誰もが満足することがない限りある資源である。

この定義の中で重要なのは、「権威的」の部分である。配分方法に正当性があり、国民が納得して従わなければならない。その権威を政治家に与えるのが選挙である。低い投票率は、権威の弱体化につながるので、問題なのである。

政治から排除されている

我々は、資源の配分方法にまで関与することはほとんどない。各政党がマニフェストを示してはいるが、個々の配分方法に口出しすることはできない。政党あるいは個人に投票しなければならないので、A党のある政策には賛成だがもうひとつの方針には絶対反対という場合、投票時に悩むことになる。結局どの政党にも問題はあるが、もっともマシなところに入れるという選択をする人がほとんどだ。

投票は政党に正当性のある権威を与えるだけで、個々の課題には関与することができない。つまり、我々は政治から排除されているのである。

投票によって政治に参加したつもりになっているが、実際は政治家に権威を与えているだけであり、選挙後は政治家が権威のもとに政策や法案を通していく。いくら世論の反対があっても、次回の選挙に影響がない限りは、世論は無視されるだろう。

住民投票や国民投票を喜ぶ政治家は少ない。国民が直接政治に参加されては迷惑なのだ。現実に住民投票なんてやられたら、政治家の思惑がはずれてしまう。民主主義の重要性を説くのは選挙のときだけであり、その後は国民は政治の場から排除したいし、現実に排除している。代表者を選出する選挙は、裏返せば、国民が政治から排除されることを意味するのだ。

国民が政治から排除されることを批判しているわけではない。国民は愚かだから、むしろ排除されるべきだろう。選挙によって代表者を選ぶ必要はある。しかしそれと引き換えに、代表者に権威を与え、政治の場からは排除されてしまう。この自覚は必要だ。

また、ほとんど影響のない一票を投じただけで満足している人が多い。政治に参加する方法は他にもあるのに、投票だけが政治参加だと思い込んでいる、そのことが問題なのだ。

選挙によって国民は政治から排除される。


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選挙特集 (2004-07-11)

選挙特集

軽くお酒を飲みながら、開票速報を見ている。感想はとくにいいますまい。

過去に書いた選挙に関係する記事をまとめて今日のコラムとしたい。

バカな政治家の存在理由」 バカな議員はバカの代表である。

等しく選挙権が与えられている本当の理由」 国民に投票権が等しく与えられている理由は、公正に代表者を選出するためではなく、代表者が正当性をもって支配するためである。

選挙制度の不完全性」 欠点のない完璧な選挙制度は存在しない。選択肢が3つ以上になると、数学的に見て完全な集計方法は存在しない。

知的障害者やボケ老人に投票権は与えるべきか」エリートには複数票を与えるべきだという理念や思想は、決して否定しきれない。

白紙投票の価値は」 白紙で投票することは無意味ではない。

選挙予測で選挙結果は変わらない」 アナウンスメント効果は、実際に存在が実証されたわけではない。

選挙は国民を政治から排除する」 選挙によって国民は政治に参加していることになっているが、現実には選挙によって政治から排除されている。

政治についてはもっと書きたいのだが、あまり人気のある話題でもないし、また特定の政党や政策への批判はしたくないので、一般的な政治論しか書けない。それもいいか、と最近では開き直っている。


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選挙を語りがたる男と実態 (2004-07-12)

選挙を語りがたる男と実態

男は選挙について語りたがる。しかし投票率は女性の方が高い。

天下国家を語りたがる男

ここ数日のネットの動向を見ると、男性は選挙について語りたがっているようだ。自分とて例外ではない。男性に対して女性はじつにマイペースで、相変わらず自分の周囲の人間関係が関心の中心のようだ。男は天下国家を語り、女は下世話な話題で盛り上がる。(参考「男は天下国家を語る。女は下世話しか語らない。 (2003-09-05)

男は一般に、女に比べて身近なものごとにあまり配慮せず、観念をやたら遠くまではたらかせるかわりに、おしゃべりなどを通しての親しい人間関係作りが得意ではない。病院の大部屋などでは、女性患者の部屋はすぐにぎやかな社交場と化すが、男性患者たちはそれぞれむっつりと黙り込んで、静かで陰鬱な空気が部屋を支配している。

(小浜逸郎『「男」という不安』PHP新書 2001 p.84)

「観念をやたら遠くまではたらかせる」とは絶妙なフレーズである。男性は地から離れて天下国家を語る。国際政治をいくら語ったところで自分の身の回りにはまったく無関係なのだが、それでも興味を持ってしまうものなのだ。

女性は地に足がつきすぎて、政治を語ることはない。政治に関心があるとしても、育児などの自分に関係するものの延長線上にある政治が中心であり、政党間のかけひきなどには興味がない。

女性はどうも観念で遊ぶという行為をしないようだ。男がロールプレイングゲームに夢中になっても、女性の反応は冷ややかである。ゲームの世界でお金が手に入っても、キャラクタが成長しても、「それがどうしたの」のひと言で終了だ。

投票に行くのは女性

男性の方が観念的であり、政治に興味があるならば、男性の方が投票率は高いはずである。しかし実際はそうではない。日本の選挙の傾向では、女性の方が投票率は高い。政治的無関心は女性の方に多く見られるが、投票行動となると女性が上回る。

データは古くなるが、第18回の参議院選挙における性別・年齢別の投票率を見てみたい。

この時の投票率は、全体では約60%であった。平均と言うのは恐ろしい。年齢によって投票率には大きな差があり、そのことが実は重要なのだ。平均で60%と聞くと、「それでも二人に一人以上は投票に行っている」と勘違いしやすい。若年層の投票率の低さと、一方の高齢層の投票率の高さは注目に値する。若年層はただでさえ人口が少ないのに、投票率も低い。これでは政治家は高齢向けの政策をアピールし、票を稼ぎたくなるのも当然だ。若い人たちは、一票が実に軽いのである。

余談が過ぎたが、データを見ると、女性の方が男性よりも投票に行っていることがわかる。平均でも女性の方が投票率は高い。

男性は観念を遠くにとばしすぎて、現実的な投票行動に現れないのか。女性は地に足がついているため、あまり思想にこだわらず、であるがゆえに容易に投票しやすいのか。もう少し検討したい。

男は選挙について語りたがる。しかし投票率は女性の方が高い。

Yas的日常

スカッシュ教室に行く。インストラクターのお姉さんの妙技に酔いしれた。


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寝返り打ちたくならないか? -問題発見のための寝返り理論- (2004-07-13)

寝返り打ちたくならないか?

同じ事ばかり書いていると飽きてくる。そんなときは寝返り打ってみるのが良い。

寝返り理論

コピーライターの糸井重里氏には、問題発見のための独自の理論がある。彼はその理論を「寝返り理論」と名づけている。「寝返り理論」をひとことで言うと、「無意識で感じている不自由を見つける」ことである。眠っている間に、人間は無意識のうちに寝返りを打つ。同じ姿勢でずっといると血流が悪くなる。そのため、寝返りを打って血流をよくする。目を覚まして椅子に座っているときも、軽くて微妙な不快感を解消するために、ちょっと姿勢をずらすこともある。

不快な感覚を解消するように、姿勢をたえず微妙にごもごもと変化させている。このイメージがぼくの問題発見法につながっているのです。

ある固定した考え方を続けていくと、鬱血が起こってきて、床ずれし始めます。その始まりのサインは、軽い不快感です。

いつも食べていたものが、まずく感じられた。恋人との間に、何となく楽しさがなくなった。毎日の通勤が、ずいぶん疲れるような気がしてきた……どれも、不快のサインが出ているわけですね。これに気づくのが、問題の発見です。

(糸井重里『インターネット的』PHP新書 p.187,188)

不快のサインに気がつくことが問題発見であり、鋭利で敏感な人は何気ない日常の不快感から問題を発見し、新たな知見を提示してくれるのだろう。

管理人の感じる不快感

なぜこんなことを書いたかと言うと、このサイトの存在が私にとってわずかに不快だからである。この不快感は今に始まったことではなく、去年から続いている。

「ある固定した考え方を続けていくと、鬱血が起こってきて、床ずれし始めます。その始まりのサインは、軽い不快感です。」という糸井重里氏の表現が、まさに自分の状態と一致する。その不快感から、毎日文章を書いて公表することの困難性という問題が認識できる。

問題は認識されても、これといった解決方法は見つかっていない。軽い不快感が続き、解決方法を見出せぬまま閉鎖していったサイトも多いだろう。ここもいずれはそうなるかもしれない。

しかし、具体的で即効性のある解決とはいえないのだが、まずは「寝返り」を打ってみるのがいいのではないか、と考えている。寝返りは不快な感覚を解消するために体が無意識に動いてしまうことだ。軽い不快感や違和感を感じたら、まずは寝返りを打ってみるのが良いのではないだろうか。

私の場合、なんとなく飽きてきたり違和感を感じてきたら、とりあえず寝返りを打つことにしている。2ヶ月に1回は寝返りを打っているつもりだ。(以前はそれが出来なくて、他の人に体を転がされ、床ずれを防ぐことが出来たこともあった。)

世のサイトの管理者に問いたい。「寝返り打ちたくならないか?」と。

同じ事ばかり書いていると飽きてくる。そんなときは寝返り打ってみるのが良い。

Yas的日常

アイスクリームが美味しゅう季節になりました。「mow」はいつ食べても最高。


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沈黙のオーディエンス (2004-07-15)

沈黙のオーディエンス

インターネットの世界の中で、我々は<沈黙のオーディエンス>である。ブログやサイトの管理人は、<沈黙のオーディエンス>と対峙する宿命にあり、時に閉鎖に追い込まれる。

パフォーマーとオーディエンス

E・ゴフマンは『行為と演技』の中で、社会的状況の下で行われる行為の様相を明らかにした。

社会的状況のもとでの行為は演技の要素を含む。行為者は同時に演技者(パフォーマー)であり、観客(オーディエンス)を意識した「印象の演出者」である。

(自己呈示のドラマツルギー E・ゴフマン 『命題コレクション 社会学』)

日常的に我々は演技をするパフォーマーである。あるときは父親、あるときは上司、そしてあるときはテキストサイトの管理人・・などなど、さまざまな自分を呈示しながら生きている。演技は必ず観客(オーディエンス)を意識する。子どもや部下、読者などを意識し、我々はパフォーマンスを行っている。

また、日常的な場面で、誰かが失敗をしたときに、見て見ぬふりをすることがあるだろう。失敗したパフォーマーをオーディエンスが察しよく無関心を装う。これを「儀礼的無関心」と言う。オーディエンスも無関心を装うという点で、同時にパフォーマーでもある。ゴフマンによると、精神病院の中で、患者達がわざと気の毒な症状のふりをし、慈善ダンスパーティを催してくれた人たちに満足感を与えてあげたという。会社や学校などでも、こうした演技は頻繁に行われている。

我々は人間関係の中で、常にパフォーマーでありオーディエンスでもある。パフォーマーはオーディエンスのことを意識した「印象の行為者」である。

以上のことを踏まえて、サイトの閉鎖について考えてみたい。

サイトの閉鎖

最近、サイトやブログの閉鎖について考えることが多い。閉鎖の理由は様々だが、ひとつの理由は、<沈黙のオーディエンス>である。

多くの人は、テキストを読んで、いちいち感想をメールで伝えることはしない。テレビ、雑誌のようなメディアとして、受動的に情報を受け取っている。こうした情報の受け手を、言葉を発しないオーディエンスという意味で、<沈黙のオーディエンス>と呼ぶことにしよう。

<沈黙のオーディエンス>に対して、書き手は演技者、パフォーマーである。パフォーマーは、演技(文章・絵での表現)を行い、<演技の成功>に努める。面白がられたり、自分の呈示したい情報を伝えられれば、<演技の成功>である。

では、演技が成功したかどうか、どのようにして判断するのだろうか。

どのような関心から、あるいはどのくらいの人数で演技をするにしろ、演技者(たち)にとって最も重要な問題は、演技が成功するかどうかということである。

(中略)

演技が成功するとは具体的にいえば、演技者の提出した情報をオーディエンスが信じるということである。演技者の状況の定義がその場を支配するようになる、といってもよい。人はどのようにしてオーディエンスが信じたこと、自分の状況の定義が支配的になったことを知るのだろうか。いうまでもなくそれはオーディエンスの反応によってである。

(自己呈示のドラマツルギー E・ゴフマン 『命題コレクション 社会学』)

オーディエンスの反応によって、演技が成功したか失敗したかがわかる。しかしサイト・ブログの演技者にとっては、対峙しているのは<沈黙のオーディエンス>である。相手は見えないし、相手がどう感じているかがわからない。メールやコメントをもらうこともあるだろうが、ごく一部を代表しているだけだし、反応には偏りがある。ほとんどの人は沈黙し、どう思っているのかわからない。アクセス数が増え、<沈黙のオーディエンス>が増えれば増えるほど、沈黙の重圧は大きくなり、演技がぎこちなくなる。心理的緊張が高まり、そして閉鎖へと追い込まれる。

テレビの前でも我々は<沈黙のオーディエンス>なのだが、芸人やスポーツ選手はその仕事の役割を演じているだけである。しかし、ブログやサイトは基本は趣味であり、管理人自身の延長上に存在する。サイトのコンテンツは、まさに自分自身の演技、自己呈示そのものなのである。それゆえ、オーディエンスの反応には敏感になるのだ。

沈黙を回避するために「拍手ボタン」や「投票システム」を導入しているコミュニティもある。どこまで効果があるのかわからないが、オーディエンスが気軽に反応を示せる点は評価できると思う。(それでもそのうち飽きると思うが)

オーディエンスは面倒なことを避けたがる。これは自然なことだ。メールでわざわざ反応を示すなんてことはしない。その瞬間、オーディエンスと同時にパフォーマーにもなるので、社会的には状況が複雑になるだけだ。多くの人は沈黙を守る。<沈黙のオーディエンス>は必ず存在するし、それを悪いとは思わない。

ただ、これからブログを作ったりネットで何か表現してみようと思う人は、次のことを心に留めておいたほうが良いだろう。管理人は<沈黙のオーディエンス>と対峙する宿命にある、と。

インターネットの世界の中で、我々は<沈黙のオーディエンス>である。ブログやサイトの管理人は、<沈黙のオーディエンス>と対峙する宿命にあり、時に閉鎖に追い込まれる。

Yas的日常

こんな風に蒸し暑い日は、軽めの発泡酒がおいしいと思う。さて、これから飲むか。


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抽象的なタイトルが長続きの秘訣 (2004-07-16)

抽象的なタイトルが長続きの秘訣

一読して意味がわからない抽象的なタイトルの方が、寝返りしやすいため、サイトの寿命を長くすることができる。

寝返りを打てるタイトルを

人気のホームページの作り方などという記事を読むと、よく「一読して内容がわかるタイトルを」と書いてあることが多い。たしかにユーザーにとってわかりやすいという意味では、タイトルと内容が一致していたほうが優れているだろう。本屋に行って本を探す場合を想像してみると良い。また、Yahoo!に登録されることを念頭に置いた場合も、これは軽視できない。

しかし、ReadMe!の順位を見てみると、決してタイトルと内容が一致しているとはいえないし、どんな内容なのか想像がつかないものがたくさんある。「それゆけ!!だよもん星」さんなんて、まるで内容が乖離している。

非難しているわけではなく、むしろこうした内容とタイトルが一致しないほうが、更新しやすいし、内容を柔軟に変化させることができて良いのだ。私の数日前の言葉を使えば、「寝返り」を打てるサイトタイトルが優れていると言えよう。

「寝返り」を打てるようにするには、抽象的で内容と関係がない方がよい。ただしある程度イメージが伝わるような、雰囲気をかもし出すことは必要だ。偶然にも「憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々」は何もオブジェクト指向とも関係がない。そして、プログラマという言葉が理系的な雰囲気を演出している。運よく、寝返りを打ちやすいタイトルをつけていた。

これからブログを持とうと考えている人は、具体的なタイトルにするか、抽象的なタイトルにするか、よく考えたほうが良い。更新はしにくいがある程度の集客は見込める具体的なタイトルか、更新しやすいが集客が未知数である抽象的なタイトルにするか。

一読して意味がわからない抽象的なタイトルの方が、寝返りしやすいため、サイトの寿命を長くすることができる。

追記

今日は「俺ぽーたる」さんの記事(2004/7/14付)に触発されて書いたコラムでした。

追記2(7/17)

「寝返り」については、「寝返り打ちたくならないか? -問題発見のための寝返り理論-」を参照のこと。

Yas的日常

スカッシュ日記

ひたすら壁打ち、壁打ちのリピート。


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テキストを書くという行為は演技である (2004-07-18)

テキストを書くという行為は演技である

テキストを書くという行為は演技である。そして、学校で書かせられる感想文は演技の練習である。

あるがままに書いてはいけない

読者様から「もっと自由に、自分が考えたとおりのことを書けばよい」とか「思ったとおりのことを書けば楽になれる」というアドバイスをいただいた。貴重なご意見ではあるし、参考にはしたいが、私の考えは逆である。文章は好き勝手に書いてはいけない。あるがままに自由に書いた文章なんて、とてもじゃないが読めたものではないし、読む気にもなれないだろう。読者を意識する必要はある。

テキストを書く人は、演技者である。演技によってわかりやすくて面白く、淀みなく流れるような文章が書けるのである。

そもそも「ものを書く」という作業は演技である。自分のなかに生じる多様な意見のなかから特定の意見を選択して書くとき、書き手はあたかもその意見の持ち主として演技することになる。まるでその意見しかもっていないかのようにふるまうのだ。だから「自分の考えをありのままに書けばいい」といった国語教育の指導法は、じっさいに「書く」ということをしていない人のいうことだ。「ありのままに」か書かれた文章なんて、とても読めはしない。

(野村一夫『社会学の作法・初級編』文化書房博文社 1995 p.103-4)

個人的な日記ならば演技をすることもない。しかし、他者に読まれることを前提としたテキストには必ず演技が入る。メールだろうと手紙だろうと、自分の中の何かを相手に伝える行為は、演技である。(自己呈示の意味のパフォーマンスであり、自分を偽っているという意味では必ずしもない。)

テキストを書くという行為は演技である。正確に言うと、演技をすることで初めて他人から読まれるだけのテキストになる。

感想文は演技の練習

学校で感想文を書かされることが誰にでもあっただろう。あの感想文は演技の練習である。生徒は先生の期待から外れた感想を提出してはならない。感想文は、他者から期待された役割を演じ、文章で表現するための訓練なのだ。

読書だけにとどまらず、修学旅行のあとでも感想文を書かされることがあります。たとえば広島の原爆ドームを見学したあとの感想文では、「戦争の悲惨さ」「人間の愚かさ」などをテーマにすることを暗に求められます。教師の顔色をうかがうことが得意なこどもはそれを敏感に察知し、優等生的で当たり障りのない感想文を書きます。

もしこのとき、「原爆ドームはカッコいい。原爆の真下で生き残るなんてすごい。ぼくは大きくなったら大工さんになって、原爆でもこわれないじょうぶな建物をつくりたいです。」こんな感想文を書く子がいたらどうでしょう。

(パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』イースト・プレス 2004 p.209-210)

上の引用は、本中の第16回「それでも本を読みますか」の中の「危険な感想文」という節からの引用だ。ここでは感想文を否定的に捉えている。自由に書けと言っておきながら、教師は正しい感想を求めると批判している。

しかし、もともとテキストを書くという行為は演技である。感想文を書くのは「優等生的で当たり障りのない」文章を書くための訓練なのである。大人には、当たり障りのない意見を述べなければならないときがある。我々は他者の心中を察し、期待する感想を述べる――つまり、演技することが多い。

文章を書き、自分の考えを述べることは演技である。その演技訓練の機能が感想文にはある。だから私は感想文を書かせるという行為を否定しない。顔色をうかがって当たり障りのない意見を適当に書く能力は、社会に出てから確実に役に立つ。

テキストを書くという行為は演技である。

学校で書かせられる感想文は演技の練習である。

反社会学講座

引用した「反社会学講座」(Amazon.co.jp)が面白い。「憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々」のファンならば楽しめるはず。Webで公開されている内容(「スタンダード 反社会学講座」に加筆・修正を加えたもの。本の方が読みやすくて良し。


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結婚の不自由さが自殺を抑止する (2004-07-20)

結婚の不自由さが自殺を抑止する

結婚によって男性は行動に制限を受ける。そしてその制限が自殺を抑止する。

自殺者は未婚者に多い

男性は性的欲望が強く、自然であるならば一夫多妻制を望むが、結婚制度による制限があるために一夫一婦制に従わなければならない。しかし、その制限が結果的には欲求不満や自殺を抑止する。

社会学者のデュルケムは『自殺論』で未婚者の自殺率の高さを統計的な事実から指摘・分析した。現在の日本でも、自殺の統計を見ると、未婚者の方が既婚者よりも自殺率は高い。結婚は自殺を抑止するのだ。

では、なぜ結婚が自殺を抑止するのだろうか。

無限の欲望

デュルケムは自殺をいくつかに分類したが、そのうちのひとつにアノミー的自殺というものがある。これは人々が飽くなき欲望に駆り立てられ、満足することができない欲望に疲れ果ててしまうために自殺にいたるというものだ。

デュルケムは未婚者の自殺は、アノミー的自殺の一種だとしている。未婚者は自由であるが、既婚男性は、性の対象が一人に限定される。言うまでもなくそれは自分の妻だ。妻としか性的関係を持つことができないという厳しい制限が男性にはかせられる。しかし独身男性には制限がなく、多くの女性を性の対象とすることができる。そのため、独身男性は無限の欲望に駆り立てられ、性的アノミー状態に陥る。

未婚者は、心ひかれるすべての対象に愛情をそそぐことが正当に許されているので、あらゆるものを渇望するが、しかし充たされることがない。

(デュルケーム 宮島喬訳『自殺論』 中公文庫 p.337)

独身男性はどんな女性にも愛情をそそぐことができる。現実にできるかどうかではなくて、可能性のあるなしが重要なのだ。無限に開かれた可能性、これこそが独身男性に与えられた苦悩であり自由なのだ。

限定された幸福

無限の可能性を秘めた未婚者に対して既婚者はどうか。一夫一婦制で離婚や不倫の自由もない社会(30年ほど前の日本のように)は、将来が限定される。もう相手は妻しかいないのである。既婚男性にとっては厳しい現実だ。だが、この欲望の限定は、無制限に欲望を駆り立てることがないために、かえって既婚者に心の安定をもたらしてくれる。

夫は、このように自分に許されている満足以上のものを求めようとすれば、一夫一婦婚の義務をないがしろにしないわけにはいかないので、欲望をみずからそこに限定する。かれの服しているこの恩恵に富んだ規律は、与えられた条件のなかで自分の幸福をみいだすことを義務づけ、そのことによっても幸福を得る手段を提供してくれる。

(デュルケーム 宮島喬訳『自殺論』 中公文庫 p.337)

不倫や離婚が許されていなければ、自分の幸福は制限された中で見つけ出すほかない。簡単に言うと、結婚することで「あきらめる」ことができるのである。自分の配偶者で満足するしかない、という諦めである。独身はまだ可能性があるので「あきらめる」ことが出来ない。諦めることで、欲望の追求が停止し疲れ果てることもなくなるのだ。そして自殺することもなくなる。

結婚した後のある種の諦観は、結婚した人ならば誰しもが経験するものではないだろうか。「まあこんなものか」「仕方がない」とでも考えなければ結婚生活を維持できないだろう。諦めきれずに離婚する人も多いが、そういう諦めきれない人はまた離婚する可能性が高いだろう。離婚の自由化が欲望を刺激し、限定された範囲での幸福を奪い去ってしまうのだ。

男子の放棄した自由とは、じつにかれにとっては苦悩の源泉でしかありえなかったものなのだ。

(デュルケーム 宮島喬訳『自殺論』 中公文庫 p.344)

無限に開かれた未来という自由は、苦悩でもある。今の日本では、その自由を放棄する自由もある。

幸福な結婚をあきらめる

社会学者の山田昌弘は、私見として、結婚難の原因が「結婚=幸福」という思い込みにあると述べている。

少なくとも、幸福になる条件には「結婚」は含まれていない。結婚は、幸福を保証しない。この点が理解されるなら、結婚はもっと、もっと増えるのではないか。結婚難の本当の原因は、「結婚=幸福」という思いこみにあるのではないか

(山田昌弘『結婚の社会学』1996 丸善ライブラリー p.179)

結婚は幸福ではない。おそらく結婚生活を維持している人の多くが薄々気がついていて、諦めの念を抱いてる。その諦めの中で、幸せを見出している。正確に言うと、社会のシステムが幸せを諦めの中で見つけ出すように強制する。

未婚者の中で何か満たされないものを抱いている人は、結婚をして人生を諦めると良いと思う。人生諦めが肝心である。ただし今の日本では離婚が許されてしまっているので、なかなか諦めきれなくなっている。ますます自殺者が増える一方だ。

結婚の不自由さが自殺を抑止する

参考

アノミー的自殺・・・「欲しがるから手に入んなくて途方に暮れる (2003-12-17)

人生諦めが肝心・・・「絶望の中での光の見つけ方 (2004-06-09)


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社会的地位の低い人間はビールを飲む (2004-07-22)

社会的地位の低い人間はビールを飲む

社会的地位の低い人間はビールを好んで飲む。

ビール工場フル回転

ビールが美味しい季節になった。今年は猛暑も手伝ってさらにビールがうまい。ビールの売り上げも伸び、ビール工場はフル稼働らしい。

というわけで、今日のテーマはビールである。

社会的地位と飲み物の関係

ポール・ファッセルの『階級』は、趣味や衣食住といった視点からアメリカの階級について分析した本である。この本によると、ビールは社会的地位の低い人たちの酒である。氏の分析による社会的地位と酒の関係を以下に整理してみた。

  • 上流階級:ウォッカの水割り、ワイン
  • 中流階級:マティーニ、バーボン、トニック割り
  • 労働者階級:ビール

社会的地位が低くなるにつれ、味が雑になっている。そしておそらくビールなどは大量に飲まれるのであろう。

階級を暴露する機会をひとつだけ挙げるなら、カクテルを飲むときをおいて、ほかにあるまい。酒の種類や飲む量が、その人の社会低地位とぴったり重なるからである。

(ポール・ファッセル 坂板元訳『階級』光文社 p.136)

好んで飲むお酒が、その人の社会低地位のサインになるのである。安い人間は、ビールを好んで飲む。

社会的地位と味覚の関係

どんな酒を飲むのも自由。好きだからビールを飲むんだ、という反論がありそうである。

フランスの社会学者ブルデューは、『ディスタンクシオン』で食べのものの好みと社会階層の関係を論じた。食べ物の好みというものは社会的関係の中で意識せずに身についてしまうものである。そして自分の意思では変えられない。そのため食べ物の好みは超えられない階層間の壁を作ってしまう。それゆえ、味覚や食べ物の好みは社会的地位と重なってしまう。

私の友人に、そこそこのレストランで食べる肉よりもマックのハンバーガーの方が美味しいという味覚を持つ人がいる。その友人は社会的地位は高くはない。雑で油っぽい味に慣れてしまうと、その味を美味しいと感じてしまうようになる。味覚と地位の関係を示唆する、典型的な例のひとつだ。

酒も同様である。あの大雑把で無駄に泡と炭酸のある飲み物を好きになってしまうのは、地位の低い人間だからこそなのである。酒の好みは選択できない。身分を高く装ってみても、ビールを美味しいと感じてしまう気持ち、これは否定できない。

どんな酒を飲もうと自由だし、味の好みも自由だ。しかし自由だからこそ酒と地位が重なってしまうのだ。

無理してビール以外を飲め、と言っているわけではない。安い労働者は安い労働者らしく、ビールを愛せばよいのだ。だがしかし、ビールを飲んで「うまい!」と叫んでしまうことは、己の社会低地位の低さをアピールしていることになる。この自覚は必要だ。

社会的地位の低い人間はビールを好んで飲む。

Yas的日常

こんな風に蒸し暑い夜

こんな風に蒸し暑い夜には発泡酒が飲みたいね。

子猫

帰宅途中、野良の子猫を発見。至福の時を過ごしていた。ところが、専業主婦が近づいてきたために猫が逃げていってしまった。残念だが、あの猫には人を見る目がある。将来はきっと立派な野良猫になるだろう。


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ボールの大きさと社会的地位の関係 (2004-07-23)

ボールの大きさと社会的地位の関係

社会的地位の低い人間は、大きいボールを使ったスポーツを楽しむ。

フットサル

仕事帰りにフットサルをやってきた。疲れているし早くビールを飲みたいので適当に更新。

フットサルとは簡単に言うと室内で行うミニサッカーみたいなものである。バスケットと同じぐらいの大きさのコートの中で、5対5で争う。FIFAの正式名称は「フットサル・ファイブ・ア・サイド」という。

まったくの初心者だと厳しいが、ある程度サッカーが出来る人なら楽しめるスポーツである。

社会的地位とボールの大きさ

サッカーは大衆的なスポーツである。悪く言うと社会的地位の低いもののスポーツである。

アメリカ社会の階級構造について論じたポール・ファッセルの『階級』によると、スポーツにおいてボールの大きさが大きくなればなるほど、プレイヤーや観客の社会的地位が低くなるという。

上位階級のゲームで使うボールは、一般に他の階級で使うボールに比べて小さい。ゴルフ、テニス、スカッシュは、フットボール、バスケット、バレー、野球よりも上位にくる。ボウリングは労働者階級の遊びである。

あくまでアメリカの場合である。イギリスではラグビーは上流階級のスポーツである。(ラグビーボールは球状ではないが)

日本では、ゴルフやテニスはすっかり大衆化してしまったが、それでも平均すれば他のスポーツよりも地位の高い人が楽しむスポーツである。おそらく、好きなスポーツと年収や学歴の関係を調査すれば、予想どおりの結果が得られるであろう。好きなスポーツのボールの大きさが小さければ小さいほど、学歴や年収は高いだろう。

社会的地位の低い人間は、大きいボールを使ったスポーツを楽しむ。

Yas的日常

運動の後は

運動の後はやっぱりビール。フットサルの後にもやっぱりビール。地位の低い庶民の2Hitコンボ。


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教師の犯罪はもっと増えるべき (2004-07-25)

教師の犯罪はもっと増えるべき

教師の犯罪はもっと増えるべきである。

増加する教師の性犯罪?

「教師による性犯罪が増加しているようだけど、実際はどうなの?」というメールをいただいた。とくに書きたいこともなく過ぎ去る今日このごろなので、これをネタにしてみたい。

教師による性犯罪(買春・強姦・セクハラ)などは増えているとは思う。とくに小学校の教師にはロリコンが多い。原因は2つ。

  • もともとロリコンだった人が女の子目当てで教師になる
  • 教師になった後にロリコンとして覚醒する

とくに前者は近年増加している。各種メディアのロリコン規制により、ロリータ嗜好を持つ人は現実の女の子に手を出さざるを得ない。公衆便所をなくしたからといって人はトイレにいかなくなるわけではない。出したいものは出したいのだ。また後者のロリコン覚醒タイプの教師も、近頃の発達の良い女の子事情を考えると理解できる。

マスコミで報道されているのは氷山の一角に過ぎないと私は考える。まだまだ埋もれた犯罪があるはずである。

犯罪をなくす方法

「世の中から犯罪を減らすにはどうすればよいのか」。簡単な方法は、警察の取り締まりを弱化することである。取り締まりが穏やかであれば、犯罪の検挙率が低くなるため、統計上は犯罪は減る。

これは冗談に近いが、しかし犯罪統計とはこのような性質を帯びたものである。犯罪が統計上増加していることは、必ずしも人々の行動が逸脱的になっていることを意味しない。警察の方々が税金の無駄遣いをせず、きちんと仕事をしていることも意味するのである。

また、犯罪を犯さない人や被害者の意識によっても、犯罪の数は増減する。もしも隣の家の子どもに、自分の家のガラスをいたずら目的で故意に割られたとして、そのことを警察に通報するだろうか。実際に問題行動を起こしても、犯罪になる場合とならない場合がある。これは時代や地域、そのときの状況によって違う。

犯罪や非行に関する官庁統計は、社会問題に関して官庁が公表するあらゆる数値のなかでも、たぶん最も信頼性のうすいものなのである。

(アンソニー・ギデンズ『社会学』而立書房 p.140)

犯罪統計ほど実態と乖離したデータはない。

もっと増えていい教師の犯罪

性犯罪に限らず、教師の犯罪はもっと増えていい。現在マスコミや父兄から非難されている教師の犯罪は、氷山の一角にすぎない。全国には100万人もの教師がいる。しかも能力的・人間的にはごく普通の人なのである。とくに優れた人間が教師をやっているわけではない。暴力をふるったり、必要以上に権力を行使したり、それ以前に社会的人間として校内外で問題行動をとっている教師はたくさんいるはずである。

しかし実際に教師の行動が犯罪として捉えられることは多くない。セクハラまがいの行為をしても訴えられない。生徒に暴力をふるって怪我をさせても傷害罪に問われない。

もっと教師の犯罪は増えるべきなのである。教師の問題行動を積極的に犯罪として捉え、制裁をくわえねばならない。公立校では、問題行動をとる教師(犯罪者&犯罪者予備軍)を排除することができない。教師は自分の科目を教えること以外に能がないことが多いので、リストラしてしまうと犯罪者予備軍を社会に野放しにしてしまうことになる。教師には教育させるという適当な仕事を与え、外部から監視する仕組みを構築するしかない。(監獄としての学校)

問題教師を学校という監獄に閉じ込めるのではなく、犯罪は犯罪として社会から制裁を受けるべきだろう。そうでもしなければ学校は良くならない。

教師の犯罪はもっと増えるべきである。

Yas的日常

土曜日〜日曜日にかけて友人宅で飲む。朝までカラオケ。

ミスチルの『くるみ』という曲は、男性からは共感の声が多い。だが、女性には不評のようだ。何故だろう?


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教師はもともと犯罪に走りやすい (2004-07-27)

教師はもともと犯罪に走りやすい

教師という聖職者の世界は、教師を犯罪に走らせやすい。

教師という聖職者

今日も書きたいネタがないので、読者様からのメールをネタにしたい。先日教師の犯罪について書いたところ、「聖職者であるべき教師の犯罪だから、マスコミなどがこぞって非難するのではないか」というご意見をいただいた。正しいし常識的な見方だと思う。

社会学観点ではやや見方が異なる。「聖職者であるはずの教師がどうして犯罪を犯すのか? 教師は聖職者としての自覚を持て」という捉え方はしない。「教師は聖職者であるからこそ犯罪を犯すのであり、聖職者として崇めているうちは犯罪はなくならない」。この視点で教師の逸脱行動を考えてみる。

聖職者の逸脱

たとえば宗教世界の中の聖職者とて、逸脱とは無縁ではない。アメリカでは聖職者の少年へのセクハラや虐待、寄付金の横領などが頻繁に起きている。

社会学者の宝月誠は『逸脱とコントロールの社会学』(有斐閣 2004)で、アメリカの社会学者アンソン・シューペを引用し、聖職者の逸脱について論じている。

氏によると、宗教世界の聖職者の逸脱は、誘惑に弱い一部の腐ったリンゴみたいな人間の仕業というよりも、社会の構造が聖職者に逸脱の機会を与え、合理的根拠を提供し、逸脱を起こしやすくしているという。

聖職者はその世界の中で、下位の人間の権限を制限する。下位の人間は聖職者をコントロールすることができず、ただ信じることしかできない。聖職者をコントロールすることが出来ないため、権力を乱用する機会が容易に提供されてしまう。上位の者は下位の者をたやすく搾取でき、その権威を利用して下位の者に逸脱行為を命じることもできる。こうした構造がある限り、聖職者の逸脱者は起こる。

逸脱者は逸脱を行いやすい状況を生み出すが、聖職者の世界にははじめからそうした条件がそろっている。努力をしなくとも、それを悪用する気になればいつでも逸脱できるのである。

(中略)

彼らはわざわざ逸脱者に転向するための相互作用を経験することも、逸脱しやすい世界を構築する必要もないのである。普段の世界が逸脱を可能にする状況そのものなのである。

(宝月誠『逸脱とコントロールの社会学』有斐閣 2004 p.131-132)

閉ざされた世界で聖職者と崇められた人間は、逸脱行動に走りやすい条件を満たしている。そして教師もまた聖職者である。教師は社会を知らないと批判されるように、世俗から切り離された世界の聖職者である。

教師は労働者であるべき

教師も聖職者と言われる。かつてほどの力はないが、今でも権力を持っているし、生徒や学生は教師をコントロールすることが難しい。教師は生徒を教育の名の下に強制労働させることもできるし、セクハラだって可能である。小学校の教師であれば、スクール水着が見たければ、いくらでも見られるのだ。大学でも、学生に「単位」をちらつかせれば、たいてい学生を動かすことができる。下位の人間がそれに従わざるしかないため、大きな権力となる。

教師は単なる労働者であり、聖職者ではない。聖職として崇めるから、その力を利用するのである。体罰やセクハラが横行し、ときにはそれが教育だと狂信する教師もいる。犯罪を防ぐためには他からの統制が必要なのだ。統制を有効にするためには、教師は聖域に存在していてはいけない。――つまり、教師は聖職者であってはならない。

聖職者としての教師。これこそが教師を犯罪に走らせる元凶なのだ。

教師という聖職者の世界は、教師を犯罪に走らせやすい。犯罪を防ぐためには教師は聖職者であってはならない。

Yas的日常

オフ会応募締め切り。有名人の参加多数。サインもらおう。

Amazon.co.jpで本とゲームソフトを購入。一度ネットで買い物をすると、その便利さから病みつきになるという。私も例外ではない。


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閉鎖の言葉 -歳月人を待たず- (2004-07-30)

閉鎖の言葉 -歳月人を待たず-

時間は人を待ってくれない。楽しめるときは楽しんでおけ。

なんとなく説教めいた言葉

しばらくメールが1通も届かなかったので、ネタに困ってしまった。外部からの刺激が欲しいところだが無理は言いますまい。

少し前に「閉鎖するんですか?」という質問を受けた。来年のことは知らないが、今年いっぱいは更新するつもりである。

閉鎖するときにはなんというメッセージを残そう――。そう考えることがある。今考えているのが、「及時当勉励 歳月不待人」という陶淵明の古代中国の詩だ。時に及んでまさに勉励すべし 歳月人を待たず――。あまりにも有名なこの漢詩は、若い人に刻苦勉励をすすめる詩だと解釈しがちだ。私も小学校のときに教師からこの詩を教えられた。若いうちに勉強はしておくものだ、と。

陶淵明の気持ちとは逆

しかし陶淵明は勉強をすすめたわけではない。むしろどちらかといえばその逆で、楽しめるときに楽しんでおけ、と詩を詠んだのである。古代の中国と現代の日本では、勉強の意味が異なる。「努力して人生を楽しむ」という意味が勉強にはある。勉強とは学問に限らない。努めて楽しむことも勉強に含まれているのだ。

だから、「及時当勉励 歳月不待人」は、「今この時、楽しめる時は楽しんでおけ 時間というものは人を待ってはくれない」という意味に解釈するのが正しい。

偉そうにこの詩を引用して説教垂れる教師は、勉強不足である。きっと若いときに勉強しなかったのだろう。

たぶん、今という時がつまらなく感じられたら、そのときはこのサイトを閉鎖し、新しい楽しみを見つけ出すだろう。時間は人を待ってくれないのだから、楽しめるときに楽しんでおきたい。

常識にとらわれない

ついでにこの詩から私たちが学べることは、思い込みや先入観から物事を判断してしまいやすいという事実である。教師でさえ(いや、教師だからこそというべきか)、漢詩を自分勝手に常識的に解釈し、生徒に伝達してしまう。判断力や知識のない小学生だったら、それを素直に受け取ってしまう。

まずは常識を疑ってみることだ。いつの間にか自分達は、ある前提に立って物事を判断してしまう。その前提を疑うことで見えてくることは多い。前提を疑うことが大事である。

前提を疑うことが大事。

Yas的日常

ゴルフ練習中

ゴルフ練習中。(注:「みんなのGOLF4」ではない)

Yas的地球防衛軍

Amazon.co.jpで買ったSIMPLE2000シリーズの「THE 地球防衛軍(PS2)」が面白い。2000円は安い。

次々と襲い掛かる巨大な敵を次々と撃ち殺してゆく。爽快で快感。ストレス解消にうってつけ。

一般市民もうっかり殺せてしまうのもブラックでよい。逃げ惑う専業主婦を戦車でひき殺してしまった。地球の平和のためだ。多少の犠牲は仕方がない。


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親子の関係 -親不孝と子不幸- (2004-07-31)

親子間の道徳 -親不孝と子不幸-

なぜ親孝行せねばならない

早朝メーラを立ち上げたら読者様から質問のメールが。早速答えてみる。

質問の要約は次のとおり。「子どもは親を尊敬すべき、という道徳が巷には溢れています。親不孝は非国民とばかりに周りから根拠も無く叩かれますが、子不幸(?)というのは虐待でもしない限り特に非難されることもありません。親子間の道徳の大半は子供に対して一方的に責務を課していているような気がします。この辺り、どう捉えてますか」

この質問に答えてみたい。

ゆらぐ親孝行道徳規範

まず、親子間の道徳が子どもにだけに一方的に責務を課しているということはない。むしろ逆で、今では「子どものために」という思想が蔓延しているために、親は子どもを一生懸命育てようとする。

『未婚化社会の親子関係』(宮本みち子 岩上真珠 山田昌弘 有斐閣 1997)で引用されているデータを見てみよう。

質問:「親と同居しているが、親は家のローンで生活が手いっぱい、けれど子どもは自家用車を買いたくなった。」

  • (A)「車を買うくらいなら親の負担を減らすように親に援助すべきだ」
  • (B)「自分の稼いだ分なら、車を買おうがかまわない」

さて、あなたならAとBどちらを選択するだろうか。1991年に松本で調査を行った結果、Aを選択したのは50代男性の12.7%。20代男性では35.8%だった。つまり、子どもの世代よりも親の世代の方が、「子どもになにかしてあげたい」という気持ちが強い。また、援助すべきと思っている人自体、それほど多くはない。

そしてまた、子どもは親に対して見返りを返そうとは思っていない。こうした状況を、「親の子どもへの片思い」と表現している。(p.80)

重い親の責任

現在は、子→親よりも親→子への責任の方が強い。

親は子どもに愛情が湧くはずだという思い込みが強く、子どものために一方的に生活責任を負担することは、当然の愛情表現とされ、最近は、母親ばかりではなく、父親の関与も求められてきた。

(山田昌弘『近代家族のゆくえ』新曜社 1994 p.226)

一度子どもを産んでしまったら責任の回避はできない。子どもを嫌いという感情を持つことも許されない。

想像してみよう。「自分の子どもが嫌いだ」と本気で言う人を、周囲は間違いなく非難するだろう。頭のおかしい人だと思うかもしれない。子どもとはいえ他者なのだから、好き嫌いはごく普通にあって当たり前だ。産んでみたらやっぱり子どもは可愛くなかったという場合だってあるだろう。「やっぱり可愛くなかった」なんていったら、周りからは無責任と罵声を浴びせられるに違いない。

親不孝という言葉はあって子不幸という言葉はない。ただ、「子どもがかわいそう」という言葉は頻繁に見受けられる。道徳的な言葉として語られることはないが、子どものために、という考えはすっかり内面化されてしまって自明のこととなってしまっている。当たり前となってしまったから、道徳的な説教が不要なのだろう。そのために親が過大なストレスを抱え込み、未婚者は負担を嫌がり、晩婚化が進む。子どもが一方的に親に対して「孝行」しているわけではない。

虐待でもしなければ非難されないというのは、これは家族というものが近代以降私的領域となったので、他人が口出しできなくなったためである。虐待や夫の暴力といった問題は、また別の話――。(ということで、次回は「夫の暴力」について)

現在は、子→親よりも親→子への責任の方が強い。

Yas的日常

皮膚科

指の中に入ってしまった異物を取り除くために皮膚科へ。あっさり取れるが、ちょっとだけ跡が残るかも。

歯医者

歯医者に歯石を取りに行く。美人助手のいる歯医者へ行った。

プール

暑いのでプールで泳ごうと思ってスポーツクラブまで行ったら、なんと休館日だった。この火照った体をどうしてくれるのだ。

山下公園

ヒマになったので急遽横浜に散策に行く。山下公園でまったりしたりカフェでコーヒー飲んだり。

マリンタワー

夕方からマリンタワーに登る。絶景。夜景がすばらしい。一人で夜景を見ているのは私だけだったが。好きな音楽を聴きながら、ぼーっと景色を眺めるのも格別だ。ミスチルの『くるみ』や『傘の下の君に告ぐ』が新鮮に聴こえた。

遠くで花火が打ちあがっていて、これまた綺麗だった。

中華街

その後中華街で食事。東横線直通みなとみらい線に乗り、自宅へ。

アジアカップ

アジアカップを観戦。PK戦が熱かった。

地球防衛軍

SIMPLE2000シリーズ Vol.31 THE地球防衛軍」にハマり中。意味なくビルを破壊できて楽しい。どんな正義のヒーローだって、ビルのいくつかは破壊してたさ。


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