フェアリーランド

1 梨の家

門の前に自転車をとめて、かごから荷物を取り出します。スーパーの大きな袋がふたつ。右手と左手でひとつずつ。まあ、なんて重たいんでしょう。ふたりぶんの食糧のほかに、おいしい水の2リットルのボトルが全部で4本も入っているのです。袋のにぎりの部分が、よじれて、てのひらにくいこみます。 細い門を通り抜けると、中はしいんとして、まるで別世界のようです。ひんやりとした土のにおい。かぐわしい草の香り。どこからか、よく徹るウグイスの声が、とぎれとぎれに響いてきます。

少し緊張していました。ひとりで屋敷に来るのは初めてでしたから。石畳の上を歩いてゆくと、木のあいだから、山小屋のような建物が姿をあらわします。大人の腕でひとかかえもありそうな巨大な丸太。それを横に7本くらい積み重ねて、それが壁。そんな造りなのです。丸太を組んだ壁には形よく大きな窓が切り取られ、樹木の深い色を映しています。屋根も丸太で、まんなかには暖炉の煙突があります。がっしりとした、けっこう大きな建物です。

勝手口にまわるには、建物のかどを曲がって、ハーブ畑のあいだを抜けてゆきます。そこにはパセリに似た小さな植物が植えてあって、薄荷のような、いいにおいがします。

裏庭の梨の木のところで、なにかがピクリと動きました。……子供です。優しい年頃の子供。栗色の髪をした、きゃしゃな男の子。見るのは初めてですが、たぶん、話に聞くミカでしょう。あんなかっこで、寒くないのでしょうか……ジーンズにシャツ1枚という薄着なのです。4月といっても、今日は風があって、寒いのに。

よく見ると、うわさどおりの、きれいな子です。透きとおった感じで、ちょっと男の子には見えません。といって、女の子にも見えないのです。ひとり遊びに夢中になっているらしく、こちらにはまったく気づきません。ぼんやりとした夢みるような表情で、木の幹にてのひらをあてて、なにかつぶやいています。白い花房をつけた梨の枝が、うなずくように揺れています。

そのとき考えたのは、この子に何語で話しかけたらいいのだろうか、ということでした。日本語が通じるでしょうか。中2だったので、少しは英語も話せました。マイ・ネーム・イズ、ナミ・ハルカワ。マザー・イズ・シック。アイ・アム・フォア・ハー。(わたしの名前は春川菜美です。母が風邪をひいたので、代わりに買い物をしてきました)……そのくらいのことなら、なんとかいえそうです。外国人の子供とカタコトの英語で話すのも楽しそう、と思い、わくわくしました。でも、ミカくんは、ふいに梨の木のそばを離れて、わたしのいる方とは反対側のほうへ行ってしまいます。ひとりでくすくす笑いながら、気まぐれな猫のように歩いていってしまいます。わたしにはまったく気づいていない様子です。考えるよりも早く、

「すみません」

うしろから日本語で声をかけていました。梨の木から、驚いたように鳥が飛び 立ちました。

ミカは立ち止まり、夢のなかでのように、ゆっくりと振り返りました。まんま るい薄茶色の目で、ふしぎそうにわたしのほうを見ます。
「は・い?」

日本語で返事をしました。少しかすれた、ハスキーな少女のような声です。
「わたし、春川の娘です。母の代わりに買い物を……」

緊張して声がうわずります。

いつのまにか、ミカはすぐそばに来ていました。きゃしゃな腕を伸ばして、わたしから荷物を受け取ります。花ぐもりのような、とらえどころのない表情で。重いはずなのに、少しも重そうではありません。そのまま、なにもいわずに、勝手口から、屋敷のなかへ消えてしまいました。

わたしは目をぱちくりしました。なんだか変な子です。影が薄いというのか、うすぼんやりとした感じで、わたしの顔を見ようともしません。

「あしたも代わりに行ってこようか? 北原さんち」

なにげない調子で、いいました。

母は籐椅子の上で脚を組んで、楽しそうに編み物をしています。その手の動きをゆるめて、少し考えているふうでしたが、
「まだほんのちょっと熱があるっていえばあるんだけどね。このぶんだと、あしたの朝にはもうケロリと治ってそうっスね」
「無理しないでいいのに」
「べつに無理なんかしてないよ。ただの風邪だし、もう熱も下がったもん」母は病人らしからぬのほほんとした態度で、テーブルの上のカフェオレを口に運びます。「ああ、おいし」

なんとなく腹が立ちましたが、その気持ちはオモテに出さず、
「でも、これからは、あたしが時々代わりに行ってあげるね。きょうのでコツ分かったから。そしたら、お母さんも病院の仕事に専念できて、ラクできるじゃん」

さりげない調子で静かに言いました。
「なんか、おねだりでもあるの」
「え?」
「急にいい子になっちゃって」
「え、違う違う、べつにそんなんじゃ……」
「ちゃんと責任もってやってくれるっていうんなら、やってもらえれば助かるけど――でも北原さんちは遠いでしょう。国道、渡るし。きょうみたいなときだけでいいよ、手伝ってくれるのは」
「国道っつったって、ど〜せ通学路じゃん。道くらいちゃんとひとりで渡れるって」
「あそこの買い物、重いでしょ」
「……ウン、重い。たしかに、きょうのは重かった、チョー。水が8リットルも あるんだもん」
「毎日。あれは。水8リットル」
「えっ、毎日あれ4本なの、あの、おいしい水のやつ? なんでそんなに使うんだろ」
「水道の水は飲まないみたいよ。ヨーロッパ人って、そうなんじゃないの。知らないけど」

母は無関心な調子でそういって、テーブルの上の編み物の本に目を落としました。「えーと。90目か」などとつぶやいて、不器用な手つきでまた編み棒を動かし始めます。
「北原さんちって、自分じゃぜんぜん買い物、行かないのかなぁ」

わたしは気を引くようにいいました。母はわたしの言葉を無視するように黙々 と手を動かしていましたが、ずいぶんしてから、
「ぜんぜんってことは、ないでしょう。生理用品とかは頼まれたことないもん。そういうのは自分で買いに行くんじゃない」
「リーサさんが?」
「ン」
「対人恐怖で外出嫌いなんでしょう?」
「……」
「でもさー。重いっつったって家の前までは自転車で行けばいんだし。平気だよ。きょうだって平気だったし。うん」

わたしは熱心にいいました。
「なっちゃん、なんで、そんなに手伝いたがるの、今朝だって『エーッ』とか言ってたくせして」母は編み物の手を止めて、探るようにわたしの目をのぞきこみます。
「ああっ、分かった。あれでしょ〜」
「え?」
「あそこんちのミカちゃんが好きになったんでしょう。ひとめぼれしたな?」

母は少し体が不自由なのですが、そのぶん異様に勘がいいのです。でも、このときに限っては、深よみのしすぎでした。
「ちがう! そんなんじゃない」

わたしはしんそこ腹を立てていいました。ふしぎな雰囲気の子供に対する好奇心を、好きとか嫌いとか恋とかひとめぼれとか、月並みな言葉で形にはめて決めつけられるのが、しゃくだったのです。
「好きになるもならないも、あの子なら、きょう1回、ちらっと見ただけだよ。いっくらきれいな子だからって、どういう子かも分かんないのに、外見だけ見て好きになったりするような性格じゃないからね、あたし。……それに、なんか、ぼけーっとして変な子じゃん、あの子。北原ミカなんて女みたいな変な名前だし。だいたい、あたしより年下でしょ。年下じゃあねえ」

反動で、必要以上にミカくんの悪口をいってしまうわたしでした。

母は黙って編み物を続けています。自分の手元だけをいっしんに見つめて。唇がかすかに動いています……わたしの話にはろくろく耳をかさず、目の数を数えているもよう。腹立たしい態度です。

折り返しのとこまでくると、やっと口をひらいて、
「あんた、有馬さんちのタケちゃんが好きだったんじゃなかったの」

ぽつりといいました。
「好きだよ」

挑戦的な態度で断言しました。母のばかげた思いこみを一気に蹴散らしたかったのです。……母はわたしがミカにひとめぼれしたなどと勝手に決めてかかり、それを鋭く見抜いたと思っていい気になっている。でも、こういうことは、否定すればするほどかえって怪しまれ、ますます誤解を受けてしまうのが世のつね。わたしが好きなのは有馬だということを思い出してもらうのがいちばんでしょう……。
「でもねー、あいつ、なんか、このごろヘンだよ、すっごい反抗的だし」わたしは急に思い出して、つけくわえました。「きのうなんか、屋上んとこで隠れてタバコ吸ってんの串木野に見つかって、チョー怒られてやんの。職員室の前の廊下で正座1時間。さらしものになってたよ」
「……お父さん、仕事が忙しくて、寂しいんじゃないの? いつもひとりきりで」
「マモル君(有馬の弟)だっているじゃん。ひとりっきりは……」

と言いかけて、わたしは口ごもりました。
「……ひとりっきりは、なあに?」
「べつに」
「じゃあ寂しい同士であんたが優しくしてあげたら?」
「なんか……怖いってゆうか……なんか最近ヘンなんだもん、あいつ。目とかギラギラしちゃって」
「じゃあ、タケちゃんはやめてぇ。あんた、ミカちゃんと結婚しなさい」
「どうして話がそこに飛ぶの」

わたしはふんがいしました。「有馬の話、してんだよ、あたし」
「北原さんちは、だって、すごいお金持ちじゃない。親は社長だし」

何をどういうふうに考えたのでしょうか、母はそれから、ときどき北原家の仕事を手伝わせてくれるようになりました。仕事の内容は簡単です。買い物のメモが毎日ファックスで送られてくるので、それを見て、買い物をして、北原邸まで持ってくだけ。買い物の内容は主に食糧、それに雑貨など。日曜日はお休みでした。

北原邸へ行く道が好きでした。一部の人のあいだでは超有名な亀有公園(わたしたちは5丁目公園と呼んでいました)、その前の道をまっすぐ行くと、国道に出ます。渡ると大きな神社があって。その神社の裏の、森のようになっているところを通るのです。茶色のレンガが敷きつめてある、気持ちのいい遊歩道です。道にそってずっとミズキが植えてあり、春には枝にフランスのお菓子のような小さな白い花がすずなりになります。正確には、これは花ではなく、葉の一種なのだそう。葉っぱがこんな形だなんて、なんてすてきな木なんでしょう……。

北原邸は、地元では梨屋敷と呼ばれていました。町はずれの、いちばんひっそりとしたところにあります。もともとは徳川将軍の愛人の住まいだったとか。その名の通り、中にはりっぱな梨の木がありますが、これは外からは見えません。建物を囲むように、樹齢何百年という感じの大きな木がたくさんあって、さらにその外側に竹を割って作った塀があるので、外からは中の様子がほとんど分からないのです。中にかっこいいログハウスがあることも、あまり知られていないようです。

亀有の駅前は再開発が進み、にぎやかに、都会的に変わりつつありますが、梨屋敷のあたりには、まだ下町の素朴さが残っています。にぎやかな場所も好きですが、最近、ひっそりとした場所にもひかれるのです。

屋敷に行くとき、またミカと会えるかもしれないと思うと、うきうきしました。3回に1回くらいの割合でミカは庭に出ていて、梨の木のところでなにかしてるのです。彼は、外見的には、それほど外人ぽくありません。日本人とのハーフなのだから当然かもしれませんが、色白の日本人といっても通用しそうな感じ。ただ、やはり肌の色素が少ないのでしょうか、全体の雰囲気がひどく透きとおって見えます。

ミカのお姉さんのリーサさんは、少し内気そうだけれど、心優しい人でした。色白のほっそりとしたお嬢さんで、灰色がかった目に、暗い色の金髪をしています。ときどき寂しそうなほほ笑みを浮かべます。思い出のにおいがする人です。

屋敷に住んでいるのは、このふたりだけでした。姉は十九歳、弟は十二歳。ふたりはあまり外出もしないようで、学校にも行っていないらしい。なんだか謎めいたきょうだいです。

勝手口の戸には鍵がかかっていません。そこから台所へ入って、荷物を置いて帰ってくればいいのです。でも、その日は、ドアをあけると、流しのところにリーサさんが立っていました。ドアがあく音に驚いたようにさっとこちらを振り返り、それから、
「あ。菜美さん」

ほっとしたように、ため息をついて胸を押さえます。「ちょうど良かった……。ばかなミカが、水を全部こぼしちゃった」

きれいな日本語でいいました。
「あ、はい、水ですね」

わたしはいったん荷物を床においてから、「水はこれです」

などといいながら、ナントカ岳のおいしい水とかいうペットボトルを取り出しました。

リーサは素足で台所のなかをくるくる歩きまわり、ミルクパンを火にかけたり、棚からコーヒーのかんを出したり、茶碗を並べたりします。どことなく猫を思わせる、繊細なんだかいい加減なんだか分からない、そんな立ち居振る舞いです。
「朝のコーヒーをいれるとこなんですけど、菜美さんも良かったら……」

控え目な口調で、わたしに勧めてくれました。こんなことは初めてでした。
「あ、じゃあ……」

内心わくわくしながら、うなずきました。外国の人といっしょにお茶を飲むなんて楽しそうだし、それに、ミカに接近できるチャンスとも思ったからです。
「でも、もう夕方の4時ですよ。今から朝のコーヒーなんですか」
「夕方の4時? おおぅ。ばかなミカが時計を止めてしまったから、何時か分からなかった。あいつと暮らしてると、ろくなことない」

リーサはまゆをひそめます。

ミルクパンでお湯を沸かすのでした。やかんがないのです。コーヒーメーカーもありません。カップの上に陶器のドリッパーを乗せて、そこにお湯をそそぐという原始的なやり方。やかんやコーヒーメーカーくらい、うちのぼろアパートにもあるのに……。お金持ちのはずなのに、なんだか妙でした。

居間は十二畳くらいの広さでしょうか。テーブルとピアノがあります。床の上には、チェスボードが出しっぱなし。半分の駒は倒れていて、一部は床にずり落ちています。そのまわりにはコーヒー茶碗やガラスのコップ、食べかけのライ麦パン、ブルーベリーのジャムの瓶などが、そのままになっています。どういう関連があるのか、ぶ厚い外国語の辞書、ゴッホの画集、体重計、電卓などがそこいらに転がっています。そして、そのかたわらでは、ミノムシのように羽根ぶとんにくるまって、ミカくんが寝息をたてていました。顔を壁に向けて、ピアノの下に頭を突っこむようにして……。
「ミカはまた寝てる」

リーサは怒ったようにいって、ミカの背中をけとばしました。ミカは目を覚ますどころか、ふとんを頭までかぶり、ますますまるまりこんでしまいます。
「ばかなミカのことは無視しましょう。いっかい眠るとなかなか起きないから」

リーサはそういって、窓ぎわのテーブルにつきました。勧められるままに、わたしも向かい側の椅子に腰かけました。

まるでバンガローのようです。外から見えた丸太の壁、その裏側が、そのまま部屋の壁になっているのです。皮をはいだ太い丸太は、どれもきれいに磨いてあって、ぴっちり積み重ねてありますし、その上には透明なニスが塗ってあってとても清潔な感じ。静かで居心地がいい。居間にテレビやステレオがないのが、ふしぎな感じでした。この家ではテレビを見ないのでしょうか。

テーブルの上では、コーヒーが3つ、のんびり湯気をたてています。ほかにテーブルの上にあるものは、セピア色のオセロゲームのようなもの(あとで尋ねたらイラン将棋だそう)、書きかけの外国語の手紙、ペンにペーパーナイフ、聖書、辞書、鉛筆と消しゴムなどです。
「ミカさんて、学校には行ってないんですか」

ふと、気になっていたことを尋ねてみました。
「あ、前、横浜に住んでたときは、ちょっとだけ行ってたことある」

リーサの灰色の瞳が、ほんの少し暗くなったようでした。それから、急に、口元にいたずらっぽい笑みをため、
「でも、ダメだった。あのころは、まだ日本語もダメだったし。それにミカは異質だから……。それからあとは家庭教師に習いました。漢字とか。わたしもいっしょに勉強していた」
「じゃあ、もう学校には行ってないんだ」
「ええ。もちろんフィンランドでは行ってましたけど。日本の学校は……あー、わたしたちの言葉でいうとマッサ・コウルトゥス。英語でいうと mass-education ……その意味は……全員が同じカリキュラムで勉強するでしょう。ミカのようなヘンな子は、ちょっと困りますね」

リーサはいろいろと例をあげて、「マッサ・コウルトゥス」という言葉の意味を説明してくれました。リーサの考えでは、同じ学年の人はみな同じ勉強をする、というのはおかしなことで、日本では子供の個性が育たないというのです。
「ミカさんて、そんなに変なんですか」

さりげない調子に響くように気をつけながら、笑って尋ねました。
「生まれたときから、おかしかった。ぜんぜん人の顔を見ようとしないし。大きな音がしても振り向いたりしない。だから、目も耳もダメなんだって思われてた。今でも人間の顔があまり区別できないみたい……。自分の家族でも、分からないときある。脳のどこかに異常があるんでしょうね。道で知ってる人に会ってもあいさつなんかしないし、映画を見てもうまくストーリーを追えない。俳優を区別できないから」
「ふぅぅん。それじゃあ、いろいろ困るでしょうね」
「ふべんだって分かってないと思う。初めから人間を見ようとしないし。ひとりで勝手に、にこにこ笑ってる。なにも起きてないのに、だれも話しかけてもいないのに、現実の出来事とは無関係に、急に笑ったり……。ばかみたい」
「なんで笑うのかしら」
「それはだれにも分からない。わたしがきいても教えてくれない……。たぶん、言葉ではいえないことなんでしょう」

そのとき、だしぬけに、ゴチッという、とほうもない音が響きました。リーサとわたしは思わず顔を見あわせて。2、3秒後、
「ミカミカ人形が痛い」

子供っぽい声がします。
「ピアノの脚に頭ぶつけたんでしょう」

リーサは心配そうに声をかけました。
「ピアノがぶった。でも、それはもう、いいっていうシルシ。ミカミカ人形にもコーヒーを飲ませてあげよう」

そういいながら、ミカくんは、ゆかの上を這ってきました。羽根ぶとんを体に巻きつけたまま。リーサは立ちあがって、そのふとんを、はぎとります。
「とっちゃダメぇ。さむさむ人形になっちゃうよ〜」

と、ミカは抗議しましたが、リーサは力まかせに羽根ぶとんをひきはがしました。
「いつまで寝てるの? もう夕方の4時だってよ」

ミカはしぶしぶと立ち上がりました。栗色の髪がくちゃくちゃになっています。山羊の絵のついた、ぶかぶかの白いパジャマを着ています。
「ミカ、さむさむ人形になっちゃったの。どうしてかっていうと、空気が寒いからなの。ミカミカ人形も寒くて、空気も寒くて、両方とも寒い。これは困った現象だ」
「服を着ればいいでしょ」

そういって、リーサは椅子の背にかけてあった白いカーディガンを乱暴に放ります。ミカは不器用な手つきでそれを着こみ、
「ほお。これで、あったか人形になれた。ミカミカ人形があったかいと、ミカミカ人形のまわりの空気もあったかくなって、ふたりとも幸せになれるっていうしるしが出たから、これはいい作戦だね……」
「わけの分からないこといってないで、きちんとテーブルにつきなさい」
「ミカミカ人形の置き場に、もうだれか置いてある」
「その人、だれか分かる?」

リーサにそう尋ねられ、ミカはわたしを見ました。
「黒い髪? 春川みどりか?」
「ちがう。みどりさんの娘さんの、菜美さん」

リーサがそういったとたん、それは起こりました。信じられないようなことです。ミカは条件反射のように、
「『わたし、春川の娘です。母の代わりに買い物を……』」

突然わたしの口まねをしたのです。2か月も前にわたしがふと口にした言葉を、そのまま一点一句たがわずに反復するのだから驚きです。
「菜美です。どうも」

少々動揺しながら、軽く頭をさげました。
「ミカ、ここに座る」

彼はわたしに向かっていいました。
「あ、それじゃ、あたし、こっちに……」

どぎまぎしながら、コーヒー茶碗を持ちあげ、となりの席に移ります。
「この人、ずっとここに住むの?」

ミカはわたしのとなりに腰かけながら、リーサに尋ねました。
「住むわけないでしょ。ただお茶を飲みにきてくれただけ」
「つまんない」

ミカが低い声でそういったので、わたしはドキッとしました。
「リーサはチェスがへただから、ミカはつまんない」

そういいながら、彼はコーヒーに角砂糖を落とします。一つ、二つ、三つ……。
「リーサはチェスが好きではありません」と、リーサさんはいいました。「だから、ミカは数学の研究でもしてればいいの」
「それは、向こうから来ることでしょ。……この砂糖、ぶくぶくが出ない」
「そのコーヒー、もう冷めてるのよ」
「無理やりおぼれさせてやる」

そういって、ミカはコーヒーの底に沈んだ角砂糖を、スプーンでつぶし始めます。
「そういうのは、おぼれるっていわないの。ミカの言葉は、でたらめばっかり」リーサは顔をしかめます。「でたらめじゃない言葉を覚えなさい」
「ぶくぶくが出るのは、おぼれたしるし」
「それは角砂糖が溶けるっていうの」
「リーサは言葉のどれい。ミカは言葉をどれいにしたのだよ。言葉がミカに従うっていうキマリが決まってるんだから、仕方ないでしょ、そういうキマリなんだから。地上のランプは水のなかの水のように透きとおって消えてしまう」

リーサは、ため息をつきました。「ミカのいうこと、ちっとも意味が分かんない」

ミカは両手でコーヒーを持ち上げて、口に運びます。「甘い……これは甘い……甘いっていうしるしが出てる」

リーサはわたしに向かって目くばせします。わたしは、あいまいにほほ笑み返しました。
「でもねぇ」と、ミカは、ひとりごとのように続けます。「だれも知らない味だったら言葉がまだできてないんだから、でたらめにいうしかないでしょ。『ふみい味』とか。だれも知らない味なのに、甘いとかすっぱいとかいったら、でたらめを教えてるっていうシルシ。でたらめじゃないのは、でたらめなんだから、でたらめってことが、でたらめじゃないっていうシルシ」
「だれも知らない味って、どういう味のことよ」

リーサはつっかかります。
「だれも知らない味はだれも知らないに決まってるっていう、しるし」

ミカは澄ましていいました。

その晩、わたしはとても変でした。ふとんのなかでミカのことばかり考えていたのです。翌朝、目が覚めてみると、もっとおかしくなっていました。胸のなかが変なもやもやでいっぱい。甘いような苦しいような、わくわくするような困ったような、胸がぎゅっと押しつぶされる感じ。考えようとしないのに自然にミカのことを考えてしまう。

恋愛感情とは違うのです。好きな人は別にちゃんといました。クラスメートの男子のなかに。前にも書いた有馬君という人です。ミカに対して感じたのは、恋というよりは、なんというか……なんかとにかく変な感じ。好奇心のようなもの。「ミカちゃんは知恵遅れで、言葉を覚えるのも遅かったんだって。でも数学の天才でね、8歳のときに、なんとかいう難しい定理を証明したんだって」

母がそんなことをいうので、ますます興味を感じてしまいます。「なんで知恵遅れなのに、数学の天才になれるの?」
「さあ。知恵遅れだったのが、急に頭が良くなったのかね」
「ふうん」
「それに音楽の才能もあって、いちど聞いたメロディーは完璧に覚えてるんだって。楽譜を見なくても弾けるの。だからスーパーマーケットなんかに行くのは嫌いみたいよ。店のBGMがぜんぶ頭に残っちゃうから、頭のなかがうるさくてしょうがないんだって」
「記憶が消えないってこと?」
「そうみたいね」
「いいなァ……そんなに記憶がいいなんて」
「でも、なにもかも覚えてるってことは、なんにも覚えてないってことと同じようなものかもしれないよ。体験することと記憶のあいだに濃淡の差がないとしたら。見てないのと同じことじゃない」

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